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蹴鞠少女はひとりではない   作者: みつたけたつみ
6/11

柏餅

 折からの雨に杏木たちは持参したジャンプ傘や折り畳み傘を思い思いに広げた。スタンドで傘を広げるのはマナー違反だが、そもそも迷惑をかけるほど周りに人がいなかった。だが雨も風も強くなるとそれらもほとんど役には立たず、レインコートを持参しなかったのを後悔する羽目になる。

 眼下では、白いユニフォームを着た三人組が肩を組んでカンカン踊りを披露している。ベリーショートの黒髪によく日焼けした顔立ち、狐目に鷲鼻、アヒル口。どのパーツを取ってもそっくりで、高々と差し上げる右足に履いたスタッド取り換え式のスパイクも三本ラインの入った同じブランド、同じモデルの色違いときている。背番号はそれぞれ3番、5番、7番。

 3と5と7は三つ子素数と呼ばれる。素数、1とその数でしか割れない素数が一つ飛びに並ぶ組み合わせはこれ以外にないことから名づけられた。踊りきった三人はそのまま緑色のじゅうたんへ前のめりに倒れたまま右足を振った。

 片や、彼女たちが走り出したゴールの下は葬式のような静けさである。雨に濡れた紫色のユニフォームがいつもより重苦しく感じられた。

 クロスに触れなかった4番がずり落ちた腕章を無言で直す。ヘディングで競り負けた長身の10番がひざの上に両腕をもたれて動けない。お見合いをしてシュートを許してしまった色白の16番と色黒の19番が何事かを言い争う。

 彼女たちの頭上にあるオーロラビジョンは0-2を示している。後半も30分を経過しており、リスクを冒してでも点を取りにいくべき時間帯にさらなる失点をしてしまったのだ。

「やられたー!」

 雨空に虹がかかるようにボールが打ち上がった。

「ら、やり返せー!」

 葬儀に結婚式の服を着てきてしまったかのようなショッキングピンクのユニフォームの背中には21番。

 山路寛子はその場で何度も叫び、味方のキックオフを促した。

 葛飾プリンセーザは関東サッカーリーグに所属している。

 日本女子サッカーリーグ・通称Lリーグは2部まであり、同一クラブからは複数のチームは加盟できない規定がある。つまりLリーグ一部に所属する葛飾ハイーニャのユースチームであるプリンセーザは加盟できない。また育成年代の女子チームのためのリーグも当時は発足しておらず、大学生や社会人チームで形成される地域リーグでしかプレーできなかった。

 この日の相手は防衛大学校。学生とはいっても給与をもらって学業と鍛錬に励む幹部候補生で、卒業時に任官拒否をしない限り彼ら彼女らはキャリア自衛官として国防に当たる。長さも色もまちまちのプリンセーザの選手とは違い、皆一様に黒髪で肩にかからない髪型をしているのはその校則ゆえだ。

中高生のプリンセーザに比べ、選手の体が一回り大きい防大。足の太さならプリンセーザも負けてはいないが上半身、特に二の腕が尋常ではなく発達している。ゴールポストより太いその二本の腕で紫のユニフォームを文字通り寄せつけない。

 またこの試合はプリンセーザのアウェイゲームだが、富士山と浦賀港を一望できる横須賀市馬堀海岸にある防衛大グラウンドが使用できず、調布市にある東京スタジアム西競技場を使っていた。

 向かって右から攻めるプリンセーザに対し、2点のリードを奪った防衛大は堅固なブロックを作って対応する。とにかく当たりが強く、ぶつかっても痛がるそぶりを全く見せない防衛大に競り合いに持ちこむのは悪手だった。

 プリンセーザの19番がボールを右足ではたいて自分の左足に当て、防衛大ディフェンダーを置き去りにして右サイドに抜け出す。

 エラシコ、輪ゴムと呼ばれるその技はその名の通り指でゴムを弾くようにボールを動かすフェイントからクロスを上げた。

 10番が飛んだ。長身を利したヘディングで果敢にゴールを狙うが防衛大の3番に寄せられ、シュートには持ちこめない。クリアボールを防衛大の5番が拾うと素早く右サイドに展開、7番につなげた。カウンターだ。

「ユキ、メンズつかまえろ!」

 山路が盛んに指示を飛ばす。濡れて重くなった前髪を三日月のようなマークの入ったグローブで拭いながら、同じマークの入ったスパイクのかかとでゴールポストを蹴って警告音を発する。

 防衛大の7番にプリンセーザの16番がつく。サッカー選手とは思われないほど色白で、長い黒髪をひっつめた彼女がむやみに飛びこまず時間を稼ぐ。7番も無理には突破を図らず、中央に浮かせる。

