事件編《前編》
テニスサークル所属 海崎 龍介
1
現在、学校に通っている勉学者の中で、学校に行きたくない者は果たして何人いるのだろうか。
恐らく行きたくない理由の大半は、勉強するのが嫌い、ということだろう。勉強に苦を感じない人間にとっては、この理由は理解しがたいに違いない。だが、そうは言っても、結局のところ彼らはしっかり学校へ通っている。彼らは仕方なく学校へ行くのだ。
しかしながら、仕方なく行っていいのは義務教育者だけである。これが、高校生大学生となると話が違う。彼らはお金を払ってまで、学問を学ぼうと入学したわけである。自分でその道を選んだのだから、本来、勉強するのは嫌いだとは言えないのだ。にもかかわらず、気持ちよく朝起きて学校に行く学生は少ない。
では逆に、学校に行くのが楽しみな者は何人いるのだろうか。そして、楽しみな理由とは何だろうか。友達に会えるからか。給食が楽しみだからか。それとも……。
柏葉隼一は朝にもかかわらず、軽い足取りで学校に向かって歩いていた。彼はひょろっとした長身で、ベージュの綿パンに白のポロシャツを着て、黒のリュックを背負っていた。
3枚目の彼は、一見貧弱で運動音痴に見えるが、テニスサークルに所属している。性格は真面目で努力家であった。飛び抜けてテニスがうまいわけではない。しかし、努力家ゆえに、今度の試合ではレギュラーの座を勝ち取った。
約7千人の学生を抱えているこの大学の朝の通学路は、学生よりもサラリーマンの行き来の方が多かった。学生は夜遅くまで遊んでいる為、朝が苦手なのだ。だから朝が辛い。
だが、柏葉にとって朝は辛くなかった。理由があるからだ。
大学は学問を学ぶ所。しかし、学問を学ぶことは決して楽しいものではない。勉強が大好きという人間はそれほど多くはいないだろう。柏葉だってその1人だ。毎日毎日、椅子に座って何時間も人の話を聞かなければならないなんて、こんなに辛いことはない。したがって、勉強がその理由ではなかった。
柏葉は、ポロシャツの胸ポケットに入れた携帯電話を取り出すと、歩きながらメールを作成して送信した。
『おはよう。今どこにいるの?』
朝、道をてくてく歩くのはなかなかよいものだ。青空が広がり日差しは少しきつかったが、そよ風が吹いていた為そんなに暑くはなかった。前方後方には自分と同じ大学生が何人も歩いている。みんな眠たそうに見えた。
やがて、メールの受信音が鳴った。
『もう学校だよ。早く来てね』
『あと300メートルくらいで着くよ』
彼は再びメールを送信した。しかし、実際あと百メートルもなかった。
大学の校内に入ると、彼の悪戯心は大きくなっていた。もう大学に着いたのに、あと百メートルだと嘘をつく。そして、目的の教室の前に着くと、中に入って周りを見渡した。500人は収容できる教室だったが、学生が少なかったのですぐに見つけることができた。
彼は席について雑誌を読んでいる女性の後ろにゆっくりと忍び寄ると『いま大学に着いた』とメールを送った。机の上に置いてある彼女の携帯電話のメール受信音が鳴った。
ピンクのティーシャツにジーパンを履いた彼女は、雑誌から目を離すとメールを確認していた。
それを後ろで確認した柏葉は、彼女の横から突然顔を現して囁いた。
「おはよう」
彼女は小さな悲鳴を上げた。そして、柏葉の顔を認めると笑顔になって彼の背中を叩いた。
「もう、おどかさないで!」
「びっくりした?」
柏葉はリュックを下ろすと彼女の隣りに座った。
少し色を抜いたセミロングの彼女の名前は、六本木真奈美。柏葉と同じテニスサークルに所属している。なかなかの顔立ちをしていて、周りの男からの視線も熱い。その彼女が柏葉に振り向いたのは、彼の並々ならぬ努力の賜物だ。柏葉と六本木のカップルはまさに美女と野獣だった。
柏葉が朝早く起きることのできる理由はそれだったのだ。例えどんなにつまらない授業があろうとも、足取りが軽くなるのは当然である。
