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馬車とマダム

 どこまでが海でどこまでが空なのか見分けが付かないほどの暗闇に僅かなガス灯が光る中、船から降りる影があった。船着き場に一歩踏み出した男の手には場違いな樫の木の杖が握られ、上半身から下半身にかけては白く、しかし汚れでくすんだマントに覆われていた。右手の腕には、銀の合金で拵えた魔法を封じる腕輪があった。


 数時間前…


「あんた、魔術師みたいな風貌なのに風の魔術一つも使えないのか。邪魔だから奥に引っ込んでな!」


 正午に出発した王国へと向かう船は、風が予定外に弱かった影響により、到着が大幅に遅れていた。船長が船内で魔術師を探してシオンを見つけたものの、見掛け倒しで魔術を使えないとあって明らかに落胆していた。


 風の魔術は初歩中の初歩にあたる。誰もが成人の儀式を終えその日に友人と風の魔術をかけあうのである。髪の毛がぐしゃぐしゃの状態で家に帰ってくるのがお約束であり、親としても子供が大人になったこと感じ心を痛める通例行事だ。もちろん魔術を禁じられたシオンはそんな経験をすることはなかった。


 さて、ようやく船が王国の船着き場に着いて、シオンが馬車を探し始めた頃にはすでに夜10時を回っていた。


「参ったな。もう馬車はないかもしれん。」


 船着き場を降りた面々と待っていた人々の多くは、抱き合いながら再会を喜んでいた。もう何年も会っていなかったのだろうか。遠くに見える城を頼りにブラブラと歩いていると、ゆっくりと蹄の音が後ろから聞こえてきた。


「お兄さん、訳ありかい?」


 振り返ると、初老の女性とロバ、そして小さな馬車が一塊で動いていた。


「おばさん、助かった。あそこに…遠くの方に明かりが見える城まで乗っていきたいんだが。実は凄く…急いでるんだ。」

「マダムとお言い。いいよいいよ、乗っていきな。」


 少し不安を覚えたが、急いでいるので背に腹は代えられない。シオンは馬車に素早く乗り込んだ。


「行くよ、それい!」


 マダムがロバに鞭を入れると、急激に馬車は加速しシオンは思わず後頭部を座席にぶつけた。小回りの利くロバと小型の馬車は、迷路のような街の小道をジグザクに進んで行く。両脇の金属製手すりをしっかり握りながらも、時折遠心力で外に飛び出しそうになり小さな悲鳴を上げる。王子の誕生日を祝う笛の音も聞こえたような気がしたが、味わう間もなく気付けばあっという間に城門のすぐ手前まで来ていた。


「…本当に助かった、ありがとう。お釣りはいらないよ」


 シオンが小さな金貨をマダムに手渡すと、マダムの顔はパッと明るくなった。ダリア村で鋳造された金貨は純度が高く評判だったのだ。近くで見ると、思ったよりも年を重ねているように見える。70代だろうか。とんだスピード狂のマダムだな…。


「あんた、次はいつ帰るんだい?」

「明日、王子の誕生日会が終わったらね」

「よし!ここで待ってるよ。またおいで」


 さも当然のように話すマダムに焦るシオン。


「いや…さすがに1日待ってもらうのは」

「待ってもらうのは、なんだい?別に私もこの辺で時間は潰せるし、コイツと寝れば寒くないから、心配しなさんなって」

マダムはロバの首元を愛撫して言った。


「ありがとう…感謝するよ。次は安全運転でいいからね」

「楽しんでおいで!ところで王子様の誕生日パーティって、あんた何しに行くんだい?」


 マダムはじろじろとシオンの身なりを見ながら聞いた。


 シオンはにっこりと笑って言った。

「フィアンセに会いに行くんだ。」


 マダムはシオンの煤けた背中が城内の暗闇の中へと溶けていくのを、最後の一片が見えなくなるまで見守っていた。

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