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努力を踏みにじる婚約破棄

 頑張れば愛されると、いつから錯覚していた?



「アリシア・ダナン侯爵令嬢! お前との婚約を破棄するっ!」


 アリシアは、愛する婚約者である王太子ペドロの言葉に凍り付いた。


 赤い髪に金の瞳をした王太子は会場の中央に設えられた舞台上からアリシアを指さし、朗々たる声で宣言したのだ。


(わたくしとの婚約を破棄? 婚約を破棄する、ですって?)


 あまりのことに、アリシアの思考は停止した。 


 今日は学園の卒業式。


 18歳になった王族・貴族たちが学びを終えて社会に飛び立つ晴れがましい日。


 天気も良くて暑くも寒くもない日だというのに、アリシアの心は冷たさすら感じる暇もないほど急速に凍った。


 白亜の学園大広間は青い旗や絨毯で飾られ、日中だというのにシャンデリアも煌いている。


 しかし王太子ペドロの口から発せられた言葉は、眠気誘う春の午後のウトウトした気分を吹き飛ばす衝撃的なものだった。


 午後からの式典は生徒会主催のカジュアルなものではあるが、祝いの席とは思えないペドロの発言に広い会場に集まった貴族の令息・令嬢たちはシーンと静まり返った。


 そして息を飲んで事の成り行きを見守っている。


「なにを……」


 喉がカラカラで口が強張っている。自分でも何を言っていいのか分からないまま発した声は、つぶやきのような小さなものだったにも関わらず妙に大きく会場内に響いていった。


 金髪に緑の瞳のアリシアは、婚約者の色である赤と金をまとっている。


 赤のドレスに金の刺繍、金色で揃えたアクセサリー、婚約者の色での装いはアリシアによく似合っていた。


 その彼女を婚約者は冷たく射るように見ている。


 アリシアは青ざめて細い体を戦慄かせたが、金の瞳に同情の色が浮かぶことはない。


「不満そうだな、アリシア・ダナン侯爵令嬢! だが、私の気持ちは変わらんっ!」


 自信に満ち溢れた威圧感のある男がアリシアをジロリと見る。


 ペドロは燃えるような赤い髪に金の瞳の美丈夫だ。王族らしく整った顔立ちをしている。


 体を動かすことが好きなペドロの鍛えられた体は筋肉質だ。鎧のような筋肉で厚みのある体は、長い首と長い手足のおかげでスラリとして見えた。


 肌は日に焼けていて精悍な印象の王太子は、卒業式典の衣装として緑地に金のブレードをあしらった騎士服を着ていた。


 だが、緑と金というアリシアの色をまとっている理由は婚約者への愛というわけでもなかったようだ。


 何とか言葉を紡ごうとアリシアは口を開く。


「あぁ、ペドロさま。わたくしは……」


「名前で呼ぶなっ! 不敬だぞっ!」


 ピシャリと言われて、アリシアは口をつぐむ。


 婚約者の名を呼ぶことは不敬ではない。


 アリシアに名前で呼ぶことを許さないということは、ペドロは本気で婚約を破棄するつもりということだ。


(どういうことなの?)