全ての授業が六本木と一緒ではない。だから、柏葉にとってこうしているのが一番幸せだった。今まで何人かの女性と付き合ってきたが、六本木とは一番反りが合うように思えた。
「ちゃんと宿題やってきた?」
六本木は一枚のレポート用紙をヒラヒラさせて見せた。
「えっ、今日までだっけ? 来週までじゃなかったっけ?」
「違うよ。まさか忘れたんじゃないでしょうね?」
「忘れるわけないじゃんよ。ほら」
柏葉は威張って白紙のレポート用紙を見せた。
「忘れてんじゃん!」
「真奈美様、お願いします。今回だけ」
柏葉は手を合わせて頭を下げた。
「確か隼一君は、この授業を落としたらまずかったんだよね?」
六本木は腕を組んで偉そうに振る舞い、びっしりと文章が書かれたレポート用紙を更に派手にヒラヒラさせた。さっき脅かされた仕返しである。
「わかった。今日のお昼はおごらせて下さい」
六本木は細目で彼を見つめると、からかうように嫌味を言い続けた。
「お昼か。私、これ書くの大変だったんだよなぁ。どんな思いで書いたのか、わかんないでしょうね。何日もかかったんだよね」
「わかりました。今日の夕飯もおごります」
「ほんと?」
「はい。おごらせて下さい」
六本木は急に笑顔になった。作戦は成功した。御馳走になりたかったのは昼食よりもむしろ、夕食だったのだ。
「やった! じゃ、決まり!」
「なんか、はめられたみたい」
「何か?」
「いえいえ、何でも御座いません」
しかし、実は彼の言うとおり、六本木は柏葉を落とし入れたのである。宿題の提出期限は確かに今日だった。ところが、六本木は嘘の提出期限を教えたのだ。こうすれば、柏葉は宿題を忘れてレポートを見せてくれ、となるだろうと踏んでいたのだ。そこで、交換条件を突き付けたのだ。
付き合って2週間になる。そろそろお互いのことをもっと深くわかり合ってもよいと思ったのだ。
無論、柏葉も何となくわかっていた。本当はもうしばらくしたら、自分から誘おうと思っていたのだが、先手を打たれてしまった。
「では、これを貸し与えよう」
「ありがとうございます、真奈美様」
柏葉はレポート用紙を受け取ると、少し文章を変えながら書き写していった。
やがて、チャイムが鳴ると、先生がやってきて一時限目が始まった。
「ほんと助かった。ありがとう」
「うまくできた?」
授業が終わり、教室内は騒がしかった。
「あとは書き写したってのがバレないことを祈るだけだよ」
筆記用具をしまうと、2人は席を立って教室の外に出る。
次の授業は2人は別々だった。
「じゃ、早く終わった方が教室の外で待ってることね」
「うん。じゃまた後で」
2人はそれぞれの教室へと向かった。
*
昼休み。学食はいつものように大盛況だった。学生数は学食の席を超えているので座れない者が多い。その為、外の芝生で座って昼食をとっている者もいる。
柏葉と六本木のカップルもそうだった。六本木の方は授業が早く終わったのだが、柏葉の方が休み時間にまで授業が食い込んでしまい、外で食べるはめになってしまった。
「隼一が遅いからよ」
「俺に言うなよ。先生が悪いんだから」
彼らは食器をトレーに乗せて外を歩いていた。
「自分が授業遅く始めたくせに、休み時間まで授業やることないよなぁ。だったら早く来いってんだ」
「そうだよね。私もあるよ、そういうこと」
2人は適当な木陰を見つけるとそこに座り込んだ。あぐらをかいて足の上にトレーを乗せる。
「うわっ、真奈美もあぐらかいてるよ」
「いけない?」
六本木は眉を吊り上げた。
「別にいけなくないけど、映像的に汚いな」
「だってこうしないと食べられないじゃん。なら、食べさせてくれるの? はい、アーン」
彼女は目をつぶって口を開けた。柏葉は、彼女の嫌いなピーマンを箸に挟んで持っていった。
「はい、アーン」
「何これ?」
柏葉は楽しそうに答えた。
「何だと思う? 正解はピーマンでした」
「ウソー? ピーマンの味じゃないよ。こんな変な味じゃないもん。もっと苦いはずだよ」
