ウラ君後編・4
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日常の業務・・・大体パターンは決まり切ってきていた。水曜日の午前に会う人、午後の早めの時間帯に来てくれる人、夕食だけを共にしてお喋りを楽しみたいと言う人、それから、夜遅くに泊まりがけで出向き、木曜の朝まで一緒に居る人・・・
週に一度、二週に一度、月に一度、位の頻度で通ってくれるお客様方・・・
もっと一人の人と会う時間を絞り、予定を詰めれば日に五人と会うこともできるが、それではギチギチにゆとりが無さ過ぎる。どこかで小さなトラブルがあって時間に遅れが生じると後々までずうっと連鎖を起こして時間調整が必要になってしまう。
セリナのマネージャーは「今は新規客を増やそうと力を入れてはいない。」と言う。「これ以上客が増えたら貴女は回らなくなる。今のまま。固定客をキープし続け、下の子を育て手本となり、現状維持。実はこれが一番難しい・・・地味に見えて。でも、貴女になら目を瞑ってもできてることだ。もはやセリナさんの安定したお仕事ぶりには安心感がありますよ・・・」
37歳のセリナの顧客はほぼ自分の歳±10歳前後の紳士が多かった。一番働き盛りの世代。それより上のおじさま達もいるにはいる、大勢いるけれども、彼らは半分セリナを娘か猫か孫かのように可愛がってくれ、比較的気長に待っていてくれる。
しかし、毎週会う曜日を決めて、セリナと過ごす週に一度の休日を目標に、それ以外の日々を生きづらい社会で馬のように働き駒のように扱われ、ストレスを溜め込んで、歯を食いしばって頑張っている最前線で働く企業戦士達、まだ若く勢いがあり気が短いお客達をあまり長くお待たせしすぎると、待ちきれなくなって、他の遊女に手を出し始める。
(戦略的に、付け上がってきた横暴な常連客に『あのね、ちょっとそんなに無理なワガママばかりお言いなら、あっちへ行っていっぺん浮気でも何でもしておいで』と突き放してみせ、初見の他の子に相手をさせて、常連でもない商売女の塩対応に当たらせ、弱って戻って来たところを『ほらね、私だってお金で言うことを聞く商売女かも知れませんけど、これでも貴方に対して情のある方でしょ?これでよく分った?こちらの言う事もちょっとは聞き入れてよね?』と懲らしめることもできる。それは同時に諸刃の剣でもある。客が別の店で別の子と運命的な出会いを果たし、本当に自分より気に入ってしまって帰ってこない危険も孕んでいる戦略。なので、もう捨てても良いと思える酷い客にしかこのやり方は使えない。)
セリナは、鹿島君の傍に付ききりで居るために、先週の土曜日から火曜日に予定していた約束を全て自分の体調不良だと偽って先延ばしにして貰ったり、反故にしてしまっていた。
そのために今日からはミッチリと働かなくてはならない。指名を受けてナンボ、体を張る商売なので、健康第一、ベッドの予定に代役は立てられない。(可愛がってる妹分の後輩、暇にしてる先輩等に、二人分のチケットを取って貰ってしまってる観劇に連れの女性として同行して貰うことはできても・・・一応、ベッドのお誘いは男の側も気を遣ってしないし、女側も断る。・・・建前上は・・・)
水曜日の朝一番に会うおじいちゃんは、いつも花を持って来てくれる。大きな庭と温室と屋上庭園を自宅にお持ちのようで、自ら手塩にかけ育てた愛情たっぷりの鉢のままの花や、切り立ての瑞々しい季節の花を、新聞紙に無造作に包んで、背負ったり抱き抱えたり、時には楽園の迎車を家まで呼び寄せ、大輪のヒマワリやラナンキュラス、ユリ、ダリア、フヨウ等の花々を土ごと持って来てくれる。今は大体二週に一度ほどの頻度で会っているお客様。以前はほとんど毎晩のように会っていた事もあった。彼の長く連れ添われた奥様が亡くなられてすぐの頃は・・・
この紳士との思い出はいつも生花の彩りと香りと共に思い出すため、花の旬で季節にも結びついて覚えている。最初に貰ったのが睡蓮だったから、出会ったのは気候の温暖な春か夏・・・
セリナはパンパンに膨らんで濡れたビニール袋を二つ手に提げて、
『要らなかったら捨ててくれて良いから・・・』と言いながら初対面で(若干、池の生臭さも感じられる)贈り物を携えて来た老人に、内心
(え、怖い、袋の中身は何だろう・・・?)と不気味さを感じた。
しかし、不快な変な物ではないはずだ。一応、“楽園”の入り口で簡単な検問を通り抜けてきているはずだから、危険物やどう見たって有難迷惑なプレゼントなら、そこで没収されている・・・
ギュッと縛ってある結び目を爪を立てて解き、現れた可愛らしい水花を見て、不安の分、パッと心から嬉しくて、盛大にはしゃいで大喜びした。
「うわぁぁ!可愛い!!あ~っ、良い匂い~!!」柔らかく冷たい花片の重なりの中に鼻を突っ込むようにして香りを吸い込んでみると、蝶々が誘い込まれる新鮮な甘い蜜の香りがする。生臭さの正体が分れば、何故だろう、ほんの少しの魚臭いような池の香りすら、この心の優しい老人の住まいを思い浮かべる要素となる、断然、印象の良い香りに感じられた。
「もう一つの袋も同じお花ですか?」
セリナがもう一方の袋の結び目も解こうとしてる間に、照れ臭そうに、おじさまが先に種明かしした。
「そっちのは色違いだよ・・・」
「あっ!黄色!あ、淡ピンクもある・・・綺麗~!!うわぁ~、ありがとうございます!浴室と金魚鉢に飾りますね・・・可愛い~・・・いっぱいあるし、友達にもお裾分けしようかなぁ・・・良いですか?みんな凄い大喜びすると思います!」
「どうぞどうぞ。そんなに喜んでくれるならもっと持ってくれば良かったね・・・」
紳士はセリナの喜びように最初は途惑い気味だったが、すぐ目元を綻ばせ、そこからは始終ニコニコし通しだった。
「実はあともう二つ三つ分、もっと大きなゴミ袋に花を捨ててしまったんだ・・・
庭の池の睡蓮がボウボウでね、・・・私は毎朝夕に鯉を呼び寄せ餌をやってるんだが、どうも花が増えすぎて邪魔で、私の足音を聞いて遠くから泳ぎ寄ってくる鯉たちの優美な姿が見えなくなってしまっていた・・・家内がいるときは、花が適当な量に増えたところで程良く処分したり、家の中に飾ったりしてくれていたんだな、きっと・・・」
語尾を閉じる紳士の寂しそうな眼差しで、セリナは聞かずともなんとなく事情を察した。
柳さん。この紳士の遊び名はセリナが決めた。実名はとうに忘れた。ここは現実界の隣、本名や私恨はむしろ持ち込み禁止。パスポートは寂しさ、人肌を求める心の隙間がビザ。時に後払いで、遊女達が客の代金を立て替えてやることだってあるのだ。同じ寂しさを分かち合う同士として・・・
彼と懇意になって以降は、セリナは定期契約していた花屋に少し来てくれる頻度を控えて貰うことにした。花屋から買わなくても、柳さんがいつも元気いっぱいに咲き誇る自慢の花を定期的に持って来てくれ、セリナの部屋をいつも旬の瑞々しい花花でいっぱいに飾ってくれたからだ。
「セリナさんに会えない日も、花の手入れを楽しくできるようになったよ・・・」
並べた枕で柳さんは教えてくれた。「これまでは亡くなった妻を思い出して、時期が来ると勝手に庭にボーボーと咲き乱れる花を切って捨てるのが辛かった。家の中に花瓶はあるが、わざわざ独り身で家の中を飾ったってね・・・、花の生け方を習いに来る生徒さん達ももういない、見るのは私だけだし、また水替えやら花瓶を洗って次の花を挿して、だの、後始末を考えるだけでも面倒で・・・そもそも私の趣味では無かったし・・・、
