置いてきた(夢/現実)の在り処を
ちゃぽん。
湯船の中に沈めた腕から力が抜けていく。ぐったりとした私の体は、今にもこのお湯の中に溶けて消えてしまうのではないかと勘違いしてしまうくらいに、生気が足りていなかった。いっそ、本当に溶けて消えられたらどれだけ楽だろうか。
「……はぁ」
ため息が風呂場の中をこだまする。
しあわせがにげるよー、なんて彼に笑いかけたのはいつの事だっただろうか。実際に幸せを取り逃がしてしまった自分の姿があまりにも惨めで、私はさらに溜息をつくのであった。
*
彼氏に浮気をされた。
彼とは既に付き合い始めて5年。同棲もしていたし、結婚の計画も二人で話し合って着々と進めていた。もう、生涯彼と添い遂げる気でいたし、彼も同じ気持ちだと思ってた。
だけど、彼はある日突然私に土下座をした。『浮気をしてしまった』と涙を流しながら。
たった一度の浮気。されど、一度は越えてしまった禁断の一線。私は彼の言っていることが実感を持って理解できなくて、こういう話ってよくあることなのだろうかなんて、タイミングの合わない話を頭のどこかで考えながら、一つの答えを出した。
(……許そう。一度の浮気はショックだが、味をしめて二度目に走る事もなく、こうして泣いて謝ってくれる彼なら、もう一度信じられる気がする。
頭を上げて。
ちゃんと言ってくれてありがとう。
それはそれとしてふざけんな。
言いたいことがいっぱいあって、それでも私の中で揺るがなかった彼への想いをなんとか口にしようとしたその時、彼のほうが一瞬先に口を開いてしまった。
『……別れよう』
え、と。今まで考えていた言いたかったことが全部吹っ飛んだ。何も言えない私に彼は続けた。
君に僕を疑いながらこれから過ごさせるのは申し訳ない。
君の事が好きだからこそ、一度浮気してしまった僕なんかと一緒に居て欲しくない。
君は何も悪くない。悪いのは全部僕だ。
私は、信じられなかった。彼が既に諦めてしまっていたことに。また二人で頑張ればまたやり直せるって、私は信じていたのに。
私が何を言おうと、彼は『君は素敵な女性だから、僕みたいなクズよりももっといい男がみつかる』と言って聞き入れなかった。
そんなのって、ないじゃん。
私が悪いわけじゃない。本当にその通りだとは思う。でも、それってつまり、私は何も直せない、
私が何をしても、なんの説得にもならないって事じゃない。
結局、そのまま彼は出ていった。
私は、無力感、喪失感打ちひしがれていた。
*
結局彼とはその後連絡もつかない。私は捨てられたのか、なんて一人で涙を流したりもした。
私達の同棲していた2DKの団地の一室は明日には引払われることになり、私は実家に戻ることになった。
でも、こうして一人で風呂に入っている時間だけはあまりにも今まで通りでしかなくて。
もしかしたら、浮気も何も全部夢で、こうやって風呂を出たら、やっぱり彼がいて……
そんな、有るはずもないと自分でもわかっている、それでも心のどこかで縋ってしまうような幻想を抱きながら、私は湯船から上がった。
そのまま、考えなしに風呂場の扉に手をかけた私は、いったいどれだけ愚かだったのだろうか。
「……」
一目に見渡せてしまう狭い家の中。
暗くて、誰もいない。換気のためと開けていた窓から冷たい風がぴゅるりと風呂上がりの火照った体に吹き付ける。
はっと、意識を引き起こされた気がして、背筋が冷えた。
この家は既に明日出ることができるように多くの家具や私物が取り払われていて、そこにあったはずの色々なものが虫食い状にその姿を消してしまっている。積み上げられた段ボールの無機質な土色が、私の大事な領域を土足で踏みにじる音を鳴らしていた。
目の前の景色のすべてが訴えかけていた。私達がこの家で描いた夢はすべて幻であり、辿ってきた現実はもう二度と手に入らないものであると。本来そこにあるべき景色は、もう失われてしまったものであると。
「……なによ」
発した言葉に意味はない。ただ、口からモヤモヤした心のかけらが漏れ出しただけだ。
私は何も悪いなんてしていない。浮気をしたのは彼だ。私から浮気をした事なんて当然ないし、生活もしっかり支えて、夜の方だってお互い不満なんてさせなかった。
なのに、どうして私からこんなにも奪っていくの?
私は段ボールの山の中から今日の分のパジャマを一枚取り出すと、タンスがあったはずの、家具一個分不自然に空いた隙間の前に立った。
慣れた手付きで棚をひこうとして、手が空を掻く。
その意味のない行動を何度か繰り返していると、自然と涙がこぼれ始めた。
ここには、確かにあったはずなのだ。私たちの生活の一部が。『いつかいい思い出になるんだろうね』なんて言いながら二人で一つずつだけ、つけた、傷……が…………
「あ、あれ……?」
目の前にチカリと見えた傷跡を指で撫でようとして、違和感を覚えた。
傷跡の形は思い出せる。傷跡の色も思い出せる。それなのに、なんで。
……傷跡の触り心地だけが、思い出せないのだろか。
「ぇ、うそ、待って」
背筋に嫌な寒気が走って、私は有りもしないタンスにすがりついた。
ほら、あるはずなのだ。ここに、ホントは。
「っ……」
必死に思い出そうとする。ここにあるタンスを。大きく目を見開いて、そこにタンスを見ようとする。
なのに、目から入ってくるのはただの空間、3年以上住んでいたにしてはやけに綺麗なフローリングだけで。
「な、んでっ……」
目を凝らして思い出そうとすればするほど、その空虚な隙間が目に焼き付いてくるばかり。目の前の景色が、どんどんと私の『思い出』を侵食していく。この場所にあるのはこの寂しい景色だけなんだと、頭の中で刷り込みが行われていく。
そんなどうしようにもない喪失感に抗う中で心の奥底で、何かを諦めるようなうめき声が聞こえた気がした。
……あぁ、私、既に『思い出』なんて割り切り方しちゃってるんだ。
気づいた。いや、気づいてしまった。
私は、この部屋で過ごした毎日を、現実を、当然のように『思い出』なんて、過去のものとして受け入れてしまっていたのだ。
一度気づいてしまえば早い。
あんなにも否定したがっていた目の前の景色が受け入れられていく。
彼氏に浮気をされたという現実が受け入れられていく。
私の追いかけた将来は叶わぬ夢でしかなかったと受け入れられていく。
「や……やめ、てよ……」
「もう、わたしから、何も奪らないでよぉ」
私から奪われた現実が現実であると、私は認めてしまった。
私は膝から崩れ落ちて涙を流す。
拭ってくれる彼は、もういない。