ユキ(10歳頃?)
ユキは思い出していた・・・
昔の恋人の血に染まった顔を見下ろし、濡れて絡まったまま固まりかけている髪を震える指で梳いてやりながら。弟の運転する車の後部座席で。そして、それからの数日間、"楽園”の自分の部屋のベッドに寝かせた彼を看病しながらも。
生暖かいぬるぬるした血の感触や鮮血の匂いが遠く彼方に押しやって忘れようとしていた記憶を呼び覚ます。
前にも彼女はこれに近い経験をしたことがあった。血みどろの大切な人の頭を抱え、その顔になすすべ無く涙を落とした幼い日の記憶が呼び覚まされて、ユキ(名前はコロコロ変わり、今はクルミと呼ばれているその女性は)ぼうっとした目で今現在と過去とを同時に見ていた。
(運転席の冷血な弟には、『こいつが何を見たか分からない。病院へは直行しない』と断固拒まれ、鹿島君の意識の無い体は一旦、"楽園”の彼女の部屋へ運ばれることになったのだ。)
ユキの二度目の脱走は10歳前後の頃の事だった。
最初の脱走からそれまでに五年以上、真面目に言われたとおりを"楽園“で優等生として実績を積んで、ユキはその頃には再び周りから信用を勝ち取り直していた。
一度は逃げたことがあるかも知れなくても、でもそれは遠い昔の話として消えかけていた。他のみんなも忘れようとしてくれていた。
水揚げされる子もいるし、自ら命を絶つ子も、出張先でいなくなる子も、客とのトラブルか何かで、ふっと蝋燭の小さな炎が吹き消されるように消されてしまう子もいる。"楽園“は常に子供達を必要としていた。美や魅力を保ち続けいつまでも大人になりきらない子も少なかった。大量に仕入れても、消費され摩耗され擦り切れて使い物にならなくなる。使い勝手が良く、古株としていつまでも残り続ける子供は貴重だった。
後から“園”に入ってきた幼い同胞達、親や故郷や馴染み深い環境などから急に切り離されホームシックで夜泣きしてしまう子をあやすのがカホは上手だった。温かい手のひらで泣いて寝付けない年下の子の瞼を覆い、『今すぐには何も見なくて良いの』と穏やかな声で囁き続ける。既に中身の歌詞を忘れてしまった子守歌を歌詞を適当に埋め合わせて口ずさんでやりながら、そのゆっくりと眠りを誘うリズムに合わせ体をゆったり、ゆらゆら揺らす。幼い後輩の柔らかい頬の涙が乾いて細い線を残すだけとなり、やがてスースー寝息を立て始めるまで、卵を温める親鳥のようにその子のベッドに添い寝して温め、揺り籠のようにゆっくり揺れて、寝付けるまで付き添ってやる。いつかは誰かに自分がして貰ったように。
カホは基本的に優しい心根の情愛深い子だった。自分がして貰って嬉しかったことを後輩達に返し、下の子達からも慕われ、上の者たちや"園“の管理者達からも頼もしく思われていた。
(閉じ込められてること、他の選択肢が無いのが嫌だ…嫌でたまらない…)と言う胸の内を隠すうまい言い回しもこの頃には覚え、身に付けていた。
「ここじゃ無い場所に行ってみたい」と言い換えるのだ。
胸の中には常に焦がれる思い、自由、ここではないどこかへ出て行く自分をイメージし希望を捨て切れずにいた。まず、この塀に閉ざされた何でもある限られた狭い平和な空間から外へ出たかった。とにかく、理屈は何でも良いから。そして出られたら、その先は、自由を維持し外で好きに暮らしたかった。でもそれにはまずとにかく出る必要があった。
同時期から“楽園”にいる他の子達の中には良いお客を掴んでいて度々旅行に同行したり送金と引き換えに出張に派遣され国外に出ている子も少なくなかった。ドバイだとか、台湾だとか、バハマだとか。気前の良いお客様に友達へのお土産をたっぷり持たされこんがり日に焼けて帰ってくる仲間達。自慢できる土産話と連日の現地のご馳走でお腹をいっぱいに膨らませ、体臭までどことなく異国の香りをほんのり漂わせて。
カホは辺りはばからず思いっきり盛大に嘆き羨ましがって見せた。
星ちゃんという同室のまだ“楽園”には入って来たばかりだった女の子が、良いお客に運良くすぐに見初められ、マナーも躾もまだなってないのに『独り占めにしたいから』と船で地球一周の旅に連れ出された。
『染まってない子を自分好みに仕立てたいから』と。酔狂な客もいるもので『この子は粗相があるかも知れません、教育もまだ不十分で…』とスタッフや黒服もなんとか数年来“園”で仕込まれた大人しい、長旅にも耐えられそうな気心の知れた丈夫な子に替えさせようと頑張ってみたらしいが、『他の客の手垢の付いた変に従順なのはいらない』と客の気持ちを変えさせることは出来なかったと言う。推定6,7歳の星ちゃん本人は”楽園“にもまだ連れられて来たばかりで右も左も分かっていず、自分に何を求められるのかも、誰を頼って良いのかも、何も全然分からなくて泣きじゃくりおねしょして寝具を濡らすだけしか出来ないのに、まだ人を信用して与えられる食べ物にも手も付けず一言も言葉も発しない前に、可愛そうに、鼻水を拭かれ、綺麗な服に着せ替えられ、抗議の声もなくビクビク怯えた悲しい顔をして借り出されて行った。図書館の本みたいに。
その星ちゃんを引き合いに出してみたり、別の子がちょっとでも“園”から外に連れ出されたら(例え日帰りで、おじさん一人では入りにくい美味しそうなパンケーキ屋さんが出来て一緒に来て欲しいから、等と言ってちょっとパンケーキを食べに行ってきたと言うだけでも)帰ってくる度、カホも自分の馴染みのお客にせがんでみたり、黒服にも一生懸命アピールしたりした。
「私も行ってみたいなぁ。どこでも良いから。シンガポール。ニューヨーク。パリ・・・ハワイ・・・ベネチア…ほんのすぐそこの本屋さんとか、雑貨屋さんとか、違う景色を見て帰ってくるだけでも良い…10キロ先の海とか花火とか・・・違う県でも良いなぁ…東京、名古屋、沖縄・・・私、飛行機にもまだ乗ったこと無いの…一度で良いから乗ってみたいなぁ・・・機内食、前の座席のシートで見る映画…憧れるー・・・雲の上に広がる白と青の景色、電車の窓から見る富士山、紺のスカートの女の子が手押し車に載せてお土産を売るワゴン・・・動画でしか見たことがないの。船酔いですらしたことがないから、一度で良いからしてみたい!」
「ねぇ、」(当時の担当黒服は新人の軟弱な青年だった。他の女の子達同様、カホも友達のようにタメ口を利き、他の黒服に接する時よりもちょっと侮ってみている反面、可愛く思い心配し親身になりもしていた。歳は自分の方が10歳近く下だったが、“楽園“での経験は自分の方がはるかに長かった。最初は扱いやすい子から担当しなさいというわけでこの黒服の青年永野君もカホを受け持つことになったのだ。)
「ね、長ちゃん。お願い。」カホは口を酸っぱくして、永野君の顔が見えている限り言い続けた。
「指名無しの出張のお仕事が入ったら私に回してね?上の人にも伝えて。お願い」
長ちゃんは困った顔で苦笑した。
「分かってるって。もう聞き飽きたよ」
実際には飛行機も新幹線も“園”に連れられてくる前に乗った経験はカホにもあったが、そんなものは前世の記憶にも等しかった。まだカホが子どもの頃には“園”で生まれた子はいなかった。子ども達はそれぞれ別の場所、全国各地、時には世界のどこかから集められて来て“園”で第二の人生を始めていた。それまでの経験や記憶は邪魔になる場合もあった。特に、幸せに愛されて大切にして貰えて来た子ほど、そんな記憶は早く消し去ってしまう方が身のためだった。
「じゃあ行ってみるか、飛行機乗ってみたい飛行機飛行機って煩いし、カホちゃん」
一旦話が進み出せば後はトントン拍子に事が運んだ。
「出張ってそんな急に決まるものなんですね」
立て続けに連日スーツケースや、旅行に便利というジップロック、地球の歩き方イタリア、隣を連れて歩くのに恥ずかしくない靴から靴下から帽子、サングラスまで一式、プレゼントされたり“園”からのお小遣いで買い出しに行ったりして、半日でバタバタと旅行の準備を整え、
(こんなんで本当に国外に出られるの…?)となんだか半信半疑の思いで、カホは出国前日の夜には偽造パスポートを握り空港近くのホテルにR氏(それまで上得意客だという認識すら全く抱いていなかった)と泊まっていた。
ずっとずっと声高に自分から求めていた"楽園“の外での仕事ながら、まるで狐に抓まれてるよう、たちの悪いサプライズを仕掛けられてるようだと、まだ自分の物とも思えない真新しいパジャマを着、真新しいスーツケースにゴチャゴチャ詰め込まれたまだ値札も切っていない真新しい衣類、私物を、カホは首を傾げ傾げ見ていた記憶がある。
出国前夜のことは鮮明に印象付けられ、記憶に焼き付いているのだ。夢が現実のものとなって叶ってみれば、まさかこんなに早くこの日が来ようとはと(案外厳しいと思い込まされてた“園”もチョロいもんなのかな…)とどこか心の隅でほくそ笑み、(いやいや、まだまだ分からないぞ、海を渡った向こうの大地を踏むまではぬか喜びはしたくない…)と心がフワフワ落ち着けなかった。
R氏(これから登場するカホのお客様達のうち存命の紳士方の名はこの様に記します。決して作者が名前を考える手間を省くためではありません)は今までそんなイメージは無かったが急に気前が良くなってソファにドッシリ腰を据え鷹揚に片手に瓶ビールを持ち、もう片方の手でソファの肘掛けを掴み、ドロン、トロンとした夢見る目を血走らせてカホをいつまでもいつまでもウットリと眺めていた。これから二週間は自分だけの物となった少女を改めてよくよく眺め渡すように惚れ惚れと。
もともとR氏は鼻息荒くカホをベッドに組み敷いて自分の体の一部品としては小さなしかし欲望としては地球上の歴史を軽々突き動かし続けてきた原動力の源として巨大な身体の中心部に位置するままならぬ小器官の果てしない猛炎をぶつけまくってオラオラオラと腰を振りまくってくる、と言ったタイプの猪のような性癖の持ち主ではなかった。
ある意味ではもっと面倒臭いタイプだった。
カホを好きだからこそ、『もっとこうすれば良いのにああすれば良いのに』と色々ゴチャゴチャ細かい難癖を付け、その癖あばたもえくぼと愛してはくれており、親心のような自分の見てきてよく知ってる世界観の中にいつまでもいて欲しがって(概念的に閉じ込めているのと同じ事だ。愛情という檻で)カホの行く末、先々までを気にかけてくれている、まるで孫か観葉植物を愛すように愛してくれている人だった。
鉢に入った観葉植物や盆栽は根を鉢から抜き出して逃げ出したりしない。枯れ果てるまでは『もっと茂ると思ったのになぁ』なんてブチブチ小言を垂れられながらも世話をされれば生かされ続ける。自分では雨露を飲んで生きられない狭い植木鉢に植え付けられ室内で栽培されている限られた成長しか許されない植物は水を与えてくれる人間に頼り切りになる。R氏は自分が死んだ後にもこれまで愛でてきた室内植物の世話を引き継いで行ってくれる人間を一人だけで無く念のために三人もリストアップして頼んでいる。
R氏とはそういう男なのだった。
彼の愛は静かで永続的なのだ。自分が死んだ後のカホの事まで気にかけ、(確かにこの子の主張通り、狭い場所にばかり閉じ込められていては可哀想だ、もっと世間知も上げてやらねば…もし安穏な"楽園“と言う場所がいつか崩落し外の冷たい世界に放り出されたときのため、あるいはこれまでのような仕事が出来なくなるまで長生きし歳を取ってしまった場合に備えて…)と先々まで考慮してくれている人物なのだ。後先向こう見ずの阿呆のカホ自身よりも、カホの先々を気にかけ気に病んでくれる人なのだ。
「出張ってそんなに急に決まるんですね、」というカホの問いかけにR氏は答えた。
「そうだよ、いきなり、青天の霹靂だよ、英会話教室に何年も前もって通っておくなんて余地無くだよ。他の誰かが行くんだろうとわしも思ってた、行きたがってる奴等も何人でも他に居たし、わしは行きたくないって公言してた側の人間だったのに。だけど『三日後に現地で打ち合わせです』って立場の人間といきなりポジションを交代させられてね。こんなこともあるんだなぁって私自身も驚き桃の木だよ・・・ショックだよ・・・」
R氏は外国人の大振りなゼスチャーを真似てお手上げのポーズをした。
「やれやれ。働いて金を得るとは大変なものだ。大激動だ。天変地異。また一から人生の振り出し、青二才の入社時に戻ったみたいな気分だ!自分の能力の足り無さを痛感させられに行くのが行く前からもうありありと分かっている!はあ、やれやれ…いっそ転職したいよ。でもこの歳で他に仕事なんてな…嗚呼、動かされるまま動いて、そこでやれるだけのことをやるしか道が無いんだ、我々は…」
そのお陰でカホにもチャンスが巡ってきたのでもあるが、
「それは災難ですね…」とカホも、これまでに見たことが無いR氏の弱り果て不安そうな神経質な態度に、心から同情した。カホの幼く柔らかい心はすぐ近くにある影響力を強く及ぼすものの震えをすぐにとらえ、自分自身の身にこれから起きることのようにR氏の不安を自分の不安のように一緒に抱え、一緒に身を震わせて怯えた。
本当に我が事のように。
カホの心のR氏に面した片側半分はR氏の色に染まり、近付いていた。(社会人の人も大変だなぁ、そんな人を人とも想わないような、駒みたいな、不条理な動かされ方をするものなんだ…会社って怖いなぁ…社会って、組織って、どこもヤクザだなぁ…)と本気になってR氏を気の毒に想っていた。太陽の色に染まる月のように、R氏の肩を持って全身全霊でR氏の味方になろうと努めているときには、自分の事は忘れてしまえる馬鹿なのだ。カホという子は。そこが彼女の天然の魅力でもあるのだけれども。
けれども、もう片側の心では、自分のためを想って、(でも、R氏の出張が長引いてくれたら良いのになぁ…楽園の外で羽を伸ばしたい…世界の他の場所を生でもっといっぱい見て、触れてみたい…)と願っていた事を思い出す。
R氏の目を見て、R氏の話をジッと聞き、彼だけを瞳に写して、彼の立場で世界を見ているときはカホはR氏のお人形なのだが、彼の腕に抱かれ、ふと目を覚ました真夜中には、グーグー鼾をかいているR氏の重たい腕の中で、カホは意思を持ち始めるのだ。ハッと、自分というものを思い出すことが出来るようになるのだ。
(違う、自分が望んでいたのはこれでは無かった、愛されてぬくぬくして眠っていたいのでは無かった、私は自由になりたい!野垂れ死んでも良いから、自由に生きてみたかったんだ!)
