トモヤの話・エリさんの件・報復
ここへ来るのはいつぶりだったか。グレーのカーテンが揺れる二階の窓を見上げしばし考える。あの中が女の子達の待機室なのかも知れない。歓楽街、立ち並ぶビルのそこここの窓の中に女の子達が詰めている待機所があるのかも知れない。雛が孵った燕の巣でもそこら中にあるように、頭上あちこちからペチャクチャと賑やかなお喋りの声が降ってくる。トモヤが目指す店は、ネオンがパッパッと明滅して店名を闇に描き出している。ロリィドール。
ウチと比べれば二流、格下だと侮る気持ちもある反面、それでもこれまでこの地でそこそこ知名度を馳せてきた、積極的に新人をどんどん雇い入れる客を飽きさせない人気店だ。長く居続け太客を掴んでる子は特に愛嬌があって可愛らしいと噂で、中でもハナという子は出勤も多いのに常に予約がいっぱいで、なかなか予約がとれないはずだったのが、急なキャンセルが出てちょうどポッカリ空きが出来たところだったというので、タイミングが良かった。
確か初めてこの店に足を踏み入れたのは、二号店を立ち上げる前後でこの街の他店の経営がどんな物か市場調査して回ったとき以来。とすると、あれは一年近く前の事だ。トモヤはこの店では、当時は入店間もない新人キャストの接客を試しに受けてみたのだった。
あの子の名前は忘れたがもしここで顔を合わせることがあれば思い出せるだろう。全然研修してもらえてないのが惜しい、可愛らしい女の子だった。嘘か本当か知らないが女子大生だと言っていた。餅肌で気弱そうでこちらへの触れ方はおどおど、ソロソロとしてごく優しくて、いかにも初々しいのでおじさんに人気が出るかも知れないが、育つ前にとぶか、どっちかだなと思われた。当時は抱えている女の子の数に対して自前の箱がまだ小さ過ぎ、他店からキャストを引き抜くことなど頭になかったが。
ドアの外に門番として立っている黒服に黙礼し、予約時に告げた偽名を名乗る。
「カワカミです。2時からハナさんの予約をとってる」
既に顔が割れているかも知れない。(相手の目を見なさすぎてもおかしいかも知れず、ジッと見過ぎても変だ・・・)等と考えている間に、インカムでトモヤが言った通りを繰り返し、ドアマンが扉を開けてくれた。すぐ中は階段だった。
「ハナさんは二階でお待ちです」
入り口で入店を拒まれることは無かった。しかし罠かも知れない。二階で待ち構えているのは働き者の女の子ではなく、武装した男達かも・・・この店の女王蜂を攫いに来たつもりが、返り討ちに遭い拉致されるのは自分の方かも知れない・・・さりげなく尻ポケットに入れてきたナイフの柄に触れ気持ちを落ち着かせながら階段を上った。二階に居たのは少女のような若く見える女性だった。女性の正確な年齢は全然分りようがないが。
「まぁ、若いお客さん!」女の子はトモヤの顔を見ると可愛い顔に似合った高い弾んだ声を出した。人懐こく、勝手にパッとこちらの片手を取り指を絡めて繋いできた。
「そっちは利き腕だから、こっちにして」トモヤが頼んでみるとクスクス笑い
「良いよ。」すぐ繋ぐ手を変えた。さっき上がって来たばかりの狭い階段を降りる際も、トモヤの腕を後ろに引っ張り指だけでなく腕に体ごと絡んでくるみたいにして降りようとした。
「転がり落ちるよ」
「手摺りを持ってれば大丈夫」
階段を降りるとハナが先に立ち「あそこだよ」と、自分の店が提携しているホテルを指差した。すぐ隣の角だ。出会って徒歩二分のデート。「じゃ行ってきます」門番をしてる黒服にハナが頭を下げ、トモヤもそれに倣って頭を下げた。