家内は生け花の先生をしてたんだよ・・・庭の花を切ってよく教室や生徒さんにも持って行ってた・・・」
セリナは声を出さずに、頷いた。目を閉じていたけれど、柳氏の温かい手のひらに頬を載せ、自分の頭の動きで柳氏には全て伝わると知っていた。彼もまた、目を閉じて話していた。
「庭に咲く花を切ってただ捨てるのじゃ可哀想だけど、仕方がなかった・・・生前、妻がそうしていたのを見よう見真似で・・・よくどんな花も、蕾のうちに摘んで花瓶で咲かせていたのは、私も見て知っていたから・・・枯れてから汚く散って萎れて朽ちていくのを家の窓から全部見てるのもまたしんどいし・・・花は美しく咲いてるときに摘まなくちゃ、大勢の人に見られ愛でられなくちゃ、もったいない、・・・」
「うん。そうですね・・・」
「貴女に出会えて本当に良かったよ。セリナさんがまたどんな素晴らしい笑顔でこの花を受け取ってくれるかと思うと、今は私自身が楽しみで花壇を弄ってる。可愛い蕾はセリナさんの横顔、目を閉じた顔、寝顔、こちらの視線に気付いてない時の素の表情、蕾が開きかければ、貴女の笑顔を思い出す。さぁまたセリナさんに持って行かなくちゃいけない次の花が咲いたぞ、と、こちらへ電話して貴女の予約を取らせて貰う」
セリナはありがたくて、嬉しくなって、想い溢れ、柳さんの頬にギュッと頬を寄せた。
柳さんの萎れた男根は気まぐれにしか起立しない。しかしそれでも良い。全然それで構わないと本人が思っているらしい。無理にたたせ、無理に体を繋げようとしなくても、自然な流れでできるときにはすれば良いし、同じ時を共有するだけでも充分に満足だと感じて貰えてるみたいだ。セリナの手の中で、柳さんのそれは重みがあり、厚みがあり、タップリとしていて、眠れる獅子、ギンと大きくなった時はとても大きい。柳さんの姿勢の良さを真似たみたいな真っ直ぐな、雄々しい姿勢の良さで。けれど眠ってばかりの猫みたいに毎回確実に隅々まで漲って自立しないところもまた、愛おしい。温かく、セリナの指に凭れかかって気を許して休んでくれてる一生物みたいなそれ。もっと以前には、自身の体内で震え膨張し爆発したこともある。何度もある・・・柳さんとはもう長いのだ・・・
しかし今日はセリナのライオンさんはお休みの日のようだ。柳さんは慌てず騒がず、気持ち良さそうに目を閉じて、黙ってセリナの手に握らせ、くすぐらせ、されるままになっている。温かい大きな手でお返しにセリナの・・・雌ライオンの巣穴を撫でている。
セリナはゆっくりと柳氏の肩を押して仰向けになってもらった。そして相手の胸、お臍、大手術の痕の白い線をなぞって、下腹、白い陰毛に、口付けながら、暖かい布団の中を下に下に潜り込んでいった。やがて手の中の、柳氏の熱を帯びたペニスに辿り着き、そっとそれを口に含む。優しくマッサージするように甘噛みし、舌を絡め、それが内側からの情熱の高まりによって熱い血で膨らんでくるかどうか試してみる。
風船に息を吹き込んで肺活で膨らませるのとはまた違う、愛情を込めて相手が膨らむかどうか待ちながら試行錯誤、より良さそうなポイントを探り探り、やってみるところは、そう、まさに、花を育てるのにも通じている。頑張ってみてもダメな時もあれば、気のないにもかかわらずビンと勝手に膨張してるときだってある。
もっと若い頃にはまだよく分らなかったが、男の人も期待されすぎたり緊張しすぎたり焦りすぎたりすると勃起しないこともあるらしい。心ととてもよく繋がってる器官だ、と思えたり、気は急いてその気満満でも言うことを聞かない時や、また意地でも平常心を保ちたいときに限ってムクムクッと起き上がってきておさまらない時があったりするとか、心や頭、宿主の指令に背いて身勝手に独立してる一生物に思えたりもする。この生物達ったら、面白い、まるで男の人みんなが飼ってるペットみたいだ。
ペットに手綱を引かれて引きずり回され、飼われてるみたいな男の人も結構いるし・・・
セリナのやってることを励ますように、ヴヴ・・・と喉で小さく低く唸りながら、柳さんが腰を持ち上げ、セリナの顔にジワリと近寄せた。情熱的に、頭を撫でてくれる指の力が強まり、激しくなり、髪が縺れ絡まって痛かった。それでも、相手の高まりを読み取り、もうすぐなのが分って、セリナはやめないで続けた。柳氏のお尻を抱き締めて。やがて、
「ぁぁ・・・!」体が引き攣り、柳さんが昇りつめたのが分った。
手がストップの合図にセリナの耳をやんわり引っ張る。達したすぐ後はくすぐったがりな方なのだ。全て知り尽くしている、私の柳さんの特徴、癖、手術痕も体の硬さも、全てが愛おしい。心臓弁を取り替える大手術以降、パイプカットした彼のペニスからはほんのりとお出汁のような風味が漂うくらいで、液はほとんど出ない。セリナはそっと柳氏のペニスを口から出し、また自分の手のひらで包んだ。クタッと萎れたまま達したその子を、優しくフニフニ握り締める。幽かな、幽かな欲求不満の虫が自分の下腹に首をもたげ、首を傾げてる気がする。
「おいで。息苦しいだろう?」柳氏が布団をめくって呼ぶ。
セリナは聞こえないフリをした。
ふぅ、と大きく溜息を吐き、柳氏の手を引っ張り、手のひらを枕にしてまた目を閉じる。
実は、別の人のことを思い出していた。(柳氏だって、時折遠い目をして、セリナと居るときに別の女性を思い浮かべている節がある。先に言い訳をしておくと。)
別の人とは、鹿島君のこと。そう、やっぱり、鹿島君のこと・・・
喉の奥を開けば、全部を口の中に入れてしまえる大きさのペニス(その時鹿島君は寒そうにして、鹿島君の鹿島君も寒そうにちょっと縮んでいた)を、口に含み、口内で温めてあげるようにしばらくそのままでいた・・・。・・・あの時の感じと、さっきの感じがやっぱり似ていたから・・・
鼻や口の周りにモジャモジャと柔らかく硬くあたる陰毛、顎にプニプニ触れる水風船のような睾丸の感触・・・
いつもなら、柳さんがとうに諦めてるのに、こんなに情熱を持って執拗にフェラチオを完遂させたりはしない。ちょっと柳氏の体を借りて鹿島君を思い出してしまっていたのだ・・・
一緒に過ごした最後の昼下がり・・・まだ昨日のことだ・・・夢を見ているようだった、眠っている鹿島君の体を自分だけの自由に好き放題触れた三日間・・・
やはり過ぎてしまうと、あれは夢だったのかも知れないと怪しく疑われてくる・・・現実から浮遊した日々・・・夢にも描いていなかった夢・・・幸福すぎて、
『ここはどこなの?天国?』と寝惚けた鹿島君に聞かれ、『私にもそう思えるよ』と囁いて答えた。
鹿島君は眠ったりボンヤリ目を覚ましたり、キョロキョロしたり、お粥を啜れるようになったまでは良いが、ベッドから降りて自力でトイレへ行こうとしだしたときには困った。あの時には、病室には似ても似つかないセリナの客間を病室、この塔を病棟と思い込んでいて、
『尿瓶に出して』と瓶を押し付けても、意外な力を発揮し、ブルブル震え、イヤイヤと頑固に首を振り、意地でもフラフラ立ち上がってヨロヨロと廊下へ出て行こうとした。仕方が無いから、
『お手洗いは個室に付いていますよ』と話を合わせ、ナースの口調で室内のトイレへ誘導した。
頭が正常に回っていなくても鹿島君は身についた育ちの良さや潔癖を表し、いつもの習慣通りに手を石鹸の泡だらけにしてキチンと肘まで洗った。便座に座ってオシッコし別にさほど汚いものにも触れてないのに。トイレのドアを押さえジッとナースになりきって見守っていたから、セリナには分るのである。
