事件編《後編》
3
授業に戻った海崎は、2号館の3階の教室でサイレン音を確認していた。あれだけけたたましく鳴らせば、この教室にいる連中は下で何が起こっているのか、知りたくてうずうずしているに違いない。平静を装っているが、できることなら今すぐに教室を飛び出して野次馬になりたいことだろう。
海崎は外の様子をイメージする為、じっと耳を外に傾けていた。2つのサイレンが向こうから近付き、10分ぐらいでそのうち一つが去って行ったのをみると、恐らく柏葉が救急車に運ばれたのだろう。そして、今は警察が事情聴取をしているところだろうか。
事件に何らかの進展はあったのだろうか。警察は自殺として見てくれているのだろうか。まさか、もう警察が嗅ぎ付けてそこの扉を勢いよく開けて、俺のことを取り囲んできたりしないだろうな。
4時限目終了のチャイムが鳴った。海崎の気持ちを知らない連中は、たかだか授業が終わっただけで笑顔を作っていた。
海崎は一番に教室を出た。そして、下の様子はどうなっているか確かめる為、よく見えそうな窓に寄ろうとしたそのとき、後ろから滑舌のハッキリとした甘い美声をかけてくる女性がいた。
「もしかして、海崎さんですか? 黒のキャリーケース持ってるから」
振り返ると、そこには頭にブルーのサングラスを乗せた綺麗な女性がいた。まさに海崎のタイプだった。その整った顔の輪郭といい、スタイルといい、服装といい。海崎は、彼女はまだ女子高生が抜け切れていない、かなりの遊び人であると判断した。だから、すぐにこれは逆ナンパだと思った。まさかこんな時間に大学の廊下で、しかもこんな形で出会いがあるなんて思わなかった。
「そうだけど、君は?」
「わたし、水咲っていいます」
彼女はにこりとした。その笑顔がたまらなく綺麗だった。海崎は心の中でガッツポーズをとっていた。そして、じっくりと水咲を舐めまわすように品定めをする。
それにしても、こんないい女がうちの大学にいたんだな。しかも、俺好みのエロい格好してるねぇ。ブラウスのボタンをわざと外しちゃってよ、胸の谷間見せてるよ。いや、わざと外してると言うか、胸がでかいから外さざるを得ないって表現の方が正しいな。もしかしたら、わざと小さめのブラウスを着てるのかもしれない。ちょっときつそうにも見えるし。たまらねぇなぁ。脚もなげぇなぁ。白のミニスカに黒のストッキング、ヒールの高い白のサンダル。おいおい、エロい、ほんとエロい。絶対いつも逆ナンとかやってるよ。
茶髪の交じったロン毛は、ヘアームースかなんかで濡れた感じを出してるし。唇なんかピンクの口紅にリップグロスを塗ってるから、よだれ垂らしてるみたいで、すんげぇーやらしいよ。そんな女、大好きだけどね。けど、ケバイ女てわけじゃない。化粧自体はそんなに濃くないし、派手なネックレスとかイヤリングとかも付けてない。左手に腕時計と右足首に銀のアンクレットを付けてるくらいだな。
胸はでかい、腰は締まってる、ケツはでかい。脚は長いし、美人だし、エロい格好だし。悪いところ一つもねぇじゃんか。これは狙わない手はないな。
「水咲、なんていうの? 下の名前」
「華奈子です。水咲華奈子」
「華奈子ね」
すると、水咲のそばにいた佐々木原は、彼女の耳元で囁いた。
「華奈、気を付けた方がいいよ。なんかこの人、下心ありそうだから」
その声が海崎の耳に入った。
彼女の横にいるこの女は何だ? 水咲と比べると全然冴えない女だ。
「君は?」
「わたしの親友です。ののちゃん、て呼ばれてます」
「あっ、そう」
海崎は軽くあしらった。これっぽちの興味も湧かないからだ。
佐々木原は眼鏡の奥から、海崎を鋭い目でにらんでいた。
「んで、俺に何か?」
さて、一体どんな言葉が出るのだろうか。どんなことを言われてもオッケーするつもりだが。
「柏葉隼一さんて知ってます?」
海崎の表情は険しくなった。まさか見ず知らずの女から、柏葉の名前が出てくるとは思わなかった。そして、どうしてそんなことを聞いてくるのかわからなかった。
「知ってるよ。同じサークルだから」
「そうですよね。多分、聞こえてたと思うけど、さっき救急車が来たんです。それで実は、柏葉さんが運ばれたんです」
「えっ、何で?」
まさか見ず知らずの女に、とぼけなければならないとは思わなかった。
「まだ詳しいことはわかんないんだけど……。ちょっとあっち行きません?」
教室の目の前の廊下はまだ人通りが多かった為、3人は廊下の奥の窓に寄った。
「どうやら、自殺しようとしたみたいなんです。この真上の窓から飛び降りたみたいなんですよ。4階の窓から」
水咲は真上を指した。
「でも奇跡的に一命は取り留めたみたいです。ほんと良かったと思います」
海崎はその言葉を聞き、我を忘れてきょとんとした。助かった? 死んでなかったのか?