 受けたのはここぞとばかりに上がった防衛大の5番。ゴールを固めていたプリンセーザの4番の背後に回りこみ、その死角からの飛び出しで完全に裏を取った。目の前には山路のみ、霧のように視界が煙る中でそのピンクのユニフォームだけが浮き出たように映えた。

 ドリブルでかわしにいく5番。ボールをつついたスパイクが、遮断機のように倒れこんだ山路の顔面に。思わず目を背ける杏木。

 笛が聞こえた。女性の主審は胸から黄色いカードを取り出しながらペナルティスポットを指差した。だが今重要なのはそこではない。

「山はん!」

 仰向けに倒れたキーパーが、ぴくりとも動かない。

「ヤマ、ごめん」

 プリンセーザの4番、志村康子が白い腕章を巻いた右手で倒れたキーパーの鼻の下をタオルで拭う。ポジションはザゲイロ。タレント集団の中にあって能力は平均的ながら、絶えず声を発し仲間を鼓舞する姿から周囲からの信頼は厚い。瑞穂のアミーゴ。

「簡単にやらせすぎだろ。ありえん」

 19番、右近須美がまだらの髪をかき上げる。ポジションはメイヤー。右サイドを駆け上がるドリブラーだがよく言えば自由、悪く言えば我の強さを菅原にもたしなめられる。やよいのアミーゴ。

「もう、そう言うこと言わない」

 16番、左有希が凛々しい眉を吊り上げる。ポジションはラテラウ。左足の正確なキックで右近とともに中学二年生ながら高校生に混じってレギュラーに抜擢されている。真夏のアミーゴ。

「やめろ」

 10番、鬼頭さゆりがキーパーの鼻の穴に詰め物をしながら割って入る。ポジションはアタカンチ。長身を利したヘディングは同年代の男子との競り合いで磨いたもので、19歳以下日本代表にも名を連ねる。深雪のアミーゴ。

 凍るような冷たい雨の中、誰もが体力を浪費すまいと最小限の言葉で意思を伝達しあう。だがそれは責任のなすりあいのようにも見えた。

 その紫色の人の山から、むくりと上体を起こすピンクのユニフォーム。

 背番号21、山路寛子、復活。

「お、立った」

 慌ただしく動いていたプリンセーザのベンチがようやく落ち着きを取り戻した時、杏木は自分でも気づかぬうちに立ち上がっていたのに気づいた。

「いや、どうなるかと思ったがや」

 その隣にいた平手紫織が詰めていた息を大きく吐き出した。

「てしはん、そのまんま寝てくれればよかったと思たん違います?」

「たーけ、あてしがそんなことあらすか」

 そう答えた平手はアラスカではなく名古屋出身の中学三年生だ。名字の最後と名前の最初の一文字ずつをつなげて「てし」と呼ばれているが、本当はあたしをあてしと発音しているから。

 平手は山路と同じゴレイロだ。ポルトガル語では女子のゴールキーパーをゴレイラと呼ぶが葛飾クラブでは女子もゴレイロで同一している。

 ゴレイロは唯一手を使え、違うユニフォームを着る専門職である。そして女子のゴレイロは男と同じ寸法のゴールマウスを守る。

 そんな女子のキーパーにとって身長に優る才能はない。そして平手の身長は、それをあまり必要としない杏木より10センチ以上低いままで止まっていた。

 葛飾クラブの練習場は地表の硬い河川敷であり、飛ぶと痛いのでキーパー志望の選手からは敬遠される傾向にあり、ゴレイロが育ちにくい。

 平手は二年間、プリンセーザの控えキーパーであったが、自分の頭の高さに肩がある山路寛子の入団でベンチ外に追いやられた。しかも平手は山路のアミーゴでもある。

 ゴールキーパーは専門職。他のポジションのように容易くコンバートできない。ゴレイロが試合に出る方法は二つのみ。他のゴレイロを押し退けるか、他のチームに移籍するか。

 自分より後に入った年上のゴレイロを、どうあがいても勝ち目のない相手を、平手はどんな思いで見ているのか。

 ペナルティスポットにセットボールを腰に手を当てたままにらみつける山路。その鋭い眼光は、縄張りに入った者を噛み殺そうとする野獣のそれだ。

 ペナルティエリアのすぐ外、左右中央に三人が並ぶ。同じ顔に同じ背丈にそして同じ構えで。

 防衛大学校の一年生トリオ。センターバックの3番、センターハーフの5番、センターフォワードの7番はまるで見分けがつかない。

 ここまで防衛大学校は晴天と変わらないようなパフォーマンスを続けていた。これ以上点差を広げられればプリンセーザに勝機はない。

 ルール上PKはキッカーを特定しなくてはならない。だがそれをレフェリーにアピールする必要はなく、キッカー以外がペナルティエリアに入りさえしなければいい。そして目の前の三人はどれも、自分が蹴るぞという顔をして助走を始めたのだ。

