最後のダンスは雨上がりの中で
ダンスは好きですか?
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華やかなダンスホールを彩るような、優雅で、しかしリズミカルな演奏が響き渡る。一曲目はスローワルツ。社交ダンスの中では比較的ゆったりとしたテンポで、体を慣らす意味でも私は好きだった。
一方でパートナーの婚約者様は、その顔面を蒼白とさせているが。
私は手汗で冷え切ったパートナーの手を握り直し、周囲に聞こえないようにそっと、しかしパートナーには確実に聞こえる距離で呟いた。
「ウィリアム様のお望み通りにして差し上げます」
「な……なんの、ことだ?」
今度は体を寄せ、吐息が耳に触れる近さで。
「婚約を、破棄なさりたいのでしょう?」
「……っ!?」
決着を付けるわ、この未練に。
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今でも鮮明に覚えている。私も彼もまだ6歳で、友達だった頃のこと。
「ウィリアムくん!」
「ん?エリゼどうしたの?なんかすごくうれしそうだけど」
「ちかくのお屋敷にだれかが引っ越してきたみたいなの!すっごくかわいい女の子もいっしょに!」
「へー!どんな子だろ、気になるなー」
「でしょ!?」
子供だった私達は、知らない誰かが近くに移り住むだけで嬉しかった。まだ爵位だとか、貴族らしさとか、家同士の関係とかも知らなかった。
「あいさつにいこうよ!女の子に!」
「ぼくらだけでいいのかな?……まあいっか、行こう!」
ただ好奇心だけが、私と彼の原動力だった。
「ほらあそこ!お庭のまんなか!」
「どこどこ?……あっ」
まだ何もない庭の中で、その子はぽつんと立ったまま、引っ越し作業を眺めていた。とても長くて綺麗な金髪と、お人形みたいに白い肌。まだ幼すぎた私には、それを見た男の子がどう思うかなんて、想像できなかったのだ。
「……おねえちゃんとおにいちゃん、だれ?」
その子は声さえも可愛らしかった。
「はじめまして!わたしは、エリザベート・コルネイユ!ご近所さんなの、よろしくね!」
「えりざべーとおねえちゃん?……よろしくおねがいします!わたし、スザンナ・アルチュセールっていいます!おにいちゃんは?」
「え?えーっと……」
それは、彼が初めて見せた動揺。初めて見せた、照れ笑い。顔を真っ赤にさせて、すごく嬉しそうで、でも恥ずかしそうな――
「……ウィリアムくん?」
「……ウィリアム。ウィリアム・バリエ。よろしくね、スザンナちゃん」
――初恋を自覚した、男の子の顔だった。そのことに気付いたのは、それから少し経ってからだったけども。
この出会いこそが、すべての始まり。10年後の悲劇、その幕開けだった。
その日から私とスザンナ、そしてウィリアム様の三人で過ごす日々が始まった。一緒に遊んで、一緒に学んで、一緒にご飯を食べた。スザンナの方が一つ年下だったけど、そんなことを感じさせないくらいスザンナは賢い子だった。
ううん、感じさせないどころではない。
「エリゼお姉ちゃん、初代王妃様がご結婚する前の姓は、バルテルだよ。オフレは剣姫様の方!」
「あれっ!?」
「カヴァンナ王国は波乱の中で建国されたからね。登場人物も多いから間違えるのも仕方ないさ」
あの子は私よりも勉強ができて、積極的で、かつ可憐だった。私が持っていないものを、あの子はすべて兼ね備えているみたいだった。
「スザンナったら、また花をもらったの?」
「いらないって言ってるのに無理矢理渡してくるの。お茶会のお誘いと一緒にね!ほんと迷惑だよ」
「今度のお茶会に彼らも呼ぶかい?」
「やだー!」
人前ではいい子に振る舞うのに、私たちの前でだけちょっと砕けた素顔を見せる。そんなところもすごく魅力的だった。
魅力的過ぎて、何をやっても年下のこの子に敵わないんじゃないかって、そんなことばかり考えるようになった。みっともないくらい、幼いあの子に嫉妬している自分がいた。
そんなスザンナを間近で見続けて、彼が惹かれないはずがなかった。
「スザンナに贈り物をしたいんだけど、何が好きなんだろうな」
聞かれるたびに、何かが軋む。
「知らないけど、少なくとも花ではないわね。まあウィリアム君から渡されれば、花でも喜ぶんじゃない?」
答えるたびに、何処かが痛む。
「……なんでちょっと怒ってるの?」
「別に怒ってないわ」
「怒ってるじゃないか……」
怒っているとしても、何に怒っているのか、私自身にもわからなかった。
「あ、ウィリアム……様」
「やあ、スザンナ。どうしたんだ、様なんて。らしくないな」
「やっぱり、そうかな?えへへ、実はね……」
毎日のように会う中で、ウィリアム様もスザンナへの好意を隠しきれなくなって、スザンナもウィリアム様を意識し始めてたのがわかっていた。
だから二人が恋仲になるのは、当然かと思っていた。私は二人の恋をそっと見守るつもりだった。胸の片隅を刺すような何かは、我慢できるものだと決めつけて。
「エリゼ。バリエ家の当主から、長男とお前を婚約させたいとの申し出があった。幼馴染同士、友人同士の仲だ。家柄も合うし問題なかろう」
「…………え?」
胸を突き刺すものが、一本だけとは限らないというのに。
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「1,2,3...1,2,3...エリゼ、そうじゃない。ターンの軸足がブレているぞ。もう一度」
「はい!」
ウィリアム様と婚約してから、私の生活は文字通り一変した。貴族としての礼節、所作、マナーの勉強。言葉遣いの矯正。
そして寝る時間を削ってでも行われるダンスレッスンの日々。
実際には入学前の準備が始まる時期と被っただけなのだが、私には結婚に向けて準備をしているような気がしてならなかった。
そう、思いたかった。
「1,2,3...ふぅ。かろうじて形になってきたか。随分と掛かったものだ。入学まであと半年。ギリギリ間に合ったな」
「申し訳ありません、父上」
「気にするな、誰にでも向き不向きはある。だが……入学後すぐに舞踏会がある。気を緩めずに励めよ」
「はい、父上」
舞踏会……それは王立学園が主催するダンスパーティー。一年生と上級生、そして王族のごく一部が一緒に参加する、定期的な懇親会だ。
そこは婚約者や恋人が仲を深めたり、独身者が新たなパートナーを見つけるのと同時に、磨き続けたダンスを評価し合う場でもあった。
学園に限った話ではなく、この国は芸術と美を尊ぶ。コルネイユ家も例外ではない。生まれ持った美だけでなく、己の研鑽で培った美、その二つを兼ね備えてこそ、一人前の貴族と見做されるのだ。
「そういえば、アルチュセール家の娘スザンナのことだが」
その家名を聞いて、無意識に体が強張った。
「私にダンスの教師をしてくれないかとの依頼があった」
「どうして父上が?」
「向こうの講師がもう高齢らしくてな。私が娘に直接教えてると聞いて、信頼できる我が家に任せたいと考えたらしい。お前を教えるついでならと、引き受けることにした」
胸が苦しくなった。
初恋相手を奪ってしまった友人と、同じダンスを学ぶことへの申し訳無さ。
そして、簡単に予想できる未来へ馳せる……絶望感に。
「1,2,3...1,2,3...素晴らしい才能だ。エリゼが君ぐらいになるまで、二年は掛かったというのに」
「いえ、エリゼお姉ちゃんにはまだまだ及びません!先生、もっと教えてください!」
「実に勉強熱心な娘だ。エリゼも見習うのだぞ」
「……はい」
彼女が入学するまでの一年半と、私がダンスを習い続けた三年半。
どちらがより美しいダンスを身につけたか、誰が見ても明らかだった。
そしてそれから一年半後……私が入学してからちょうど一年後に、その日はやってきた。
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「我が聖アカラベス学園の新入生諸君。君達はこれから王国の礎となるべく勉学と研鑽の日々を送ることになる。在校生達を見習い――」
ウィリアム様と婚約して五年目。一年前に私が通過した儀式を、今度は上級生の立場として参加していることに、どこか言葉にならない緊張感と誇らしさを感じていた。
だが、厳かな空気など何処吹く風と言わんばかりに、一人の少女が後ろを振り返り、こちらに手を振ってくる。それも満面の笑みで。
「え……?何あの子」
「肝の据わった新入生だな」
「うわ……超かわいい……」
「静かにしなさい!新入生も前を向きなさい!」
ざわめく上級生達をよそに、新入生の少女は言われた通りに前へ向き直った。だが向き直る一瞬、こちらにウインクしていたのを私は見逃さなかった。否、多分誰も見逃さなかったに違いない。
「おい、今の見たか!?俺にウインクしたぞ!」
「バカ言うな。またどやされたいのか」
貴族の子女としてあるまじき軽挙。でもあの子には、それを許されるだけの器量があった。
「――これにて、入学の儀を終了とする!」
教室へ向かう一年生の中で、一際輝きを放つ少女がまたこちらへ手を振っていた。