「どうかしました? ビックリしてるみたいだけど」
水咲に気持ちを読み取られた海崎は、すぐに正気に戻って平静を振る舞った。
「いや、自殺しようとしたんだ? 大学で自殺かよ。なんでここで。まぁ、助かったんなら良かったな」
その事実を聞いて海崎は複雑な気持ちになった。柏葉が生きていたことによって、殺人という最も重い罪は免れた。しかし、ということは、この事件から逃れることはできないのだ。彼が回復して事件の全貌を話してしまったら終わりなのである。わずかな希望にすがりつくとしたら、柏葉が記憶喪失を起こしていて、この事件を覚えていないことに賭けるしかない。
とりあえず、いまの時点では自殺に見えているようだ。海崎は自分の偽装工作がちゃんと機能しているかどうかを確かめるべく、返答が予想できる質問をしてみた。
「どうして4階から飛び降りたってわかったの?」
「ま、窓が落ちてたんです」
突然、今まで黙っていた佐々木原が割って入ってきた。
「し、下に窓が落ちてて、よ、4階の窓がなくなってたんです。そ、それに靴も揃えて置いてあったから」
佐々木原は海崎と目を合わせずに答えた。
偽装工作はうまくいったようだが、それにしても何だこの女は。なに緊張してやがんだ。
「こ、こんな感じです」
佐々木原は手に抱えていたスケッチブックを開き、鉛筆描きの写生を見せた。そこには、下から見上げた4階の窓と飛び降り現場が、まるで写真のようにリアルに描かれていた。
「ののちゃんの描いた絵、上手でしょう? わたしも最初見たときはびっくりしちゃった」
2枚の絵は、どれも窓ガラスが一枚描かれていない。
「ほんとだ。窓がないね。でも、なんで? なんで窓が落ちたの?」
海崎はその質問を、佐々木原にではなく水咲にした。
「うーん、それがねぇ、さっきこの館の窓ガラスを調べてみたら、しっかりはまってて、そう簡単に外れるなんて思えないんだよね」
そこで海崎は思った。このままこの話をしていくと、自分の立場が危うくなりそうな予感がした。それに、せっかくタイプの女性と話をしているのだ。会話の内容がこれでは面白くも何ともない。彼女は本当にそんなことを言う為だけに来たのか。彼はそう信じたくはなかったので話を変えようとした。
「どうでもいいけどさ、そんなこと俺に言いに来てどうすんの? 俺は別に、柏葉が自殺しようが何しようが、驚きもしないし泣いたりなんてしないぞ。だって親友でも友達でもないんだから。ただサークルが同じだけ」
「ひどい男だね」
佐々木原は水咲に再び囁いた。だが、またしてもそれは海崎に聞こえた。
「ちょっと君ね、俺は今、彼女と話してんだから、余計な口出ししないでくれる?」
佐々木原は頬を膨らましてプンとなると、水咲の陰に隠れた。
「教室、誰もいなくなったみたいだからさ、座って話さない?」
「おう、いいよ」
3人は教室に入った。
水咲が教室の端の列に横を向いて座ると、海崎はその前の席に同じく横に向いて座った。佐々木原は水咲の後ろの席に座って、なるべく海崎を見ないようにした。海崎にとっては邪魔者の何者でもない。
「そうだ、華奈子の電話番号教えて」
「ば、番号って、番号聞いて、ど、どうするんですか?」
海崎の耳に入るか入らないかの小さな声で囁いた佐々木原は、水咲の影から目だけを見せた。
「どうするって、電話するに決まってんだろ。それ以外に何がある?」
「な、なんで、で、電話するんですか?」
「いちいちうるせぇなぁ。あんた誰だよ」
水咲は「まあまあ」と佐々木原を制しながら番号を教えた。
「よっしゃあ。バッチリ登録したぞ。じゃあ、俺のも教えるよ」
佐々木原は、「あーあ、教えちゃった」と言わんばかりの表情を作ってみせた。
水咲はストッキングの脚を組み、頬杖をつくと口を開けた。
「海崎さんは彼女はいるの?」
水咲の方から話をそらすとは思わなかった。だが、これはいい展開になってきた。せっかく美人に出会えたんだ、やっぱりこうでなくっちゃ。
「いないよ。華奈子は彼氏は?」
「わたしもいない」
彼女もフリー、俺もフリー。と言うことは、うまくいけばうまくいけるかもしれない。
「えっ、ほんとにいないの? じゃ、ちょうどいいじゃん。俺と付き合うかい?」
すると、佐々木原が少し声を荒立てて言った。
「ちょ、ちょっと。な、何言ってるんですか。今日、初めて会ったのに」
海崎は心の中で首を振った。
「あんた、面白い奴だな。今時、初めて会ったから付き合っちゃいけないなんて考えしてる奴いないぞ。初めて会ってヤッちゃう奴らなんてゴロだからな。ヤリコンなんて言葉あるの、知らないんだろう?」