 山路が仁王立ちのまま、両腕を上下に動かした。

 まずボックスに入ったのは3番、だがすぐに出る。5番がラインの直前でストップ。すでに7番がシュート態勢に。

 向かって左下に放たれたボールから花火のように水滴が飛んだ。左手一本、弾くのではなく完全に掌中に収めた。

 すかさず前に走り、脇に抱えていたボールを蹴り出す。足を地面と水平に振る南米式のパントキックにセンターサークルで待ち受けていたまだら髪が風を切る。右近、独走。ニアポストにキーパーを誘き寄せ、グラウンダーのクロスを中へ。

 水しぶきを上げるスライディング。ネットが揺れるとたまっていた水滴が落ちた。笑顔一つなく、ネットにからまったボールを抱えて走り出す鬼頭。まだビハインドが1点になっただけなのだ。

 にわかに息を吹き返したプリンセーザ。浮き球を多用したパスワーク、けれん味あふれるドリブル、そしてゴールが見えたら遠目からでもシュート。足場の悪い河原でのストリートサッカーをルーツに持つ葛飾クラブのDNAを遺憾なく発揮する。

 その最後尾で止まらない鼻血を手首で拭いながら叫び続けるユニフォームの左胸には男子、女子、育成を表す大中小の虎が鯉のぼりのように並ぶ葛飾クラブのエンブレムがある。血で汚すわけにはいかなかった。

 プリンセーザがマイボールになると、両方のラテラウが揃ってハーフウェイラインを越える。前の監督の時は一人が上がったらもう一人は下がるのがラテラウの約束ごとだったが、ザゲイロがタッチラインいっぱいに広がってその間に山路が入りボール回しに参加する。もちろんパスミスすればゴールは無人。

 それでも山路のところでボールを失うことはなかった。数ヶ月前までフィールドの選手で、ゴレイロなら高校生でも入られるからと転向したのだ。そしてキック力そのものも半端ない。前から相手が奪いに来ればその背後に出現するスペースにボールを出す。奪いに来なければそのままエリアの外までドリブルで運び、ロングキック一発で相手ゴールまで落とす。

 しかし専守防衛がモットーの防衛大学校、守るのはお手のもの。7番が前線から激しくボールを追い回し有効なフィードをさせず、5番が巧みにボールキープして時間を使い、3番が鋭く球際に寄せて弾き返す。しかし大げさに痛がってみせるような真似だけは決してしない。

 関東女子リーグは40分ハーフ。山路のアクシデントもあって、アディショナルタイムは8分と長い。

 プリンセーザは左がウイングの位置にまで張り出して右近、鬼頭と3トップのような形になっている。防衛大学校はそれぞれに三つ子がマンマークについて突破を許さない。

 左が上げたクロスに足を出したのは最終ラインにまで戻った7番。ワンバウンドしたボールが中盤にまではね返る。

 最終ラインから鉄砲水のように飛び出したのはキャプテンの志村。中学三年間、一度も公式戦に出ていない。ベンチに入れるようになったのも同期がハイーニャに昇格するか才能に見切りをつけて退団してからだ。技術も体格も平凡な彼女が信頼と尊敬を勝ち得たのはひとえにその根性の賜物だ。

「あかん」

「いける」

 どう考えても入るわけのない、それくらい遠い場所からのシュートモーションに対する杏木と平手の反応は正反対だった。そしてそれはどちらも当たる。

 高々と上がったボールは多摩川からの風に戻され、クロスバーすれすれの高さに落ちてきたのだ。キーパーが辛うじて指先で触れてバーの上に逃がす。

「ほれ見いや」

 ゴールにはならなかったが、コーナーキックにはなった。

 足早にコーナーフラッグに向かう左。その間にも主審は腕時計をちらちら見る。アディショナルタイムも無限に続くわけではない。

「桜、ヒトマル! 翼、二時の方向!」

 プリンセーザのセットプレーはニアサイドに長身の鬼頭が入り、キーパーの前でコースを変えて流しこむのが定番だ。防衛大も当然それは知っていて5番の指示で3番がマークし、7番がストーンに入る。

 コーナーに置いたボールに手を添えた左が素早いリスタート。ショートコーナーに反応したのは右近ととっさの判断でゴール前を飛び出した防大の7番。先に触れた右近がリターン。今度こそ左がクロスを、雨をも切り裂くスピードで上げた。