男子達が色めき立つ中、私は憂鬱だった。あれは上級生に愛想を振りまいているのではない。ただ私と、その横にいる彼に対して、学園で出会えることに喜んでいるのだ。
スザンナ・アルチュセール。私の年下の幼馴染にして、数少ない友人にして、才色兼備の才女。その存在感は、学園に入学することで比較対象を数多く得ることで、さらに比類無きレベルへ達していた。
そして私が……エリザベート・コルネイユがあの子より勝っているものといえば、一年だけ長く生きてきたという、ただそれだけになっていた。
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「相変わらずあの子は派手だね。まさか入学一日目から男子を虜にするとは」
入学の儀を終えて一時間後。テラスでお茶を供にする婚約者は、苦笑いと表現するには柔らかく、優しげな笑みを浮かべている。
「ウィリアム様、笑い事じゃないですよ。いきなりあんな悪目立ちして……」
とは言ったものの、私の顔も苦味よりも諦めの色のほうが濃かっただろう。私達にとって、これは初めての事態ではない。昔からあの子は羨望と尊敬をかき集め、心惹かれた人々に囲まれてきた。その度に私とウィリアム様はトラブルに巻き込まれてきたんだ。
そう、初めてではない。あの子へどうしようもなく、愛しさと憎らしさを感じるのも。そんな自分の気持ちで雁字搦めにならないように、私は頭を振って軽口を叩いた。
「ウィリアム様も虜になりましたか?」
婚約が決まったあの日から、私は敬語を使っている。彼の婚約者らしくあろうとするあまり、口調だけが固くなってしまったかのようだ。
「まさか。虜になっているなら、とっくの昔になっているよ」
肩をすくめるウィリアム様に合わせるように、私も紅茶を一口啜った。冗談めいた言い方だけど、二人をよく知る私からすれば洒落になっていない。
「スザンナが相手ならば、私も認めざるを得ませんね」
今だって、認めてあげたい。二人の結婚を祝福したかった。でも婚約者となった今となっては、それさえもできなくなっている。いっそ二人の仲を引き裂いた女だと、呪ってくれたほうが楽だったかもしれなかった。
「昔は昔、今は今だ。あの子は僕にとって妹みたいなもので、恋愛の対象ではないよ」
本心であってほしいという醜い気持ちと、心にもないことを言わせた自分の軽口に腹が立った。
彼が初めてスザンナを見たときの表情を、私は今でも覚えている。感動したような、まさに初恋を覚えたような、幼いながらも頬を紅潮させていたあの顔を。
何度彼が否定しても、否定するたびにあの表情を思い出してしまう。そんな過去をいつまでも引きずる、自分自身が嫌だった。
「……今日はこのあたりで失礼いたします」
「おや、今日はずいぶん早いね」
「申し訳ありません、来月の舞踏会に向けてダンスの仕上げをしなくてはなりませんので」
「もう始めてるのかい?スザンナは二週間後に始めるらしいよ」
たった二週間で間に合うなんて……いや、考えちゃいけない。この考えは毒にしかならない。
「あの子はダンスが得意ですから」
それだけのことだ。
「ダンスが得意なのは君もだろう?君ほど華麗に踊る令嬢は、他に見たことないよ」
スザンナを除けば、という一言が呑み込まれているように感じた。だがそれが現実なのだから仕方ない。過去にも彼女が私と同じダンスを披露したことがあるが、称賛の度合いが天と地ほどの違いがあった。
それでも……私は構わない。
「得意ではないからこそ、人より多くの練習が必要なんです」
"ダンス"は自分の体を、自分の意志で動かして、言葉よりも雄弁に感情表現できる。美貌に対する評価は避けがたいが、そんな理不尽さを伴うところも好きだった。その他の才能があまりに乏しかった私にとって、ダンスは自分を表現するためのすべてになっていた。
何より踊っている間だけは、余計な考えをしなくて済んだ。
「パートナー様に恥をかかせる訳にはいきませんからね」
「これは耳が痛いな。僕も父上と相談してもっと練習時間を取れるようにしよう。もちろん舞踏会では、僕のパートナーを務めてもらえるよね?」
「それはもちろんです、ウィリアム様」
「よし、その一言でやる気100倍になるというものだ。エリゼ様に恥をかかせないように頑張らないと」
「まあ、ウィリアム様ったら」
ウィリアム様らしいいつもの軽口を聞いて、思わず頬が緩んだ。ただし体幹と足先は、この後の練習を意識して、いささかも緩まない。
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「お嬢様、馬車の用意はできてますが」
「ありがとう。でもいいの、今日は練習しながら帰りたいから」
私に断られてショボンと肩を落としているのは、最近我が家で雇った御者兼護衛の少年だ。名をアルフレッドという。
少年と言っても、年は私とあまり変わらないらしい。元々は財政難で没落した男爵家の長男だったらしいが、詳しいことは知らない。ただ同じ年頃の男子とは思えないほどに小さな背丈が、没落してからの苦労を物語っていた。
あるいは今でこそ古いオーバーオールにブカブカのキャスケットといった装いだが、貴族らしい服装をしたらもう少し男爵子息らしくなるのだろうか。
「もう、そんな顔しないでよ」
「でも昨日も、その前も私は後ろからついていくだけで……これじゃ、私は役立たずです」
「じゃあ手荷物を預けるわ。ステップを練習しながら歩くから、よろしく頼むわね」
「は、はい!お任せください!」
前の身分がどうであれ、それこそ没落していようとも、彼は御者としてしっかり務めてくれている。ならばそれ以上のことを私が知る必要もなかった。
「1,2,3……♪1,2,3……♪」
右、左、ターン、左、右、スピン、回って回って回って……。
「いつも思いますけど、よく目が回りませんね。見てるだけで足がもつれそうです」
「ダンスの基本だもの、練習すれば誰でもできるようになるわ」
その私ができるようになるまでには、父が呆れるほどの期間が必要だったけども。
「そうなんですか?えーっと、1……2……って、うわわっ!?」
「わ!危ない!?」
自身の足を引っ掛けて転びかけた彼の手を握り、強引に引っ張りあげた。背丈の割には意外と重くて、もう少しで共倒れするところだった。ちょっと痛かったかもしれないが、転んで膝を擦りむくよりはマシだろう。
「あっ……ありがとうございます!申し訳ありません!」
「もうっ、次にターンの練習をするときはお屋敷の床でね。あと手荷物も無しで練習するのよ、全然バランスが変わるんだから」
「……お叱りに、なられないのですか?」
「叱る理由がないわよ?そうだわ、上手にステップを踏めるようになったら、私の練習相手になってくれる?貴方がそうしてくれたら、とても心強いわ」
ウィリアム様は義父上のお手伝いで忙しいのか、私と練習する時間が殆どなかった。友達が少ない私にとって、アルフレッドは貴重な練習相手たりえた。
「!!っは、はい!喜んで!お嬢様のためにも、いっぱい練習します!」
「ふふ、楽しみね!さあ、荷物を馬車に置いて、早速基礎のステップを一緒に踏みましょうか。それなら木靴でもできるから」
「はい!」
人に教えるほど上手でもないのに、私も随分と偉くなったものだわ。私自身の練習だってあるというのにね。
「1,2,3、1,2,3……いいわ、上手よ」
うん、意外と筋がいい。初めてのはずなのに、もう初歩のステップで躓かなくなってきている。少なくとも凡庸な私よりは、才能に恵まれているかもしれない。
スザンナの時も――そう考えかけて、私は頭を振った。
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「へえ、あの御者の少年がそんなことを?」
「ええ。すっかりやる気になってて、可愛いですわ。結構筋も良さそうですし」
ウィリアム様との下校前のお茶会は、ここ最近は毎日とはいかなくなっている。半年ほど前から本格的に領主教育が始まったようで、私が知らないうちに帰っていることが増えていた。だからこそアルフレッドにレッスンする時間を確保できているんだけども。
「てことは、あの少年は僕のライバルに当たるわけだね。面白い。是非舞踏会にも招待してほしいな」
「ライバルだなんて。彼はまだダンスを学び始めて数日です。いくら筋がいいと言っても、幼少からずっと踊りを学んできたウィリアム様には遠く及びませんわ」
「そうか。……エリゼ、久しぶりに踊らないか」
「よろしいのですか?この後もお忙しいのでは……」
ウィリアム様からお誘いを受けるなんて、いつぶりだろう。
「ああ。君と踊ると心が落ち着くんだ。ほら、手を取って」
テーブルと椅子を少しずらし、踊るスペースを確保する。学園のテラスは狭くはないが、ダンスホールとは比べものにならない。流石に派手に踊ることはできず、ゆったりと体を揺らすくらいのものだった。
それでもウィリアム様の体温を直に感じられる時間は貴重で、ほんの少しだけ体の芯が火照っていくのを感じた。
だけど、なんだろう。僅かに違和感を感じる。いつも通りの歩調、力加減のはずだけど……?