「ヤ、ヤリ……コン? な、なんですか、それ? な、なに言ってるんですか? い、意味分からないです」
「へぇー、今時こんな人いるんだぁ。珍しい奴だな。もう、しょうがない。華奈子、説明してやって」
「さ、さっきから、か、華奈子って、よ、呼び捨てに、し、しないで下さい」
蚊の鳴くような声でボソッとつぶやいた佐々木原に、水咲は微笑みながら説明した。
「要するに、普通の合コンは見知らぬ男女が出会いを目的にやるものだけど、ヤリコンは……」
水咲は音量を落として言った。
「……見知らぬ男女がエッチを目的にやるものなの。ねっ」
おっと、この女、下ネタオッケーだ。益々気に入ったぞ。それに比べ、こっちの女は。こいつ絶対経験ないな。
佐々木原は顔を赤らめて水咲の話を聞いていた。
「そのとおり! 華奈子、説明上手!」
「よ、呼び捨てに、し、しないで下さい」
「いや、ののちゃん、本当よ。最近は恋愛に順番なんてないよね。エッチがきっかけで付き合うこともあるし。できちゃった結婚なんて、珍しくなくなってきたもんね。あっ、でも、ののちゃんは純粋だからだめよ。ちゃんと順番にね」
佐々木原は素直にこくりとうなずく。
「華奈子も、ちゃんと順番にやんなきゃだめだぞ」
「わたしはちゃんとやってるもん」
水咲はプイっと向こうを向いた。しかし、海崎は全てを見抜いていた。
「へぇー。じゃあ、一度も順番が狂ったことのない華奈子は、今まで何人の男と付き合ってたの?」
「うーん、何人だろう。忘れちゃった」
「おいおい。覚えてないってことは、相当な人数なんだ。華奈子、経験豊富だな」
「そんなことないよ。普通よ、普通」
「よ、呼び捨てに、し、しないで下さい」
海崎は確信した。水咲は結構な人数と付き合ったことがある、と。
水咲は脚を組み直した。ミニスカートがはちきれんばかりにピンと張る。足首のアンクレットがさらさらと揺れる。
佐々木原は猫背になって、上目遣いで海崎を観察していたが、彼は気にせず話を続けた。
「俺ね、華奈子みたいなのがタイプなんだよね。いいよなぁ、華奈子が俺の彼女だったら」
さぁ、彼女はどういうリアクションをするのだろうか。海崎は少しときめいた。
「えー、ほんとに? 嬉しいなぁ」
「よ、呼び捨てに、しないで下さい」
これはどういうことだ。もしかして、彼女オッケーということか?
海崎は、柏葉を突き落として自分は大変な立場にあるという事を完全に忘れ、水咲と楽しい毎日を過ごしている姿を想像していた。
「マジで? それじゃあ、付き合うか?」
すると、彼女は首を捻りながら言った。
「うーん、海崎さんのこと、わたしまだあんまりよく分からないからなぁ。もう少し話をしないとね」
まあ、しょうがない。まだ出会ったばかりだ。でも決めた。絶対彼女にしてみせるぞ。
「海崎さんて、なんか女の人を守ってくれそうだよね」
水咲のお褒めの言葉に海崎は有頂天になった。
「ああ、守ってやるよ。俺と付き合ったらお得だぞ」
「そうねぇ。ワイルドな感じするし。あっ、帽子かぶってみてよ」
机の上に置いてある海崎の帽子を手に取ると、水咲は嬉しそうに差し出してきた。
「帽子かぶんの? ここじゃあ、ちょっとなぁ」
「なんで? いいじゃん、かぶってる姿見せてよ」
「いや、俺、室内で帽子かぶるの嫌いなんだよなぁ。圧迫感あるじゃん、中でかぶると」
「ちょっとだけでいいから。お願い」
海崎は仕方なく帽子を被ってみせた。彼女は実に楽しそうに自分を観賞していた。もしかして、彼女の心をガッチリつかんだのかもしれない。だから、海崎も嬉しくなって色んなポーズをとってみせた。ポーズをとるごとに、教室内に水咲の拍手がこだました。
「はい、こんな感じ」
海崎はすぐに帽子をとるとまた元の場所に置いた。
「あーん、もう終わりか。でも、かっこよかったよ」
「よし、じゃあ、もう決まりじゃん?」
すっかり気を良くした海崎は、その勢いでライトブルーのマニキュアが塗られた水咲の細い指を握ってやろうかと思い、手を差し出したとき、水咲はこんなことを言い出した。
「でも、海崎さんは彼女にフラれたんだから、もう少し心を癒した方がいいよ」
海崎の表情が再び険しくなった。見ず知らずの女が、どうしてそんなプライベートなことまで知っているのだろうか? もしかして、さっきの柏葉の事件から何か情報を得たのだろうか。だとすると、一体この女は何者なのか?