空港に一番近い、簡易的に眠るためだけの狭いホテルの冷蔵庫の中みたいな無機質な天井を、あっさりし過ぎる壁を見回し、(今なら逃げ出せるが…)とカホは心の中でチラリと考えた。R氏の毛深い重い腕を撫でながら…
(でも待とう。せっかくなら国外で…すぐ捕まるリスクを下げよう…大きなチャンスを掴もう…もうちょっとの辛抱だ…ここまで来たら…)
ドイツの工場地帯には工場以外何も無かった。R氏は自分の仕事やその内容をカホに説明するのが恐ろしく下手だったが(男の人って大抵そうだ。仕事の話をしたがらない。やっとこさノロノロと重たい口を開いてくれたとて、その話は面白可笑しくもなさそうに、思い出すのも嫌そうに吐き出す痰のように出てくる。仕事にまつわる現実的でしかない話を非現実を求めている時間空間でしたくも無いと言うのが明らか。彼らは「仕事の愚痴なんて聞かせたくないんだよ、キミに」とまるで定型文みたいに口癖にして言うけれど、どうも本当に本当にそのようだ。カホやカホの周りに居る一般社会に出たことが無い子等にとってはそっち(会社勤めのリアル)の方がよほど興味津々な世界観なのだが、話したがらないことを無理矢理に聞き出すほど無益なものもないのかしらと、相手の態度から伝わってきて、やがてカホ達も聞こうとしなくなる。とにかく、目の前にありありと情景が浮かび広がるように上手には自分の仕事場や仕事内容を表現できない勤め人が多い。時間外にわざわざ部外者に一から語って聞かせられるほど、自分がやらされている労働への情熱が無いのだ。)それでも、なんとなく、うっすらとは、カホはR氏が工場で何やら部品だか何だかを作るとか、作る作らないの交渉か何かか、監督か何かか、そんなようなことをしてるのかなぁ・・・と、ポツリポツリ漏れ出てくる乏しい情報源から推測していた。
工場地帯。
豆にこだわっていてやたら出てくるのが遅いコーヒーショップが一軒あるくらい。やっとこさ出て来たところで苦い真っ黒な液体。カホは大人の女になったってコーヒーの味なんか分かるようになりたくねいやいと思った。R氏の渋い趣味嗜好は子供にとっては退屈だった。煉瓦のホテルの窓から見下ろす外の薄ら寂しい路地裏も見慣れてしまえば毎日同じ光景だった。痩せた白地に黒斑の野良犬がトボトボ走って行くのが見えたりするくらい。
昼間はR氏が仕事に出掛けるので、ランチ代くらい握らされて自由に散歩して遊べるかと淡い期待をしていたが、『外は危ないから出掛けちゃダメだよ』とドアの鍵を表から閉められて閉じ込められ、『はい、これを読んで待ってて。絵が綺麗でしょう』等と幼児用の絵本を渡されて、昼食を買いに行くことすら出来ず。"楽園“に居るよりも狭いホテルの一室に押し込められて、カホは発狂してしまいそうだった。
きっとお客さんの出張に同行した他の子達も実情はこんな状態だったのだろう。観光に次ぐ観光で毎秒楽しいこと尽くめというのは嘘。土日の思い出を繋ぎ合わせて退屈だった平日のお昼間部分は削除して編集し直した土産話を面白可笑しく語ってくれていただけのことだったのだろう。聞く方も語る方もひたすら退屈だった時間の話なんかされても楽しくないんだから。
カホは出来るだけ良い子にして居ようとし、R氏もカホの不貞腐れ退屈でいかにも不幸そうな自分を哀れんで窓に顔を写してみたりなどしてる姿には気付かないフリをしてあげよう、夕ご飯や甘いちょっとしたオヤツ等のお土産でご機嫌をとろうとしてみたが、やっぱり二人とも金曜と土日が待ち遠しかった。二人で楽しそうな場所へ遠出出来るから。
「いやぁ、キミが居てくれて良かったよ、カホちゃん。僕のエンジェルちゃん。キミだけが私の癒やしだ」
仕事から帰ってくるとR氏はカホを抱き締め、朝剃って出て行ったのにもう濃くなって凶器のヤスリと化した顎をジョリジョリ、カホの柔らかい頬に押し付けてきた。
金臭い鉄粉の匂い。汗と濃くなった体臭は、一緒にシャワーを浴び、薄くなりかけの髪の先から足指の間まで泡だらけにして洗ってやると落ちたが、毛穴の中に入り込み染み付いた鉄粉の匂いはなかなか落ちなかった。まるで魂にまで染み込んでいるかのように。
その匂いがやっと完全に落ち洗い流されるのは、主に腰を使うお楽しみで再び汗をかいたあと、二度目に入るシャワーでだった。
「嗚呼、僕の天使。キミがいなかったらどうなってたことか…ありがとうね、付いて来てくれて・・・カホちゃん・・・」
一部屋しか無い狭いホテルの一室に閉じ込められっぱなしでろくな遊び場に連れて行って貰えないカホはだんだんR氏と同じ気持ちになるのが難しくなっていった。
物語の展開を進める事件が起きたのは、日曜の午後のことだった。
一日遠出をして見ておくべき名のある城やらスパゲティアイスを頬張ってる写真を撮ったりやら伝統的なダンスやらを観に行った帰り、次週はドレスコードのあるディナーを予約してるからと、
「その薄汚れたコートじゃダメかも知れない、もう破れかぶれじゃないか…初めの日から思ってたことだったんだが…買ってあげるから上着を選びなさい」
と言われ、お出掛け用のおめかしした子供のマネキンが一丁前にお澄まし顔で斜め上を向いてポーズをとってるショーウィンドウの店に入り、何の特徴も無いカホにとっては特に必要も無く思えたお高いシックなコートを勝手にR氏が買ってくれた。値段が思いがけずかなり高額だったので、カホは恐縮し(ありがた迷惑だ…それなりの喜びを表現しなければいけないのが重労働だ…)と思いながらも、大喜びの盛大な演技をして見せた。(『うわあああ!やったああああ!』)
子供服店を出て少し歩いたところで、その音色が聞こえ始めた。弦楽器を爪弾く物悲しい旋律。途切れ途切れの鼻歌。
何気なく耳から侵入し、その歌声の届く範囲の通行人みんなを物悲しく哀愁漂う黄昏れた気持ちに統一させる。聞き流しながら歩き過ぎても、遠離っても、胸にじんわり熱く、しばらく名残続けるだろう、しんみりした心情…
角を曲がるまで、浮浪者の老人が段ボールを敷いた路上にあぐらを組んでギターを爪弾き、小銭を投げ入れて貰えるように上部をくり抜いたひしゃげた空き缶を通行人と自分との間に置いて今晩の日銭を稼いでいるうらぶれた情景がカホの心に思い浮かんだ。
美しい演奏だった。よどみがなく、老人のこれまでの決して楽ではなかった半生の節々にこの曲が寄り添ってきたらしいと思わせる、何故だろうかまだそんなに長くは生きていないカホにもどこか聞き覚えのあるような、懐かしいような心地にさせられる・・・
ところが、いざ角を曲がって見ると想像の大半は外れていた。おんぼろ手作りギター奏者兼鼻声の主、ボロを纏った浮浪者は、カホと大して変わらない、年端のいかぬ子供だった。
何日も洗ってなさそうなボサボサの髪、元々は真っ白だったはずの垢じみた大きすぎる大人用シャツ、灰色の薄い布地のだぼだぼズボン(足首のところで絞って留めていた)。この寒空の下、これだけは唯一、温かそう…と見えた、白地に黒斑の毛布に見えたボロが、乾いた鼻面を起こして飼い主の少年と一緒にこちらをジロリと一睨みし、カホはハッとした。分厚い毛布に見えたのは犬だった。路上生活の少年のあぐらを掻いた腿に顎を乗せ、少年と犬とは身を寄せ合って寒さを凌ぎながら宵の路上で歌っていたのだった。
もはや誰に聞かせるつもりでも無いかのように、投げ銭を入れるためのひしゃげた空き缶を自分の前に置くことさえしていなかった。昨日はどうやって握りこぶし大の大雪が降る夜を越したのだろうか。昨夜までは宿代を持っていたのかも知れないが…
(・・・でも今夜は?・・・)
知らないうちに立ち止まっていたカホの胸中を察して、R氏がカホの肩をトントンと叩き、小さな白い手をとってこの国の硬貨を握らせてくれた。目配せで少年に渡すようにと頷いて。
(・・・こんな小銭では今お腹を膨らませることくらいは出来ても…)どのみち今夜でこの子は死ぬだろう…とカホは思った。辛うじて今夜死ななくても、風邪を引いて明日か明後日の明け方に・・・しかし何か他に出来ることがあるとも思えない・・・
自分の前で足を止めたカホを一応一瞥してから興味なさそうに目を閉じ指だけ動かし続けて無料の生演奏を途切れず奏でている少年の凭れている煉瓦の壁に、カホは自分で手に持っていた古い方のコートが入った紙袋をソッと遠からず近すぎないそばへ寄せて置いた。R氏に持たせて貰った小銭と一緒に。
さっき立派な高級子供服店で買って貰ったおニューのおべべをカホは身に付けていた。
買って貰ったばかりのまだ自分の物のような気もしない、愛着の薄いコートは、淡雪色の濃密なフワフワに留め金とジッパーだけが品の良いピンク色の、真っ新な温かい防寒コートだった。重たそうなモコモコの見た目にそぐわず軽くて外側は撥水性も備わっているらしい。なにやら特別な地域にしか居ない野生のアヒルの、選りすぐりに選りすぐられた、ひな鳥の羽毛だけを詰めてあるからこんなに軽く温かいんだとのこと。店員さんによれば。
本当ならこちらをこの路上で寝て過ごさなければならない少年にあげたいところだった。まだ自分の物という実感も無い、愛着の無いただ(これは高かったぞ)と言う印象だけのコートだし、(本気でビビビッとこれが欲しいっ!と思うコートが店内に無い中、ピンとこずにただ一番R氏が選んで欲しがってるのを選んだだけで、)何より羽毛が詰まっていて温かかったから。自分は暖房の効いた部屋でどうせコートを脱いでベッドで寝るのだから…
だけど、まさかつい今さっき買って貰ったばっかりの新品のコートの方をR氏の見ている目の前で『はい、どうぞ』と渡せるわけも無い。
カホが紙袋と小銭を壁際に寄せて置くのを、ギター弾きの少年は目を閉じていて見ていなかったが、犬はカホの挙動をジッと目で追っていた。
「・・・良かったの?」
R氏の元へ戻り差し出された手を繋ぐと、Rさんがカホに小さな声で聞いてきた。
「あの古い上着も大事なものなんじゃなかったの?」
カホは頷いて、「でももうこれがあるし。私には」と言って、買って貰ったコートのポンポン飾りを両手にとって頬に当て、ニコニコR氏を見上げた。R氏はちょっと何か言いたそうだったが、結局は何も言わなかった。
浮浪者の少年にあげた方の、あの古い大人の男物のコートは、カホがもっともっと小さな頃には、弟と共有で、母親が家で客を取っている寒い冬等に二人で外で待っていなければいけなかったようなとき、毛布として使っていた思い入れのあるコートだった。自分達の父親のものなのかも知れなかった。姉弟は同じ父親の血筋なのかどうかさえも怪しかったが。二人であのコートに包まっていれば顔も知らない父親に姉弟二人ギュッと抱き締められ守られているみたいだった。小さい弟とピッタリ頬を寄せ合い、寒風にツーンとする鼻先を出して、フードを被り、体温を少しも外に漏らさないよう中で抱き締め合って震えて過ごした夜夜。もう何年も着古して穴の開いた左のポケットの底にまで愛着が染み込んだ、あのヨレヨレのコートだって、最先端の加工は施されてないかも知れないが、買った当時は安物ではなかったはずだ。
弟にとっても自分にもあのコートは母の形見のような物ですらあったから、あれを乞食に渡して『無くした』なんて言って“園”に帰ったら弟にさぞや嫌味を言われそうだとはチラッと考えたが、それよりも何より路上のギター弾きが寒そうだった。
今夜も今にも雨が降り出しそうなどんより曇った空模様だった。風は冷たくこれから夜にかけてさらに空気は冷え込むだろう。落ちてくるのは冷たい雨だろうかもっと冷たい軽い雪だろうか・・・
(R氏に手を引かれ、カホは垂れ込めた雲に覆われた空を見上げ、少年を見下ろした。)
路上で夜を明かす子には今夜、羽織る物が必要だった。明日の朝ではもう遅い。それがカホにはよく分かる。この子には今夜が生きるか死ぬかの分かれ目。本人はもう諦めてしまったように声変わりの少年期のような掠れた音色を出すボロボロのギターで美しく物悲しい大人びた曲をゆったり爪弾いていたが。
少年は死を目前にしてもはや疲れ諦めきって何も思い残すことがないかのような無表情。物乞うためのチップを入れる空き缶すら壁際に伏せて置いていたのだ。本人もよく分かっていて、もう明日まで生きる気がないのだ。通行人のために曲を奏でているのではない。自分のために最後に歌っているのだ。
立ち去り際にもう一度チラッと見下ろすと、少年は微かな空気の流れか光と影の加減でか気配を感じとったらしく、閉じていた瞼を開けて、カホをちょっと見上げた。興味なさそうに隣に置かれた紙袋をチラッと一瞥し、カホの背後でこちらを見守っているお客さんの方へもチラッと視線を投げた。朝から今日一日一度も姿を見ることが無かった空の切れ端みたいな、鋭い青い瞳の色。厳しい強い眼差しがグサッと胸に突き刺さるようだった。
(子供の娼婦か、と軽蔑した目だ)とカホは思った。
蔑む眼差しには見飽きるほど見覚えがあった。少年の膝に顎を乗せて大人しく伏せていた犬まで、僅かに顔を起こし、長い鼻に皺を寄せて唸り出す構えをとったように見えた。
カホは暗い気持ちになって後ずさりし、お客に手を取られて後退り、その場を立ち去った。
「カホちゃんは優しいねぇ・・・」
お客さんは何度もそう言って慰めるように褒めてくれたが、カホの心には迷いがわだかまりになって生じていた。自分はいらないことをしてしまったのだろうか…と。もっとあの愁いを帯びた曲を聴きたかったが、少年はギターを手に持ったままいつの間にか奏でるのをやめてしまっていた。
R氏に手を引かれながらしばらく行ったところでカホが振り返って見てみると、少年は同じ場所にうずくまったままジッとこちらを見ていた。冷たい青い炎が燃える視線を顔にチリチリと感じた。角を曲がるまで彼の冷たい視線が追ってくるのをカホは首の後ろに感じ続けていた。
その日の夜。
夜中、窓を叩く音でカホは目が覚めた。
大きな雪が窓ガラスにぶつかっては崩れて降り積もるいつもの聞き慣れた柔らかい自然の音と(ぱさっ、とか、かすっとかと聞こえるような)とは異質な音の気がした。
遠慮がちで、眠っている二人居る人間の片方には起きてきて欲しくなくもう片方には起きて気が付いて欲しがってるみたいな、トントンと二度叩いてはちょっとやめて耳をそばだててみ、しばらく待ってみてまだ足りないかと次はもう少し大きめの力加減で大胆にトントントンと三度叩いてみてるような。
その時カホはベッドの中で、お腹はR氏の大人の重たい毛深い腕に抱き締めて押さえ付けられ彼のヤスリのような顎が首の後ろにジョリジョリ当たり、ふかふかの羽毛布団の中は熱いぐらいに温められていた。クルンと寝返りを打ちR氏の抱擁から抜け出すと、カホは裸足でぺとペと冷たい床を踏んで隣の簡易キッチンのある部屋に歩いて行った。R氏は夜中にトイレに行くときに躓かないようにするために必ず豆電球を付けておく習性のある人だったから、灯りを付けなくても何かが窓の外にいるのはすぐ分かった。
カホは寝室とキッチンの間の戸口で立ち止まり、窓に視線を留め、R氏を起こしに戻るべきか否かに迷いながら、数秒立ち竦んでいた。窓の外に立っている影は明らかに人影だったから。しかしそんなに身長も横幅も大きくは無い。自分よりは少し大きめだが相手も子供であることは間違いなかった。でも幽霊だったら怖い。
R氏の大きな鼾にカホと同時に窓にうつる外の人物も同時にドキッと体を震わせるのを見て、何故だかカホの恐怖心が少し薄らいだ。それよりも近付いてもっと良く相手を見てみよう、という好奇心の方が大きくなった。
後ろを振り返り、R氏の鼾が規則正しくてまだ眠り続けていそうなこと、何かあれば大声ですぐ起こせることを意識しつつ、手招きする窓外の人影に引き寄せられ窓辺に近付いた。
窓ガラス越しに相手の顔が見えた。少年の顔よりも、あの子だ、とすぐに分かったのは、自分があげたコートを彼が着込んでいたからだった。
相手は拳を窓ガラスに当てて何か喋っていた。カホは曇る窓ガラスに顔をもっと近寄せて耳を澄ませた。口が開いて動き、何か言ってるのは確かだが、声はくぐもって聞こえない。外の相手の肩や耳当て付きの帽子の上に雪が音もなくどんどん降り積もっていく。
少年は窓ガラスを隔てた二人の間の足元を指差す仕草をし、身振りも使って何か話しかけてくる。窓ガラスを開けたところで、言葉が通じるとも思えなかったが、それでもカホは窓を開けてみた。凍えるような冷たい夜気が雪崩れ込んできた。即、靴下を履いていない裸足の足も薄いパジャマ一枚の体にもブルブルッと震えが来た。
顔しか素肌を出していないカホのあげたコートをしっかり纏った乞食の少年がまた何か言った。今度は声が聞こえた。声変わり前の澄んだ囁き声。ゲルゼンキルヒェンというこの土地を指す単語だけ聞き取れた。足元を指差していた仕草も、この土地の事を示していたらしい。形の良い高い鼻と頬が寒さに赤く染まっている。
ジッとカホから逸らさない視線が真剣だ。同じ言葉をもう一度繰り返した。
「ここにはいつまでいるのか?」、と聞かれているのかも知れない、とカホはなんとなく思った。ここは気に入ったか?でも、この土地で何してる?でもなく。なんとなくだが。
カホは首を傾げた。
「言葉が分からない?ジャパニーズ?チャイナ?」
「ジャパニーズ」カホは答えた。
「このホテルに何泊する?」少年はすぐ日本語に切り替えた。
「知らない」
「自分の事だ」
(自分の事でも決めるのは他人だ、いつも・・・)とカホは思った。
少年は黙っているカホをしばらくジッと見詰めていた。何事か頭の中で考えているみたいだった。
(お腹が空いてるんだろうか、)とカホは思った。
窓を開けたままにして、部屋の中央のテーブルに買ってきたまま袋から出さずに置かれたお菓子(バームクーヘン、グミ、サクランボケーキ、マロングラッセ等)を取りに行った。
いくらか自分が食べたとR氏に言ってもバレない程度に窓から渡してあげるつもりで、ペットボトルのアップルジュースも一緒に腕に抱え、振り返ると、腰の高さの壁を越えて少年が窓の内側、部屋の中に立っていた。不意にカホは怖くなった。
(同情し過ぎた、親切が裏目に出て、強盗に入られる・・・!)と思った。
少年はカットの美しい青いダイヤのような鋭い瞳で室内をサーッと眺め渡し、開けたまま寝室の床に放り出してあったトランクに音もなく歩み寄った。嗅ぎ分ける嗅覚があるのだろうか、R氏のチェックのネルシャツに包まれた黒い革の財布(そこにそんな風にくるくる包んで隠してるなんてカホも知らなかった)をアッと言う間に探し当て、野生の猿が見もせずバナナの皮を剥いて捨てるみたいにポイポイ、シャツと財布を投げ捨て、中身の札だけを抜き出して、目にも留まらぬ早さで自分のカーゴパンツのポケットの一つに押し込み、ボタンを留めた。そうしながらもうこちらへ詰め寄って来ていた。
(他に何が望みなのか、口封じに私の命…?)カホは目を閉じて待った。
少年はカホの手を掴んだ。
「行こう。お前は俺に今日の命をくれた。食べ物もくれようとした。俺はお前に自由をあげる。俺それしか持ってないから」
まるでウェンディの部屋に来たピーターパンみたいに、手を繋いだまま窓辺に走り寄り、少年は最後の瞬間にパッと手を離して窓枠から外へ飛び出した。外は半円形の小さなベランダになっていた。白い柵の手摺りの外に咲いている植木鉢の赤い花がザワザワ揺れ、濃い香りを振りまいた。
「おいで」
少年が歯を見せて笑った。R氏の歯よりも白くて小粒で綺麗だった。唇を閉じてからも笑った名残として、カホから見て右側の犬歯が荒れた唇の片側に残り続けた。ゾクッとくる、独特の悪魔的な魅力を放つ犬歯。真珠の白さの。薔薇の欠点であり魅力ともなる棘とも同じ鋭さ。ヒヤリとする。噛まれたらそこから皮膚が破られ痛いに決まってる、けど、どんなだろう、甘噛みなら?・・・
色んな大人、人人を見るにつれカホにもだんだんと分かりかけてきていることだったが、この世の中、裕福でもがさつだったり、乞食でも美や芸術を理解し清潔を維持し香りや作法にまで気を回す者もいる。どんな社会的地位の高い立派な職業に就いている偉い人だって、歯を磨かなければひどい口臭を放ち口中は虫歯だらけ。人に蹴飛ばされそうな道端に座り込んでいる乞食でも、毎晩歯を磨き足指の間まで丁寧に洗ってから寝る者は死ぬまで清潔を保てるのだ。
「15階だよ」カホは窓枠を両手で掴み身を乗り出して下を見た。少年は窓の外、カホはまだ窓枠の内側に立っていた。
「配管を伝って降りられる。下を見るな」
隣室で、吠えるようなR氏の断続的鼾がまた始まりだした。もうすぐトイレへ行くのに目を覚ます頃合いかも知れない。一夜にもR氏は二度三度トイレに目を覚ますことがあった。
「行こう?先に降りてる」
少年はベランダの柵をヒョイと越え、身軽に配管を伝ってスルスル降りていき、焦げ茶色のニット帽の先のポンポンもすぐに闇に溶け込んで見えなくなった。
「おいで!怖い?」
雪が降りしきる闇の中から澄んだ声だけがカホを呼んだ。ちょっと錆びた鈴をリンリンと振り鳴らすような声。この少年の話し方はどこか音楽的、声は楽器的だった。最初の出会いが歌だったため後を引き続ける印象だろうか?闇夜の逃避行へ誘う今は、ウキウキ弾む楽しげな音色だった。一緒に踊り出したくなるような。
置いて行かれてはダメだと、カホは急いで部屋に引き返し、コートを着てブーツを履いた。
バームクーヘンが大好物と言ってたR氏のバームクーヘンには手を付けず、他の菓子も食台に半分くらいは残して、ポケットに詰め込めるだけお菓子を詰め込んだ。
窓に駆け寄り、ベランダに出て氷の冷たさの柵を握り、男の子が消えた辺りに顔を出して下を見てみると、帽子の形の暗闇がパッと上を向いて白い笑顔が見えた。まだ降りて行ってしまわず、待ってくれていたのだ。
「ここに足をかけて。一番怖いのは柵から出て足場に乗り移る今だけだ。後はずっと単調に降りて行くだけだから。」
ベランダの柵を乗り越えたカホのブーツの踵を掴んで、少年が最初の足がかりにカホの一歩目を導いてくれた。
「ほら。できた。後は一段一段降りて行くだけだ」
「見えないよ。怖い…」
「次の段はここだ」
「滑り落ちたらどうなるの?」
「考えるな」
「死ぬ?」
「その時は俺も死ぬ。お前の下にいるんだから」