 OK、と叫んで飛び出す防大キーパー。両手を伸ばしてつかみにいく。

 ボールが揺れ、その手の間を音もなくすり抜けた。

 フォーリャセッカ。ポルトガル語で枯れ葉を意味する揺れながら落ちるボール、いわゆるブレ球は左の十八番である。

 そして無人となったゴールに、ピンク色の影が入ってゆく。志村と鬼頭がそれぞれ3番と5番に体を当て、クリアにいかせない。

 斧のように頭を降り下ろす捉える背番号21。ボールがゴールラインを叩き、ネットを突き上げる。

 解き放たれたような奇声。それにかぶせるようなホイッスル。プリンセーザ、土壇場の勝ち点1をゲット。

 感極まり、ピンクのユニフォームを脱ぎ捨て、タンクトップ一枚の姿でユニフォームを振り回しながら走る。関係者と保護者、ベンチに入れなかったメンバーとごく一部のサッカーマニアしかいないスタンドに向かって振り上げた腋には黒々とした剛毛が渦を巻く。

 主審が笛を吹いてこの日二枚目のイエローカード、次いでレッドカードをかざした。嘘でしょ、という顔をしてその場に大の字に倒れる。

 最後の最後まで、山路寛子劇場とも呼ぶべきゲームになった。


「あら、ダーリンたち」

 忙しく仕込みをしていた手を一瞬止めるオカマのフレディ。

「相変わらずのふくれっ面ね、まるで大福餅」

選手に向かってオカチメンコと言い放ってプリンセーザを首になったことにされているだけあり、とにかく口が悪いフレディ。

 カウンターの隣にやよいが座ると、杏木が一つ席をずれる。

「アズキ、あんたうちのこと避けてへん?」

「別に」

 桜井やよいといえば関西ではそこそこ顔の売れた子役であった。今も秋に始まる長寿シリーズの学園ドラマの収録で学校や練習をちょくちょく休む。そんなやよいの顔立ちはさすがにしゅっとしており、並ぶと顔の大きさが一層際立ってしまうのだ。

 言われなくても分かってる。自分が上生菓子でないことくらい。

「うら若き乙女がゲイバー通いはいかがなものかしら。三年前、大学野球のピッチャーがホモビデオに出てるのがバレてドラ1取り消されたことがあってね。今はアメリカでどさ回り。ピッチャーだけに人生も投げちゃったわけ」

 そうは言うが、松戸から府中まで東西に長い東京を横断してきて、また同じ道をこれから引き返さねばならない。ただ飯にでもありつかなければ割に合わなかった。

 この日「九州男児」を訪れた杏木とやよいの他は真夏、瑞穂、そして深雪の五人。平手は自転車、彼女の言うところのケッタで先に葛飾に向かった。

「ヤマ、あんたも先食っちゃいな。今日みたいな日は混むのよ」

 あーい、という生返事とともにエプロン姿の新入りアルバイトが現れる。髪が生乾きで、ドライヤーをあてる時間もなかったのを物語る。

「つっぺ、取んなさいよ」

 山路が左の鼻の穴をふさいでいたティッシュペーパーを、手鼻をかむようにしてふんっ、とゴミ箱に命中させた。高校生は午後10時までアルバイトができる。ゴールデンウィークからここで働いているのだった。

「ったく、試合終わった後に退場になるトンチキ、よくやらかしたわね」

「アフロさん、カンカンでした」

「あたいならその場でしばき倒してたわよ」

 そう言って小皿を六つ、大皿に赤黒い肉片と青菜を炒めた料理を出した。

「ポパーイ、助けてぇーん」

 他のテーブルからおまえはブルートだろって大男がオリーブを真似た甲高い声で呼ぶと、なんてこったいとぼやきながら御用聞きに向かうフレディ。

 ポパイとは、フレディのこの店での名前、いわゆる源氏名である。そしてその由来が目の前の大皿料理だった。

 落語の饅頭こわいではないが、人間誰しも苦手なものの一つや二つはある。フレディの場合それはホウレン草だった。基本的に青物全般が好きではないのだけど、ホウレン草だけは匂いをかいだだけで吐き気を催す。そこからホウレン草の缶詰めを食べてパワーアップする水兵の名前がついた。

 フレディの偉いところは、苦手から逃げることなくそれを克服しようと努力したことだ。匂いがダメならもっとにおいのきついものと一緒にすればいい。ごま油でにんにくを炒めて香りを出してからからレバーとホウレン草を強火にかける。まさに毒を以て毒を制したメニューの名はポパイポパイ。