「六本木さんと付き合ってたよね?」
「そうだけど。ちょっと待ってよ。どうして彼女にフラれたってこと知ってるの?」
「堂島さんて知ってる? その人からいろいろ教えてもらいました」
堂島の奴、余計なことを。しかし、そういったところから事件の鍵が出てくるんだろう。だから、完全犯罪を成し遂げるのは難しいのだ。
「へぇー、あいつどんなこと言ってたの?」
どこまで情報が漏れたのだろうか。
「柏葉さんだっていう確認をしてもらったら、すぐに六本木さんに電話をして。救急車が来たくらいに彼女も来たけど、ワンワン泣いてたんだよね。かわいそうなくらい。それを見て堂島さんが同情してました。六本木さんは海崎さんと付き合ってたけど、柏葉さんの熱意に惹かれて付き合うようになったって。自分が惹かれた男性が、いきなりあんなことしたんだから辛いだろうって」
真奈美が泣いていたか。まぁ、でも自業自得だ。人の彼女を勝手に奪う柏葉。そして、そんな男に惹かれた真奈美がいけないんだ。
海崎は腕を組むと、水咲の話をじっと聞いていた。
「確かに、堂島さんが同情するのはよくわかるの。わたしだって、六本木さんの立場だったら泣いちゃうと思う。だけど、これは海崎さんから見たら、あんまり面白くないと思うんだけど。実際のところはどうなんです?」
海崎は胸騒ぎがした。
目の前に座っている女は確かに美人だ。男だったら彼女にしたいと思うだろう。しかし、どうしてこれ程までに柏葉のことに関わってくるのだろうか。
今まで海崎の頭の中で描いていたのは、警察に事情聴取されている自分の姿だった。なのに、教室の扉を勢いよく開けて自分を取り囲んだのは警察ではなく、彼女だった。こんな予測できるはずがない。
だから、彼女の質問に答える前に、どうしても聞きたいことがあった。
「ねぇ、華奈子。さっきから柏葉が自殺して、真奈美がどうの言ってるけど、もしかして華奈子って、警察?」
しかし、海崎の心配をよそに水咲は微笑んだ。
「どうしてそう思ったのかわかんないけど、わたしは警察じゃないよ。学生だよ。サークルだって……あっそうだ、わたし、名探偵研究会の会長やってるの。今度ぜひ遊びに来てね、歓迎するから。ののちゃんも同じサークルなの。ね?」
佐々木原はうなずいた。
「あんだよ。俺、大学生に変装した警察のスパイかと思ったよ。びっくりした」
海崎は笑いながら言うと、水咲も一緒になって笑った。
どうやら思い過ごしのようだ。やっぱりただの学生だ。この大学の学生だ。彼女は単なる興味で近付いて来ただけなのだ。
海崎は安心して会話を続けた。
「それで、真奈美が柏葉に惹かれたのを見て、俺はどう思ったのか? そんなに聞きたい?」
「聞きたい」
海崎はここで、一つの取引きを思い付いた。そう簡単に今の気持ちを言えるものか。
「聞かしてあげるけど、その代わり、今日の夕食一緒にどう?」
海崎は水咲の表情をうかがった。どうやら、そう来るとは思っていなかったようだ。
佐々木原はハッとなって海崎をにらみつけ、水咲がどう答えるのか待った。
「うーん、どうしよっかなぁ」
彼女は少し戸惑っていたが、しばらく考えると笑顔で答えた。
「わかった、いいよ」
もうこれで、自分の彼女になる第一歩を踏み出したようなものだ。これからは楽しい生活が待っていることだろう。
「よし、じゃ決まりね。なら、何でも答えるよ。俺は純粋に真奈美にフラれたって思ってる。まぁ、俺よりいい男がいたんだから仕方ないことだね。以上」
「じゃ、海崎さんはもう何とも思ってないってことね?」
「そうだよ。それじゃ、俺から一つ質問。俺にそんなことを聞いたのと、柏葉が自殺したのと何か関係あんの?」
この質問が全ての謎を解明してくれる。この質問はすなわち、どうして自分に近付いたのか? ということだ。
水咲はそれを聞いて、またにこりとした。
「わたしね、柏葉さんて本当に自殺したのかなぁって思ってるの」
佐々木原は驚いて顔を上げた。そういえばさっきもそんなことを言っていた。あの意味あり気な発言がどういうことなのか、まだ詳しく聞いていなかった。
「だって4階から飛び降りたんだよ。しかも、背中から落ちてる。柏葉さんだって、死ぬつもりで4階から飛び降りたんだと思うの。だけど、奇跡的に助かった。その助かった柏葉さんに向かってこんなこと言うの失礼だと思うけど、4階から飛び降りて助かるなんてこと、あるのかなぁって。もし、わたしが飛び降り自殺するとしたら、4階からで十分だと思うもん。ほんとに奇跡的なのよね」
「いや、でもそんなこと言ったってさ、助かったもんは助かったんだからしょうがないじゃん。何で助かったの、って言われたってわかんねぇよ。とにかく助かったんだから、それでいいじゃん」
しかし、納得いかなそうな表情をしている水咲は、立ち上がると窓に向かって歩きながら話を続けた。
海崎と佐々木原は彼女を目で追っていった。
「うーん、でもなんか、しっくりこないんだよね。それに自殺の動機は? 堂島さん曰く、柏葉さんは六本木さんを振り向かせる努力をした。努力をした結果、幸せをつかんだ。そんな人がどうして自殺を? そして、一番引っ掛かるのが柏葉さんの携帯電話なの」