「そうだね…」
「とにかく早く、確実に一歩一歩降りる。今はそれだけだ。口も頭も動かさなくて良い。指がかじかんで動かなくなる前に、急げ」
「うん・・・」
それからは黙々と降りていった。闇の中へ片方の足を探り探り引っかかるところまで一歩ずつおろし、手を持ち替え、もう片方の足を下ろし、手を持ち替え。それを繰り返していく。各階のベランダ横を地上から屋上まで這う配管の左右に突き出している固定具が体の小さい人間にとっては梯子の役割を果たしていた。
コツを掴めば、まるで眠っていても出来そうな単調な作業に思われてきた。闇に慣れた目に、黒の中にも濃淡があり、うねるように動く空間の歪みのような霧が流れていくのが見えた。確かに、着実に、手がかじかんできた。
ふと、自分は置いて行かれたのではないか、もう下の段に少年はいなくなってるのでは無いか、と、そんな気がした。長い時間話さないで、無言が続くと。足元の暗闇を見てみると、ちゃんとそこにあの乞食の男の子の白い顔がこちらを見上げて待ってくれていた。きっと降りていくペースも自分に合わせてくれているはずだ、とその時カホは気が付いた。少年は一人ならもっと早く降りているだろう。自分を待ってくれているのだ。
「…ここはネジが外れてる。気を付けて。もっとこっちへ足をかけると良い…」
先に少年が降りていて危ないところはいちいち教えてくれ、安全に踏める箇所へ踵を掴んで持っていって、誘導してくれた。カホはただただ機械的に足を下ろし、手を下ろし…していれば良かった。
「もう半分くらいまで来たよ。お前、意外と身軽だな・・・正直、途中で落ちるかと思ってたけど。ここまで来れたならもう下まで落ちないで行けるよ」
「あっ」カホは今更気が付いた。
「何?!何だ!?」
「窓を閉めてくるの忘れた!」
「おい。驚かすな」
「Rさん風邪引かないかなぁ…戻って戸締まりしてこようかな…」
「馬鹿言うな。放っておけ。寝惚けて自分で窓締めて鍵かけて、明日の朝自分で悩めば良い。密室誘拐事件に」
「可哀想だよ。私が居なくて風邪までひいたら…あの人…」
二人はヒュウヒュウ唸る風に負けない程度には大きな囁き声で口喧嘩した。
「大人なんだから何とかやるさ。自分の心配をしろ。まだ7階だ。落ちたら死ぬぞ」
そう言われればそうだ。風上側の肩や耳の上に雪も積もってきていたが、地上へ降りるまで手が離せず満足に振り落とすことも出来ない。ここで立ち止まっていては壁にへばりついた雪だるまになってしまう…
「一回下まで降りる。それから考える」
「そうしろ。下に着く頃には忘れてろ」
それからまた黙々と足を下ろし、手を下ろす順番で、地道に配管を伝い降りた。
途中、向かいの建物の一室の窓のカーテンがサッと開かれ、眩しい光に晒され目が眩んで、体が竦み、一瞬二人は身構えた。窓からこちらを指差す後光の人影、叫び声(「何あれ!泥棒!?」)を予期して。
でもカーテンを開けた人物は向かいのホテル外壁に縦二粒のフジツボみたいにへばりついてる綺麗な身なりと汚い身なりの二人の子供には気付かなかったようだった。
それからは少し手足を動かす速度を上げ、スルスルと残りの道程全部を降りきり、ようやく地面に辿り着いた。両足の裏を地面につけて立つと何故だか宇宙飛行士のように膝がガクガクし頭がフラフラした。そうやって二足歩行で立ち歩くことを平常時はやってたんだと、体が必死に思い出そうとしてるみたいに。
ホッとして人心地ついていると、少年がカホの両肩を掴んで自分の方へ向かせ、帽子や肩を手荒く叩いて雪を払いのけ始めた。バシバシとなんだか痛くて、カホも黙ってされるままになっているだけでは気が済まなくなってき、相手の肩や頭や服の出っ張りに付いた雪を同じくらい手荒にバサバサ叩いて落とした。
雪は表面の方は柔らかい塊で落ちてきてフワッと乗っかっているだけに見えるが、下の方は積もってから体温に溶かされて水となり服の繊維に染み込んで、その後でまた凍り付き、なかなかしぶとくて少々叩いただけでは完全には落ちない。
少年の肩や胸の辺りをベシベシ叩き、帽子を頭から弾き落とし、キャアキャア興奮した笑いを立ててやり合っているうちに、なんとなくカホは相手に対して抱いていた自分の第二の印象がまたも間違っていたかも知れない事実に気付いた。
(この子も女の子かも知れないぞ)と言う気がし出したのだ。
それが相手の笑い声か、ゴワゴワ重ね着した衣服の下で泳ぐ体つきを叩いてみて受けた印象なのか、腕を構えたりパッと顔を背けたりして無邪気にじゃれ合いを楽しむ仕草や反応でか、どこからそう感じとれたのか分からないが、何故かそんな感じがした。
"楽園“でも同じ境遇の男の子や女の子がいてごちゃ混ぜになってじゃれ合い遊ぶこともあったが、この頃では女同士遊ぶときの態度とそうで無い場合のときの遊びの最終的に向かう方向性がズレてきたりしていた。
カホは怪我無く無事に地面を踏めたことに加えて、年上の少年だと思っていた浮浪者の子が実は年上の少女だったことに二重の喜びを感じた。何故だかこの時はこれからこの女の子と遊べる、と思った方が嬉しかった。優しいお姉ちゃんがいる"園”の友達を羨んでいたのもあった。
物陰から大人の人間が四つん這いになったようなデカさの大きな獣がこちらへ弾丸のスピードで迫って来るのを目にして、カホは恐怖に一瞬体が硬直してしまったが、それがワンワン!と吠え尻尾をブンブン振り、嬉しそうに少女に飛びかかって抱き留められるのを見、少女がケラケラ笑うと釣られて自分もケラケラ大きな笑い声を上げた。吠え声と高い笑い声が狭い路地に木霊した。
「シーッ!二人とも静かに!」
自分が一番うるさかったはずの少女が犬とカホに注意した。
「行こう。ここに立ち止まってちゃダメだ」
「どこへ行くの?」
「とにかくここじゃないところ。」
手を繋いで走り出しながら少女はカホに名前を聞いてきた。
「Rさんは僕のかわい子ちゃんって私を呼ぶよ。僕のエンジェルとか女神とか・・・」
カホと呼ばれるのにはそろそろ飽きてきていた。子リスと呼ばれた楽しかった一時代の後、またもう一度"園“に連れ戻され、再び自分がカホと前と全く同じ名で呼ばれているのがなんだか冗談のようで空々しかった。自分はもう前と同じ自分では無いぞ、一度外に出て来たんだから、あんたらが知ってるカホでは無い、“カホ”は自分を言い表すには似合わない、死んだ名だ、と言う想いが密かに胸中に燻っていた。今こそ再び無名を謳歌する時が来たのだ。
「ふうん」と詰まらなそうに少女が顎を掻いた。走りながら。
「そっちは?」
「俺は誰にも何とも呼ばれない」
少女はニヤリとした。名無しが誇らしいみたいだった。走りながら清々しそうに両腕を広げ、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込んで体を膨らませてから、またカホを見てニヤッとした。
「誰にも何とも呼ばせない」
風が少女の頭から野暮ったい帽子を吹き飛ばしかけ、少女がサッと飛んでいく前に帽子を捕まえた。キラキラ眩しい金の頭髪が溢れ出た。天然の金。初めて見るわけではなくても、さほど珍しくも無い物かも知れなくても、それでもカホの目には美しくハッと心掴まれる見事なブロンドだった。走り抜ける灰色の町並み、視界に入ってくるネオン、沢山の全てのごみごみした物を反射で輝かせる、視界の中にある一番綺麗な物が彼女だった。
そのうち二人は「J」「K」と互いを呼び合うようになった。
同じ店で万引きを繰り返し過ぎてそこの店長に警官を呼ばれ待ち伏せされて、命からがらドラッグストアから逃げ延びるときに、身を隠した街路樹のそれぞれの頭の上に「J」、「K」と黄色く目立つ蛍光塗料で書かれていたのだ。
「あいつもう行ったかな?J?」
「Jって何?」
「お前のことだ。頭の上を見てみろ」
カホは頭上にペンキで殴り書きされた自分の新しい呼び名を発見した。森と違って街中であれば街路樹にも一本一本識別番号があるのだ。当たり前だけれど。管理しなくてはならないものには番号が与えられる。Jは年上の少女に目を戻した。相手の頭上にも、塗装工が粗い仕事を施した滴り落ちる蛍光色ペンキで鱗の木の幹に殴り書きしたアルファベットがある。
「じゃあそっちはKだね」
「あの太っちょ…でぶでぶしてる割に足が速かったな」
「途中からはパトカーに乗ったよ」
「あれは反則だったな」
「ルール違反も警官がやれば法になる」
「逃げ切ったら引き分けだ」
「勝ちじゃないの?」
「そんな甘くない。あっちが勝つまではずうっと引き分け。うちらは一生勝たない。負け続け。負けるが勝ちだ」
Jにはその理屈がなんとなく不服だった。「逃げ切ったら勝ちだよ…」とブツブツ呟き続けながら、タイミングを計って自分の隠れ場所から走り出したKに続いて駆け出した。
「あのドラッグストアのオーナーもなかなかな悪党だったな」
「そう?」
「そうだろ。あの店では俺等、大して盗んでなかったじゃ無いか?せんぜいがチップスとかラムネ菓子とか…もともとシケた菓子ぐらいしか盗る物も置いてない店の癖して!」
逃げ遅れて捕まったのはJだった。すばしっこいK一人でなら逃げ切れただろう。見捨てれば良いものを、振り返ったKは、店主にフードを掴まれJが捕らえられたと分かるとすぐ引き返してくれた。自分も一緒に捕まってくれた。仕方なしにというよりも、これからどうなるかが楽しみだとでも言うように、ニヤニヤ笑いながら。
『今月分のこの店で万引きされた全額を全部お前等二人で返しやがれ』、
『一人人質を置いてお前(K)が、今から通りへ出て、よその人からドロボーでも物乞いでも何でもして金を用意して来い、400ユーロだ!戻ってこなかったらこいつ(J)を半殺しの目に遭わせるぞ』
唾を飛ばしながら店主がそうがなったのは一昨日の事だった。その翌日(昨日)Kが金を用意してJを晴れて自由の身にしてくれ、そして今日、報復に、二人して倍返しの盗みを働きにまた店に入ったのだ。おそらく店長は自分一人しか店番がいなくて不利なのを咄嗟に悟り、二人が入り口のガラスドアをくぐり抜けた瞬間にカウンター裏に設置された隠し非常ボタンを押してもう警官を呼んでいたに違いない。素早く手当たり次第棚にある物をがさがさポケットに詰め込み、捕まえに飛びかかってくる店主をかわし、猛ダッシュで店を走り出たのに、あまりにも警官が来るのが速かった。盗む前に未然に呼んでいたとしか考えられない早さだった。
報復の窃盗では二人はギリギリ身を躱し、捕まらないで済んだ。身を隠しつつ店から離れ、走り続け、次の別の場所へ向かいながら、立ち止まらずに戦利品を見せびらかし合った。
「単価の安い湿気た物しか置いてないんで、万引きで元を取ろうとしたらポケットが満杯だ!」
「チップスなんか盗るからだよ!」
「好きなんだもん!それに、これは無添加だ!ピンク岩塩使用!」
「体積の割に安い!」
「じゃお前は何をかっぱらって来たんだよ?!」
「小さくて安い物ばかり!ほら!」Jはポケットや帽子から菓子を出して見せた。
「好きなの?そんなつまんない味がするガム?」
「キシリトールだ!」
「そんなに好きでもないもん盗って来たってゴミじゃん!」
二人は戦利品の詰まったコートで怒ったフグのように膨らんで笑い転げながらポロポロポロポロ走り去った後の道端にキャンディやらチョコレートバーやらを落としながら走った。
『親を呼ぶぞ』と脅されて、『呼べるなら呼んで見ろやい!』と天井に吠えたKの泣き笑いのような顔をJは一晩、倉庫に閉じ込められ段ボールに挟まって寝ながら思い起こしていた。きっと今度も迎えに来るのは園長だと覚悟していた。
(閉じ込められた窓のない倉庫は無人ではなく、小さな男の子がいた。暴れ鼠のようにJはフードを抓んで店主に倉庫へ放り込まれ、すかさずガシャンと扉を閉められ、鍵を掛ける音がして、暗闇の中、一通り死に物狂いで出口を捜し回り壁に沿って一周、二周、Jはグルグル回ってみたが、消耗し疲れ切って諦めた。積み上げられた段ボールの中にはこれから店に並べる在庫の商品も詰まっていたが、あんまり摘まみ食いしてもあの悪徳店主が更に何を上乗せして後から請求してくるか分からない。Jは段ボールに凭れ、賞味期限の切れた菓子を選んで囓り、硬く冷たいコンクリートの床にうずくまって座り込んでいた。しばらくは自分の咀嚼音だけが辺りの空気を震わせていた。それから、どこか遠くない場所でカサコソと音がした。本物の鼠かな、とゾッとした。息を潜め身構えて待っていると、もう少し近くでまた音がした。大きな気配が動いた。
心臓が止まるかと思ったのは、その姿の見えない何かが人間の言葉で喋ったときだ。
「お姉さんも捕まったの?何を盗ったの?」
「誰?」Jは声のした方に目を凝らした。
「僕も捕まったんだ。もうずうっと前に…」
「姿が見えない」
「出て行っても良いけど、鼠みたいに叩かないでよね。僕、人間だから」
小さい男の子がソロリと段ボール箱の積み上げられた物陰から姿を現した。青白いぽっちゃりした男の子だった。ハッキリよく見えるわけではなかったが。おねしょの星ちゃんと同じくらいの年頃に見える。二つ年下の弟よりも更に二つ年下くらいか。六歳くらい?
「ねぇ、何を盗って捕まったの?お姉ちゃん?」
「ガムとか…グミとか…」
「まだ隠して持ってる?」
「いや、捕まったときパンツの中まで全部見られて取り戻された。ここの店主に」
本当はチョコレートバーを帽子の隠し縫いの中に咄嗟に捻じ込んでまだ隠し持っていた。が、男の子の佇まいや声に妙な不気味さが感じられ、その事は言わなかった。よく目が見えない闇の中、人があちこち体をぶっつけ回って出口を探し、この倉庫に閉じ込められてるのは自分一人だと思い込んで動き回っているときには声を掛けてこず黙っていたらしい、(確かに相手も怯えて息を潜めていたのかも知れないが)こっちが消耗しきった今になって急に馴れ馴れしく近寄ってきた。とにかく相手がよく見えなくて、小さい子だとしても何故だか警戒心が解けなかった。
「ボクはいつからここに居るの?」Kは聞いてみた。
「分かんない」声の主が首を傾げた気配。見えたら可愛い仕草だったのかも知れないが、見えるようで見えない闇の中の相手が怖い。
「お姉ちゃんは…(そう言いながら何故相手にはこちらがお姉ちゃんだと分かったんだろうと不思議に思った。こっちは、自分よりも背の低い人影と幼い声で年下だろうと推測するしかなかった。自分を呼ぶ呼称が“僕”だから男の子なのかと判断したが、声変わり前の子供の声では言われなければ分からなかったはずだ。)…明日になったら友達が盗んだ商品を立て替えるお金を持って助けに戻ってくれるんだ」
「良いなぁ。」男の子はユラリと動き、どうやら座り込んだようだった。Jの斜め向かいの位置にある段ボールに凭れかかったようだ。Jとは付かず離れずの距離。ソロソロと片足を立て、Jはいつでも飛び退ける体勢を整え、話し続けた。
「ボク、一人だよね?」急にJはゾクゾクしながら辺りの気配に殺気立った。
「一人だよ。ここには、僕とお姉さん二人だけ。」
「そう…本当?」
「ホントだよ。僕もチョコレートを盗んだんだ。一個だけ。お金があとちょっとだけ足りなくて…それでも、ここに閉じ込められちゃった。逆にここにはいっぱいチョコがあるけどね」
「身代わりに助けてくれる友達はいないの?」
「誰かと一緒じゃなかったんだ。僕は単独犯。」
「そう…」可哀想な気もしてきた。Jは落ち込みかけていた自分も一緒くたについでに励ますように明るい声を出した。
「じゃ、明日一緒にここを出よう。私の友達が助けに戻って来てくれるから」
「本当にそうだと良いね…」
不安を煽り立てる言い方ではなかったが、言外に潜む含みにはJも気付いた。Kが約束通り助けに来てくれると良いが、そうでなかった場合…(一人で逃げよう)と今頃決めてしまっていたら…
不意に男の子は立ち上がり、自分の後ろにあった段ボール箱のどこか穴から手を突っ込んで中の物を引っ張り出した。よく見えないが、包装をペリペリ毟り取って食べ始めた香りが漂ってきて、この子の好物のチョコレートらしいとピンと来た。
「お姉さんも食べる?」
断ってはなんとなくこの場の一体感を損なう気がした。
「じゃあ一個貰おうかな。私も…」
男の子がいる方に伸ばし上を向けて開いた手のひらに、男の子はチョコをいっぱい載っけてくれた。
「こんなに?」
「ここではいくらでも食べ放題だよ」
「明日までお腹の虫が治まるギリギリだけで良いの。あんまり食べたらまたもっと請求額を増やされちゃうよ」
「じゃあ、ずっとここに居続ければ良いんだよ。」男の子が狡賢そうな声を出した。
「払いきれなくなっちゃう…」
「払わなくても良いんだよ。ここに居続ければ…」
「…ボク、いつからここに居るの?」また同じ質問。返ってくる答えもまた同じだった。
「分かんない…」
眠たくなってきた。暗くて、よく見えず、手の中のチョコレートを一つ頬張ってみると、包装紙に包まれたままだった。口の中を切りそうで、ベッと手に吐き出すと、
「下手っぴだなぁ」男の子がにじり寄ってきて、包装紙をペリペリ剥がし、Jの口に入れてくれた。辺りに甘いチョコの香りが満ちた。目が見えないので、闇が口中で溶かされるチョコレートのような錯覚を起こし始めた。
「ボクはお外に出たくないの?」
「外はしんどいよ。食べ物を手に入れるために痩せ細っちゃう。その点、ここに居れば、手を伸ばせばほら、両腕を伸ばせる隙間も無いほど、何か食べ物の詰まった箱に両手がぶつかる。ここは楽園だよ、僕にとって。外に出る必要は無い。出たいとは思わない。
ここの店主も、きっと僕を閉じ込めたのをもう忘れちゃってるんだ。捕まえられて閉じ込められたのは、ずうっと前のことだから…僕は一生ここに居るんだ…お姉ちゃん、明日もしお友達が助けに来なかったら、ここで僕と一緒に居て…ずっと…」
「一緒に逃げようよ?助けてあげる…ここから出してあげる…」
男の子がどんどんお菓子を口に入れてくれるので、Jは満腹になり眠くなって、ウトウトと瞼が落ちてきた。
「ちょっと横になっても良い?」
「こっちへおいで。巣を作ってあるんだ」
「ボク、お名前は?」
「ネズミ君で良いよ」
「ネズミ君…」袖を引っ張られる方へついて行くと、倉庫の奥の方に段ボールを上手に組み立てて周りを囲い底に何重も段ボールを敷いてフカフカにして、揉みほぐしたらしい柔らかい質感の段ボールの敷き布団と掛け布団の設えられた立派な寝床が作られていた。
「もう外に逃げ出すつもりがないんだね…ネズミ君…」
「住み慣れれば居心地が良いよ、ここは。何でも揃ってる。新商品のジュースもお菓子も真っ先にここに届く。お金を払って買う人達よりも先に味わう事が出来る。いつまででも僕はここに居るよ。見付からない限り。・・・明日もしお姉ちゃんのお友達がお姉ちゃんを助けに戻って来ても、僕のことは内緒にしていてね。一人でここから出て?」
「じゃあ今夜だけ一緒に寝よう」
二人は手探りして互いの手を取り合い、相手の顔も見えないままくっつき合って段ボールの巣に一緒に潜り込み、段ボールの布団に包まった。年上の自分だけ着ているのも悪いと思って、Jが片方の腕を脱ぎかけたコートをネズミ君が押しとどめた。
「僕はここの気温に慣れてるから。お姉さんは脱ぐと風邪引くよ。…でも、その耳当て、暖かそうだね…」
「明日もしKが…友達が助けに来てくれたら、今夜のお礼にこれ忘れて出て行ってあげるよ」
「今夜のお礼…僕も今夜はありがとうだよ…」
ネズミ君、キミは良い子だね、とJは最後には思った。コートの前だけ開いて、腕の中に男の子を抱き締め横たわった。ポチャポチャした男の子は肌がモチモチしてスベスベして気持ち良く、肌の表面は最初は湿ってヒンヤリしているように感じたが、腕を互いの背中に回し手のひらで摩り合っていると、終いには熱いほどポカポカしてきた。
「…ここには何でもあるけど、友達はいないんだぁ…」ネズミ君がポソポソ呟いた。
「明日、お姉ちゃんのお友達がお姉ちゃんのこと迎えに来たら、『ここに居ようよ』って頼んでみても良いかもね。三人でここで暮らそうよ!…」
Jは眠りかけの頭でちょっと考えてみた。「う~ん、でも、Kは…あたしの友達は…外に居る方が絶対良いって言うと思うなぁ…」
「そうかぁ…」
「でも、ネズミが3匹に増えたらさすがに商品の減りが目に余って、駆除に乗り出すかも知れないよ。ここの店主。」
「そうかなぁ。…でも、時々は寂しいんだ…仲間が欲しいよ。僕も…
ここに閉じ込められる子はお姉ちゃんの前にも、これまでも時々いて、誘ってはみていたんだよ。いい子そうだと思ったら。でも、まだ誰も、僕と一緒にここに残ってくれないんだぁ…みんな出たがってさ…住めば都なのに。ここは…」
「仲間になりたくないようなのが表の店内で盗みを働いて、ここへ閉じ込められたときは、どうするの?」
「それとなくカサコソ音を立てて、追い立てて、出口に誘導する。縄張りを荒らされたくないしね」
「出口があるの?」眠りかけていたJの頭が一瞬、冴えかかった。
「あ、口が滑っちゃった…でも今は夜更けだよ。外へ出たいなら明日の朝に案内するよ。通気口があるんだ。ここに来てから太って、僕にはもう通り抜けられない。でもお姉ちゃんなら大丈夫だよ。」ネズミ君は手のひらでJの背骨をなぞり、走り回るのに適した痩せたお尻や締まった手足を撫ぜ、厚みを測るように胴を抱き締めた。それから、“楽園”の泣き虫な赤ちゃんみたいに、ギュッと力いっぱいしがみ付いてきた。
「今夜一晩だけは僕とここに居て。お願い。明日は出口に案内するから…今夜は…このまま眠ろう?一晩だけ。今夜だけ…」
「そうだね…」Jはサラサラのネズミ君の髪を鼻と頬で撫でた。両手は相手の背中に回していたから。「今夜はお腹いっぱいで、眠いし…」
それからは、すぐ眠ってしまったのでどちらが先に寝入ったのか分からなかった。
翌朝は倉庫のドアの鍵がガチャガチャ乱暴に開く音と、石段の上の眩しい戸口からKの「おーい!おーい!」と呼ぶ声でハッと目を覚まし、バタバタ大急ぎで寝惚けたまま倉庫を出て来てしまった。忘れずにちゃんと耳当てを忘れて来れたのだけを思い出し、後からホッとした。約束を守れて。でもあのネズミ君は夢だったのか現実だったのか…?)
