雪と鹿島君、ユキを捜す(途中章を後から思い付いた・・・(^◇^;)・・・)重体の鹿島君が思い出してる風で追加
朦朧とする意識、急カーブ、墜落、暗闇、ポタポタと静かに滴り落ちていく血・・・体内から減っていく血液とともに、目に見えるように、着実に抜け落ち零れていく命・・・これで終わりか、と自らの死を覚悟していた。
犬の遠吠え・・・
ずっと耳鳴りのように絶えず吠え続けている山犬の吠え声すら、遠離っていった。意識が薄れ遠退いて。
死の淵、完全な無意識の深い暗黒に沈む寸前、誰か冷たい柔らかい指の持ち主が自分の頬にそっと触れ、優しく引っ張って顔の向きを変えさせた。自分のために救助を叫んでくれる細い懸命な呼び声。それから、もっと力のある別の人物が自分の体を手荒に、墜落した車のドアからズルッと引き摺り出し、どこか見知らぬ場所へ運び去った。
薄く目を開けて周りを見よう、自分の置かれている状況を把握しよう、と努めたが、目に流れ込む汗と血、ボウッとなった頭では、どうもできない。物を考えることも、自分の体の感覚も無く、意識を保つのさえやっと。目を開けても物が見えず大まかな光と影が眩しく飛び込んで来てくらくらするばかり。
『病院には連れて行かない。』と言う声の断片、チラッと目の端に垣間見た、どうも救急車では無い黒い大型車の後部座席に積み込まれ、女神のような優しい女性のスカートの襞に頭を包んで抱かれ、不安のうちに、風前の灯火だった意識を再び手放し、失った。
鹿島君は頭も体も息をするたびズキズキ痛み、ドロドロ濁った泥の中をもがくような苦しい眠りの中で、抜け落ちた章を思い出すように、忘れ欠けていた記憶の中を遡り泳いだ。
時々は優しい誰か女の人が(腫れ上がり開かない視界では捉えられず、その人が近寄ってくると何とも言い表しがたい良い香りで彼女がそばに来てくれたのを本能的に嗅ぎ取った)彼の腫れた唇を爪の長い指先でソッと押し開いて、水差しの縁を当てゆっくりと水を飲ませてくれた。乾いた体に染み通る透明な水。失われた血のかわりに新たに注ぎ込まれる生命そのもののような純粋な水を・・・
無意識の中でも、鹿嶋くんは感じとりながら眠った。ここには自分を気遣う女性と自分の存在をハッキリ嫌悪する男がいる。女性は今は自分を庇ってくれているがそれにはリミットがある…彼女も焦っているらしい…どうもここは自分の正しい居場所ではないらしい…早く立ち去らなければ…女の人が立場を危うくせずに自分を守っていられる内に早く回復して・・・
しかし今がどの時間軸なのか、正気が保てているのかいないのか、自分自身にもあやふやでここへ連れて来られてからの正確な日数さえ数えられない。寝かされているベッドの手を伸ばせば届きそうな位置にある窓からは昼になれば眩い光が細く差し込み、目が開いた時が昼間なら部屋が明るいのだろう・・・自分の傍にはほとんど付きっ切りで甲斐甲斐しい女性が付いていてくれるらしいが、たまにそうでない時、どろりと目を覚ますと、異様に険悪な気配の男がすぐ枕元に立っている。水差しに何か毒でも入れたそうな殺意を漲らせて。
「ここはどこか、あなたは誰か、僕を助けてくれたのか、それとも・・・あなたは死神・・・?僕をどうするつもりなのか・・・?いっそサクッと殺してくれ…」聞きたいことは頭を、体内を、いつもぐるぐる巡っているのに、口が正常に動かない。舌は縺れ声は泡に変わりぶくぶく唇の端から零れ、絹の枕を涎で湿らせるばかり・・・
男がそばに近寄った後ほど、鹿嶋くんの意識は再び混濁する。本当に何か毒のようなものを水差しに混ぜられているのかも知れない。
回復、かと思えば全身から力が根こそぎグッタリと奪われ、天井や壁がグリングリン回り、目玉が飛び出しそうに熱く、苦しく、看護の女神、女の人が慌てて駆けつけてくれ…またじりじりとゆっくりゆっくり回復に向かい…
過去現在未来、すべての時間軸で鹿嶋くんは目を覚ました。叶わぬ夢と散った未来に目を覚ますと、彼は胸に乗った三歳の、雪と自分に似た子の重たさに眠りを邪魔されて起きる。パパ、パパ、ママが呼んでるよ、今日はお弁当を持ってみんなで公園に行く日だよ!ああそうだった、と鹿島くんはすんなり納得する。夢の中でなら伸び伸び体が動かせ、スタスタ歩けて、一歳の子は肩車し、二歳の子の手をひき、三歳の子は雪の向こう側で手を繋がれ、まだ生きて少し歳を重ねた愛しい雪と鹿島くん達一家は手を繋いで歩いている。今日は約束の日曜日、みんなでピクニックと決めていた日だから…『こんな家族になりたいね、子供は毎年生んだって良いくらい好き』と言ってた雪の言葉通りの夢を見る。これが夢だとは信じられないくらいの、信じたくないほどの美しく細部まで作り込まれた思い描いた通りの虚構・・・そのまま情景は移り変わり、いつの間にか、同じ野原に自分は居るのに、家族の姿が無くなっている。見下ろすと、幼い我が手に虫取り網と虫籠が握られ・・・由貴を片想いするよりもずっと以前の少年期に立ち返り、まだ女の子よりも蝶々を追いかけて遊んだ当時の野原の匂い、風景、半ズボンから剥き出しの膝を撫でるススキの葉の感触、不注意で潰してしまった緑色の血のバッタ、そんな細かい記憶が鮮明に五感に蘇った。
死に際の走馬灯とはこの事だろうか。やけにノロノロ、簡単には死なせてくれない死神に憑りつかれたみたいだ。回る目で看病してくれる女性を見上げ、手に触れ、回らぬ舌で聞いてみようとする。
「あなたは誰…看護師さんですか?天使?ここは・・・僕は死んだんですか?まだですか?まだ生きないといけないんですか?・・・僕は・・・」
女性は何故だろうか、顔を見られるのを嫌がるみたいだ。鹿嶋くんが意識を取り戻しかけると、涙を落としそうに喜んだ表情を一瞬はしてくれるのに、すぐ顔を手で覆いサッと椅子から立って離れ背を向けてしまう。
そしてどろりとまた鹿嶋くんは夢とも現とも分からぬ眠りに落ちる。実際に経験した記憶の中を彷徨い歩いているのか、それとも・・・夢魔が作り上げた幻を夢に見ているのか・・・
・・・
・・・
「鹿嶋さ~ん、ここだよ~!」
“城”の外で雪ちゃんと待ち合わせるのは初めてのことで、私服の雪ちゃんに気付くのが遅れた。
彼女は“城”で着ている仰々しい着物や花魁衣装とは全く違うサッパリとした白いTシャツにコットンのショートパンツ、ミント色のライン入り運動靴と言う動きやすそうな出で立ちだった。細い白い首筋の上に乗ってるにはアンバランスなほどの重たそうな花魁髷も、髪に挿す数え切れない長い簪や両目の横でゆらゆら揺れる金の髪飾りも、今日は一本も無し。あの重たそうな花魁髷は全てカツラだったらしい。城の外で見る雪ちゃんはショートカットが似合う健康的などこにでもいそうな普通の女の子だった。
これから体育館にでも行ってバトミントンでもやるのかなと言う爽やかな印象。身軽に動きやすそうで、今日一日隣に居てくれるのにちょうどピッタリだ、と鹿島君は好感を増した。
ピンクの軽四が停めてある歩道の横っちょの縁石の上にバランスをとって立ち、少しでも背を高くして自分に見付けやすくしてくれてるのか、両手を大きく振り回して、ニコニコ顔で手を振っている。
『駅を出て山側のロータリーの奥、緑の時計塔の下で待ち合わせ。』
それで分かり易いし、もう目も合ってるのに、まだ大袈裟にブンブン振り続けている手が、飼い主の姿を見て嬉しくて興奮した犬の尻尾みたいで、顔は屈託の無い笑顔だし、鹿島君も思わず笑顔になりながら手を振りかえした。ちょっと(可愛いな)と思わずにはいられない微笑ましさだ。
前もって連絡を受けていたから分かっているが、ピンクのラパンに乗ってこちらに目で会釈してきた運転席の女の子、それから助手席にもう一人の女の子。雪ちゃんが運転席の子をまず紹介してくれた。
「こちらノノちゃんさん。ユキさんの事知ってるかもしれなくて、ユキさんと同じ事務所に所属してる私の友達の先輩」
鹿島君が「お邪魔します。今日はありがとうございます、こんな・・・お時間とって頂いて・・・」と恐縮しながら頭を低くして車に乗り込むと、運転席と助手席の女の子達が振り返って頷いた。
「ノノです。」
「ヒナです」助手席の子は童顔で雪と同じ年か未成年みたいにも見えた。雪ちゃんとかなり仲良しらしく、キラキラ輝く目では鹿島君の顔を興味津々、値踏みするようにジロジロ見詰めながら、シート越しに10本の指を絡め合って雪と手を繋いでいる。少女同士のイチャつきは共学の小中高で見慣れてきてはいるが、なんだかあんまりそばでやられると羨ましいような鬱陶しいような妙な心境になってくる。久しぶりに見たからだろうか。それとも溜まってるんだろうか。本人達は完全に無自覚にやってる事みたいで鹿島君の気恥ずかしさには全く気付かない様子だ。磁石がくっつき合うように、体のどこかが何かにくっついていないと落ち着かない習性があるハムスターみたいに、あまりにも無意識にシート越しに互いの体に触れ合っている。
運転席の子が車を出しながらいかにも姉御肌の口調でテキパキ話し出した。
「あなたのユキちゃんの顔写真が回ってきたときはすぐにピンと来たわ。あ、同期にいた子だなって。」
肩越しに自分の携帯を差し出して見せてくれた。
「この子でしょ?」
鹿島君は狭い車内でシートに深く座っていたが、急いで身を捩り、長い腕を伸ばして自分の方へヒョイと差し出された携帯電話を落ちる前に受け取った。
それは7,8人の綺麗な少女達がピザや紙コップの載った簡易テーブルを囲み夕闇迫る屋外で宴会しているところを写した画像だった。湿気が高いのか、やけに光が拡張され滲んでいる。誰かの誕生日か何かを祝っている場面なのは確かだが、急にポイと渡されていきなり見せてくるにしては衝撃的な、彼女たちの身に付けている布面積の小ささだった。前もって一言注意しておいて欲しかった。「裸の女の子も写ってるけど」とか何とか言って・・・
鹿島君は後部座席の狭いシートの上でゴソゴソ脚を組み替えた。
呼吸を整え、落ち着いて映っている一人一人の少女達の首から上に集中し顔をよくよく見ていった。が、ちょっと写り方が遠過ぎるみたいだ。ユキと似てる子も中にはいるが、二人も三人もそれらしい子が映っているとも言える。またしても。
自分が情けなくなってくる。
答え合わせするように、自分の携帯電話をポケットから取り出し、恋人の顔写真と見比べてみた。渡された画像を拡大しても見た。それでもやっぱり、一瞬を切り取っただけの美貌、整った横顔も、真正面から映り込んでいる子も、美形の少女達は、みんな人形か互いのコピーかみたいにそっくりだった。
・・・では首から下はどうか?
