目を覚ました鹿島君・ウラ君・タツちゃん
眼鏡を探して手探りする。これがもう何度目かに感じられる寝覚めの悪い目覚め。重たい泥を押し分け掻き分け沼から這い出すような・・・
まるで間違って埋葬されてしまった自分の墓から這い出す心地・・・
全身の骨、関節と言う関節がバキバキに凝り固まっていて、喉がヒリヒリ痛い。砂が詰まってるように喉が乾いている。水槽の底から見る世界みたいに目が見えない。眼鏡は?一体どこへ行ったんだろう・・・?俺の視力の全て、眼鏡は・・・?眼鏡のあるところに自分が居て自分が居るところには眼鏡はある、いつもそうだった、必ずいつもは・・・しかし・・・今は違う。おかしい・・・手探りの手がベッドの縁からズルッと滑り落ちる。
(なんだ?!ここは・・・?!こんな狭いベッドは・・・変だ・・・俺の肩幅しか幅が無い・・・!!自分のベッドではない・・・自宅のベッドじゃない・・・!)
頭の中、遠くで鳴り出した警鐘がすぐ、大きく間近でジリジリ鳴り響きだす。
(え・・・?ここはどこ・・・?えぇっ・・・?ダメだ、何も見えない!!全く何も思い出せない・・・!!)
見えないながらも必死に目を凝らし、寝かされている手術台のような狭い寝台の上でソロリと上体を持ち上げようとする。簡単には起き上がれない。頭蓋を持ち上げるとまるで中身の魂が追いついてこないかのようにクラクラ、フワフワ、視界がユラユラグラグラ揺れる。眩暈。ただそれだけではない・・・起き上がろうとするのを阻む違和感の正体に気付く。腹に太いベルトが巻かれ、ベッドにガッチリ固定されている。
(誰がこんなことを・・・何のために・・・?)普通に考えれば、この狭い診察台の上で不用意に患者が寝返りを打って床に転げ落ちないようにするためだろうが・・・
(いや、でも、ここは病院・・・?か・・・?)
両肘をつき、真剣に目を凝らして、自分の四方を取り巻く棚に飾られた一つ一つの品に的を絞り、見極めようとする。何かここに自分が連れてこられたヒントが無いかを探して・・・
腕と脚を胴体からバラバラに切り離された裸の少女の等身大人形、壺に刺さった首から上の綺麗な顔が、傾げた首で微笑みながら棚の上からこちらを見下ろしている。脚は蛇、腕は木の枝、髪に林檎の葉と赤い実が実る少女の剥製、太腿から脚が切断され性器を露わにした翼の生えた幼児、ブリッジした格好で汽車を橋渡しする両手両足を山に釘付けにされた巨人の裸婦像、・・・この部屋は醜美折り混ざった奇怪な模型やら組み合わされた剥製やら精巧な作り物の薄ら怖い人形の宝庫だ・・・眼鏡が無くて、どこまでが作り物でどこから本物かが判別が付かないが・・・本物の人体の一部も混ぜ込まれ使われているのでは無いのか・・・?見抜けない・・・まるで宇野亜喜良の灰汁を煮詰めた世界観・・・
一旦目を閉じる・・・現実逃避・・・これが悪夢だと信じたい・・・
(落ち着け・・・、落ち着け・・・、)
しかし身に迫る危険の近さから、すぐに目が勝手に開く。今度はすぐ間近、自分が縛り付けられている寝台のすぐ脇の銀盆に目がいく・・・
並べられた裁ち鋏に糸切り鋏、大小中刃渡りの違う専門的なナイフ、小型鋸に小型とは言えない鋸、それからコードが床のコンセントに繋がって後はスイッチを入れるだけで動き出す準備万端の赤いランプを点した溶接器具・・・それらが、整然と、刃先をこちらに向け、揃えられてズラリ並べられている。いかにもこれから手術を開始しようと言うように・・・まるでいかれた闇医者がさぁこれから人体実験を始めようとしかけたところで、今ちょっと用を足しに席を外した瞬間、と言う感じ。そしてその間に麻酔が切れ手術台の上で目を覚ました・・・この僕・・・
(逃げなければ!!直ちに!!)
ベルトの留め金を死に物狂いで手探りする。
(俺を解体する気だ!!ここがどんな場所か、何故自分がこんな所で目を覚ましたのか訳が分からないが、それは後で探ろう、とにかく今は一にも二にも逃げろ!!!!ここの住人はいかれた解剖狂い、改造キチガイに違いない!!)
しかしベルトの留め具はベッドの裏側にあるらしく、そこまで手が届かない。下手をするとベッドに繋がれたままひっくり返ってしまう・・・
(いや、むしろそれで良いのでは?!)ベッドごとひっくり返ってベッドを背負ったままで這いずってでも逃げよう、余裕があるなら壁に背中をぶっつけ、ベッドを破壊して・・・
しかし思い描く通りには上手くいかないだろう、ひっくり返った亀よろしく、ベッドを背負って床に突っ伏し手足をバタバタさせるだけになるのが落ちだ・・・
わざとベッドごとひっくり返ろうとして、ひっくり返れそうになった瞬間、悪い顛末の予想がサッと脳裏を過った。
(やめだやめだ、落ち着け、・・・落ち着け・・・、他に何か良い案は無いか・・・?)
どこか下の方の同じ建物内で、カランコロンとドアベルが鳴るような音が響いた。あるいは、猫でも飼われてるのか?ここの家の飼い猫の首輪の鈴が鳴った?
(いや、猫だろうか・・・?果たして・・・?ここの住人が飼いたがるようなペットだ、・・・鷲の翼を移植された大蛇が飛んできたっておかしくはないぞ・・・)
鹿島君は脂汗で滑る手でベッドの縁を握り締め、上か下か、どっちでも良いからベルトから体を抜け出せないか、グイグイ藻掻いて力尽くで暴れ始めた。不意に、すぐ隣に気配を感じた。銀盆の脇、鹿島君の頭側の上、すぐそば・・・首を巡らせて見上げると、
「うわっ!!!!」
可愛らしい顔立ちの若い男が立っていた。
ずうっとさっきからすぐ傍に立っていたらしい。無言で。
頬の線の丸い目の円らな優しげな造形の顔立ちに似合わず、表情は陰鬱で薄ら怖い。囚われの裸の自分を見下ろすその目付き、人を平気で殺しそうな無感情な目だ。体温を感じさせない。まるでこの男こそ模型か剥製のよう。しかし、生身の生きた人間だ。
さらに見ると、手には大きな鋏を握り締めている。さっきからベルトから逃げよう逃げようと藻掻いている男を見下ろしながら助けなかった意味とは・・・
鹿島君は言葉も無く、藻掻くのも虚しくもう一度男の目を見上げた。カラカラに乾いた口を開く。カサカサの声が出る。
「・・・ここはどこです?」
「僕の書斎だよ」
「貴方は誰ですか?」
「こっちが聞きたいね、キミは誰だ?」
「いや、・・・いやいや・・・貴方がここに私を連れて来たんでしょう?」
「いいや」
「じゃあ誰が・・・?!」
「きみは運ばれて来た」
「誰に?」
「セリナだ」
「誰です?」
「セリナ」
「そんな人知りませんよ!!」恐怖のあまり鹿島君は腹立ちさえ覚えた。「そんな横文字の名前の知り合いなんていない!!僕は人違いだ!!これは違法な行為ですよ!!あんたが誰でセリナって奴も誰なんだかさっぱり知らないが、あなた方は攫うべき人間を間違えて攫ってきたんだ!!僕には改造されるいわれは無い!!とにかくその物騒な刃渡りの長い刃物を置いて、このベルトを切って下さい!!」
「とぼけるな!知り合いだろ!?セリナと!」
「知りませんって!僕は・・・一介の勤め人だ!!こんなホラー映画の撮影現場みたいな異空間に放り込まれる覚えは何も無い!!ただ・・・僕は・・・」
鹿島君は脳を振り絞って最後に記憶のリボンの端を手放したその端をもう一度握り直そうと、やってみた。それは風に吹き飛ばされる寸前の風船に繋がれた紐のように、もうちょっとで手が届きそうな場所でヒラヒラと彼を嘲笑ってるようだった。
「そうだ・・・車に乗っていた・・・夜だった・・・深夜・・・喧嘩したんだ・・・人妻と・・・」
「商売女じゃ無く?」
「人妻だ!!」
「本当か?人妻というのがコンセプトの店の・・・」
「違う!!ええい!!外せ外せ変態!!このベルトを外せ!!何故俺は女物のネグリジェを腰に巻かれてる?!これはお前の趣味か?!俺の股間に何をした?!」
「クソッ!もう一度静脈注射で眠らせてから意識が無いうちにベルトを外して河川敷にでも捨ててやろうか・・・?それにしても人目に付かない夜までは待たなきゃならない・・・!こっちだってお前のような正体不明の暴れるお荷物を背負い込まされて良い迷惑だ。ベルトを外してお前が俺に飛びかかってこないという保証がどこにある?」
「俺がお前に襲いかかるどんな動機があるって言うんだよ?!」
「知らないさ。そんなこと。分るわけがない」
「・・・」
「・・・」
両者睨み合ったまま、しばし時が経過した。力なく、所在なげにウラ君が持っていた鋏を銀盆にガチャンと放り投げて戻し、キャスターを滑らせてアルミ台ごと盆をベッドから遠ざけた。それから、しばらくして、鹿島君がクシャミをし、洟を啜り上げた。
「・・・寒いか・・・?」ウラ君が戸棚の向こう側へ消え、毛布を手にまた鹿島君の視界圏内に戻ってきた。毛布を体にかけてくれる。
「ただベルトを外してくれるだけで良いのに・・・それでもし良ければ何か着る物を借りられたら、僕はただ真っ直ぐ家に帰りますよ。自分の家に・・・貸してくれた服はまた返しにも来ます。お礼も持って・・・」
「帰り道は分るのか?」
「分るかどうかも分らない。まず外へ出てみなければ・・・ここはどこです?」
「教えられない。夜になったら目隠しをして車に乗せて駅の傍まで運んでやるから、それまで大人しくしてろ」
「何故今じゃダメなんです?」
「外が明るいからだ。お前に暴れられたら困る。」
「困るのはこの違法行為だ!・・・これは拉致監禁だぞ!」
「正当防衛だ」
「どこが・・・」あまりの理不尽な言い草に鹿島君はもはや笑えてさえ来た。
「アハハ、面白いことを言いますね、おたく・・・これのどこに正当防衛が成り立つって言うんです?ハハ、クソ面白い・・・」
プ、とウラ君も笑いが込み上げてきた。
(まぁ、確かに、)と自分でも思ってしまったのである。
身に染み付いた昔の名残で、患者が暴れて逃げ出したりラリっていて襲いかかってきたりしないようまずはしっかりとベッドに固定する習慣が咄嗟にさっきも出ていたらしい。
店前でセリナとタツの居なくなった方向を眺めるのにも飽きて、アルバイトの子が店に戻った後、自分も二階の自室に上がって来た。
(さてこいつをどうしたもんか)と思案しながら、診察台の周りを一回りし、それから悩みがあるときの習性で、闇医者の助手をしていて師匠でもある医者の手術を成功させた記念に譲り受けた器械セットを磨き始めた。
確かに、さっきこいつが言ったようなことが、脳裏にチラとも浮かばなかったかと問われれば、・・・そら、浮かんだ・・・