 王太子と侯爵令嬢の婚約など簡単に解消できるものではない。アリシアは何がどうなっているのか全く分からなくて混乱していた。


 アリシアの実家であるダナン侯爵家は、国内随一の力を有する貴族である。


 降嫁した王妹がアリシアの曾祖母であるなど王家との繋がりもあるし、政治的な力も強い。


 豊かな領地を所有し、商売も上手くいっているなど経済面でも恵まれていた。


 ダナン侯爵家のひとり娘であるアリシアと、王太子の結婚は政略的なものである。


 アリシアも理解はしていたが、ペドロを愛してもいた。


 愛を返してくれないとしても、婚約には政略的な意味がある。


 ダナン侯爵家が力を失わない限り、結婚は確実だ。


 そう思っていたアリシアにとって、ペドロの婚約破棄発言は青天の霹靂であった。


 想いは今でも変わらない。


 愛する相手から傷付けられ捨てられようとしている事実は正直ショックだ。


 しかしアリシアは侯爵令嬢であり、貴族の一員である。


 ペドロのことが好きでも嫌いでも関係なく、一度結んだ婚約を破棄することなど易々と受け入れてはいけないことも理解していた。


「……わたくしは……」


 アリシアは戦わなければいけないのだ。


「わたくしはダナン侯爵家の娘であり、アナタの婚約者ですわ。ペドロ王太子殿下!」


「はんっ!」


 ペドロが壇上から金の瞳でアリシアを冷たく見る。


 普段は魅惑的にしか見えない長い睫毛に縁取られた金の目が、鋭利な刃物のように感じる。


 戦おうとした端から気持ちが削がれ、視線に耐えられずにアリシアは俯いた。


 それなのにアリシアの婚約者は、彼女をさらに追い詰めるように残酷な宣言をするのだ。


「お前をミラ・カリアス男爵令嬢への嫌がらせにより断罪するっ! アリシア・ダナン侯爵令嬢!」


「そんな! わたくしは、嫌がらせなど……」


 アリシアには全く心当たりがない。


「えーい、見苦しいっ! アリシア! お前は身分や美貌を鼻にかけ、他者への配慮に欠けるのだっ!」


「そんな……」


 アリシアにとっては言いがかり以外のなにものでもないのだが、ペドロにとっては動かない真実のようだ。

 

「よって、アリシア・ダナン侯爵令嬢。お前は私の婚約者であったが、それも今日までだ。婚約は破棄するっ!」


「嫌よっ!」


 自分でも驚くような声が出たアリシアが跳ねるように視線を上げれば、いつからそこに居たのかペドロの横にはピンク色の髪と赤い瞳を持った令嬢の姿があった。


「ふふふ。アリシアさまともあろうお方が、はしたない声をお上げになって。貴族令嬢らしくありませんわよ」


「ミラ・カリアス男爵令嬢……」


 ピンク色の髪を高く結い上げた彼女がまとっているのは赤いドレス。王太子ペドロの赤い髪の色。


 そしてドレスの飾りに使われている金の装飾は、キラキラと輝く金の台座に宝石が散りばめられた見事なものだった。


 喉元から太く大きく広がるネックレスには枝のように金の台座が繋がっていて、体に寄り添うように流れ落ちる。


 金の上に付けられた宝石がシャンデリアの光を受けてキラキラと輝く。


 散りばめられているのは黄色のトパーズや透明なダイヤモンド、真っ赤なルビー。


 滑らかな絹のドレスにはふんわりとしたチュールレースが幾重にも重ねられていて彼女の美しさを引き立てていた。


「おお、ミラ。来たのか」


「はい、殿下。私は、いつも貴方様のお側におりますわ」


 結い上げた部分から意図的に零れ落ちているピンク色の髪がふわふわと揺れる。


 確かに赤い瞳の令嬢は、いつも王太子殿下の隣にいた。


『男爵令嬢が王太子殿下にまとわりつくなんて』

『身の程知らずにも程がありますわ』

『気になさらないでアリシアさま』

『王妃に相応しいのはアリシアさまですわ』


(わたくしの周囲にいる人たちは、そう言って慰めてくれていたけれど……)


 いま目前にいるアリシアの愛しい人は、別の令嬢を愛しげに見つめ抱き寄せている。


(このタイミングで婚約破棄を告げたということは、一緒にダンスする相手は……)


 卒業式典のクライマックスには舞踏会が用意されている。


 生徒会主催のイベントとはいえ、このダンスだけは特別だ。


 一生に一度の輝く時、その時にアリシアの隣に立つのは婚約者である王太子殿下であったはずなのに。


(本気、なのですね? ペドロさま)