(毎晩この腕に抱いてきた恋人だ。こちらは生涯をかけて付き合ってると信じ込んできた、魂を注いで愛し合ってると硬く信じてきた相手だ。魅力的な大勢の他人に紛れ込んでいるとは言っても、見分けられないで俺は恋人だと名乗れるのか?・・・見分けてやるさ!)
手で隠して見ないようにしていた手をどかす。全員がモデル体型で、スラリと手足が長く、パイプ椅子にかけている子も立ったりパラソルに凭れたりしてる子も、しゃがんで輝く虹色の水溜まりから何かを拾い上げようとしてる子も、みんな痩せ型で女子長距離走者かバレリーナの温泉合宿みたいだった。レオタードみたいな水着を着てる子もいる。一人はサングラスだけを身に付け、一人は小っちゃいラメの派手な尖った三角帽を頭に乗っけて、顎の下にリボンで蝶々結びに括って留めている。7人の内4人の女の子が全裸で、そのうちの2人は下の毛も生えてない。ユキは浴室やトイレやアルバイト先で毛を剃ることもあったが、ふんわりした綿毛みたいに生やしたままの状態でいる事もあった。
『お金があるときに脱毛しかけたんだけど、途中でお財布の底の方が先にスベスベになっちゃった…』
と、枕語りに金の無さを笑い話に変えていた。半分眠りながら『あなたの手でお腹を温めて』と片腕を引っ張られ、手のひらを広げさせられてよく彼女の下腹に当てられた。『このあたりが子宮。女の子はここを一番冷やしちゃいけないんだって・・・』等と言って・・・
鹿島君は汗の滲み始めた手をグーにしてからまた開いた。この手をどこに当てて貰うのをあの子が一番喜ぶか、まだこの手がハッキリと覚えている。
あの頃は常にクタクタに疲れていて半分眠りに落ちかけながらも、滑らかで柔らかい人肌の感触に(嗚呼、女性の肌ってこんなにも気持ち良いものなんだなぁ、やっぱり・・・他の何ものにもかえられない・・・疲れも理不尽な仕事場のしがらみも何もかも、簡単に吹き飛ばしてくれる・・・)と普段昼間に運んでいるガサガサした段ボール箱やらビールケースやらの硬いゴワついた底や角との違いにウットリと酔いしれた。
『鹿島君の手で温めて貰うのが一番温まるの。芯から』とユキも耳に囁いてくれていた・・・
目を閉じ、再び目を開け、画像に視線を戻す。
集められた少女達はカメラマンの一声で驚いたように一斉にこちらを向いているように見える。が、撮影者は彼女たちにとって必ずしも言う事を聞かなければならない脅威的な相手ではないらしい。撮影したのも彼女たちと同格の仲間の女の子の1人なのかも知れない。映っている子達は、大きな音に驚かされてこちらをパッと振り向いたようにも見える。例えば風船を割ってみんなの注目を集めたとか。
写真後方の電飾の飾られた椰子の木に、紐で結びつけられプカプカ浮いているカラフルな風船が見える。バブルガムみたいな風船の漂う方向で、風が右から左に吹いているのが分かる。
少女達は無理強いされて薄着でいるわけではなさそうだ。緊張感漲る雰囲気はこの写真を見る限りどこにもない。全員がリラックスしてその場をそれなりに楽しんでいる気配が漂っている。白いデッキチェアに寝そべっている子など、完全に眠りに落ちているように見える。
「でしょ?一番右端の。チョロッと片足伸ばしてプールの水温確かめてる子」運転しながらノノさんが鹿島君に話しかけてきた。
「これプールですか?」
「そうだよ。みんなで連れて行って貰ったの。ヌーディストホテルのナイトプール」
「ノノさんも映ってるんですか・・・」
鹿島君は何故だか急激に喉が渇いてきた。
「そうだよ~。水から上がって来て震えてる人いるでしょ」
(いた。髪がビショビショの女の子は一人しかいない。良かった!大きな口を開けて笑いながらバスタオルを体に巻き付けている。全裸の1人だったらどうしようかと思った、今日これからノノさんの顔を見るたび自分の顔が赤くなってないか気になってしまうじゃないか・・・)鹿島君はホッとした。
今日は雪ちゃんが同業他社で働いている友達ヒナちゃんに連絡をとって、ユキの手がかりを握るヒナちゃんの先輩のノノさんを鹿島君に繋いでくれ、会わせてくれたのだった。
雪ちゃん経由で進み出すと話はトントン進み、ノノさんは忙しい人だから会ったらその日のうちに話すだけで無く、所属事務所にまで車に乗せて一緒に連れて行って貰えることになったのだ。
ノノさんに会う前、雪ちゃんの携帯電話を借りてヒナちゃんの携帯電話で話すノノさんとこんなやり取りをした。
『彼女の居場所が知りたい?知った途端逃げられるかもよ?あんたの言ってる子と私の同期が同じ人物だとしたら、そんなの、その子ってずっと同じ場所に居続ける女じゃ無いんだから、捕まえたいなら、現地へ乗り込んで行って力づくに取り押さえないと二度と捕まえられないかも。そのつもりがあるなら、明日居所教えてあげても良いよ』
実際ノノさんと顔を合わせてみて、なるほどとピンと来たのだが、彼女も自分と顔を合わせて自分の目で確かめるまでは迂闊に所属する自分の会社の住所や社名をよく知りもしない変な輩に漏らすことが出来なかったのかも知れない。
『どんな奴なのかこの目で見てやるから連れて来な、とりあえず』みたいなことを言ってる男前な声が雪ちゃんの携帯電話から漏れて聞こえて来ていた。
「映ってたでしょ?ボクの彼女?」
ノノさんは鹿島君のことをボクといかにも年下の男の子を呼ぶように呼びかけたが、実際年は自分とそんな違わないんじゃないかなと鹿島君は思った。運転のお手並みはこれまでに見た誰よりも鮮やかだが。ゲーム感覚みたいにヒョイヒョイ車線を変えてのろまな車を続々追い越し、邪魔なのが目の前でモタモタしてると平気で煽りまくったりもしてるのだ。かと思うと、急にフッとスピードを抑え、大型トラックの陰に隠れるようにして大人しく走行し始める。何かと思えば、
「あれ覆面臭いよなぁ…」
顎を振ってみんなに分かるように教えてくれる。その横顔の鋭い眼差しが女前で、惚れてしまいそうだ。
「何で分かるんですか?」不思議に思い鹿島君は聞いてみた。
「走り方。男二人で前の席に座ってる。それにあのクソ真面目な姿勢…車種もナンバーも…この辺の地理的にも…なぁ~んだかなぁ…近付いて確かめてみる方法もあるけど・・・」
そう言いながら周りの車に合わせた速度で例の車両に近付き、自然な速度でゆっくりと追い越した。
「うん。やっぱそうだ。ミラーがちょっと特殊なんだよ。ポリさんが乗ってるクルマは」
ノノさんの鋭く的確な判断は当たりだったようだ。
覆面パトカーと並走している時間は短かったが、その間、ノノさん以外のこちらの車内の全員がジロジロ隣の車線を走るセダンの窓の中を珍しい物を見る子供のような目で眺め回した。
覆面パトカーを追い越してからしばらくノノさんはバックミラーをチラチラ窺っていたが、覆面が高速を降りて行きこの舞台から退場すると落ち着いた声で
「携帯もう良い?」とシート越しに手を広げて差し出してきた。
鹿島君は名残惜しくてもう一度、人の携帯電話の中に閉じ込められた彼の恋人の姿に視線をジッと落とし、ユキのように見える少女達一人一人全員を目に焼き付けてから、電話をその持ち主の手に戻した。
頭を垂れ、目を閉じる。すぐに瞼の内側で、まだ自分とは知り合う以前の、しかしそれほど昔でもない、13,4歳位のユキが、爪先から雫を(写真の中では足指の先にまだ燦めきながら留まっている)水滴を足首を振って弾き飛ばし、友達を振り返って「冷たいよ」等と声をかけて教えてあげ、それからニヤニヤ笑いながら、後で後悔するのも分かっている癖してソロソロとプール脇にしゃがみ、足先から慎重に水に脚を浸していく・・・
(きっと写真に撮られた後先で、プールには入ったに違いない、)と鹿島君は思うのだ。そう思うと、その情景を頭の中で映像化して見ずにはおれない。
(目を開けてもユキは見えない。だったらこのまま目を閉じて幻影を見ていよう、)と思うのだ…
彼の知っているユキは、そこに水がある限り、絶対に入って泳いだはずだった。
彼女は息継ぎが出来ないくせに泳ぐのが大好きで、寒がりな癖にプールが大好きで、自分と一緒に過ごした夏は必ずそうだった、泳ぐには水温が低すぎようが、タオルを持って来てなかろうが、ふらりと行った旅先でプールを見付けてしまうと絶対に何が何でも入りたがる馬鹿な犬のような習性をしていた。そしてそれに、彼女は、やらずに後悔するよりも、確実に後悔すると分かっていてもやってしまう、そういうどうしようもない女の子だった。
彼の知る限り。
写真を撮られた瞬間にはまだユキの裸の体は濡れていなかった。きっと写真を撮られてから脚を水に浸け、震えながら、ジッと揺れる水面を見詰めていて、それから独自のタイミングで急に思い切りよく腰までドボンと浸かり、ヘラヘラ笑い声を上げ、他の女の子達に手招きしたり水を跳ねかけたりした後、まずは真っ直ぐしゃがんでいって髪の先までブクブク真下に沈み、それから水中で壁を蹴って泳ぎ出しただろう。まるでその光景を実際見ていたようにありありと思い浮かべることが出来る。
クロールとバタフライと溺れる人間の悪足掻きをその時々の気分次第の配合で混ぜ合わせたような泳ぎ方で、それでも割と遠くまで無呼吸で彼女は泳ぐ。泳ぎ方も生き方と同じくらいあの子は自由形。それでいてなかなか逞しくそれなりのスピードでグングン進み続ける。