水咲は佐々木原から電話を受け取った。
「これ見て。メールの履歴です。一番新しいメールを受信したのが、今日の午後3時41分。今から約一時間前。そして、このメールは誰が送信したメールなのかわかんない。わたしの携帯はちゃんと送信者が出るのに、この電話は不便ね」
「そうそう、この電話会社のってそうらしいよ。メール書くときは自分の名前を入れなきゃダメなんだって。そんで、どういうメールの内容なの?」
佐々木原はノートを開いてメモをとる用意をした。
「2号館の2階の灰皿のある窓の所で待ってるよ。ハートマーク」
「もしかして六本木さん?」
佐々木原はメモを書き終えると、早速そう発言した。
「そう、きっと柏葉さんもそう思ったと思うのよ。こんな文だし、ハートマークがついてるし」
「えっ、六本木さんからじゃないの?」
「うん。ちょっと過去のメールを覗かせてもらったんだけど、六本木さんはいつも欠かさず名前書いてるんだよね、文末に。でもこのメールは書いてない。なんでこのメールは書き忘れたのかなぁって」
「いやぁ、書き忘れたんだろ。だって人間だもん。そんなのよくあることじゃん」
海崎は水咲の顔色をうかがいながら『書き忘れ説』を主張した。
しかし、目の前の美女は、そんな海崎の主張など耳を傾けていなかったようである。
「ちなみに、海崎さんは柏葉さんと同じ電話会社なんですか?」
彼女は学生とは言え、油断は禁物だったようだ。変なことを言わなくてよかった。間違いない、彼女は自分を疑っている。けれども、疑われていても怖くも何ともないのだが。
「ふーん、なるほど。そういうことか。わかったよ。どうして俺のところに来たのか。そのメールを送ったのは俺だって言いたいんだろ?」
「そ、そうなの?」
佐々木原はいまいち意味がわかっていないようだ。
水咲は笑顔のまま言った。
「柏葉さんと同じなんですか?」
なかなか気の強い女だ。出逢ったばかりの女に言い訳などしたくない。
「ああ、同じだよ。悪いか?」
水咲は軽く首を振った。
「そう、同じなんだ。海崎さんはさっきの時間はどこで何をしてました?」
今度はアリバイ確認だ。ご苦労なこった。ちょっと探偵気取りになっているんじゃないだろうか。
「さっきは授業に出てた。俺が教室から出てきたの見てたんじゃないのか?」
「今日は柏葉さんと一度も会っていない?」
「会ってねぇよ。俺は昼に学校に来てから4時限目が始るまで、ずっとサークルの部室にいたんだ。今日は4時限目しか授業とってねぇから。他の奴に聞いてみろよ、ウソじゃねぇから」
「でも、4時限目は1人で授業受けてたんだよね? 4時限目は最初から最後までこの教室にいたって証明してくれる人いますか?」
海崎は苛立ちをおぼえた。水咲に対してではない、自分に対してである。所詮、突発的に起こった事故を自殺に見せかけるなんて、どこかに無理が生じるのだ。自分のアリバイまでカバーしきれなかった。
「海崎さんのこと、こんな風に思ってたわたしと、ほんとに今日ご飯食べに行く?」
それを聞いて海崎は立ち上がると、水咲に歩み寄った。そして、水咲の大きく突き出た胸が当たるか当たらないかのギリギリのところで立ちはだかる。水咲の香水が心地のよい匂いを漂わせてきた。
海崎の方が背は高かったので、水咲を見下ろす形となった。
目の前で見ても、やはり美人は美人だった。薄っすらと塗ったブルーのアイシャドウは、大きい瞳を更に引き立てている。綺麗に反り返った長いまつげ、左右対称に整った眉、すっと伸びた鼻、ピンクの唇一つ一つが、水咲の美顔を織り成しているアイテムだ。このアイテムが一つでも違った形をしていたら、海崎のタイプではなかったかもしれない。
「それとこれとは話が別だよ。それに、ほんとに俺じゃない。ただの自殺だよ」
「そうね」
一層の笑顔になったので、水咲の瞳が瞼に隠れた。
もし、この隣りにいる冴えない眼鏡の女がいなかったら、水咲を抱き上げて連れ去っていたかもしれない。
「だけど、わたしはただの自殺じゃないと思ってます。多分、誰かがメールで呼び出して、柏葉さんに何か思いつめるようなことを言って、それを聞いて居ても立ってもいられなかった柏葉さんは、4階から飛び降り自殺する決意をした」
海崎は少し水咲を見くびった。彼女の推測が間違っているからだ。結構なことを言ってくれたが、根本的に間違っているじゃないか。その推測のまま更なる推理を始めようというなら、いつまで経っても解決の道は開けないだろう。
彼は「俺がやったという証拠は?」と聞こうとしたが、聞くだけ無駄だった。
「ちょっと4階に行ってみない? 現場検証しに」
彼女は人差し指を立てると、海崎の腕を引っ張った。
「しょうがねぇなぁ、華奈子は」
「『さん』をつけて呼んで下さい!」
4
太陽は西の空に傾き、徐々に赤味を増してきた。
5時限目は既に始まっていたが、この時間にある授業は数科目しかないので、学内はシンとしていた。
