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あい色  作者: しゅうまい
6/9

哀色


 この世の中には、踏み込んではならない領域というものがある。と、俺は思う。

 世界の真理。禁忌の入口。そして誰かの、こころの闇。

 それは、たった一度で自分を変えてしまうから。

 それは、たったの一度で人生を、価値観を、すべて変えてしまうから。

 だけど人は。それが目前にまで迫っている時、果たして踏み止まれるだろうか。

 それを、現実として意識した時、果たして上手く無視することができるだろうか。

 ……彼女の下着姿が拝める状況で俺は、果たして理性を保っていられるだろうか。

「……………」

 ……いやなに、この状況。

 なんで俺たち下着で仰向けになってんの。

 なんで俺たち横に並んで寝っ転がってんの。

 ……事後かよ。

 ……違うよ。

 ……まだ事前、うるさいよ。

 いやいや大丈夫。だってやましいことは、なにもない、はずじゃないか。雨が降ったあとなんだから。濡れた衣服を乾かしているだけなんだから。ていうか、脱ぎ始めたのも、脱ぐように促したのも全部、彼女の方なんだから。

 ……いったい俺は、誰に、なにを言い訳してるんだ。

 二人だけの、二人と一匹だけの世界で半裸、かつ同衾、こんな状況で俺は、誰に、なにを。

 ……やめてくれよ、まるでやましいことがあるみたいじゃないか。

 だいたい空木さんも空木さんだ。なにを思って彼女は、こんな。

『……どうして私は』

 脳裏に彼女の言葉がちらつく。

 この世には、踏み込んではならない領域というものがある。と、俺は思う。

 世界の真理。禁忌の入口。そして誰かの、こころの闇。あと、女性の秘部。

 だけど多分、この件に関してだけは、不安定な彼女の、その深淵だけは、どうにかして俺が。

「……童貞?」

 止まる思考、同時に。

「……は?」

 俺のところに届いたのは、耳を疑うような、そんな言葉だった。

「……だから、その、キミは、童貞なの?」

「……なんですか。突然」

 反射的に湧き出る疑問。ちなみに、危うく隣へと目をやりかけたのは、ここだけの話。

「……気になったから。そういう経験、あるのかどうか」

「……あるわけないじゃないですか。彼女すらいなかったのに」

 もうなんか、なにからどう反応すればいいかわかんないけど、少なくとも、いつもの空木さんと、なにかが違うのは明白だった。

「……私も、一緒」

 そして本日、二度目の、爆弾発言。

「……なんなんですか。いったい」

 もはや心配なんですが。ていうか、普通に怖いんですが。

 なに言ってんだ、この人。

 どうしたんだ、急に。

 俺の中で理解という言葉が凄まじい勢いを保ちながら走り去っていく。なに言ってんだ、俺も俺でわけのわからないことを。

「……ほら、だから。襲いたいな、とか、その、エッチしたいな、とか、思わないの?」

「……え、ああ」

 とりあえず、その、ぼそぼそした質問のおかげで言いたいことはわかった。

 そこに、どんな意図があったのかは、俺にはわからない、だけど。

「……思いません」

 あいにくと、嘘をつくことが。

「……勃ってるのに?」

「……こっち見ないでもらっていいですか」

 おあいにくと体の方も、嘘をつくことができなかった。

「……たしかに興奮は、してますけど。それとこれとは話が違うっていうか、なんか、そういうのは絶対に、違う、と思います」

 いたく抽象的な説明が、なんか、地味に引っ掛かる。それは、果たして本音なのか、微妙な不安が、俺を包む。

 だけど、決して嘘ではないと、それだけは断言できた。

 それで彼女は幸せになるんだろうか。

 それで彼女は笑顔になるんだろうか。

 ……仮に、そうだったとして俺は、その一線だけは越えたくなかった。

 そんな程度のものに、縋りたくはなかったから。

「……ていうか、それこそおかしいじゃないですか。お互い好きでもないのに」

 いろいろと、言葉不足ではあったろうけど、理由は、そんなもんで充分だと思う。

「……それとも、あれですか。空木さんは、好きでもない男に襲われたい、みたいな願望でもあるんですか?」

「……そういうわけじゃないけど」

 だったら、これでいい。万が一、そんな気が起きてしまったとしても、ちゃんと段階は踏んでいくべきだ。なんの予兆もなしに卒業、とか、そんなことがあっていいはずが。