 アリシアは足元がグラリと揺れた気がした。

 ペドロさまと学園の卒業式典でダンスをして、それが終われば国を挙げての結婚式が待っている。


 結婚をすれば王太子妃。王太子妃となれば、次に待っている役目は王妃。国を背負う王を一番側で支える役目だ。


 やりがいのある仕事。生きがいのある人生。


 アリシアとペドロの結婚は政略的なものだけれど、彼女はそんなものを飛び越えてペドロの事が好きだった。


 やりがいのある仕事と愛のある、生きがいのある人生。それがアリシアを待っているはずだった。


 だから頑張ったのだ。王妃教育も、勉強も、王太子殿下の手伝いも。いつも、いつも、頑張っていた。


 なのに、辿り着いた先がコレなのか?


(そんな残酷な運命を辿るなんて……まさか、わたくしが? いえ、ありえない……)


 アリシアは王太子との結婚を夢見ていたし、その夢は覚めてなどいなかった。


 少なくとも、深紅に金刺繍のドレスにゴールドのアクセサリーを合わせた、今朝までは。


 王太子の色をまとって輝く金髪を結い上げて、褒め称す侍女たちに送り出されたのは幻だったのか。


(そんな……嘘よ……)


 シンと静まった広い会場でアリシアに集まる人々の視線。


 視線は集まりはするけれど、誰も声をかけてくれる人はいない。


 アリシアを庇ってくれる人はここにはいないのだ。


 自分が独りだと思い知らされ佇むアリシアに愛しい人は追い打ちをかける。


「私はミラと結婚する」


「そんな……」


 見上げるアリシアを、緑に金のブレードをあしらった騎士服をまとった王太子殿下が見下ろしていた。


 冷徹な空気をまとったペドロが態度を変える様子はない。


 その隣で男爵令嬢は、アリシアの絶望を勝ち誇ったように眺めていた。


「そんな……」


 アリシアの唇は戦慄く。いや、全身が戦慄いていた。


 私は負けたのだ。


(そんなバカな!)


 婚約が決まった10歳から王宮に住まいを移し、未来に向けて努力と勉強の日々を過ごした。


 親に甘えるどころか顔を見る機会すら減ってしまったというのに。


 アリシアの人生は『王太子殿下の配偶者となる』ためだけに消費されてきたというのに。


(そんなバカな事って、ある⁈)


 アリシアは背筋をスッと伸ばし正面からペドロをキッと睨んだ。


「王太子殿下っ! わたくしとの結婚は政略的なものですわっ! 殿下お一人の判断で破棄になどできませんっ!」


「えぇいっ! 忌々しいっ! お前の、そんな生意気な所がっ! 私はっ! 嫌いなんだっ!」


 吐き捨てるように言われてアリシアは目を見張った。


「殿下ッ⁈」


「知識をひけらかしおってっ! 自分よりも成績の良い女と結婚したい男などいないっ!」

 

 確かにアリシアの成績は良かった。学年でトップである。トップであるということは、王太子よりも上位であるということだ。


「殿下ッ! わたくしは、殿下のためにっ……」


 だが、それは全て未来の王となるペドロを支えるためにした努力である。


(アナタは、わたくしの努力を無駄だった、と、おっしゃりたいの?)