サークル棟の電気はほとんどついていて、まだサークルで残っている学生は多かった。テニスサークルもその一つだった。たいてい今の時間は部室に残って話をしたり、ある者はテニスコートに出て練習したりするが、今日は間もなくやってくる大学対抗のテニス大会があるので、試合に出る者は猛練習をしていた。
海崎は練習する必要はなかった。選手に抜擢されなかったからだ。抜擢されたのは柏葉だった。彼は非常に真面目な人間だ。きつい練習を重ねて自分で勝ち取ったレギュラーである。
一方海崎は、出会いを求めてサークルに入ったようなものだった。確かに出会いはあった。しかし、結果はこのザマである。
水咲と佐々木原が並行して歩き、その後ろに海崎がついた。
だが、本当に佐々木原という女が邪魔だった。こいつさえいなければ、水咲とデート気分で歩いているだろうに。
一方は運動靴をキュッキュッと鳴らし、一方はヒールをカツンカツンと鳴らして階段を登っていた。それだけで海崎は水咲にそそられた。ちょうど目の高さに水咲の突き出たヒップがあった。ミニスカートは一寸の狂いもなくきっちりと彼女のヒップラインを描いている。
「華奈子ってさ、もしかしてノーパン? なんも履いてないように見えるけど」
海崎の質問に過剰な反応を見せたのは佐々木原だった。佐々木原は、わざと大きな音を立てながら階段を登っていった。
水咲は相も変わらずの笑顔で答えた。
「ノーパンなわけないでしょ。ティーバック」
「ティーバック? 華奈子、やらしいなぁ」
「そうかなぁ。そんなことないと思うけどなぁ。やらしいと思うその心の方がよっぽどやらしいと思うけど。まっ、男だからしょうがないか」
「そっ。しょうがないと思ってくれ」
全く会話についていけない佐々木原は一番乗りで4階に辿り着いた。
3人が揃うと、廊下が突き当たるまで少し歩いた。突き当たって左は飛び降りの現場だ。すると、何やらそこから話し声が聞こえてきた。それは男3人の声だった。紺の制服を着て帽子を被った警官だった。彼らは本当の現場検証をやっていた。その為、左に折れることはできなかった。立入禁止のロープが張られていたからだ。
仕方なく、3人は突き当りを右に折れ、後ろを振り向いて少しでも現場を目に焼き付けておこうと思った。床には靴が揃えて置いてあり、窓が一枚なかった。
一行は、そのままずっと廊下の端の窓まで歩いた。彼らはそこで、少し立ち話することにした。
廊下の向こうで警官が何かメジャーで計ったりしている。
海崎は煙草を取り出して火をつけた。
「警察が調べてるから、こりゃしばらく行けないな。でも、さっき行ったんでしょ?」
「海崎さんは見てないじゃん」
水咲は向こうを眺めながらつぶやいた。
「警官とこに行って、私が事件を解決するって言ってくれば?」
「冗談言わないでよ。向こうは本物の警察なんだから。バカにされるだけだよ」
海崎には、ちょっと甘えた声で言った水咲が子供に見えた。彼女にも可愛らしいところがあるというのがわかった。
「どうする? 華奈」
「もう少し待ってみようか」
海崎は床に座り込んだ。これは結構時間がかかりそうな気がする。
それにつられて水咲も脚を伸ばして座り込んだ。
「華奈子はタバコ吸わないの?」
「す、吸うわけないじゃないですか!」
1人だけ立っている佐々木原がそう怒鳴った。
海崎は驚いて灰を床に落としてしまった。彼は足で灰を払い除けながら苛立ちをあらわにした。
「そんなに怒鳴らなくたっていいじゃんか。それにね、俺はあんたに聞いたんじゃないの。彼女に聞いたの」
「だ、だから私が華奈の代わりに答えたんです。煙草なんて女が吸っちゃいけないんです。赤ちゃん生むんだから、たばこなんて吸ったら悪影響です」
「はいはい、お堅い人だね。そんなの子供生むときだけ吸うのやめればいいじゃん」
「だ、だってタバコ吸ったら、や、やめらんなくなっちゃうと思う」
「それは本人の意志の問題だろ。意志が強けりゃやめられるよ。ねぇ、華奈子。で、タバコは吸うの?」
佐々木原はもう反撃する手立てがなくなった。
「ううん、わたしは吸わない。だって体によくないもん」
「ほんとに? 少しくらいはあるんじゃないの?」
すると、水咲は少し間をあけて答えた。
「正確に言うと、吸わなくなったの」
「そうだったの? 華奈が、タバコを……」
佐々木原は手を口に当てて驚いた。
「去年やめたの。と言っても、一年も吸ってなかったけどね。だから、すぐにやめられたのかも。ののちゃんの言うとおり、身体に良くないし、お金も勿体無いよ。タバコ吸ってメリットなんてないからね」
「華奈が、タバコを……」
「いいなぁ。俺もこの前、禁煙しようと思ったけど、3時間でギブ。ムリ」
「華奈が、タバコを……」
すると、向こうにいた警官がこちらをじっと見ていた。何か不審がっているように見える。
「あっ、やばいよ華奈。こっち見てる」
「しょうがない、戻ろ」
水咲と佐々木原がすぐ近くの階段を下り始めると、海崎も立ち上がって煙草を揉み消し、彼女の後についた。
「柏葉さん、誰に何て言われたんだろう。自殺しようと思ったってことは、よほどのことを言われたんだと思うけど」