人間は食事をするとき、半分は視覚で味わっている。目で見て、その物の味を想像してから舌で味わっている。だから、料理の盛りつけには重要な意味がある。まずそうな物でも、盛りつけによっては味が変わってくる場合がある。
「食べられたじゃん」
「こんなの騙されて食べたようなもんだよ」
空は青空が広がっていた。外で食事をとると、ご飯が美味しい。
2人の会話も弾んでいたので、時間が経つのが早く感じられた。
「ちょっとジュース買ってこよう。真奈美は?」
「何でもいいよ」
柏葉は立ち上がって販売機へ向かった。
1人残った六本木は、遠くを見つめながらゆっくりスプーンを口に運ぶ。
「お2人仲良く昼飯か。いいなぁ」
六本木はその声の主に振り向いた。そこには体格のガッチリした力の強そうな男が立っていた。彼は真っ赤なティーシャツに迷彩模様の短パンを履いていた。帽子を眉毛の高さまでスッポリ被り、耳たぶのピアスをチラつかせていた彼は、隣りに座ってゆっくり話でもしようという体勢をとった。海崎龍介。テニスサークル所属である。しかし、彼がテニスサークルに所属しているのには不純な動機があった。
「もうすぐ大会だろ。ちゃんと練習してるか?」
「私はレギュラーじゃないの。知ってるくせに」
「俺も今回はだめだったけどな」
「バカ言わないでよ。あんたは全然やる気ないじゃない」
彼女は素早くスプーンを口に運ぶ。
「ところでさ、今夜一緒に食事でもどうだ?」
「ごめんね、先約があるの」
海崎はそっけない素振りの六本木をじっと見据えた。
「あいつの話はどうよ。楽しい?」
「もういいからあっち行ってよ」
「いいじゃん、元カレなんだから話ぐらい」
本当にしつこい男だ。こんなところを柏葉に見られたら彼は何と言うだろうか。
柏葉は、かつて六本木と海崎は付き合っていたということは知っている。だから、別にこの状況を見ても何とも思わないと思うが、六本木にとっては申し訳なかった。一度別れたのに、まだ諦めがついていないように見られてしまうからだ。
しかし、実際のところは海崎の方からやって来たのだから、後ろめたいという気持ちはない。ただ「龍介の方からやって来たんだよ」と言うと、言い訳のように聞こえてしまうので説明しようにもできない。そんな面倒なことになる前に、早くこの男を追い払いたかった。
「早くあっち行ってよ。しつこいんだよ」
「なあ、あんな奴のどこがいいんだ? ほんとにお前それでいいのか? 楽しいのか?」
すると、六本木はようやく彼と目を合わせるとにらみつけた。
「あんな奴なんて言わないで。少なくとも、あんたより断然いい人よ」
「付き合ってまだ一ヶ月も経ってないんだろ? そのぐらいでそこまでわかるもんか。お前は間違ってる」
「うん。確かに間違ってたよ、一ヶ月前まではね」
六本木は再び視線を元に戻すと話を続ける。
「隼一とは、今まで付き合った人の中では一番反りが合ってると思ったの。こんなに近くにいたのに、お互い気が付かなかったなんてね」
「ちょっと待ってくれよ。じゃあ、今まで俺と一緒にいた日々は何だったんだよ」
彼女はスプーンを荒々しくトレイに置くと再び向き合った。
「そんなこと、今更言ったってしょうがないでしょ。いい? 私達はもう別れたの。男ならいつまでも過去のことにズルズルとしがみつかないで、いい加減断ち切って」
すると、海崎は身を寄せて彼女の手を握る。
「言っとくけど、俺はまだお前を忘れたわけじゃねぇからな」
「私はあんたのこと早く忘れたいの」
六本木は自分の手にバイキンでも付いたかのように汚いものを見る目で、海崎の手を振り解いた。
「この前、合コンに行ったらさ、いい女がいたんだよ」
海崎はそれでもしつこく話を始めた。
「そしたら意外に気が合っちゃってね、携帯の番号聞いちゃったよ。んで、昨日電話がかかってきたんだよ、向こうから。これは絶対俺に気があるね」