 アリシアとて勉学が好きとは言えない。


 それでも王太子の婚約者として恥ずかしくないように、と、頑張ってきたのだ。


 なのに――――。


「王太子である私よりも賢い女など要らんっ! お前は国を乗っ取る気か⁈」


「そんなことはございませんっ!」


 ペドロの横で男爵令嬢がウフフと笑う。


「王妃教育の合間にチャッチャッと学園の勉強も済ませるなどという器用なこと、私には真似できませんわ。ペドロさま」


「ああ、ミラよ。キミには、そんな苦労はかけないよ」


 男は愛しげに令嬢を見つめると、ピンク色の髪とバラ色の頬をそっと撫でた。


「はい、ペドロさま」


 令嬢は、頬を撫でる手に顔を寄せ、うっとりとした目でペドロを見上げた。


「それに学園の勉強はもう必要ないだろう? なにしろ今日で卒業だ」


「そうでございますわね。ふふっ」


「王妃教育もキミなら難なくこなせるだろう。男爵令嬢だというのに、見事な所作だ」


「ありがとうございます、ペドロさま」


 ミラは優雅なカーテシーを披露した。


(確かにミラ・カリアス男爵令嬢は男爵令嬢という地位にあるにも関わらず、高位貴族の令嬢と変わらぬレベルの教養を身につけているわ。……あぁ、そこに気付かないなんて! これは全て計算ずくなのだわ。彼女ひとりの意志ではない。浅はかな男爵令嬢が色仕掛けで王妃の地位を狙ったのではなく……)


 もしや、自分は見事にはめられたのではないか? アリシアは悪い予感に包まれた。


 アリシアは呆然とつぶやく。


「そんな……わたくしは、殿下のお仕事の手伝いまでして尽くしましたのに……」


「そんな事は頼んでないっ!」


「えっ⁈」


 ペドロの激しい口調に、アリシアは素で驚きの声を上げた。


「お前は気を回して仕事を手伝っていた、と言うだろう。だがな。事務官たちだってバカじゃない。学生の私にとって無理がない量しか回してこなかったハズだ」


「それは……」


(そうだったかしら? そうだった気もする。あぁ、分からないわ)


 アリシアは混乱した。今まで彼女が考えなかったようなことを、ペドロは言っている。


「お前が私の分をこなしてしまえば、やる事は無くなる。お前が仕事をしてしまったせいで、私は仕事が出来ないというレッテルを貼られてしまった。そこまで考えたかっ⁈」


「それは……」


 そこまで考えなかったのは確かだが、そもそも誰かに言われて始めた事だったような気がする。


「私に仕事を割り振った事務官たちだって、赤っ恥をかくじゃないか。まだ本格的に働いてもいない王太子の仕事量すら正確に判断できない無能だってな」


「そんな……」


(誰に言われて始めたことだったかしら? 王妃さま? それともペドロさま本人?)


 アリシアがそこまで考えていなかった事は確かだが、この責められ方は違うと頭のどこが分かっていた。


「お前は自分の事しか考えていない。回りとの調整は無駄に見えて重要なんだっ!」


「そんなわけがありませんわッ! わたくしだって、回りの方々の意見を聞いたうえで進めていましたわっ!」


 突然の事に頭が回らないアリシアを追い詰めるようにミラが言う。


「後からでしたら、どうとでも言えますわよね」


「ミラの言う通りだ、アリシア! お前は侯爵家の令嬢であり、王太子の婚約者であったのだ。身勝手な行動をとったとしても、誰が指摘してくれる? そんな者などいないっ!」


「ですが……」


(そんな……酷い言われようだわ。私が、そんなに勝手なことをしたと? 本気で思ってらっしゃるの?)


 混乱するアリシアを憐れむような目で見ながらミラが言う。


「まぁまぁ、殿下。その辺で許しておあげになって? アリシアさまも幼い時から親元を離れ、王宮にお住まいなのですもの。細かな所までは気が回らないかと」


「うんうん、ミラは優しいなぁ。……アリシア! お前には、このような気遣いが欠けているっ!」


「……っ」


 あまりの言われように、アリシアは息を飲んだ。


(わたくしが親元から離され、王宮住まいになったのは王家の意向だというのに。それすらも逆手にとって、わたくしを卑しめる道具にされるというの?)