たまにビート板の上に身を預け、背泳ぎの練習と偽って、ジリジリ太陽に肌を焼かれるままに水上で休憩を取る。
・・・今の彼女はもう背泳ぎが出来るようになっているだろうか?・・・
鹿島君はビート板を四枚重ねた狭くグラグラ揺れる不安定な筏の上でユキの両肩をギュッと抱き締め、濡れた髪に唇を押し当てて、水中で芯まで繋がった日のことを思い出した。
あれは彼女の一言から始まったっけ。・・・
『プール行きたいなー』
『行こうか。今度の休みに・・・』
『どこかに裸で泳げる広いプールってないかなー?』
『日本にはちょっと無いだろうな・・・』
『広―い水の中を裸で泳ぐと気持ち良いよね~?』
『さぁ?やったこと無いから知らないよ。水着履いてても暑い夏に冷たい水に浸かれば気持ちは良いよ・・・』
鹿島君は腹這いに寝返りを打ち(その時二人はベッドでゴロゴロしていた)携帯電話を掴み検索ワードを考えながら聞いてみた。
『夜の海とかならまだ…俺がきみの水着を持ってそばで泳いであげるから、誰も居ないうちは裸で泳げば良いよ。誰か来たら、キミは水から上がる前に水中で水着を着れば良い。脱ぐときも、水の中で裸になってね。そしたら見られないよ。僕の他に誰にも』
『海って何が居るか分からないじゃん。ヌルッとした謎の変なモノとか尖った汚いゴミとかしか踏まないし、未知の寄生虫とかヤバイ小魚とかがここからお腹の中に入ってきたら…嫌じゃ無い?』
ユキは女の子の部分を青く塗った長い爪でサラサラさすった。鼻に寄った皺と身震いする激しさで、ユキの中では海で泳ぐのは論外みたいだと鹿島君はすぐに察知した。
『そっか…野性的なように見えてキミ変に潔癖なこだわりが頑固だからなぁ…じゃあ…この辺のプールは…』
彼は恋人とのプールデートのために広くて出来るだけ混雑が少なそうなプールを検索して調べてあげた。
『安いけど市民プールは絶対混んでるだろうなぁ。子供を掻き分けて泳がなくちゃ…キミ、浅いナイトプールでだって本気で泳ごうとする人だもんね…
…ロイヤルホテルのプールは空いてるらしいけど、宿泊者限定だって…』
『一泊いくら?高い?』
ユキに聞かれて、鹿島君は高いと口に出すのが咄嗟に嫌だった。お金が足りないとユキに感じさせると彼女は自分で働きに出たがるだろう。ユキには働いて欲しくなかった。彼女に出来る仕事は売春ばっかりだと鹿島君も、それに多分ユキ本人も、思っていたからだ。
『お金ならあるよ』
『無理しなくても良いよ。市民プールで泳ご?』
『水着着て?』
『着ないよ?』
『それじゃ摘まみ出されるから!屈強なライフガードにすぐ捕まっちゃうよ!』
『捕まるまでは自由じゃん。それに、そんなにすぐには捕まらないよ?面白いよ!追いかけっこした方が』
『出禁になるよ!』
『良いじゃん、そしたら他のプールに行けば』
『キミ、やったことあるの?…もしかして関西全域の市民プールは既に出禁…?』
ユキはニヤリとしたり顔で返事した。
『どうせ一年で忘れてるから大丈夫大丈夫。』
『ああ、それも経験済みなのか…キミは何でもやったことあるんだな…
…でもさ、そんなに水着着ないで泳ぐのって格別気持ち良いわけ?どうせほんのちょっとしか布面積無いんだからほとんど一緒じゃ無いの?ちゃんと隠すとこ隠してちゃんと逃げも隠れもしなくて良い格好で存分に泳げば良いじゃ無い?正々堂々』
『鹿島君。』ユキは口付けするような真近さに迫り、彼の目を奥まで覗き込んできた。
『そんなこと言うなら私だって聞くけどさ、ゴム付けててするのとヒヤヒヤ背徳感味わいながらナマでするの、あなた、どっちが気持ち良いって?自分だっていつも言ってるじゃない!コンドームは水着よりも小さい面積だよ?』
ユキにそう指摘されると鹿島君はウッと言葉に詰まった。
『確かに…だけど…何て言うか…それは…そこは…使う面積の全部を覆うじゃない…?
…だから、ちょっと違うような気もするけど…』
モゴモゴ言いながらも、既に口喧嘩の勝敗は決まっていて、あの時は
(やっぱり女性に口では勝てないもんだなぁ…)
と彼は思ったのだった。
最初のうちはこちらの言う事に言い返してきたりなんかせず、片言みたいな喋り方で声も極小さくて、まるで日本生まれの日本人じゃ無いのか、極度の人見知りかと思えたユキだったが・・・最初は遠慮していたのかな・・・
二人は結局、プライベートプール付きのホテルを予約して一泊宿泊した。そのひと月は他に何も出来ないくらい鹿島君にとっては奮発したデートだったけれど、後悔していない。
素っ裸で伸び伸び泳ぐ経験は後にも先にも一度きりのことだろうし、燦めく水をパシャパシャ跳ね散らして大喜びではしゃぐ恋人をプールの真ん中で捕まえて完全に自分だけのものにする、一つになる感覚を味わえたのも、何物にもかえがたい良い思い出になった。
ビート板の筏はユキ一人の重みを支えるには充分だったが鹿島君が乗りかかると途端にグラグラ揺れ、狭くて心許なくて、何度も繋がっている最中に転覆しかかり、(そのたびにユキは怖さを面白がってキャアキャア叫んだ、)激しく睦み合うにはコツが必要だった。
ステンドグラスの天窓から降り注ぐ歪められ着色された真夏の陽光が二人の肌を色とりどりに染め、時の経過と共に少しずつ着実に角度を変え色褪せながらもなお二人の肌を照らし水面を温め続けた。
水紋が二人を中心に丸く広がっていき、壁にぶつかり、波となって引き返してきて、絡み合う二人の素肌をひんやり包んで揺すり、砕けて泡になり、次の水紋にぶつかっては解け、幾重にも幾重にも水底にキラキラ燦めく円を描き続けた。筏からはみ出したユキの肩が沈み、溺れまいと青く塗った長い爪が水の中を引っ掻く、その見えない水流さえもが透き通った水の中で色彩の濃淡となり薄らと現れて、水底に描かれる波の絵の幾何学模様をより複雑なものにした。
(まるで僕たちの姿が今ガラスの中に描き込まれこの時が永遠に閉じ込められようとしてるみたいだ…)とその時彼は考えていた。
彼の恋人の目もいつになくウットリと見開かれ彼や自分達二人を包むひとときに見とれ酔いしれているようだった。
鹿島君はただ若さと漲る情熱と余りある体力の限りを相手にぶっつけて力いっぱいガンガンに腰を振りまくるのでは無く、荒波を立てぬよう、静かにソッとグーッと奥へ探るように押し入ってから、更にもっと奥、さらにもっと、もっと奥、深く、もっと奥へ…もっともっと奥へ、…と、もはや精神世界の神聖な境地で彼女を犯し、侵略される彼女の体と精神とも一体となる、もう一段階崇高な、大人の性行為のやり方をこのプライベートプールで覚え体で掴んだ実感があった。
『鹿島君って結構、馬鹿力…』だとか言うときの、あるいは、『俺って独り善がりじゃ無いよね?』と聞いてみたときのユキの何とも言えぬようなこれまでの表情の意味解釈にも、ようやくこの時、気付けた気がした。
『私達、何しに来たんだっけ?泳ぐ練習しに来たんじゃ無かった?やりまくりに来たの?』
ユキは冗談半分怒ったフリ半分で叫び、(キーキー声、二人の立てる物音、二人の声だけが締め切られた屋内プールに反響していた)バシャバシャ水しぶきを盛大に上げて逃げようとする。小さい頃地元のスイミングスクールで熱血指導官に英才教育を受けた鹿島君はどれだけハンデをあげても難無くユキに追いつき軽々捕まえることが出来た。
彼はサメのように潜水して水面でバタバタ溺れてるみたいな泳ぎ方のユキを足元から掬い上げ、辺り一面の水もろとも空中に放り投げ、水面で両腕に受け止めて、バチャバチャ降り注ぐ雨のような飛沫の中、耳に囁いた。
『そうだよ。知らなかった?やりまくりに来たに決まってるじゃん』
二人は午後三時にチェックインしてから、翌日の正午に精算を終えて帰路につくまで、一歩も外に出ず(『体がふやけちゃう!』ユキも終いには根を上げていた、)互いに相手の体と貸し切りプールを貪り味わい尽くした。
『鹿島君の液、まだ塩素風味』家に帰ってからも二人は確かめ合い、揶揄い合った。
『ユキちゃんのユキちゃんからだって塩素の味がしてるよ』
・・・
『今日と明日とで私は背泳ぎが出来るようになりたかったのに・・・』って、あの子は言ってたなぁ・・・
(今のユキは出来るようになったのかな、背泳ぎは・・・?見てみたいな。きっと優雅だろう…)
鹿島君の頭の中で彼の恋人はそれこそ捕まえられない人魚姫のように過去現在未来をヒラヒラと自在に泳ぎ渡って彼の全ての時間を占拠していた。悩ましい幻のお姫様…
彼の恋人が焼き付けられていると言うだけで、過去のある一瞬を切り取った一枚の画像からだけでも、鹿島君の脳内世界は無尽蔵に広がり続けていきそうだった。
ユキを含めた写真のこの綺麗な女の子達は一体何をした後、ここにみんなで連れてこられたのだろう?ここはどこなんだ?きっとクソ金持ちの私有地にある池みたいなプールで、これから開かれるんだか、開かれた後なんだか知らないが、外に漏れてはいけないような酒池肉林のロリコンパーティーの餌になるため身を清めてるところなんだろう。それとも、散々やられた後の膣と魂の汚れを冷たい水で清めサッパリと忘れバーベキューで胃袋をもてなされ次のお仕事も気持ち良く引き受けられるように労われてるところか?