「……失楽園」

 思考が止まる。それは、どこかで聞いたことのある単語。

「……なんていうかさ、もしかしたら、アダムとイブ、なのかな、とか。私たちで世界を、新しく、創造しろ、的な」

「……エデンですか」

 人類創世。詳しくは知らないけど、アダムとイブの存在くらいは俺にもわかる。存在くらいは。

 それで、ああ、なるほど、すべてに合点がいった。

 これまでの質疑応答は全部、そのためか。

 ……それに、童貞が関係あるのかは、いまいち、わからないけれども、まあ。

 なんだかんだ、いつもと変わらない空木さんで安心した。

「……でも無理がありません? 二人だけで人類繁栄とか、資源だってないのに」

「……それは、うん、そうなんだけどさ」

 そもそも、アダムとイブはどうやって人類を繁栄させたんだろう。だいぶ二人だと無理がある、いや野暮か、神話(?)に口を挟むのは。

「……俺たちって結局、なんでここにいるんですかね」

 ずっと、うやむやにしてきた謎を言葉にして出す。

 天国、地獄、未練、楽園、いろいろ考えてはきたけど、この場所については、未だに不思議なことだらけだ。

「……いずれにしても、なんで俺たちだけなんですかね」

 二人と一匹。ここが楽園であるなら、その疑問は解消できる、ただ。見ていないだけでほかに、人がいる可能性もある、それに。

「……なんで俺たちは、出会ったんでしょうね」

 どんなに考えても、そこが、一番わからない。

 俺たちしかいないにしろ、誰かいるにしろ、この逢瀬が偶然とは思い難い。運命、奇跡、神の悪戯、そういった事柄でしか、説明のしようがない。

 つまる話、なにひとつ、俺たちなんかには。

「……わからないね」

「……ですね」

 そういうことになる。さすがの空木さんも、これには匙を投げた。

「……………」

 この世の中には、踏み込んではならない領域というものがある。と、俺は思う。

 世界の真理。禁忌の入口。そして誰かの、こころの闇。おそらくこれらも、その一端だ。

 それは、たった一度で自分を変えてしまうから。

 それは、たったの一度で人生を、価値観を、すべて変えてしまうから。

「どうして世界は作られたと思う?」

 ……だけど人は、それが目前にまで迫っている時、果たして踏み止まれるだろうか。

「どうして宇宙は広がったと思う?」

 ……それを、現実として意識した時、果たして上手く無視することができるだろうか。

「どうして私たちは、生まれてきたんだと思う?」

 ……その領域へと望んで踏み込んでしまった場合に俺は、彼女は、正気でいられるだろうか。

「……ないんだよ。理由なんか、全部」

 なにかを諦めたように。

「……私たち、人は、それらをやたらと求めるけど」

 なにかを捨てるように。

「……きっと考えるだけ無駄なんだ」

 それでも、なにかへ縋りつくように、彼女は呟く。

「……そんなことないと思います」

 だったら俺は、それを拭ってやるべきだ。

「……だって楽しいじゃないですか」

 たしかに無駄ではあるかもしれないけど、そこに、価値がないとは。

「――なにが?」

 瞬間、温度を持たない声が耳を貫いた。

「……なんの意味もないんだよ。なんの理由もないんだよ。私たちの人生には。私たちの存在には。なのに、なにが楽しいの?」

 空気が張りつめる。胸が塞がりそうになる。重苦しい圧に、思わず、息を呑む。

「……教えてよ。どうして私なの。ねえ、どうして」

 おそらくは自問自答。だけど、それは明確に、彼女の、こころの。

「……死にたいよ。いい加減」

 その絶望を聞いた寸秒、完全に言葉を失った。

 呼吸を止められるような苦しい痛み。

 身を焼かれるような激しい痛み。

 トラックに轢かれた時のような悍ましい痛み。

 それらを遥かに凌駕する、彼女の悲鳴。

「……ごめんね」

 でもずっと、痛いのは彼女の方だ。

 ずっと、彼女の方が痛いはずだ。

 彼女に対して俺は、なにをしてやれた。

 いくらでもあった片鱗を、いくつ見逃してきた。

 ……なんで謝るんだよ。

 ……なにが悪いんだよ。

 いったいどんな人生を歩んだら、こんなに優しい人が、笑えなくなるんだよ。

「……ずっと、聞こうと思ってたんですけど」