(セリナは知らないだろう、セリナには言わなかったし、彼女には見せなかった一面が自分にはある。人が傷付いたり死んだりするのは悲しい。辛い。人として当然の心の動き。共感する心、それが人一倍強いと思われがちだった、自分は・・・ウラ君は自分でもそれは認める。傷付いた生き物を放っておけない自分の癖・・・
しかし、可哀想に死にゆく定めの生き物を解剖しどう生きていたか詳しく解き明かしたい、生命の神秘に触れたい、探究心も同じウラ君の胸には宿っていた。もうどうせ救えない命ならば、どう頑張っても死んでしまった蘇らない生暖かい死骸を前にすると、この悲しみを活かし何とか次には救えるよう健康でまだまだ使える臓器は保存しておき別の誰かの人命救助に繋げたい、自分の腕の足り無さを痛感すれば、今度こそは同じ事態に直面したとき次の人こそは救いたい、そのために自分の腕を上げておきたい、と思う気持ちからくる・・・解剖・・・もっと進んで、さらには、改造もやぶさかでは無い・・・もともと法律外で執刀している闇医者の身・・・そもそもから法に触れるかどうかを気にかけてなどいない・・・
・・・子供の頃から生き物の継ぎ接ぎには興味があった・・・
例えば・・・すぐ手に入る身近な小生物から・・・幼虫や蛹の間に怪我をしていて翅が上手く開かなかった蝶の胴体にトンボの翅を植え付けるとどうなる?蛹から出て来たての蝶はまだ生きたいだろうに、そのままではすぐに捕食者に捕まって食われてしまう。蟻も食べずに捨てているトンボの翅を拾って植え付ければ少しでも風に乗り空を舞って寿命を延ばせるのでは無いか・・・?・・・あるいは・・・翼を痛めもはや飛べないコマドリに死んだヤマガラの翼を移植するとどうなる・・・?・・・ヤドリギは天然に他の樹木に寄生して茂る・・・ヤドリギではなくても、高い木の洞や葉屑が溜まった枝枝の股で、別の若木が青々と茂っているのも森ではまま見かける・・・これを人工的に人間同士で行えば・・・別の人間の頭を両肩に乗せた人間・・・話し相手に困らないでは無いか・・・
・・・単純に、この得体の知れない男をバラバラにすれば夜までも待たずに処分できるだろう、その分早くベッドが空き、仕事が進められると言うものだ・・・と言う心理も無いことも無かった。自分とこの男には接点が全く無い。ああ見えてなかなか賢いセリナやタツが足の付くようなやり方をしてることも無いだろう、口も割らないだろう、警察の捜査も一朝一夕にここまで及ぶまい・・・)
しかし話してみると話し相手にはなる。昨日この手術台を空けるために急ぎで仕事を片付けたせいで、焦って仕上げなければならない依頼も無い。
「じゃあ聞くけどさ、」ウラ君は椅子を引き寄せベッドの傍に座った。「お前の記憶の最後に一緒に居たと言うその愛人、人妻って、名前は?」
(由貴、)鹿島君は心の中ですぐ答えた。
俺の付き合いがある女は全員ユキって名なんだよ、これだけは忘れようとしたって忘れられない・・・と頭の中では答えたが、口に出してはこう言った。
「誰があんたに教えるか。あんたは立派な犯罪者なんだ。この状況を見てみろ!次に僕の大切な人にまで危害を及ばせるわけにはいかない」
「名前を聞いてみただけだよ・・・」
ここで鹿島君がユキの名を口に出していれば、ウラ君には彼が誰なのかを推測する手がかりにはなったかも知れない。しかし鹿島君とユキが出会ったのはウラ君とユキが別れてから後の話だし、セリナがユキの名を名乗り始めるのよりももっと以前の事しかウラ君は知らないわけである。
また、鹿島君からしてみれば、ユキを捜し回っていたのはもう十何年以上も前の遠い過去、記憶からも削除して今は自分はただの会社勤めの一般人、闇社会とは何の繋がりも接点も無い退屈で平和平凡な中年男のつもりだった。
結局、事故によって一時的に再び交錯した鹿島君とユキの運命はまたバラバラに解け、それぞれの接することが無い日常に戻ったのである。
「何故こんな目に遭わなくちゃいけないんだ・・・?僕は何もしてないのに・・・」
頭を掻き毟りたくてもそれも夜までは叶わない混乱した可哀想な一般人、鹿島君を見ていて、ちょっとウラ君も気の毒な気もしてきた。
「ごめん、事情は僕も知らない・・・」
「・・・僕を貴方に押し付けたそのセリナって女は、じゃあ逆に聞くが、貴方にとってどんな女なんです?」
鹿島君は溜息交じりに、この状況に甘んじて穏やかな声を出した。
「元恋人・・・いや、幼なじみと言った方が良いかな・・・相手は僕に恋という感情は抱いてなかったのかも知れない。僕は親代わり、兄のかわりのような存在だったのかも・・・あの子にとっては・・・」
「その人は今は何をしてるんです?職業は?貴方と付き合っていた当時と変わらない?」
「娼婦だよ。幼なじみだが、僕と付き合う前からずうっとそうだった・・・僕と付き合ってる間も、今でも。あの子は生まれついての娼婦。彼女の母親も、またその母親もそうだったんじゃ無いかな、それ以外の生きる道を知らない。生粋の商売女だ・・・」
鹿島君はドキンとした。自分にも身に覚えのある痛みがズキッと体を駆け抜けた。と同時に、閃くようにユキを想い、彼女を思い出しただけで、下腹にジワッと血が集まり始める気配を察知した。
「・・・そこに座って長話するつもりなら水を一杯くれよ」
「あ、悪かった。気が付かなくて・・・」
手術台に縛り付けられたまま、立ち上がって水を持って来てくれに出て行く男の背中を見送り、(あいつも悲しい男だな・・・)と鹿島君は俄然ウラ君に対する同情心、共感が芽生えだした。
(過去にも付き合ってるのか付き合ってなかったのかも分らない娼婦に、面倒ごとだけ持ち込まれ・・・ユキの事では僕も散散な目に遭わされた・・・入試に受かっていた大学に入学せず、内定が決まってもすっぽかして・・・親や親同然に面倒見てくれてた大人な人達に勘当されたり呆れられたり・・・あの子に振り回されただけ自分も周りの人達を振り回し、約束も反故にし信用を落とした・・・加速し続ける竜巻みたいなあの子に付いていくのに必死で、当時は自分の滅茶苦茶にも気付いてなかった・・・人生初期の番狂わせ。・・・あの男も、僕と同じような経験者か・・・)
グレーの白衣を着た男が居ない間にまた手探りでベルトを調べてみたが、やはり留め具には手が届かなかった。男はすぐ戻ってきた。
「水だよ」
「どうも」
ストローに挿したコップで人の手から水を飲む行為が、鹿島君に何かを思い出させかけたが、ちゃんと思い出せる前にウラ君がまた質問を重ねた。
「きみの名前は?」
「そっちから名乗って欲しいね」
「僕は・・・三浦」
「・・・鹿島。生憎名刺交換はできない。カードケースを胸ポケットにいつも入れてるんだが、胸ポケットが・・・」鹿島君ははだけた自分の胸を見下ろし「見当たらなくてさ」
苦笑いして三浦が空になったコップの底を覗いた。
「もう一杯水持ってこようか?」
「いい。このベルトを外して小便に行かせてくれるなら何杯でも飲むけど」
「やめておこう」
「だよな・・・」
「ちょっと話をしようよ」
「ハハ、よほど寂しいんだね、三浦君。女のかわりにはなれないが話すだけなら僕が相手してあげよう。外が暗くなるまでは僕もきみと同じ、寝るか喋るかしかする事が無い退屈な身のようだから・・・寝るのはもう充分眠った気がするしな・・・」最大限の皮肉を込めてベルトを睨み、三浦を睨み、ベルトを睨む。「サッサとこれを外してくれたら今日というこの始まったばかりの丸一日を有効に使えるんだぜ?俺たち」
「いや、それは断る。」
「そうかよ。人を疑っても良いことばかりじゃないよ?今ならまだ僕にはキミに襲いかかる動機が無い。今すぐにこの拘束を解いてくれるならな。でも、これを夕方まで続けられたら、僕にはキミに仕返しをする立派な動機が出来上がってる。この不自由を無理矢理長時間強要されるんだからな!」
これから丸一日縛られていてそれから解放されるにしても変な薬か何かで無理に眠らされてからだと考えると不安で嫌でまたムカムカと腹が立って来て、鹿島君はウラ君の見ている前でも全力を振り絞って悪足掻きし、動かせる範囲の限界まで手足、肩、腰、膝、動かせる全部を揺さ振ってみた。ガタンガタン!ガタンガタン!とベッドが鳴り、床が揺れた。
ウラ君が慌てて鹿島君の胸と寝台とを押さえ、(シーッ、シーッ、消耗するだけだよ、)と囁きながら我慢強く更に押さえ続けた。やがてゼエゼエ荒い息を吐き、酸欠を起こして鹿島君も手術台をガタンガタン揺すって足掻くのをやめた。
「威勢が良いね・・・それだけ運動すれば多分またよく眠れるよ」
「ベルトを外してくれる気は起こらない?」
ウラ君は首を横に振った。
「・・・まぁいいや・・・じゃあ・・・何の話をする?」
三浦君はジッと鹿島君の顔を見詰めた。眉は黒々と太く顎がガッチリしていて鼻筋はスッと高く通り眼光鋭い。なかなか男らしい凜々しい顔立ちをしている。ただ髭の生え方がちょっとおかしい。
この男には、まだセリナについて聞きたいことは山のようにあるのだが、セリナの名でこの男は彼女を思い浮かべられないらしい。ではどう聞けば良いのか?セリナもよく源氏名を変える遊女だし、・・・それに、もしかするとこの男、セリナの方では思い入れがあっても、この男にしてみれば一度電話で呼んだだけの風俗嬢でしか無いのかも知れない・・・一度会っただけの商売女、もしかするとまだ会ってもなかったのかも・・・その前に何か揉め事が起こったのだとしたら、・・・セリナについて何も知らないのも頷ける。
「じゃあ、やっぱり僕は、きみのその人妻の彼女の話を聞きたいな・・・」
「嫌だね」喰い気味で拒否された。「こっちこそ、きみの女性関係について聞こうじゃないか。どうせろくな恋人も奥さんも居ないんだろ?そうじゃなきゃこの不気味な趣味には没頭できないと思うな。まともな女性ならこんな・・・悪趣味なんだか美しいんだか悪趣味なんだか、訳が分からないようなコレクション家に置いておきたがらない。どうだ?僕の推理は?遠からず外れてもないだろう?」
ウラ君が否定する言葉を見付けられずにいるうちに、鹿島君は自分の解釈に頷いた。「日当たりの良い外に出て彼女を作れよ、それか金を払って発散しろ」
「女性はもう沢山・・・」
「そうかな?この部屋には少女像が溢れかえってるぞ。噎せそうなほど。壁中、縛られてるのやら折檻の最中みたいなやつやら、木に寄生されたのやら動物に食い殺されながら悦んでる絵や・・・本当は女性を求めているのに認められず欲求を押し込めてる裏返しだろ、歪んでるよ・・・」
「これは僕の趣味じゃ無い・・・」