この写真の豪邸の持ち主は政治家か悪代官だか何だか知らぬがきっと金だけは持ってる悪い、不潔な年寄り狸に決まってる・・・
鹿島君のブレーキの壊れた妄想癖は今度は悪い方へ急カーブを切って走り出しかけた。
写真に写っていた自分と知り合う以前の13,4歳の痩せっぽっちの可憐な少女ユキと、贅肉が腹の上で何段にも雪崩を起こした小山のような薄汚いおっさんとが、ちゃちなクジ引きとかクソみたいなゲームで組まされ、そこら辺の芝生の上で組んずほぐれつする様子を思い描きかけ、嘔吐きそうになった。既にこの妄想を今後幾夜も夢に見ることになりそうだと気付いて。
寝ても覚めても、ユキの事ばかり。そろそろしんどくなってきている。上がったり下がったり。良い時が最高すぎて、彼女が居ないとそれだけでどん底に落ちた気分。平常心という奴はこの頃お見かけしない。
(心配ばっかりかけさせやがって、本人は屁とも思ってないに決まってるんだ…)
(それどころか、俺が自分を捜し回ってるって言う噂はとっくに耳に届いていて、逃げ隠れしてるのかも知れない…僕に会いたくないと誰かに匿って貰ってるのかも…どうせ男に…)
鹿島君は目を硬く瞑ったまま、濁点で出来てるような荒々しい溜息を吐き、(「あああああ、クソッ…」)頭を両手で抱え込んだ。
口中に苦酸っぱいような嫌な味が広がっていた。
「鹿島さん…鹿島さん…」
蚊の鳴くような雪ちゃんの声でハッと我に返った。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、うん・・・」
鹿島君は心配そうに自分を覗き込む雪ちゃんの顔にニコッとした。せめて上辺だけでも平常心で居なければ。サッと回りを見渡すと、ヒナさんもこちらを見ているしバックミラーの中で自分を見ていたノノさんとも目が合った。
「ホントに心配してるんだね、元彼女の事」
「心配するだけ無駄なのにしちゃうんだな」
「それで、ユキちゃんだった?写ってた子は?あんたが捜してる?」
「正直…」
鹿島君は咳払いして、本当に正直に答えた。
「正直、ユキが二、三人・・・いや四、五人くらい、写ってるように見えました・・・」
自分の耳にも自分の声が落ち込んで弱々しい情けない声に聞こえた。今度は急激に、自分はユキを捜し回る資格なんて無い男だと思われてきた。
ノノ姉さんが一瞬、逸らす前、ミラーの中で哀れむように儚く目で笑ったのが分かった。
「まぁ、画像ってそういうもんよ。ブサイクが撮り方によっては美女に見えたり、痩せてる子が妊婦に見えたり。角度とか撮りようによって凄く変わるから・・・別人みたいに・・・」
それから前方を睨むように見て、アクセルを踏み込んだ。
「でも、私の目には一人よ。あなたの元彼女、うちの事務所には4,5年前に在籍してて、今も籍はまだ置いてあるの。ユキとは違う芸名だけど。
ここしばらくはずっと活動してなかったんだけど、最近になってまたちょくちょく連絡を取り合えるようになったスタッフがいるみたい。これまでは一切、音信不通だったの。死んだんじゃないかってみんな思い込んでたほど。でも復帰するって噂をこの頃よく耳にする。一時は彗星の如く現れて流れ星のようにどこかへ消えていったって騒がれたの。私より後から入ってきたのに先にデビューさせて貰えたんで悔しくて悔しくて、どんな手を使ったのかと当時はかなり妬んだわ。綺麗なのはこの業界じゃ当たり前のことだけど、あの子はとにかく一途な頑張り屋さんだった。目指すものを手に入れるために手段を選ばない野心家でもあった。大人しそうな清純派代表みたいな顔してる癖にね。必要とあれば誰とでも親密な接待をこなせるの。そんな子だってこの業界じゃ大して珍しくもないんだけど、相当床上手なのかね。それとも強力な後ろ盾をガッチリ味方に付けてたのか。なんせ飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ。煽り風の強さに本人が持ちこたえられなくなってバラバラに分裂して沈んでいっちゃってたのかな。・・・
なんせ、バチバチのライバルだったの、私達。あの子がいなくなってから張り合いのある相手がいなくて退屈してた。私の目には見間違いようがなかったわ。『この女の子を捜してる人がいるんです、友達の友達に』って、可愛い後輩のヒナに写真を見せられて、口に含んで飲みかけてたレッドブルを噴き出しちゃったわ。ビックリして!時速200キロで走ってるときにこのダッシュボード一面が白い泡だらけでベッタベタになったんだから!
(その時も助手席に座っていたのか、今もノノさんの隣にいるヒナちゃんがクククと思い出し笑いした。)
あなたの彼女はラッキーストライクのルシアよ。検索してみて。事務所のホームページに顔写真がちゃんと載ってるから。昔の宣材写真のまんまだけど。下に書いてあるスリーサイズのバストだけはどう考えてもちょっと盛り過ぎだけどさ」
「ラッキーストライクって事務所名ですか?」
「そう。」
鹿島君は肩越しに差し出された手のひらにノノさんの携帯電話を返却して、自分の携帯で調べてみた。こんな簡単にとあっけないほど簡単にたった一度の入力で手の中の画面いっぱいに恋人の笑顔がすぐに現れた。これも、彼が見たことがない写真だった。しかし映っているのは紛れもなく彼のユキだ。一面水色の花弁の彼が名前を知らない花が咲きこぼれる花畑に横たわり、片手で胸に溢れるような花束を抱え、(長く垂らした髪と花束で両方の乳房の先端を隠している)もう片方の手は眩しい光を遮るように頭の上に上げ庇を作るポーズ。これが自分と出会うより数年前に撮られたユキの写真、ユキの活動なのだと思うと胸にジンと熱く込み上げてくるものがあった。
(女優の卵だったんじゃ無いか、ユキ…!キミは…今だってどんな映画や広告に起用されてるタレントよりも綺麗だよ…!)
鹿島君は歯を食いしばり涙を堪えてユキの画像を見詰めた。
(…一体、今はどこで何してるんだよ…!)