六本木は黙って聞いていた。どうしてそんなことを向こうからベラベラと喋ってくるのか。六本木にはすぐに察しがついた。海崎は「俺は他の女と付き合うぞ。こんな俺を他の女にとられていいのか? 逃がした魚は大きいぞ」と、仄めかしているのだ。
しかし、そんな誘惑に負ける六本木ではない。彼女は既に、海崎には何の感情も持ち合わせていなかったからだ。
「あっ、そう。だから?」
「これからが楽しみだよ」
海崎は少しムッとしてつぶやいた。だから六本木にはそれが面白かった。
「真奈美は楽しいか?」
またさっきと同じことを言ってきた。
「楽しくさせてくれる男がいればいいけどな。ほうら、戻ってきたぞ、つまらない男が。じゃあな」
海崎は、あらわにした目を隠すように帽子を深く被ると、柏葉が来る前に自分から姿を消した。
「参ったよ、売り切ればっかり。ちゃんと入れとけってんだ」
「なに買ってきたの?」
「コーヒーとコーンポタージュ」
「コーンポタージュ? 何それー、何でもいいって言っても、そんなの買ってこないでよ」
やはり、柏葉といるときが一番心が休まった。
*
4時限目が始まった。多くの学生は3時限目を終えて帰宅する。学生の一番の理想は、授業は2時限目からで、ご飯を食べて3時限目を受けて終了、である。だからこの時間になると人も少なくなり、いよいよ今日も終わりが近付いてきた、という雰囲気になる。4時限目が終了すれば更に寂しくなり、ほとんどの学生は帰ってしまう。
授業が始まると、さっきのざわめきが嘘のように廊下は静まり返った。
誰もいない2階の廊下に、男が窓の外を眺めながらタバコを吹かしていた。それは海崎龍介だった。彼は腕時計をチェックする。午後3時40分だ。
確かにクドイと言われるかもしれない。もう真奈美とは別れたのだから、とやかく言う筋合いはない。だが、どうしても納得できなかった。自分と柏葉を比較してみると、自分のどこがいけないのか。そんなところはないはずだ。もっと言ってしまえば、柏葉の方が欠点が多いように思える。自分は素晴らしい人間と言えばただの自惚れに聞こえるかもしれないが、少なくとも、自分は柏葉より劣っているとは思えない。どうして彼女にはそれがわからないのだろう。
近くにいるときはその人のありがたさはわからない。一度離れて時間を置けば、真奈美にとって自分がどんなに必要な存在であるかに気付くだろうと思っていた。
やがて、その時が来た。彼は携帯電話を取り出し、柏葉隼一宛てにメールを送った。
柏葉は一人で四時限目の講義を受けていた。この時間だけは一緒に講義を受ける友達がいなかった為、ボーっとするか、寝るしかなかった。
仲間の中では、自分だけがこの時限をとるはめになってしまった。他の者は既にサークル棟の部室に集まって話をしているか、外で大会に向けての練習をしていることだろう。真奈美は今頃、部室で楽しくお喋りしているに違いない。
そんなことを考えながら30分が経過した。
机に顔を伏せて寝ていると、携帯電話が振動した。ハッとして体を起こし携帯電話の液晶画面を見てみると、メールが一通届いていた。
『2号館の2階の灰皿のある窓の所で待ってるよ♡』
ところが、不思議なことに、このメールには送信者の名前が書かれていなかった。
一般に携帯電話は、電話機のメモリーに登録してある番号から電話がかかってきた場合は、登録された名前が表示される。ところが、不便なもので、柏葉が持っているこの携帯電話の電話会社のシステムが遅れているのか、電話がかかってきたときは相手の名前が表示されるのに、メールをやり取りするときは相手の名前が表示されない。だから、送信者が本文中に自分の名前を書かなければならないのである。
六本木はいつもしっかりと文末に自分の名前を添えて送ってくるのに、このメールに限っては書いていなかった。
だが、柏葉は文面から、間違いなく六本木からのものだと確信していた。いや、この場合、誰がどう見てもそう思うだろう。
きっと名前を書き忘れたに違いない。