「じゃあ誰の趣味だと言うんだ?この部屋は三浦君、キミの書斎なんだろ」
「仕事だよ。依頼主が引き取りに来ないフィギュアを棚に並べてるだけだ・・・」
「捨ててしまえ。期限を決めて。こんな物を大事そうに溜めてるから生身の女性を部屋に連れ込めなくなるんだ」
なるほど!三浦君は目から鱗が落ちた気がした。鹿島君の言うとおり!薄々とは、自分でも気付いていたかも知れなかったが、他人にこうビシッと指摘されると、やはり核心を突かれた気がしてしまう。
「やっぱりそうかな・・・」
「この部屋は籠もった脂っこい匂いがする。女の香りがしない。温もりが無い。奇態な少女像はこんなにもいっぱい溢れかえってるのに。違和感だらけだ。何故全部の窓に黒いシートを張ってる?」
「この部屋は窓が多くて日当たりが良すぎるから・・・預かり物の人形の肌が焼けて劣化しないように・・・」
「生身の人間の女性の肌に触れなよ・・・血の通った温かい肌に・・・冬は氷のような冷たい指先をしてても、暖め合えば火のように熱くなる細い指を握ってやれよ・・・日焼け止めクリームを塗ったり、シミ取りにどこのクリニックに行こうかとか姦しく相談してくる女の子の生きた肌に触れて・・・きみ自身も生き返れ。実際、ここへ女性を連れ込んだのは一番最近でいつなの?」
「いつだったかなぁ、」ウラ君は首を捻った。「考えてみると、そうだ、ここへそう言う目的で女性を呼んだことは一度も無いかな、この家には姉や母も住んでるから。催したときは僕は自分が出掛けていく方だったから・・・」
「じゃあ一番最後に出掛けて行って女性に触れたのはいつ?」
「四、五年前かな・・・その頃から急に仕事が忙しくなりだして・・・多分コロナの影響か・・・」
「仕事で触る人形の女の子と人間の女の子は別だよ?全くの別物だよ?キミの影が薄いのは人形に丹精込めすぎて自分の魂を注ぎ込んで生命力を吸い取られてるからだ。」
「そんなことは・・・」
「その証拠に、生きてて楽しいとこの四、五年で思ったか?」
「う~ん・・・確かに・・・それは、でも・・・仕上がりが上手くいけば(やった)とは思うよ・・・達成感とか、自分の腕が磨かれていく感覚とか・・・」
「貴方が居てくれないと困ると人間の女の子に耳元で囁かれたか?きみ自体の存在を必要としてる血縁以外の存在は?」
「いや・・・そんな人は・・・僕には・・・」
「そんな人を作れよ。キミの仕事の腕前は一見して素晴らしいのは分る。ド素人の僕にでさえ。あの半分白骨化しかかってるのにもう片側は生きてるみたいな少女像、」鹿島君は所狭しと置かれた一つの像に首を振り向けた。「半分だけはどう見ても本当に生きてるみたいだ、目が訴えかけてくるようだ、凄い技術だよ」
「あ・・・ありがとう・・・」
「ただ、キミが歪んでるのもよく分かる。孤独でなければこんなに微細な部分にまで打ち込めない。三浦君、キミは手先は器用だが、生き方が異常に不器用だ。確かに髪から林檎を実らせる少女はなかなかこの世に現れてこないかもしれない、この人形群はキミがいなければ生み出されなかっただろう。が、キミのような見栄えも悪くない若者を愛そうという生きた女性はきっと大勢いるはずだ。三浦君が自身をこの暗い部屋に閉じ籠もらせる原因は何だ?その昔の風俗嬢か?もういい加減忘れて別の女を見付けに出掛けなよ、外へ」
かつて自分が言われたのと同じ台詞を鹿島君はいつの間にか熱弁していた。
「女の嫌な記憶は別の女が塗り替えてくれるもんだよ」
ウラ君は自分が修復した人形、絵画を、改めてグルリと見渡した。薄らとは感じていたが、部屋中の少女像のどれもがやはりセリナに通じていた。修復を依頼された像の指が欠けていれば、セリナの爪の形、スラッとした指を作って付けた。絵画の鼻の絵の具がヒビ割れていたら、そこにセリナの鼻を描いた。俯せた背中も、こちらを向いてない横顔も・・・
復元を依頼された物では無い、デザインから彩色までを全部自分一人で手掛けた少女の特別なフィギュアを手に取る。
これは完全なセリナの12歳のミニチュアだった。ウラ君の頭の中にあるイメージ、一瞬にして永遠に焼き付いた光景を、丁寧に頭の外に出し、立体で具現化した結晶。
二人で乞食をしていた頃、教会で、お祈りをしたらお菓子を貰えると聞いて、手を合わせて神様にお願いした。よく分かっていないながらも小さいセリナも周りの人々のやってることを見よう見真似で、静かに目を閉じ、指を組み合わせて握った両手を唇に当てて、ウラ君の隣でお祈りした。横目で盗み見ながら、(この子は何を祈るんだろう)と想像した。
(この子が幸せになれますように)と自分も祈った。
あの可愛さ、静かさ、あの時隣にいた自分、葛藤も情愛ももはや戻らぬ時の全てがこのフィギュアに集約されている。
「過去に生きると今を生きられないよ」
ハッとするようなことを鹿島が言った。
鹿島君は、今はとにかく縛られていて手足が動かせない分、動かせる口だけを我武者羅に動かし、何とかウラ君を誘導することによって自分の身をベルトの外へ抜け出させることができないか、やってみれるだけやってみているだけ、その中で、無意識にとにかく喋ってるうちに、セリナが言伝に別の風俗嬢達を使って彼に吹き込んだのと同じ台詞を知らず知らず喋っていた。それが、ウラ君にもどこかで聞いた覚えのある台詞でもあった。母からも姉からも、知り合ったけども深い仲にまでは至らなかったこれまでの女性客達からも・・・
「女性の傷を癒やせるのは女性だけ・・・」
必要とするから喪失が痛む、それでも必要としてしまう・・・
「どこへ行ったら良い?・・・」とウラ君。そっ、とフィギュアをガラス戸棚に戻し、鹿島君に聞いてみる。
「まずは外へ出る事だ」今はアプリに登録してマッチングしてとかが主流みたいだけれど、それでは時間がかかりすぎる。鹿島君は今すぐにこの拘束を解いて欲しいのである。「素人の女性にいきなり声をかけるのはキミには難題そうだから、やっぱりまずは金を払って相手して貰える店が良いんじゃないか」
「良いお店知ってる?」
「知ってるよ。昔かなり調べて回った時期があるから・・・顔合わせ、お喋りからゆっくりスタートさせる焦れったいのが好みか、手っ取り早いのが良ければ有名どころは一つだよね」
「お城?」
ウラ君がちょっと視線を投げた方向で、城の建つ丘の方角が鹿島君には分った。この街の近隣のどの住宅の窓からも、大体"城”は見える。景観が良いので大概の建物が設計の段階で城を望むように窓を配置するのだ。
「知ってるじゃないか・・・」僕はあそこだけは二度と行かないけれど、と鹿島君は苦笑した。「初心者入門編から応用編まで、あの城一つで完結する。今じゃあ、全く関係無い他店のフリして小さい系列店もそこら中に散らばってるらしいよ、この街中・・・」
「そのようだね・・・」これは客としてしか知らないはずの鹿島君にまで情報が出回ってるらしいぞと驚いて、ウラ君も頷いた。「最近、経営者同士が手を組んだらしいから・・・」
「まぁ、一般客には関係のない話さ」と鹿島君。「ただルールに則ってキチンと遊んでいれば・・・受けられるサービスだけ受けて金を払って規定時間通りに帰れば、・・・こんなことにはならないはずだ・・・」鹿島君はさも不思議そうに今気付いたかのような目をして腹の上のベルトに視線を投げかけた。それから、ウラ君の顔を見て、目を細め、大げさに首を傾げた。
「キミ、三浦君って、・・・もしかしてその筋の人?“城”か・・・“楽園”か・・・その手の家業に噛んでる・・・?」
「いいや、知らないよ、僕は。何も・・・」
鹿島君にジロジロ顔を下から覗き込まれ、動けるウラ君はボソボソと「ちょっと・・・あっち行って仕事をしてこよう・・・」と言い訳して箪笥で仕切られた隣室に逃げ出した。
一人にされた鹿島君は目を閉じて呼吸を整え、しばし考えた。
(必死になってユキを捜し回ってたのはもう十何年も前のこと・・・あの時も今のようにベッドに縛り付けられた経験があるが、その時に付けられた傷ももう糸のような薄い白線となって前髪の影に残るばかり・・・自分だけでなく心配してくれる雪の身までが危険に晒されたことでやっとあの時は目が覚めた。ユキを捜し回り裏社会の闇を嗅ぎ回るのはもうやめよう、この子と太陽の下を正々堂々と歩もうと・・・雪も自分と一緒になれば足を洗うと約束してくれた・・・それが・・・こんなにも何年も経ってから・・・
・・・雪が死に、更にそれからも何年も経つのに、最近また由貴や自分の周りでキナ臭い事変が起こっている・・・
・・・ユキ・・・いい加減にしろよ・・・身勝手にもほどがある。もしもこの一連の出来事全てがきみにまつわる陰謀か何かなのだとしたら・・・一体何をどうしようと言うんだ・・・?この何も持たない俺を今更煩わせて何になる・・・?・・・まぁ僕にだけならまだ良いが・・・言いたい事とか頼みたい事があるならハッキリ直接僕だけに言いに来いよ・・・姿を現して・・・僕の周りの女性達に危害を加えないでくれ・・・)
それから想いはフラフラと由貴に向かった。
(由貴・・・きみが何かユキに接触するようなことでもしたのか・・・?闇の女王の気に障る動きでもしたのか・・・?彼女もまた僕の元から去ろうとしている。自ら命を絶った雪とは別の方法で、腹に命を宿すという真逆のやり方で・・・あれはおそらく僕の子ではないが、もしかすると旦那の子供でもないのだろうか?彼女も肉体の欲望、疼き、魂の寂しさに凍え懊悩する女、電話で人肌の温もりを依頼できたら、金で優しさを買えたらと、そんな話も繰り返ししていた・・・出張ホストでも頼んで何かやらかしてしまったのか・・・?
それとも・・・もしや彼女の夫がミスでもしたのか?金で買った女に金では償えないような傷を負わせたとか・・・?その代償を妻が払わされようとしてるとか・・・?)
目を開ける。眼鏡がなくて何も見えない目で、この部屋の澱んだ空気、愛憎執着で嘔吐きそうな歪んだ空間、醜美混在の混沌として静謐なカオスを睨む。
隣の部屋からは三浦がパソコンを立ち上げ何やらキーボードを叩く音がし始めた・・・
(ええい、考えていたって無駄だ!もはや、またも、僕は失う物がない身!今ここで殺すなら殺せ!!)
ガタンガタンガタンガタン!!!!あらん限り力を込めて三度ベッドごと、縛り付けられた体を凄まじく揺すった。血管がブチ切れて脳梗塞を起こし今ここでくたばっても良し、誰も気にしないさと、眉間に青筋を立て、締め付けられたベルトの革が当たる皮膚がうっ血しても構わず・・・
ガタンガタンガタンガタン!!!!