……あ、理由がわかったかもしれない。
「ウィリアム様。香水を変えましたか?」
匂いだ。ウィリアム様がいつも使っている香水の香りじゃない。
「よく気付いたね。父上に勧められて、東国の香袋を試してみたんだ。ほらこれだよ」
なるほど、確かに良い香りだ。気持ちが落ち着くような、それでいて主張しすぎない上品な香り。香水とはまた違った味わいがある。
「繊細な香りですね。直に嗅いでも嫌味がありません」
「ああ、僕も気に入ってるんだ。これを嗅ぎながら休むと疲れが取れる」
「これは父上にも勧めたいですわ、いつもお疲れですから。差し支えなければ、義父様にどこで買われたか聞いて頂けませんか?」
私も机に置いておこうかしら。きっともっと、ウィリアム様を身近に感じられそうだもの。
「――ああ、聞いておく」
そう夢想する私は、この時の不自然な間に気付けなかった。
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舞踏会まであと三週間。私とアルフレッドはあの日以来、毎日ステップを踏みながら帰っていた。ただ、最近のアルフレッドはステップだけでなく、ターンやスピンの真似事を始めている。
「う、うぇ……目が回る……」
……それは技術や見栄えを無視した、文字通りの高速回転でしかなかったが。あれでは頭の中がバターになってしまいそうだ。
「無理はダメよアルフレッド。それにターンの練習は屋敷でって言ったでしょう?その木靴だと足を痛めるわよ」
「すみません……でも、今のうちにこの回転に慣れておかないと……うっぷ」
まあ確かにターンは舞踊の華で、これを如何に華やかに、そして美しく魅せるかによって評価は大きく変わる。だからまず回転そのものに慣れるというのは、理屈としては正しいんだけども。
「別にそんな急がなくてもいいのよ。上達するまでゆっくり待つわ」
「そうはいきません!舞踏会は三週間後です、一日も早くできるようにならないと、お嬢様の練習相手になれませんから!」
「へ?ぷふっ、あっはははは!」
あんまりにも真剣に、そして鼻息荒く主張するものだから、ついつい笑ってしまった。
「な!?わ、笑うことないでしょう!?」
「ごめんなさい、まさか次の舞踏会に間に合わせようとしてくれてるとは思わなかったのよ。貴方はまだ習い始めて一週間……焦っても変な癖がつくだけだわ。貴方は貴方のペースで、ダンスを楽しんでくれればいいの」
子犬のように純粋な好意が、少しだけくすぐったかった。むうっとむくれる顔を眺めながら、私はこれ見よがしにクルクルと爪先を立てて回ってみせる。流石にちょっと意地悪だったかしら?
「むぅ……別に楽しめなくていいんです。私の目標はお嬢様のお相手になることで、ダンスを楽しむことではありませんから」
「お生憎様、ダンスを楽しめない人とは踊りたくないの。一緒に踊ってて楽しくないでしょうから」
だけど生意気なダンスの先生を演じるのは結構楽しい。いつもよりも少し、肩の力が抜けているのを感じた。
「なるほど……お嬢様はいつもダンスを楽しまれているのですね」
何気ない一言だったのに、それは我慢できないほどの痛みを伴った。
「…………どういう意味?」
「へ?……えっ!?い、いえ、毎日熱心に教えてくださるので……違うのですか?」
確かに、ここ一週間の練習はとても楽しかった。アルフレッドは私のテクニックを次々と吸収していくし、私もただ純粋にダンスのことだけを考えていた。どう教えれば伝わるだろうかと、彼のために考える時間も楽しかった。
だけどウィリアム様とダンスしていた時、あるいは一人で練習をしていた時、私は心から楽しめていたのだろうか。前回の懇親会でも、今日のようにダンスに集中して打ち込めていただろうか。
何よりも、ウィリアム様自身はどうだったか。表情は、どうだった。何故、今になって気になるの。
私の脳裏に、あの日の香りが思い出される。しかしその香りは、何故か私に落ち着きをもたらしてくれなかった。
「エリゼお姉ちゃん!一緒に帰りましょ!」
そんな私の暗澹とした思考は、可憐な声によって全て吹き飛ばされた。
「スザンナ……?」
「やっと一緒に帰れますね!入学してからはずっと下校時間が合わなくてヤキモキしてましたわ!」
暗くなっていた私とは対象的に、キラキラと全身から光を放っているかのようだ。事実、私がステップを踏んでいた時よりも、そしてアルフレッドがクルクルと回っていた時よりも、周囲の注目を集めている。
「学年が違うんだもの、仕方ないわ。どう、学園は楽しい?」
「はい!皆さんすごく親切ですし、エリゼお姉ちゃんと同じ学園で勉強をしてると思うと、すごく励みになります!」
明るくて、眩しくて、どこを見ても欠点のない少女が、混じりっ気のない好意を寄せてくる。スザンナは私を心から慕っている。昔からそうだった。どうしてこの子は私を友人に選んでくれたのだろう。私よりも性格のいい子は、他にもいっぱいいるのに。
「……あれ、その子は誰ですか?どうして俯いているの?」
アルフレッドはジッと黙したまま、キャスケットを深々と被り直していた。身分違いの令嬢に対して、平民は誰かに紹介されるまでは声を掛けることができない。それを心得ているあたり、やはり元貴族なのだ。
「最近雇った御者なのよ。ちょっと人見知りする子だけど、とてもいい子よ。ほら、ご挨拶なさい」
「……アルフレッドです。よろしくお願いします」
「ふーん?よろしくね!ねえアル君、こっちを向いてよ」
スザンナは平民が相手でも差別意識を持たない。この気安さと大胆さは、私には持ちえないものだ。私って結構、人見知りする方だから。
それにしても、出会って早々アル君って……私でさえまだ渾名で呼んでないというのに。
「わあ、やっぱり見間違いじゃなかったわ!とてもきれいな空色!すごく素敵だわ!」
「……どうも」
アルフレッドはあくまでも視線を合わせず、横目に逸らしている。可憐な彼女がいきなり距離を詰めてきたので、接し方がわからないのだろうか。
ならここは御者の仕事に専念させてあげるのが、主人の務めだ。
「……スザンナ、そろそろ馬車に乗りましょうか」
流石にスザンナとステップしながら帰る訳にはいかない。この子はあまりにも目立ちすぎる。
「そうですね!アル君、家までよろしくね!」
「はい……」
「もう、そんなに緊張しないでもいいのに!あ、それでねエリゼお姉ちゃん!私、今日また男子から――」
それにしてもスザンナの言葉じゃないが、確かにアルフレッドみたいな反応は、ちょっと珍しい。大抵はスザンナに見つめられれば、頬を赤らめて恋に落ちるはずなんだけどな。それともそれを悟らせないように必死なのか。
「もう、エリゼお姉ちゃんまで上の空じゃないですか!どうしたんですか?」
「え?ああ、なんでもないわ。それにしても貴女は本当にモテるわね――」
もしもアルフレッドが例外なんだとしたら、ちょっとだけ面白い。スザンナにも落とせない子がいるってことだもの。……なんてね。そんなふうに考えちゃうから、私は友達が少ないんだろうな。
「エリゼお姉ちゃん」
「なに?改まって」
「私、ちゃんと幸せになるから!お姉ちゃんも頑張ってね!」
「……そうね、頑張るわ」
「へへっ」
はにかむ様子もまた愛らしい。この子に魅了されない男の子を探す方が難しいだろう。
「…………っ」
そんな数少ない男子かもしれない彼の背中は、何故かいつもより少し小さく見えた。
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そして日々は瞬く間に過ぎて、舞踏会まであと三日に迫った。今、私達は学園の裏手で、踊りの練習をしている。いつも通りに帰り道と屋敷で練習すればいいのに、アルがどうしても今すぐ一緒に踊りたいとねだったからだ。
ダンスを始めて一か月足らずにして、彼もなんだかんだ言いながらも踊りの楽しさを覚えたようだった。
そして今まさに、私の練習相手としてペアを組めている。予想以上の上達ぶりだった。恐らく御者としての仕事以外の時間を、全てダンスの練習に使っているのだろう。彼の成長からは天性のセンスより、私と似た地道な努力の積み重ねが感じられた。
これなら今度の舞踊会にも、ぎりぎり参加できるかもしれない。ただ参加自体は私の紹介で可能だとしても、婚約者であるウィリアム様の手前、晴れの舞台で彼と一緒に踊るのは難しいだろう。それがちょっと残念だ。
家の没落から苦労を重ねてきたのだろう彼の手は、小さくて柔らかいのに肉刺が多く、骨が細いのに皮の厚さのせいで少し硬かった。
「なんだか悔しいな」
「何がです?」
「私がそれくらい踊れるようになるまでに、三年は掛かったのよ?三週間で追いつかれるなんて思わなかったわ」
