相色
俺と彼女が出会ってから数刻が過ぎた。
変わらず、二人の間に言葉はない、だけど。
なぜか不思議と、気まずいとは思わなかった。
共有し合える沈黙。こころ落ちつく静寂。俺にとっては、その距離感は、その間隔は、すごく新鮮なものだったから。
……なんだかとても、居心地がよかった。
そういった観点から見ても、なにか彼女には、特別な魅力があるんだろうと。
「――名前」
唐突な発言に思考を止められる。反射的に、声のする方へ体が向かう。
「……この仔、名前は?」
その先にある、彼女の視線、の、その先には、彼女の膝で寛いでる黒い毛玉の姿が。
「……あ、わかんないです。それは」
率直に言葉を返す。
「……でも多分、そいつ野良だから、名前とかつけられてないと思いますよ」
一応の補足。実際のところ、それがどうなのかもわかんないけど。
思えば、俺がこいつと一緒にいた時間は、空木さんの、それと大差ないのか。なんなら嫌われてる分、懐かれている空木さんよりも少ないはずだ。
空木さんのことはおろか、俺は、こいつのことも、よく知らないんだな。
「……サタン」
「……ん?」
彼女の口から、うすぼんやりと聞いたことのある言葉が飛び出す。
「……そいつの名前ですか?」
「……うん。黒猫だから、サタン」
「……なぜ」
その結論には、どういう思考で至ったんだろうか。
「……ほら、サタンも気に入ってくれてるよ」
「にゃあ」
「……なぜ」
なんか、どうやらここでは俺が異端のようだ。
とはいえ、ここに来た経緯を考えると、あながち悪魔というのも間違ってはいないのかもしれない。冗談だけど。
「……空木さんは、動物とか飼ってなかったんですか?」
この際だから、簡単な質問でもしてみることに。
「……飼えなかった。家、マンションだったから」
俯きがちに返答する彼女。動物の扱いには慣れてそうだったから、ちょっと意外だった。
「……でも代わりに、動物園には通ってたよ」
「……通ってた?」
妙に引っ掛かる言い回し。
「……大学生になってからは、ほぼ毎日じゃないかな」
それは、俺にとっては軽めの衝撃発言だった。
「……そんなに好きなんですか」
「……うん。大学自体、それで選んだようなものだったから」
それに人生を左右されるレベルなのか。俺には考えられないな。
「……キミは?」
すっと、俺の方に向けられる視線。
「……なにかなかった? 好きなもの、とか。熱中してたもの、とか。そういうの」
そう言われて記憶を掘り返す、だけど。
「……特には」
そう結論づけるのに、さほど多くの時間は要さなかった。
「……強いて言うなら憧れの作家が一人いましたけど、なんだろうな、そういうのとは、なんか違うっていうか」
なんとなくわかる。きっと俺には、なにもないんだろう。
なにかに打ち込んだ思い出も、なにかと向き合った思い出も、なにひとつ浮かんでこなかったのは、きっと、その証拠だ。
「……だから、その分、どんなことも楽しんでたんだと思います」
あまりに都合のいい解釈だけど、それだけは、紛れもない事実だと思った。
なんでもかんでも楽しめる性格なのは、自分が一番よく知っていたから。
だってそれは、死んだ今でも変わらないから。
「……羨ましいな」
「……お互い様ですよ。おかげでこちとら、なにも考えないような、後先のことすら考えられないようなバカになっちゃいましたから」
こぼれ出たのは、ただの嘲笑。
「……私だって似たようなものだけど」
だけど、そんな笑顔でも。
「……でも、なんかカッコいいじゃないですか」
なにもないよりは、よっぽどマシに思えた。
「……そういうものかな」
「……そういうものですよ」
なに気ない言葉。他愛ない会話。それだけだったのに、こぼれ出たのは、さっきのとは違う、なにか。
なるほど、空木さんが羨むのもわかる気がする。無論、なんとなくだけど。
「……俺もなんか見つけようかな。そういうの」
ポロリと落ちた前向きな言葉。こんな世界だから、できることは制限されるだろうけど、じっとしているよりかは多分、ずっといいだろう。
「……なら、考え事でもしてみたら?」
「……考え事?」
よくわからず、疑問を投げ掛けると彼女は、しばらく考えるような仕草を見せてから。