「おいおいおいおい、やめろって・・・!」ウラ君が飛び込んできて、唸り声を上げる鹿島君の口の中にタオルをギュウギュウ詰め込んだ。それでもガタンガタンが止まらない。大柄な男が命懸けで小さなステンレス製の古い手術台をガチャガチャ揺するので、ベッドの脚が床を引っ掻き、弾み、古い建築の棟内に激しい振動が伝わり、喉の奥からの地鳴りのような唸りは轟いた。必死に体重をかけベッドを押さえるも、4本の脚がガチャンガチャン鳴るのをゼロには出来ない。
「地震・・・?」三階で母親が何事か小さく叫ぶのをウラ君の耳が聞き取った。
「何事・・・?」一階ではアルバイトと買い物客達がハッと商談をやめて天井を見上げる気配が察せられた。
「おい、静かにしろ!殺すぞ!!」ウラ君は慣れない脅し文句を口にしてみた。自分の声が酷く震えてるのに自分でも気付いた。鹿島はガタンガタンをやめない。死ぬまでやめないと額の青筋が物語っている。
「やめろ!頼むから!!分った分った落ち着けって!!ベルトを外してやるから!!やめてくれ!!!!」
鹿島はギロリと睨むと、目に入る汗をブルッと首を振って飛ばし、一際大きく一声唸って、動きを止めた。まるで捕獲させてやろうと決めた野生の暴れ狼のように。
「言ったぞ!今すぐやれよ!このベルトを外せ!!!!」
まず口からタオルを出してやった途端に、鹿島が吠えた。
「約束しろ、ベルトを外しても家族に危害を加えないと・・・」
「お前がすぐに約束を守ったらな!」
ベルトを外してやると、ドッと鹿島は手術台の向こう側へ降り立った。そして台を挟んでこちらを向いた。まるで赤鬼。ギラギラ睨む目は怒りの炎に揺らめき、憤怒で肩から蒸気が上がり、筋肉が隆起して、腰に巻かれた女物の薄物がハラリと落ちかかった。パッと手で床に落ちる寸前に薄物を腰に巻き直す相手の間合いに、我知らず、ウラ君も傍にあった銀盆から鋏を取って握り締めていた。丸腰同士では体格差で明らかに自分に分が悪い。
ドンドンと部屋のドアを叩く音、
「ジロー!ちょっとジロー!!今のは何の音?開けなさい!中で何してるの?!」
母の声。鹿島と二人、黙って睨み合いながら息を潜め耳を澄ませていると、扉の外で誰かと相談する声がし始めた。三階から母が、一階から客とアルバイトが様子を見にドアの外へ集まって来たようだ。普段は閉めないドアを閉め鍵まで掛けてることでただ事では無い何かが中で起きていると悟らせてしまった。
「ジロー!ドアを開けなさい!ジロー?」
(鹿島に俺のフルネームがバレちゃったな・・・)と思いながらウラ君は鹿島の目を見た。
「どうしよう、こうなったらもうお前には早く出て行って貰いたいが・・・」
「同感だ」鹿島は協力的に、クルリと背を向け窓を確認しにドスドス足音荒く窓辺に近寄り、ガラスに貼られていた黒いビニールを破り取った。「二階か。この高さなら飛び降りられる」
ガラガラッと勝手に窓を開け出す。
「その格好で出て行かないでよ!ご近所に僕がどう思われるか!」
逞しい真っ裸の男に窓から遁走され、腰にヒラヒラ女物のシルクを靡かせて裸足で走って逃げて行かれた日には、仮にも目抜き通りから1本奥のお洒落路地裏との異名をとるこの雑誌にもよく小さく品良く取り上げられる界隈で、裏伝説となり語り継がれてしまうだろう。
(やっぱりね・・・)
(あそこのお宅の二階で引き籠もってる根暗な息子・・・)
(気持ち悪い淫靡な人形ばっかり作ってるって言う・・・)
(聞きました?・・・髭面の中年男に女装させて監禁してたんですって・・・)
(まぁああああ!!変ッ態ッ・・・!!)
(やっぱりね~!!)
(ねぇぇええ!!!!)
それこそ嫁の来手が無くなる!まだ囁かれてない自分の中傷がガンガン響くように脳内を駆け巡り、ゾッと青ざめながら、早くも半分窓の外へ出かかっている鹿島の毛むくじゃらの脚を引っ張って室内に二人して尻餅を付いた。起き上がりながら必死に頼んだ。
「服を貸してやるよ!早まるな!自分だってさっきは服貸してって言ってたのに!」
「ああ、そうだった、じゃあ着る物を貸してよ、早く!」
二階のドアの外では「警察・・・」と言う単語を誰か(アルバイトか客か)が口にし出したのが室内の二人にも聞き取れた。
「急げ!」「きみが急げ!」「そっちだって急いで早くこれを着ろ!!」「ズボンは二つも要らん!新品のパンツを寄越せ!」「今新品は無いんだよ!!切らしてて・・・ワガママ言うな!それだって洗濯したてだよ!」「嫌だ!どこかに一枚くらい新品のパンツあるはずだろ!!」鹿島君がウラ君の箪笥の下着が入ってる段を引っかき回した。「やめろやめろ!!お前は泊まりに来た俺の親友かよ!!」「違う!!身ぐるみ剥がされて拉致監禁されてた男だ!!良いから新品のパンツを寄越せ!!」「無い物は出せないな、ある物で我慢するかブラブラさせて行って貰うかだ」
鹿島君はジッと人を殺しそうな目でウラ君を見やった後、口をへの字に曲げて手に持たされたパンツを履いた。
(あぁ履くんだぁ俺のパンツ・・・)とウラ君は笑い出しそうになりかけた。
「ボヤッとしてないで上に着る物も寄越せや」
鹿島君はウラ君が最近ネットオークションで競り落としたばかりのお気に入りのビンテージ革ジャンを勝手に羽織った。
「それは返してよ!」
「返せとは?また俺にここへ来いと言うのか?」
「いや・・・」
鹿島君はズカズカ歩き回り、部屋中の窓ガラスから黒ビニールを毟り取って、一番飛び降りやすそうな逃走経路を探した。そのとき出窓の上に隙間無く飾られていたウラ君の作品群は薙ぎ倒され、肘の一振りで床にガシャガシャ転がされ、ウラ君の靴を履いた鹿島君の足に無造作に踏み潰された。人が命を懸けて大切にしてる物も他者から見ればゴミなのだ。しかしそんなことを指摘できる状況でも無かった。
ただ成すすべなく大股にノシノシ歩きまわる解き放たれてしまった虎を見守るように、出て行ってくれるのを待って鹿島の行方を見守っていた。
何かがウラ君の靴にコツンとぶつかった。それは、半身が砕けた人形の胴体から外れ歪んだ弧を描いてヨロヨロと転がって来た首だった。セリナに似た人形の一体の。・・・キチンと並べられていた場所から落ちて壊れていく人形たちを茫然と眺めるうち、自分の体内でも、何かがプツン、プツン、と崩壊していく音が聞こえるようだった。〝楽園”で共に働いていた時代から一緒に逃亡した後まで、ウラ君がセリナに思い描いていた理想、望み、彼の信念通り穢れないセリナ人形たちが、壊されて行き、・・・
心に大きな暗い穴がぽっかりと開き、それがブラックホールのように広がっていくと同時に、これをむしろ望んでいたかのような、涼しく自由な受け入れの心境に、早くももう、なり始めた。
「よし。ここから行く。じゃあな」
鹿島はためらいなくヒュッと窓から飛び降りた。ウラ君が駆け寄って下を覗くと、隣のビルとの隙間の狭い空き地を抜け、冬の日が射す通りへ出、ちょっと左右を確認するのに立ち止まっていてから、こちらを振り返らず、スッと右に曲がって見えなくなった。
「ま・・・猫・・・?」
ドアを開けて真っ先に飛び込んで来た母に、何度も小声で練習しておいた言い訳を並べる。
「窓を開けたら、ちょっと風を通そうとしたんだよ、すると猫が・・・野生の野良猫がね・・・飛び込んで来て・・・追い出すまで部屋中を駆け回って・・・」
「何匹?」
「え・・・?」
「本当に猫だった?」
「う、うん・・・」
「野生のジャガー5匹じゃなくって?」
床一面に飛び散った粉々の人形の残骸、引き出された箪笥の引き出し、鹿島が試してみてサイズが合わず履けなかったズボンの山、倒れた手術台にばら撒かれた手術器機・・・遮光ビニールを取り払われた全ての窓から燦々と射す午前9時の容赦ない冬の日光の下、6枚重ねの着物風ガウンの襟元をギュウッと合わせながら、母が珍しい嫌味を言った。
「家出した私のアシェラちゃんかしら、整ったヒョウ柄ではなかった?キリッとしたイケメンの」
「どちらかと言えば・・・黒猫だったよ・・・」
「そう?なら・・・」
息子の部屋に踏み込むのは自分だけと先に約束させておいたのか、戸口で見守るアルバイトと客を下がらせ、(「お騒がせしまして・・・野良猫がね、…もう出て行ったそうですから。もう安心。」)出て行きながら、母が付け加えた。
「窓はいつもこのくらいは開けておいた方が良いわ。行き場の無い迷い猫ちゃんがまた入って来やすいように。換気にもなるし、日当たりも良くなって良かったじゃない?貴方のためにも・・・」
鹿島が出て行き、母も部屋から出て行くと、また一人になって戸口に佇み、ウラ君は自分の部屋を改めて見渡してみた。洪水のような日差しに溢れる部屋を・・・
こうして見るとせっかく沢山ある窓を今までは有効に活用できていなかった。人形を全て不要品と見なすなら、その人形を収納するために買い揃えた棚も全て不要と言うことになり、それら全部を処分すれば部屋は一挙に広くなる。
しかしどこから手を付けて良いものやら・・・
ひとつひとつ床に落ちた品を手に取り、それの修復にかけた情熱、工夫を凝らしより痒いところに手が届く道具まで自作した念や歳月を思えば、なかなか自分ではゴミ袋にまとめて捨てにくい。さっきまでの宝物を急にゴミとは思えない。それしか無い人生を生きてきたのだ・・・
この人形、絵画、フィギュア達が彼の全てだったのだ・・・セリナと別れて以来…
片付けを、断捨離を誰かに手伝って貰いたい・・・それは家族でも、毎日顔を合わせるアルバイトの子でもない、後腐れの無い日雇いの人が良い・・・大した重労働ではないのだ・・・女の子にも出来る・・・
(そう、こんな時、鹿島も言っていた・・・電話をかけてレンタルできる女の子にでも手伝って貰おうか・・・)
鹿島は自分を見て、さも女性に根っから耐性のない男に話すように話していたが、これでも商品として女性を扱い周り中女の子に囲まれている環境で過ごした一時代もあったのだ・・・
上の方にヒビが入った全身鏡に映して自分を見詰める。
(少し太ったな・・・運動不足で肉が付きすぎた・・・頬も真ん丸パンパン、お腹周りもプヨプヨ・・・)ウラ君は赤ちゃん顔だがそれを気に病んだ時代も超えた。しかしそれにしても、今また改めて鏡を見て思う。我ながら自分はいつ見てもベビーフェイスだなぁと。髭が薄く血色の良い丸い頬。別に笑ってないのに笑ってみられる垂れた目尻。眉毛も産毛よりやや濃いくらいで薄く、綿雲のようにフワフワしている。あの鹿島のように凜々しく後付けで眉ペンで男らしい眉を黒々描いても、取って付けたようになり他の顔のパーツと合わなくて変になるだろう。
(あいつ、俺より多分五つは年下だったが、それで俺を絶対に自分よりも年下だと思い込んでた・・・客観的に俺は幾つに見えるんだろう・・・?)
また、こうも思った。
(・・・太った若い男と、若くはなくてもあいつのように引き締まった男となら、どちらが女性にモテるんだろう・・・?)