1,2,3.1,2,3.うん、中々いい体運びだ。すごく踊りやすいし、踊ってて気持ちがいい。彼が私のことを考えてくれているのがわかる。
「先生の教え方がよろしいからですよ」
「あら、お上手だわ。お世辞の先生もいるのかしら?」
「はははっ」
ああ、それにしても本当に綺麗な瞳だわ。まるで秋空がそのまま詰まっているかのよう。スザンナのセリフじゃないけど、私もこの子の目は好きだな。
「あれ、お嬢様。なんだか雲行きが怪しくないですか?」
「本当だわ……どうも荒れそうね?なら今日は馬車に乗ってさっさと帰りましょう。御者としての本懐を果たしなさい」
「承知しました!」
「ふふっ!よし、急ぐわよ!」
「えっ!?ま、待ってくださいよー!」
はしたなくもスカートのまま走り出すと、彼も負けずと私に並んで走り出した。楽しい。今、すごく楽しい。入学してからこんなにも楽しいのは、初めてのことじゃないだろうか。私は足取りも軽やかに、少し浮ついた気持ちで、何気無く一年生の教室を横目にした。
そこではスザンナと、もう一人の男子――
「……えっ」
――ウィリアム様が、ぴったりと体を抱き寄せて接吻を交わしていた。熱く、深く、お互いを確かめ合うように。
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土砂降りの雨音に、カタカタと馬車が揺れる音が零れ落ちる。朱かった秋空は黒く染まり、私とアルに容赦なく冷たい雨風を浴びせてきた。
ヒントはいくらでもあった。ウィリアム様から感じた違和感。そしてあの日、スザンナと一緒に帰った時に感じた仄かな、香水とは違う香り。そして、幸せになるというあの子の言葉。そんな全てを吹き飛ばしてしまうくらい、スザンナが眩しすぎたから気付けなかったのだろうか。
いや、違う。
「…………アル」
「……はい、お嬢様」
「貴方は、気付いてたのね?」
「…………っ、はい……申し訳ありません」
私自身、気付くことを無意識に避けていただけだ。
あの日、アルの表情が暗かったのは、スザンナからウィリアム様と同じ香りがしたからだったんだ。正確には、ウィリアム様と踊ったあの日に私から香ったものと、スザンナから香るものが同じだったから。
「どうして教えてくれなかったの?」
「……そ、それは」
「いえ、ごめんなさい……言えるわけ、無いわよね」
そう、言えるわけがない。同じ香りをさせているという理由だけで、お嬢様の婚約者様が、別の女と親密になっているかも知れないなどと、どうして言えよう。
「ほんと、馬鹿みたい。私は、何を期待していたのかしら」
「お嬢様……」
「あの二人は最初から相思相愛だったのよ。二人が出会った、子供の頃から。二人にとって邪魔だったのは、後から婚約者になった私の方。私が婚約者でなければ、全部丸く収まっていたんだわ。私が、婚約者に、なったからっ……!」
涙が雨と混ざり合って水溜まりを作っていく。どうしようもなく、流れ落ちていく。
何が正解だったのか。何を間違えたのか。最初から、私なんかいない方が良かったのだろうか。
「……1,2,3」
もはや無意味なステップ、無意味なターンだ。懇親会のための練習も、パートナーがいなくては意味が無い。
雨粒が跳ねる。私のステップに弾かれて、嗤いながら踊るかのように。
「1,2,3……ふ、ふふ……」
血の滲むような努力によって作り上げられた体幹は、こんな濡れた地面でステップターンをしても全く揺るがない。何度回転しても、何十回と踊っても、目の前が暗くなっていても、失敗を許してくれなかった。
「1,2,3.1,2,3.あはっ、あははは!」
馬鹿らしい。本当に、馬鹿らしかった。このまま踊り狂って死んでしまいたかった。いつかの童話で、呪われた靴を履いた少女が両足を切られるまで踊っていた話を思い出す。私の足も、このまま呪われてしまえばいいのに。
「……ご一緒致します」
泣き嗤いながら踊る私の手を、小さな手が掴み取った。
そのパートナーのダンスはまだまだ未熟で、努力こそ感じられるけど荒削りだ。
だけど、踊っていて気持ちのいい、素敵なリズムで踊ってくれた。
ぐちゃぐちゃの私に合わせて、私のことだけを考えて踊ってくれていた。
まだ拙くても、まだまだ上達の途中でも。
ただ優しく、ただ私のために、踊ってくれていた。
狂いかけの激情が、少しずつだけど、悲しみを正しく象っていく。小さな手の柔らかさが、涙の冷たさに耐えるだけの温もりを与えてくれた。
「アル……アル……!わ、私……私、あの人のこと……っ!」
「いいんです、お嬢様。大丈夫です。今は踊りましょう。いつまでも、どこまでも、お付き合い致しますから」
「……うん……うん!」
その日は疲れて回れなくなるまで、ずっと二人で踊り続けた。無駄なステップ、無駄なターン、無駄なスピンと知りながら。曲もない中でただ黙々と、ただ泣きながら。
ただ笑いながら。
「……アル」
「はい、お嬢様」
「舞踏会に、一緒に参加して貰えないかしら。貴方が居てくれれば、とても心強いから」
「……申し訳ありません。その日は仕事があるのです」
「そう……それなら仕方ないわ」
「お嬢様」
「なに?」
「私はお嬢様の味方です。それだけは……信じてください」
「変なことを言うわね。でも、ありがとう。もちろん信じているわ。舞踏会が終わったら、二人で踊りましょうね」
「……はいっ!」
ウィリアム様……スザンナ……。
私達、きっと元には戻れないわね。
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舞踏会当日。ある意味で晴れやかな気持ちで、私はダンスホールに立っていた。ダンスホールには予定通り、全学年の生徒達と、年頃の近い王族が参加している。案の定、王族の周りには人集りができていた。
テーブルの陰で軽く足首を回し、こっそりと手首を慣らす。うん、いい感じだ。あの日よりも体が軽く感じるのは肩の重荷を下ろしたからか、それとも下ろすべき物を失くしたからか。
私の横に立っているべき婚約者は、随分前から席を外したままだ。どこかへ挨拶に向かうと行ったきり戻ってこない。
あれだけ私に睦言を囁いていながら、当日はこの扱いだ。露骨すぎて笑えてくる。だけど、あれを目撃していなければ、それでも気付けなかったかもしれない。
彼は私のことを、最初から婚約者として認めてなかったのだろうという、現実に。
「遅くなりましたー!」
開始の時間よりだいぶ遅れて到着したスザンナが、時間を惜しむようにダンスホールの中を駆けていく。並のご令嬢ならはしたないと思われる行為も、天然仕立ての可愛らしさと美しい髪と肌の輝きによって、まるで天使が飛び回っているかのような錯覚を覚えさせた。
「ハリス・カヴァンナ王子!ご機嫌麗しゅうございます!」
ハリス第三王子?珍しいわね。舞踏会に参加されるのは初めてじゃないかしら。ダンスを好まれないという噂もあるほどだし。
「おや、君は前に一度見かけたな。たしか、スザンナ・アルチュセール嬢?」
「はい!覚えてていただけて光栄です!王子、何か召し上がりましたか?ずっと挨拶ばかりでお疲れでしょう、取ってきますよ!」
「それなら給仕を呼ぼうか。少し喉が渇いたな――」
広くも綺羅びやかなダンスホールの中は、若々しい活気に満ち溢れていた。その中を彩るのは、思い思いの衣装やスーツに身を包む学生たち。しかしこの場を今支配しているのは、間違いなくスザンナと王子、その周辺だった。
「かわいいだけでなくて、気配りもできれば、小一時間の遅刻なんてハンデにもならないのね。本当、敵わないな」
せめて私にも何か一つ備わっていれば、こんな諦めにも似た劣等感を抱かずに済んだのだろうか。
「すまない、遅くなった」
彼を見て気持ち悪いと感じることも、無かったのだろうか。
「長いお手洗いでしたね」
「ダンスの時間には間に合ったのだ、大目に見て欲しいな。……それに今日は、大事な話があるんだ。必ずダンスの前にしなくてはならないと思っていた」
その一言に失望した私は、今度こそ溜息を我慢できなかった。
「ダンスの前にですか?いえ、違いますわウィリアム様。それは間違っています」
「どういう意味だ……?」
「せめて三日前に済ませておくべきだったと、そう言っているのです」
その一言で彼は察したのか、一気に顔色が悪くなった。でももう、そんなことは関係無い。幼馴染だからって、いつも都合よく動かせると思わないことね。
「二人共、どうしたの?」
私達の様子がおかしいことに気付いた愛すべき幼馴染が、グラスを片手にやってきた。今や私の恋敵……とすら言えないか。もう私は、恋をしていないのだから。
「スザンナ。パートナーは決まってるの?」