生きてるのか死んでるのか、どこでどうなってるのか何も分からない彼女の身を案じ、果てしなく悔し涙が零れそうになる。必死で泣くのを堪えた。嗚咽が肩を内側から揺さぶったが、あまりよく知りもしない女性ばかりが乗ってる狭いこんな車内で泣くわけにいくまいと、込み上げる熱いものを自分の内側に押し込めよう押し戻そうと戦った。
ふと、膝に温もりを感じ、ビクッと我に返って目を開けた。隣のシートから雪ちゃんがこちらに身を投げかけるようにして同じ彼の携帯画面を覗いていた。鹿島君の膝に両手をソッと置いて。
「本当に綺麗な人ですね…彼女さん…」溜息のような声。
「プロのカメラマンが撮ってしこたま修正するし誰だって絶世の美女になれるさ。」
姉御がケラケラ笑い飛ばしながらさらにテンポの速い曲にかけ替え音量をもっと大きくした。ハンドルから片手を放すのも片時でも目を離すのもやめてくれないかなと鹿島君は内心ヒヤヒヤした。
「ごめん、高速降りたとこでちょっとポリさんに見付かっちゃったわ。あたしとしたことが。油断した。チャッチャと撒くからみんなどこか掴んで」
ノノさんはいきなり急ハンドルを切って大型ショッピングモールの立体駐車に突入し、サイレンを鳴らしマイクでがなりながら後ろから追跡しようとしていた覆面パトカーを駐車場内で振り切ってアッと言う間にまた元の車道に戻った。既に遠い背景になりつつある立体駐車場の中でパトカーのサイレンが虚しく鳴り続けるのを鹿島君と雪ちゃんは怖々振り返って眺めた。
「チンタラ追って来てんじゃねいやい。寝惚けポリ助どもめ!あたいを捕まえようなんざ千光年早いぜ」
ノノさんが狂人の高らかな笑いを上げる。ヒナちゃんも可愛い顔をして白い喉を反らしケラケラ笑っている。雪ちゃんは隣の鹿島君の引き攣った表情を見て笑顔を引っ込めた。鹿島君は両手で握り締めていたシートベルトの自分の手の上に重ねられた雪ちゃんの手をジッと見下ろしていて、それから手を繋いであげた。
(怖いのかな、自分と同じに雪ちゃんも…)と彼はその時は思ったのだが、慰められたのは自分の方だったと気付いた。ずっとずっと後になってから。
「着いたよ。ここが撮影事務所。撮影だけじゃなくて面接とか小さいオーディションとかも全部ここでやっちゃってるの。」
乗り捨てるようにして車を降りながらノノさんが教えてくれた。ラパンを停めたのは交通量の多い交差点付近。ノノさんが目配せで示してくれた雑居ビルの5・6階が彼女の所属している事務所本拠地みたいだった。
一階はセブンイレブン、二階はキャバクラ、三階はショーパブ。四階の看板はヒビ割れ白紙のままだ。看板の五階の枠にはまるで白いノートの隅に走り書きしたような目立たなさで白地に黒文字のluckystrikeと社名が一応書いてあった。事前に話を通してここの人間の誰かに案内して貰わなければ迷わず辿り着ける者は少ないだろう。四階から上の階の窓は無機質な壁みたいに硬そうなカーテンで全て塞がれていた。
「六階と屋上もうちの事務所。ちょっと一服させて。腹が減っては密偵も出来ぬ」
ノノさんはヒナちゃんと雪ちゃんには車で待機させたがったが、雪ちゃんは自分も行くと言って一歩も譲らなかった。
全員で戦の前(カーチェイス後)の小休憩に一旦車から降り、コンビニで買ってきたおやつタイムと一服(ノノさんは煙草を吸わずヒナちゃんが鹿島君と一緒に喫煙した)をした後のことだ。ヒナちゃんは直接の先輩のノノさんに一睨みされると従順な子犬のようにシュッと一も二もなく車の中の自分の定位置へ戻ったが、それまで彼女と手を繋ぎ合っていた雪ちゃんは真っ直ぐに見開いた目を動かさずノノさんと睨み合って立っていた。
「ヒナならともかく。あんたうちの事務所の子じゃないのに・・・」
ノノさんは顔の片側でイラッとしながらもう片側半分では面白そうに雪ちゃんを観察していた。
「一緒に行きたいの?危ないんじゃない?」
「危ないよ。」鹿島君も真剣に言い添えた。
「俺はもしもここでユキを見付けたら力尽くででもここから連れ出すつもりだから。別の場所まで引っ張って行って二人だけでキチンと話がしたいんだ。操り人形みたいにユキにこうしろああしろと後ろから糸を引いて唆す大人とかが誰も他に視界に入らないところで・・・もしここにユキがいるなら。(鹿島君は雑居ビル五階の窓をビッと指差した。)・・・ユキが閉じ込められたり嫌嫌何か無理強いされたりしてないことだけでもこの目で見るまでは信じない。ユキの口から無事を聞くまで他の誰の言葉も信じない。もしも誰かが俺を止めようとしたら・・・」
鹿島君はうまい言い回しが思い浮かばず、馬鹿みたいに胸の前にファイティングポーズを構え、コクッと頷いて見せた。力強く。自分でも自分が阿呆にしか見えないと分かっていたが、これから自分がやろうとしてることのドラマチックさはどうにも当事者以外の目から見れば滑稽に見えるだろう事は分かっていた。ユキを連れ戻す。売春組織から恋人を救い出す。生粋の売春女を真っ当な道に更生させる。・・・
「ほぉら聞いたぁ?このお兄ちゃんこれから殴り込みかけに行くんですってよ。一人で。スズメバチの巣から裸一貫丸腰で姫蝶々を救い出すヒーローなのよ。物凄い騒動起こしちゃうんだから。車に乗ってお座りしてここでグミでも噛みながらヒナと喋って待ってるのが安全安心の得策よ。あたしが後で何があったかイチ早く教えてあげるから・・・」
ノノさんも雪をなだめすかそうとしてくれた。
「いいえ、絶対に私もついて行きます。邪魔にならないようにするから。お願いします」
断固決断した口調で雪が言い張った。両手をアンパンマンみたいにグーにして肩幅に脚を開き力を込めてノノさんを見返している。鹿島君と全く同じポーズ。戦いの構え。
面倒臭くなったのか噴き出しそうになったのか、ノノさんは雪ちゃんから視線を逸らし、青い秋空の彼方を見上げた。
「あそ。じゃ、ついて来れば」
ノノさんが勝手にヨシと決めてしまった。
鹿島君は内心と思った。(もうちょっと粘って雪ちゃんをどうにか思いとどまらせようよ!車で安全に待っていてもらいましょうよ!…)が、どうしようもない。ノノさんという内通者がいなければ彼だって五階には入り込めないのだから。小さい声でポソポソ自分一人で雪に念押ししてみたが・・・
「侵入してから中で働いてる人に部外者が紛れ込んでるって知れて捕まったら大変なことになるかも知れないよ・・・」
雪は黙って真剣な顔をして頷くばかり。先にサッサとエレベーターに向かって歩き出したノノさんが振り返って二人を呼んだ。
「エレベーター来たよ~。四階まではこれで上がって、そこから裏口に回って非常階段を上がろう・・・」
「多分、僕一人なら、見咎められたって、ただの女優の卵の追っかけが不法侵入してるって事になるだけなんだろうけど…変態騒ぎで済むかも知れないけど…」
鹿島君はブツブツ雪に呟きかけたが、こうと決めて腹を括ってしまっている女の子はなかなか手強いのは妹がいるので重々承知している。
エレベーターに先に乗り込もうとする雪ちゃんの腕を掴み、後ろへ強く引いて足をよろめかせて止めさせ、大人の冷静な声を出して言い聞かそうとした。
「もうここまでで充分助かったよ、本当に。雪ちゃん。ありがとう。何の関係も無いキミをこれ以上巻き込むわけにいかないよ。何事もないとは思うけど。今までだってそうだったし、ここにもユキはどうせ居ないかなぁとも思うけど。でももし万が一、ユキがいたら、俺もその時は必死で暴れて何人かと揉めたり喧嘩しなくちゃいけなくなるかもしれないし。正直足手まといだよ。キミのことを想って言ってるんだよ。危険だから。本当に。ごめんね。下で待ってて。すぐ戻ると思うし・・・」
ところが、いつも大人しくて声が小さかった優しいだけの可愛らしい雪ちゃんはいきなり鹿島君をギッと睨み上げ、小作りな鼻に険しい皺を寄せ、小さな虎かもののけ姫の犬神みたいな恐ろしい怒った顔をしてキツい声で言い放った。
「黙って!あなたがここに来れたのは私のお陰じゃないの?!」
確かにそう言われてしまえばその通りである。雪ちゃんの協力無しには鹿島君はここへ辿り着けていませんでした。
鹿島君は諦めて「そうだね・・・ごめん・・・」とポソポソ呟き、雪ちゃんの腕に食い込ませて引き留めていた自分の手をパッと放した。
(だけどこの子、どうしてここまで俺に協力してくれるんだろう?)と鹿島くんはプリプリ怒りながら腕をさすり四階で止まったエレベーターを降りて階段に向かう雪ちゃんのつむじを見詰めた。不思議だった。
(この子にとって今日は何の得にもならない一日なのだ。仕事でもしてればその分時給にもなったのに。ユキが見付かったとてこの子にとって何の得にもならないのに。一体何しに僕にここまで協力してくれるんだろう・・・?この子・・・?)