水咲の声が階段の踊り場に響いた。
「さぁね。何て言われたんだろうね」
こればっかりは、犯人である海崎にも答えようがない。何しろ、その推理は間違っているのだから。
「でもね、やっぱり納得できないのよね」
「なにが?」
「4階から飛び降りたのに、奇跡的に助かったっていうのがどうもね」
「何だよ、それじゃまるで死んで欲しかったみたいじゃん」
「そういうわけじゃないけど、物理的に理に合わない気がして。だって4階よ、しかも背中から」
海崎にとって、まずいところを再び掘り返してきたが、これは奇跡的だったとか打ち所が良かっただとか言えばうまく丸め込める。しかし、うまく丸め込める前に彼女に先手を打たれてしまった。
「もしかすると、わたしの推理が間違っているのかもしれないよね。犯人にそそのかされて4階から飛び降りたんじゃないかもしれない」
「華奈、どういうこと?」
佐々木原は水咲の顔を覗き込んだ。
「だから、本当に4階から飛び降りたのか? ってこと」
なんだかじわじわと真実に向かってレールが敷かれていくように思えた。
海崎は少しでも真実へ向かわせないように、すぐに話を切り上げた。
「華奈子はもう今日は帰りだろ? なら、早く帰ろうぜ。いい店知ってるから」
時は既に5時を過ぎていた。だが、まだ5時限目が終わるのには30分以上ある。
カラスが鳴き始めた頃、まだ警察は現場検証中だった。
3人は一階ロビーに降りてきた。まだロビーには学生が残っていて、お喋りをしている者や煙草を吸っている者がいた。
「俺はちょっとサークル棟に寄って顔出してくるから、ちょっと待ってて」
さぁて、いよいよ引っ掛けた女と食事だ。こんなにウキウキしたのも久しぶりだ。やはり、美人が彼女だとこんなにも楽しいものなのか。真奈美なんて目じゃない。あんな奴は柏葉にくれてやる。
そんなことを考えていると、どうしてさっきは柏葉のことを突き落としたのだろうかと、不思議な気持ちになった。さっきは嫉妬心で柏葉を突き落としてしまったが、今となっては、どうして嫉妬なんてしたんだろうと思い始めた。
この世には、六本木真奈美しかいないわけではない。探せばいい女なんて沢山いるものだ。現にそのことが証明されたではないか。そのいい女が同じ大学にいたのだから。灯台下暗しとはこのことだ。
だけど、考えてみると水咲に出会えたのも真奈美のお陰だ。彼女が自分をふってくれなかったら、水咲の存在を知らなかったことだろう。怪我の功名とはこのことだ。
海崎の足取りは軽かった。その校舎を出るまでは。
いきなり目の前に星が光った。一瞬頭がクラッとしたが、すぐ正気に戻って振り返ると、興奮した六本木が立っていた。
六本木に殴られたのだ。
「あんたでしょう!? あんたがやったんでしょう!?」
彼女は狂ったように叫んでいた。
「あんたが隼一を殺そうとしたんでしょ? わかってるんだからね!」
「おい! ちょっと待てよ、何で俺が!」
「あんたしかいないでしょ! 前からずっと私んとこつきまとってたし! 今日だってしつこかったし! もういい加減にしてよ!」
「みんなが見てる」
そこにいた人間は呆気にとられてその様子を見ていた。ただ1人、六本木の友達の栗原だけがそれをとめようとしていた。
「やめなよ真奈美!」
六本木は海崎の首を絞めようとしたが、力の強い男に太刀打ちできるはずもなく、あっさり抑えつけられた。だが、口だけは自由だった。
「今日は隼一とデートだったのに……やっと約束して……やっといい感じになれると思ったのに……」
六本木の声は怒りから悲しみへと変わった。そして、倒れ込むようにその場に座り込み、栗原の胸で泣き出した。
海崎は、つかまれてしわくしゃになった服を元に戻すと、一字一句力強く放った。
「いいか、これだけは言うぞ。俺は何もしてない!」
勿論これは計算だった。この様子を水咲は見ていることだろう。彼女が見ているから、みんなの前で強く断言したのだ。
海崎は倒れ込んだ六本木を置いて外に出ようとした。すると、後ろから涙交じりの六本木の声がした。
「警察に言ってやったからね! 海崎龍介が殺そうとしたって!」
海崎はゆっくりと振り向き、ゆっくりと六本木に近付きしゃがみ込む。そして、六本木の頭を撫でると優しく言葉をかけた。
「ほんとに言ったのか? いや、多分ほんとに言ったんだろう。だけど、未だに警察は俺んとこにやって来ないよ。どういうこと? もしかして、相手にされなかったの? かわいそうな真奈美。あんな奴を好きになったばっかりに、とんだ災難だな。お前には男運ないわ」
海崎は皮肉を込めた言い方をして笑いながらそこから立ち去った。
残された六本木は、ただ泣くばかりだった。
その光景を水咲と佐々木原はじっと見守っていた。泣き崩れている六本木とそれを慰める栗原。しばらく2人のやり取りを黙って見ていたが、その沈黙を最初に破ったのは佐々木原だった。
「ひどい男だね。六本木さんがかわいそう」
佐々木原は貰い泣きしていた。
すると、水咲は何も言わずに下ってきた階段を再び駆け上がっていった。
「華奈、ちょっと待ってよ。どこ行くの?」