「え?……ううん、約束してる人はいないよ。誘ってくれた人の何人かと踊ろうかなって――」
「なら二曲目は私と踊りなさい」
「お姉ちゃん……?」
「いいわね?」
有無を言わせない私の口調は、今までにないくらい棘があったに違いない。スザンナは顔を少し青くして、ただ頷いていた。
「さあ、演奏が始まりましたわ。踊りながら話しましょう」
「そんな、マナー違反だぞ……!王族が見てる前でそんな――」
「聞こえなければ問題ありません。他の組もそうしてますわ」
今日のダンスは五曲。一曲ごとに数分のインターバルを置いて、予め約束していたパートナーを交換するのがセオリーだ。今回はそのセオリーを敢えて破らせてもらう。
「ウィリアム様、御手を」
「……っ」
テラスで踊った時と同じく、ウィリアム様が片手を腰に添えて体を寄せる。優雅で、しかしリズミカルな演奏が始まった。一曲目はスローワルツ。私が好きな曲調だ。
参加者たちが一斉に踊り始める。私達も流れに合わせて踊るが、肝心なパートナー様は顔面を蒼白とさせたまま、動きがぎこちない。練習と仕上げを怠ったのかと疑いたくなる酷さだ。これではまともに踊ることなんてできやしない。
私は手汗で冷え切ったパートナーの手を握り直し、周囲に聞こえないようにそっと、しかしパートナーには確実に聞こえる距離で呟いた。
「ウィリアム様のお望み通りにして差し上げます」
「な……なんの、ことだ?」
今度は体を寄せ、吐息が耳に触れる近さで。
「婚約を、破棄なさりたいのでしょう?」
「……っ!!」
未練を歯で断ち切るようにささやいた。
「私はもう知っていますわ。婚約が決まる前から、貴方達は相思相愛でしたものね」
まただ、スピンターンの出足が遅過ぎる。無理して曲調に合わせようとするあまり、右足と左足を間違えそうになっているらしい。
「あっ……!す、すまない……」
「転びますわよ?」
動揺し過ぎだ。取り繕うように足運びを急いでいるが、私が相手で無ければ確実に転倒して恥を晒していただろう。
いや、既に恥は晒しているかな。私達の醜態に気付いた何名かが、口元を隠していたから。
「……どこまで知っているんだ。いつからだ」
「おかしな質問ですわね。まるでずっと前から疚しいことをしてきたかのよう」
「ずっと見ていたのか……!?」
「接吻を?それともその後のこと?」
羞恥のためか、婚約者様の顔が真っ赤に染まった。教室で何があったのかしらね。
「ご安心を。目撃したのは三日前の接吻だけ……その後は居た堪れずに逃げました。雨が降っていて幸運でしたわ。頭を冷やすには丁度良かったですから」
「……すまない、君の言うとおりだ。僕はあの子を心から愛している。君という婚約者がいながら、不埒だとは思っていたが……」
「本当に不埒ですわね。……スザンナの気持ちはどうなんですか」
「僕の告白を喜んでくれている。僕と彼女は、もう離れられない」
「そう……ですか。ならば、私が入る余地なんてありませんわね」
「……君との婚約を解消させてくれ。僕の有責で構わないから」
そう……正直に認めたなら、もう言う事はない。呪詛の言葉ならたっぷり何十何百と用意してきたのだが、それももうどうでもよくなった。最早この浮気者に固執する理由も、気持ちもない。ここでダンスの手と一緒に、彼らを手放して別れるのも悪くないように思えた。
……そのはずだったのだが。
「エリゼ?」
香りの時とは比較にならない、強烈な違和感を覚えた。
嘘は吐いてないが、肝心な情報を明かしていないような、気持ち悪さ。彼に対する嫌悪感で忘れそうになっている何かが。
それは、男子と少し固い表情で踊るスザンナを横目にした時に、ひらめきのように脳裏を翔けた。
「あの子に何を話したの?」
「え?」
自分が何を言っているか、自分自身わからなかった。それに続くかのように、あるいは責め立てるように、スザンナの言葉が反芻される。
『私、ちゃんと幸せになるから、お姉ちゃんも頑張ってね!』
教室での接吻を見た後、あれは私に対する皮肉かと思っていた。でも入学後も私を慕っていた姿と、皮肉を嗜む姿はあまりにかけ離れている。
優越感を満たすために、人を煽るような悪辣さをあの子は持っていない。それはあの子と十年一緒にいたからよくわかる。
『お姉ちゃんも頑張って』。その言葉に裏も悪意もなく、ただ私を祝福しているものだとしたら?考えられることは……一つしかない。
ぎょっとして思わず彼の目を凝視すると、ウィリアムの顔が強張った。
まさか……まさか、この男は!?
「……あっ」
ちょうどその時、演奏が終わった。目を瞑ってても踊れる私は問題なくフィニッシュを決めたが、彼は中途半端な姿勢のまま固まっていた。
クスクスと、私達を嗤う声がダンスホールのどこかから漏れ聞こえてくる。青くなっていた彼の顔が、再び羞恥によって真っ赤に染まった。
……真っ赤になりたいのは私の方だ。
「次の曲が始まりますわ。ありがとうございました」
気持ち悪い……!
「待ってくれ!」
私は彼に背を向けて、次のパートナーへと歩み寄ろうとした。が、後ろの男に肩をガッシリと掴まれ、身動きが取れない。
「離してください。次のパートナーが待ってます」
「パートナーは僕だろう!?婚約者以外と踊ろうとするんじゃない!」
殊更に大きな声で叫んだのは、私の方が非常識者であるかのように演出するためだろう。先程まで婚約破棄を求めていたというのに勝手なことだ。
その一言が何を招くかすら理解していない。それだけ必死なのだろうが。
一体どうしたらこの人を振り解けるだろうか。いっそのこと暴行魔だと騒ごうか。そこまで考えたところで、私を縛る手の上に、もう一つ手が重なった。
「誰だ!これは僕と彼女の問……題……!?」
その男性はウィリアム様よりも頭一つ小さかったが、有無を言わせぬ迫力を有していた。持って生まれた高貴な血と、まだ若くとも王族としての自覚に溢れた人物なんて、この場には一人しか存在しない。
「ハ、ハリス殿下!?」
私を掴んでいた手から力が抜け、ぷるぷると震え始めた。権力の中枢にいる人間は、人を動かすのに腕力を必要としない。
「君の問題が何であれ、ここで騒ぐと周りが迷惑する。ご退場願えるかな?」
「そ、それは、あの」
「今すぐ私と君の問題にしても良いのだぞ。ウィリアム・バリエ君」
最後の一言がトドメとなった。
彼は青白くなった顔のまま、ダンスホールから走り去っていく。なんとも情けないが、ある意味で正解だ。確かにこれ以上この場に留まることはできない。
「殿下、御手を煩わせてしまい、大変申し訳ありません」
「良いよ。それよりもうすぐ二曲目が始まるから、急ぎなさい」
それだけ言うと、彼はダンスホールの端へと下がっていった。一曲目でも踊っていなかったし、ダンスが得意ではないという噂は本当なのかもしれない。
とにかく、これで邪魔者はいなくなったわ。
「さあスザンナ、頼むわね」
「……はい!ハリス王子、ありがとうございました!」
だがウィリアムの絶叫から、もう全てを察してしまったのだろう。スザンナの表情は暗く、その目には薄らと涙が浮かんでいた。
彼女とは今日、別れのダンスをするつもりだった。
本心を隠して、最後に彼との門出を祝うつもりだった。
しかしもう、それは叶わない。だったら――
「スザンナ」
「……はいっ」
「楽しみましょうね」
「……はい!」
……ごめんなさい、スザンナ。私は、貴方の恋心を粉々に打ち砕いてしまったのかもしれない。何も言わず、何も気付かないまま、黙って貴方の前から消えたほうが、貴方にとっては幸せだったかもしれないわ。
だけど安心なさい。一人で泣かせたりはしないわ。アルが私にしたように、私も貴方の手を握ってあげる。
ちゃんと、泣かせてあげるからね、スザンナ。
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二曲目はポルカ。スローワルツよりも軽快かつ素朴な印象を与え、より大衆的な曲目で平民にも好まれている。貴族が集まる舞踏会ではやや珍しい曲目だが、踊りが苦手でもノリと雰囲気で楽しめるこのダンスは、参加の敷居を下げる意味でも重要だった。
スザンナの動きは、やはりというべきか完璧だった。彼女に合わせて踊っているだけで、私自身まで洗練されていくかのような錯覚を覚える。
恐らく、見ている方もそうなのだろう。一曲目で落胆、あるいは嘲笑していたギャラリーも、今度は逆に感嘆したような笑顔と歓声を上げていた。
「楽しいですね、エリゼお姉ちゃん」
「ほんと楽しいわ。貴方と踊っててこんなに楽しいのは初めてよ」
「ええー、それはなんか傷付きますよ」
「いえ、本当よ。私、貴方に対してずっと劣等感を覚えていたの。勉強も、ダンスも、人付き合いも……何をやっても貴方に勝てなくて、嫉妬すら覚えていたわ」