四階はシャッターの降りた空きテナントだった。一見そんなところに入り込めるなんて誰にも予測出来なそうだが、ノノさんはしゃがんでスッと身を起こすと同時に軽々シャッターを腰の高さまで持ち上げた。
「入って。意外と重たいの。このシャッター。全部上げちゃったら下ろすの面倒だし大きな音がするから。早くして」
「鍵は?壊したんですか?今日のために?まさか…?」
鹿島君は急いでシャッターをくぐりながら聞いた。彼に続いて雪もシャッターをくぐり、ノノさんも後からスルッと身を屈めて入ってきた。パッと手を離すとズドンと音を立ててシャッターは閉まり、一瞬視界が闇に閉ざされる。その直前に埃がブワッと舞い上がるのが見えたので三人とも息をしばらく止めていた。猫のように目が闇に慣れてくると、窓に垂れ下がったカーテンの破れ目から入ってくる午後の帯状の光で辺りがまた少しずつ見えるようになってきた。
「鍵はもともと壊れてたの。見付けたのは本当にたまたま。コロナ中みんなで飲める場所を捜してて、この階なら今テナント入ってないし、ってなって、先輩達とエレベーター前の狭い空間で持ち寄ったお酒やらお菓子やら摘まんで飲んで宴会してたんだけど、狭過ぎるし。人数増えてきたら、困ったな~開けば良いのにな~ここ~って、誰だったかが試しに持ち上げようとしてみたの。そうしたら簡単に開いちゃって。ビックリ」
「ずさんな管理会社だなぁ」
「借り手が見付かるまではそのまま放置なんじゃない?結構そんなもんよ」
「誰かが入り込んでしばらく住んでたのかも・・・」
「ホームレスの人とか?」
「だとしたら何人住める?」
「広い家だなぁ」
「面積だけは・・・ね」
前のオーナーは夜逃げしたのか、ガランとした薄暗いだだっ広過ぎる空間のそこここにソファや高さの合わないカウンターテーブル、回転椅子、木製のハンドルで三人ずつ横並びしている選手を動かすレトロなサッカーゲーム機・・・等々、ポツンポツンと向きもバラバラにまるで夜の海の難破船の漂流物みたいに個個に寂しく置き去りにされた家具達が薄闇に浮かび上がっていた。床に散らばる紙屑や細かいゴミをガサゴソ蹴飛ばし、躓かないよう摺足で進んだ。
「携帯で灯りを点けない?」雪ちゃんが小さい声で提案する。
「見たくない物も見ることになるよ」ノノさんがすぐに反対した。
「例えば…?」
「鼠の死骸とか…?」と鹿嶋君。
「こちらが気付かなければ襲ってこない、身を潜めて隠れてる逃亡者とかね」
「ええぇ・・・」
「怖いこと言いますね・・・」
「本当の事だよ。見ない方が良さそうな物には極力気付かないように注意して。この階ではあまりキョロキョロしなくて良いんだから。あなたが辿り着きたい場所は上の階でしょ。この部屋は出来るだけソッと素通りして。」
雪ちゃんは息を飲みそれから黙り込んでしまい、鹿島君も口を閉じて頭の中だけで反論した。
(この階に触れられたくない違法な何かが隠されてるって暗に言われたようなものじゃ無いか…)
(それにしても、意識して何も見付けないように注意しろなんて、そんなこと言われてしまうとそれはそれで難しいよなぁ…)
ザラつく床を踏み、脇目を振らず必要最小限の前だけを見て摺足で進む一列。目を凝らして良く見ようと思えば見えてしまいそうな辺りの薄闇。そこにもあそこにも、何者かが潜みこちらが気付いていないか目を光らせてるような暗闇の溜りがある・・・
やがて入ってきた入り口から広い空きテナントを突っ切って、ほぼ反対側の壁にある非常階段への扉に辿り着いた。
「ちょっとここで待ってて。私一人で上へ行って様子を見てくる」
そう言って、ノノさんは一人でドアの外へ出た。新鮮な秋風、四角く切り取られた街の景色が一瞬チラリと開いたドアの隙間から飛び込んできた。バタンと意外に大きな音で扉が閉った。何故なのか、カチャンと鍵をかける音も聞こえた。驚いて鹿島君が試しに非常ドアのノブを回してみたが、ドアは開かなかった。
「なんで僕達を閉じ込める必要があるんだろう?」
不安になり薄暗がりの中、雪ちゃんの目を見る。「はめられたのかな?僕達?」
「きっと、偵察に行って、自分に何かあったとき私達にまでは危害が及ばないようにするためだよ」雪ちゃんの方が腹を括ってるように見えた。「ノノさんはここの事務所に居てもおかしくない人だから。所属の。でも私達はそうじゃない。完全な部外者。きっと、私達を連れて行くのに良い状況かどうか、今、見て来てくれるてるんだよ。ここまで来たらもうあの人を信じて待ってるしか無いよ。他に道が無い」
引き返したい?引き返すなら今しかないよ…?と、逆に尋ねるように雪ちゃんが無言のうちにさっき来た道を振り返りまたこちらの目を覗き込んでくる。どちらでも、決めるのは鹿嶋君で、自分は彼について行くだけ、と言う崩さないスタンス。
「キミは・・・」さっきから心に浮かんで膨らみ続けている疑問がそのまま、なぜかこの時、コップの縁を越えて溢れたように、鹿島君の喉から漏れた。「キミはどうしてここまで僕達のためにしてくれるの?ユキと僕のために?」
「それは・・・」雪ちゃんは大きな瞳をキョトキョトさせ、気恥ずかしそうに、つっかえながら説明してくれた。
「あのね、・・・ちょっとなんだか・・・ロマンチックだと思ったの。"お城“とか、こういう業界にいると、女の替えはいくらでもいるんだって考えの男の人たちを何人も何人も目にする。毎日、一日のうちにも何人も。女の側だっていつも馬鹿にされてるのは腹が立つから、男の替えだって同じくらいいくらでもいるって言って、慰め合ったりスレていったりするのをよく見てるの。そう言うのは珍しくない、いくらでも溢れてる光景。嫌になるほど日常茶飯事。足元を見合って、騙しただとか騙されただとか、どうせケチな話。欠伸が出るくらい右を向いても左を向いてもそんなのだらけだったの。鹿嶋さんが私を初めて指名して来てくれた日までは。本当は私を御所望じゃなかったんだけどね。
・・・でも、いなくなった彼女さんをこんなに真面目に真剣に必死になって心配して捜し出そうとしてる鹿嶋さんは、居そうで居ない珍しい人なの。・・・ああ、この人、心が穢れてなくて綺麗な人なんだなぁって思ったの。私…。一度好きになった女性をこんなにも大切に想い続けて、一生懸命に命懸けみたいに情熱的になれるのって、素敵だなぁ、これぞ愛だなぁ、って、何だか真に美しいものに触れて胸を打たれる感じがしたの。ああ、良いものを見させてもらえてるんだなぁ今、って、直感したの。作られたハリウッド映画とかジブリとかも素敵だけど、これはまさに今ナマで目の前で起きてる本物のドラマなんだぁって。ユキさんの事は私は見たこともないんだけど、どんな凄い人なんだろう、鹿嶋さんの心を鷲掴みにして離さないまま持って行っちゃうくらいなんだから、絶世の美女で良い女に違いないよなぁって、凄く気になるし。
二人をもう一度巡り合わせて、ハッピーエンドを見届けたいような気がしたの。こんな純愛、これは見逃しちゃいけない、って。稀に見るピュアな鹿嶋さんの事も応援したくなっちゃったの」
「そんな大それた良いもんじゃないよ」鹿嶋くんは苦笑いした。「ただ僕が変わり者で馬鹿なだけなのかもしれないよ。置いて行かれた荷物の始末に困ってる腐れ縁ってだけの事とも言えるし・・・」
「いいえ、あなたはかなり純粋な人。私の目にはそうとしか映ってない」
「きっとキミの目がロマンスを捜し求めてたんだよ・・・」
あまりキョロキョロしてはいけない、と言われてる、他に誰か危険人物が潜んでるかもしれないといういわくつきの密室空間で、声を殺し、互いの目以外の物を視野に入れないようにしながら、二人は身を寄せ合って話した。乏しい午後の光が黄昏れ、危険な暗闇の領域が、二人のすぐ傍へと刻々迫ってくるようで、自分達の怯えに気付くまいとしながら肩を寄せ合い、ノノさんが戻って来る事、二人の味方として再び現れてくれるのを待った。道案内の彼女が居なければ取り残された二人は迷子の小さい子供みたいな気持ちだった。会話が途切れると静寂が鼓膜を押してくるので、その後も何か他愛もない会話を続けていた。
ついに、アルミ階段をピンヒールで駆け下りてくる足音がして、二人は口を噤んだ。鍵穴に鍵が挿し込まれる音。閉ざされていたドアが開かれた。
「来て。」ノノさんが焦った手招きをして二人を呼んだ。「もう撮影が始まってしまってる」
外は爽やかな秋風が吹き抜け、肺に溜まった埃とカビの籠った空気を洗い流してくれた。
一行は四角い螺旋状の非常階段を4回転して、更に二階上へ登った。事務所受付がある階を外側から通過し、いきなり六階、本部へ侵入することになる。
「子供だましだけど、一応これ付けて」
鹿島君と雪ちゃんはノノさんから、首から紐で下げる誰かの顔写真入り通行証を手渡された。今日休みの社員の物をどこかから短時間でかっぱらって来たのだろうか。鹿嶋くんは自分には似てない男の顔写真入りだが、一応青い紐を首から通し胸に社員証をぶら下げた。雪ちゃんの通行証など、顔写真が男だから、写りの悪さで言い逃れることすらできないだろう。
「ごめんね。出演役は女が多いんだけど社員側の女が少なくて、社員証それしか手に入んなかった。・・・でも首から青い紐下げてるか下げてないかでパッと見から全然違うから・・・でも、立ち止まらせられて、写真を確認されるような事態になったらそもそも終わりだからね」
ノノさんが鋭い視線で二人に念押しした。彼女の気遣わしげな眼は雪ちゃんに向けられていた。
「この子に何かあったらあんたが守ってやんなよ」睨むような目で鹿島君を見る。