 山路が山と積まれたホウレン草とレバーを割りばしで小皿に取り分け、ハムスターのように頬張る。

「血の味がする」

 ホウレン草とレバー、ともに血液の成分である鉄分が豊富に摂れる。流した鼻血を取り戻すにはもってこいだった。

 なかなか減らない大皿料理と格闘しながら山路の仕事ぶりをながめる杏木。

 要領がよく愛嬌もある、普段とも練習とも違う姿が新鮮だった。

 あんた、うちが客商売やってるでしょ。酔っぱらいのあしらいがうまいから分かるわ。そう言ってスカウトしたフレディの目は確かであった。

「ちょっと、あんた!」

 もみあげとあごひげがつながった男二人の客が山路を呼ぶ。一見の客のようだが明らかにクレームをつける態度だ。

「ここの水割りはこんなもん入ってるわけ?」

 さっき山路が運んだカクテルグラスに、ちぢれた毛が一本。

「石さん」

 瑞穂が耳打ちする。あんな長くて太い毛が浮いてたら気づかないわけがないし、山路もフレディも直毛。あからさまな嫌がらせである。

 ゲイバーに通う女をおこげと呼ぶ。その心はオカマにへばりついてるから。おこげに限らず、新宿二丁目には女というだけで毛嫌いするゲイは多い。

 山路がTシャツを肩までめくり上げた腕を振り上げると、男二人組がひっと悲鳴を上げた。

「すいません。入っちまいました?」

 ぺちんとおでこをはたく山路。腋に渦巻く未処理の剛毛。男二人はテーブルに千円札を置くと、覚えてなさいよ、と捨てぜりふを吐きながら逃げ出した。

「おとといきやがれ」

 フレディがマルゲリータ用の塩を撒き、山路は覚えてろと言われたのも忘れたようにけろりとした顔でテーブルを片付け始めた。

「ゴールキーパーは孤高の鷹、神秘な者、最後の砦」

「なんやそれ」

「これだから無知無学な小娘は」

客があまりに寄りつかないのでご機嫌斜めのフレディ。

「空気が読める女は男よりサッカーに向いてる。けどキーパーに必要なのは読める空気を読まない勇気なんだよ」

 単にフレディの読みが外れたのか、それとも先ほどの騒ぎでケチがついたのか、府中のスタジアムもびっくりするほど客が来なかった。おかげで杏木たちは仕込みのあての外れたフィッシュアンドチップスにありつけたのだが。

「美しくパスをつないで、決まればゴラッソ(スーパーゴール)ってシュートを何事もなかったように止める。それができるキーパーがこの国には本当に少ない。男の代表だって、あたいが第三キーパーだった頃いきってた二人であと五年は安泰だろうさ。どんだけ層が薄いんだって話だ」

 サッカーの話をする時だけフレディはおネエ言葉でなくなる。

「越中だか越前っておっさんがニポンのサカーはケテーリョクプソクですねーとかほざいてたけど、とんだお門違いだ。越中は褌だけにしとけってんだ」

 日系ブラジル人のサッカー評論家に対しても、かなり辛辣だ。

「キーパーとキャッチャーはデブにやらせとけってのが日本人のスポーツの見る目の浅さを物語ってる。1点取るのと1点止めるのが同じ重さだって、まるでわかっちゃいない。ヨーロッパじゃキーパーはストライカーと同じくらい人気のポジションなのにな」

「へえ、そうなんや」

 杏木がフィッシュアンドチップスを食いちぎる。白身魚はタラで、麦の酢とよく合う。イギリスの食事はまずいのが定番だが、そこは再現していない。

「ストライカーだったら何か一つ武器があればいい。けどキーパーには全てが求められる。サイズ、スピード、何よりハートの強さ。プリンセーザでそれらを併せ持った才能を待ち続けた。が、ついに見つからなかった」