「……あるところに、一人の少年がいました」
ひとつの物語を話し始めた。
「……その少年は、ひどい虐待を親から受けていましたが、誰にも相談できず泣いていました」
いまいち呑み込めなかったけど、ひとまず、最後まで聞いてみることに。
「……すると、その姿を見た一人の少女が、いてもたってもいられず、少年の親を殺害しました」
これは、さっきの一瞬で作ったんだろうか。だとしたら、考え事というのは。
「……キミは、この少女を善人だと思いますか? それとも、悪人だと思いますか?」
ゆっくりと一呼吸を置く彼女の、その質問でようやく、ことの意味を理解した。
「……………」
思考を巡らす。
少女が、少年を助けようとしたこと、これは、おそらく善だ。
少女が、そのために人を殺めたこと、それは、おそらく悪だ。
行きすぎた善行。故の悪行。俺が導き出したのは、そんな、曖昧じみた一般論。
「……………」
じゃあ、ほかの人間はなにをしていた。
それを善だ悪だ言っている、周りの人間は、いったいなにをしていた。
……仮に、俺が少年の立場だったら、どう思うだろう。
自分の今を救った少女は、自分の親を殺した少女は、それ以外の第三者は、どんな風に映るんだろうか。
「……わかんないけど」
ぐるぐる回り続ける思考を、強制的に断つ。
「それは、すごく悲しいことだと思います」
最終的に残ったのは、ただの感情論だった。
「……理由は?」
「……だって誰も、幸せになってないじゃないですか」
空木さんを貶したいわけじゃないけど、これは、ひどい物語だと思う。
親は命を落とした。これからの未来を少女は失った。少年には、なにも残らなかった。しかも、すべては少年が引き起こした出来事だ。その罪悪感に、その業に、彼は、耐えられるんだろうか。少なくとも、俺は、絶対に耐えられないと思った。
だから、論点もズレた上に、あたり前のことしか言えなかったけど。
今の俺には、そんな返答が精一杯だった。
「生まれながらに悪なんて人は、存在しないんだよ」
……彼女は、なにを思っていたのかな。
「虐待に至った親も、衝動に駆られた少女も、それを見ていた少年も。みんな最初は、純粋な子どもだったはず」
……どんな気持ちで今の話を、作ったんだろうな。
「なにも悪くない。誰も悪くない。悪いのは全部、彼らを作った、彼らを変えてしまった、社会の、世界の方なのに」
……わからないけど、その言葉は、その考え方は、似ている気がした。
「そのことに誰も気づかない。たしかに、それは、すごく悲しいことだと思う」
……俺の憧れる、『彼』に、とても。
「……なんか、すごいです」
「……慣れてるから。多少は」
だからだろう、おかげさまで興味は、一気に持っていかれた。
いろいろな意味で彼女に近づけたらと、そんな風に思っていた。
「……それに、キミもだよ」
いつも彼女は、こんなことを考えているんだろうか。
だとしたら俺も、彼女のようになれるんだろうか。
「……ほかにないんですか? こういうの」
ほんの若干、食い気味に求めると、彼女は同じように、しばらく考えるような仕草を見せてから。
「……あるところに、一人の少女がいました」
再度、ひとつの物語を話し始めた。
「……その少女は、不幸にも死んでしまいましたが、気がつくと青空の中に立っていました」
「……ん?」
思うところはあったけど、ひとまず、最後まで聞いてみることに。
「……すると、そこへ。一人の少年と、一匹の黒猫が、この世界に迷い込んで来ました」
これは、俺たちのことだろうか。だとしたら、なにを考えることが。
「……キミは、彼らを善人だと思いますか? それとも、悪人だと思いますか?」
ゆっくりと一呼吸を置いた彼女の、その質問にしばらく、鳥肌が治まらなかった。
「……要するに、ここが天国なのか、はたまた地獄なのか、そういうことですか?」
「……うん。そして私たちは、どうしてここにいるのか」
もしかしてだけど、この人、マジで作家かなにかだったんじゃ。
「……普通に考えたら天国かと」
ちょっと意識しすぎたせいで変な口調になってしまった。
「……理由は?」
「……空の上だから?」
ていうか、なんだ、この会話は。なんでこんなにゴミみたいな。