「言われなくても・・・」
「じゃ、行くよ」
昨日まで歩き馴染みもうよく知ってると思われた街角が足の下に見下ろせる非常階段。
これから未踏の地、敵本部へ潜入する。
六階の非常ドアを開けて屋内に入り、鹿島君の背後でソッと扉を閉めると、また心地よい涼しい秋風が取り残されたように外に閉め出された。
廊下には誰も居なかった。しかし廃墟と人に使われている屋内とではかなり空気の質に差がある。間取りも全く違う。下の階はガランと全体が見渡せるようなだだっ広い空間だったが、この階は淡いグレーの床と壁、廊下、いくつかの部屋に仕切られている。
廊下は、シンと静まりかえってるわけではない。どこかから何やら人声がする。
瞳孔が完全に外の光量から室内向けに、薄闇に適する仕様へと切り替わるまでもうしばらくジッとしていたかったが、ノノさんが先にとっとと歩き出し、雪ちゃんもどんどんそれについて行ってしまうので、鹿島君も最後尾から慌てながら後を追った。
声はある一室のドアから集中して聞こえて来た。近付くほどに、中で何が行われているのかハッキリ分かる、明らかな嬌声。盛りの付いた猫が何匹もいるみたいな鳴き声だ。行為の激しさが窺われる。そのドアへと一歩一歩歩いて近づいて行きながら、胸騒ぎがやがて吐き気へ、嫌な予感が確信へ、信じたくなさのあまり現実逃避したい心境で胸苦しい悪夢の中を歩いているような夢見心地へと、鹿嶋くんの胸のうちは様変わりした。それを直接目撃するまでの時間を引き延ばそうと、歩を進める足取りは勝手に重くなった。
ポルノの撮影現場だった。
狂おしく甘い嬌声が響いてくる部屋のドアノブに手をかけ、そろりそろり、そろりそろりと、ノノさんが一秒に2mm位ずつ回し、冗談かと笑えてきてしまいそうなほど深刻な緊張の面持ちでやっとそろりと細く細くそうめんのような隙間で部屋の扉を開いた。ドアに隙間が出来たのが、中の声が一段と耳元に迫って聞こえるように高まったことで、鹿島君にも分かった。
獣じみた男優の唸り声まで廊下へ漏れ出し、聞こえてきた。腰を突き動かすたびに唸ってるらしい。女の声もそれに共鳴して喉から溢れているようだ。リンリンと鈴を震わすような声。
「見える?今撮影中の子が私の同期。前までお城にいた子。その時の源氏名がユキだったって、確か誰かが言ってたと思う・・・」
ドアの前の覗き見できるポジションを鹿嶋くんに譲ってくれながら、ノノさんが釘を刺した。
「気付かれないでね、中の誰にも」
ドアの中を覗く前から鹿島君には分かっていた。この声・・・忘れようはずがない、この声…
こんなの、まるで地獄だ。こんな現場を直視してここで撮られてる女優がユキだと確認することになるなんて・・・
何が一番おぞましいかと言えば、この声が、悦んでいることだ・・・俺以外の男ともこんなにも嬉しそうな声が出せるのか・・・演技なのか、否、全くそうは聞こえない・・・
細く更にドアを開け、片目で中を覗く。部屋の奥にベッド。その上に男優が二人。片方は手にカメラを構えている。女優は顔を向こうの壁に向けこちらに尻を突き出す格好をとらされている。手前に更に男達が三人。二人はちゃんと服を着てるが一人は腰にタオルを巻いている。こいつも後からユキに乗っかるつもりなのか・・・
「どう?あなたの彼女だった?」
鹿島君は喉が塞がり声が出せなかった。怒り、嫌悪、悲しさ、虚しさ、悔しさ、寂しさ、脱力感、どれとも言えぬ感情で目の前が真っ暗になり、見開いている目も良く見えないほどだった。
ねぇねぇ、とノノさんだか雪ちゃんかが彼の袖を引いたが、無意識に手荒く振り払っていた。見たくもない光景だったが、しかし、その場の光景から目が離せなかった。
ユキの撮影現場は汚くみすぼらしかった。安っぽい街外れの朽ちかけたビルの一室、安っぽいペラペラの薄いカーテンの掛かった窓、安っぽい簡易パイプ椅子に座ったうだつの上がらなそうな監督・・・この部屋の中の全てが安っぽかった。20歳そこそこにしてもうどうにもならないほど落ちぶれた女、自分の身を削る思いで探し続けた恋人、ユキが、この安っぽい部屋の中で一番安っぽい、ひょろひょろに痩せた無価値な肉片だった。
しかし、それでも、自分にだけは今だ愛おしい、狂いそうなほど愛している体、その肉に宿る精神、誰にも代えられない恋人、唯一無二の女の姿がここにあった。
袖をさらに後ろへ強く引っ張る手を無視して、茫然と、憤然と、鹿嶋くんは立ち尽くしていた。彼の恋人がポルノを撮られている現場を瞬きもせず目をカッと見開いて見詰めていた。
男優達と撮影スタッフ達は全員が部屋の奥の彼女の方を向いて見ていたが、監督の指示によって、やがて女優はカメラの方へ顔を向けさせられた。女が顔をカメラマンの居る方、こちら側、ドアの方に向け、ドアを開け放って立つ鹿島君の姿をその目がとらえた。ハッと見開いた女のその目が鹿島君の瞳に焼き付いた。時が止まったような一刻。
そこからのユキの演技は滅茶苦茶な、惨憺たる物になった。あんなに声を限りに喉が裂けそうなほどアンアン気持ち良さげに喘いでいたのに、そこから、一切、ひと鳴きも声が出なくなった。視線が縛り付けられてしまったように瞳が鹿嶋くんの目を一心に見つめ、顔面は蒼白。さっきまでは髪の生え際、耳の先まで紅潮していたのが、一瞬にして蒼褪めたのだ。突如、どんなに激しく突いてもユキが反応を一切示さなくなったので、男優もスタッフ達もユキをきつく叱った。男の一人は手に持っていたティッシュの箱でユキの頭をバシッと殴った。
「おい、電池が切れたか」
「ルシア!・・・終わってるなこの女」
「おい!おら!何とか言え!声出せ声!働け!」
別の男もカメラでユキの頭をガツッと打った。強制的に、こちらを見つめ続けていた視線が逸らされる刹那、彼女の両目が銀色に煌めいて、ガクッと首を垂れた瞬間、二粒の雫が光りながら床に落ちるのが見えた。
「これしかできないお前がこれもできなくなったら、え?どうする?」
「やるのかやらないのか!?ああッ?声くらい出せないのか?」
売り物の肌に傷を作ってはいけないからか、頭髪で傷が隠れる頭ばかりが殴られた。今はルシアと呼ばれているユキはシーツに顔を突っ伏した。それでもまだ頭を殴り付けられ続けた。
鹿嶋くんが我を忘れ室内の男達に飛び掛かって行く寸前に、再び顔を上げさせられたユキの目は乾ききり、瞳に膜が張ったようになっていた。焦点が二度と再び鹿島くんの方へ向くことはなかった。
アッ、アア、アア、・・・再び喉から声が出始めた。やがてルシアの視線には熱が籠り、女優は男優の腕に自ら身を寄せかけ、別にそうしろと指導されてもいないのににじり寄って来た別の男優の頭に両手を伸ばして髪を掴み、執拗なほど長く濃い嫌らしい口づけを始めた。
(そうそう、)と監督らしいでっぷり肥えた男が頷き、
(視線をこちらに)、と言うカメラマンの合図で、女優が再び視線をカメラ目線に投げやった。艶っぽい流し目が鹿嶋くんの目線をも掠めたが、そこにはただ肝の座ったプロ根性が宿るだけで、その他一切の他の何の感情も雑念も、もはや存在しなかった。
「鹿嶋さんっ…!鹿嶋さんっ…!」雪ちゃんが激しく破れるほど彼の袖を引っ張っていた。
「おい!」頭にガツンと拳骨を食らわされ、痛さで目玉が飛び出そうになり振り返ると、ノノさんが鹿嶋くんの胸ぐらを掴んで後ろへグイグイ引っ張った。
「走れ!」
鹿嶋くんがこちらを向いたと見るや、ノノさんは廊下を非常階段めがけ駆け出し、雪ちゃんも走り出していた。「鹿嶋さん!!走って!」雪ちゃんが振り返り、立ち止まって叫ぶ。
廊下の反対側を見ると、こちらを指差し体格の大柄な男が迫って来るところだった。条件反射的に鹿嶋くんも非常階段へ歩みかけた。しかし(これで良いのか…本当にこれで良いのか)と、置き去りにするユキを思い足が止まった。
「鹿嶋さんッ…!!」
彼が立ち竦んで動けないでいるうちに後ろから男が追いつき、追い越し、追い抜き際に肘で鹿嶋くんを壁にはね飛ばし、大股の二歩とぬっと突き出した腕で、雪ちゃんの首を片手で掴んで捕らえた。
「お前等、どこからわいた?」巨体の男が唸りを上げ、手の中の雪と鹿島くんを見下ろした。肩を怒らせた赤鬼のような強面。いかにも用心棒らしい風貌、どすの利いた地響きのような怒鳴り声。
「その子は新人ちゃん!私が連れて来たの!放してあげて!首に痣が付いちゃうでしょ!」
大男の腕にぶら下がらんばかりに全力で引っ張りながら震える声でノノさんが必死に訴えた。気丈な彼女の声音の中に隠しきれていない怯えを聞き取り、鹿嶋君もようやく恐ろしさを身に染みて痛感し始めた。これから雪ちゃんと僕はどうなるのだろう…
「へぇぇ?新人ちゃんか・・・本当に?」
喉を絞められ靴底が床から持ち上がってバタバタ藻掻いていた雪ちゃんの体が少し下ろされた。ノノさんにぐいぐい引っ張られ、男が手を離すと、雪は床に崩れ落ちゲホゲホ咳き込み目からボロボロ涙を落とした。早くもTシャツの襟口から覗く白い細い首に鷲掴みされた五本の太い指の痕がクッキリと赤紫色に浮き上がり始めている。
「ふぅん?誰が面接した?こんな可愛らしい新人ちゃん…掘り出し物じゃないの・・・この体操着みたいな衣装は?体育館プレイのコンセプトか?」
男の顔に舌なめずりするような嫌な不気味な表情が浮かぶのを見て、鹿嶋くんの全身にザッと鳥肌が立った。
「その子は違う!!!!関係無い!巻き込まないでくれ!!!!」気付くと絶叫していた。
廊下に木霊すほどの自分の声に驚き酸欠で目の前が真っ暗になった束の間の後、ハッと気付けば、三人は逃げ時を完全に失っていた。