この話をKに打ち明けたのは二人の旅も終盤に差し掛かった頃だった。
『親の顔が見てみたいだと!俺が一番見てみたいぜ!呼んでくれや!自分で探す手間が省けて有難いわ!』
二人で捕まったとき、最初に二人共が放り込まれたドラッグストアの更衣室兼控え室で、Kは店主に叫び返した。
『そうかぁ、可哀想になぁ、お前もみなしごかぁ、じゃあ食っていくにも困るだろうし許してやるかぁ、…なぁんて許されるとでも思ったか!たわけが!そんな万引きガキどもの言い訳をいちいち真に受けてたらとっくに店が潰れてらぁ!てめぇら、臓器売り飛ばしてでも俺の店から盗んだ品全額返させるからな!』・・・
(一体どうやって一晩で身代金を掻き集めたのか?)前を走るKの頼もしい背中を見ながらJは思った。
走りながら、二枚重ねに着た上着の奥の方から大事そうに一番好物の棒付きグミを取り出し、袋を破いて放り投げ捨て、口に頬張りながらKが誇張して嫌みったらしい店主の口真似をした。
「てめぇらぁあ、バラして臓器売り飛ばしてやろうかあ、あんんんん??」目を寄り目にしてベロを出し頭を振っていかれてる顔をした。
『よしよし、この辺りで待ってろ』とKに言われたらしい言い付け通り次の角辺りでブラブラして待っていた犬が走って逃走中の二人の響き渡る笑い声や足音を聞きつけ嬉しそうにワンワン吠えながら迎えに走り出て来て、ポロポロ落ちてくる菓子や袋入りパンを拾っては吠え、吠えてはまた拾い、二人の前になり後になり併走した。
「行くぞ。どんどん移動しよう。この町にはちょっと留まりすぎた…稼ぐコツを掴んできた頃にはあっちでもうち等の尻尾を嗅ぎ付けてる…」
いつもいつもうたた寝しているやる気の無い雇われアルバイト店員が店番していていくらでも商品を持ち出すことが出来たスーパー、優しいおばちゃんが台所の裏口のドアを叩けばいつも温かいスープや犬用に余った骨付き肉、古くなった手編みのショールまでくれた、どのドアを叩けば良くどこに近付かない方が良いのかよく分かり始め、居心地の良くなってきていた町も、馴染んできたと思える間もなく、次々出て行かなくてはならなかった。
「Kの目的の土地って一体どこなの?私達、どこに落ち着くの?最終的に?」
「刑務所以外。何遍言わせる?」
「でも、どこに向かってるの?」
「だからここ以外。」
移動を続けるKは行き先を聞かれると必ず不機嫌になった。それ以外では大抵何をしても大らかに笑い飛ばすのだが。Kの機嫌を損ねるもう一つの質問は「どこからこの浮浪の旅を始めたのか?」と聞くことだった。
と言って、Jは聞かずにただただ頭を無にしてひたすら何にも考えずについていけるほど空っぽにはなかなかなれなかった。Kという移動し続けなければ生きていけない生き方もまた悲しい宿命だと思った。あまりにも落ち着ける場所が無さ過ぎて。よくよく見知った街角の光景、目を閉じれば地図を折りたたんで飲み込んでいるかのように、頭の中に大体の地形、大まかな建物の配置を想い描ける馴染みの町、一呼吸、息を吸い込んだだけで、匂いでいくつもの遠い記憶が蘇る、そう言ったホッと安らげる故郷もなく、常に誰も自分を知らない場所へ、次もその次も、と、風のように移動し続けなければいけない・・・目指す最終目的地も心のよりどころとして思い出せる故郷もなく。
そんなKを可哀想だ、自分とは異質だ、ちょっと異常だ、こうなりたくない…とJは感じ始めた。
(では一体自分は何がしたかったのか?)とJは初心に立ち戻って考えた。
いつも同じ場所に閉じ込められてずっとここに居ろと言われるとしんどかった。“楽園”でも、その環境から連れ出して貰えたR氏のホテルでも、今のKと全く同じ言葉(「ここじゃない場所へ行ってみたい、ここ以外ならどこでも良い」)と声を大にして宣伝して回っていたのだ。自分は自分勝手だ。連れ出してくれる人を見付けてくっついて回り、とにかくブーブー文句が言いたいだけなのか?
Jはそう思いたくないので、こう考えることにした。
(自分はもう少しゆっくりとその土地その土地を味わい知り尽くしてもう十分だと思えてから次の土地に移りたいのだ、こんなに慌ただしく先へ先へ風に吹き飛ばされる塵みたいに進みたくないだけ…Kとは基礎は同じタイプの遊牧民だけれど、ただ、移動速度はもっとゆっくりが好きなのだ…ここがどこなのかもまだよく覚えきれないうちに移動してしまうのが名残惜しい、それにまた同じ場所にも戻って来たい…Kとは似ているが、全く同じでは無いだけなのだ…
ただ、今は自分の我を通すよりもKにくっついて一緒に居たい。小さな不満は募っていっても、それよりも、何よりもKの事が大好きだから…)
自分の気持ちに気付いてからはJは詰まらない小言は出来るだけ控えるようにしようと思った。
(あまりゴチャゴチャ文句を言わないようにしよう、Kを見習って楽しめるだけ楽しもう、雰囲気を悪くしてはせっかくの今日という命、旅が全部、台無しになってしまう…)
踏切から線路を囲うフェンスの中に侵入しどんどん駅へ近付いて行ってまだ列車が速度を上げきらないうちに駆け寄って飛び乗る、西部劇みたいな無賃乗車のやり方も、三度目四度目ともなれば体は慣れ無駄に怖いとも思わず難無く出来るようになるのだが、頭の中はグルグル悩みが渦巻いて不安は積み重なっていき、Kへの思慕はますます募り、そのせめぎ合いに悩まされ苦しんだ。
R氏からも離れ、その日暮らしでもう引き返すお金も持ってない状況の時に、
(今ここで見捨てられるのでは無いか、)とヒヤリとする瞬間はいくらでも訪れた。自分一人では飛び移れない溝を先にKが飛び移り、向こう岸で立ち上がってこちらを振り向いた瞬間。
Jには追い付けない速度まで電車が加速してしまい、Kだけ飛び移れたとき。
Kの脳裏にも、チラリと、(足手まといを切り捨てるなら今がチャンスだ)と言う思いが閃くのが目を見ていれば簡単に分かった。それでも、いつもKは絶対にJを見捨てなかった。
溝の向こう岸から、励ましなだめすかして
「目を瞑って飛べ!」と出来るまでいつまでも焦れながらもJを待って応援し続けてくれたり、一緒にヘドロや藻を足に纏わり付かせながら溝から上がる階段を探して溝の底に降りてきてくれた。
せっかく飛び付いた電車からポンとまた線路へ飛び降りて、次の電車が来るまで線路脇で何時間も待ってくれた。別のルートに変更してくれた事もあった。
Kの足を引っ張りたくなくて、Jも必死で電車飛び乗りの技を習得した。
「じい(白黒斑の犬)は後からどうとでもして追っかけて来てくれるんだけど、お前は無理そうだからなぁ」
Kはワンワン吠えながら列車を追って走って来、初めのうちは追いついて、勢い余り追い越したりしてしまいながらも、やっぱり電車との動力の差には敵わずだんだん姿が小さくなって行き、やがて諦めて全身が肺のように激しく腹を波打たせ骨が折れそうなほど体全体を使って呼吸しながら、全力で走るのをやめ、トボトボ歩き、みるみる小さな米粒のように小さくなっていく愛犬を眺めながら呟いた。小さな点となって見えなくなっていく犬をいつまでも見詰めるKのその目には心配そうな、厭わしそうでもある、複雑な模様の愛が宿っていた。
「じいやはいつから仲間なの?」Jは聞いてみた。
「さぁ。いつだったかな。3年前の冬くらいからかな」
「どこで知り合ったの?」
「忘れたよ。」
「その時は子犬だった?」
「その時から年寄りの捨て犬だった」
「盗んだ犬じゃないなら良かった…」Jは単純に笑い声を上げた。「なんだか変に高級そうで図鑑とか金持ちの邸宅とか高級車の中とかでしか見かけない犬種だと思ってたんだぁ…」
Kは心なし気持ちのこもってない変な笑いでJに同調した。後々、どうも不審な眉の動かし方をしたよなぁと思って、Kの気が大きくなっているとき(大金を手に入れたとき、酒に酔ったとき、風呂に入れたとき等)に聞いてみると、ポロポロと真相を明かした。
どうもこういうことのようだった。
Kが盗みのため侵入した、港に停泊中の豪華客船の一室で、じいは虐待され死にかかっていた…もうショーに出しても勝てない老いぼれ役立たずだと罵られ…Kはポケットの底が抜けそうなほど金目の物を頂戴して、ただその部屋を出るとき、いつもは鍵を元通り閉め直すドアをただ開けて出ただけ、自分が引っ張って犬を盗み出したわけでは無い、という事らしかった。鈴の付いた皮の赤い首輪もキツそうだったから後から外してやっただけのことさ。付いてきたのはあいつだ。
Kは肩をすくめた。
「お前と同じ。ロレックスの時計とかSIMカードなんかは足が生えて勝手に俺に付いてきてくれたりしない。そうだと楽で良いけど。でもあのじいとお前は俺が盗んだ盗品じゃ無い。ただ勝手に付いて来てくれるだけだ」
「いつか追いついて来られなくなる時が来るかも知れないね…あの犬、年寄りだから…」
「でも生きたよ。鍵がかかった部屋にいるままよりは長く。俺を追って来れなくなったら、あいつ洗ってやれば毛並みは凄い綺麗だから、ピカピカの銀の一角獣みたいになって…誰かが拾って面倒見てくれるかも知れない。最後は、温かい煉瓦の暖炉とかその前に絨毯が敷いてありヨチヨチ歩きの赤ちゃんが揺り籠で寝てたりするような、ゆとりある農家の家とかで。あいつはたまに洗ってやらないとすぐ汚くなる。黒い斑は俺が墨のカスを塗りつけて目くらましに付けてやってる模様だよ。だけど毛が長いから他のゴミもいっぱい自分でくっ付けて変装してくる。一人で勝手に散歩に出掛けて。俺はあいつの飼い主にはふさわしくない。飼ってるんじゃない、付き纏ってくるんだよ。まるで足の生えた盗みの証拠品みたいに。どこまでもどこまでも・・・追いかけてくるんだ…赤い舌を垂らして…」
「盗みは良くないってことだ」Jは明るく言ってみた。
「そうだな。いつかは盗まれる側になってみたい」暗い顔になりかけていたKもまたニヤリと笑みを取り戻した。
二人の旅は鈍行列車の後ろから走って行って出っ張りに飛びつく、そのまましがみ付いて指や腕が疲れて痺れてきてこれ以上もうダメだ、というところまで無賃乗車する、という原始的なやり方が主だった。田舎ではこれがまだまだ通用した。障害物を感知するセンサーは前方一番前の運転席車両にしか付いていなかったから。それに、人が溢れかえっている街中を走る電車と違って、田舎には目撃者が少なかった。だから二人は田舎をウロウロしてばかりいた。
「大都会に行ってみたいなぁ。」Jは言ってみた。
「良いよ。じゃあ行こうか」
「でも、行って、しばらく居たらまた離れていくんでしょう?それだったらゆっくり通り過ぎてるのと一緒だよ!ずっとどこかに住み続けることは出来ないの?落ち着いて定住、安住はできないの?どこでも良いから、どこかに」
意地悪い質問だと知っていながらJは聞いてみた。何も出来ないことはない、これから自分達は万能だ、全てが手に入る、何もかも…と思われたあの家出の夜の開放感は、結局日々の同じような日程(盗む、逃げる、身を隠す、また盗む、寝床を探して夜を明かす…逃げる…)に明け暮れて霞んでいってしまい、ずっと永遠に続くかに思われた自由、勝ち取った至福の無条件の放浪生活が、一転、不幸で不便で不潔な先の見えない生活に思え始めた。Kの弱みを突いて、なじりたい気持ちになることが多くなっていった。
「夜が明けたら帰るかって、あの時、俺は聞いたよな?」
Kはあの夜と同じに、移動し続ける貨物車に片手で掴まり、もう片方の手を放して、飛ぶように過ぎていく速すぎて見えない線路を、貨物車の出っ張りに引っ掛けた自分達のブーツを履いた足元を、指差した。轟音を轟かせ過ぎ去る地面と、地に足のつかない足。
「ここから先、俺に付いて来たらもう引き返せないぞって、警告したはずだ。ここがお前が自分で選んだ道の上だろ」
そう言われてやっとJは思い出さされた。(ああ、そうだった、彼女に付いていくと決めたのは自分だった、)と。Jも速度を上げさらに加速して飛ぶように過ぎ去る地面を見た。
(この速度で移動し続けるKに付いていくと決めたのは自分だった…)
Kにねだって連れて行って貰った都心での生活はJには、これまでで一番楽しく安全なように思われた。Jにはいつまででもここに居られそうな気がした。行き交う人々の熱気、店が密集している商業施設や大きな駅のそばでは、自動ドアが開閉する度に空調の暖かい空気も漏れ出してくるせいか、厳しい夜の冷え込みも少しは凌ぎやすい気がした。物が溢れ、ゴミを掃除する人間よりも捨てていく人間の数の方が多く、それに誰もが気が急いているせいで立ち止まっている子供に無頓着。おこぼれに預かるのも極簡単だった。日差しやネオンの降り注ぐ明るい場所ではしゃぐ人人も多ければ、高架下や地下街、ビルとビルとの隙間、塞がれた工事中の板を釘を数本抜いてギーコギーコ軋む秘密のドアに変えた裏側、オーナー同士の揉め事やら地域住人の抗議や遺跡が出土したとか何やらかやらで板で目隠しの囲いを施され地面を掘り掛けになったまま工事が中座している無駄に広い空間などなど、表通りからはちょっと目に付きにくい場所でざわめく日陰の楽しい集いも沢山あった。
環状線の乗車賃さえ手に入れることが出来れば気分を変えられる他のすぐ近郊の町へも簡単に行き来できた。
(街中や近隣の観光地では、気が大きくなったり大人の夏休み気分で朝っぱらから酔っ払ってたりするお上りさん達が建物の上部を物珍しそうに眺めたり写真や動画を撮るのに忙しくてポケットや鞄から注意が逸れがちになっている。まるでどうぞ持っていってくださいと言わんばかりに財布や札そのものがコンニチハしている。笑いが止まらないほどスリやすかった。獲物はそこら中にいて毎日空港から観光バスに乗って大量に市内に送り込まれてきた。)
野生生物のように、古株が牛耳っている縄張り地区もあったが、そこは人間の頭の使いようだった。新参者でも礼儀正しく先輩を持ち上げ、根気よく何日も同じ場所に顔を出し貢ぎ物を恭しく捧げれば「なるほど。分かってるじゃないか…ふむ。わしの傘下に入りたいと言うことか…なかなか使えそうかも知れない若いの二匹だな…」とすんなり受け入れられる。
地方の田舎では顔を覚えられやすく一旦目を付けられたら長距離を移動して別の町まではるばる逃げなくてはならなくても、もともと人人の往来の激しい大都会でなら顔を覚えられる心配もそうそうなく、店員が自分のネイルの具合や友達とのお喋りの方により興味があって店番をサボってる店も数え切れないほどいっぱい犇めいてるし、自分達のような自分達だけが一晩ずつ生きるために小鼠のようにコソコソ可愛く盗むぐらい、どうって事なさそうに見えた。もっと凶悪な犯罪者もゴロゴロしているのだから、警官達もそっちを追うので忙しいはずだ。
Jは自分の肌に合った都心に留まりたくて、まだ旅を続けて移動したがるKの袖を引き、散歩から帰りたがらない犬になったみたいに重しをした。
「明日の電車で俺は行くよ。今度こそ。お前が付いてこなくても」
Kは最終電車を見送りながら呟く。
いつか近いうちにお別れだとは二人とも分かっていた。ただ二人でいた方がやっぱり楽しくて、別れの時を一日ずつ先送りにして引き延ばしているだけだった。冬の終わり頃出会い運命共同体となった二人は、気付けば半年近く苦楽を共にして来ていた。
「田舎が一番良いんだよ。俺には。せいぜいが地方都市。整備されすぎてなくて、ちょっと付け込みやすい緩さと便利さを兼ね備えてて。それに爺も田舎の方が目立ちにくい」
それはそうだった。都心で犬連れの子供の浮浪者は目立った。昼間はちょっと親とはぐれた迷子の兄妹のフリが出来ても、夜更けには人目に付くと本気で心配され訝しまれてしまう。
