靄色
……雨。
世界を覆う雨水。静寂の中に咲く雨音。かすかに揺れ動く雨雲。いつまでも眺めていられるほど、この空間での、それは壮大だったけど。
なぜか、とても虚しく思えた。
「……なかなか止みませんね」
「……そうだね」
考えてもみれば、この世界には俺たちしかいない。
「……濡れちゃいますね」
「……そうだね」
こんな光景を眺められるのは、俺たちしかいない。
「……ていうか、雨なんて降るんですね」
「……そうみたいだね」
そのことを、空はどう思ってしまうんだろう。
「……場合によっては、雹とか雪とかも降るんですかね」
「……そうかもね」
どんな風に、俺たちのことを。
「……あの」
たまらず声を出す。
「……なんか、適当じゃありません?」
「……そうだね」
「……だから」
雨が降り始めてから空木さんは、ずっとこの調子だ。空を見つめたまま微動だにする気配もない。まさに、上の空といったところだった。
「にゃあ」
と、彼女の膝で濡れるのが嫌だったのか、珍しく黒い毛玉がこっちに寄ってくる。そうして膝の上に乗っかると、勢いよく身を震わせた。
……こいつ。
しかも、図々しく寛ぎやがっている。触ろうとすれば威嚇してきやがる。なに、傘にでもなってろってことか、ぶっ飛ばすぞ、お前。
「……………」
依然として彼女は、じっと、一点だけに視線を注いでいる。まるで空に、雨に、目を奪われているような。
「……好きなんですか?」
「……え?」
その一言に、ようやくこちらを振り返る彼女。だけど、それは一瞬の話。
「……雨。お好きなんですか?」
「……ううん。そういうのじゃないよ(ないんだ・ないけど)」
気づけば、視線は世界の方に戻っていた。
「……いつの日でも空は、そばにいてくれた」
そうして語られる彼女の世界。
「……どんな時でも空は、そこにいてくれた」
彼女だけが見ている世界の形。
「……私にとってはヒーローみたいな存在だった。だから私も、空が泣いているなら、それに寄り添ってあげたいんだ」
そう呟く彼女の横顔は、なにを思っているのかわかりにくい、だけど。
その声色は。どうにも嬉しそうに聞こえた。
「……そうですか」
だから、ほんの少しでも、そっとしておいてあげようと。いつものように、そんなことを思った。
……空が泣いている、か。
視線を世界の方に、雨の方に向けてみる。その目に映るのは、いつまでも、ただの絶景だけだ。
それは多分、俺には到底、理解できない感覚。
だけど、もしも、空に感情というものがあるというなら、俺は。
「……変かな」
「……え?」
思考が止められる。再度、彼女に視線を戻すと。
「……私って変かな」
そんな言葉を、いつもと同じような声色で向けられた。
「……変では、あるんじゃないですか?」
俺の素直な返答に、彼女はなにを思うだろうか。
その横顔は、なにを考えているんだろうか。
こころを体現できないというのは、どんな気分なのか。
いずれにせよ、それは多分、俺には一生、理解できない感覚。
だけど、もしも、彼女に表情がないというなら、俺は。
「……じゃあ、俺も手伝います」
そばにいてあげたいと、きっと、そう思う。
「……俺も一緒に、寄り添ってみます」
そこにいてやりたいと、きっと、そう思う。
「……キミも大概だよ」
それを変だというなら、それは、きっといいことだ。
それからしばらくは、二人で雨を見つめていた。
視線を交わさず、言葉も交わさず、そっと、お互いとも世界に身を委ねていた。
思えば、こんな風に世界と相対したのは初めてかもしれなかった。
この世界はおろか、生きていた頃だってこんなことはしなかったから。ていうか、世界のことなんか眼中になかったから。
……だから、なんだろうな、不思議な感覚だった。
まるで世界にも意志があるようで。
まるで世界も向き合ってくれているようで。