「いてるやん、ここに」

「そうなのよ。あたいの人生、いっつもこう」

 フレディがカウンターに突っ伏した。あと一年粘っていれば、その全てを持った山路を直接指導できたのに。

 フレディの長話を「ドントストップミーナウ」の着メロが遮った。

「もしもしもし?」

 もし、が一回多い。

「あー、今泉くんか」

 似てないモノマネを披露するフレディ。明日の朝も早い瑞穂が杏木をつついて何とかしてとぼやき、深雪が柱にもたれながらいびきをかく。

「マスター、次は何をしやしょう?」

 フレディがケータイを切ったのと、皿洗いを終えた山路が厨房から出てきたのが同時だった。

「ヤマ、今日はもう帰っていいわよ。それから、しばらく来なくていいから」

「あたし、何かやらかしましたか?」

「ええ、やらかしちまったわよ。どでかいことを」

 フレディがタバコをくわえ、ジッポで火をつける。紫煙がゆらりと消えた。

「今日の試合、U19の監督が来てたって」

「それって」

「アジア選手権に山路寛子を招集したいって。とっとと家に帰ってパスポート用意なさい」

 中国で今月、U19アジア選手権が開催されることは知っていた。だが自分達とは世代が離れていて関係のない話だと誰もが思っていた。

 フレディの音頭で万歳三唱が始まった。青雲の志を立ててからわずか半年、あまりにも早くその願いを叶える者が現れたことは喜びよりも驚きをもたらした。

だが浮かない顔をする者が一人だけ。

同じように戸惑いが先に立っている山路に視線を合わせる杏木だ。


 山路のデビュー戦はこれより二週間前、千葉県柏市で開催さらた社会人チームとの試合だった。先発を言い渡されたのは試合の前日だった。その頃の山路は反応はシュートをつかむのではなく、はたき落とすのが精一杯。大抜擢を通り越して無謀でさえあった。

 試合前に菅原が相手の選手と親しげに話していたので知り合いなのかと尋ねたら、元日本代表の同僚なのだと言う。案の定キャッチングの甘さを突かれ、こぼれ球を押しこまれまくって前後半それぞれ3失点。文字通りのさんざんなデビューとなった。

 プリンセーザは近隣の試合であれば現地集合、現地解散である。ただ試合後しばらく立ち上がれなかった山路に杏木がつくことになった。そういうんはアミーゴの役目違うんか、と不満を洩らした杏木であったが、平手は自転車でさっさと帰ってしまっていた。

 しばらく二人で柏駅周辺を徘徊した。柏は松戸の隣町だが全く土地勘がなく、どこをどうほっつき歩いたかまるで覚えてない。

 コカ・コーラの自動販売機があり、杏木が足を止めた。自販機なんて珍しくもなんともないが、なんとなくコインを入れる。ガタッという音とともに落ちてきたのは黄色いロング缶で、黒くMAXと書いてある。コーヒーなんて苦くて嫌いだと渋る山路をなだめすかし、一口飲ませる。

「あまっ」

 コーヒーに砂糖がではなく、砂糖にコーヒーが入ってるような甘さに山路がおののいた。杏木も最初に飲んだ時は思わず背筋に鳥肌が立ったものだ。

 ジョージア・マックスコーヒーは千葉茨城栃木の三県のみで発売されているローカル商品である。砂糖の他に練乳が加えられており、その糖度はコーラをも凌ぐとされる。深夜勉強をする瑞穂はこれを買いだめしていて、眠気覚ましのカフェインと頭の疲れを取る糖分とを同時に補給していた。エナジードリンクが一般的になる以前、これ以上眠気覚ましと疲労回復に効く飲み物はなかった。

 山路がコーヒー片手に笑いだした。何もかもどうでもよくなった。

 二人がたどり着いたのはデパ地下だった。大阪に本社のある老舗百貨店の直営店が柏にはあり、歩き疲れた杏木は見慣れた建物に吸い寄せられるようにして入っていったのま。

 ちょうどタイムセールが始まったばかりでどの店からもにぎやかな声、食欲をそそる芳香で胃袋を刺激してくる。生鮮、惣菜、そして甘味。

 杏木がどうしても探してしまうのはやはり甘味。そしてゴールデンウィーク中だったこともあり柏餅が山と積まれていた。

 柏の街で柏餅、思わず身を乗り出す杏木。しかしかまぼこ掘りの金文字の看板を見て足を止める。「やしか」とある。もちろん、右から読む。

「どうなさいましたぁ?」

 ふっくらとした顔だちの女性店員が話しかけてきた。杏木たちとそう年は離れていないだろうその店員は笑顔といい声のトーンといい、如才ないとしか形容しがたい隙のなさで無言の圧力をかけてくる。

「いやぁ、和菓子屋さんで、かしやってベタやなあって」

 店員が吹き出した。店員と顧客の垣根を越えた、素の笑いであるようだ。

「やだぁ、違いますよ。これですこれ」

 店員が木の看板をウインナーソーセージのような指で軽く叩く。その看板は樫の木製であった。樫屋、であることに気づいた杏木が耳まで紅くした。

「今なら柏餅、三つで三百円になっておりまぁす」

「六つ買うから五百円で」

 山路が桐が浮き彫りなされたニッケル硬貨を店員さんの眼前に突きつける。ここはアメ横ではない。店員さんもあのー、そういうのはやってないんですぅと引かない。

「ほれ、本当にこれしかない」

 ジャージのポケットを裏返して見せる山路。杏木が鈍く光る桜の白銅貨を一枚出した。訳もなく負けたような気分にさせられた京娘にさらなる追い討ちが。

「六百三十円になりまぁす」

まだ消費税がが ともかく、柏駅のベンチで包みを開いた。

 値段のわりには小ぶりだが、三つ食べるのを考えたら結構な大きさの餅が二列に並べられていた。柏の葉から覗く二つ折にされた上新粉の餅は全て色が違った。中身を間違えないようにするための工夫だろう。