「お父さんに挨拶して出掛ける彼氏みたい」ハナは笑い上戸なようだ。機嫌良さげにずっとニコニコ、クスクス笑っている。こういう子が人気者なのは不思議じゃ無い。
これからやるべき事を考えトモヤは緊張して顔が強張っていたが、最初から期待外れの女の子が出て来たのではなかったことは良い兆しだった。
「あの黒服さんはいつもあそこで門番してるの?」
「んーん、今日のシフトに仲が悪い別の黒服が居るんで、二人が同時に出勤の日はどっちかが外で煙草ばっか吸ってるの。顔を合わすと喧嘩しちゃうから」
「ふうん」なるほど、思いがけず良い情報を得た。
すぐ隣なのですぐにホテルには到着したが、ウチの者が首尾良く手を回し個室は満杯にしてあった。
「うわ~みんな満室!珍しい~・・・」
ハナはカウンターに身を乗り出し、レースのカーテンを引いた受付窓の奥に居るらしい知り合いのおばちゃんに呼びかけだした。
「おばちゃーん!あと何分くらいで一部屋、空くかなぁ~?」ウチの者がその
おばちゃんとやらにチップを弾んで空室が無いことにしてくれてるはずなのだ。トモヤはヒヤッとした。ハナの人懐こさを脅威に感じた。
「さぁねぇ!」おばちゃんは奥の方から叫んで返事を寄越した。「ちょっと今日は忙しいみたい!時間が押してんなら今日だけ他所へ行った方が良いかもねぇ!」
何やら湯を沸かしながら軽食を作ってるフリでもしてくれてるのか、ゴソゴソと忙しない物音を立てて見事にこちらに寝返ってくれている。顔は見えぬが彼女は名女優だ。
「どうしようかな・・・?」チラッとハナがこちらの顔を見上げてきた。「この近くに知ってるとこある?」
「知ってるホテルあるけど、ちょっと歩くよ・・・」ハナの靴の踵をちょっと見てみた。そう高いピンヒールでも無い。
「何てとこ?」
「夜間飛行」そこは自分達のシマ、こちらの店が提携してるホテルだ。裏口からすぐ路地裏を通れば通用門から四号店に辿り着ける。
「聞いたことあるかも!そんなに遠くないんじゃない?」
曇っていたハナの顔がパッと晴れた。こちらの気持ちも和む笑顔。天性の魔性の持ち主だ。是非ウチに欲しい、とトモヤは思った。
「そこ行こ!連れてって!」はしゃいで見せながら、実は自分の時間が押している関係もキチンと頭の中で把握しているプロ。トモヤの腕を引っ張り、
「こっち?あっち?あなたが案内してよ」道に出て甘えてきた。
「こっち」彼女の気持ちを汲んで、足早に案内してあげる。この子にはこの後の敵店での仕事をこなさせるつもりはなかったが。それでも。
「ね、でもきみ年下だよね、何歳?お名前は?」ハナは次々質問を投げ、ろくに答える間も与えずにまた喋りだした。「でもあのホテル、凄いよねぇ、考えてみれば!全部の部屋でイチャイチャ愛し合ってるんだよ!エッチいねぇ!」 そしてクスクス。
口下手でしかも何か会話が無いと間が持たず緊張してしまうような女性に免疫の無い男にはちょうど良いだろう。偽名やらを考えるのが面倒な今の自分にも彼女は最適だ。機嫌良く一人で喋り、笑い、こちらが黙っていても楽しそうに振る舞ってくれる。
「着いたよ。ここ」
「来たことあったわ!ここのホテル!」
「プライベートで?」
「そう。よく分かったね!」どこがどの組の息のかかった領域なのか、末端のキャストは別に知らなくて良い話だ。通常であれば。
彼女も自分が店から守られる境界線をいつの間にか越えてしまっていることにまだ気付いてない。店に連絡入れなくて良いの?可愛い小羊さん?トモヤは頭にメモした。ウチで働いて貰ってる女の子達には徹底して自分達の安全区域とそうで無い地域を教え込もう。直ちに。普段と何かちょっとでも違うと異変を感じたら、とにかく早い段階で事務所の人間に一報入れること。戦争はもう始まっているのだ。