だから彼は、先生が黒板に何かを書き始めたのを見計らって、そっとその教室を後にした。
海崎は携帯電話をしまった。じきに柏葉がやって来るだろう。同じ館にいるのでそう時間はかからないはずだ。
彼はタバコを吹かした。
やがて、小さな足音が響いてきた。階段を降りて来る音だ。そして、向こうに人影が現れた。彼はこっちへ近付いて来た。どうやら計画どおり、彼は、ここに立っているのは六本木だと思っていたようだ。足取りが軽く見えた。だが、距離が縮まるにつれ歩幅が短くなり、上半身を突き出して誰なのかを確認しようとしていた。やがてその正体がわかると、元の体勢に戻って言葉を発した。
「もしかして、海崎?」
「そうだよ」
海崎はタバコを揉み消した。
「お前がメールを送ったのか?」
「ああ」
やはり、柏葉は少し腹を立てているようだ。それもそのはず、六本木のふりをしてメールを送ったのだから。
「どういうつもりだよ」
「ちょっと話があってね。普通に呼んだんじゃ、授業抜け出してまで来ないだろ? 俺も授業を抜け出してきた。話は授業中のほうがいい。人が少ないから」
柏葉は未だ納得いかない様子だ。
「何だよ、話って」
「そんなに怒るなよ。腹立たしいのはこっちだって同じなんだから」
「もしかして、真奈美のことか?」
柏葉も薄々感じ取っていたようだ。恐らく六本木から、海崎がしつこいという話を聞いているのだろう。
「そう。お前がいたから、真奈美は俺から離れていったんだよ」
「なんだよ、嫉妬してんのか? そんなこと俺に言うなよ。近付いたり離れたりしてるのは、彼女がしてるんだから。そんなことは真奈美に言えよ」
「言ったさ。でも、全然わかってないんだ」
「なに言ってんだよ。全然わかってないのはお前の方だろ。真奈美は、心の思うままに行動しただけだ」
「俺よりお前の方がいいってことか?」
「そんなことは真奈美自身から聞いたんじゃないのか? 俺だってまだまだ反省しなきゃならない点はあると思うけど、でもな、俺だって努力したんだよ」
それを聞いた途端、海崎は一気に頭に血が上った。そして、次の瞬間には、柏葉の襟元をつかんでいた。
「努力? 何が努力だよ。大した努力なんてしてねぇだろ! 偉そうな口利くんじゃねぇ!」
「おい、ちょっと待てよ。大した努力してないってな、お前どうしてそんなこと言えんだよ! お前見てたのか?」
「見なくたって想像つくさ! 人の物勝手に盗むんじゃねぇ!」
海崎は柏葉を突き飛ばした。彼はよろけて窓に背中を打った。窓ガラスはビリビリと振動した。
「ふざけてんじゃねぇ! 真奈美は『物』なのかよ!」
柏葉は痛さも忘れて海崎に飛びかかる。2人は取っ組み合いの喧嘩になった。
「この野郎! 横から出てきて奪いやがったくせに、偉そうに言うな!」
海崎は柏葉より体は大きかった。そして、腕の力もあった。だから、取っ組み合いの喧嘩は海崎には有利だった。彼は今度は両手で柏葉の襟をつかみ、そのまま窓に向かって押していった。
海崎は、彼と取っ組み合いの喧嘩をするつもりで授業中に柏葉を呼びつけたのだが、その喧嘩の結末までは予想していなかった。怒りと興奮で周りの状況が上手くつかめていなかった。まさか柏葉を押し倒した先が、全開になった窓だとは思わなかった。
その瞬間の映像はハッキリと覚えていた。柏葉の恐怖に引きつった顔。突然、柏葉の体重が重くなったこと。彼があっという間に視界から消えたこと。鈍い衝撃音と低いうめき声。
海崎は窓の下を覗いた。土の地面に仰向けになっている柏葉。それを見て、一瞬呆然となった。そして、手で顔を拭う。まさか、殺す気などなかった。ちょっと喧嘩になっただけだ。あそこまでするつもりはなかった。まずい、非常にまずい。