入念に手を洗いながら横目で鹿島君が見ている物に気付き、セリナも浴槽を見た。
『お風呂に入りたい?』
『うん』
『じゃあ、待ってね、用意するから・・・』
どうしても外せない仕事が一件だけ入っていた。代役を立てて行って貰うことができない。鹿島君が眠ってくれなくては出掛けられない。誰か、信頼の置ける妹分の女の子で予定の空いてる子を探し出してきて、鹿島君のお守りを三時間だけお願いするか・・・しかしあの時は弟が、怪我人の様子を見に来た。
『お前はウロつくな。まだ寝ていろ』
鹿島君の腕を掴んでベッドに連れ戻し、グイと押し付けて頭を枕に沈めさせた。鹿島君も医者だと思い込んでいる威圧的な弟の前では大人しい患者を演じた。まるでこの人の言うことを黙って聞かなければ早く家に帰らせてもらえないと信じ込んでるみたいだった。
『先生、僕の車は・・・眼鏡は・・・あの、男の子は無事ですか・・・?』
『これを飲め』弟は手に持ってきたストローの刺さったコップから鹿島君に水を飲ませた。
『質問は後。全部飲めたら教えてやるよ』
セリナはその水に一体何が溶かされているのかと内心ただならぬ思いで弟と弟の手からストローを吸う鹿島君を見守っていた。案の定、大きなコップの中身を全部は飲み干しきらないうちに、鹿島君の目がどろりと濁り、口の端からブクブク泡を吹き、ベッドへドサッと仰向けにひっくり返った。
『何を飲ませたの?』焦る気持ちを必死で漏らさないようにしながら、セリナは弟に聞いてみた。
「ただの良く眠れる薬だよ。怪我人には睡眠が一番」弟が部屋を出て行き、入れ違いに弟の腹心の部下でありセリナの優秀なマネージャーを務める岡崎君が部屋のドアをノックした。
「セリナさんお時間です。車を待たせてます。もう出ないと間に合いませんよ!」
岡崎君もチラッと鹿島君の容態を確認するように天蓋を下ろしかけたベッドへ目をやった。
「今日はこれ以外の仕事は全てキャンセルしてくれてるよね?」
「キャンセルしてます。そのかわり来週は激務ですよ」
「分ってる」
どうしても出掛けなければならなかった仕事もできるだけ巻きで切り上げて、四時間後には戻って来た。
鹿島君は昏睡状態だった。二日にわたる長い眠りが途切れ、細切れにボンヤリと目覚めるようになり、すると弟が手に得体の知れないコップを持って怪我人の様子を見に来て、また鹿島君は崖から突き落とされたような深い眠りに落ちいる、その繰り返しのパターンが出来てきつつあった。
「お風呂に入れてあげるって約束だったのにな・・・」
セリナは鹿島君の体を初めて洗ってあげた二人の出会った最初の日の思い出を一人噛み締め、コートを脱いで、寝顔の頬に触れながら元恋人を見下ろした。
仕事を離れて本気で恋し、愛したのは鹿島君が最後だった。もしかすると最初で最後だったかもしれない。
鹿島君以前と以後に深く付き合った少年少女達は、セリナにとっては友達の延長線上にいる非常に仲の良い友達だった。仕事仲間でもあり、共謀して悪事を働く相棒でもあり、子供らしい子供同士の友情に繋がれた存在。また、幼少期に深い関係に至った大人達は、親を欲する気持ちに強く根ざした幼児の渇望だった。繋ぎ止める方法が肉体的でも、心理は、お母さんお父さんを欲する子供の気持ちから来たもの。思春期に、少年から青年になりかけの鹿島君に恋い焦がれ、彼を手に入れ、鹿島君と一つの同じ未来を描いて、鹿島君と築き上げていた関係性と、他の誰かとの関係性は、セリナの中では全く別物だった。
今でも、セリナは鹿島君を好きだった。離れても忘れられたことは無かった。鹿島君にかわる人が現れた試しもない。一時は、誰か愛しても良さそうな手頃で安全な身近な相手を選んでこれを愛と呼び、寂しい心を欺こうとしたこともあった。けれど、上手くはいかなかった。
職業柄、自分を気に入って通ってきてくれる男性なら五万と居たのだけれど、それは皆どこかで割り切りのお客さん達だった。この仕事を捨てて弟も捨てて二人だけで一緒に逃げようという相手ではなかった。「こんな仕事は辞めて僕と暮らせば良い」そう誘われても、もう、その台詞は虚しく響き、どこか心の中枢が既に死んで、冷めてしまっていた。
本気で命をかけた鹿島君との恋が終わって・・・
彼が自分を捜し回ってくれていたという噂は、耳を塞いでもセリナに届いていた。しかしあの時期は・・・
鹿島君の元から引き離され、“楽園”に連れ戻されてからは、セリナのこれまでの人生の中で一番長く深い暗黒の時代だった。混沌。出口のない落とし穴の底を這いずり回る日々・・・
多分、単純に体に入れられる薬剤の量が多かったせいだ。ほとんど自分では記憶が無く、思い出すことが出来ないが、真っ暗な空白の数年があったことだけ分る。後遺症が残らなかったのは奇跡だと後々、周り中から言われた。非難するようにすら言われた。
「鹿島君・・・」
離れていた年月、彼に愛されて幸せだった夢を見ていたような期間を、思い出さないようにしようとつとめて押し込めてきた・・・あんなものは嘘だった、二人で普通に家庭を持つとかそんな夢も、他の客が言ってくるのと同じ絵空事、大して信じてもいなければ望んでも無かったのだと思い込もうとして・・・そんなこと自体無かったことにして・・・思い出すと辛いから忘れ去ったフリ、そもそも無かったフリをしていた。
でも、気付かないところで想いは募り燻り続け、今、彼を目の前にすると、前まで以上に怖いくらい鹿島君を好きな自分の気持ちの強烈さに驚かされた。
弟を恐れる前に、自分を恐れなければいけないほど・・・まさか本当にはそんなことはしないけれど、鹿島君が気が付いて『ここは自分の居る場所じゃ無い』等と言いだし元気になった足取りでトコトコと山を降りて去って行ってしまう前に、両手両足を拘束してしまいたい。頑丈な鉄柵の付いたベッドと手枷足枷を用意しておいて・・・
そんなことをしたら自由の効く口で『帰りたい』とか『これを外して』とか、『キミなんか嫌いだ』ときっと言うだろうから、猿轡も用意して・・・
そうなったら今度は、食べ物を食べずに死のうとするかも知れない・・・
衰弱して死んでしまうくらいなら・・・
この安らかな寝顔のままで、自分の手で殺して剥製にして永久にこの自分の部屋に居て欲しい・・・そのくらい、そんなことを思い付けるほど、鹿島君を大好きだった。
ただやっぱり、生きてはいて欲しかった。
あまりに静かに動かずジッと横たわってるのでふと不安を覚え、彼の胸に手を当ててみ、唇に口をくっつけ、肌が温かく胸が上下して、鼻息がかかりちゃんと呼吸し生きてるのを感じると、ホッとした。
(目を覚まし元気になれば彼は元いた場所、自分の街、自分の家、自分の会社、今付き合ってる恋人の待つ自分の世界に戻っていくだろう、それが分っていて・・・)それでも彼の回復に全力を注いだ。今現在の鹿島君の幸せのために。
「お風呂に入りたかったのにね・・・たくと君?」
確かに二日眠り続けで彼の体臭は濃くなっていた。セリナはむしろ温かい肌の良い匂いだと思うが、本人は汗をかいてる感じがして気持ちが悪いのかも知れない。夏は日に二度も三度もシャワーを浴びる綺麗好きな人だった。
窓を打つ雨に視線を移し、思案する。仕事帰りの車の中にいるうちから、ポツポツと曇り空から雨が落ち始めていた。今や本降り。まるでシャワーのように外は雨が降り注いでいる。