「こっちはいっぱい空いてるのにねぇ」選べる空室の多さにハナは楽しそうな顔をした。
「ハナさんの好きな部屋を選んで」
「これとかどう?ソフトSMルームだって!変態チック~!」
「身動きが取れないようなのが好きなの?」
「縛るのも縛られるのもやってみたいと思ってる・・・でも」
悪戯っぽくこちらをチラッと見上げた目の奥に笑ってない不安が潜んでいた。
「お兄さんとは次回からね?次に指名してくれたら縛ってあげる。初めは普通なのが良いもん」
「怖がらなくても大丈夫だよ」これから怖がらせる相手にそう言ったことで、妙な興奮と静けさが胸の中に同時に訪れた。
「じゃあ、この部屋にする」ハナさんが選んでボタンを押した部屋は無難なカラオケ付きの個室だった。
「こんな所で歌う人居るのかな?」
「たまにいるよ。ラブホでカラオケ熱唱する人。結構防音がザルで、こっちは一生懸命お客様とやってるときに笑えてきちゃうくらいコブシが響いてくることあるもん」
「ふうん?」
「演歌とかね」
「それはちょっと面白いな」
「でも仕事には悪影響だよ。客が白けちゃうから。それもお爺ちゃまだとせっかく一生懸命たたせて上げたのにフニャってなっちゃって、どうしようもなくなっちゃう」なるほど、勉強になる。
部屋の中は前の客の煙草の匂いがした。
「換気扇は回ってるのかな?ちょっと窓を開けるね・・・」
慣れないホテルでハナが空調のボタンを探したり硬い窓の鍵に苦戦している間に、トモヤは余裕で仲間にLINEを送ることが出来た。
『801号室』
『了解』
「ドアの鍵は掛けた?」ハナに確認するフリをして玄関に戻り、逆にちゃんとかかっていた鍵を解錠した。
『今鍵を開けた』
『何分後突入?』
『いつでも』
「ねぇ、この窓開かないよ」
「コツがあるんだけど、今は良い。窓は閉ったままで。換気扇のボタンはここ」
パッと振り返ったハナの笑顔が凍り付いた。トモヤの後ろにいる二人の男を見、もともと円らな瞳が倍の大きさに見開いた。肺いっぱいに空気を吸い込むのを見て、トモヤが「シッ!」と唇の前に指を1本立てると、大きな溜息に変えて咄嗟に叫び出す衝動を堪えた。見た目と違ってなかなか大人な女の子だ。
「どうするつもり?その人達は?」震え声。それでも気丈に体面は保っている。
「落ち着いて。ベッドに座ったら良い。なんにもきみの嫌がる事はしない。俺等の言うことを聞くなら本当になんにもしないよ。今日はもう仕事さえしなくて良い」
「どう言う事ですか?」ベッドに腰掛ける気にはならないようだ。押さえ付けられる連想が浮かぶのだろう。ソファに置いた鞄を悔しげにチラチラ盗み見ながら、震えて立っている。鞄の中に携帯電話があるのだろう。
(提携ホテルが全室埋まってる段階で事務所の指示を仰げば良かった、)と後悔しているに違いない。手に取るように彼女の心が読める。
トモヤはますますこの子が気に入ってきた。商品として。今は他店の子だが、二流の店にしろ伊達に人気嬢だけのことはある。これまでいくつか修羅場も潜り抜けてきたのかも知れない。明らかに契約を破られ身の危険を間近に察知しても、いきなりキャアキャア取り乱して叫び回ったりしない。落ち着いて勝機を窺っている。土壇場で人の度量は見極められる。この子は落ち着いて状況が分析できる。賢い。ウチで長く使えそうだ。