彼はその場に座り込んだ。暗い床を見つめながら、これから先のことを考えた。これは間違いなく警察沙汰だ。20年間生きてきて数々の悪さをしてきたが、警察沙汰になるほどの悪さはしたことがない。しかも、最も重い罪ではないか。警察はこの事件の加害者を捜査することだろう。日本の警察は優秀だというから、きっと自分のもとに事情聴取をしに刑事がやって来るに違いない。ドラマでしか見たことがなかったスーツ姿の刑事がやってくるのだ。しかし、これが殺人事件でなかったのなら話は別である。
海崎は今、普段使わない脳をフル回転させていた。殺人事件を別の事件に偽装する方法を。そして、一分もかからずその方法が思い浮かんだ。
授業中で、しかも柏葉が落ちた所は校舎の裏側だったので人気が少なくてよかった。幸い2階で授業をやっている教室もなかった。もし、この条件が一つでも欠けていたら、犯行を見られていたに違いない。
やがて、彼は誰にも見られずに偽装工作を完了させた。
海崎は腹をくくった。こうなってしまっては仕方がない。今さら後悔してもどうすることもできないのだ。あとは警察を恐れず、逆に自ら立ち向かって戦ってやる、という力強い心を持つだけだ。
自首する気なんて全くなかった。自分は一つも悪くないのだ。悪いのは全て、柏葉と六本木なんだから。
2
間もなく4時になるところだった。
静かだった学び舎に、けたたましい叫び声が響いた。
「大変です! 2号館の裏で自殺です! すぐに救急車を呼んで下さい!」
1人の女学生が学生課の窓口を叩いた。
学生課の課長の茅ヶ崎は、近くにいた女性職員に救急車と警察への連絡を頼み、自分は現場を見に行くことにした。学生課の戸を開けたときには、既にさっきの通報者の姿は見当たらなかった。もう先に行ってしまったのである。
「まったく、なんてことだ」
茅ヶ崎も走って現場に行くことにした。だが、運動不足の為、途中で息があがってしまい、それ以上走ることは不可能だった。彼が現場に着いた頃は、そこには野次馬が数人集まっていた。
「自殺したんだ」
「だれだれ?」
「あそこの校舎から飛び降りたんだ」
そんな声が野次馬から聞こえた。茅ヶ崎は息を整えると、ゆっくりと倒れた学生のそばに屈み込んで、状況を確認した。
まったく、どうしてこんなに若いのに自殺なんてことを考えるのだろう。死んでしまっては何にもならないじゃないか。生きている間に辛いことに突き当たるのは当たり前だ。辛いことがあるから、楽しいことが倍になって返ってくるんじゃないか。そのときに死んでしまっていては、何にもならないんだぞ。
茅ヶ崎は目の前の学生に心の中で説教をした。
「さっき学生課にこのことを言いに来た者は?」
「私です」
女学生が手を上げた。
「そうか。発見したのはいつ頃?」
「ついさっきです。そんなに時間は経ってません」
茅ヶ崎は校舎を見上げた。最上階の4階の窓が一枚ない。
「飛び降りた瞬間は見たのか?」
「いいえ」
「そうか、わかった。誰か、彼の友達はいるか?」
しかし、誰の返事も返ってこない。
「名前を知ってる者は?」
「…………」
どうやら、これ以上の情報を得ることはできないようだ。茅ヶ崎は再び屈み込み、倒れた男子学生のそばにいた。
「華奈、こっちこっち」
茅ヶ崎は救急車が到着することに若干の苛立ちを感じていると、向こうから1人の女性が近付いてきた。茅ヶ崎のよく知る人物だ。
黒のストッキングを履いた長い脚を太ももから露出させたその女性は、真っ白なマイクロミニスカートのヒップを揺らしながらも、黒のブラウスを着た背筋をピンと伸ばし、落ち着いた面持ちで近付いてきた。腰まで垂らした茶色交じりのロングヘアーは、一定のリズムでゆらゆら揺れる。
「おお、水咲君か。この前はありがとな。図書館もようやく元通りだよ」
「良かったです。でも、また……ですね」
「ああ、参った参った。どうやら彼が自殺を図ったらしいんだ。君はどうしてここに?」
水咲と呼ばれた、頭にブルーのサングラスをのせていた彼女は甘い美声で答えた。
「彼女がわたしに電話をくれたんです。ののちゃん、ありがとう」
水咲が礼を言うと、野次馬の中から銀縁眼鏡をかけた体の細い小柄な女学生が姿を現した。