 ちゃんと、こころではわかってた。これは、俺なんかにどうこうできる問題じゃないんだと、だけど。

「……どうして死んだんですか?」

 今は、俺以外に、どうこうできる人がいないから。

 今は、俺にしか、彼女を救うことはできないから、だから。

「自殺した」

 ……案の定、こういうことになるんだ。

「キミと同じだったんだよ。私も」

「誰かの、楽しそうな顔とか、うれしそうな表情が、大好きだった」

「だけど私、不器用だから、人と話をするのが苦手だったから、いつも、そんな光景を傍で見ているだけでさ。みんなの話に、友達の言葉に、耳を傾けるだけでさ」

「きっと羨ましかったんだろうな、そんな空間が」

「いつか私も、一緒になって笑えたらなって思ってた」

「いつか私も、ちゃんと輪の中に入れたらなって思ってた」

「そうしたらね。受かっちゃったんだ、どことは言わないけど、都内有数の国公立大学に、しかも首席」

「『……で?』」

「……友達の第一声」

「ようやく私も、みんなと同じ場所に立てると思ってた」

「幸せを、喜びを、笑顔を、分かち合えると思ってた」

「……結局。初めから私は一人だったんだ」

「だから、すべてのつながりを断ち切った」

「どうにか、一人で生きていくんだって決めた」

「そうしたら、いつの間にか世界から隔絶されてた」

「……気づいたんだよ」

「私が生まれて来た意味ってなんだろうって」

「私が存在する理由ってなんだろうって」

「私は世界のどこにいるんだろうって」

「私が消えても世界は、回り続けていく」

「私がいなくなっても人は、気にも留めずに生きていく」

「いやになった。どうでもよくなった。だから、躊躇もなかった。その結果、このザマだけど」

 ……なんて言えばいい。

 ……なにを言えば。

「強くないんだ。多分だけど、キミが思ってるほど、私は」

 ……だってこんなの、こころが痛いだけじゃないか。

「自己中心的で。くだらなくて。卑屈で、根暗で、臆病で、孤高ぶって、カッコつけて、なのに。表情も、感情も、中身も、なにも」

「――いいです!」

 なにもできなかった。

「……もう、いいですから」

 ただ自分のためだけに、それを止めることしか出来なかった。

 ……きっと、俺の知ってる世界は美しすぎたんだ。

 ……いつも周りは笑顔であふれてた。

 ……いつも周りは幸せに満ちていた。

 ……だから俺も、ずっとそうだった。

 ……誰もが笑える世界だと思ってた。

 ……誰もが幸せな世界だと思ってた。

 ……でも現実は、そうじゃなかった。

 ……現に彼女は、ずっと苦しんでた。

 ……ずっと、激しい痛みを抱えてた。

 ……想像以上に俺は、サイテーな人間だったのか。

「……キミは、なんで死んだの?」

 自己嫌悪。自己否定。だけど、それを繰り返したところで確実に意味はなかった。

「……とある黒猫が道路に飛び出したんです」

 そんな返答の間に、必死こいて光を探す。

「……そこにトラックがつっこんで来て。思わず庇おうとして。気がついたら、ここにいて、ああ、なんとなく死んだんだなって」

 その張本人も、今は俺の横で呑気に丸まっていた。

「……違うな。私なんかとは全然」

「……同じです」

 ほぼ反射的に返った言葉。

「……俺の人生も、空木さんの人生も。きっと、なにひとつとして変わんない」

 そこに根拠があるはずはない、だから。

「……理由は?」

 もうヤケクソだった。

「……世界のどこにも居場所がないなら、新しく作ればいいだけの話じゃないですか」

 持てる知識のすべてを。

「……なんで作らなかったんですか?」

 持てる心力のすべてを。

「……自分が傷つきたくないからですか? それとも、これ以上は誰も傷つけたくなかったからですか?」

 そして持てるだけの気合いをつめ込む。

「……似たような話を知ってるんです」

 これは、例によって『彼』の物語。

「……他人を嫌う少年がいた。なのに少年は、他人のことは傷つけたくなかった。だから、ずっと我慢してたんです、どんなに自分が傷つけられようと」

 やがて少年は葛藤を繰り返すようになる。このままでは自分が、本当の自分が、消えてしまうのではないかと。

「……だけど少年は、耐え切れなくなってしまった。そしてついに、大事な幼馴染の、そのこころに、一生、消えないような傷をつけてしまう。それを、尋常じゃないくらい後悔するんです」