「僕達の会社はきみの勤めてる店と敵対してる。競合他社だ。今、この業界は店が増えすぎ客の取り合いになっている。汚い嫌がらせ、足の引っ張り合い。しょうも無い店同士、キャスト同士が潰し合うのならまだ良い。でもそんな小競り合いで宝に傷が付くのは避けたい。きみみたいな能力も将来もある綺麗な子はそんな汚い争いに巻き込まれるべきじゃ無い。ウチに来て貰えれば全力できみの頑張りをサポートする。
つまり、僕らの頼みはこういうことだ。
きみには今日この時点をもって、今の店に見切りを付けて貰いたい。辞めますと言って来て頂いても構わないし、黙ってロッカーを空にしてそのまま帰って貰っても構わない。辞め方はハナさんに任せる。
でも明日からは、絶対にウチで働いて貰いたい。明日きみが僕達の頼みを聞いてくれなかったことが分れば、もうこちらから頭を下げて頼む事はしない。きみも敵だと見なす。悪いけど、これから勧誘する女の子達への見せしめに使わせて貰う可能性もある。」
トモヤは上着のポケットから名刺入れを取り出し、ハナに近付いて一枚を震える手に握らせた。それから危うく忘れるところだった、この時間分の料金と、それに少し上乗せした額を、名刺を持つ相手の指の隙間に差し込んだ。
「それがウチの店の名前だよ。一度くらいは耳にしたことがあるはずだ。代表というのが僕の名前。グループ店は目立たないのも合わせると30程あるから、好きな場所を選んで働きはじめられる。強引に辞めてしまうので前の店からの迫害が怖ければ、ウチには寮もある。24時間体制で僕がきみを特別に守る。」
しばらくは誰も無言だった。ハナさんは考えるためにか、ベッドに腰を下ろした。目は釘付けになって名刺の文面をジッと見詰めている。裏返し、また表に返して。(表の文字はたったの二行。裏にはビッシリと系列店、グループ店が小さな文字で書き込んである。)抜擢を喜んでくれているのだと良いけれど。何故か営業時にはあんなに気前よく振りまいてくれていた笑顔が、今は微塵も出てこない。あまりにも驚かされた直後の疑わしい状況下では。
トモヤは背後の二人を振り返って見た。なんだ、どう言う事だこれは、とハナさんよりも納得のいかないアオとハルキの顔を、こちらも眉を顰めて見返した。
「何?俺のやり方に文句があるの?」
「いや・・・」
「うう・・・ん」
「きみらの思っていた手口とは違うかも知れないが・・・後で話そう」
どうにも腑に落ちない表情のアオとハルキを一旦そのままにして、携帯で時刻を確認し、またハナさんに視線を戻した。
「もう答えは決まってると思うが、それに正直、きみに選択肢は無いんだけど、・・・とりあえず僕らは退散するね。時間いっぱいまでこの部屋で好きに過ごして貰ったら良い。すぐに部屋を出て前のお店に帰って貰っても良い。ただし、ここを出たら、迅速に元の事務所にあるきみのロッカーから本当に必要な物だけを持ってウチの事務所まで来て欲しい。そのとき、前の店は辞めてきて貰う。きみの身が危険なら前の店に辞める気でいると伝える必要はない。ただきみの胸の中で取捨選択して来て貰えれば、僕には分る。
きみの次の予約だけど、腹痛だとか親が倒れたとか適当に誤魔化して諦めて欲しい。もしどうしてもそれがダメなら僕の携帯に連絡して。明日の朝までは猶予をあげよう。
それから、もしウチの事務所まで歩いてくる途中で何か前の店の黒服に引き留められるとか、そっちは帰り道じゃないはずだとか言われるとか、そう言う時も僕の携帯に連絡して。不安なら、あっちの事務所の更衣室の中からでも、彼氏に電話してるフリでもして僕にかけてくれて構わない。車で店の前まで迎えに行くよ」
「・・・はい」小さな素直な声でハナさんは頷いた。歳はかなり上だと思うが、座っている相手の頭の天辺を見下ろし、揺れている細い肩を見下ろしていると、それでも小さな子供を見守るような可愛いなという気持ちが芽生えた。