ウラ君は残りのお昼までの時間を鏡の前で悩み続けた。割れ破損した少女像達に囲まれて。
やがて山手に建つ小学校のお昼休みを知らせるチャイムがキーンコーンカーンコーンと開いたままの窓から静かな部屋の中に響いて聞こえて来て、一日の貴重な半分を空費してしまったと悟った。その後は、迷わなかった。
“城”の番号を検索し電話して女の子を一人寄越して貰うよう注文した。
(「お電話ありがとうございます。本社“城”でのサービスご利用は初めてでしょうか?お好みの女性のタイプなどはございますかしら?新人、ベテラン、人妻、ギャル、美脚、巨乳、Sっ気強め等々、ご要望をお伺いいたしますが?何でも良い?でしたらですね、まぁ、・・・2ヶ月目の大人しめの女の子を派遣いたしますね。25歳。眼鏡ちゃんと呼んで上げて下さい。頑張り屋さんですが、規定に無い無理なご要望にはお応えいたしかねます。今からですと・・・30分ほどで到着の見込みです。」)
一階の店舗からアポの無い部外者を上に上げないのも業務のアルバイトには、
「30分ほどしたらまた女性がここを通って上に上がるから。掃除のお手伝いを頼んだんだ」
と説明しておいた。三階に居る母には別に知らせる必要が無い。
丸眼鏡をかけた若い女の子は電話の人の言ったとおり、ちょうど30分ほどで到着した。
また店の前の階段に座って待っていたウラ君は、送迎車の運転手にチップを弾み、表通りまで出て待って貰うよう話を付けた。
「変わった注文なんだけど、」眼鏡ちゃんと一緒に二階の自室に籠もるとすぐにウラ君は言った。
「一緒に掃除して欲しいんだ・・・嫌なら良い。そこに座って時間が来るまで携帯でも弄ってて。」
優しい女の子だった。床に落ちて砕けた古い人形をせっせとゴミ袋に入れ、時々「これはどこも破損してないが取っておく方が良いか?」等と聞きに来るほかは黙々と部屋を片付けるのを手伝ってくれた。ウラ君が言うのも何だが、ちょっと人見知り過ぎる暗い感じのする子だった。しかし働きぶりはかなり真面目。最初はしょっちゅう捨てて良い物かどうかと確認を取りに来たが、「全部捨てて」と答えるうちにだんだんといちいち尋ねに来なくなった。
ウラ君が買った眼鏡ちゃんの時間は二時間だった。この二時間と延長の30分で大部分の人形がゴミ袋に収まり、部屋は綺麗に片付いた。
「ありがとう。キミが来てくれて助かったよ。後は粗大ゴミに戸棚を出すだけだ・・・」
「これ、貰っても良いですか?」最後に二体の人形を両手に持って眼鏡ちゃんが聞いてきたので、「捨てようとしてた物だし、いくらでも上げるよ」とプレゼントした。
「あの、お兄さんは人形作家さんですか?活動の時のお名前は・・・?」
「作家じゃないよ、僕は・・・ただの修理屋」
「嘘?・・・」
「本当だよ。デザインから完成まで手掛けたのはあの一体だけ・・・」
戸棚を指差す。・・・祈りのポーズの人形一体だけは、ウラ君は、捨てずに取っておくことを自分に許したのだ。
眼鏡ちゃんがハートの形に切り抜いた名刺を残して引き上げていくと、ウラ君はその名刺を戸棚の中の人形の台座に挟んだ。
駄々っ広くなったやたらに白く眩しい部屋でいつものクロワッサンの昼食をとる。パリパリハムハムモサモサ咀嚼する音が体内にも室内にも木霊してる気がする。鹿島が言っていた台詞を気にして、(「この毛布は脂っこい!!毛布だけじゃ無い、油の匂いが部屋中充満してる!!」)壁紙を除いて、すぐに捨てられる布という布は全部捨ててしまった。鏡に掛けていた星空の下を行く砂漠のキャラバンのタペストリーもゴミ袋に入れてしまったので、横目に視界の隅に鏡に映る自分の動きがずっと目に入る。
(人形は捨てた。けど、さて、これで何が変わった?)
横目で自分と睨み合いながら自問自答する。
(俺を取り巻く環境は変えた。さて、お次は?)
(・・・眼鏡ちゃんを呼び戻すか?)
(結局、考えてみると、あの子に俺は指1本触らずじまいだったなぁ・・・)
(あの子良い子だったよなぁ・・・ちょっと緊張しいで硬くなっててこの仕事に向いてないかとも思ったけど、掃除を手伝えなんて変な要望にもサラッと対応してくれて。文句も言わず従順だった・・・)
(それに嫌われても無いようだ、名刺も置いて行ったし・・・あれはまた自分を指名して呼んでくれと言う意味だよな・・・)
(よし。これを食べ終わったらまた電話してあの子を呼ぼう)
(・・・なんだか・・・鹿島の言った言葉通りというのがどうも癪だが・・・)
(まぁ構うことは無い)
ウラ君はクロワッサンの残りの塊をミルクティーでゴクンと嚥下し、携帯電話に残る通話履歴の一番上の“城”の番号をもう一度押した。
「はい、鈴木様。」幽かな南国風訛りを窺わせる受付嬢がさっきウラ君が即席ででっち上げた遊び名で彼を呼んだ。「このたびはどのような女の子をご要望でしょう?眼鏡ちゃんはご満足いただけませんでした?30分の追加延長もして下さったようですが・・・」
「ああ、えっとぉ、その、あの眼鏡ちゃんをもう一度・・・お願いしたいんですが・・・」
気恥ずかしさを堪え、ウラ君は受付嬢に笑われないかとヒヤヒヤしながら要望を答えた。
「ああ~・・・」何やら声のトーンが急に落ちた。「お待ちくださいね・・・」
「・・・はい・・・」いくらでも待ちますよ・・・
「・・・申し訳ございません、さっきの眼鏡ちゃんは指名が入ってしまい、移動を合わせると3時間後のご到着見込みになりますけれども・・・」
「ああ・・・そう・・・?」あの子はちょっと地味っぽいから目立たずあんまり人気がなさそうだ、手付かずの素人に近い子だと思い込んでいたが、どうもそうでも無いらしい。
「眼鏡を掛けた別の女の子を派遣いたしましょうか?歳も同じ25歳で、ちょうど出勤してきた子が今、居ますが。吉野さん。大らかな雰囲気も眼鏡ちゃんに似てますが。いかが致しましょう?」
(眼鏡は掛けさせれば誰でも眼鏡ちゃんだろう、歳も25と言い張れば25だろう、さっきのあの子は果たして大らかな雰囲気だったかなぁ?・・・)とウラ君は考えた。
「あ~、ちょっと、一旦・・・また掛け直します」
別の考えが既に頭に浮かんでいた。
「3時間後のご予約は取られなくってよろしい?今すぐ似た子も・・・?」
「あ~、また、利用させていただきます・・・」
(おっとり優雅に喋るけどなかなか商売気のある受付嬢さんだったなぁ)と感じながら、ウラ君は電話を切った。
それから意を決し、今"楽園”に一番近いとされる店“特派員”の番号を調べ、電話をかけた。
「はい」今度の受付は突き放したように喋るクールな声だった。「あなたの特派員。」
「予約したいんですが」
「何時から何時ですか?ご指名は?」
(ここは慎重に・・・)「指名は無し。今から一時間後に、一時間。」
「承りました。」
向こうから電話が切られた。待ち合わせ場所の指定も無いままなのには驚いた。入りたてのバイトの子が電話番をしてるのか、それとも、人気店で待ち合わせの場所も有名だから言うまでもないという自信の現れなのか・・・?
ともかく、ウラ君は急いで服を着替え、自分の部屋の戸締まりをして、身分証を抜いた財布をコートのポケットに入れ、一階店舗のアルバイトの子に「ちょっと外回りの仕事に出掛けてくるから。」と言い置いて、瞑牢喫茶店へ向かった。
白いレースのカーテン越しに雪のチラつく大通りを眺め、雑誌をめくったり、名物のチーズケーキとコーヒーを飲み、そろそろ約束の時間が近付いて、(もう一度電話をかけてみようかな・・・)と考え出していたとき、向こうから電話がかかってきた。
「あなたの特派員です」
「は、はい」
「私でよろしいですか?」
窓の外に、片方の耳当てをずらして電話をかけてる女の子がいた。窓の外から見える範囲の男の一人客に順番に視線を注いでいる。ふっくらした頬が寒さで林檎のように赤い。マフラーとニット帽に埋もれて顔の半分は見えない。
「中に入ってきて。中で話そう」
「でも一時間でしょう?すぐホテル行かなくちゃ。」
ウラ君が立ち上がり、大きな身振りでおいでおいでしたので、窓の外の女の子がウラ君に気が付いた。
「まぁ話をしようよ。入っておいで」
女の子は震えながらしばし立ち竦んで迷っていた。昔の客が因縁を付けたいだけで呼んだのでは無いのかと、ウラ君の顔をジッと見て、何か思い出さないかと考えているみたいだった。
「外は寒いでしょう?ちゃんと一時間分のお金は払うから。」
マフラーとニット帽で防寒はバッチリのモコモコの女の子は腹を決めたように、頷いて、電話を切り、カランコロンと瞑牢喫茶店の重たいドアを押し開けて雪のチラつく路上から偽暖炉の暖かい店内へ入ってきた。
「お一人様ですか?」と聞きかけたウェイトレスが、ウラ君を指差す女の子と席で立って待っているウラ君を見て、水の入ったグラスを盆に載せて女の子の後に付いてきた。
「初めまして」
「初めまして・・・ですよね?」
「そうだよ。こんにちは」
「こんにちは・・・」
「お名前は?何て言うの?・・・あ、僕は鈴木」
「ハチです」
「蜂?ミツバチの?へぇ、変わった名前だね、良いね、忘れにくくて」
女の子はモジモジした。ウラ君は彼女の緊張を先ずは解いてやらねばと思ったのだけれど、自分も伝染して緊張して来だした。女性と話すのが急に久々なのを意識し始めた。女の子は室温で急に火照ってきたのか、熱くなってきたようにマフラーを取り、上着の前を開け、帽子を脱いだ。緩いウェーブのかかったココア色の長い髪が肩から溢れ、胸のあたりでフワフワ弾んだ。
「セリナさんかタツさんに繋げて欲しいんだ」ウラ君は唐突に本題に突入した。
「・・・誰ですか・・・?それは・・・」
「知らない?」
「知りません」
「本当に?」
「本当です・・・」
「きみを指導してくれた女の先輩は店に居た?」
「え・・・」
女の子は最初口が重かった。しかしウラ君は辛抱強く待ち続け、ニコニコ笑顔を絶やさなかった。決して急かさず、持ち時間内に彼女が知ってる事で言えることだけ教えてくれれば良い、とだけ繰り返した。喫茶店の冬の名物のアップルパイと湯気の立つ熱熱のミルクティをご馳走してあげた。
「僕はキミに何もしない。きみが後で咎められて困ることを無理矢理聞き出すつもりも無い。ただ、知ってる中で言えることだけを教えてくれれば良いんだ。お金もちゃんと払う。今払っておいてあげるよ。心配しなくて良いように。ほら・・・どうぞ」
ウラ君はポケットから財布を出し折り目が綺麗に真っ直ぐ付いた二つ折りの紙幣を少女の手に握らせた。
「おつりは取って置いて良いよ。後で栄養のある物を食べなよ。温野菜とか」
ニキビ面の女の子はウラ君が彼女のために注文してあげたアップルパイをジィッと見ていた。彼は相手が遠慮して食べられないなんて事が無いように、自分のためにももう一つ注文した。フォークを取って実はあまり好きではないパイを食べ始めながら、すすめると、女の子もフォークを持って食べ始めた。