水咲の目的場所は2階の灰皿のある窓だった。そして、何かを探すようにそこらを調べていた。
「どうしたの? 何やってんの?」
「犯人はメールで柏葉さんをここに呼び出したんだから、ここに何かヒントがあるんじゃないかなって思ってね。柏葉さんは、4階からなんて飛び降りてないよ。4階から飛び降りて意識不明だけで済むはずないもん」
「えっ? でもさっきは、柏葉さんを呼び出して追いつめるようなこと言って、居ても立ってもいらんなくなった柏葉さんは4階から飛び降りた、ってそう言ってたじゃん」
「そんなのうそよ。海崎さんの反応を見たかっただけ」
「うそ? 海崎さん? どういうこと、海崎さんて?」
佐々木原には水咲が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
「犯人よ。海崎さんが犯人」
「えー? やっぱりそうなの? 何でわかるの?」
「まだわかんないよ。だからこうして、何かヒントがあるんじゃないか調べてるんじゃん。多分ね、2階のこの窓から柏葉さんは落ちたのよ。だから助かったのよ」
佐々木原も一緒に調べることにした。多分、彼女の言っていることは当たっている。恥ずかしい思い出なのであまり振り返りたくはないが、彼女との出会いでそれは自分も経験済みだ。なるほど、と言うことは、4階の落ちた窓は海崎自身が落としたということになる。
彼女らは、それが何なのかわからない物を探し続けた。
やがて、水咲はそこにあった灰皿に目が止まった。灰皿の蓋を開けてみる。中には煙草が一本水に浸かっていた。
佐々木原は、床や壁、窓の至る所を舐め回すように見つめた。しかし、何もかもが手掛かりになりそうな気がしてきた。
「よく見ると汚いね。汚すぎて、どれがヒントになるのかわかんないよ。床はジュースの染みがついてるし、ゴミは落ちてるし。壁には傷があるし落書きしてあるし。窓には鳥のフンがついてるし。ちゃんと清掃業者はちゃんと掃除してんのかな?」
「だったら、汚さないでくれる? あたしらだって大変なのよ」
佐々木原はびっくりして振り向くと、掃除のおばさんが立っていた。
「言っとくけど、こうやって汚すのはみんな学生さんなんだからね」
まさか掃除のおばさん本人に話を聞かれているとは思わなかった。
「ごめんなさい」
佐々木原は素直に謝った。
「ここの教室は授業やってんのかな?」
「いいえ。終わってます」
「そう。じゃ、ちょっとごめんね」
掃除のおばさんが教室に入ろうとしたとき、水咲は長い髪を揺らして質問した。
「あっ、おばさんちょっといいですか。この灰皿の掃除はいつやったんですか?」
「掃除? この館だけでも灰皿は40個くらいあるから、いつやったのかまでは覚えてないねぇ。あっ、だけど、全部の灰皿の掃除を終えたのは3時半だったよ」
「ありがとうございます」
掃除のおばさんは教室に入って机の雑巾がけを始めた。
「ののちゃん悪いんだけど、4階の、さっきわたし達が座り込んだ窓の、灰皿に捨ててあるたばこの銘柄見てきてくれない?」
「う、うん。わかった」
佐々木原は言われるままに急いで階段を駆け登った。彼女には、今一つ水咲がやろうとしていることがわからなかった。さっきいた灰皿に残ってる煙草の銘柄? 一体どうしてそんなことを知る必要があるのか。
現場に辿り着くと灰皿の蓋を開けた。中には一本しかなく、銘柄はセブンスターだ。でも確か、これを吸っていたのはあの男……。もしかして、これが証拠に?
それを確認して再び走り出そうとしたとき、飛び降り現場に警官がいないことに気付いた。どうやら検証は終わったらしく帰ったのだろう。
佐々木原は今一度その現場に行ってみることにした。窓が一枚なく、風が容赦なく吹きつけてくる。柏葉の靴もなかった。下を覗くとかなりの高さがあった。まだパトカーは見える。下で何やらやっているようだ。落ちた窓ガラスもそのままだった。
外を見ると、いよいよ西の空が真っ赤になってきた。地平線の見えない大地だが、今日は空気が澄んでいる為、遠くに見える夕日の逆光で黒くなった富士山が綺麗だった。
佐々木原は事件のことをしばし忘れてその美しさに見とれた。そして、この絶景を人に見せてやりたくなった。彼女は2階にいる水咲に向かって叫んだ。
「華奈! 華奈!」
するするっと2階の窓が開き、水咲がひょっこりと顔を出した。
「華奈、見てみなよ。すごい奇麗だよ。こんな時間に窓の外見たことなかったよ」
「なに遊んでんの。降りてきなよ」
しばらくその風景を眺めてから、佐々木原は下へ降りた。
「すごい奇麗だったでしょ。びっくりしちゃった。華奈も見た?」
水咲はにこにこしていた。
佐々木原はふと窓の外を見た。しかし、目の前の木が邪魔していたので何も見えない。
「なんだ。華奈、見てないじゃん。ちょっと4階行ってみな。すんごいから」
しかし、なぜかにこにこしている水咲は実に嬉しそうだった。
「行く行く。ののちゃんのお陰で、この事件は解決だから」
「へっ? どういうこと?」
第5話 自殺未遂の確率~事件編《後編》【完】