(一人では彼を浴室まで運べない・・・誰かを男手を呼んで来て・・・?弟か岡崎君なら事情はもう知ってるし・・・いやいや・・・いやいや・・・では隣の部屋から妹たちを呼んできて・・・?う~ん・・・それもちょっと・・・)要するに一人で彼の世話を全部やりたいのだ。極力誰にも手伝って貰いたくない。鹿島君を独り占めにしたいのである。
「身体を拭いてあげることなら出来るかな。ちょっと待っててね」寝ている彼に話しかけ、湯を沸かしに行く。
石鹸とタオル、洗面器にたっぷりの湯気の立つお湯(自分の好きな薔薇の香料を少し垂らしてみた)を抱えて戻る。ベッドサイドに引き寄せたテーブルにそれらを置き、ドキドキ胸を高鳴らせながら、部屋の温度を調節してから、鹿島君の体にかけた布団をソロソロとめくる。
この部屋に運び込んで最初の日に、彼の着ていた服は全部脱がせ、体に大きな怪我が無いか調べた。その時も全身の傷の大きさ深さを確かめながら血や汚れを拭き取ってあげたけど、弟が立ち会いの下だったから触り方は必要最小限だった。
今、鹿島君の体を包んでいるのは客用のガウンとその下に自分の絹の羽織だけ。一枚ずつそれらを脱がせる。腰紐を解き、ボタンを外し、肩を持ち上げガウンの袖から腕を引き出す。青いタオル地のシットリと重たい厚いガウン、水のように滑らかな淡い虹の模様のシルクの羽織・・・
バニラアイスクリームの色の鹿島君の裸が露わになった。
窓ガラスを滑り落ちる雨の影と光が肌に映写されている。まるで流れる白豹の模様のよう。雨音さえスッと遠ざかる。あまりに綺麗で、見事な男性美にセリナは息を止め見とれてしまう。思わず、一歩後ろに下がって、全身を一度に眺めたり、
(均整のとれた素晴らしい肢体・・・お臍の形から爪の形まで、愛した時そのままの形・・・ゆったりと眠りによって力の抜けた、鍛えすぎてない筋肉・・・自分と付き合ってるときの彼はまだ最後の成長期で、肉体労働のアルバイトを掛け持ちしており、もっと痩せて筋肉質で無駄の無い感じだったが・・・今のこのちょっと緩んだ感じくらいが私も今はちょうど一番好き・・・)
(付き合ってた当時には胸の真ん中に柔らかい毛が少しだけ生え、若い雄ライオンみたいだったけど、あれから十数年経った今では、もう少し毛並みが濃くなって胸の間から真っ直ぐ黒い毛がお腹に縦一直線の線を引き陰毛に繋がっていた。)
たまらず近寄って肌の匂いをクンクン嗅いで舌を出し味わってみたりした。
(牛乳石鹸の匂い!いつもこればっかり使ってる人だったなぁ、やっぱり今もこればっかりなんだ・・・このままでも充分良い匂いだけどなぁ・・・)
雨の午後だったが、それでも室内より外の方が明るかった。
鹿島君がしっかり眠りこけてるのを窺い、脇や股の匂いもクンクン嗅いでみる。このあたりが一番匂いが溜まって体臭にも個性が出てくる。同じボディソープを使っても十人十色。
(私はこの人のこの匂い、嗚呼、大好きだけどなぁ・・・)
そう思いながらも、薔薇の湯気の立つ湯にタオルを浸し、柔らかい甘やかされた手のひらを火傷しそうになりながら、ギュウギュウ絞って、ホットタオルを作った。
(さて、どこから拭いてあげよう・・・)
窓ガラスを流れ落ちる雨垂れが、鹿島君の広い胸、逞しい腕、喉、顎、脇腹、臍、全ての筋肉の隆起に沿い、苦しげな呼吸のたびに揺らめき、滑り落ちていった。まるで禁断のモノクロームの無声映画を盗み見てるような美しさ、背徳感・・・
(お顔からかな・・・)
まだそんなに汚れてるわけでも無い寝たきりの肌。部屋に焚く香の香と、タオルを浸す湯に垂らしたアロマオイルで、鹿島君の体にもセリナと同じ薔薇の香りが染み込んでいく。彼はますますセリナの好きな香りに染まりきった。
彼の意識がなく、触り放題体中にペタペタスリスリ触れるなんて、望んでもない幸運・・・
(今だけはこの人を私の好き放題にしちゃって良いんですよね・・・、神様?)
等と思い、セリナは部屋の扉を施錠しに行き、ベッドの周りの蚊帳を下ろし、鹿島君の眠り続ける顔を見下ろしながら自分も肩から衣を床へ脱ぎ落とした。スルリと。
横を向いてクシュンッとクシャミをする鹿島君。
これから自分の身に降りかかる何かを感じ取ったかのように・・・まるで起きていて寝たふりをしてるみたいだ・・・こちらで自分を見下ろしている女がいることを知っていて、その相手の顔に唾を飛ばさないよう配慮してするクシャミみたい・・・しかし、
「鹿島君、起きてるの?」
と聞いてみても、「ムニャムニャムニャ・・・ンンンンン・・・」としか言わない。
肌の上に付けている最後の一枚の薄物のリボンを解き、前を開けて、ひらりとベッドに、鹿島君のお腹の上に跨がる。そのまま前へ身を沈め、胸に胸、肌と肌をピッタリと合わせ、自分の羽織で鹿島君の体をも包み込むようにして、彼の体の上に寝そべってみる。水溜まりに落ちた雨粒が一つに溶け込むように・・・寒さのためか、二人のピンと尖った乳首が柔らかい皮膚の中に押し潰され、擦り合わされ、転がり、ちょっとだけ痛い。その痛みさえ甘美。
ふわりと鹿島君の腕が持ち上がり、セリナの腰に回された。無意識の彼方から呼び覚まされかけてるのかも知れない・・・
「好きだよ・・・」耳に囁くと、
「ゆき・・・」掠れ声で彼も自分を呼んでくれた気がした。
彼の髪を何度も何度も指で梳き、耳に口付け、眉の形を指先でなぞり、口を吸い・・・
(嗚呼、好き・・・好き・・・鹿島君・・・)
逞しい首筋に目を口を押し付け、涙を堪え、骨の太い鎖骨に、心臓の上に、夢中で広い胸の上どこもかしこもに、それから右の乳首に、熱烈に口付けた。
(こうできるのも今日で最後、これでお別れ・・・貴方は私との再会を知らないまま・・・)
堪えきれず溢れた涙が、鹿島君の素肌に落ちた。
火が付いてしまい燃えさかり下腹が疼いてどうしようも無い。彼が欲しい!彼が欲しい!と全身の細胞が悲鳴を上げ、鹿島君を欲している。
こんなに眠りこけてる男の人をどうにか犯してやりたいと思ったのは初めて。この性にまみれた人生で、初。
チュウチュウ、チュウ、チュウ、チュウチュウ、と熱烈に吸う唇が、胸毛の毛並みに沿い、真っ直ぐ下へ下へ降りて行く。我知らず、舌が出て、鹿島君の硬く柔らかいモジャモジャの茂みに頬擦りし、眠っている柔い陰茎を唇で掬い、チュウ、と吸う。
ビクン!と鹿島君の全身が跳ね、
(あっ!)・・・起きてしまったか?!・・・とピタリと動きが止まる。
しかし、ムクムクと起きてきたのは口の中の彼の可愛くてカッコイイ分身だけだ。鹿島君の本体はスヤスヤ眠ったまま・・・
(やっぱり不思議・・・こんなことにもなるんだなぁ・・・男の人の体って・・・)
セリナはそう思い、
「鹿島君、ごめんね、」と彼の耳に囁いてから、跨がる位置と角度を変え、まるで骨が入ったようにガッシリと屹立した鹿島君のペニスの先を自分の潤んだ入り口に当て、静々と、腰を下ろした。
目玉が瞼の中でひっくり返る。
「嗚呼、・・・」と声が漏れ、喉が天井を向く。
もうここが天国、このまま死にたい・・・
やがて、鹿島君の滑らかな肌の上を指先で手探りして、再び目を開く。せっかく閉じた脇腹の傷を蹴って開かせたりしてしまわないよう、膝を立てる。左の目と鼻の痣、髪の生え際の中の傷に気を付けながら、両手で彼の顔を包み口付ける。最初だけ遠慮してそろそろと舌を入れ、鹿島君の舌先に触れると、遠慮を忘れ、一生懸命にじゅるじゅる舌を吸う。
(ずっとこのまま、唇を離したくない・・・!)