俯いて黙って黙々アップルパイを頬張り、食べ終わり、ミルクティを半分飲んだところで、ちょっと上目遣いにチラとウラ君を見た。
「何か思い当たる節があったような顔をしてるね」
「一人・・・時々来てくれる優しい先輩が居ますけど・・・女性の・・・でもその人の源氏名は・・・それに、彼女はもう直接は客を取らないみたいですが・・・今は女の子達のシフト管理をしたり面接したり相談役として男性社員とは別に居てくれてる・・・」
「その先輩の名前はリュウかな?子リス?」
「本名は誰も知りません。ピタヤちゃんって呼んでって言われたけど、私はアマツカさんと呼んでます。天使と書いてアマツカと読む。最初にくれた名刺に書いてあったから・・・」
(ピタヤ・・・ドラゴンフルーツの別名だ・・・)とウラ君は思った。タツはセリナと違ってあまり源氏名を変えない。リュウかタツか、大体この二つを使い分けて来た。自分の知る限り。ドラゴンも同じ神話の生物。もしかしたらいきなりヒットかも知れない。この子の所属する店の相談役がタツかも・・・
「天竜ピタヤちゃん・・・」
「でも先輩は昔はお客を取ってたようだけど、今は全く別の仕事をされていて・・・」
「知ってる。有名だよね。僕も何度も彼女の舞台を見に行ったことがある。彼女が出てる映画は全部見たし・・・」
ニキビ顔の少女はサッと青ざめた。
「これ以上は私の口からは・・・」既に言い過ぎたと後悔している表情。
「キミも驚いたんじゃない?有名な女優さんが客の対応や作法を指導してくれて。でも心強かったでしょう、『この店は安心できる』と思えたよね?」
女の子は貝のように口を閉じてしまっていた。
「会いたがってる奴が居ると伝えてくれないかな、キミに僕からお願いしたいのはそれだけ。決めるのは相手だ。・・・これを預けておくから・・・」
ウラ君は喫茶店の紙ナプキンに喫茶店のボールペンで自分の携帯電話の番号を書き付けた。ハチの手に押し付けようとしたが、彼女は受け取らないで握りこぶしをテーブルの下に引っ込めてしまった。
「でも・・・彼女、アマツカさんは、今はお客さんを取ってないから・・・」
「僕はあの子の昔の客じゃない。兄のようにしてある施設で一緒に育ったんだ。僕は彼女をそんな風な目で見ない、セクシー女優をやってる彼女の衣装の内側に性的興味が沸かない数少ない一人だよ。ただ話がしたいだけなんだ。個人的な内容で・・・幼なじみの三浦が話したがってると言ってもらえば話は通ると思うんだ・・・それで、キミの困るような何かが起きると思う?」
ハチは小首を幽かに傾げ、真剣に考え込んでいたが、ウラ君が買った彼女の時間が減っていくのを壁の時計をチラと見て確かめ、急に決意を固めた。
「今ここで電話します。じゃあ」
「ありがとう」(そうだな、)とウラ君も思った。(今ここで電話して貰うのが一番だ。)彼の電話番号を書いた紙を持たせたまま男性スタッフの元に帰すより良い。
「忙しい人だからすぐには出ないかも知れないですよ・・・」登録された番号を押し、コール音を聞きながら少女が念を押してきた。
「分ってるよ・・・」
しかしタイミングが良かったのかアマツカはすぐに着信に答え出て来た。
「はい?どうしたの?トラブル?」
「先輩!」(少女の発した甘え声から、アマツカを慕う気持ちが伝わってきた)「トラブルじゃなくて・・・変な客なんです・・・」
「どんな?・・・気持ち悪い要求してくるの?」ウラ君が電話口の近くに居るのとタツの声が舞台女優らしい通りの良い声量なので、何を喋ってるか筒抜けに聞こえる。
「先輩の知り合いって言う・・・」
「三浦、ウラ君と呼ばれてた、と言ってみてくれ」テーブルに身を乗り出し、ウラ君が囁き声で頼んだ。
「三浦さんと言う人が・・・。先輩の幼なじみだという・・・会いたがってます」
うん。うん。三浦君は椅子に座り直して待った。ドキドキと心臓が早鐘を打った。タツが彼の顔にあるほくろの場所や(左の目の下に二つ。)身体的特徴をいくつか聞き出し電話越しに後輩に確認させているのが分った。
(「可愛い系の顔立ち?北欧系ハーフっぽい?八重歯ある?実年齢よりも若く見えそうなタイプ?丸顔で身長はあまり高くない?」早口に繰り出される全ての質問に目の前の女の子ははい、はい、と全部頷きながら返事した。)
「最近あたしに会ったのはいつ?彼に答えさせて?」ハチは電話の質問をウラ君に繰り返した。
「先輩に最近会ったんですか?」
「うん。こう伝えて。きみに会ったのは今朝。キミは車を停め直しに行ったまま戻らなかった。セリナと・・・」少女が全く同じ台詞で電話の向こうのアマツカに伝言した。
「このままここで待ってて下さい」電話を切った少女は真剣に驚いていた。「今日は午後からの予定を全てキャンセルしてすぐ駆け付けるそうです。ここへ」
一時間の拘束を解かれたハチを席で座ったまま手を振って見送った後、ウラ君は再び雑誌に目を通し、3杯目のコーヒーを飲みながらピタヤちゃんを待った。一時間ほどして、彼女はあの真っ赤なオープンカーではなく、ありきたりな白のミニバンに乗って窓の外の通りに現れた。
車を喫茶店の前に停め、降りては来ずに、ウラ君を窓越しにすぐに見付けると、車の窓だけ全開にして、今度は彼女の方がおいでおいでと手招きした。自分を真っ直ぐ見詰める黒い瞳がキラキラ燦めき、淡いピンクに塗った唇が並びの良い歯を覗かせ大きく笑っている。車が目立たなくても、その中に乗ってる女はやはり遠目からでも目立つ美女だ。
何故だろう?服装も普段の彼女のイメージには不釣り合いなほど落ち着いたグレーのワンピースで、メイクも今はごく薄目なのに。これを一般的な女性がやれば幸薄そうな影の薄い地味なだけの女に見えるだろう。影のように風景に溶け込んで、霞んで、馴染んで。セリナにはこれが可能だった。セリナは必要とあれば、カメレオンが自分の体色を自在に変えて身を隠せるように、スカーフや小道具で顔周りを隠せば・・・もしくは道具無しでも表情の絞りを狭め視線を落とすだけでも、自らの魅力を抑えることが出来た。
しかしタツはまるで雲間からでも自分専用のスポットライトを浴びてるかのように輝いていた。どうしても魅力が溢れすぎ、内側から発光してるような。まさにこれをスター性、オーラと呼ぶんだろう。
道行く人々がタツの顔を見て、タツの視線を追ってウラ君の顔もチラッと見、それからまたタツの顔を見て行った。反対方向から来た犬の散歩中のカップルも、同じ導線で視線を動かし、通り過ぎた後も首を捻って振り返り振り返りタツの顔を二度見三度見しながらヒソヒソ言い合っている。
早くも人々は今をときめくセクシー女優の降臨に気が付きだしている。
(窓を閉じて!窓を上げて!!)ウラ君は手で合図しながら、急いでカフェに支払いをして表通りに出、それからすぐにタツの車の助手席に乗り込んだ。
「どこへ行く?」すぐに車を出すタツにウラ君は聞いてみた。
「さぁ?」
「どこへ向かってる?」
「分らない。でもすぐ出さないと人混みで動けなくなるから。適当にドライブしてるだけ。・・・でも私を指名してくれて嬉しいよ、ウラ君。ご指名ありがとう!」
「・・・仕事させようとキミを呼んだわけじゃ無いよ・・・」
「あら?そうなの?・・・残念・・・」
「冗談キツいよ。キミは僕にとって妹みたいな存在だから。それに今のキミのギャラはとても僕なんかに払える金額じゃ無いだろうしな・・・」
「お安くしといてあげるよ?ウラ君になら・・・」
タツがバックミラーを必要以上に注視しながら目的地も無いのに急にハンドルを切って方向転換を連発するので、追跡の有無を見抜こうとしてるのがウラ君にも分った。
「多分、つけられては無いようだよ。車を乗り換えてきてくれたお陰で」
「あのサンタさんの真っ赤なマントみたいなオープンカーじゃあ、見失って貰おうにも難しかったから。これは社用車」
「だろうね」
「で、どこへ行きたい?あたしと」
「キミに任せるよ」
「ふ~ん?」タツは横目にウラ君を見てニンマリ嬉しそうな表情をした。
「僕はセリナのことが聞きたいんだ。あの子は今どうしてる?」
タツは答えなかった。横顔を見てみると、真剣な顔をして目の前の道を睨んでいた。聞こえなかったのだろうか?
「セリナもキミのように店を任されてるの?今はあの子も客を取って無くて若い女の子の指導をするばっかり?」
タツはプッ!と前の車にクラクションを鳴らした。ウラ君への返事は無し。
「ああ、そう言えば、君たちが絨毯に巻いて運んできた裸の男は目を覚まして窓から飛び降りて自分で帰って行ったよ」
「あら。良かった。無事一件落着」
「それで、セリナのことだけど・・・」
「どうして?」
「え?・・・」ウラ君はタツの横顔を見詰めた。「どうしてって?」
ほとんど化粧をしてないタツの無防備な赤ちゃんみたいな大きな瞳が目尻の端まで動き、唇が尖り、ウラ君をジロッと見返した。
「何でセリナのことを私に聞くの?」
「それは・・・キミしか聞ける人が居ないからだよ・・・」
「私は答えなくちゃいけないわけ?」
「え・・・?」急にタツの態度が硬く冷たく口調がよそよそしくなっている事に気付いた。いつからだろう?・・・セリナの話をしだしてからだ。
「ここで良い?」
「えっ・・・?」
ウラ君の返事を待たず、タツの運転でミニバンは時間貸しの安ホテル地下駐車場に滑り込んだ。ショートケーキのような白の小綺麗な外観、チカチカ派手な客寄せのイルミネーションは無く、目立たないシンプルな看板をひっそりと掲げてるこぢんまりしたホテルだった。それでもここがどう言う場所かはウラ君にも分った。
「なんでこんなところに・・・?」
「行き先は私に任せると言ったでしょ?」
「言ったけど・・・」
「降りて」タツは自分が先に車から降り、どんどん駐車場の先へ進み、エレベーターの△ボタンを押してウラ君が来るのを振り返って待った。
(ここもタツの経営するホテルで、彼女の私室があるとかかなぁ)と考え、ウラ君も急いで後に続いた。
エレベーターは一旦ロビー階で止まり、タツは箱を降りてフロントへ向かった。パネルの明るく照明が点されている空き室を選択するのでは無く、スタスタとそのままフロント窓口へ。モニターでフロアを見張っていたのか、フロントの奥のカーテンの影から出迎えるようにおばあちゃんが現れた。
「あらタッちゃ~ん!!久しぶり~!!元気にしてたかねぇ!」
「久しぶり~!おばちゃんも元気そうで良かった~!」
「あんた仕事はね?いや~!最近は忙しいんじゃないん?」
「今日はお休み。」
「へぇ珍しい!」
「ね、お部屋を貸してよ」
「おお、そうね、・・・えっとー・・・今一番良い部屋はね、・・・504号室。はい鍵。」
「ありがとう」
「ごゆっくり!」おばあちゃんはウラ君の方へ歩いて戻って来るタツの肩越しに、ウラ君へもウインクした。
再びエレベーターの扉が閉じ、箱が上へ上がり出すと、ウラ君は聞いてみた。
「ここよく使ってたの?」
「昔よく仕事でね。」
「ふうん・・・」でも、何故ここへ今来たんだろう?