 柏は落葉樹だが、秋に枯れる葉が春に新芽が出るまで落ちないことから、代が途切れない縁起物として男子の祭りに供える餅に歯を巻いたのが柏餅の始まりである。

 一番手前の柏餅は真っ白で、餅のすき間から餡が覗くシンプルなもの。半分頬張ると、餡に小豆の食感が。断面にはみごとに小豆が原型を止めている。つぶあんだ。

「よく煮崩れしないよなぁ」

 しげしげと断面を見つめる山路に、さも当然と言った素振りで杏木が返す。

「大納言やもん」

 小豆を炊いたり練ったりしている過程でどうしても皮が破れてしまうことがある。これを腹切れといい、しょっちゅう腹切れする職人は未熟とされる。

 大納言はこの腹切れを起こしにくいよう品種改良された小豆の銘柄である。切腹は武士の習慣であり公家は切腹しないから、また従来の小豆より大ぶりであるから大納言の名前がついたと言う説がある。

 さて、二つ目だ。翡翠のような緑色で、よくよく見れば餅に細かく刻んだ葉っぱが練りこまれているのがよく分かる。口に含むと清々しいヨモギの香りが鼻を抜けた。餡は丁寧に裏ごしされたこしあんで、ヨモギの歯触りを邪魔しない滑らかなものとなっている。柏の葉に包んだ草餅と言ってしまえばそれまでだが、これはこれで全然アリであると杏木は思う。

 ここまでは、まあ、杏木の知っている柏餅だった。

 問題は最後のひとつ、黄色い餅に黄色い中身のはみ出た柏餅である。5%の時代であった。

 食べてみないことには何もはじまらない。得体の知れない黄色い餅を半分に割るとその片方をえいやっと口の中に放りこんだ。

 真っ先に感じたのは予想通り白餡だった。白いんげんや白小豆を裏ごししたもので、着色してこなしや練りきりの原料としても用いる。

 しかし、白餡の甘みに対して塩っけが勝っているのだ。その正体がとてもなじみのある食材なのは間違いなかったが、それが何であるかまではわからなかった。和菓子とはおおよそほど遠いところにあるものではないかと当たりをつける杏木。しかしもう片割れが口の中になくなっても、それを特定することはできなかった。

「うまいなぁ、みそあん。甘いの二つ食べた後だと口がすっきりする」

 山路が口元ののりを小指で拭いながら満足げにため息を漏らしたのを見て、杏木の知っている細い目がアーモンドくらいには見開かれる。

「み、みそって味噌汁の味噌?」

「他に味噌ってなくないか?」

 関東では味噌を白餡に混ぜて柏餅に挟む食べ方はポピュラーだが、関西に味噌を餡にして和菓子に用いる習慣はない。ちょっとしたカルチャーショックだった。

「でも、お菓子に味噌って」

「味噌は大陸から渡ってきたもんじゃん。味つけに使う味噌をお吸い物にしたり、ラーメンの味つけにするのだって中国人からしたらおかしな話だべ。春の七草、ひな祭り、こどもの日、七夕祭り。これ全部中国の節句が日本でアレンジされたもんだ」

 先月の国立の試合、山路は菖蒲湯で身を清めてきた。

「端午の節句、中国では柏餅じゃなくてちまきを食べるんだ」

「ちまき食べ食べ、って日本の歌にもあるなぁ」

「中国の粽は日本でいう炊き込みご飯、肉や竹の子が入ったものだ。昔有名な詩人が悪政に抗議して川に飛び込み自殺したのを惜しんで、その体が魚に食べられないようにってちまきを投げたのが始まりなんだと。六月の端午節には詩人を船で助けようとした名残でドラゴンボートの大会が各地で開かれる」

 ドラゴンボートはその名の通り龍の頭としっぽのような飾りがついた非常に細長い船で、一艘に二十人あまりが乗ってそのスピードを競う。

「なんで六月?」

「旧暦の五月五日だよ。中国は太陰暦、月の動きに合わせたカレンダーが重要なんだ。だから旧正月は大騒ぎだ。中でもお金の神様が降りてくるって言われてる五日目はひとばんじゅう爆竹が鳴らされてまるで戦争、次の朝の道路は燃えかすでひどいもんだ」