おしゃべりの声は、曲と歓声で周囲には届かない。半ば二人きりの空間の中で、スザンナの笑顔に少しだけ陰が差した。
「お姉ちゃん……私、そんなつもりじゃ……」
「私も頭ではわかってるの。でも……ごめんなさい、きっと理屈じゃないんだわ。だけど悔しいのと同じくらい、貴方のことが誇らしくもあったの。貴方にはもっともっと飛躍して、幸せを掴んでほしいのよ」
スザンナは、笑顔を浮かべたまま涙を流していた。だけどダンスの動きだけは洗練されたまま、全く揺るがない。
「スザンナ。私の婚約破棄について、彼からどう聞いていたのかしら?」
「……入学してすぐに、お姉ちゃんがもっと高貴な方と再婚約したと聞きました。だけど外聞があるから、卒業まで黙っててほしいと頼まれました」
「私にも、いつもどおり接するように?」
「…………はい。あくまでも婚約が続いているようにと」
やはり、そういうことだったのね。
いくら相思相愛の仲とはいえ、スザンナの性格を考えれば、私との婚約破棄させてまで結ばれたいとは考えない。ウィリアムもそれをわかっていたから、ウィリアム側に落ち度がない形で、私との婚約が解消されたことにしたかった。
より確実にスザンナと結婚するために……自分を悲劇の主人公に見せかけるために、私を使い捨てようとしたのだ、あの男は。
最大の課題は私との婚約解消だったはずだが、それは私の性格を考えれば難しくない。婚約前はスザンナとの恋を応援していたのだから、正直に婚約解消を迫れば、それほど揉めずに解消できたはずだ。
……と、彼はそう目論んでいたのだろう。
彼の誤算は、彼がスザンナをも騙していることに、私が早々に気付いてしまったことだろう。まあ、最終的には――
「……つまり今日まで婚約関係が解消されていなかったことを、彼の叫び声で初めて知ったのね」
――自らの手で、何もかも破壊してしまったのだけれども。
肩をビクリと揺らした彼女の目から、大粒の涙が流れ落ちた。それでも体は勝手に動く。アップテンポな曲調に合わせて、まるで自分の体ではないかのように。
「私は……なんてことをしたんだろう。お姉ちゃんの婚約者様と接吻を……お姉ちゃんを酷く傷つけて……!何が幸せになるよ……!何が、頑張れよ……!わ、私……私、最低だっ……!」
スザンナの手が、足が、後悔で静かに震えている。私はその手をぐっと掴んで、彼女の腰を引き寄せた。
「いいのよ」
「お、お姉ちゃ……!」
「今は楽しく踊りましょう。ちゃんと、後でいっぱい、貴方と一緒に泣いてあげる」
きっと私にできることは、それくらいしかないから。
「ありがとう……エリゼお姉ちゃん……!ごめん……ごめんなさいっ……!」
観衆たちは私達の踊りに目を奪われるだけで、二人の間で何があったかなんてわからない。私達のフィニッシュムーブに感動した彼らは、万雷の拍手と共に讃えてくれた。
その拍手の中に、妹の嗚咽が混じっていることも知らぬまま。
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「……っ!」
「スザンナ!?」
拍手が収まると同時に、スザンナは出口に向かって走り去っていった。すぐにでも追いかけないといけない。でも、追いついた先でどんな言葉を掛ければいいのかわからない。
その迷いで一瞬だけ動きを止めてしまった私に、一人分の拍手が向けられた。
「素晴らしいダンスでした。流石はコルネイユ伯のご息女です」
ハリス殿下は満足そうに、しかし油断ならない笑みを浮かべている。なんてことだ……王族が相手では、無視して走り去るわけにはいかない。
「……ご存知だったのですね。自己紹介が遅れて申し訳ありませんでした」
「いいえ、私の方こそ。どうでしょう、三曲目は私と踊りませんか?」
周囲が驚きと共にどよめいた。少なくとも公式の場でハリス王子が誰かと踊るのも、ダンスを誘うのも、これが初めてのはずだった。
どうしよう……スザンナのことも気になるが、ここで断るのは不敬に当たる。私が嫌われるだけならいいが、家にも迷惑が……。
そんな考えを知ってか知らずか、殿下は返事を待たずに私の手を取ってしまった。印象よりも手が小さく感じるのは、やはり先ほどまでの迫力が頭に焼き付いているからか。
慌てた奏者たちが楽器を構え直し、参加者達も我先にと配置につく。ハリス王子と同じ舞台で踊る機会を逃すまいと、限りあるスペースを奪い合っていた。
演奏が始まる直前、まだざわざわと周りが騒々しい中、私の耳元に殿下が口を寄せた。
「……あれは彼女なりに決着を付けに行ったのだと思います。心配はいりません」
「え……?」
「貴方にも、頭を冷やす時間が必要でしょう。到着が遅れたのは私のせいにして、踊りながら頭を整理なさい」
あまりにも優しく慈愛に満ちた言葉に、感激するよりも困惑が上回った。どうして初めて会った私に対して、こうも親身になってくれるのだろう。王族として育つと、かくも人としての器を大きくすることができるのだろうか。
演奏が始まる。三曲目はタンゴ。二曲目がかなりスピーディーだったので、中庸なテンポで演奏を始めるらしいが、スタッカートを多用する曲なので序盤からかなりキレがある。センスと技術だけでなく、基礎体力も求められる曲目だ。
このダンスをより情熱的に表現するためには、演奏者の実力はもちろんのこと、お互いの気持ちを高め合う熱量が重要になる。動きの巧みさだけでなく、目線の動きさえも高く評価されるこの曲目は、ある意味で今日一番難易度の高いダンスかもしれなかった。
……それにしてもハリス殿下の動き、思ったよりも悪くないわ。足運びが他の生徒よりも鋭いのは、恐らく剣術の稽古などを通じて下肢が鍛えられているからだろう。私と背丈はそれほど変わらないのに、踊っている時の表情も相まってより大きな存在に感じられた。
「スザンナ嬢から聞きました。彼女はエリザベート嬢、貴方に憧れていたみたいですよ」
「……御冗談を。あの子が私に憧れる要素なんて無いでしょうに」
「いいえ、冗談ではありません。貴方と出会う前の彼女は、地元の子供たちからいじめられていたようなのです」
なっ……あの子が!?
「それは本当ですか……!?」
「貴方は彼女を完璧と評価していますが、それはあくまで貴方の角度から見た彼女でしかないということです」
動揺が大きすぎて、私の動きの方がブレてしまいそうだった。彼はそれを見越していたのか、それとも王城での練習で慣れているのか、腰に添えられた手を巧みに操り、私が目指すべき動きに導いてくれていた。傍目からはミス無く踊っているように見えることだろう。
「確かに生まれ持った美貌と愛嬌、そして学力は見事なものです。しかし私から見たスザンナ嬢は、とても完璧には見えません。時間にルーズですし、場をわきまえずに感情を優先することも多い。それに人との距離感をよく考えない部分がある。それはマナーを重視する貴族や、彼女ほど様々なものを生まれ持っていない人間からすれば、面白くないでしょうね」
「そんなはずありません……あの子は私と違って勉強もできますし、気遣いもできて、性格も良く優しい子です。誰だって、皆あの子の虜に――」
「その皆の中に、貴方の視界の外にいる人々は入っていますか?」
曲のテンポが速まっていく。殿下の周囲では緊張のためか、小さなミスを繰り返している人が多いようだ。
殿下の方も細かいところで、ミスに近い緩みが見える。それでもパートナーを引き立たせるために全力を注ぐ彼の踊り方は、あの献身的な御者を思い出させた。
「万人から愛される人間なんていませんよ。光が強いほど影が深く伸びるように、スザンナ嬢を好く人がいるなら、同じ量だけ嫌う人もいて当然です。貴方だって、スザンナ嬢には複雑な思いを抱いていたはずでしょう?」
それは……その通りだわ。
「……そのスザンナ嬢が、以前話してくれたことがあります。彼女が貴方を慕うのは、生まれて初めて純粋な笑顔を向けてくれた女の子が、貴方だったからだそうです」
「……それだけのことで?」
「ええ、それだけのことです。でも、彼女にとってはそれで十分だった。考えてもみてください。当時まだ4,5歳だった女の子が、周囲の子供から妬み嫉みを受けて虐められていたんですよ。そして引っ越した先の女の子に歓迎されて、すぐ友達になってくれて……代え難い姉代わりを得た彼女がどれほど嬉しくて、心強かったことでしょうか」
そんな……スザンナ……!
「私、すぐにスザンナを追いかけないと!」
「落ち着いて。もう少しで曲が終わります。今ダンスを中断すれば、コルネイユ家の評価が落ちます」
「くっ……!で、でも!」
今、スザンナは一人で悲しみに暮れているはずだ。殿下の言うことが本当なら、きっと心細くて仕方ないはず!早く、急いで向かわないと!!