追いついてきた犬との再会に喜ぶKの喜びようを目の当たりにして、(何やら騒がしい人混み、聞き馴染みのある犬の吠え声、話しかけていた会話の途中で口を噤み、騒がしい方を振り返って見ていると、携帯電話のカメラを翳す人々の群れがパッと歩道の左右に分かれ、腰の高さの四足の薄汚れた獣が飛び出してきた。犬は押し倒さんばかりにKに飛びかかり、尻尾を残像に見えるくらいブンブン振りまくり、甘えた鼻声でキュンキュンクンクン鳴き、目をキラキラさせてKの周りを飛び跳ね、噛み付きそうな勢いで手や顔中を舐めまくろうとする、Kも犬の顔と同じ高さに自分の顔を合わせたいためストッと地面に座り込み両腕をいっぱいに広げ飛び込んでくる大型犬を胸に抱き締める。負けない目の輝きでキラキラ溢れんばかりの笑顔。)何のかの言っても、そんなに嬉しそうにしているKを見ることは他に滅多になかった。
(ああ、やっぱり、口では足手纏いだとか悪目立ちするなんて貶して邪魔なように言ってても、心の底から愛してるんだ…この犬を…)とJは思い知っていた。
犬とKは再会してからはいつもベッタリで、『ここでは絶対必要だ』と言うので、地下街の高級ペット用品専門店で盗んだリードで常に繋がっていた。Kが無意識にも何か考え事をするときや、何も考えてないようなとき、他の何かから視線を外さずにも、手探りで犬の頭を探して撫でる癖があるのはもうずっと前からJは知っていた。犬もKが手で自分の頭を撫でようと探してるのが分かるのか、自ら頭をそっちへ持っていって撫でられている。微笑ましいような、ジンと焼餅を焼きそうになるような、羨ましい光景だった。旅を共にするうちに爺はJにも懐いてくれたけれどもKへの服従心や忠誠、信頼関係には及びようがなかった。
「今夜が最後の夜だ、一緒に居られる最後、もう今夜が本当に最後の夜。明日の朝こそは絶対、俺はここを立たなくちゃ…」
犬と再会を果たして三日目の夜、Kが言った。
「お別れだね…」Jももう引き留められない、引き留めるには確かに危険が伴いすぎる、と理解して頷いた。
「でもまた会える。お前がこの街にずっと居るんだったら」
「そうか…」
「爺やが探し当てるよ。鼻で。『Jに会いに行こう、Jのとこへ連れてけ』って言えば、こいつが連れて行ってくれる。」
犬の背中をポンポン叩きながらKが言った。
今夜が最後、今夜が最後、と言う言葉はこれまでも何度も聞いてきたが、実際、この日は本当に心に決めてしまってるみたいだった。決然とした横顔にそれが現れていた。Kは全面がガラス張りになっている斜めの天窓から外を見ていた。全自動のガラス窓は開放され、冷たい夜気が入ってきていたが、その夜風には春の兆しの微かな花の香りが含まれていた。二人一緒にゆったり肩まで浸かっている浴槽からモクモクと立ち上る湯気が窓から外に出て行く。窓からは街のネオンの明かりと、雲の中を泳ぐような真ん丸の月が見えた。
(この贅沢なマンションの孤独な一人住まいの老人はベッドでスヤスヤ眠らされ、万が一、睡眠導入剤の効果が切れて目が覚めてしまったときのために猿轡を噛まされ手錠でベッドの柵に繋がれていた。)
月を見上げる相棒の「今夜が最後、明日こそ立つ」は今度こそ本当に本当だろうとJには分かった。夜空に浮かぶ月と同じく、夜毎彼女の目の中の決意が満ちていくのを見てきていた。伊達に半年間苦楽をともにして来た間柄ではなかった。本人も気付いていないだろう小さな癖さえもJには分かるようになっていたのだ。
二人は久々の入浴に酔いしれながら、最初に出会って意気投合した日からこれまでの日々を懐かしく振り返っていた。
Kの化粧気のない顔、短く刈り込んだ髪、無造作な話し口調や態度等、見た目から、Jが最初に受けていた印象が決定的に変わることとなった、年上の少年ではなく少女ではないか疑惑が確信に変わった、初めてのシャワー。あれも今の状況に近かった。
Kが目を付けていた一人暮らしの新人教師宅に、ちょうど学校で彼女の受け持つ科学のクラスが始まる時間割に合わせ、浴室に侵入し、正当な住人が通勤前の眠気覚ましのシャワーを浴びて出掛けた後のまだ濡れたタイルの浴室と白い朝日が射す脱衣所で、代わり番こに見張りに立ち、JはKの次に熱いシャワーを浴びた。
「ジャンケンで順番を決めよう」
「いいや、年の順だ」
「そんなのズルい。それだったらいつも同じ順番になるじゃん」
「じゃあ風呂に入ってない順だ」
他のことや食べ物でなら、普段、どんなに自分がお腹が空いてるときでも、Kは年下のJに先に食べさせたり割ったパンなら大きい方を差し出してくれる。けれど、この時だけは有無を言わさずKはもうどんどん脱ぎ始めていた。そんな悠長にどちらが先に入るかゆっくり決めてから脱いでたら二人ともシャワーにありつけなくなる可能性だってあるのだ。路上生活を甘く見てはいけない。パンでも何でも、手に持っただけで手に入れたと思ってはいけない。飲み込んでから食べたと思え!もっと言うと、消化できてから食べたと言え!ゴミ箱から拾って食べた物は時々、(あ、ダメだ古すぎた…)と具合が悪くなってくることがあるから、その場合はもっと具合が悪くなる前に急いでゲーゲー吐き戻さなければならないから。ノーカウント。食べたような、食べてないようなでももう、胸やけで、ちょっと食べるのが怖くなって今日は食事抜きでいいやとなるのだ。
「分かったよ…お先にどうぞ」
Jは服を脱ぐ圧倒的な勢いの早さにKがどんなに今すぐに絶対にシャワーを浴びたいか、一刻も早く心の底からシャワーを求めているその気持ちの差に負けて、順番を譲った。(確かにKは濡れた犬と同じ匂いを発していた)
まず帽子とコートを脱いで(Kはコートを大切に扱ってくれていた。バサバサ振ってからフード部分を壁に突き出た釘に引っ掛け、吊した。)肩が擦り切れて破れそうな男物のシャツを脱ぎ、洗濯籠らしき籠に放り込んだ。その下は灰色の長袖Tシャツだった。これは厚手で暖かそうだ。同じ物を二枚着込んでいた。
(こりゃあコート無しで生き延びてきたわけだ…)と内心感心しながらJは見ていた。
やっと肌が見えた。細くくびれたウエスト、腹筋の縦の筋、可愛い臍が現れ、それからまたしても布。胸部に包帯をキツく巻き付けていた。Kは心臓の上辺りに押し込んであった端を引っ張りだし、両手の親指を両の脇の下の包帯の中に突っ込んでグイグイ緩め、一気に下へスルスルッと落とした。すると弾け出すように発育した胸の膨らみがポンポンッと現れた。ポップコーンが弾けるような早さで現れた。いかにキツく包帯で押し潰され隠されていたかが分かる現象が起きた。急に血が通い出したのでJのビックリして見開いた目の前で、その二つのスモモのような青白かった実は一秒間でみるみるまだらに赤く染まり、それから薄く透き通った皮膚の下、全体に赤みが染み渡って桜のピンク色に落ち着いていった。柔らかく食べ頃の果実に育つ一晩前のまだほんのちょっと未熟な硬く酸っぱい実みたいだった。しかし魅力的な思春期の少女のおっぱいには間違いなかった。
見間違えようがない。Jが息を飲み、Kの胸の膨らみから目が離せずにいるうちに、Kはさっさと下半身に取りかかっていた。ガチャガチャ鳴るベルトを外し、ズボン、タイツ、ショーツをザッと一気に足首まで滑り下ろした。よろけながら靴下まで全部脱いで、ピカピカの真っ白なスッポンポンになると、素早くプリッとお尻を向けて浴室に入って行ってドアを閉めてしまい、体の前に決定的なブラブラした物がぶら下がってるか否かをJは見落としてしまった。
しかし後ろ姿でも体の流線でもうほぼ確定だった。Kは明らかに女性だった。一日中外で走り回っているせいで骨格はしっかりガッチリとし、背筋もピンとして筋肉質な締まった足腰。どこにも無駄な肉がない。服を全部脱いでしまってもどこか少年らしさも漂ってはいるが、大柄ではない。今が何歳なのか正確なところが分からないから、これからもっと成長しガッチリ大きくなるのかも知れないが…
今は羽根を脱ぎ捨てたトンボのよう。着ている物を全部脱いでしまうとどんなに小さくなったことか。まるで男の肩幅を身に付けるために着ぐるみか鎧を常時身に纏って歩いていたようなものだ。
しゃがんで、抜け殻のように脱いだままの形に落ちている床のKの温かい服に触れてみた。
「服も洗うー?」
浴室でザーザー湯を浴びているKに聞こえるよう怒鳴った。
「何?」
「服も洗う?」
「何か言ってる?聞こえない…」
Jはドアを開けて現れたKの湯の滴る裸体を床にしゃがんで下から見上げた。股に柔らかそうな黄金の毛が薄ら生えかけ、湯がその毛を滴ってポタポタ落ちていた。片手に石鹸を包んだ包帯を持ち、もう片方の手でシャワーヘッドを掴んで、湯が浴槽の奥のタイルの壁へ熱い雨を降らせていた。窓から斜めに差し込む白い朝日に水蒸気の中、Kの背後で小さな虹が現れては消えた。
「何か言ってなかった?さっき」大好きなシャワータイムに水を差されイライラした声でKが聞いてきた。
まるで怒れるヴィーナス。
ホタテの貝殻に乗ってるわけでもゼフュロスの吹かせる風に波打ち際まで吹き寄せられてきたわけでもなく、インターホンを一階から順番に押しまくって不注意なこのマンションのどこかの階の誰かが開けてくれたお陰でオートロックを通過しこの部屋の浴室に降臨した空き巣の女神。透き通る肌は真珠の白さ。斜めに差し込む朝日も、浴室のタイルも、全て純白なのに、何故だろう、ぼんやりと分厚く、若い雌ライオンのように、Kの一糸纏わぬ裸体はキラキラ輝く黄金のオーラに取り巻かれていた。見間違いかと思って意識的に瞬きしてみても、やはりゴールドの後光は目に見えた。Jは素早くこう解釈した。
(なるほど、きっと細かい全身の産毛も金髪だからだ、)と。朝の日差し、水蒸気、狭い浴室には大きめな鏡の効果も手伝って、細かい金の粒子が拡散され乱反射されプリズムの効果を生み出して膨張しこの幻想的輝きをもたらしたのだ。
K本人は気付いていない。この立ち姿、天然の、我が身の息をのむ美しさに。男の子であろうが女の子であろうがそんなものどうでも良い、そんなものは些細な事として吹っ飛ばされる麗しさ。
絵師が自作を彩るため大枚を叩いて手に入れた金箔をベッタリ貼り付けたのでは失われる柔らかさの、微風に靡くしなやかな金髪。手を伸ばして触れてみたくなる。フサフサたっぷりとした頭髪、増え始めの心細げな脇の下、両足の間の可愛らしい、まだ生え始めたたばかりの金の藪。
時代を超え防虫加工を施され永久保存されるありがたい美術館の収蔵古典絵画とは違い、イライラと苛立ちに地団駄を踏み、生き急ぐ生身の女神Kは、秘部を隠すほどの髪の長さを持たなかった。それがまた!素晴らしく良かった!!
正々堂々、肩幅に開いて踏みしめた足の重心を左から右へ移しながら、黄金の恥毛から黄金の雫を滴らせる股間を目の高さの位置にあるJの目の前にさらさら何の恥ずかしげも惜しげもなく見せ付けるように晒し、刻一刻と失われていく貴重な青春の時間をたっぷり3秒間与えてくれた。
それから、語気荒く言葉を繰り返した。
「何か言っただろ!さっき?」
「服も洗うか聞いただけ」溜息のような声で、美術館の中で話すような声量で、Jは答えた。しかし、Kには今度は聞き取れたようだ。
「どうやって乾かす?」
そう言われればそうだ。
「後のことも考えて物を言え」Kは時々つっけんどんでガンと殴りつけるような物言いをした。それからまたドアを閉めてシャワー浴びを再開したが、湯の中で言い過ぎたと後悔したのか、今度はJが何も言わないうちに出て来た。
「交代しよう。考えたら、お前の言う通りかもな。綺麗になった体でまた汚れた服着たくない。確かに。お前が浴びてる間にちょっくらお姉さんの衣装ケースを物色してくる。多分、箪笥の底の方の二着分くらい減ってたって全然気付かないよ。ここの人お洒落さんだから、流行の服次々着たいだろうしな。うちらでクロゼットに隙間を作ってやるんだから感謝して貰おうぜ」
Kは服を脱いだJのツルピカの股を見てハッと目を丸くした。
「お前も女だったか!」どうやら彼女の方でもJの雌雄判断が付いていなかったらしい。
「てっきり女装させられてる子供かと思ってた!」
「そんなわけねぇだろ」Jは移ったKの口癖で返した。
ホクホクの剥き茹で卵みたいな素っ裸で二人して肩から湯気を立ち上らせながら室内を歩き回り、湯冷めしないよう暖房をガンガン稼働させクロゼットの奥の方に仕舞い込まれていたもう何年も開封されてないような段ボール箱を引っ張り出してきた。二人がシャワーを浴びた後の浴室では、浴槽で湯を流しっぱなしにしながら二人の古い下着が湯船に浸かって汚れを落とし中だった。
「引っ越してきてから一度もガムテープを剥がしてないみたいだな。」
「じゃバレちゃうよ!テープを剥がしたら!」
「安心しろ。ここの人が気付く頃にはうちらがこの町を出てる。」
「そっか…」
“楽園”での生活では自分の持ち物はしっかり自分で管理し、奪われやすかったり自分のだと主張するため実力行使で戦ったりもするから、自然に宝物になる。手に入るチャンスが限られてるので、みんな自分の持ち物に対して所有意識が強い。多少古くなっても破れても汚れても捨てない。大事な物には執着し繕って大切に扱う。ある子など、母の形見のビリビリのストッキングを、『バイ菌だらけだから洗え』と言われても『洗うと匂いも一緒に無くなっちゃうから嫌だ!』と言って、バイ菌すら母の形見と、捨てられず毎晩匂いを嗅いで一緒にベッドに持ち込んで眠ったほど。
しかし渡り鳥の宝物は身軽さだ。
Kは言った。
「残念だが今浴槽に漬けて洗ってる衣類は全部ここを出たら一階のダストボックスにでも捨てていこう。身軽じゃなくちゃ動きづらい。干して乾かす場所も時間もないし」
「乾燥機付き洗濯機もあったよ。脱衣室に」Jは部屋の戸口を指差した。
「ここに全部一式揃ってる。」
Kは自分の誕生日プレゼントを開封するみたいに躊躇なくバリバリと音も高らかに段ボール箱を開封し中身をボンボン出して広げ始めていた。
「これ多分ここの姉ちゃんの元彼の衣類だな。思い出の品々。地元に置いて来た彼が昔は泊まりに来てたのかも知れない。渡しそびれた手編みのマフラー。何年前のクリスマスに交換するつもりだったのか、皮の手袋。コートまである…これは安かったのか。セールで見かけて質も良かったから次会った時に渡そうと買っておいてあげた品かも知れない…」
まだ襟元にタグの付いたダウンコートをフワッと裸の肌に羽織って見せた。
「こんないっぺんに沢山盗んでも良いのかなぁ」
当時は泥棒初心者だったJが良心の呵責をボソボソ訴えた。
「ちょっと盗むもガッツリ盗むも、もうおんなじことさ。ちょっとしか盗まずにまだイッチョ前な人間でいるつもりみたいな事言ってないで早く大胆に盗んで立派な大怪盗になれ。」
「そうかぁ。もう人間じゃ無くなっちゃったかぁ…」
「とっくに真っ当じゃねえよ。お前も俺も。気付くのが遅いなぁ。・・・
衣装を一新することも目くらましの一つになる。お前を追って来る奴らがいたとしたらピンクのフワフワ新品コートを目印にする。俺を追ってくるのは豚革のジャンパーかチェックのボロいネルシャツ。やっぱり古い服は捨てて行こう。」
段ボール箱には靴下から手袋、マフラーまで、二人分以上に余りあるほど揃っていた。
「マフラー可愛い!」三本あっていつまでも二本に絞り込めないJにKが苦笑いした。
「お前、振り切れたら俺よりも欲張りだな。首は二本しかないぞ。泥棒の極意はとっとと盗むことだ。迷うな。」
靴下から帽子、手袋まで、二人分の衣類一式を選び終えると、スッカリ軽くなった箱の蓋を閉め、ガムテープが見当たらなかったのでクロゼットの奥に押し込んで、蓋が勝手にゆっくり浮き上がってこないようにバックやら靴の箱やらを積んで重しにした。
「最初よりもクロゼットに隙間が出来ちゃった…これじゃバレるよ!何か盗まれたなって…」
Kは確かにそうだと思ってる顔で腰に手を当て、仁王立ちしてクロゼットを眺めた。いつの間にやらショーツとブラは凄い大人っぽい紫のレースの透け透けを身に付けている。(もうちょっとの間は、ここの住人には勝負下着も必要ないと言う事に決めつけてしまったのか?)