「なんか事件が起こったみたいだから、これは華奈の出番かなって思って」
首筋まで伸びたショートカットの佐々木原ののかは、小学生のような子供じみた声をしていた。白のワンピースのロングスカートに短い白のソックスを履き、いつ走り出してもおかしくないような運動靴を履いていた。どうやらほとんど化粧はしていないようで、本当に大学生であるのか疑わしい。アクセサリーは時計とイヤリングくらいで、度の高い眼鏡をかけているので、あまり目立たない地味な女性だ。
幼い顔をした佐々木原と形の整った美顔の水咲には、かなりのギャップがあるように見えた。
「そうか。でも、今回は水咲君の出番はないみたいだな。何しろ自殺だから。今、救急車を待っているところでね。おい、まだ救急車は来ないのか」
茅ヶ崎の若干の苛立ちは、本格的な苛立ちに代わりつつあった。
「華奈、見て。4階の窓が一枚ないでしょ。あの窓がこれみたいね」
佐々木原は地面に落ちた派手に割れた窓ガラスを指した。
突如、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。周囲の人間は自分の電話ではないかと胸元やポケットをまさぐった。しかし、呼び出し音は一向にやまない。どうやら、事件の様子をうかがっていた者達の電話ではなかった。それは、倒れている男子学生の胸ポケットから聞こえてきた。
水咲はその学生の携帯電話を取り出す。と同時に、呼び出し音が切れた。液晶画面を見ると、どうやら彼の友達からの電話らしい。水咲は今電話をかけた人間とコンタクトをとる為、すぐにかけ直した。数秒後、相手が電話に出た。
「あっ、もしもし隼一? 授業終わったらさ、すぐに部室に来いよ。対戦相手が決まったらしいから」
電話の男は、今自分がかけている相手がどんな状況なのか知らないようだ。
「あの、ちょっと待って」
相手の声が途切れた。どうやら驚いているらしい。それはそうだ。電話の向こうから、まさか女の声が聞こえてくるとは思ってもいないのだから。
「わたし、この携帯を拾ったんですけど、この携帯の持ち主を知りたいんです。お願いします、教えて下さい」
男は戸惑っていた。
「あっ、そうなんですか。えっと、どうしようかな……」
当然のことながら、電話の男はそう易々と見ず知らずの人間に電話の持ち主の名前を打ち明けない。
「実は、この電話の持ち主が自殺をしたの」
「自殺!? なんで!? どこで!?」
男の声のトーンが変わった。
「2号館の裏です。大至急、来てもらいます?」
こうして数分後、彼らの前に電話の男が現れた。
「柏葉です。柏葉隼一。彼は大丈夫なんですか?」
「わからん。救急隊が来ないと何にもわからん。まだ来ないのか」
茅ヶ崎は怪我人の名前を確認すると、自分の携帯電話で学生課の人間に連絡をとった。
「茅ヶ崎だ。生徒の名前がわかった。柏葉隼一君だ。すぐに自宅の電話番号を調べて、両親に連絡してくれ。あと、救急車が全然来ないぞ。どうなってんだ?」
佐々木原はこの状況をしっかりと目に焼き付けていた。こんなこと2度とあってはならない。
「ねぇ、華奈。これ明日の新聞に載るかな?」
神妙な顔付きの佐々木原はそう語り掛けると、水咲は柏葉の携帯電話を何やらいじっていた。そして、水咲はふと目が止まると顔を上げた。
「ののちゃん、どう思う?」
水咲は腕を組み、佐々木原とは目線を合わせずに聞いてきた。
「えっ? どう思うって、かわいそうだなぁって」
「それだけ?」
「柏葉さんは何を思いつめてたのかなぁ、って」
「違う違う。そんなことじゃなくて、ほんとにこれ、自殺したと思う?」
佐々木原は思わず水咲に詰め寄ると、音量を落として聞き返した。
「自殺じゃないの?」
水咲はこくりとうなずいた。
「多分ね」
水咲は佐々木原の下を離れると電話の男に近付いた。
「水咲です。どうもありがとう。あなたを呼び出したのわたしなの。あなたは……?」