彼の首に両腕を回して抱き付いたまま、うねるようにゆっくり、腰を動かし始める。心なしか、鹿島君の体がこちらを迎え入れる姿勢に向きをずらせ、合わせてくれたような気がした・・・
自分だけが自己満足のために鹿島君の体を使って欲望を満たすのだと、思っていた。
しかし、願望がそう勘違いさせただけだろうか、エクスタシーの最後の瞬間には、彼も腰を突き動かし、二人は完全な一個となって頂点の高まりを迎えた。
「はあぁっ、・・・」と、同時に深い熱い溜息を吐いた。満ち足りて幸せな同じ溜息を・・・
若かりし頃、付き合ってたときと同じに、鹿島君の腕には射精の瞬間にザーッと鳥肌が立った。
自分の膣の中で鹿島君がドクッ、ドクッ、と激しく痙攣し噴出するのも感じ取れた。間違いない。
セリナは余韻に浸る間、鹿島君の頭を両腕でキツく抱き締めたまま、彼の首に熱い息をハァハァかけながら、離れがたく、そのままでいた。流れ落ちた二人の汗が肌の上で混じり合い、子宮が精子を搾り取って飲み干すまで・・・
やがて剥き出しの背中、お尻や腿の汗が冷えゾクゾクッと身震いし寒くなってきたので、片手を伸ばし、邪魔だと脇へ押しやっていたシルクの掛け布団を引っ張り寄せ、重なり合う自分達二人の体の上にかけた。
何か濡れた塊がボトリと湿った音を立てて床へ落ちた。鹿島君の体に跨がったまま、首を伸ばしてベッドの縁の向こうを見てみると、落ちたのはいつかのホットタオルだった。そう言えば身体を拭いてあげていたんだっけ・・・まぁいいか・・・また汗をかかせちゃったし、後でまた拭いてあげよう・・・今はまだ、このまま・・・
鹿島君のはセリナの中でまだ大きいまま、なかなか萎んでいかないで、受け渡した液を膣内に留める栓の役割をしている。目が覚めない本人に代わって、「まだここに居るよ」と分身である鹿島君が代弁してるみたいだ。可愛い、愛おしい・・・
セリナは鹿島君の頬に頬をペッタリくっつけ、全身の力をゆるゆると緩め、相方の幅広く厚みのある温かい肩に凭れた。まるで海を行く大きな船のように大柄な鹿島君の呼吸もゆったりと穏やかさを取り戻していた。
やがて果てた体位そのままの姿勢で、昔に返ったみたいに二人は共に眠りに落ちていた・・・
・・・
大壺に見事に咲いた深紫のシクラメンと真っ赤なポインセチア、出窓と寝台脇の小机に飾る可憐なノースポールとビオラの花束を受け取って、お返しに同じ棟の女の子達と焼いておいたマフィンをお持たせし、柳さんを送り出し、鏡の裏の秘密の扉を抜け、次の仕事部屋へ・・・
風呂に湯を溜めシャワーを浴びて化粧直ししながら次の客を待つ僅かな間に、セリナの魂は再び恋しい人の元へ漂い出ていった。もうここにはいない、元恋人の元へ・・・
・・・
午睡から冷めた夕暮れ。鹿島君に凭れて自分も眠っていた間に雨は上がり、霧に煙る山に虹と夕焼けが同時にかかっていた。
雲に覆われて陰っていた日中の分も巻き返そうというような、洗われた大気の輝き。透明な高い空、黄金の西日が眩しく部屋に降り注いで、細く開けた窓から入り込む森の風を受けゆっくり回転するサンキャッチャーが部屋中、壁にも床にも、戸棚の中のグラスにも化粧台にも、裸の自分と鹿島君の素肌の上にも、キラキラ光る小さな虹を撒き散らしていた。
「鹿島君、一番星が出てるよ・・・」
囁いて、さっき見えた星を探して再び見上げると、空に散らばる星はもう数を増していた。夜も明るい街からでは見ることが出来ない数の星屑がここ“楽園”では鮮明に見える。天然のプラネタリウム。
眩しさに目を細め、欠伸して、彼の顎に視線を戻す。濃く武将髭が伸び始めている。掠り傷はカサブタになって早くも治りかけている。
そっと手を取り見てみると、爪も伸びかけている。さっきはエッチも出来たし、鹿島君は、表面的にはもうどこが悪いのか分らなくなりかけだ。あんなに大きな音をさせて車を山道で大破させ、その運転席に乗っていた人とは思えない。
髪の中に隠れて頭皮に出来たタンコブと瞼の青紫色の見るだに痛そうな腫れはなかなか引かなかったが、今朝になってそれもようやく回復の兆しを見せ始めていた。場所を移し専門医に看て貰うのに丁度良い頃合いと言えるかも知れない・・・
ここを出れば、鹿島君はすぐにも意識を取り戻すかも知れない。
転落した車から彼をここまで運び込んで三日。明日で四日目になる・・・弟が急かすのも分る。そろそろ鹿島君の不在に彼の会社や家族や誰かが乗り出し始める頃だ・・・
勝手に繋がってしまった先ほどの雨の昼下がりを思い、内心で詫びる。
(だって貴方が魅力的すぎるから悪いんだよ・・・)ザラザラジャリジャリする頬を指先で撫でてみる。(でも、鹿島君には非が無いから・・・悪いのは私だけ・・・)
こんなに生死の狭間で寝てばかりいるだけでも髭はどんどん伸びるんだなと感心する。サヨナラする前に、お髭と爪をどうにかしてやらねば・・・綺麗にして現世へお家へ送り返してやらねば・・・と思われた。
しかしそうは言っても、自分はカミソリを使ったことがないし、まさかあの弟に頼めるはずもない。刃物と弟の組み合わせが鹿島君の傍に近寄ることを考えただけでもゾーッとする。私がやってあげるしかない。とにかく時間ならまだもう少しあるから・・・
急に寝返りを打たれて喉をバッサリ切ってしまう恐れのある髭剃りなんて扱い慣れない物を使うよりは、地道に1本1本抜いてあげよう、と思った。
鹿島君の体から滑り降り、ベッドを抜け出て、持ち手がピンク色の、眉を整えるのに自分で愛用してる手に馴染んだピンセットを、どこへ行くにも持ち歩いているお化粧ポーチから取り出して、持ってくる。
鹿島君のヤスリのような無精髭の伸びた顎を手のひらでザラザラさすって撫でてみ、窓を開け、眠っているまま眩しそうに光から顔を背けようとする彼の様子を伺いながら、レースと遮光のカーテンで調光する。ベッドに戻り、眩しそうにしながら眠っている鹿島君の目にとりあえず手で庇を作ってやりつつ、何か良い物無いかとキョロキョロ室内を見渡す。セクシーグッズになら事欠かないこの部屋。手の届くところにある引き出しから、絹の漆黒の目隠しをスッと取り出す。
いざ、雨上がりの午後の天然光に彼の顎をソッと傾かせ、右に左に、鼻の穴から続く濃い毛並みを、頬骨の下から顎の裏側、喉仏を超えて首あたりにまで剃り残してヒョロンと長く生えてるのまで、仔細に調べてみる。ワクワクドキドキ、静かに密かに胸を高鳴らせながら。
(・・・そうだ、後で耳掃除もやってあげよう・・・付き合ってる頃には恥ずかしがって、自分でやるからと言ってやらせてくれなかったけど、今がチャンス・・・!)
ピッ、ピッ、・・・と、いざ1本1本抜き始めると、鹿島君は途端に顔をギュッとしかめ、泣き出す寸前の赤ちゃんみたいにモゾモゾ、全身でイヤイヤをして、布団を鼻まで引っ張り上げて隠れようとした。
「ダーメ!痛くないようにするから・・・大丈夫だから・・・ほら、隠れないで・・・」
セリナも悪戯しがいのある楽しみを見付けてしまい、眠ったままでも力の強い男と布団の引っ張り合いをした。
「そうだ!」セリナは自分が針脱毛を経験して身に染みてよく知ってる知識を引き出してきた。
「保湿のクリームを塗ってあげるから、ね?イヤイヤしないで・・・お肌がタップリ潤ってると痛みが和らぐの・・・」
自分のお化粧品を仕舞ってる冷蔵棚からスプレー状の化粧水やら通ってるエステ店からの紹介で取り寄せて貰ってる市販には売ってない愛用の美容クリームなど持ちだしてきて、鹿島君の頬にタップリ塗りたくり、手でしばらく押さえて染み込ませる。鹿島君は眠ったままでニッコリ。今度はヒンヤリして気持ちが良いのか、ほぐれた表情をしだす。
(よ~し、じゃあ・・・今のうち・・・)ピッ、ピッ・・・毛の生えてる向きに逆らわず、毛並みに剃ってピッと引っ張る。ゆっくり引っ張ったら痛い時間が長引いてグッと眉がひそめられ、モゾモゾ、イヤイヤをされてしまう。痛さに気が付きにくいくらい、ピンセットで毛を抓んだら、ピッと素早く抜く。これがコツ。
(ピッと!・・・ピッと!・・・)セリナは眠ってる男性への髭抜き名人になれそうな気がしてきた・・・
(だんだんコツを掴んできたぞ・・・楽しくなって来ちゃった・・・)
それでも、何本も何本も連続してピッピピッピと抜いてると、しまいには、
(もう嫌だぁぁぁ!!やめてよぅぅぅ!!)