 アリシアの体は戦慄いていた。


 心も体も震えが止まらない。


「令嬢が親元を離れてしまったのですもの。本来、侯爵家にて受け継ぐべきものを、アリシアさまは受け取ってはいらっしゃらないのよ。責め過ぎてはいけませんわ、ペドロさま」


 憐れむふりをしてアリシアをバカにしているミラの言葉に、ペドロはウンウンとうなずいた。


「それもそうだな。うん。アリシアは、正確には侯爵令嬢ですら無いのかもしれないな」


「なっ……」


 あまりの侮辱に言葉が出てこないアリシアに、ペドロは追い討ちをかけるように言う。


「まだ帰らない気か? アリシア。図太いな」


「ペドロさま。やはり侯爵令嬢さまには、男爵の娘ごときがしゃしゃり出てきたとしか、受け止めて貰えないのですわ」


「あぁ。自分のことを卑下するようなことを言わないでおくれ、ミラ。私が悲しくなってしまう」


「私ごときになんてありがたいお言葉。この国の次期国王陛下は、なんてお優しいのかしら」


「キミはなんて素敵な女性なんだ……ミラ」


 ペドロは壇上からアリシアをギロリと睨んで言う。


「それに引き換え、そこにいる令嬢ときたら……」


「……っ」


 アリシアは切られるような鋭い視線にビクッと身を震わせた。


「こうなったら、しっかりと諦めて貰うしかないな」


 ペドロは目に嫌悪を滲ませたままニヤリと笑った。


「さぁ、ミラ」


 緑色の衣装をまとった貴公子は白手袋に包んだ手を、赤いドレスに金の宝石で着飾った令嬢へ差し出す。


「はい」


 白い手袋の上に、赤いレースの手袋に包まれた令嬢のしなやかな手が重なる。


 エスコートする王太子の凛々しさとエスコートされる令嬢の優美さに会場からは溜息が漏れた。


「なんて優雅なのかしら、ミラさま」

「美しいとは思っていたが、ここまでとは思っていなかったよ」

「やはり、王太子さまが凛々しく立派であられるから」

「ああ、そうだな。おふたりが並ぶと絵のようだ」


 ザワザワとしたざわめきが舞台前から会場の端の方へと波のように広がっていく。


 ミラの動きに呼応するようにネックレスに繋がる枝のような金の台座が揺れて宝石と共にキラキラと輝く。


 ふわふわと揺れるシフォンレースと宝石のきらめきが残像となり残るような錯覚。


 ミラは幻のように美しい。


 彼女をエスコートする逞しい王子さまとのツーショットは、絵でも描けないような幻想的な美しさを醸し出していた。


「ここに立って」


 舞台の中央に立つミラは会場にいる皆からよく見え、赤いドレスは青がアクセントとなっている白亜色の会場によく映えた。


「この国の第一王子であり次期国王となる私、ペドロはここにいるミラ・カリアス男爵令嬢に永遠の愛を捧げる」


「いけませんっ! ペドロさまっ!」


 会場で悲鳴のような非難の声を上げたのはアリシアひとり。壇上に向かって駆けだしそうな様子を見てとったペドロは衛兵に目で合図する。


 衛兵たちはあっという間にアリシアを取り囲んだ。動きを封じられたアリシアはジタバタと暴れながら叫ぶ。


「何をするんですかっ!」


 侮蔑を含んだ金色の眼差しがアリシアに向けられる。


「フンッ。本性を見せたな女狐めっ。お前はそこで見ていろ」


 ペドロは改めてミラに向き直り、美しいお辞儀を見せた。ミラの顔が歓喜に輝く。


「愛しいミラへ。真実の愛を込めて金の魔法、王家の魔法をキミに贈ろう」


 ペドロは手の平を上に向け、指先をミラに向けると小さく口を動かす。言葉は言葉としての役割を果たさないが、魔法の発動には十分な力があった。


 日に焼けた大きな手からキラキラと輝く光が漏れ出して、ゆるゆると霧のようにミラの足元へ渦巻き始める。


「これが王家の……」

「王家に伝わる金の魔法……」

「ああ、みて! 光がっ!」


 王家に伝わる愛の魔法は、国守りの勇者に与えられる魔法。戦いに出て行かねばならない国王が、王妃の健康を願い、変わらぬ愛を誓うために生み出されたとされる魔法。その守護を与えられた者は、王妃の地位を約束される魔法でもある。