「じゃあ、僕達は行くから・・・怖がらせてごめん」
不本意そうなアオとハルキの肩を何度も叩き、無理矢理出口へ向かわせる。二人は靴を履いたままだった。二時間も経たない前にエリさんのやられ方を目の当たりにさせられて、その時硬く握り締めた拳もそのままだった。鼻息荒く、怒りの矛先をどこにも持って行きようがない状態なのを見て、トモヤも可哀想な気がした。彼らの期待していたやり方は、目には目を。敵の店の有能キャストから潰し、使い物にならなくしていく、相手と同じやり方だっただろう。
「例えあの子に今痛い思いをさせても、向こうの本部にはそこまでの痛手じゃない。代わりの女は他にもごろごろ居るから。ハナとあの子の店はただの雇用契約で結ばれた仲だ。幹部はあの子の顔も本名も知らないだろう。他人同士なんだ。俺たちとエリさんのような血肉魂の濃い繋がりじゃない。同じやり方をしても意味が無い。それよりも、今日まで自分の店の看板にしてた子に翌日からこちらの傘下で働かれる方がよほど相手の面汚しになる」
小声で説得し、二人の腕を引っ張ってなんとか部屋を出て行こうと靴を履いたとき、
「もう決めました!」部屋の中からハナが急に声を上げた。「行かないで!もう今から一緒について行きます!・・・どうせ辞めるしかないなら、これから元のお店に戻ること自体が怖くなってきて・・・」
「は?」アオが小さく呟いた。
「そんな簡単に・・・寝返れるのかよ・・・」ハルキも驚いた顔で疑うようにハナを見た。ハナは決断した顔になっていた。
「そうだろうな。」トモヤだけは別に意外でもなかった。「どうせ働くならウチで働きたいよね。ウチだけが一流、他は三下だからね」
「お願いです。もう決めたのでこれから一緒について行って良いですよね?守って貰えるんですよね?」ハナは真剣と言うよりももはや必死だった。
「もちろんとしか言えないな。じゃ、おいで」
ハナはトモヤの隣に来てパンプスを履き、なんとなく本能的にアオとハルキに怯え距離を取りながら、トモヤにピッタリくっついて廊下を歩き出した。表の客用エレベーターは使わずカーテンで隠した従業員用通路の奥のエレベーターで一階まで降り、裏口から狭い路地に出た。
外の空気はジットリ湿り、地下の蒸れた下水の匂いがした。猫ぐらい太った鼠が物陰から飛び出してきて一行の足の横を駆け抜けた。それがあまりに素早くて、悲鳴も上げられずに、ハナがトモヤの腕を掴んでいた。
「アハハ」動じず歩き続けながらトモヤが笑い、仲間が驚いてまじまじと彼の顔を見た。
「帰りは僕の方が笑ってるな。予想以上にきみが賢明で結論を出すのが早く事がスムーズに運んで嬉しいんだ」
不安なのか、ハナは口数が少ない。「もしも」と言いかけて口を噤んだ。
「もしも?何?」
「もしも断ってたら?明日も今までと同じお店で働き続けてたら・・・あなた方は私に何かしてた?本当に?」
裏門の番人に頷いて、監視カメラに真正面からしっかり顔を見せ、四号店の敷地に入った。
「そんなこともう考える必要ないよね?」
しかし彼女はすぐにこの新たな雇用主の申し出を断った結果を目にすることになった。
真新しいチョコレート色の絨毯、端が欠けたりヒビが稲妻か蜘蛛の巣のように走ったりしてない鏡、大壺にふんだんに生けられたヒマワリ。廊下の隅で焚いている香が仄かに香る。新築の四号店は老舗のドリィガールとは違い空調も静かでカビの匂いなどしない。全てが真新しく、封を切り立て。汚れの入り込む余地もまだない。歩きながらいくつか質問しハナさんがこれまで店を一度も移った経験がなく大学を三年の夏で中退してからこれまでの店でずっと働いてきたこと等がトモヤ達には分った。今彼女の目に豪華な調度を配したウチの店がどんな風にキラキラと輝かしく写るかを横目にチラチラ観察し、トモヤはますます機嫌が良くなっていた。