と眠ったままでも鹿島君は腕を布団から抜き出して暴れ出す。うつ伏せになって完全に逃げ切ってしまおうとする。セリナはこの時までには夢中になっており、よく見るためにと暴れる動きを封じるために、再び鹿島君の体の上に跨がっていたので、振り落とされそうになる。
「ああん、ダメダメ、ほらほら、まだもう少しだけ、ね・・・?良い子だから、こっちを向いて?・・・」
首の後ろをくすぐり、頭皮をマッサージしてあげ、肩甲骨と肩の凝りをほぐし、なだめすかしてまた上を向いてもらう・・・
(あら、白髪のお髭が・・・珍しい!)
ティッシュに乗せたら見えなくなってしまい、探し出すのに手こずった。
(あったあった、目を覚ましたら教えてあげられるように・・・、)と黒地の脂取り紙に包んでカルティエの止まった時計が入ってる小箱にとりあえず挟み、宝石箪笥の一番上の一番お気に入りの宝物を仕舞っておく引き出しに仕舞った。
(あら、お髭にも旋毛ってあるんだ・・・!初めて知った!男の人ってみんなこんな風になってたのかぁぁ~・・・!凄い!!!!)
鹿島君の髭の旋毛は右の顎の裏、こめかみよりは内側の、首との境目あたりにあった。生えてる毛の向きがそこでくるんと一回転して小さく渦巻いている。何とも不思議、なんとも可愛く、愛おしい。
一度にあんまり徹底的に全部ツルッツルに抜いてしまうのは無理なようだ。左の頬だけツルツルにし終わり、顎に差し掛かったところで、イヤイヤする鹿島君の暴れ方に本気の怒りが滲み出てきた。
「ヴヴヴヴヴヴヴヴ・・・」野性的な獣の唸り。逃れる方向へ寝返りを打とうと藻掻くだけでなく、毛布の下から腕を抜きだして眠ったままでも戦いの構えを取り出す。
肌の外に出ているギリギリを抓んでピンセットで抜いた毛をよくよく観察して見てみると、肌の外に出ている分よりも肌の中に埋まっていた分の長さの方が長い。
(そっかぁ、それはそうだ・・・)と一人、納得する。
男の人のお髭も、植物と同じ。根っこから栄養を吸って伸びている。肌表面に出てるのを剃られても、肌の下に埋まってる根っこの方はそら外に伸びてる長さよりも長いわけだ。そりゃあ、引っ張られて根っこごと引っ張り抜かれたら痛いわけだ・・・
可哀想に・・・
「でも、左ばっかりツルツルで右がまだなの・・・どうしたら良い?・・・」寝ながら怒って唸ってる鹿島君に言い訳をする。
(男の人って連続の痛みとか風邪みたいな小さい病気に意外と弱いもんなぁ・・・)これはセリナの感想。
しつこく抜きすぎたら、後で肌が赤くなって腫れ上がってしまうことも分った。ツルツルにした側の鹿島君の左の頬のお肌はこの慣れない刺激に敏感になってるらしい。左右の頬の赤みと膨らみ方が違う。これは痛々しい。良かれと思ってやったことだが、鹿島君の目が覚めたらちょっと叱られそうだ。
そこで、自分も使ってる汁気たっぷりの保湿美容パックを彼の顔にヒタヒタと貼ってやり、(ついでに自分も15分間隣で寝転がって同じパックをして、)肌に栄養と潤いを与え、乾燥でギュッと閉じた毛穴を柔らかくしておいてから、反対側の頬は間引くように抜いていき、抜き終わった後もタップリ保湿して美容液にもクリームにも鎮静作用のある物を選んで癒やし、お肌に(お疲れ様♡)と心の声をかけ、鹿島君のお顔をピカピカ(左側だけツルツル)にしてあげた。
(そう言えば付き合いたての頃には、いつか髭脱毛してツルツルにするから、と約束してくれてたのになぁ、)と懐かしく思い出したりした。
鹿島君のお髭は青年期から既に濃く、1本1本が硬く太くて剃り跡がザラザラして、若々しい加減を知らない力いっぱいの熱烈なキスを浴びると、こちらの柔な口元が削り取られそうに痛くて敵わなかったのだ・・・
(そうだったそうだった・・・懐かしい・・・しかし・・・それもこれも全て今は昔・・・明日の朝には鹿島君はもういない・・・)
朝には弟に約束させられていたので、鹿島君と過ごせるのももうあと僅かだと分っていた・・・
・・・
柳さんを接待したのとはまた別の部屋に、別の男性を迎え入れ、おもてなしする。
(シャキッとしなければ!!)
何度も聞き返しお客様に同じ話を繰り返させて心ここにあらずを悟らせてしまってはいけない、せっかく今日“楽園のセリナ”に会うのを楽しみに安くないお金を払って時間を削ってここまで来てくれたお客様を、白けさせてはいけない、相手の話に集中しようとする。ボヤボヤしてると、鹿島君は今頃どうしてるかなぁ、目を覚ましてウラ君と上手くやれてるかなぁ、本人が自分の体を動かしてみて、全身くまなくちゃんと動くだろうか、反応が鈍ったり、突かれても感じないなんて感覚の死んだ箇所が体のどこにも残らないだろうか、・・・等と、思いはすぐにフラフラ彼の元へ飛び立とうとする。飛んでいけないセリナの体を置いて・・・
「セリちゃん、今日は何か疲れてるね」
隠そうとしても、お客様はすぐに気が付いた。
この方とはまだ二年目のお付き合い。一度仲良しになるとどこまでも長続きする方のセリナのお客様にしては、顧客歴は短い方だが、それでも敏感にセリナの調子が今ひとつなのを察してくれる。
「今日は僕の方が元気なようだ。交代しよう。僕がマッサージしてあげるよ」
いやいや、と遠慮するセリナを温かい手で押さえてベッドに伏せさせ、お客様が背中をさすり、脚をさすり、大人の男の人の大きく厚く温かい手でひたすら優しく、セリナの緊張をほぐしてくれる。
心と身体は一つ。精神を包む肉体、肉体に宿る魂、どちらかが弱るともう一方もつられて弱る。
まだ好きな未練の残る鹿島君に出会え、つかの間の喜びを知り、忘れ去っていた少女期の切ない夢を思い出さされてグラグラ掻き乱されてしまった、諦めたはずの掴めなかった夢、またもう一度手を伸ばすには高すぎる彼方の夢を、思い出さされてしまった苦い反動で、また諦め想いを封じ込めるのに手こずり、どこか物悲しい苦しい気持ちを漂わせていたセリナを、仕事が、指名して彼女を必要として求めてくれるお客様達が、慰め、また立ち直らせてくれる。居場所が、彼女に勇気を、力を、存在する意味を与え奮い立たせてくれる。
生まれ落ち、馴染み深い本来の居場所が、セリナに(お前が咲けるのはここだよ)とまた諭してくれる・・・
『セリナちゃん、セリナの名前はしばらく気に入って使ってるようだね・・・もう名前は変えないの・・・?』さっきは柳さんにそう聞かれた。
「セリ様、」今度は、今マッサージしてくれてるお客様(仮名N様)がセリナの髪の中に指を挿し入れ、頭皮を揉みほぐしてくれながら聞いてくれる。
「出会った頃よりだいぶ髪が伸びましたね・・・このままどこまで伸ばすのかな?」美容師さんごっこみたいな冗談めかした口調で聞いてくる。
「Nさんはショートが好みなんでしたよね?そろそろ短く切ろうかな・・・」
また名前も変えよう、とセリナは心で決めた。「私、源氏名も変えるかも知れません。」
「何故?店を変えるつもり?」Nさんのマッサージの手が止まる。「嫌な客が付いてしまったの?・・・どこの店に移るか、僕には教えてくれるよね?」
客達はセリナがこの楽園の経営にも携わってることは露知らない。
「店は移らないと思いますよ。ただ呼び名だけ変えようかなぁと、・・・髪を切るのと同じ、私、時々気分で名前を変えてきたんです。これまでにも。セリナって名前の前はハナノでした。Nさんに出会うもっと前・・・」
「へぇ?ただの気分かぁ・・・でもそれで、惑わされてセリナさんを予約しようとして上手く出会えなくなってしまうお得意様もいるんじゃないの・・・?寂しがるじゃない?そんな人達が出たら・・・?」
「それは、こちらにとって上得意様だと思えないお客様でしょうね。また会いたい方には、何なりと連絡の手段を残して商売女は身を潜めます。誰か危険な相手に捕まりそうになってしまったときには。逆に、探し出して欲しいときには、その方の前に沢山ヒントをばら撒く。」
「頭脳戦だねぇ」
「当然。力で真っ向勝負して敵う相手じゃないから。男の方に・・・」
セリナの腿をほぐすN氏の手の動きが怪しくなりだし、彼女は笑ってゴロンと仰向けに寝転がった。鹿島君への想いを今だけは真剣に忘れるため、真摯にジッとN氏の目を覗き込み、全身全霊、N氏のことだけで自分の頭の中も、体も満たそうと心がける。事の最中に名前を呼び間違えるなんてそれこそ絶対にあってはならない。犯してはいけない罪だ。