「ああ、ダメッ!」


 アリシアの叫びは強い風にかき消されていく。


 ゆるゆるとしたきらめきは激しい風と共に舞い上がり渦を巻きながら立ち上がってドームのようにミラの全身を包んだ。


 手の平をミラに向かってかざすペドロは言葉を紡ぐ。


「嫉妬がキミを焦がさぬように。絶望がキミを苛まぬように。孤独がキミを支配せぬように。私の真心をキミに贈ろう。いつも私の側にいて欲しい。キミとなら逆境にあっても乗り越えて生きていける。ミラ、私の心を受け入れて」


「ええ、ええ。ペドロさま。私はアナタを受け入れます」


 歓喜に弾んだミラの声を合図に、光は彼女の中へと流れ込んでいく。渦を巻いてミラの中に吸い込まれていく光。キラキラとした輝きは最後に大きく彼女をきらめかせ、そして消えた。あの光は、これから彼女と共に時間を刻むのだ。


(ああ、なんてこと!)


 本来であれば、結婚式の場で行われる儀式だ。


 それをこの場で、生徒会主催の学園卒業式などという場で行うとは。


(ペドロさまは、本気で男爵令嬢との結婚を望んでらっしゃる)


 アリシアはヘロヘロとその場に座り込んだ。


 見上げる先にいる赤い髪に金の瞳の美丈夫は、もう永遠にアリシアのものにはならない。


 鋼のように鍛えられた逞しい体をアリシアの色である緑と金とで飾っていても、その傍らに立てる日は永遠に来ないのだ。


「これで私の王妃は彼女ひとり」


(そうよ。ミラ男爵令嬢しか、王妃になることができなくなった)


 元婚約者の言葉を聞いても、アリシアにはもう言葉を発する元気すらない。


 事はいともあっさりと覆ってしまったのである。


 アリシアの費やした8年という歳月は、全く意味を持たなくなったのだ。


 母恋しさに泣いた夜も、眠気と戦いながら身につけた教養も、王族に気を使いながら過ごした幼い日々の全てが無に帰した。


 失われた時間は戻ってこない。これまで積み上げてきたものは全て霧散し霧の如く消え去ったのだ。


「嬉しいわ、ペドロさま」


 飛びつかんばかりに傍らに駆けてきた美しい令嬢の手を取り、見つめ合う王太子。


(本来であれば王家の金の魔法は結婚行事の一部。それをこんな所で使ってしまうなんて。前代未聞だわ。国王主催の夜会ですらないのよ。たかだか学園の生徒会主催の卒業式典だというのに……)


 アリシアはぼんやりと壇上を見つめた。今起こったことが現実だと思えない。 


「アリシア、まだいたのか。もう、お前は私の婚約者ではない。未来の王妃ではないのだ。早く親元に帰って、せめて侯爵令嬢らしくなるんだな」


 アリシアは呆然としたままペドロの後姿を見送った。元婚約者の隣には、もちろん男爵令嬢がいる。ふたり仲良く壇上を去るのを、なんとなく見送りながら立ち上がる。立ち上がったものの、アリシアはその場から動けなかった。


 チラチラとアリシアを伺っていた視線もひとつふたつと消えていく。


 パートナーのいる卒業生たちは手を取り合って踊るのに忙しいからだ。


 華やかな音楽が生演奏されるなか、アリシアが立ち尽くす場所を避けるようにクルクルと踊る。


 王太子ペドロとミラ・カリアス男爵令嬢も楽しそうに見事なダンスを披露した。


 音楽はやがて止み。賑わいを極めた会場からは、華やかな騒めきを引きずりながらひとりふたりと帰っていく。


 帰るべき家へ。


 記念すべき学園の卒業式典の日。美しい調べもドレスアップした紳士淑女のざわめきも消えた頃。


 広い広い学園の大広間の真ん中に深紅のドレスにキラキラ光る金のアクセサリーを合わせた金髪碧眼の令嬢は、たったひとりきりで取り残されたのだった。



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