廊下にはもう従業員が犇めいていた。何事かと全ての部屋のドアからスタッフが顔を出し、廊下へ出て来て、雪と鹿島くんを取り囲みジロジロ見下ろしていた。なすすべなくノノさんは巨人の横で肩を狭め頭を俯かせていた。彼女だけは今ならまだどっちにも寝返ることができる。頭の中で懸命に得策を練っていることだろう。
「お前は誰だ?」大男が鹿嶋くんに聞いた。下から見上げると、一歩詰め寄られただけで男は肩幅も身長も膨れ上がり頭頂は廊下の天井に今にも達するかに見えた。
「彼は田中君」
口を開きかけた鹿嶋くんが言葉を発するより先に早口で横からノノさんが出鱈目を言った。
「お前は黙ってろ」大男が吠える。空間がわんわん振動した。
「キミら、ここへ何しに来た?何が目的?」静かな声で理性的に喋るほっそりした男が片手で大男に下がるよう合図しながら、スッと前へ進み出て来て、鹿嶋くんに歩み寄った。
車のような巨体の男にはね飛ばされ、壁に肩と側頭を打ち付けられてから耳が鳴り、片膝をついて床から立ち上がれないでいた鹿嶋くんに目線を合わせるため、スマートな男は自分も片膝を折った。
「お前らは持ち場に戻って良いよ」廊下に出て来ていた他の見物人達がこの男の一声で一斉にもと居た部屋に引っ込むのを目にして、(この繊細そうな男がボスなのか)と鹿島くんは気付いた。
ノノさんと雪、鹿嶋くん、巨人、ほっそりした男に加えて、少し離れた先で廊下に一人ポツンと居残る者が居た。その佇まいは魂の抜けた人形か魂だけの亡霊かに見えた。関係ない者が全員はけたか廊下を一度サッと鋭い眼差しで見渡した細身の男も、霊みたいな彼女を一度見落とし、それから二度見した。
「お前はなんでまだ居るの?ルシアちゃん?」
バスタオルか何か体に巻き付けてそこに居てくれたならまだ良いが、彼女が放心したような薬物常用者にありそうな重心の傾きで、不気味に廊下に突っ立っているので、ちょっと男は一旦鹿嶋くんと雪を横目で(すぐには逃げ出せなかろう)と目測し、スッと身を起こしてユキの方へ歩み寄った。両手を伸ばし彼女の両肩を掴み、「関係ない奴は仕事に戻れって。な?」と優しい口調で、彼女がもと居た撮影室へと体の向きを変えさせようとした。部屋のドアの中からは、さっきまであんなに威勢よくユキの頭を小突いていた男達が顔を覗かせ事の成り行きを盗み見ている。
肩を掴む手に力を籠められ足元をよろけさせられながら、何事か彼女がボソボソ男の耳に囁くのが聞こえた。言葉の内容までは聞き取れないが。ルシアの瞳は鹿嶋くんの肩のあたりをぼうっと見詰めている。それから雪の方へもちょっと見やったようだ。ついでのように、ノノの方も。
「ほぅ。なるほど…」男が何やら思案顔になりユキの髪を一房、自分の指に絡ませながら考え込んだ。ちょっとこちらを向き、男も鹿嶋くんとノノ、ユキを見やる。
体の線にぴたりと合わせたスーツ姿の男とルシアの二人はすんなりとした手足が良く似通った体型の、組み合わせ的に同系統の人種だった。遠目に見ていると一つの小テーブル上のお揃いの塩コショウ入れが対を成すみたいに対を成している。ルシアがボソボソ何か言い募り、男は面白そうに彼女の顔を見詰め直した。
「ふぅん。まぁ良いよ、キミがそこまで拘るとは珍しい」二人は何か言葉少なに取引を終えたようだった。そしてそれは鹿嶋君達の処遇に関する取引のようだった。
「キミ等、帰って良いよ」明るい声で男が手を振った。「お咎め無しだ。このルシアちゃんに免じて」
ノノさんが口の中で何かブツブツ呻いたが、鹿嶋君にはその内容まで聞き取れなかった。
「ただ社員証だけは返して行ってやってくれ。明日出勤して来る社員の子達が困るから。それからノノ、お前も自分の通行証を置いて出て行け。除籍だ」
「喜んで」今度はノノさんの呟き声の捨て台詞が聞き取れた。「誰がこんな腐った事務所に居たいかよ」
ノノさんがズボンの尻ポケットから皺くちゃの剥き出しのカードを取り出し、一応腰を屈めて床にポイと置き、雪を引っ張り起こして立たせた。
「あんたも早く来な、あの人の気まぐれが変わらないうちに」ノノさんが雪を非常階段へ引っ張りながら鹿嶋くんを急かした。
「ユキ…キミは・・・」
鹿嶋君が話しかけようとするとユキはプイと後ろを向いて自分の撮影現場に自ら戻って行った。目には見えない翅を背中に隠し持つ妖精のようなしなやかな肢体、彼女独特の少し弾む軽やかな歩みで。ユキにかかれば重力や時の流れなど、世界の法則は溶けて消え去る。あの安っぽい撮影部屋の中ではあんなにももう救いようも無く落ちるところまで落ちてしまったかに見えた少女が、ふっと意識を持ち直し、ただふわりふわり歩いたというだけで、世界中の時が魔法にかけられたように簡単に進みをのろくし、彼女の後ろ姿の一挙手一投足に息を飲み目を見張る。やはり彼女は美しかった。どこまで堕ち汚れようと、本人さえその気を奮い起こせば、背中に隠し持つ魔法の翼を表し一瞬にして天空へと舞い上がれる。そこでは誰も汚れた手で彼女の足首も掴むことはできないのだ。
「ユキ!」鹿嶋くんは恋人を連れ戻そうと瞬発的に立ち上がりかけた。すかさず壁が動いたように見えた。大男が身構えたのだった。
「やめなさい」図らずもノノさんと細身の男の声が重なった。
「あの子はここに残るって言ったんだよ、僕に」男が優しく鹿嶋くんの肩に手を掛けた。鹿嶋くんは一拍置いて、呼吸を整え、次の瞬間、床を蹴り立ち上がった。ずどん、胃をえぐる拳。優男が手首まで鹿嶋君の腹に拳をめり込ませていた。
「だからやめなさいと言ったろ」耳に男の囁きが聞こえた。四つん這いの自分がビチャビチャ吐く音の向こうで立ち上がった細身が巨漢に指示するのを辛うじて聞き取った。
「この男の子は別の出口から外へ放り出してやれ」
「殺さないで…!お願いします…!」雪ちゃんが泣き叫び懇願する声。
「こんなもんで死にはしないよ、お嬢さん、安心して。キミは来た道から帰りなさい。その裏切りお姉さんと一緒に・・・」
大男が自分の体を床から乱暴に引き摺り起こし、肩に担がれて自分が運ばれるのを無力感に打ちひしがれて鹿嶋くんは自覚した。ユキの事は僕の手には負えない、どうしたって無理だ、自分が何をしたって無駄だ、自分を心配してどこまでもついて来てくれる雪ちゃんをこれ以上危険にな目にも晒せない、・・・様々な思い、感情が押し寄せ、廊下を運ばれ従業員用エレベーターを担がれたまま下へ運ばれ、表通りにゴミ袋のように放り投げ捨てられて、残りの胃の内容物をゲェゲェ吐き出すと同時に、さめざめと涙を流し泣いた。靴は両方とも無くし、破れた靴下で、血だらけの拳を路面に打ち付けて這いつくばりさめざめと泣く若い男を、ちょうど帰宅ラッシュ時の通りすがりの人々がジロジロ見物して行った。
・・・
この思い出は現実に起きた過去の記憶だっただろうか・・・?
目の前で自分の女が汚され悦んでるのを目の当たりにしたトラウマで、この現実に起きた出来事の記憶は開かずの箱に仕舞い込まれ封印されて記憶の淀みの最下層に重しを付け沈められていたのか…?これまでは…
それとも鹿嶋くんが、ユキの行方を追うのをやめた責任を(雪を守るため)と転嫁して、新しい恋人に気持ちを切り替える自身の心の呵責を軽くするため、でっち上げた虚構の出来事だろうか・・・?
雑踏の中で瀕死の獣みたいにわんわん泣く鹿嶋くんを、まずノノさんの車の助手席にいたヒナちゃんが見咎め、車から降りて走って来て鹿嶋くんの腕をとり、必死に引っ張って、車の中へとにかく連れて行こうとした。道端で彼が地面に転がったまま男泣きに泣いているところを写真や動画に撮られ放題撮られていたからだ。でもヒナちゃんが鹿嶋君を一人で立ち上がらせ移動させることはできなかった。行きしと同じルートを辿って降りて来たノノさんと雪ちゃんがヒナに合流し鹿嶋君を引っ張っても宥めすかしてもなかなか無理だった。ノノさんがピンク色のラパンを彼の体すれすれまでバックで移動させ、それから女三人で力を合わせ、シクシク泣き続ける鹿嶋君をどうにかこうにかやっと車に積み込み、走り去った。
「あんまりメソメソ泣くなよ、もう・・・」言わないでおこうと何度も唇を嚙み締め、バックミラーで後部座席の鹿嶋君をチラチラ眺めていたノノさんが、終いにはとうとう口に出して言った。
「あんたの元カノの方がよっぽど腹を括ってるよ。やっぱり見直した。改めて、完敗だわ、あの子には。あたしも。あんたも・・・」
雪ちゃんは後からそっと何度も確認して来た。「彼女が探してたユキさんだったの?鹿嶋さんの彼女の?」
「いや、あの人は…」鹿嶋君は気持ちを持ち直し雪と正式に付き合いだしてからは、最初に言っていたのと正反対の受け答えをするようになった。自分にも何故だか分からなかったが。「あの子は俺の知らない人だったよ。本人もルシアと名乗ってたし、周りからもそう呼ばれてた…あれは僕の探してたユキじゃないよ…赤の他人、全くの別人だった…」と。
ユキの住む世界、ここに居たいと本人が望んだ世界と、鹿嶋君には普通の日常と思われていた世界観との隔たりがあまりにも深すぎて、あの時ほどのきつさを心が負ったのは後にも先にも無かった。あれから20年経つ今でも、あの時ほど乗り越えるのにしんどかった一時代は人生に一度も他に無い。精神的に瀕死の辛さを味わった。そしてあの時と同様、今は肉体が生きるか死ぬか、これから回復に向かうのか死に向かうのかのシーソーの上で時が審議の結果を出すのを待っている。この瀬戸際の、似通った状況が、パンドラの箱の蓋を開けさせたのだろうか・・・
続く