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あい色  作者: しゅうまい
5/9

靄色


 ……雨。

 世界を覆う雨水。静寂の中に咲く雨音。かすかに揺れ動く雨雲。いつまでも眺めていられるほど、この空間での、それは壮大だったけど。

 なぜか、とても虚しく思えた。

「……なかなか止みませんね」

「……そうだね」

 考えてもみれば、この世界には俺たちしかいない。

「……濡れちゃいますね」

「……そうだね」

 こんな光景を眺められるのは、俺たちしかいない。

「……ていうか、雨なんて降るんですね」

「……そうみたいだね」

 そのことを、空はどう思ってしまうんだろう。

「……場合によっては、雹とか雪とかも降るんですかね」

「……そうかもね」

 どんな風に、俺たちのことを。

「……あの」

 たまらず声を出す。

「……なんか、適当じゃありません?」

「……そうだね」

「……だから」

 雨が降り始めてから空木さんは、ずっとこの調子だ。空を見つめたまま微動だにする気配もない。まさに、上の空といったところだった。

「にゃあ」

 と、彼女の膝で濡れるのが嫌だったのか、珍しく黒い毛玉がこっちに寄ってくる。そうして膝の上に乗っかると、勢いよく身を震わせた。

 ……こいつ。

 しかも、図々しく寛ぎやがっている。触ろうとすれば威嚇してきやがる。なに、傘にでもなってろってことか、ぶっ飛ばすぞ、お前。

「……………」

 依然として彼女は、じっと、一点だけに視線を注いでいる。まるで空に、雨に、目を奪われているような。

「……好きなんですか?」

「……え?」

 その一言に、ようやくこちらを振り返る彼女。だけど、それは一瞬の話。

「……雨。お好きなんですか?」

「……ううん。そういうのじゃないよ(ないんだ・ないけど)」

 気づけば、視線は世界の方に戻っていた。

「……いつの日でも空は、そばにいてくれた」

 そうして語られる彼女の世界。

「……どんな時でも空は、そこにいてくれた」

 彼女だけが見ている世界の形。

「……私にとってはヒーローみたいな存在だった。だから私も、空が泣いているなら、それに寄り添ってあげたいんだ」

 そう呟く彼女の横顔は、なにを思っているのかわかりにくい、だけど。

 その声色は。どうにも嬉しそうに聞こえた。

「……そうですか」

 だから、ほんの少しでも、そっとしておいてあげようと。いつものように、そんなことを思った。

 ……空が泣いている、か。

 視線を世界の方に、雨の方に向けてみる。その目に映るのは、いつまでも、ただの絶景だけだ。

 それは多分、俺には到底、理解できない感覚。

 だけど、もしも、空に感情というものがあるというなら、俺は。

「……変かな」

「……え?」

 思考が止められる。再度、彼女に視線を戻すと。

「……私って変かな」

 そんな言葉を、いつもと同じような声色で向けられた。

「……変では、あるんじゃないですか?」

 俺の素直な返答に、彼女はなにを思うだろうか。

 その横顔は、なにを考えているんだろうか。

 こころを体現できないというのは、どんな気分なのか。

 いずれにせよ、それは多分、俺には一生、理解できない感覚。

 だけど、もしも、彼女に表情がないというなら、俺は。

「……じゃあ、俺も手伝います」

 そばにいてあげたいと、きっと、そう思う。

「……俺も一緒に、寄り添ってみます」

 そこにいてやりたいと、きっと、そう思う。

「……キミも大概だよ」

 それを変だというなら、それは、きっといいことだ。



 それからしばらくは、二人で雨を見つめていた。

 視線を交わさず、言葉も交わさず、そっと、お互いとも世界に身を委ねていた。

 思えば、こんな風に世界と相対したのは初めてかもしれなかった。

 この世界はおろか、生きていた頃だってこんなことはしなかったから。ていうか、世界のことなんか眼中になかったから。

 ……だから、なんだろうな、不思議な感覚だった。

 まるで世界にも意志があるようで。