個室に入るとまるで自分の部屋のようにバッグをソファにポンと置く。彼女が登場するとこの部屋が今度は舞台みたいだ。自分は台詞を忘れた大根の共演者のような感じがしだす。
「私に話があるんじゃないの?」肩から長い美しい髪を振り払い、振り向きざま、タツが聞いてきた。「お願いだからセリナの話はしないで」
「え・・・どうして?」
「私を呼んだのはそのためだったの?私に話があるんじゃ無くて、私を通してセリナに近付きたいだけ?」部屋に後から入ってきたウラ君がちゃんと扉に鍵を掛けなかったのを見て、タツがもう一度玄関に戻ってしっかり施錠した。「やってられない。煙草吸っても良い?」
「・・・何故きみにセリナの事を聞いちゃいけないのかな?あの子ときみは仲良しじゃないか・・・?今朝だって一緒に・・・」
「今さっきは、私はあなたに自分が呼ばれてると思って、仕事を全部投げ出して来たの!ずっっっっと前から好きだったの!ウラ君!セリナよりも前から、私の方が!ウラ君のこと!」
タツがキンキン響く悲鳴のような声で叫んだ。最初の一声は濃い煙と共に口から飛び出し、細い指に挟まれたまだ火を付けたばかりの煙草は灰皿に力いっぱい押し付けられてボキッと真っ二つに折れた。それでもまだ怒りやら屈辱やらでブルブル震える手の震えはおさまらない。
ウラ君は504号室の玄関を上がったところでポカンと立ち尽くし、タツが震えながら自分を睨んでるのをボーッと見返していた。タツの放った言葉が聞き取れなかったわけではなかったが、意味が通じず、一体何に対してタツがそんなに激昂してるのか真剣に分らなくて驚いていた。
(ずっと前から好きだった?誰が誰を?タツが僕を?そんなはずは無い・・・そんな素振りは一度も感じたことが無かった・・・)
結果、ウラ君は別の解釈に辿り着いた。
(こいつ、営業かけてるんだな?僕にまで・・・この子達の性は知ってたつもりだったけど、まさかこの俺にまで・・・)
「あの、そう言うの良いから。セリナに話を通してくれれば・・・」苦笑しながらウラ君が言うと、
「どうしてなの!?セリナは貴方から逃げてばかりいるのに?私を素通りして何故セリナなの?私の方があの子よりも一歳年上よ?」今度は嘆きだした。
「年の順は関係無いだろ・・・」ウラ君はハハと笑ったが、タツは笑わなかった。
真剣に怒り、次いで泣きそうな目をして、ウラ君の腕を掴み、言い返してきた。
「覚えてない?セリナが連れ戻されて来る前、楽園で私達、よくこっそり逢ってたじゃない?私貴方にあの時から・・・
・・・聞いたことあるの覚えてない?『どんな女の子が好きなのか?』って。私、ウラ君に聞いたよね?貴方は『年上の女性』と言った!『具体的には?』って聞いたら、映画や雑誌に出てる女優さんの名前を挙げた。聞くたびに違う女優さんモデルさんの名前を答えるのよ!ねぇ本当に覚えてないの?それから私、貴方の考える理想の女性ってどんなだろうって、ずうっと考えて悩んで、そんな女になろうと頑張ってきたの!つまりあなたは表現の世界で活躍する女性が好みなんだろうな、と結論して。それから必死でここまで頑張ってきたの!あなたに見て貰おうと・・・どんな陰口、泥沼の足の引っ張り合いにもめげず・・・
それなのに、貴方は、セリナが連れ戻されて帰って来た途端、あの子の看病や面倒見に必死になってしまった・・・私が話しかけても上の空に『後でね』『後で』ばかり繰り返して・・・あの時の約束を忘れたの?!」
「約束・・・?」ウラ君は迫真のタツの演技なのかでっち上げられた過去なのか本心なのかに驚き呆れ迷いクラクラ眩暈がしながら、一応思い出そうとしてみた。
セリナが連れ戻されてすぐ・・・あの子は全然意識がないまま常にグッタリした状態でそれでも働かせられていた・・・
『大丈夫か?』と聞いても、答えようとして何か口の中でウニャウニャ言ってはいるが、ちゃんとまともに喋ることすら出来なかった。瀕死の状態。薬漬けで骨が抜けたようにグデングデンで、自分では歩くことはおろかシャンと立てもしないから、仕事場から仕事場、風呂場からまた仕事場へと、ウラ君が担いで全面的に彼女のお守り役に当たった。
天井のフックから鎖で吊り下げられた10人あまりの少女達、それをたった二人の黒服で管理していた。あの地獄のような地下での日々も出来れば思い出したくも無い過去だ。しかし忘れられるはずもない。
床に寝かせていると掃除がしにくいからと、女の子達は吊り下げられ、ホースの水をぶっかけて洗われ、仕事中も待ち時間中もずっとそのままだった。もともとは脱走を図った体力のある子のお仕置き部屋だったのかも知れないが、夏ならまだしも冬は凍えてすぐに死んでしまう。
この地下牢の担当に配属されてすぐウラ君は暖房の設備と女の子達に着せる物と温かい食べ物の必要性を先輩に訴えた。
「これじゃ死んじゃいますよ!この子達・・・」
「死ぬよ。」前からここで働いてる先輩には言っても無駄だった。「この子等の死に場所だよ、ここは」
全員を一人で鎖から降ろす手間も、毛布や端切れの数も足り無かった。死んだような目をした地獄の番人、やる気の無い同僚に協力は仰げず、くまなく一人で全員の面倒を見切ることは出来ず、葛藤の末、一番助かりそうな者から真っ先に、手厚く、順位を付けて助けるしか無かった。早く言えば、半数以上の子に見切りを付けた。もう目もほぼ開かず、生より死に近かった。隣の子が羨ましいとか、気が付くことも訴えることも出来ないのだ。毎日のように死者が出た。持ち場に就くと毎朝、死んで鎖にぶら下がってる子をまず下ろすことから始まっていたあの頃・・・幼なじみのセリナが連れ戻されてきた。
何か薬品以外の物も腹に入れさせねばと、パン屑の粥を食べさせようとしている時に、すぐに予定にない仕事が回ってきてしまい、(抗議したが別の女の子が死んだのでその代わりだと先輩黒服に言われた。『すぐにそいつの代わりが出来る次の子の用意もあるんだぞ』、と・・・つまり、今すぐ使えないならそんな奴は切り捨てる、と言う事だ・・・)仕事中に客にゲーゲー吐きかけないよう、食べさせていた粥を残させ、悔しさを噛み殺しながらセリナを次の仕事場までまた担いで運んだ。
あの時は完全に“楽園”も使い捨てにするつもりであの子を扱っていた。どうせ潰れる子だ、使い潰そう、というやり口が見え透いていた。まるで蛍。体内が生殖のためだけに構成され余分な食物を受け付ける消化器官が無い蛍のように・・・水しか飲む間も与えられず、客からも乱暴に扱われ、意識混濁で自分で吐いた吐瀉物を喉に詰めて窒息しかかったこともあった。
『お前が余計な物を口に入れさせるからだ』とウラ君が蹴られ叱られたが、それでも少量ずつは人目を盗んで食べさせ続けた。セリナも巣から落ちた鳥の雛みたいに、ウラ君の腕の中で、温かいスプーンを唇に当てれば唇を開いて啜った。腫れて潤んだ目を開けて次の一匙をねだるように自分を見詰めた。よく吐いて汚れるからと、長かった髪も洗いやすく短く切られ、羽の生え揃わない寒そうな雛により似た。
(だけどこの子はまた生き伸びるかも知れないぞ)とウラ君は心の中で小さな希望の灯が消せなかった。抱き起こした腕の中のセリナの弱った軽い体の奥に潜む底力、細いが強い生命力を感じ取っていた。次の一口をねだる感触で。
彼女の髪が綺麗なショートカットに整えられるくらいまで伸び揃い、意識もハッキリしてきて客に甘言を吐けるようにもなり、寝たきりの状態から自分で客の動きに合わせて動けるようにもなってくると、無駄に傷付いたり痣を作ったりすることも減っていき、次第に肌艶も美しく、もともとの美貌をまた燦めかせ始めた。そうすると客の方もセリナを見直し、扱いが優しくなる。大事な柔い物に対する繊細な扱いをしてくれるようになる。良い客が付き、乱暴者のケチな客ばかりを相手にしなくても良くなる。ゆとりのある客が長い時間を買い取ってその中でセリナを休ませてくれる。・・・恵まれた機運を掴み、セリナは持ち直しかけた。
するとすぐ別の先輩黒服が稼げるようになってきたセリナをウラ君から横取りして自分が担当に付いた。が、それは短い期間だった。その黒服の手からはセリナは食べ物を受け付けられず、まだ思った以上に手がかかるというので、再びウラ君が付ききりでセリナの担当に当たることに決まった。これで、セリナの扱い、回復、成長はウラ君にしか任せられないこと、二人はニコイチ、と上層部からも見なされた・・・
セリナを担当した初期は、余所見をしている暇も無かった。24時間体制で、廃人で死にかけの雛、セリナの面倒を見ることがウラ君の全てだった。遡って考えてみれば、あの功績によって自分も命拾いしていたのかも知れない。セリナは“楽園”に入荷されてきたときから園長のお墨付きだった。不死鳥のように、何度燃え尽きて灰の中に倒れ込んでも蘇り、シンデレラみたいに魔法の靴を履き、舞踏会では誰より上手に舞って周囲をハッとさせ、また何度でも天空に羽ばたいていける。男達を軽々その背に乗せて。そのセリナの面倒が見られたのはあの時はウラ君一人だけだったのだ・・・
・・・
セリナ以前の記憶・・・今、目の前のタツにせがまれて懸命に思い起こそうとしてみて、それはまるで紀元前のように、記憶に遠い過去だった・・・
「セリナよりも私の方がひとつ年上なの!私達、約束してたじゃない?貴方が私の担当になれるように上に掛け合ってみるからって、言ってくれてたじゃない?貴方はみんなのお兄ちゃんだったじゃない?私達皆の?それなのに、セリナが戻って来ると、貴方はあの子にかかりっきりになっちゃって、それであの子も貴方も肩身が狭くなっていって、余計に孤立して・・・でも忘れては無いんでしょ?私達、お金を貯めて、いつか外に出てみたいねって、約束してたの。思い出した?一日だけ、ほんの短い時間だけ、外で二人でお散歩して、誰も気付かないうちに帰って来ようね、って、約束してたじゃない?セリナが帰ってくる前の私達には、そんな小さい野望しか抱けなかった。子供の戯言かも知れなくても、それでもあの時の私には力強い希望のお守りだったの。私は一度も忘れたことがなかったよ!」
幽かな記憶が呼び覚まされた。
セリナが帰ってくる前の事なんて、ウラ君にしてみればほんの子供の頃のこと、その頃に話してたことなんて、子供の戯れ言・・・しかし確かに・・・小さい竜につきあってやっていたオママゴトの台詞として、呟いたことなら確かにあったかも知れない・・・セリナが連れ戻されてくる以前は・・・確かに、そうだった、タツやその仲良しの女の子達が自分に戯れ付いてきて、可愛い子犬みたいに遠くからでも自分の姿を見付けると駆け寄ってきて、みんなで摘んだ花を我先に渡そうとしてくれたり、自分のポケットに菓子が入ってないか、小さい手を突っ込んできたり、自分だけの特別なプレゼントをねだったりした・・・
「あの頃は僕も子供だった・・・キミも僕も他の子達もみんな・・・」
「子供だから何?約束は約束よ!やっと貴方を自分の物に出来るときが来たと思ったの。さっき、貴方から予約を貰えるって知ったときには!・・・セリナの名前なんか聞きたくない!私にセリナとの仲介役なんかさせないで!」
タツがギュッと抱き付いてきた。細い両腕を絡め、ウラ君の腕に。花のような髪の香りがフワッと満ち、セリナのよりも成熟した胸の柔らかみが腕を熱くグイグイ包み、ウラ君は思わずボウッとなってしまった。
黒服の経験がある自分が、あの“楽園”生まれの自分がまさかこんな簡単な手にあっけなくのぼせるとは思ってもいなかった。しかし究極の化学反応、寂しさと積極的に心に入り込もうとする野心、子供の頃あったかなかったかの曖昧な出来事なんて戯れ言で、今がここにある。