「いいんです、お嬢様。大丈夫です。今はただ踊りましょう」
この時になって、私は初めてまともに彼の瞳を見た。
そしてあまりの衝撃に頭が真っ白になる。
秋空を思わせる、澄んだ空色の瞳。
私はこの瞳を知っている。見間違うはずがなかった。
この場にいる誰よりも一緒に、練習を積み重ねてきたのだから。
「ど……どうして、貴方が……!?」
「さあ、間もなく曲が終わります。終わったらすぐに、彼女を追いかけてあげてください。きっとあなたの助けが必要でしょうから」
「アル!?」
「全て終わったら、貴方の父君と共にご説明します」
彼が言い切ると同時に曲が終わる。二曲目よりもさらに激しい拍手が、ダンスの出来とは無関係に降り注ぐ。彼は周囲に一礼すると、仰々しく出口に指を向けた。
「さあ、お行きなさい!皆さん、彼女のために道を空けてください!」
「っ!!ごめん、ありがとう!!」
スカートがひらめくのも無視して、出口に向けて走り出した。何が起こっているのかわからない観衆たちは、ただただ困惑したまま道を開き、私を見送っている。
「お嬢様とのダンス、とても楽しかったです!舞踏会が終わったら、また踊りましょう!」
ダンスホールを出る直前に聞こえた声は、私がよく知る少年のものだった。
--------
スザンナがどこへ行ったかわからない私は、手始めに一番手前にある休憩室のドアを荒々しく開けた。整頓をしていた侍女たちが驚くのを無視して、次々と部屋のドアを開けていく。しかし、どの部屋にもスザンナの姿は無かった。
ふと窓を見ると、外はどっぷりと暮れていて、水がガラスを叩く音がした。かなりの強風だ……まるであの日のようじゃないか。
「一体どこへ行ったの……!?まさかこの豪雨の中、外に出たんじゃ……!!」
もしも彼女が雨の中、独りで嗤っていたら……あの日の私みたいに絶望して、自分を呪っていたら、大変なことになるんじゃないか。私には隣にアルがいた。でも今の彼女の隣には誰もいないのだ。もしも私なら、そんな孤独には絶対に耐えられない。
「急がないと……!スザンナ!!」
私は王城から外に繋がる門を開けてもらうと、雨の警告も無視してすぐに飛び出した。台風でも来たのかというくらい強い雨風が、私の全身をずぶ濡れにしていく。
そして城下町へ続く道の途中で、パァンという破裂音が響き渡った。
「ス……スザンナ……」
「……っ!」
そこではスザンナに平手打ちを食らったウィリアムが頬を押さえていた。
「ち、違う!誤解なんだ!僕は本当に、君と結婚したい一心で!」
「だからお姉ちゃんを利用して、私を騙したの……?そんな理由で、私にエリゼお姉ちゃんを裏切らせたの!?」
「そ、そんな理由だって!?いや、騙してなんかない!君を愛しているんだ!初めて見た時から、ずっと君に恋をしていたんだ!!嘘じゃない!!本気なんだ!!」
「近寄らないで!!それ以上近付いたら舌を噛み切るわ!!」
明確な拒絶を示したスザンナの目からは、雨ではないものが流れ続けている。
「嘘つき……!嘘つき!!」
「スザンナ……」
「騙したじゃない……!何が高貴な方と再婚約よ……!少しでも貴方との結婚を夢見た私を、呪い殺してやりたいわ……!」
「そんな……いや、しかし、エリゼもきっと、わかってくれる……」
「嘘に嘘を重ねて……そんなのいつかバレるに決まっているじゃない……!結婚した後で、あなたとの子供ができた後で……取り返しがつかなくなってから真実を私が知ったら、どうするつもりだったの!?私とエリゼお姉ちゃんをどこまで苦しめるつもりよ!?」
「真実の愛があれば、どんな障害でも乗り越えられるさ!」
「貴方が愛を語らないで!!」
完全に激昂したらしいスザンナは、自らウィリアムに走り寄ると、胸倉を掴んだ。それは今までの彼女なら絶対に見せなかった蛮行で、あの男がどれだけ彼女に深い傷を与えたか、誰が見ても明らかに理解できるものだった。
「貴方にもッ!!私にもッ!!二度と愛を語る資格なんて無いのよッ!!金輪際私に話しかけないで!!謝っても絶対に貴方を許さないわ!!」
「ス、ザンナ……スザンナ……!?ああ……ああああああ!!!」
泣きながら走り去っていく姿は、十年前の子供時代よりもさらに幼く見えた。
……私がウィリアムの姿を見たのは、これが最後だった。その後の彼は屋敷に引き籠もったきり、二度と外に出ることが無かったからだ。
「…………」
「……お姉ちゃん、ごめんなさい。あんな酷いことして……もう、どう謝ればいいかも、わからないの」
ずぶぬれになったまま笑う彼女の目には、生気が無かった。このまま放っておけば、本当に舌を噛んで死んでしまうのではないか。
「ごめんね、お姉ちゃん。私がここに引っ越してきたばっかりに、皆不幸になっちゃったね。私が……私が、二人の間に入っちゃったから……」
「スザンナっ」
「二人に褒めてもらいたくて……いっぱい勉強、したんだけどな……二人と一緒に踊りたくて、いっぱいダンスも練習したのに……全部、全部だめになっちゃった。ごめんなさい、お姉ちゃん……ごめんなさ――」
「スザンナ!!」
小さくなって震える彼女がこれ以上濡れないように、私自身も濡れていることにも構わず、頭を抱え込むように抱きしめた。アルと踊っていた時に考えてた言葉なんて、全部吹き飛んで真っ白になっている。でも、言葉は私の考えとは無関係に流れ出た。
「そんなこと言わないで!私は貴方と出会えてよかったと思ってるわ!どれだけ貴方に嫉妬しても、悔しくても、羨んでも、貴方と出会えたことを後悔したことは、一度だって無かった!!」
「……でも……でもぉ……!」
「……貴方が引っ越してきた日、私すごく嬉しかったのよ。本当に、嬉しかった。本当の妹ができたみたいだった。今だってそうよ。貴方がどれだけ自分を許せなくても……私だけは、許してあげるから」
「お……お姉ちゃん……!」
「だから今は――」
――全部忘れて、一緒に踊りましょう。
踊り疲れて、泣くことも忘れて、泥の中で眠るまで。
「……私、もう二度と裏切りません」
「貴方が私を裏切ったことなんてないわ」
「エリゼお姉ちゃんが幸せになるまで、絶対に結婚しません」
「早く素敵な人を見つけて、私にもっと嫉妬させて頂戴」
貴方に負けないくらい、私も幸せになるから。
「さあスザンナ、私の手を取って」
「はい……!」
四曲目のダンスは、雨音の中で。リズムも、振り付けも思いのまま。
誰かに見せるためでなく、誰かに認めてもらうためでもなく。
ただ踊りたいままに踊り、ただ泣きたいままに泣き。
お互いの手と手を取って、ぬくもりを分け合うためのダンス。
ちゃんと悲しんで、ちゃんと乗り越えるための――
--------
「それで、どうしてアル……いえ、ハリス殿下が御者として勤めているのですか?というより、何が理由でコルネイユ家で働いているのですか?」
舞踏会から数日後。私は王城の控室で少し不機嫌なまま腕を組み、苦笑いを浮かべたまま頭を搔く父を半目で睨みつけた。ちなみに私の横ではハリス王子……というよりアルフレッドが申し訳なさそうに座っている。
その姿はダンスホールで見たときの威厳は感じられず、初めてのスピンで転びかけたときの半分くらいの大きさに見えた。
「ふーむ……どこから説明したものかな」
「最初からです」
「うっ……わかった、説明するからいつも通りで頼む。怒ったお前は妻を思い出していけない」
私はひとまず腕組みを解いて、紅茶を一口飲んだ。口が渇いたままだと、感情のまま口走ってしまいそうだ。
「事の始まりは、陛下からのご依頼だ。曰く、ハリス第三王子がどうしてもダンスに興味を持ってもらえないから、ダンス講師として名高い私に何とかしてくれと」
「……ずいぶんとふんわりしたご依頼ですね」
「全くだ。ダンスを教えろとも、関心を持たせろでもなく、何とかしろだからな。私も最初は途方に暮れていたのだよ。しかも殿下は、その……ダンスに対する羞恥心というか、曲に合わせて踊ることに対して忌避感が強かったのだ」
あのアルフレッドが?いや待て、疑問点は多いが、掘り下げるのは後だ。
「それがどうして御者に繋がるのですか?」
「そこは私ではなく殿下の希望だから、本人から説明していただこう」
それに私自身まだ理解しきれていないのでなと、父上は肩をすくめた。
半目のまま隣の彼に目を向けると、服装は殿下なのにどう見てもアルフレッドにしか見えない彼は、小さな声で告白を始めた。
「……は、恥ずかしかったんですよ」
「はい?何が?」
「人前で踊るのも……へ、下手なまま踊る練習をするのも恥ずかしくて……」
下手だから練習するんでしょうがという一言を、私はかろうじて呑み込んだ。