「じゃこれでどう?」
押し込みすぎた段ボールをちょっと引っ張り出し、余所行きのバッグやら夏物のサンダルの配置を並べ替えた。妙に広がった隙間はそれで有耶無耶に埋まったが、今度はもっと広範囲に“さっきまでと違う感”が出てしまった。
「もう最初がどうなってたか思い出せない…」
「全部元通りに戻すなんて無理。最初の状態を覚えてないもん。」
「完璧なプロの泥棒は最初の状態をまず写真に撮ってから盗んで、後で完璧に元通りに戻しておくらしいよ。家主から盗みに気付かれるまでの時間を稼ぐせるために」Jはどこかで学んだ泥棒雑学を今更披露した。
「もう面倒臭くなってきた。この辺でやめとこう。俺等は盗みのプロじゃ無いかも知れないが逃げ足の速さだけはプロだ。姑息な時間稼ぎする必要は無いさ」
二人は明らかにさっきはなかった埃を始末するくらいにして、選んだ新しい元彼衣装一式を身に付け、(「ちょっとカビ臭いけどまぁ走り回ってたらすぐ衣類も生き生き体臭と外気を吸って蘇るさ」)次のターゲット、鏡台に目を留めた。
「うん、なかなか…」二人は鏡の前でポーズを決めた。
「ちょっと大きすぎるかな」
「袖を折ってやろう。どれ。」
Kが自分の前に片膝をついて両手の袖を織り込んでくれている間、Jは相手の洗い立ての金髪の下の真っ白なつむじを見下ろしていた。さっき浴室の湯気の中で短髪のビーナス誕生みたいに裸で濡れているKを見たとき、その全身が青白い光の下でも何故だか柔らかく発光するようなゴールドに包まれて見えたのは彼女の全身の金の産毛のせいかなと考えたりしていた。本人が気が付いているのかいないのか分からなかったが、眩しく美しい絵になる裸体だった。“楽園”で生きてきて身に染み付いた計測法で、彼女が自分の価値を知ったら盗むよりも与える方法でどんなに金持ちになれるか、ボロを纏う必要もなく安楽椅子で寝そべって太れる余裕も持てるかをついつい暗算してしまう。
けれども、Jは心の中に思ったことをすぐには口に出さずにいた。なんとなく。勘が働いたのかも知れない。
どうしてもJには大きすぎる男物のズボン下の代わりにKはどこからかJの為に女性用タイツを持ってきてくれた。まるで自分の部屋で自分の物をあげると言うみたいに、アッと言う間に家中把握していて、「ほれ。これ着ときな」とポンと放って寄越してくれた。
片足ずつストッキングに脚を通しながら、Jは上目使いでKが次に向かった化粧台で香水瓶を取り上げ、蓋をポンととって香りをひと嗅ぎしいかにも手慣れた泥棒らしき手早さでシュシュッと自分に振りかけるのを見ていた。まるでKにとっては世界中の家が自分の家同然で、人の物は全部自分の物、別にいつでも盗めるから必要のないときにまで持っている必要がないかのようだ、と思われた。
「良い匂い」ウットリと目を閉じてKは満面に柔やかな至高の笑みを浮かべた。眠りから覚めきらない猫が夢うつつの間にぬくぬくの寝床の中でウーンと伸びをする時みたいな満ち足りた顔。きっと閉じた瞼の中で黒目は脳天を見上げているだろう。官能的な表情だった。Kは大人の女になりかかっていた。一拍おいて、スッと目を開け、コトンと元あった場所に香水瓶を戻した。
「そんなに気に入ったなら盗まないの?」
「一振りで充分」
「泥棒の流儀なんだね。今必要な分だけ頂戴する」
「持って歩くのは重たいから。それだけのことだよ。でもこの香りと名前は前から知ってた。チャンス。シャネルの。キャッチコピーは“チャンスを作り出すのは自分自身。手を伸ばし、掴まえて!”どこかの家の窓から聞こえたラジオでコマーシャルやってたやつだ。デパートでも売り出し中。どこへ上がり込んでもお洒落な姉さん方は一瓶持ってる」
後々分かってきたことだったが、Kは自分が男装しているにもかかわらず若い女性の一人住まいの家を選んで空き巣に入るのを常にしていた。
(あるとき、予想よりも早く家主が帰ってきてしまい、Kはその相手の女性に恋い焦がれる余り自宅に忍び込むに至った可哀想な片想い男の振りを装い続け、暗い室内で灯りを点けさせず、相手を甘い言葉で褒め倒して一緒に酒を酌み交わす仲に持ち込み、そのまま優しく腕枕して布団に包み寝かしつけてその家を出る、と言う偉業をやってのけた。ホラ話かも知れないが誇張はあるにせよどこかに真実の要素も含まれているのだろう、同じ女だから何て言い募られ甘美なお上手で女がコロッと心ほだされてしまうかを熟知していたから出来る上級技だった。)(それに、男装してもKはハンサムな造りの面立ちだった。穏やかな優しい低い囁き、青い炎の眼差し、くっきり形の良い太めの眉と高い鼻梁、薄すぎず太すぎもしないほんの少し薄めの薔薇色の唇。実際男ではないから剃り残しの興ざめな顎髭のやすり攻撃もない。滑らかな頬と顎…痛みのない、ひたすら優しいキス…むしろ何も語らずただジッと熱い視線を注ぐだけで泥棒に入られた相手の女性の方で勝手にクラクラッときてしまった可能性だって無きにしも非ずだ。)
一体こんなに泥棒が上手なKがどうして行き詰まり死にかけていたのかと不思議になりそうだが、別れの前夜に打ち明けてくれた。
「心折れていた。お前と巡り会う夜には。盗んで生きていくだけで何も考えなくて良いなら人生容易かったかも知れない。でも、意味があるのかななんて俺らしくもないこと考えてしまっていたんだ。あの辺の頃。盗んで盗んで、逃げ回って暮らし、国境を越えてもコソ泥で派手な盗みをやらかさなければ平均寿命とかまで結構生き長らえちゃえるかもしれない。このままいけば。でも、それが何になる?そんな人生、鼠がやってる。俺はなんで生きたい?ただ死ぬのが今までは怖かっただけだった。でも疲れてきていたんだ。あの頃は、詰まらない失敗が立て続けに起こって。まず爺やが凍った橋から滑り落ちて氷の張った川で溺れかけ、それを助けようと俺も川に飛び込んで二人して風邪をひいた。それから親の形見の首飾りとか長く伸ばしてた髪とかコートやら立て続けに盗まれて。挙げ句、信じてた仲間を頼ったら、裏切られ、なけなしの全財産を持って逃げられ、警官に居場所を売られた。それで、ちょっと立ち直るのに気持ちを切り替える元気が出なかった。もういいや、死のう、どうせもともと腐った糞みたいな生き様だ、と思ってた。お前がコートをくれたり菓子をくれようとしたり自分自身窓から出て来て、俺なんかに付いてこようとしてくれるまで。俺の人生を目をキラキラして見学し『わぁ~!凄~い!ピーターパンみたいだね~!』なんて阿呆みたいにはしゃいでくれて、(よっしゃ、こいつをイッチョ弟子にして俺を越えていく大怪盗ライバルを生み出してやろう、盗人の全技術極意面白みを伝授してやろう)ってやりがいが出来たんだよ。あの夜からこっち、俺が生きれたのはお前のお陰だ…」
ストッキングを履いて男物のズボンを履き時代劇のチョンマゲの殿の長袴みたいに裾をゾロゾロ踏んで引き摺りながらJはKが鏡の前で何をやってるのか覗きに近寄った。Kは一本の口紅の蓋を取り何事か思案顔でその色をぼんやり眺めていた。傍らに寄ってきたJの顔を見て、
「よし。」と言い口紅をポケットに入れ、立ち上がった。その時、ちょうど窓の外で見張り役の爺がワンワン吠え始めた。「出よう」
「まさかもう帰ってきたのかな?先生…」
「まだだろ。彼女、水曜日は夕方まで受け持ちの化学の講義をしてるはず」
鏡台に置いてある教員免許証のこの家の主の顔写真を指差すK。Jは切手大の四角の証明写真から、自分が盗みに入った家主の顔を初めて目にした。
どこでも見られる平凡な容姿。特別な美人とは言えない。とは言え魅力がないとも言い切れない。緊張に血色を失うほど引き結ばれた白い唇、整えすぎない野暮さを残す眉。無難、無個性を主張しなければいけない社会人としてのTPOに相応しい、生真面目な真正面から撮られた証明写真顔。大学を卒業したての22歳。これから社会の大海原に漕ぎ出し自分で稼いで生きていく覚悟を決めた大人の凜々しい表情、と、同時に、これまでは家庭でぬくぬく守られ大事に育てられてきた娘の、子供返りしたくても出来ないさせて貰えない怯えと不安、不貞腐れ顔、半分半分が一つの額の下で鬩ぎ合っている。
真の女優、魔性の美女は、必要なときとそうでないときに分けて魔法の炎のように自らの魅力を自在にフッと消したりポッと表したり出来る。彼女も、仲良しの友達や気を許す恋人にくすぐられれば、凍り付いたような硬い蕾の無表情が解かれ何万倍もの温かな笑みを花開かせるのかも知れない。写真は真実を切り取る反面、永遠に嘘を焼き付ける。
眉を流行の形に整え、ちょっと開きすぎの左右の目と目の間を詰めるような付け睫毛を付ければ…シャッターを押された瞬間には歯を噛み締めている口と顎の強張りも、緊張感から開放されれば可愛らしいおちょぼ口かも知れない…その上にどんなリップをのせるか…ひっつめの髪を顔の輪郭に沿わせて緩やかにおろせば、…魔性の女はものの一分で仕上がる。
まだ子供のJでさえ、5秒とかからず変身する姉妹兄弟を一体何人目撃してきたことか。
視界に狙う相手が入ってきた目の色だけでも、人は変身できる。
証明写真が表情を変えるはずは無い。けれど、あまりジッと自分が盗みに入ってる女性の顔写真を見詰めていたら、こちらの後ろめたさが相手の目の色に反射して、彼女の瞳の色と同じく(青?紫?緑?)様々な心の言葉で訴えかけてくるように見える。
『泥棒さん、恥ずかしくはない?』
『あなた、このままでは私の歳になっても同じ事を続けてるわよ』
『社会の役に立って金を稼ぎなさい、楽なやり方で流されていてはダメ』
『一歩踏み出しなさい…』
『真っ当な道を歩みなさい』
教師らしい声が聞こえてくる気がする。うっかり耳を澄ませて改心させられてはいけない。泥棒には泥棒の、社会の塵として掃除されたり逃げ切ったりして警官と鬼ごっこし敵に職を与えるという立派な仕事があるのだから。
Kの仕事の流儀、コツとして、空き巣に入るときは相手側の家を空ける時間を把握しておく。それがKなりの家主への『敬意』でもあるらしかった。教師宅を選んだのは、Kなりの彼女への敬意なのだ。Jもそれに習って、写真の家主に黙礼し、それからは再びその厳しい目と目を合わせないようにした。
犬がまた吠え、Kの舌打ちさえかき消した。ワンワンとキャンキャンの間、
「怒ってる!お願いしてる!早く早く!」
人間の言語ではないが魂の共鳴で意味のハッキリ伝わる鳴き方。
「家主の仕事柄、この時間帯には帰ってこないはず。下調べはしてある。それにもし万が一帰ってきたにしても、内側からロックをしておいた。多分大丈夫だ。」
Kが窓を指さして言った。
「あの鳴き方は自分だけ外で待たされるのにそろそろ我慢が限界だって言いたいだけだろ」
カーテンの陰から通りを見下ろし、下でこちらを見上げ吠えている爺を二人で見やった。さっきまでは雨がザーザー本降りに降っていて雨宿りの軒下から出て来なかったが、今は雨が止み、それで爺やも「そろそろ行こうぜ」と誘いにテコテコ出て来たのかも知れない。見下ろされていることにどうやって気が付けるのか、二人が見下ろしだしてから吠え声に甘えが加わり、クルクル回って尻尾を噛み、真っ直ぐこちらを見詰めてピョンピョン飛び跳ねだした。クーン、キューンと哀れっぽい遠吠えのような呼び声もあげ始めた。
「クソ駄犬が」たまにKは犬に凄い口汚い悪態をついた。「あいつ!目立つんだよ!急げ」
急げ、はJに対して放った。
鋏でジョキジョキJのズボンを切り、織り上げて手早く裾上げし、風呂場の濡れた古着を掻き集め、二人で葡萄絞りみたいに踏んづけてできるだけ水気を切ってから、(恐ろしくドス黒い汁が出た、)鼠色の団子みたいに一塊に丸めてゴミ袋に放り込み、Kはまたブラの上からキツくタオルを胸に巻き付け、せっかくの成長期の胸の膨らみを目立たないよう胸が平らに見えるよう押し潰して男物の服を着込み、部屋を後にした。まずKがドアから顔だけ出して廊下を確認し、(昼下がりのこの時間帯にはみんな働きに出掛けていて共用廊下はひっそりしていた)
「忘れ物はない?二度と取りに戻れないぞ」
Jが頷くのを見て、素早くKが出てその後Jも続いて廊下に出た。階段を駆け下り、ゴミ袋を肩に担いで裏口から建物の外へ脱出した。“ゴミの日以外出すべからず”と書かれた張り紙の下に防犯カメラに写った白黒のルール違反現場を現像した写真が並べて貼り出されたゴミ置き場に古着を捨てた。
「水曜はゴミの日じゃない!証拠が残るよ!」
Jが指摘するとKは意にも介さなかった。
「因縁ゴミおばさんが何階の何号室の住人が規則を破ったか突き止めようと袋を破いて中を見たって分からないさ。そもそも俺等はこのアパートの住人じゃ無いんだから」
犬が嬉しそうに駆け寄ってきて、二人はそれぞれの着ている新しい服のポケットからビスケットやらパンやらを取り出し、待ち侘びた爺やへのお土産をあげた。
「お前、なかなかやるなぁ。いつの間にそんな物ポケットに入れてた?」
Kに褒めて貰えてJは鼻が高くなった。
「冷蔵庫の中をちょっと見てみたんだよ…
あっ!でも、脱衣室の壁の杭に皮のコートを引っ掛けたままだ!」
チッ「そうだった、」と外壁沿いにマンションの窓を見上げ、Kが唇を噛んだ。
「まぁいい。身元を割り当てられるような品は一切入ってない。かえってコソ泥が男だったと思い込ませる証拠になる。行こう。とにかく留まらないことがコツだ」
先に走り出したKと爺やを追ってJも走り出した。垢が落ち一皮剥けた頬に雨上がりの風が清々しく流れ、一段感覚が研ぎ澄まされた気がした。この次かその次くらいからは、Kの仕事のやり方を見習って自分も一泥棒の端くれとしてやって行けそうな気がした。
それから、初めての美人局。
初めてやったときは今からは考えられないほど荒っぽいやり口だった。スタンガン、斧、ブロック、割れたガラス瓶、血飛沫…Kは人が違ったように鬼の形相で子供を相手の売春親父を成敗しすぎるのだ。
あの化学教師宅への二人での最初の泥棒で現金と着る物と少しの食料の他に一本だけ盗み出した真っ赤なティントリップは、K自身ではなくJの幼い唇に塗るための一品だった。あの時、Kが鏡の前でなにやら思案顔だったのは、ピンと閃く次の計画があったせいらしかった。
JはKの手によって七五三みたいに口紅を塗ってもらい、ある地下鉄駅の出入り口を指差され、
「あの角っちょにちょっと立って、ガードレールにこうしな垂れかかって凭れたりなんかして、ジロジロ見てくるおじさんが居たら指を一本立てて頷いて見ろ。ニッコリ笑って。金持ってそうなおっさんを選んで、ジーッと見詰めろ。で、目が合ったら、恥ずかしそうにちょっと逸らす。それからまた目を合わせる。どれ、俺に一回やって見せろ…」
JはKに言われたとおりやって見せた。柔らかい睫の下から黒目だけで相手をうかがい、チラッと見てはサッと恥ずかしそうに顔を伏せ、それからまだこちらを見ているか確認するようにおずおず視線を上げて、合わせた円らな瞳をジットリとそれからは逸らさない。求め合う者同士、繋げた目と目の奥に暗くて甘い共通の認識が生まれるまで。
「・・・お前、ヤバいな。巧すぎるだろ。じゃ、行って来い。出来るだけ金持ちそうな老いぼれを選んでな。
・・・あっ、待て!車にだけは絶対乗るなよ!」
そう言って、わけも分からず(なんとなくはしっかり分かってもいたが)Jは夜が深みを増す街角へ背中を押され、送り出された。ちょうど時刻も会社帰りの孤独な男達が飲み屋街からほろ酔いで気分良くふらふら出て来て千鳥足で家路を辿り始める頃合いだった。
(「男は食欲を満たした後、女は空腹の時に性欲が高まるらしい」と誰かがどこかで言ってたのを聞いた記憶が不意に蘇る)
振り返ると、Kが拳を突き出し(お前ならやれる!)とガッツポーズをしてくれていた。
(黙ってサッサと行け!振り向くな!)の合図かも知れないが。