タツが上目を上げてこちらの目をジッと見詰めた。
(この子、本気だ・・・)とウラ君には、それだけが分った。(子供の頃からずっとこの子が俺を想い続け好きだったかどうかとかなんて、その真偽はどうでも良い、今この子は本気で俺を落とそうとしてる・・・)
「冗談だろう?・・・」ウラ君は掴まれてる腕を引っ込めようとやんわり力を加えながらタツに苦笑した。「後でセリナとこの話をして僕を笑おうって言う魂胆だね?三浦も男だ、チョロいもんよ、って・・・キミも人が悪い・・・」
「違う!ウラ君!どうしたら分って貰えるの?!この気持ち!私の・・・」
タツが両腕を広げ、パッといきなり襲いかかるようにしてウラ君に飛びかかってきた。ウラ君は思わず横へサッと避けた。
タツはソファにぶつかって倒れ込んだ。
「おっと・・・大丈夫・・・?」ウラ君は床に劇的にくずおれたタツを少し心配して立ち上がらせようと手を差し出しかけ、ギョッと血が凍った。
「何を・・・」
タツは手にカミソリを握り締め、その切っ先を自分の手首に当ててウラ君を恨めしげに睨み上げてきた。咄嗟に自分の鞄から取り出したらしい。
「こうしたら分って貰える?」
「やめろ・・・!」
血が滴り落ち、ウラ君が二筋目の切り込みを自分に入れようとするタツを両手を掴んで食い止めた。
「何してるんだよ!?ちょっと・・・!放しなさい!!」(ここは舞台じゃないんだよ・・・キミが出演してる・・・)しかしその最後の台詞は飲み込んだ。
しおらしく、すぐ力の抜けかけたタツの左手から、ナイフをもぎ取り、遠くに投げ捨てた。他に床に落ちてる刃物に手が届かない場所まで、両腕に抱き抱えるようにしてタツを立たせ、歩かせた。ベッドの縁にタツを座らせる。急いで自分の鞄から絆創膏を出し、ユリの首みたいな華奢な手首の赤い傷をくっつけるように貼り付ける。
(この女優の言う事を信じて良いものか否か・・・)ウラ君の心は今や大波の海に浮かんだ葉っぱの小舟みたいに揺れに揺れた。タツの反対側の手首の内側にも白い筋となって古い傷跡が残っているのが見えたのだ。
「初めてじゃないみたいだけど・・・キミのような大物女優が・・・公演に差し障るぞ・・・僕なんかのためにこんな大それた事するなよ・・・」
「この古い方の傷はね、セリナを嫌いにならないようにするため、貴方とセリナが逃げた後で・・・セリナは私の双子の妹のような可愛くてムカつく子よ。でも、完全に嫌いにはなれなかった。貴方の事も、全然嫌いになれなかった。かわりに、私、自分の事が大嫌いになったわ!あなた達が羨ましくって、羨ましさで死にそうだった!何故誰も私のそのままを信じてくれないの?!」芝居がかった仕草で、タツは両手の中に顔をうずめ、号泣し出した。
(きみは昔から器用で・・・演じるのが上手すぎるからだよ・・・)ウラ君は言葉にせず胸の中で答えた。(繊細で不安定剥き出しのセリナと違ってきみはドンと安定感があって落ち着いていて何でも上手にこなせた。すぐコツを掴んで。体も丈夫。精神面でもそうだと思っていた。子供の頃から演じていたのか?それがタツ、きみという子だったのだろうか、あの“園”で正常にまともに育った者がいたとしたらきみくらいだろうと思っていたが・・・この子も、自分では無い誰かに成り切ることであの悪夢を凌いできたのか・・・
・・・テレビや映画館や劇場で何度もキミの芝居を見たのに、不思議だな・・・キミは台本にある通り役柄を演じてるときは真に迫ってるが・・・自分自身の人生を生きてるときは胡散臭い・・・感情の起伏が大げさすぎて芝居がかって見えてしまうんだね・・・可哀想に・・・にわかには信じられるもんじゃないんだよ、キミみたいな堂々たる大物女優が僕みたいなコソコソ鼠を心の底から愛していた、ずっと前から今も好きだ、なんて・・・)
しかしタツに担ぎ上げられた舞台の上でスポットライトを浴びながら慣れない台詞をたどたどしく喋るように、ウラ君はまだ半信半疑ながらも、ポツリポツリと言葉を紡いだ。
「そうか、信じるよ、分った。キミがそうまで言うなら・・・いや、思い出してきたよ・・・セリナが戻る前の事・・・」
「私達の約束を?」
うん、とウラ君は頷いた。「思い出したよ。約束してたね・・・」
共感してあげないとまたこの子の手首に痛々しい生傷が増えるだろう。役柄に入ると取り憑かれたように没入してしまうタツのことだ。もはや意地という概念を通り越してこれは業だ。
私はウラ君をずっと好きだったのだ、と言い出してしまったからには、嘘も塗り替える凄味の演技力で真っ赤な誠に変えてしまう。
(信じて上げよう、僕一人がウンと頷けば片が付くことだ)とウラ君は思った。
騙されてると分っていても信じてあげよう。この子の芝居の演者に成り切って精一杯ピエロ役を踊ってあげよう。今必死でこの子が僕にそれを求めてるから・・・他にこれほどまでに僕を求めてくれる相手も今のところ居ないのだし・・・
ウラ君の腕の中でダラリと力を抜いて、タツが熱っぽく囁いた。
「私の服を脱がせてよ!セリナにしてあげてたみたいに・・・」
「え・・・?」
「見てたの。ススキの穂影で。セリナと貴方が逢ってるところを。何度も。・・・貴方が自分の上着をまず脱いで広げ、その上にセリナを寝かせ、指が震えて時間がかかりながら、あの子の胸の前で括った帯を解くのを・・・あの時みたいに、私にもして?」
「見てたって・・・?最後まで?」
「最初から貴方の事はいつも見てた。言ったでしょう?放っておこうとしても、目が勝手に追いかけちゃうから。あなた達がコソコソ二人だけで隠れに行くのにも、だから、すぐに気が付いた・・・本当に羨ましかったの・・・あの子にしてたみたいに、私にもして?」
タツが着て来たのはクリーム色のガウンコートだった。その細いウエストに蝶結びでリボンが結ばれていた。ウラ君はその結び目に伸ばす自分の指が今も震えてるのに気付いた。
鹿島には女に耐性がなさそうなお坊ちゃんだと侮られ、そうじゃないのにと自分では思ったが、“楽園”での黒服時代から遠ざかり、免疫が薄れてしまってるのかも知れない。
ウラ君がコートの紐を解くと、もどかしそうに自ら肩を脱ぎ、両腕を差し出して、タツが熱い両手をウラ君の首に巻き付けてきた。引き寄せられながら耳元で甘いタツの囁きを聞いた。
「嗚呼、やっと・・・ウラ君・・・私の憧れの人・・・」
これが嘘か演技か冗談かどうかなんて、途端にどうでも良くなってしまった。
求められるまま導かれるまま、ウラ君は幼なじみのタツの温かい体に溺れ、ベッドをギシギシ軋ませ、声を喉で噛み殺し、熱いミルクのような滑らかなタツの肌、深みに嵌まった。これが何かの罠でも、もう後戻りが出来なくなるのも分りながら、さらに奥を求め、まるで自分の杭でタツをベッドに釘付けにしようとするかのようにズドンズドンと腰を打ち付けた。
どこにも行かせない、どこにも行かせない、とかつてセリナに訴えたように、タツにもすがりつくようにして・・・
何故彼女達美しく逞しい女性達はどこへでも気ままに羽ばたいて飛んで行けて、僕を置き去りにして忘れ去ってしまえるのだろう、タツ、きっとキミもそうなる・・・子供の頃の憧れなんて今のキミが掴んでる物全部を放り出して捕まえ続けていたいほどの物じゃないとすぐ気付くさ・・・
キミはスクリーンに大写しにされて誰の手にも入らない女神、僕は日陰の小虫、太陽と石の下のムカデのような格差だ・・・
正式に愛す前からきっと手に入ることは無いと恨みがましい想いが弾け、わざとタツの神々しいまでに傷一つ無い陶器の肌に赤い爪痕を残したくなる。彼女はヌード写真集もメディアに晒している。傷を付けて良い箇所は体表面のどこにも無い。口内、膣内以外、体の表面は全て事務所と国民の物。絡めた舌を夢中でグイグイ吸い、髪をまさぐり、さらに奥を求め深く深く・・・
終わりが急速に目の前でチラついてきた。
ウラ君が遠慮してタツのお腹の上に精液をぶちまけると、咳き込み息を弾ませながらタツが囁いた。
「中で受け止めたのに・・・」
「妊娠したらどうする?」
「手術されてるわよ。子供は産めないの」
いつぶりか分らないほど久しぶりの射精の反動で目の前が白黒、チカチカした。
「そんな手術いつしたの?」
「楽園で。思春期になるとみんな順番に呼ばれて特別棟のお医者さんの所へ行くの。麻酔されて頭もボウッとしてるしよく覚えてないけどね。セリナ以外の旧体制から居る子達はみんな受けてるよ。避妊手術・・・犬猫と同じに」
「そうか・・・」
ウラ君は生のパン生地のようなタツのクリーム色の肌、波のように豊かに上下する柔らかい胸の谷間に頬を乗せて体の力をゆっくり抜いた。
「重い?」
「大丈夫」
目を閉じると、セリナとタツが交互にチカチカと見えた。セリナはもう少しタツよりも背が高く、ヒョロッと痩せている。タツはより女っぽい砂時計型の体型で、胸とお尻が豊かなため腰が余計にギュッと細くくびれて見える。セリナを強く抱き締めたときは繊細な骨組みの堅さを感じるが、タツを抱いた今は肉の柔さを感じた。セリナが静ならタツは動。セリナが青ならタツは赤。張り詰めて壊れやすい少女セリナ、追いかけても捕まらないセリナ、追ってくれ逃げても捕まえてくれたタツ。母親のような愛着の深さで長い年月待ってくれたタツ・・・
もっとも、セリナは抱いていたときまだ成長期前の子供だったが・・・
「セリナとはこんな風には繋がった事なかったんだよ・・・」
タツは聞こえなかったのか、聞き流しかけたらしい。大分しばらくしてから、ウトウトとウラ君が眠りかけていたときになって急に聞き返してきた。
「え?何て?」
「え・・・何が?」
「何て言ったの?」
「えっと・・・?何のこと?」
「貴方がさっき言ったことよ、何て言ったの?」
「僕さっき何か言ったかなぁ?」
「セリナとはやったことないみたいなこと言ったじゃない?」
「嗚呼、ああ、うん、そうだよ・・・」もう良いじゃないか、そんな大昔の話は、ちょっと今は眠らせてよと思ったが、タツにとってはそうはいかない重大事らしい。
「セリナとは繋がったことないなんて、そんなわけないじゃない?言ったよね?私ちゃんと見てたんだって!ススキの穂影から。薔薇の棘にチクチク刺されながら藪の茂みに屈んで盗み見てたこともあったんだから・・・」
「いや、でも、僕は本当にセリナの中には入ったことがないんだよ。あの当時あの子はまだ小さい子供だったし、仕事でヘトヘトにいつも疲れてたし、僕までがあの子の体を使って性処理をするのは可哀想で・・・」
「じゃあ何してたの?貴方が服を脱いで、あの子の服も脱がせて、二人して裸になり、草陰で貴方があの子の上に沈んでいくのを私は見てたの・・・凄く愛おしそうに両腕に抱えて・・・」
ウラ君は何とも答えなかった。タツの腕に抱かれベッドの縁から転げ落ちないようにタツを抱き締め、片足で床に突っ張ってタツの上で横になっていた。
「・・・脚の間に挟んでしてたの?」
「・・・そんな感じだったかな・・・もう忘れちゃったよ・・・」
「体で貴方と繋がった事はないって、あの子も言ってたけど、・・・貴方とは心で繋がってたって・・・何寝惚けたこと言ってんのって私は言い返してた・・・だって、まさかそんな・・・だって見てたんだもん、私はこの目で・・・貴方がシャツの前を開けて、あなた達の胸と胸が合わさって・・・まるで一つのシャツの中に二人で入ってるみたいに一つになって・・・」
「きみにどう見えたかまでは否定しないよ・・・」
「・・・確かに、全部が見えたわけじゃなかった・・・」
ウラ君は頷き、タツに凭れて目を閉じた。
続く!(ウラ君と鹿島君・ウラ君とタツちゃん 終わり!)