「堂島です。でも、なんで自殺なんかしたんだよ」
「自殺をするような人じゃなかったんですか? 柏葉さんて」
「だって、一週間後にテニスの大会があるんっすよ。なのにどうして」
堂島は困惑していた。そして、柏葉の自殺理由の次に気になったのは、彼の代わりを誰が果たせるのかということだった。メンバーを変えなければならないというのは非常に痛い。
「もしかして、テニスの大会に自信をなくしちゃったとか?」
水咲は腕組みをして堂島の顔を覗き込んだ。
「いやぁ、それはないっすよ。だって、レギュラーになるためにすげぇ頑張ってたんすよ、こいつ。毎日夜遅くまで、俺まで付き合わされて、そのおかげで俺もレギュラーになれたんすから。むしろ自信がついたんです。俺達もやればできるじゃんって。それなのにどうして自殺なんか……。わからない。全然わからない。こいつの彼女だって絶対同じこと言いますよ。そうだ。真奈美に電話しなきゃ」
堂島はその場で失礼して、震える指を押さえながら目的の番号を見つけると電話をかけた。
「おい、真奈美、落ち着いて聞けよ。隼一がな、飛び降り自殺したんだ。2号館の裏だ、すぐ来い」
やがて、遠くから救急車のサイレンが鳴り響いてきた。
「やっと来たか。なにモタモタしてたんだ、ったく。しかし、どうしてこんなことばっかり起こるんだ」
茅ヶ崎の苛立ちは頂点に達していた。
救急車が現場に到着すると、にわかに学内が賑やかになった。そして、事件の存在に気が付いた学生達が、第2陣の野次馬として2号館裏に集まってきた。今までどこにこんなに人がいたのかと思うくらいだ。まだ授業中だというのに、野次馬はさっきの3倍に膨れ上がった。
その学生の中に1人、泣きじゃくる女学生がいた。彼女は柏葉を抱え上げたい気持ちで一杯であったが、茅ヶ崎は必死に彼女を抑えていた。
「落ち着け! 落ち着け! まだどうにかなったわけじゃないんだから!」
「どうして!? どうしてこんなことしたの!?」
2人の救急隊員はすぐに車には乗せずに、しばらく柏葉を診ていた。やがて、野次馬達の好奇心をさらに助長させるように、もう一つのサイレンが遠くから鳴り響いてきた。警察のお出ましである。一台のパトカーが慎重にキャンパス内に滑り込んでくると救急車の横に停車した。中から3人の警察官が降りると、救急隊員と何かを話し始めた。
「どうして自殺なんか……」
その泣き叫ぶ女学生をよそに、堂島は落ち着いた声で水咲に説明した。
「今あそこで泣いてる彼女が、六本木真奈美。柏葉の彼女ですよ。まぁ、彼女の辛い気持ちはよくわかりますけどね」
「ど、どういうことですか?」
佐々木原は緊張しているのか、少し声を震わせて聞いた。
「彼女はそれまで、他の男と付き合ってたんですけど、柏葉はそんな真奈美を振り向かせたんです」
「ってことは、略奪愛ですか?」
「何にも知らない人から見ればそう思えますけど、そうじゃないんです。奪い取ったんじゃなくて、柏葉の努力に真奈美が惹かれたんです。いい恋愛してやがる」
「そ、そうなんですか。それなら辛いですね」
佐々木原は同情してうつむいた。
「だけど、何であいつはこんなことしたんだろう。付き合い始めて一ヶ月も経ってないのに。俺だったら、彼女がいたら嫌なことなんて吹っ飛んじゃうけどね」
すると、今まで黙っていた水咲が口を開けた。
「ということは、六本木さんの元カレは、あんまりいい気分じゃないんでしょうね」
「そうっすね。普通の男だったらフラれたって思うけど、あいつの場合は彼女をとられたって考えてますよ」
「堂島さんは、六本木さんの元カレって知ってるんですか?」
「知ってますよ。だって同じサークルだから」
水咲はにこりとした。堂島もにこりとした。堂島は自分に気があるんだと勘違いしていた。
「その彼に会わせてもらえます?」
「いいっすよ。でも、多分まだ授業やってると思いますけど」
堂島は元カレの居場所を教えた。
第5話 自殺未遂の確率~事件編《前編》【完】