第4話
静かに気絶しているダイスの横で、女の子とカキは海を眺めていました。海では浮いている虫を捕まえている魚を捕まえている鳥を捕まえている猟師が目に入りました。食物連鎖というものはこの世にはあるのです。
「ねぇ、どうして喧嘩しなかったの? 痛い目にあって、書いていたのも消されたのに」
「それはね、あそこで喧嘩してもダメだからですよ。もっと被害が大きくなるからです。あそこで喧嘩したら私たちまで怪我をした可能性があるのです。仮にその場は収まっても、あとで仲間を連れてこられたりしたら厄介です。私とダイスは最悪それでもいいけど、お嬢ちゃんが奴らに目をつけられてどういう目に遭うかわかったものじゃないです。だからあそこは、ダイスだけが被害にあうのが一番被害が少ないのです。」
女の子は理解していないけど、そういうものかなと背伸びして理解したつもりになりました。子供は大人になりたくて背伸びするところがあり、さらに女の子は男の子に比べておませなところがあるので仕方がありません。身勝手な男の子なら
「何言っているのかわからない!」とダダをこねるところも、女の子はおとなしくしていました。
「お嬢ちゃんは喧嘩するのですか?子供は喧嘩するほうがいいけど、ああいう悪い人が相手の時は止めた方がいいですよ」
「ううん。あたしは喧嘩しないの。小さい時から1度も」
「それは珍しいですね。大人しい子なんですね、君は」
「喧嘩するだけ意味ないもん。どうせ何も良くならないもん。どうせ悪い人と喧嘩しても村を荒らされるだけだし」
女の子はあっけらかんと明るい口調でした。カキはその発言に疑問を感じ、暗い表情になりました。発言に一貫性がないように感じたからです。
「それなら、どうして喧嘩しないのかを聞いたのですか?喧嘩をするだけ無駄だと思うのなら、疑問に思わないですよ?」
「だって、村のみんながいつも喧嘩しているもん。それでいっつも喧嘩に負けて、痛い目に遭っているもん。そんなのをずーっと見ていたら、喧嘩しないことを不思議に思うもん」
「村の人は何て言っているのですか?」
「抵抗するのに疲れたって。ホント馬鹿よね、そんなの初めから分かっていたのに」
女の子が無邪気に冷酷なことを言っているのをカキは複雑な表情で見つめていました。子供は正直で冷酷だと言いますが、村の人の努力を無意識に馬鹿にした態度は背筋が凍るような怖さです。カキは朗らかにしようと、女の子が好きそうな会話を始めました。
女の子はその後もカキに数学者の話を聞きました。数学者の中は栄転が決まり結婚も決まっていた幸福絶頂直前に自殺するような変わり者がいる等と聞きました。カキは笑い話のように言いましたが、女の子は笑えばいいのかわからずに苦笑いが精一杯でした。
ダイスは女の子の苦笑いを見て、意外と倫理観があるとも思いました。村人の抵抗を冷徹に切り捨てるような子だから無条件に笑うと思っていたので、女の子の感覚が数学の難問のようにわかりませんでした。それでも頭を抱えながら鉛筆を走らせて解答のヒントを探すように観察しました。
また、女の子は真面目な話をするカキを神妙な面持ちで聞くこともありました。故郷は圧政で人々が苦しんでいるので、追い出されている数学者の末裔たちが戻って国を変えて市井の人々を解放する使命を感じている、とカキは話しました。2人の男もそのうちこの国を出て故郷を救いに行くようですが、数学で何ができるのか女の子は不思議でした。
カキが説明するに、これからは数学が軍事・経済・思想の中心になっていくはずだということです。しかし、女の子には話が難しすぎてわかりませんでした。そもそも、まだルネサンスも産業革命も起きていないこの時代では、数学とそこから派生する物理学など様々な重要案件というものは教養のある大人でもわからないことでした。
カキはダイスに変わって数式を砂浜に書き始めました。女の子はダイスが書いていたのと少し違う気がすると言いました。カキは女の子の注意力を褒めました。
カキが説明するに、カキ自身が今書いているのは幾何学というものであり、三角形や四角形や円といった図形に表すことが出来るものです。一方で今だに気絶し続けているダイスが書いていたのは代数学というものであり、目に見える形に表すことは難しいのでわかりにくいですが重要なものらしいです。互いに専門分野が違うので詳しいところまでわからないから、らしい発言で推量しているとのことらしいです。
ここで補足しておくと、いま現代の数学では代数学・幾何学・解析学の3分野が中心となっています。代数学とは、{X=1}などのことを指します。幾何学とは、{四角形の面積=底辺×高さ}などのことをさします。この2つは古代ギリシャから存在するものです。しかし、解析学だけはできたのは16世紀からであり、この時代には存在しません。ちなみに解析学というものは確率を基本にしてできたものであり、{六面体サイコロを1度ふったときに1の目が出る確率は1/6}といったものをさします。
それに近い内容の説明をカキがしましたが、女の子は退屈になってあくびをしました。カキは申し訳なさそうな顔をして、女の子に数学者の溢れ話を再びしようかと提案しました。しかし、女の子はそろそろ家に帰って家の手伝いをすると言って断りました。
女の子は去って行きました。カキは途中まで送ろうかと提案しましたが、自分は危なくないからダイスの近くにいてあげてと言われました。カキはその言葉のとおりしました。
ダイスは目を覚まし、カキと一緒に近くの村へと向かいました。食料調達や宿を探すためであり、女の子の残した足跡を追っていきました。その足跡自体は道の途中で消えてしましましたが、人の通りが多かったら当然です。
そのまままっすぐ道を進む2人は、誰かを探している複数の人々に出会いました。彼らに話を聞くと、村の女の子が海に散歩に行ったきり帰ってきていないとのことです。ダイスとカキはすぐにそれがさっきまで一緒にいた女の子だと気づきました。
この時代にも人さらいというものは横行していました。鎌倉幕府が弱体化している不安定な時代なので、急増しています。よくある話なので、村人たちはやれやれといった徒労感を隠しきれていませんでした。
村人たちの中に泣き崩れている女性がいました。周りに介抱されており顔は見ませんでしたが、2人はその女性を誘拐された女の子の母親だと推測しました。それらの様子を見た2人は、泣き崩れることもなく徒労感に襲われることもなく、静かに村人たちから姿をくらましました。