しかし、事務室に入るなり重たいドアに遮られていた泣き声が廊下に溢れ出した。
「おいおい何事・・・?」衝立の影に声の主は居るようだ。衝立の影に入りきらず背中を向けた仲間達が、トモヤの声にサッと振り返った。皆、目付きが異様にギラついていた。そこでつい今さっきまで何かが行われていたことは空気感から伝わってきた。それに匂い。鉄っぽく生臭い血の匂い。
衝立を回り込むと、渡辺が拉致してきた少女が酷い有様になって床に横たわり、命乞いのような事をやっていた。殴られすぎ脳震盪でずっと真っ直ぐには頭を上げていられないようだ。大きく揺れるように項垂れたりまた顔を起こして渡辺を見上げたりを延々繰り返している。髪を掴んで引きずり回したのか頭皮が透けて見えるほど禿げてしまい、もとの長さの長い髪がみすぼらしく肩に落ちかかり、ところどころに生え残っている。薄いネグリジェは片方のストラップが千切れ肩も胸も露わになり、その下は下着も着けてない。靴もどこにも見当たらない。こちらから見える足の裏はボロボロ、脛も膝も尻も肉が裂け砂やゴミが付いている。靴を履く猶予も与えず引き摺って連れて来たのが分る。彼女が座り込んで抵抗しようとしても髪を掴んでなお引き摺り、それで脚が無茶苦茶になったのだろう。上体もどこにどんな傷口があるのか分らないほど肌はどこもかしこも血で濡れ光っていた。
「これどう言う事?」伸びている少女の体の向こう側、頭の方にいる渡辺に問いかけた。渡辺はこちらを見ずに大きく深呼吸した。
「この子が何したの?」
「・・・店は移れないと言って・・・」渡辺とは後から合流したはずのレンがブツブツ言い訳をした。
「俺等を見た途端キーキー声で叫びだして・・・」ヤマトもブツブツ喋りだした。
「それで?・・・で。・・・せめてお前等の気は晴れた?」
全員が気まずそうな顔になり俯いたり、トモヤの視線から逃げるように顔を背けた。
「女が暴れたら、そんな女うちには要らない、それだけのことだ。君らが殴って手を汚す価値もない。これで分ったろ・・・」
すみません・・・誰かが謝ると呪文のように皆が同じ文言をボソボソ謝りだした。済みません・・・済みません・・・
袖口が引っ張られ、気が立ってるせいで反射的に振り払ってしまった。見ると、背後に血の気の失せたハナが立っていた。今にも気を失いかけながら床の瀕死の少女を見詰めている。同じリストに名を連ねていた有名店の看板娘同士。本人達は知るよしもないが、彼女の所属する店ドリィガールに電話をかけたのがトモヤでなく渡辺だったら、今ここで死に瀕していたのは彼女の方だったのだ。
トモヤは他の皆にハナを見るよう顎をしゃくった。
「この子のこの顔を見ろ。ウチに来たらとにかく幸せになれると信じて来てくれたこの人に申し訳ない。本来ウチはこんな場所じゃないはずなんだ。謝るならこの子に謝って」
トモヤはイライラと髪を掻き上げ、小言を切り上げた。
「その子は傷が治って髪もある程度生え揃うまではウチから出せない。働けるようになったらリネン係の仕事でもさせるか。どうする?渡辺?きみが招いたやっかい事だ。全治するまで面倒見るか、僕に分らないよう速やかに処理してくれるか?・・・任せたよ」
改めてハナに向き直り、微笑みかけた。
「寮への通路を案内しますね」
続く