 まるで世界も向き合ってくれているようで。

 そしてなんとなくだけど、『彼』の言葉の意味が、わかるような気もした。

「――絶望の空」

 長かった沈黙を破る。空木さんの方も、こっちを向いてくれた。

「……俺の、憧れてる人が言ってたんです」

 うろ覚えながら、それらを口に出す。

「どんなに手を伸ばしても絶対に届かない」

「どんなに縋っても絶対に助けてくれない」

「そんな人間たちを嘲るように、空は、いつもそこで世界を見下す」

「そこに、果たして希望はあるのか」

「そこに、果たして光はあるのか」

「そこに、果てと呼べるものはあるのか」

「――見上げた先には、絶望の空が広がっていた」

 当時の俺は、理解できなかった。

 なぜ『彼』が、この考えに至ったのか、どんな世界を『彼』が見ているのか、俺には理解できなかった。

 だけど、そんな言葉が、俺の世界を彩ったのも事実だった。

「……空木さんは、どう思いますか?」

 だからこそ気になる。おそらくは『彼』と、似たような存在である彼女が、これに、なにを思うのか。

「……私は、そうは思わないよ」

 再度、空木さんは視線を空の方へ戻す、そのまま。

「……だって空の気持ちを知っているから」

 なにかを護るように、なにかを信じるように、彼女は呟いた。

「誰にも触ることができない」

「誰からも助けてもらえない」

「誰も、存在を認識してくれない」

「それなのに、見守ってくれている」

「それなのに、涙まで流してくれる」

「きっと、許されてないんだよ、それくらいしか」

「……だから。絶望なのは、空の方なんじゃないかな」

 彼女の優しい声が、優しい想いが、こころの中に反響する。それは、『彼』の時とは、質の違う衝撃だった。

 どちらが正解なのかは、俺にはわからない。

 そもそも、こういうのに正解があるっていう考え自体がおかしい。

 だけど、もしも『彼』が、これを聞いたら、どう思うんだろう。

 案外、なびいてしまうんじゃないかと、そんな気さえした。

 なぜ彼女は、この考えに至ったのか。

 どんな世界を彼女は見ているのか。

 たしか彼女は、自分にとってのヒーローだと、そんな風に空のことを語っていたはずだ。

 だから自分は、寄り添ってあげるのだと、そんな風にも語っていたはずだ。

 彼女の、空に対する固執は、どこから生まれたんだろう。

 彼女と空には、どんなつながりがあるんだろう。

 ……空って何者なんだろう。

 なにを思って生きているんだろう。

 なにを考えて生きているんだろう。

 俺たちと、いったいなにが。

「……『生きている』」

 正直、自分でもなにを言っているのかわかんなかった。

「……人間も、空も、世界も、生きている」

 大方、脳の使いすぎで暴走したんだろうけど。

「……あ、すみません。特に意味は」

「――必要あったのかな」

 思わぬところで誤算が生じてしまった。

「――なんの意味があったのかな」

 声色が変わる、空気が変わる、気のせいか、表情も変わっているような。

「……どうして私は生まれてきたのかな」

 いつもとは違う彼女の、その言葉は、こころに重く、のし掛かった。



 やがて雨は、勢いを弱めていく。

 徐々に、徐々に、見慣れた晴れ間が覗き始めていく。

 そんな中、世界のすべてを祝福するように。

 とてつもなく大きな虹が、綺麗な弧を描きながら、俺たちの前に姿を現す。

 鮮やかなコントラスト。煌びやかなカラーリング。

 ハッキリと輝く、七つの光。

 本当に、いつまでも眺めていられるほど、この世界での、それは壮大だった。

「……ほらね」

 彼女の言葉に反応して振り向く。

「――キミの大好きな笑顔だよ」

 そう口にした彼女の表情は、声色は、いつもとなにも変わらなかった。

「……………」

 俺たちが寄り添ってあげたから、空の涙は止まった。

 俺たちが寄り添ってあげたから、空は笑顔になった。

 ……だったら。彼女の雨は、彼女の靄は、いったい誰がはらってやれるんだろうか。


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