そしてなんとなくだけど、『彼』の言葉の意味が、わかるような気もした。
「――絶望の空」
長かった沈黙を破る。空木さんの方も、こっちを向いてくれた。
「……俺の、憧れてる人が言ってたんです」
うろ覚えながら、それらを口に出す。
「どんなに手を伸ばしても絶対に届かない」
「どんなに縋っても絶対に助けてくれない」
「そんな人間たちを嘲るように、空は、いつもそこで世界を見下す」
「そこに、果たして希望はあるのか」
「そこに、果たして光はあるのか」
「そこに、果てと呼べるものはあるのか」
「――見上げた先には、絶望の空が広がっていた」
当時の俺は、理解できなかった。
なぜ『彼』が、この考えに至ったのか、どんな世界を『彼』が見ているのか、俺には理解できなかった。
だけど、そんな言葉が、俺の世界を彩ったのも事実だった。
「……空木さんは、どう思いますか?」
だからこそ気になる。おそらくは『彼』と、似たような存在である彼女が、これに、なにを思うのか。
「……私は、そうは思わないよ」
再度、空木さんは視線を空の方へ戻す、そのまま。
「……だって空の気持ちを知っているから」
なにかを護るように、なにかを信じるように、彼女は呟いた。
「誰にも触ることができない」
「誰からも助けてもらえない」
「誰も、存在を認識してくれない」
「それなのに、見守ってくれている」
「それなのに、涙まで流してくれる」
「きっと、許されてないんだよ、それくらいしか」
「……だから。絶望なのは、空の方なんじゃないかな」
彼女の優しい声が、優しい想いが、こころの中に反響する。それは、『彼』の時とは、質の違う衝撃だった。
どちらが正解なのかは、俺にはわからない。
そもそも、こういうのに正解があるっていう考え自体がおかしい。
だけど、もしも『彼』が、これを聞いたら、どう思うんだろう。
案外、なびいてしまうんじゃないかと、そんな気さえした。
なぜ彼女は、この考えに至ったのか。
どんな世界を彼女は見ているのか。
たしか彼女は、自分にとってのヒーローだと、そんな風に空のことを語っていたはずだ。
だから自分は、寄り添ってあげるのだと、そんな風にも語っていたはずだ。
彼女の、空に対する固執は、どこから生まれたんだろう。
彼女と空には、どんなつながりがあるんだろう。
……空って何者なんだろう。
なにを思って生きているんだろう。
なにを考えて生きているんだろう。
俺たちと、いったいなにが。
「……『生きている』」
正直、自分でもなにを言っているのかわかんなかった。
「……人間も、空も、世界も、生きている」
大方、脳の使いすぎで暴走したんだろうけど。
「……あ、すみません。特に意味は」
「――必要あったのかな」
思わぬところで誤算が生じてしまった。
「――なんの意味があったのかな」
声色が変わる、空気が変わる、気のせいか、表情も変わっているような。
「……どうして私は生まれてきたのかな」
いつもとは違う彼女の、その言葉は、こころに重く、のし掛かった。
やがて雨は、勢いを弱めていく。
徐々に、徐々に、見慣れた晴れ間が覗き始めていく。
そんな中、世界のすべてを祝福するように。
とてつもなく大きな虹が、綺麗な弧を描きながら、俺たちの前に姿を現す。
鮮やかなコントラスト。煌びやかなカラーリング。
ハッキリと輝く、七つの光。
本当に、いつまでも眺めていられるほど、この世界での、それは壮大だった。
「……ほらね」
彼女の言葉に反応して振り向く。
「――キミの大好きな笑顔だよ」
そう口にした彼女の表情は、声色は、いつもとなにも変わらなかった。
「……………」
俺たちが寄り添ってあげたから、空の涙は止まった。
俺たちが寄り添ってあげたから、空は笑顔になった。
……だったら。彼女の雨は、彼女の靄は、いったい誰がはらってやれるんだろうか。