「……カヴァンナの血族である以上、ダンスの習得は必修であり義務です。ですが私は、楽しげな曲に合わせて体を動かし、それを人前に晒すことが、どうしても耐え難いほど恥ずかしかった。正直に言いますと、何が楽しいのかさえわかりませんでした」
ダンスを否定されるのは少し気になったけど、私だって最初からダンスを選んでいたわけではない。他にはないと信じた……ううん、そう思い込んだから、消去法でダンスを磨いたに過ぎない。
「そんな私がダンスに興味を持ったのも、お嬢様が楽しそうに練習しながら帰るのを見てからですよ。それほどに楽しいものなのかとね。それがなければ、今ここにいることもなかったはずです」
そんな私が、アルフレッドの告白に異論を差し挟むことなんて、できなかった。
「……話を少し戻していいかしら。陛下が動いたのは、舞踏会の日が近くなってからなのね」
「はい。約一ヶ月間はコルネイユ伯の屋敷でダンスの練習に専念せよと、一方的に言い渡されました。コルネイユ伯は優秀な講師として有名でしたから。しかしいくら屋敷の中での訓練とはいえ、万が一にも練習風景を見られたらと思うと……。そこでダンスを教わる条件として、せめて滞在中は別人に変装させてくれと、私からコルネイユ伯に申し出たんです」
「……ということらしいのだ。理解できたか?私は未だに少々理解しかねるのだが、殿下の頼みとあってはな」
父上はわかったような、わからないような顔で、再び肩をすくめた。これは確かに父上には理解できないだろう。父上はダンスを心から愛しているから。
「練習するならもっと屋敷に居られる執事や従者、あるいは秘書官でも良かったではないですか」
「うむ。私もはじめは秘書役を提案したんだが、万が一にも侍女達に身元を怪しまれないよう、可能な限り庶民的な役がいいと頼み込まれてな。非常に不本意ながら、普段は御者に扮して頂いたという次第だ」
「コルネイユ伯には苦労をかけました。しかし私も御者を望んだ以上、粉骨砕身して御者として務めさせて頂いた次第です。お嬢様と旦那様のお役に立てたでしょうか」
いや、まじめか。完全に没落貴族少年そのものだったわよ。いっそ踊りより演劇を志したほうが向いてるんじゃないの。
「ですから御者はあくまで役であって、職ではありませんぞ、殿下。もしや給金をお望みなのですか?」
「雇用契約を結んでいない以上、それは不当報酬に当たるぞコルネイユ伯」
「あのねアル、統治者の顔か御者の顔か、どっちかにしてもらえないかしら?話しにくくて仕方無いから」
再びしょんぼりした彼は涙目だった。これで第三王子……この国、大丈夫かしら……?
ううん、アルならきっと大丈夫だわ。だってすごく真面目に、一所懸命に、苦手なものと向き合って戦ったのだから。
……だから私も、ちゃんと向き合わないと。
「ねえアル。舞踏会で踊れたのだし、もうアルはうちの御者じゃなくなるのよね……?」
涙目だった彼の目に、別色の涙が加わった気がした。しかし再び上げられた顔は、御者だった頃よりも大人びていて、責任ある男性そのものに見えた。
「……はい。本日この時より、私は御者のアルフレッドではなく、ハリス・カヴァンナ第三王子として責務を果たす日々に戻ります」
「……お別れね?」
「……はい」
「…………とても寂しくなるわ。思えば貴方と一緒に練習をした日々が、今までで一番輝いていた気がする。きっと一生、忘れないから」
「私もです、エリザベート嬢。そしてお忘れ無きように。私はいつでも、貴方の味方ですから」
「ええ、信じてるわ。また、会いましょう。今度は私が、貴方に会いに行くから」
「はい……お嬢様、どうかお元気で……!」
「ああー……いい雰囲気のところ申し訳ありませんが、殿下。貴方はまだ帰れませんよ」
…………はい?
「……うん?どういうことかな、コルネイユ伯」
「どういうことかですって?そうですか、理解できておりませんか。ならば教えて差し上げましょう。さあ、お立ちなさい!」
温和な表情を一変、いや激変させた父は、指先をパチンと鳴らした。するといつから控えていたのか、王国の演奏者達が楽器を手にぞろぞろと入室してくる。あまりの暑苦しさに、我慢できず窓を開けざるを得なかった。
パニック状態の殿下の手を、父上が無理やり掴んで立ち上がらせた。そして演奏に合わせてダンスを……こ、この曲は……舞踏会で私と殿下が踊ったものと同じ!?
「まずは前奏部分!なんなんですか、じっと娘の方ばかり見て!タンゴは全身を使うダンスだとお教えしたはずです!全身にはすなわち全ての部位、眼球も当然含まれます!!足元を見るなと教えましたのに、今度は少女に見惚れるとはどういう了見ですか!!」
「あ、え!?いや、だってあのときは」
…………どこから見ていたのだろう。全く気が付かなかった。給仕にでも化けてたのかしら……?
「次!Aパートで向ける首の角度が浅すぎる!パートナーを常に視界に入れようとしているのが見え見えですぞ!そして腕!もっとパキッと伸ばす!手の握りも甘すぎる!タンゴで重要なのは情熱だとあれほど教えたではありませんか!!熱く、しかしエレガントに、そして力強く握りなさい!」
「は、はい!?」
「次!ここでつま先が伸びていないと、何度言えば覚えるのですか!わざとやっているのではあるまいな!?」
「いや、しかしそれでは不意の襲撃に対応できな――」
「言い訳無用!!否、言い訳にもなっていない!!」
「はへあ!?」
「完璧な舞踊は武芸に通ずるのです!!隙無く踊れないのは怠慢ですぞ!!つまり不意打ちに対応できないのは、単に殿下の練習不足!!技術を体に、骨に、筋肉に染み込ませなさい!!」
うわあ……お父様ったら完全にキレているわ……。普段は温和なんだけど、ダンスのことになると熱くなっちゃうのよね。それも身分差を忘れるくらい。
「お父様」
「なんだ!!今忙しい!!」
「アルはまだしばらく我が家で、御者を続けるということですか?」
アルは少し驚くと、誰が見てもわかるくらい大きな笑みを浮かべた。多分、私もちょっとニヤついていただろうな。
「当然だ!!あんな醜態を晒しておいて、卒業させられるか!!」
「しゅ、醜態……」
……我が父ながら、恐ろしい人だわ。
「醜態と言わずしてなんとしますか!……既に陛下からは無期限かつ無制限の稽古を許されました。どうか御覚悟されたし」
一体どうやって許されたというのだ。国政はどうなる。まさか、陛下でさえ父の迫力に屈したというの?
……どっちにしてもアルにとって、無制限という単語がこれほど恐ろしいと感じたことはないでしょうね。
「お前もだ、エリゼ!!殿下が巣立つまで徹底的に鍛え直すから、そのつもりでいるのだぞ!!」
一番父の身近にいたはずの私がそうなのだから。
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カヴァンナ家がまだ公爵家だった頃、悪政を敷くアンスラン王国を打倒して建国したとされるカヴァンナ王国。かつての過剰な魔法第一主義から、魔力の有無に関わらずに楽しめる"芸術"を是とするようになったこの国は、建国から数百年が経った今も衰退の様子を見せない。
選ばれし才と、選ばれぬ者の研鑽によって支えられ続けてきた我が国は、少なくないすれ違いや裏切りを経験しながら、今も懸命に発展を続けている。
……スローワルツの演奏が広がっていく。私とアル、二人が踊るためだけに。
「そういえば私、舞踏会の四曲目……ううん、五曲目には参加できなかったのよね。これはきっと、あの日踊るはずだった五曲目なんだわ」
「私もそう思います。舞踏会の後で、貴方と二人で踊るという約束。こうして果たせることを嬉しく思いますよ」
「私もよ、アル。これからも仲良くしましょうね。ダンスが苦手なら、何度でも練習に付き合うわ」
「……お嬢様と踊るためなら、いくらでも頑張れます。でも今は――」
「ええ、楽しみましょう。このワルツを」
きっとこれからも、この国は足を止めることなく発展を続けていくことだろう。私のように諦めの悪い人間や、アルのように真面目に物事へ向き合う人間が居る限り。
このダンスとともに、希望を持って生きていけるに違いないわ。
「エリゼーーー!!もっと殿下に体を寄せんか!!殿下もだ、何を今更恥ずかしがっている!!二人共やるからには徹底しろ!!おいトランペット、お前ももっと気合を入れるのだ!!そんなふにゃけた演奏で身が入るかーー!!」
…………無制限の稽古とやらを、無事に生き残ることができればの話だが。
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