Jはひとまず軒を連ねる飲食店を横目に見ながら、歩道の真ん中を避け、ガードレール側をぷらぷらしてみた。昼間はカフェで夜はパブ、飲みたければ昼からも酒が飲める飲み屋ばかりだ。パブ、パブ、パブ、全部パブ。たまに何故かピンク紫の女性の裸のシルエットをかたどったネオンの看板がピカピカするアダルトビデオショップ。それからやっぱりパブ。角の一軒の一番大きな店の前でJは歩みを止めた。振り返ると、だいぶKから離れてしまっていた。Kもガードレールにだらしなく凭れている。二人ともコートの下は分かり易く下着姿だった。どこかの家からかっぱらってきた真っ赤なハイヒールはぶかぶかで、傾斜した靴の中で足が滑りヨロヨロする。片手で何か掴んでいないとすぐによろけてコケそうだ。辺りには他にも20人ほど女の子が広く間隔を開けて立っていて、中には二人組の子達も数組いる。
Jが見ている目の前で、一組の二人組の子達が、車道を窓を開けてゆっくり流している車に駆け寄って行き、何やら話し込み始めた。聞き耳を立てて聞いてると、
「3Pしよう、後部座席で。カーセックス向きの良い場所案内するよ」そんなことを持ちかけているようだ。
ゆっくり車を流していた茶色い髭面の運転手も、窓から毛深い腕を出し、女の子の一人のコートのボタンに早くも手をかけ、戯れながら反応を見たりして、もともとそのつもりで女の子を選んでいたのだから、話はすぐ纏まり、二人組は車に乗り込んで走り去った。
(二人組で行動を共にしても上手くいくなら私達も…)Jはそう思い、Kと合流しようと来た道を引き返し始めた。その途端、足首をグリンと捻ってビタンと地面にコケた。
「お嬢ちゃん!」
すぐ近くを歩いていた親切な酔っぱらいのおっちゃんが肘を掴んで助け起こそうとしてくれた。Jは膝も手のひらも擦り剥いたかも知れなくてジンジン痛いし、霧雨に濡れた路面は汚そうだし、でもそれよりも何よりも恥ずかしくて、自分でも急いで起き上がった。
「大丈夫?お嬢ちゃん…おや…ちょっと若すぎるんじゃない?ここに立つにはまだ…」
酒に酔って頬を赤く染めたおっちゃんは酒臭かったが、目は優しそうな皺の多い目尻の垂れ目で、肌艶が良く、一度顔を覗き込んでからJの顔から目が離せなくなってしまったようだった。
「可愛いねぇ…公園で遊んでたの?迷子かな?」
おじさんは公園と言うのか空き地のある方角を指差した。
「あっちから来たの?あっちに連れてってやろうか?ん?」
Kが声をかけるより先に、Jにはおっちゃんの肩越しに猛ダッシュで相方がこちらへ駆け寄って来るのが見えた。なるほど、二人で離れて釣り竿を垂らしていたようなものだ。どちらかの餌に魚が食いついてから集合すれば効率も上がる。
「おっちゃん、その子私の連れなの。」走ってきたKがおっちゃんの肩を叩いて言った。
「その子と行きたいとこにはもれなくあたしも付いてくるけど。」
おじさんはJの肘を放してゆっくり姿勢をピンと正し、今度はKをジッと見下ろし値踏みした。
「キミも若いな。ちょっと若すぎるんじゃないのか?まだ子供だろう」
「そう言うのは嫌い?嫌いじゃないでしょ?」そんなに甘い猫撫で声がKにも出せるのかと驚いた。猫の尻尾のようにピンと立てた人差し指の先でKはおじさんのお臍の辺りを指差し、爪でボタンの回りをなぞり、ほんの少しずつなぞる指先を下にずらした。青い炎の瞳が爛々と燃え狡い表情を浮かべる下で、真っ赤な禁断の果実色に染めた唇から舌先が覗き、下唇、それから上唇を舐めた。美味しいよ、あなたも舐めてみたい?と誘うように。
ガードレールにお尻を凭せ掛け、長く伸ばしているKの片方の足がいつの間にかおじさんの両の足の間に入っていた。今度はおじさんはKに魅了されもはやKから視線が逸らせなくなっていた。手品と同じで、視点を変えて見ていると笑えるほどタネがバレバレだ。Kは誰の目にもまだ子供で、Jは更にもっと幼い。それでも自分に一心に魅力を振りまく健気な姿に笑い事で済ませられなくなって冗談半分に相手をしているうちにいつの間にか罠に落ち込んでしまうのだ。世界の常識や他の景色が目に入らなくなってくる。真剣に自分の目を見詰める視線から目が逸らせなくなる。そんなに必要がられる事に慣れていない孤独な目、心と身体の持ち主だからだ。
「ダメじゃないのかな…」おじさんはちょっと左右を見回した。
「つべこべ言ってないで行くのか行かないのかだよ。あたしら今すぐお金がいるんだから」
急に声音を変えてKが急かした。せっかく罠にかかりかけたお馬鹿な獲物を逃してる暇は無い。
「ふうん。いくらいるの?」
「30で良いよ」
「ふたりで?」
「うん」
「ふうん…」
おっちゃんはちょっとモジモジ悩む様子で遠く左右を見渡した。Jも自分達三人をなんとなく見ている他の通行人や立ちんぼの目を意識した。
「まぁ歩きながら話そっか?どっち?」
Kが立てた人差し指で東西南北をグルリと指差した。
「君らがどこかへ連れてってくれるんじゃないのか?僕の部屋へ来るつもり?」
「嫌ならホテルでもあっちでも良いよ」
Kはおじさんがさっき指差していた公園とやらの方へ人差し指の先端を向けた。
「歩きながら話そう」
しかし話すべき事は既に全部話し終えていた。歩き出してからはむしろしばらく無言が続いた。Jには早口の外国語のやり取りが正確に詳細には理解できず、なんとなくボンヤリとは分かっても喋るのはもっと難しくて、会話に加わる事は初めから諦めていたがなんとなくの気配でほろ酔いのおじさんが浮き足立っているのはよく分かった。言葉を理解するよりもこれは大事なことだ。言葉はいくらでも嘘、出任せが言えてしまうが体内から滲み出す本能の気配は誤魔化しにくい。おじさんがこれは珍しく良い買い物だと内心ほくそ笑んでいるのは明らかだった。そう思ってる気持ちを悟られて金額を引き上げられないようにしようというのか、それともまだ信じないぞと自分を律してるのか、ニヤニヤ口角が上がってくるのを必死で押し殺している。
きっとKが提示した金額が破格の安値なのに違いない、とJはそれで分かった。
公園とはただの空き地の事で、砂地の草も生えてないだだっ広い空間にタイヤのない窓の割れた車が乗り捨てられ、落ちてきたそのままなのか隅の方には看板が燦めく破片をばら撒いて横たわっていて、街灯もなく薄ら寂しい、滑り台とかブランコとかといった遊具があるわけでも無い無用の更地のことだった。遠くのネオンやすぐ近くのアパートの窓からこぼれてくる光を受けぼんやり砂地が白く見える。Kが指差す方をJとおじさんは見やった。
「あそこでやる?」
「なんだろう?あれは…」
ポツンと小屋のような傾いた箱が立っている。
「公衆トイレ」
「ふむ…」
この人相当酔ってるな、と歩きながらJは気づき始めていたが、今やおっちゃんは歩きながらフラッと眠りかけ、それからハッと目覚めて自分の両側を歩く二人の子供を驚いたように見下ろし、それからこれからやるつもりだったことを急に思い出して興奮し直す、のループを繰り返し始めていた。かなり疲れていたところに沢山飲んだのかも知れない。だとしたら今日は金曜日か?こういうことをKはちゃんと覚えている。落ちている新聞を拾って隅々まで読んだりして。為替とか株とか買ってるわけでもないのに、そう言うのまでサラッと大人との会話で使える。でもJは全然覚えられない。だから余計、凄いなぁと思ってしまう。Kの隣に居れば自分も自然に影響を受けて同じくらい賢くなれるかと思いきや、頭の回転が速くてJの分までちゃっちゃと先回りして頭を回しああすれば良いこうやれ黙ってと指示されるうち、余計頼り切りになって安心し切ってしまってJは自分がますます馬鹿になっていくように思えていた。
(まぁ良いやぁ)とこの時もJは思った。
(後でKに何故この空き地の隅っこに公衆トイレがあるのを知ってたのか、聞こう…)と考えていた。
トイレは真っ暗で電気がなかなか付かなかった。男気を見せようと思い立ったのか、おじさんが壁のスイッチを探して手探りしながら片足を闇に踏み入れた。Jはぼんやりして、マンションの二階の一室の窓からこちらを見下ろしている猫などを見付け、その尻尾をくねくね蛇の鎌首のように持ち上げている白猫に何故だか注目していて、Kの最初の一撃を見逃した。
素早く短く突き動く影、閃く真っ白な閃光、ビビビビビビビビビというくぐもった電子音、それらは後々しっかりと目撃することになる。しかしこの最初の時には、
(あ、電灯のスイッチが見付かったのかな、)と思う白い光が背後で炸裂し、振り返ってみると、もう切り倒された大木のようにおっちゃんがドスン、と地面に倒れ込むところだった。
野獣のように敏捷にKが床に倒れたおっちゃんの喉に飛びかかり、硬いブーツで全力を込め踏み潰した。
グッという音が出た。ボキッ、グチュッという低い何が折れ潰れたのか想像したくもない音もした。簡易トイレの壁に間髪入れず蹴り込み続ける籠もった音が連続して木霊した。柔らかい急所ばかりを狙って。もはや砂袋のように男は抵抗できず硬い床を転がり喉の奥でブクブク呻くのみ。
殺す勢いだ。
Kには最初から微塵も躊躇がなかった。途中でやめる気配もない。完全に死ぬまで蹴り、踏み抜く気だ。生半可な気持ちでやってないことは彼女の目の異様な光、蒼白な顔の見たこと無い恐ろしい引き攣った形相からも明らかだった。
Jは声も出せず一、二歩、後退って見ていた。ただ放心して。それからこの場から逃げ出したい気持ちを抑え、人が変わってしまって化け物に取憑かれたようなKを止めるため、声を振り絞った。
「やめて!ダメだ!ダメだ!死ぬよ!その人!!」キンキン声が狭い壁に木霊した。
でもKはやめようとしない。絶対息の根を止めるまで手加減しない、油断しないと決めてるらしい。反撃の余地を相手に残してやってはいけない、と知ってるらしい。
「あああああああああああああああああ!!!!」
Jが力いっぱい金切り声の悲鳴を上げ、わんわん壁から壁へ木霊が反響し、Kはやっとギラつく目をこちらへギロリと向けた。
「K!逃げよう!その人は死んだ!」
「まだ死んでない!」
「どっちでも良いよ!もう動けないよ!その人!もう逃げよう!」
そしてクルリと踵を返し自分から先に一目散に走り出して逃げ始めた。後を追って来てくれることを祈って公園の出口まで後半分のところまで来てから立ち止まって振り返ると、暗闇の中でKはまだ何事かしていた。立ち止まったJの位置からでは、公衆トイレの入り口より奥は外の乏しい街灯が斜めに差し込み暗く、半分その中にいるKの姿は暗闇の中で蠢く更に黒い影のようにしか見えなかった。
悲鳴を聞きつけたのか、アパートの窓にポツポツと明かりが点り、ガラガラッと窓が開く音もしたのを意識してあえてJはそちらを見上げず、ジリジリして待った。後に、男を足で転がし仰向けにしてかがみ込み、返り血を浴びた手でコートの内ポケットから財布を抜き取るKの姿を何度も目にすることになるが、この時は何が起きているのかまだ良く分かっていなかった。分からないままでいたかったのかも知れないが。
やっとKが公衆トイレの中から飛び出してきて、こちらに向かって全速力で追いついてきた。それを見てからJも公園の出口へ向かって、アパートの窓の増え続ける灯りを背に、全速力で走った。
公園の出口を駆け抜けたところで、Kに追いつかれ、追い越され、駅までそのまま彼女の後ろ姿を追って走り続けた。駅員の箱の目の前の改札を屈んですり抜け、ドアが閉まりかける電車に飛び乗った。
ドアが閉まり、電車が走り出してからもまだ胸が激しくゼエゼエ上下し、二人とも頭も肺も喉も焼けるように痛いほど喘いでいた。他の乗客のこちらへ向ける視線が元通り自分達の端末の画面に戻るのを待って、KはJの顔を見てニヤリと誘い笑いを浮かべ自分のコートの内ポケットに突っ込んだ長財布をチラッと目配せしてきたが、Jは巧く笑い返せた気がしなかった。
(あのほろ酔いの気の良いおじさんは死んだかも知れない…)と空いた席に二人並んで座り肩を並べて揺れながらもいつまでもいつまでも考え続けた。肘を掴んで助け起こしてくれたおじさんの温かい手の感触を包まれた左の肘に思い起こした。
(殺すほどのことだった…?)
(あの人は…ただ私達を買ってくれようとしただけだった…)
電車の白い光の下、Kのブーツの踵に砂がこびりついていて、一見分かりづらいが、ズボンの裾に赤黒い染みが付いているのに気が付いた。爪先で蹴って教えてやると、Kも気が付き、脚を組んで自然に周りの乗客の目から隠そうとした。Jはそれでも血の匂いは隠しきれない気がした。
Kの気が済むまで電車を乗り換え、途中駅のトイレに二人で入って、財布から使える物だけ抜き取り、他はゴミ箱に捨てた。
「おっさん金下ろしたてだったんだ。今日は収穫あり。好きな物が食えるよ!たまに、財布の中に金入ってなくてヤリ損になることもあるんだけど…」
Kの言うヤリ損とは、性行為のことではなく殺しとか盗みの事なのだとこれも後々分かった。彼女は一切売春はしない主義だった。
Kは暗いJの顔色をうかがう目付きをしてちょっと媚びたような事を言った。
「今夜はお前の好きな夕飯にしよう。初めての二人での美人局の勝利を祝して。何が食べたい?」
「殺すのは良くないと思う」Jは初めてKに意見した。
「ん?」
「殺すのはやり過ぎだよ。罪が重い」
「あいつらの方が重罪だ」Kは顔を歪めた。
「らって?誰のこと?あの人は一人だったよ」
「ああ言う子供を買うような輩全員。絶滅したら良い」
「買われたい子供はどうなるの?」
Kはムッと口を噤んで背筋を伸ばし、Jから身を離すようにして、改めてジロジロこちらを見下ろしてきた。
「お前あいつ等の味方なのか?気色悪い」
吐き捨てるように気色悪いと言われてJもムカッときた。“楽園”での暮らしが普通の世界観であり身に染み付いて馴染んでいて、外ではどれほど異常に見られるかをまだよく知らなかった。
「あの人は優しい人だったかも知れない。私達に手荒なことやるつもりはなかったかも知れないんだよ。優しい人には優しくしてあげれば良いじゃない?」
「気色悪い」
「何が?」
「お前!!あいつは60近い爺だったんだぞ!!」Kが叫び、悲鳴のような金切り声が駅トイレのタイルの壁に木霊し、Jも負けじと金切り声で叫び返した。
「だから何?!自分は歳を取らないつもり?!自分だって60歳くらいなるよ!すぐ!60年生きたら!!それが何かダメな事なの!?あのおっちゃんは、お金を払って欲しいものを手に入れようとしただけだ!きっと、ちゃんとお金を払うつもりだった!あんまり嫌がることはしなくて良いって言ってくれる人だったかも知れないじゃ無い!殺してしまったらなんにも分からないよ!ただ、ちょっと、裸が見たいくらいだけだったかも知れない!それともちょっと握って欲しいとか、その程度しか求めてこない人だったかもしれない!
別に、例えば、ちょっと騙してぼったくったって、そっちの方がまだ良かったじゃない?殺すよりかは!!」
「俺は死んで欲しかった!あいつがお前の腕を掴んだ瞬間からもう殺すと決めてた!一遍殺したくらいじゃまだ足りてないくらいだ!!」
トイレの個室の外で物音がして、二人はハッと口を噤んだ。初めは小さく低い声で切り出したのだったがKも熱くなり突っかかってきたので気付けば二人して大声で殺した殺すのは良くなかった等と物騒なやり取りを叫び合っていた。誰かが隣の個室に入ってきて、用を足し、水を流し手を洗って出て行くのを待って、二人もすぐに移動した。小声でやり取りは続けながら。
「よし。こうしよう。お前と俺は二度と美人局はやらない。意見が合わないから」
「別にやったって構わないんだよ。ただ、息の根を止めるのはどうかと思うだけだ」
「ああ言う輩に俺は絶滅して欲しいんだからそのチャンスを逃せない」
「じゃあやめとこう」
「それが良い」
「うん」
「決まりだ」
しかし別にやろうと思っていなくても、こちらから持ちかけなくても、向こうから不意に声を掛けて来ることもあった。
ある町では、テイクアウトを注文するためKがハンバーガーショップに入り、混雑した店の外でJが一人でぼんやり待っているときなど。白昼でもそういった誘いを受けることは割と多かった。どういうわけかJの体からはそういう誘いを受けやすい何かそういう人種を惹き付ける香りでも漏れ出しているのだろうか?