「そういう空木さんはどうなんですか?」
情けなく思う気持ちを隠そうと話を逸らす。反面、彼女は、なにを語るのだろうと、そんな期待もあった。
「……どうなんだろうね」
だから逆に、その、濁すような返答は予想外だった。
「たしかに、空の上なのは間違いないと思うけど、こんな殺風景で面白味のない場所だから、天国と地獄、どっちにも取れるんじゃないかな」
……それでも彼女は変わらずに。
「人によっては現実の方が天国だったかもしれない。人によっては現実の方が地獄だったかもしれない。いずれにしても、すごく中途半端なんだよ、この世界は」
……淡々と意見を述べていく。
「なら、どうして私たち以外、誰もいないと思う?」
……俺に見えている世界の色。
「それだけ善人が少ないのか」
……彼女が見ている世界の色。
「それとも悪人が少ないのか」
……かすかな差異は思っていた以上にあった。
「そもそもの話、なにが善でなにが悪なのか」
……どんな人生を送ったら、こんな風になるんだろうか。
「それは、果たして誰が決めるのか」
……どんな人生を送ったら、こんな風になれるんだろうか。
「そして私たちは、いったいどちらに該当するのか」
……どんな人生を、彼女は。
「……キミは、どっちだと思う?」
「……ちょっと考えてもいいですか?」
そう言うと彼女は、快く頷いてくれた。
……わかんない。
もうなんか、のっけから、いろいろとわかんない。
思うに、完全な悪人なんかいない。
思うに、完全な善人だっていない。
そんなことは多分、誰にも決められないはずだ。
だけど、ここには俺たちしかいない。
天国でも地獄でもない『あの世』であるなら、ほかに誰もいないのは、確実におかしい。
……だから、つまりは。
なにか、それ以外の可能性があるんじゃないのか。
善人とか悪人とかじゃない、もっと純然な、ほかの理由が。
ごちゃごちゃした思考があっちへこっちへ行き交っていく。ぐにゃぐにゃで、わちゃわちゃして、完全に、俺の許容量を越えた、結果。
……とりあえず、そういうのは諦めることにした。
「財布が道に落ちてたら、空木さんはどうしますか?」
「……スルーかな」
「外国の人が道に迷ってたら?」
「……スルーかな」
その人が善人か悪人かを勝手に決める大会。
名づけて『全国善人選手権』。
悲しいけど、俺には確実に、こっちの方が性に合ってると思う。
「……真面目に考えてよ」
「……あ、だったら」
ちょうど、たまたま視界に入った、彼女の膝で安らいでる黒い毛玉を指して言う。
「そいつに向かってトラックがつっこんで来たら?」
軽快だった返答が止む。
こんな状況、動物が好きな人からしたら、たまったもんじゃないだろう。そうでなくても普通にたまらないけど。
そして彼女は、悩んだ末に。
「……………助けるかも、とは、思う」
いろいろな葛藤を滲ませたような答えを出した。
「……じゃあ、やっぱ天国ですよ」
どんな人生を、彼女は過ごしたんだろうか。
どんな人生を、彼女は望んでいたんだろうか。
そんなことは正直、全然わからないけど、ひとつ言えるのは。
空木さんが優しい人だってことだ。
「……もっと早くに、キミとは出会いたかった」出会えてたらな。
清々しい顔で、さわやかな声で、空木さんは言う。
「……未練がある、とか」未練があるとか?
俺と彼女が出会ってから数刻が過ぎた。
「……あったんですよ。昔、そういうアニメが。死後の学園で少年少女たちが未練を晴らすために戦う、みたいな」
変わらず、二人の間に変化はない、だから。
「……もしかしたら、天国とか地獄とかよりも、そっちの方が現実的かも」
なぜか不思議と、気を許せるようになっていた。
「ちなみにありませんか? なにか、生前でやり残したこと、みたいな」
なぜか不思議と、気を楽にしていた。
「……ないはずだよ。だって」
なぜか不思議と、気を緩めすぎてしまってた。
「……………恋」
「……え?」
彼女について俺は、なにもわかってないんだ。
「……恋、してみたかった」
彼女も俺のことは、なにもわかってないんだ。
「……じゃあ、つき合ってみます?」
「……え?」
要するに、俺たちは。まだ、お互いの相をまったく知らない。