「……………違う」

 最終的には、自分という存在を見失った少年が、長い、長い、本当に長い冬を迎える、そんな悲しい物語。

「……誰かを傷つけるくらいなら、一人でいた方が。誰かを悲しませるくらいなら、一人でいた方が。だから孤独を貫いた。自分を死に至らしめるまで追い込んだ。誰かのことだけを考え続けた。一匹の黒猫に命を賭けた俺と、なにが違います?」

「……………違うよ」

 頑なに否定する彼女。

「……だったら、なんで俺なんかと話してくれるんですか?」

 それを俺は、頑なに拒絶した。

「……あなた自身が寂しかったからですか? それとも、俺のことを考えてくれたからですか?」

 わずかに論点がズレているであろうことは、自分でもなんとなくわかっている、それでも。

「……もしくは、あなたが、俺みたいな人間を傷つけたいからですか?」

 そんなこと、もはや関係はなかった。

「……………それは、違うけど」

 バカな俺が彼女を説き伏せるには、こんな方法しか、なかったから。

「……世の中って多分、そんなに難しくできてないんですよ」

 隣に向き直る。そして彼女の、あられもない下着姿に思わず目を逸らす。

 ……そうだ、忘れてた。やらかした。

 えっと、だから、これはあとで謝るとして今は、ちゃんと伝えないと。

「……たしかに、生きる意味も、存在の理由も、ないのかもしれないけど、考えるだけ無駄なのかもしれないけど」

 そのためにも俺は隣を向く。できるだけ白い体の方には、目をやらないようにしながら。

「……だったら適当でいいじゃないですか」

 この上なく真剣に、自分の言葉を紡ぐ。

「誰かのために生まれてきた」

「誰かのために死んでやった」

「誰かを救うことができたなら、誰かを幸せにできたなら、もう、それでいいじゃないですか」

 なぜか人は、意味や理由を求めてしまう生き物だ。

 だけど、空木さんも言っていたように、そんなものは多分、初めから存在しない。

 ……それでも望むなら。

 ……それでも願うなら。

 だったら、それは、自分で見つけるしかないんだ。

 きっと、自分の手で生み出すしかないんだ。

「……でも私は、誰も救ってなんか」

「――俺は救われてます」

 声を張って叫ぶ。

「……こんな世界で一人だけとか、さすがに俺でも、マジで笑えないから」

 彼女のおかげで俺は、いつまでも孤独にならなかった。

「……ていうか、めっちゃ楽しいんです」

 彼女のおかげで俺は、いろんなことを考えるようになった。

「……空木さんと話すことが、空木さんの近くにいることが、新鮮で、面白くて、すごい心地いいんです」

 彼女のおかげで俺は、俺のこころは、ずっと満たされてた。

「……だから俺は、空木さんと出会えてよかった」

 そんな、こころからの感謝は、彼女に届くだろうか。

「俺を救ってくれたこと。俺を幸せにしてくれたこと」

 こころからの想いは。こころからの言葉は。

「……こんな俺に、笑顔をくれたこと」

 ちゃんと彼女のこころにも伝わるだろうか。

「あなたが生まれてきた意味は。あなたが存在してきた理由は。それじゃダメですか?」

 ……………。

 じっと、彼女の表情だけを、その目に映す。

 いつの間にか彼女は、ふるふると震えていた。

 やがて瞳を、自らの手で覆う。

「……ずるいよ」

 どうやら、想像以上に効果はあったらしかった。

 一気に体の力が抜ける。安堵感が全身に包む。

 いずれにしても、なんとかなったみたいでよかった。

「……もっと早くに、出会えてたらな」

 涙ぐんだ顔で、ボロボロの声で、彼女は言う。

 ……ああ、違う、そうか。手遅れなんだ。

 ……俺たちは、もう死んでるから。

 涙は、すべてを洗い流す。喜びも、悲しみも、苦しみも、憎しみも。

 だけど事実は永遠に変わらない。忘れることはできたって俺が、彼女が、死んでしまった事実は永久に変わらない。

 ……ほら。案の定、こういうことになるんだ。

 ひどく、ひどく、哀しい世界だと思った。


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