「Nさん!Nさん・・・!」今はこの人、自分を塗り替え、生きる世界が違う鹿島君のことは早く忘れ去るよう、この人に上書きして貰うように何度も名を呼び、今の自分の時間を買ってくれてる相手、繋がる相手をしっかりと目を開けて見詰める。
「今日はやけに・・・燃えてるね・・・セリ様・・・」苦しそうに呻き、N氏が手で制そうとする。
「ダメだ、そんなに激しくしたら・・・もういってしまう・・・」
「まだいきたくないですか・・・?」N氏の股間で飛び跳ねていたセリナは、ピタッと従順に動きを止めた。
「う・・・ああ・・・いや、もうダメだ、もう良いよ、どうとでも、きみの好きにして・・・」
「じゃあ、このまま・・・」
ガタンガタンと高鳴るベッドスプリング。騎乗位の、半分ヤケクソ、半分は自分への暴力、それを昇華させN氏にぶっつけ、彼には良い方にとって貰えるよう妖艶に演じ、暴れ馬を乗りこなす裸婦セリナ、または暴れペガサスそのものの勢いで、一挙に天空のオアシスへと導いていき、N氏の荒び疲れた魂を、溜め込んだ性欲を、一番高いところで、解き放った。
・・・
「あっ・・・」
「えっ・・・?!」
N氏を部屋の外までお見送りしたセリナは、取るものも取りあえず、柳氏をもてなした最初の部屋に駆け込んで来た。この部屋で鹿島君を看病していた。戸棚の中に、彼が三日間頭を乗せて彼の香りが付いた枕を仕舞っていた。慌てていたし大きさも大きかったから、鍵付きの段には入れることが出来なかった。薄ら嫌な予感はしていた。しかし、やはり・・・
次の妹分、遊女見習いとして可愛がってる下の子が、今まさに、その目当ての棚の中へ洗い立てのリネンを積み重ねて仕舞ってるところだった。
「何か間違いをしてしまいましたか?私・・・」最近入ってきたての人見知りな妹が緊張し大きく見開いた目でセリナをジッと見た。
「ううん、そこに入れてあった枕を知らない?」
「あれ要るんでしたか?!・・・一度使った物のように見えたからもうお洗濯のワゴンに回収させてしまいました・・・」
「あら・・・そう・・・」
「すみません、今ならまだ間に合うかも・・・」
慌てて駆け出して行きかける妹をそっと押しとどめ、「大丈夫。もう間に合わないと思うし、そんな大した物でも無かったから・・・」
本当は、鹿島君の香りが付いた枕を抱き締めて、ちょっと癒やされてから次の仕事に向かおうと考えていた。煙草を吸う人の気持ちがちょっと理解できた気がしていた。彼の残り香を嗅いで一服し、新たに気を引き締めて立ち直れる、いつもの仕事浸りの日常に臨める、いつでもやめようと思えばやめられるけれども、枕から鹿島君の香りが完全に抜けて無くなってしまうまでは・・・と淡い楽しみを手に入れた気でいた・・・
セリナはガッカリした気持ちを飲み込んで明るい笑みをパッと顔に浮かべた。
「言っておかなかった私が悪い。あなた、仕事が早いのね。頑張り屋さんね。いつも部屋をピカピカにしてくれてありがとう。良い心がけよ。これ、貴女にあげる・・・」
自分の首から、鹿島君に貰ったペンダントを外し、妹の手に握らせる。
「え・・・貰っても良いんでしょうか・・・私なんかが・・・いつも大切そうに付けておられたのをお見かけしてましたが・・・」
妹は恐縮しながらも、手の中の小さな可愛い飾りに頬を緩ませた。
「私はこれからお会いするお客様に最近頂いたイヤーカフを付けていかないといけないの。それが大振りな物だし・・・」
「確かに、この三日間ほど付けておられたこれ、他の子達も噂してました。珍しい見たこと無い控えめなネックレス付けてるね~、セリナさん、って・・・珍しい纏まったお休みにはあんな楽そうな格好もするんだなぁ、って・・・」
普段いつも付けている最近買って貰ったばかりの金持ちなお客様方からプレゼントされた装身具は、ダイヤの粒がゴロゴロと大きくて、重たくて、キャリアを積み貫禄のある今の自分により似合う・・・それと同じに、鹿島君が一生懸命働いて若かりし頃若かった自分に買ってくれたネックレスだけれど、(痛いほど思い入れがありすぎてもはや持ち続けるのが辛い・・・)これはダイヤの粒は控えめ。本人が持て余すほど魅力に溢れ輝いている妹の若々しい首にかけるにはちょうど良い、ダイヤの輝きで自分の薄れつつある輝きを補う必要の無い妹に、ちょうどピッタリ・・・
「デザインがシンプルで良かった、現代でも使えそう?」
このネックレスにまつわる切ない物語を何も知らない妹は、客観的価値が比較的セリナの他に持ってる装飾品に比べて手頃そうなので、貰い受けやすい気がするらしく、早速姉の部屋の鏡に映りイソイソと嬉しそうにネックレスを付けてみた。
「わぁ、可愛い・・・本当に良いんですか・・・?」
「うん、長さもちょうど良いし・・・似合ってる」セリナは本当に心からそう思って言った。
「貴女ピンクゴールドのアクセサリーはよく付けてるけど、プラチナも一つくらい持ってても良いかも知れない。服装やお呼ばれした場所、気分、お天気とか目的、イヤリングや髪飾りとか、他のアクセとも揃えてみたり、色々持ってると毎朝選ぶのに迷えて楽しいよ。そのくらいの小ぶりな物ならお客さんにも生意気に思われないでしょう・・・
あまり若いのにギラつくほど豪華な石を身に付けてると、『もうご立派なパトロンに恵まれてるんだろうね?』と新しいお客様を遠ざけてしまいがち、『これはお祖母ちゃんから引き継いだ物で・・・』とか、口実をしょっちゅう口にしてないといけなくなる・・・」
妹は頷いた。自信の無い子には何か一つ、何でも良いから、物を持たせると良い。心のよりどころの無い寂しい子供達が集まり住み着くこの"楽園”で、下手にすぐ他者を信用してしまいやすいあどけない子がコロリと簡単に客に騙されて泣かされ傷付けられてしまわないように、お守りに持つ物。姉との繋がり。何でも私達先輩に話してごらん、貴女は可愛い私の妹、私達は家族、いつも味方だよ、と相談しやすい環境を作ること。それに気付かせてあげること。
この子にはこれから新しいストーリーを描ける輝かしい白紙の分厚いページが開かれている。
真面目で従順、仕事覚えも早い、素直なこの子はすぐ育つだろう。
「本当に・・・?私に・・・?」
妹は遠慮しながらも、もう喜びに胸いっぱいのホクホク笑顔。鏡に映る角度をちょっとずつ変えてみては、小粒ダイヤが光を透過し跳ね返す無限の輝きに魅せられている。セリナにはこの少女の気持ちがとてもとてもよく分かる。
物を貰って単純に嬉しいだけでは無いのだ。
自分に託す姉の行為が嬉しい、優しい気持ちが嬉しい、尊敬するこの人から貰えて嬉しい、きっと大切に扱うだろうと信頼され自分が選ばれて持たされたことが嬉しい、誰か同期の友達に『あれっ、それって・・・』と聞かれたら『そう、貰ったの、セリナさんから』と自慢が出来る、その事をもう想像するだに嬉しい、(自分からみんなに『見て見てこれ』と、言って回りたいが、さりげなく聞かれたら答えるくらいが丁度良いだろう、・・・)そんなことを色々考えて嬉しいのだ。
人生の初期、物を貰えて嬉しかった時代が自分にもあった・・・
今となっては、もはや、通例行事のようにさえ思われる・・・金持ちのステータス。気に入った名のある遊女を自分がくれてやった品で飾らせ、そばにはべらせ酒など注がせる・・・一応重たくて本物でギラギラ輝くダイヤモンドだが、そこにストーリー性は無く、肩が凝るだけ・・・しかしそれでも、いざという困った時、金には替えられる・・・
「他のアクセサリーも何でも、いつでも貸してあげる・・・貴女になら・・・ここにある物は全部、私が居なければ黙って借りてくれても良いからね、私の時間、体さえ、いつかは売れっ子になった貴女を待つ客に貸し出すことになるんだから・・・」
セリナは鏡の前の妹の肩にポンポンと手を置き、自分はシャワーを浴びに浴室へ向かった。もう次の仕事まで時間が無い。クヨクヨしてる間が無いのは良いことだ、水が流れるように、澱まず、流れ流され続けよう、行き着く果てまで・・・そこは天国でも地獄でも無い、ただの退屈な・・・共同墓地・・・?