「お嬢ちゃん、可愛いねぇ」
身に染み付いた経験から、分かり易く相手が何を自分に期待して話しかけてきたのかがJには咄嗟に分かる。
ハッとブラブラさせていた剥き出しの自分の脚(相手の視線が集中している、三寒四温のこの頃はポカポカの陽気の日には分厚いコートの下で薄着になっている事もある)を緊張で強張らせ、体の芯に一本線の背筋をピンと正して、(どうしよう…)とソワソワ考える。自分ではなく、相手のおじさんのために。早く追い払ってやらないと、この人がKに嬲り殺されてしまうかも知れない。
しかしJの逆さまを向いた蝋燭で出来たような体の中心には両脚の間から頭のてっぺんまでを貫く一本の導火線が備わっていて、火を入れて貰って温められたいと、長年そうであるべきと叩き込まれてきた本能がピンと反応し臍の底からジクジクと疼き始める。“楽園”で骨の髄まで仕込まれてきた出世頭Jの骨髄には、求められることに対して喜ぶ習性が備わっている。
このおじさんが手を伸ばし、自分の肩だとか髪だとか体のどこかに触れてくる前に、それをKに見られる前に、目を逸らさなければと頭では分かっているのだが…しかし触れて欲しがる欲望も急激に高まって、目も眩むよう、そして突如として思い出す、自分自身の正体、渇望。雄にジッと見詰められ、自分も彼と同じ行為をしたがっている雌なのだとハッキリ分かる。
「おい」
むしろ面白がってるような調子で笑顔を浮かべKがハンバーガーショップから出て来て声を上げた。
「何やってんの?あたしも混ぜてよ」
「この人はまだ…」Jは慌てて男とKの間に立ち塞がろうとした。
「キミは?この子のお兄さん?…お姉さんか」身の危険に気付かずおじさんがKに話しかける。
「3Pでしかやらないよ。妹一人じゃまだ仕事はやらせてないから」
「なるほど」
「違うよ。この人はまだなんにも…」
「お前はちょっと黙ってな」
「50でどうだろう。二人で」
「良いよ」
そして再び悲劇が繰り返される。
今度は彼の車で。次の現場は林の中だった。Kのやり方は一手目か二手目でもう相手の命を確実に奪おうとする先手必勝の先制攻撃。ある意味、残酷ではなかった。どこで拾いいつから手に持っていたのか、今度の凶器は石だった。後部座席のJが目を手で覆い、嗚呼!やめて!やめて!と悲鳴を上げているうちにあっけなく事は終わっていた。今度こそは身を挺しても止めに入ろうと心に決めていたが…間に合わず。
路上売春はいざ事を行おうとするときには人目に付かない場所へ移動する、それが、Kにとっては殺人の犯行現場になるのだ。相手は大人の男で、大抵こちらが二人いるとは言え子供であることにどこか油断している。その隙を突く。
「この辺で良いかな…?」それが彼の最後の言葉になった。
相手が事切れてからも念のためのように散々殴って側頭をほとんどグチャグチャに潰しておいてから、
「この辺で良いんじゃない」とKは返事を返した。
「…死んだよね?」後部座席でもはや悲鳴を上げる気力も尽き息を潜めていたJが石を振り上げなくなったKに聞いた。「なんで殺すまでするの!」
「当然の報いだ」
「まだ指一本触れてないじゃない!この人、私達に!」
「でも下心を持った。子供に対して」
「それで死ななくちゃいけない?」
「うん」
「おかしいよ!」
「…そうかな…?」ほんの一瞬、迷いのような苦しげな表情がKの目に浮かぶのを見とめ、Jはこれは何かあるなと悟った。
「嫌な目に遭ったことでもあるの?過去に?あるんだね?騙された?もっと酷いこと?」
Kはその場では何も言わなかった。
「死体を下ろそう」自分のと、それから運転席の死人のシートベルトを外した。
「でもそれはこの人がやったことじゃないでしょう?」今言うときではないと知りながら言わずにいられなくてJはなじった。無言でKが助手席を降り、車の前を回って運転席のドアを開け、男を下ろした。と言うか、ドアに凭れるようにして亡骸になっていた男はそのままズルリと路肩に滑り落ちた。
「よし」
林の中のせめて車道を走ってくる他の車からは目に付かない場所まで引き摺って行くなどして死体を隠す事もせず、Kは死んだ男を跨いで血染めの運転席に乗り込んできた。
「車が手に入った」
「人の心を捨ててね」Jが言った。
「人の心を持ってない相手への対処法だ。」
「子供を好きになる人は子供しか好きになれない病気の人が多いらしいよ。生まれつきの。治せる病気じゃ無いって聞いたことある。本人達だって悩んで悩んで、悩んでもどうしようも無くて…」
「だから殺すしかない」
「優しい思いやりのある人だったかも知れないのに…?」
Jは正当な持ち主を置き去りにして発進した車の後ろの窓から見える小さくなっていく男の死体を眺めながら言った。
「優しくないかも知れない、それが分かったときには手遅れだ」
「…何があったのか教えてよ?」
「どこへ行きたい?海でも見たい?」Kが強引に話題を変えた。
「…車運転したことあるの?」Kが免許を持ってないのは確実だった。まだ運転免許を取得できる歳であるはずが無い。
「今が初めて」
「ふうん」
狭い林の一本道は少し行くとすぐ突き当たり、どこへも繋がっていないことが分かった。この道はここから先は徒歩で森へ入っていく人が車を止めておく場所みたいだった。無言でKがバックで来た道を引き返し始め、同じような木々の景色の中、やがて、道に横たわっている何か大きな物体を後輪が踏んづけ、そのために車の片側(後部座席でJが座っていた左側、運転席側)が少し浮き上がり、それから前輪でもそれを踏み越えた。あえて二人とも何も言わなかったし、Jも振り返って確認しもしなかったが、まるで、あたかも、横たわっていた大きな生き物だったものの死骸をタイヤが踏んづけたような音が窓の外で響いた。グチャ、バキッ、グチャッ、と…それはちょうど成人男性の死体のような大きさの何か生物の死骸かそんな物のようだった。今更そのことを議論しても仕方ない。死んだ物は死んだ物であり、踏まないと通り抜けられない道ならば踏んでいくしか無いのだから。
やがてなおもバックし続けて、こちらを向いて背後の道を睨んでいるKの肩越しに自分達が踏んづけた物の姿がJにはフロントガラスの道の上に見えるようになった。道が真っ直ぐなのでやはり死んだ男だったその死体はだいぶ長い間姿は小さくなりながらもずうっとKの肩越しにJには見え続けていた。
(ゾンビ映画でならあの死体が立ち上がって走ってくるのに私が真っ先に気付くんだ…そしてKに伝えようとするがなかなか伝わらなかったり…)とJはぼんやりそんなことを考えていた。
車内では二人とも無言だった。道がやっと緩やかにカーブし、死骸が見えなくなるまで、Kは一度も前に向き直らなかった。
林の中の横道に折れる前の二車線の道路に出、しばらく走ると、やっとKが気を取り直した声で言った。
「弟が海を見たがってた。お前より小さかった。」
「そうなんだ…」
いきなり話題に登場した弟さんはきっともう死んだのであろうと、過去形の語尾から予測できたので、Jは突っ込んで深く聞かなかった。今どこへ向かって走ってるのかも、聞いたって無駄だと知っていたから聞かなかった。走行中の車内で助手席側に移動して、二人してずっと前だけ向いていた。雪のように降り積もる沈黙を散らすように、Kが窓を開け、右手を伸ばしてラジオを付けて、流れてきた歌に合わせて小声で歌詞を口ずさみ始めたので、それで少しずつ気分が変わっていった。窓からももう死体は見えなくなっていたし、不意に登場しかけた弟の話も一旦立ち消えになった。
(Jも自分の弟を思い出していて、軽いメロディーに乗せてそれぞれがそれぞれの物思いに沈んでいた。)ガソリンが無くなり車は道端に乗り捨て、そこから次の街まではヒッチハイクした。
そんなこんながあってから、(Jが知っている中で二人のKの手による死者が出されてから、)数日後の冷え込む夜に土砂降りの雨音を聞き続け、眠れないでくっつき合って暖をとっているとき、Kが教えてくれた。
「今のお前よりも小さいうちに死んだ弟がいたんだ」
「…言ってたね…」
「ただ殺されたならまだ…、…だけど、弟は悪戯されて死んだ。色々変な痣を体中に付けられ、汚され、首を絞められて。ただ殺されただけじゃなかった。俺がちょっと目を離した隙に攫われて」
「そうだったんだ…」何故だかJの目を閉じた深い闇の向こうに白い男の子の女装させられ形のKの唇によく似た小さな唇に赤い口紅を塗られた遺体のイメージがぼうっと浮かび上がった。
「犯人はまだ捕まってない」
「それで毎日新聞を読むんだね」
自分を抱き締めるKの強い腕に更に力が加わり、骨がパキポキ音を立てるほどJは強く引き寄せられた。体温を伝え合うために裸になっている段ボールの布団の下の更にコートの内側で、肌が密着し肉が押し潰されて自分の背骨が相手の背骨にくっつきそうだった。Jも力いっぱいKの体に巻き付けている腕の力を強めた。混ぜ合わさり、一人の人間になりたいみたいに。未熟な二人が一つになれたなら足りないところを埋め合わせ20代の少しはまともな大人が完成したら良いのにと。
「生きてたらお前と同い年くらいだった」Jの首に唇を押し当てて話すKの声はくぐもって聞き取りづらかった。
「綺麗な顔してた。女の子みたいな。あの子を失ってから俺も少しずつ死にかけてた。お前に出会うまで…」
「僕にも弟がいるよ。」Jも打ち明けた。「置いて来ちゃったけど。きっと怒ってるだろうなぁ…でも、連れてくるより危険が少なかった…一緒に行こうって、誘える状況でも無かったし…」
「あの部屋に?いたの?」Kが体を離してJの目を見詰めた。二人が出会った夜のあのホテルのR氏と泊まっていた部屋のことを思い浮かべているのが分かった。
「ううん、別の国だよ」
「そうか…」
「きっともう凄く嫌われてる。また会えても一生口も利いてくれないかも知れない…」
「それでも生きてるならまだマシだ」
「そうだね…ごめん…」
「いや。俺も。もう美人局はやらないでおこう。本当にもう…今度からは出来るだけ殺さないようにはするけど…俺も…だけど相手はなんせ俺等よりも大きいし、ちゃんとやっつけておかなくちゃ立ち上がって仕返しにかかってきそうで怖いんだよ…まともにやり合って勝てるわけ無いから…俺だって殺しはしたくない。もう…」
「分かった。今度からは僕に任せて」
そしてそれからはJが変態紳士のお相手を最初から最後まで面倒を見る決まりになった。
二人は薬局やら民家の戸棚やらから睡眠薬を大量に入手して美人局をやるときは石やら殺人スタンガンやブーツの踵等ではなくより安全な眠りを使うことにした。その方が血も飛び散らずこちらも汚れなくて済む。
例え二度と覚めない眠りに就かせてしまったとしても、おさらばしてしまった後だからこちらは後で目が覚めてくれるはずと信じていられ罪悪感もない。
変態紳士がよく使う台詞があるではないか?『怪我をさせようとして怪我させちゃったわけじゃないんだから、しょうがないじゃん?』それと同じ。
『薬の量は間違えようとして間違えちゃうわけじゃないんだから、間違えてたらごめんね』
酒に溶かしたりお摘まみのナッツ等に仕込んで取り込ませ、朦朧となりだしたところで二人で支えて男を歩かせ、人目に付かぬ薄暗い物陰へ導き、座らせ、優しい甘い言葉をかけながら手早く盗む。財布はポケットに戻しておく。相手は朝目覚めても記憶が無い。薄ら、自分が小娘達に騙されたのが分かっても、未成年者だったかも知れないしと考え盗まれた物も現金だけだからと泣き寝入りする事になる。
その手口を繰り返すうち、どの種類の睡眠導入剤が大体体重何キロぐらいの男に対しどの程度の時間をかけ有効な効き目を現すかがより正確に分かるようになってきた。それに連れ、相手にも不必要に手間取らされたり、(眠っていると思いきやいきなり手首を掴んで起き上がろうと引っ張ってきたり)Kも石やら足やらをその都度振り上げなくて良くなっていった。薬はほんの少し多すぎるくらいがちょうど良かった。相手が目を覚ますのが多少遅くなったとしても、犯行時にモタモタ夢うつつで向かってこられる方がお互いのためにならないのだから。
こちらは眠り込んでしまった相手の目が覚めるまではそばにいてやれないので、手早く盗んでサッサとその場から離れる。走り去りながらの投げキスと共に、快い目覚めを祈ってあげる。もしかして薬が多すぎるかもとか、後遺症が残るかも、という不安は考えないようにする。こちらの寝覚めが悪くなるから。世のお疲れなおじさま達は普段眠りが少なすぎる傾向にある。多少眠りすぎたってちょうど良いではないか。薬の効果の切れかけには居合わしたことがないから、JもKも、自分達が立ち去った後のおじさま達がどう目を覚ますは知りようがなかった。いまだに知らないままだ。
別れの最後の日、今夜は派手に良いホテルへ泊まろうぜと、宿泊者の中から三人分に余りある広さの部屋に長期連泊しているホテル住まいのお爺さんに上手く取り入って拾って貰って、先に幸せな深い眠りに就いて貰い、二人で組んでさんざん悪事を働き旅して回ったJとKは二人熱い湯船にとっぷり浸かって星の無い街の満月の夜空を見上げながら語り合った。
「死ぬなよ、相棒」Kが今宵何度目かの忠告をしてきた。
これから春になり夏になる、群れていては暑苦しい。また来年の秋か冬に再集合だ、そんな緩い計画を話し合っていた。
「弟さんに会えると良いな」Kが言った。
「会えないよ。もう一生。でもあいつは死なずに強くやっていけると思う。意外に根性がある奴だったみたいだから…一人にされると人って急に強くなったりできるもんなんだなぁ」
成長した弟トモヤを見た最後の姿を思い出しJは自分の声に寂しさが入り交じっているのを聞き取った。
「生きてれば成長できる。お前も強くなったよ。見違えるくらい。もう一人でも立派に夏を越せる。夏なら」
Kがパシャパシャと湯と外気の狭間でJの肩を叩き、更に手を伸ばしてJの向こうに置かれていたシャンパングラスを掴んだ。グラスには少量の泡立つ酒と大粒の粗く潰した苺が入っていた。二人はハイビスカスとココナツの香りのピンクの泡のバブルバスにゆったり浸かりながらもう何度も別れに、それから冬の再会の約束に、チリンとグラスを合わせ乾杯していた。中途半端にまだ子供で半分大人な悪党二人にはこの飲み物がちょうど良かった。この贅沢な部屋に連泊中の金持ちなお爺ちゃまがバーで知り合ったときに二人に一夜を共にするおまけとして約束してくれていたルームサービスだった。
白い皿に山盛りの苺、そしてロゼシャンパン。グラスは三つあったが、一つは運び込まれた白いテーブルクロスの稼働する食台の上に放置されたままだった。
ボーイが部屋の前まで運んできてくれたときには当人は既にぐっすりと深い眠りに就いてしまった後だったのだ。
(実際には、部屋にルームサービスを運んできたのは二人組の女の子達だった。目の大きな愛らしい顔をした姉妹みたいにそっくりの二人だった。片方は黒髪、片方は金髪。ちょうどKとJと似たような取り合わせだった。彼女らは制服を着て耳の下で髪をキッチリ三つ編みにしていたが。
『そこに置いといて』とKが部屋の中へ入ってこようとする二人を押しとどめ(部屋に入ってこられたらベッドで昏倒している老紳士を見られてしまう)廊下から戸口に立ってジロジロと執拗に部屋の中を猫のような4つの目で長いこと見詰めていた。
後々Jは思った。この二人は老紳士のご贔屓の女の子達だったのでは無かったか?と。
いつも可愛がってくれチップをはずんでくれる紳士が騙され眠り込まされてコケにされたことにも、商売の縄張りを荒らされたことにも、二重に腹を立て、上の者に報告したのかも知れない。裏社会の情報網が素早く火花を散らし駆け抜けて、今夜このホテルに二人の子供娼婦が泊まってると伝達されたのかも知れなかった。それで今まではあんなに自由だ、と、何をしても見付かることは無いと思われていたのに、不意に、網の目がグッと狭まり、高い高い無限の空からいきなり振ってきて、二人を絡め取ってしまったのだ…)
「のぼせてきた…」先に浴槽を上がってふらつく足取りでこちらに手を伸ばし一緒にベッドへ行こうと自分に誘いかける黄金の女神のようなKの姿をJは生涯忘れられないだろうと直感した。こんなに逞しく美しい健康美な少女は他に一人も知らない、と思った。手を引かれ、最後の夜を暖かい部屋で、老紳士が寝かされているベッドのある寝室とは違う、もう一つある寝室で二人だけで抱き締め合い眠った。互いの吐いた苺の甘い息を吸い、二人の体温を羽布団の外へ漏らさないようにギュッとしがみ付き合って。
翌朝。
肩幅のガッチリした二人のドアマンに重たい飾りガラスの扉を開けてもらい、荘厳なロビーの五つ星ホテルを抜け出て、アメニティやサービスのチョコやクロワッサンでポケットをパンパンに膨らまし、地下鉄に向かって歩いているときだった。まず犬の爺やが駆け寄ってきて、一晩自分だけ外で放って置かれた腹いせにワンワンひとしきり鳴き喚き、KとJ二人の手からおやつを貰って機嫌を直した。それからJはKを見送りにまだ一緒にブラブラ地下鉄の入り口辺りまで歩いていた。
姉妹を永遠に離ればなれにさせる死に神は角を曲がって背後から忍び寄っていた。
まず、犬がキャンと一声鳴いて、血飛沫を上げ、ひっくり返って藻掻き始めた。ギョッと歩を止めKが素早く周囲を見回しかけたが、身構えるのが遅すぎた。既に周りを三人の大人に取り囲まれていた。白昼の街中で堂々と行われた殺人だった。Jの目の前で、前から、後ろから、そして右の脇腹へも、次々に閃く銀の刃がKの体に差し込まれるのをJは目の当たりにした。
「ヒィッ」と吸い込む悲鳴、それだけだった。Kのポケットに入った手がスタンガンを握り締め出て来たのが一瞬垣間見えたが、大きな黒ずんだ手にすぐ取り上げられた。Jは刃向かう道具も何も自分では持っていなかった。
一番近くにいた男がこちらに手を伸ばし掴もうとしてきたのをかいくぐり、地面に膝を突き、Jは素早く這って地面に倒れ込んだKの体に取り付いた。刃渡りが手のひらほどもある三本のナイフが凶暴な銀の魚のように閃いて捻って引き抜かれたときにはバックリと黒黒とした穴が開いたように見えた傷口からは、すぐに生暖かい真っ赤な血がドクドクと脈打って吹き出てきて、J、K、二人のうちむしろ傷付いてないJの体前面をベッタリKの血で濡らした。
何か叫びを上げている自分の声が遠くから聞こえてくるような気がした。Jの腕の中でKは事切れた。
「まだ死んでない!まだ死んでない!」気が付くと自分がわめいていた。
「立て」誰かが自分の腰に腕を回し、後ろ向きに引っ張って、Kの体にしがみ付いているJを死体ごと持ち上げかけた。別の誰かが死骸の金髪を掴んで反対向きに引っ張り、それでJは血に濡れた自分の両手から友の体がズルッと滑り落ちるのを感じた。綺麗な友の死体は横顔を向いて固い地面に肩からぶつかり、耳の上を強く打ってゴロリと転がった。J自身の体は強引に向きを変えられ、バタバタ抵抗する足は地面に付かず、どんどん運ばれ、これから自分が積み込まれる、路肩に乗り上げて留めた黒いハイエースがこちらに向け暗い口を開けているのが視界に飛び込んできた。
「まだ生きてるかも知れない!生き返るかも知れない!蘇生して!早く蘇生して!!」
夢中でJは叫び続け腕を振り回し足をバタバタさせ自分を掴んでいる手に噛み付いて抵抗した。体を捻り、首を伸ばし、Kの体がどうされるのか見届けようとした。空の色と全く同じ、真っ青なブルーシートを被せられ彼女と犬の遺体が見えなくなる瞬間が垣間見えた。
「K!おおい!!K!」
「あれは死体だ」自分の体を押さえつけている大人が低い声で言った。
「死んでない!まだ助かる!蘇生すれば…!」
しかし自分も車に放り込まれそうになり、ドアや天井や底壁に手足を突っ張って猛然と抵抗したが、車内に乗っていた何者かの鋭い拳を腹にドンと一撃加えられた。息が詰まり、ガクンと体がクの字に折れ、折り畳まれ丸まってシートに崩れ落ちたところを、脇腹、側頭にも硬い肘の強打を食らい、意識が遠のき、やがて真っ暗闇に沈んだ。
そして、やはり、気付くと、また“楽園”で働かせられていた。脳が強い薬に漬けられてまるで長い憧れた遠足の夢を見ていただけだったかのように、Kとの思い出は、まるでどこかで読んだ話か、人から伝え聞いた物語か、妄想が生み出した頭の中の作り事のように、儚く、現実味が薄れ、日々の過酷な労働に揉み消され、遠退いていった。
色褪せた脆いドライフラワーのように、記憶の深みから引っ張り出すたび元の形を失ってボロボロ崩れ落ちるようだった。
幸せな記憶は思い出せば苦い。また同じ時に戻れるわけはないから。死んでしまった友は蘇らない。あの風に靡く柔らかな黄金の髪も、宇宙の深みの青い瞳も、二度と生命を宿し邪魔くさそうに耳の後ろへ振り払われたり、体温より熱く燃えたり、じっと誰かの目を見詰め心に火を点すことはなくなってしまった。語り合った夢も、Kは絶対実現できない。(恋なんて、…これからすることあるかなぁ?長生きしたら良い相手が見付かるかねぇ?…こんなあたしにも?…)
幸せだった日々の思い出は、思い出せば辛く悲しくなるだけだから、そんなようなことがあったかも知れない…くらいにしか、Jは、“楽園”に連れ戻されてからのカホは、あまり思い出さないようにしていた。
これは後から聞き知った話。
R氏から通報を受けJの行方を追っていた“楽園”の人間は月に二名ずつ数を増やして動員され続けていたが、春が始まる最後のこの月四月で捜索は打ち切りにされるはずだった。最後に投下された班の中にはJの弟トモヤも混じっていた。『自分が一番姉の居所を嗅ぎ当てられます』と自ら志願したのだ。
"楽園”は子供一人に逃げられたところで損失としては大して大きなものではないが、
『あの"楽園”は脱走者を取り逃がしたままにしている、』と前例を作り恥を掻かされたまま引き下がるのが許されない状況だった。小娘一人、掴まえ、調教し直し、働かせ続けなければ"楽園”のブランドに傷が付く。逃げ出したカホは他の子供達やスタッフへの見せしめとしても必要な存在だった。
Jの弟が駆け付けたときには、Kは既に冷えた死体になっていた。それでもなお弟はKに容赦しなかった。まるで憎しみの照準をKだけに絞り何度も何度も刃を突き立てることによって自分が姉を憎むのを塞ごう、誤解でも何でも良いから怒りをここで発散してしまおうとするかのように死骸に向かって握りの柄まで刃を捻じ込み、ナイフを突き立てたそうだ。
普段なら冷静で客観的に判断できるトモヤの珍しい爆発する野獣のような怒り。K・Jが意気投合し自発的に一緒に居たので無ければこんなに長い期間姉が手足に拘束の後も残さず転々と移動したり高い自由度で行動できたはずは無い。そんな事くらい、頭の働く弟にかかればパッと見て分かって当然のところだった。このトモヤという子は姉のことになるとわけが分からなくなるのだ。盲目的になり自分を制御できなくなり暴走する。
わざと目くらになって、無理矢理にカホは連れ去られたのだ、言うことを聞くか死ぬかしか選択の余地のない状況で道連れにされていたのだ、と思い込もうとしているみたいだった。
姉当人の言葉にさえ聞く耳を持たなかった。
『あんたは洗脳され易すぎるんだ』と言って。
弟にとってはそうでなければいけないのだった。そうでなければ許せないのだ。姉が再び自分を裏切って一人で逃げたなど、絶対信じたくなかったのだ。もしそれを信じることになるとしたら、殺さなければならないのは姉になる。でも姉は唯一のトモヤ君の弱点だった。心の弱み。まだ殺すことは出来ない肉親だった。ただ一人、彼が心を許し愛しているのは姉だけなのだ・・・
「鹿島君…」
ユキは(クルミ?)今、目の前にいて自分が看病している、自分のベッドで眠るかつての恋人の額に手を触れ、熱を測り、ぼんやりした頭で考えていた。早くちゃんとした大きな病院で医者に診て貰って欲しい。それは山々だったが…
あの時の事態を再現してはならない。Kと同じ目に鹿島君を遭わせてはならない。カホが鹿島君につききりで居るのにはそういった理由があった。弟が彼女の大切な死にかかっている元恋人に何をするか分からない…自分が片時も離れず付ききりでそばにいて見ていなければ…
続く