熱いシャワーを浴びる。シャワーの中で泣いた日々を思う。鹿島君を想って・・・彼を忘れられずに・・・これからもまたそんな日々が続くかも知れない、しばらくは特に辛いかも知れない・・・しかしシャワーのたびに、それも薄れていくのを、私は知っている・・・
ホカホカと肩から湯気を上げ、浴室のフワフワの足拭きマットに立つと、すぐにさっきの妹が待っていて、バスタオルを広げ、肌を包んでくれた。
「ありがとう。客が引けた後のシャワーの時はフェイスタオルで良いのよ、でもありがとうね」
良い子良い子ヨシヨシと濡れても無い妹までタオルで包んで拭いて戯れる。
「はぁ、でももう行かなくちゃ」
「行ってらっしゃい」
妹の襟元に光る可愛いダイヤに頷き、妹に微笑んで、セリナは自分が奮い立たされる。
「じゃ、行ってくる。後はよろしくね」
これからセリナの身体を拭いたタオルで浴室を磨き上げるまだ下働きの妹に告げる。この子達次世代の子を養うためにも、まだ自分が踏ん張らなければならない。まだまわりを見渡しても、セリナほど肝の据わった遊女、"楽園”のブランドを背負って立てるほどの子は見当たらないのだ・・・
「仕事はまだ沢山残ってるので・・・」バックミラーに映る、クッションを敷き変え脚を組み替えして座り心地の良さを求めるセリナの、脚と脚の間の商売道具を心配してか、運転しながら岡崎君がボソボソ諭す。
「体を潰さないよう用心して下さいよ、今日もこれから三件・・・明日は五件・・・」
「分ってる」
「・・・自分の体は大切に扱い、扱って貰って下さいね、くれぐれも・・・」
「分ってるって・・・」
「セリナさんの体は一つです。他に替えがきかない・・・」
「しつこいな!セリナの名で売るのはもうやめる。今日、これからは、また別の名前でいくから・・・」
「えっ・・・」目が離せない高速の乗り口で、一瞬、岡崎君の目が見開かれ視線が泳いだ。流れに乗って無事右車線を走り出してから、改めてバックミラー越しにセリナの表情に真偽を求める視線を当てる。「え・・・今すぐに源氏名を変えたいと言う事ですか?そんな・・・!だって・・・まだこの前発注した名刺もポスターも刷り上がってきたばっかり・・・」
「名前の部分だけサッと差し替えれば良いだけじゃない?」
「いやいや、いやいや・・・」
セリナは車窓に流れる目抜き通りのネオンを横目に、適当な名前を拾い上げて口にした。
「あれなんてどう?ルル・・・瑠璃色の瑠が二つ・・・」
「いや!ダメだ!本気ですか?冗談でしょう?突然そんな・・・困りますよ、“セリナ”はうちの看板ブランドなんだから!そんな勝手に下着を着替えるように自分だけで決めて貰っちゃあ・・・」
「あら?じゃあ今日これから私はセリナでもルルでも誰でも無くなって、ボイコットしても良い?・・・『休み癖が付いたようです』って、貴方の上司に電話しなさい?今すぐに!」
岡崎君が担当するようになってからセリナはワガママを一度も一つも言ったことがなかった。ちょっとやそっと体調が優れなくても、気乗りがしない客相手でも、グッと堪え、顔色一つ変えずに自分に受け持たされた仕事をキッチリ一つ一つこなしてきた。それが突如、ここへきて、初めての卓袱台返し。全部を投げ出す宣言。
岡崎君はしばし絶句した。滞りなく流れに乗ってハンドルを握り運転し続けながら・・・
(・・・これが噂に聞くセリナさんの爆発かぁ・・・)
普段キレない人がブチ切れたときほど事は重大、根は深刻だ。正気か冗談か今だ定めが付かず、バックミラーでチラチラ確かめる。
「瑠璃色ってどんな色だっけ・・・」なんて呟きながら検索してる言葉ののんきさとミスマッチな、へし曲げられた唇のへの字。これはなかなか・・・決意は固そうだ。
もう後数分で次のこの人の仕事場に到着してしまう。
結局、言われたとおりにするしかない。
自分の上司でありこのキャストの血縁でもあるというトモヤさんの直通番号にかける。
「何?」相手はワンコール目ですぐに出た。
「はい、セリナさんの事ですが・・・」
「どうした?」
「名前を変えたいそうです」
「変えさせてやれ」事も無げにオーケーが出た。思わずハンドルにかけた指がブルブル震え出す。
(あんなに・・・あんなに・・・時間も労力もかけSERINAのSの配置から書体からグラデーションにも皆でこだわって・・・写真も撮り直しスタジオにも迷惑をかけたweb広告やらポスターがやっとやっと出来上がってきたばかりだというのに・・・一体どれだけ・・・何人にまたこれから迷惑をかける気なんだ・・・?ちょっとこれは・・・甘やかせ過ぎなんじゃ無いのか・・・?)
「もう次の仕事場に着く頃じゃ無いのか?」ハンズフリー通話のトモヤの声が車内に静かに響く。「新しい源氏名は考えてあるのか?本人は何と言ってる?」
「本人は・・・次の源氏名は瑠璃と・・・」
「ルル!」後ろのシートから。
「ルルだそうです」と訂正する岡崎君。
「よし。問題ない。他に報告は?」
「いいえ・・・報告が必要なことはそれだけで・・・」
「じゃ切るよ?」
「・・・はい・・・」
一言の返事の間合いの悪さから岡崎君の不服な心境を聞き取ったのか、瑠々さんの弟、岡崎君の上司が通話を切る前に付け加えた。
「俺も実は考えていたところだったんだよ。“セリナ”はちょっと長く使い過ぎた。俺も飽きが来ていた。このへんが、使い古された彼女のイメージの一新を図るにもちょうど良いタイミングだ。これで要らない客も今一度ふるいにかけよう」
この一言で、岡崎君は溜飲を下げた。
(そうか、とち狂ったわけでは無いのだ。口に出したのは急でも、前々からこのお二人には考えはあったんだな・・・流石・・・)と察せられたのだ。
(脱皮によってより大きく強くしなやかに成長していく蛇のように、蛹から飛び立つ蝶のように、古い名前と共に、愛着はあってまだ着られても流行遅れになってしまった服を脱ぎ捨てるように、思い出も綺麗さっぱりここで脱ぎ捨てていこう・・・、)流れ去る街明かりを見るともなく見、セリナも、聞くとも無く弟の声を聞きながら、自分の胸にも決意を固めていった。
(これまでにも私はこんな風に生きてきた・・・これからの私、瑠々は、鹿島君など知らない女・・・生娘に蘇り、新しい人に花を開かせて貰う・・・まだまだ女盛り、寂しい私を必要としてくれる寂しい人がこの街にだけでも星の数ほど居る・・・)
やがて瑠々を乗せた車は約束のレストランが入るホテルの車寄せに滑り込み、燦めくクリスマスツリーの影から走り寄ってくる制服を着た二人のドアマンの前でピタリと止まった。
「では二時間後にまたここで・・・」
「短いけどしっかり仮眠とってね」瑠瑠さんは以前のセリナさんに劣らず、ますます優しく、運転手兼マネージャーの岡崎君の身まで親身に気にかけ、気さくに花のような笑顔を向けてくれた。
続く!(ウラ君後編・4 お終い!)