 山路はびっくりするくらいしゃべった。まさか柏餅からここまで話が広がるなど、杏木はまるで予測できなかった。


「リー・グヮンユィ、それが本当のあたしの名前だ」

 事も無げに山路がカミングアウトした。漢字で書くと李寛雨、五月雨の日に生まれたのが由来だとか。

「パパは上海、ラオラオ(母方の祖母)はハルピン。あたしの体にながれる日本の血は四分の一だけ、いわゆる二重国籍の華僑だよ」

 国籍を巡る法律は国によってまちまちだが、その根拠は大きく分けて二つ。血統主義と出生地主義だ。日本も中国も血統主義、特に父母両系血統主義を採用している。両親が日本籍と中国籍の子供は両国の国籍を有する重国籍者だが、日本中国ともに二重国籍を認めてないから22歳までにどちらかの国籍を選択しなければならない。

 サッカーの場合はもっとシンプルである。一試合でもナショナルチームの試合に出場した選手は他国のナショナルチームでは試合に出られない。ただしアンダー代表ではその限りではない。

「うちじゃパパもママも中国語、あたしも中華学院に通ってる。でも生まれも育ちも横浜中華街だ。死ぬのだって他には考えられない」

 杏木は山路寛子という人間を少し理解できた気がした。

 徹夜でバクチをしたり、酒を飲んだり。アスリートとしてプロ意識の低いと思うのは杏木が日本人だからである。

 中国人は神もお上も信じない、信じるのは家族だけだ。そしてそれらは家族と接するために不可欠なツールに他ならない。それはもう文化の違いであり、尊重する以外にない。

 自らのルーツを誇りと考え、それでも日本人として生きる覚悟を決めているのならば。

 日本人として、これほどありがたいことはない。


 バスのタラップを降りると、アスファルトからむわっとした熱気がこみ上げて吐き気すら催した。

「ああ、暑い」

この日何度この言葉を繰り返したか記憶にない。京都なら葵祭が終わって若葉が萌える季節だろうが、東京は燃えるような炎天下だった。

 五月最後の日曜は快晴で、初夏どころかこの年初めてとなる真夏日を記録した。

 青空に殺されそうになりながら人工芝のグラウンドに着くと、すでに場の空気が弓の弦のように張り詰めていた。大人も子供も、味方も敵も、どの背中も鉄板が入ったように伸びきっている。葛飾クラブのウォーミングアップは音楽を聴いたり冗談を言い合ったりするリラックスした雰囲気が特徴だが、今日は歯でも見せようものなら一喝されかねない切羽詰まったものだった。人工芝は日光を照り返し、異様な熱気がその場を支配していた。

 プリンセーザが大学や社会人チームばかりの関東リーグに所属しているのは同年代で互角に戦えるチームが近隣にほとんどないからで、相手を無失点ではなくシュートゼロに抑えるのが目標になってしまう。しかしお姉さん相手ではどうしても胸を借りる立場になってしまう。しかし今日はそんなプリンセーザが気兼ねなく、ガチンコで戦える同年代のチームだった。

 浜松女学院。浜松とつくが静岡ではなく港区浜松町にある真言宗の女子校である。アソシエーション・フートボール部という長ったらしい正式名称を持つサッカー部は高校サッカーの名門で、浜松と楷書で刺繍された山手線グリーンのユニフォームの左胸にはその回数が星として刻まれている。

 そんな浜松女学院、通称浜学と葛飾プリンセーザは長きに渡ってライバル関係にある。山の手と下町、部活動とクラブチーム、仏教系とキリスト教(葛飾クラブは在日ブラジル人の作ったチーム)。見事なまでにコントラストを描く両チームの監督が試合前に談笑する。

「監督さんがいないと大変ですなぁ」

 浜学の監督が笑顔で手を差し出すが、目の前の赤毛の若者をくみしやすい相手と考えている態度が見え隠れしていた。

「今日は胸をお借りします」

 それを握り返す修羅の目はでっふりと肥えた腹に注がれており、胸よりも腹を何とかしろよと内心思っているのがバレバレであった。

「ボア・ソルチ!」

 かけ声とともに花が開くように散開する紫の円陣。Boa sorteはポルトガル語でグッドラック、葛飾クラブの全てのカテゴリのチームで使われる。

「フラット11(イレブン)、全員突撃!」

 この日監督をつとめていた修羅は父がアイルランド系アメリカ人で母が日本人、二十歳の時に五輪代表候補に選ばれたのを機に日本国籍を選択した「元」二重国籍者だ。

杏木たちは浜松女学院の敷地内の人工芝グラウンドの、四方に張り巡らされたネットの外から試合を見守る。

「ハマジョー、レツゴー!」

杏木たちと逆側に三十人ほどの、試合に出ている選手より一回り小さい女子の群れが空のペットボトルを叩きながら声援を送っていた。選曲が80年代90年代の歌謡曲に集中してるのは代々歌い継がれている証拠だろう。手首にはお揃いの緑色の数珠をミサンガのように巻きつけている。

「けっぱれー!」

いかにも体育会系、といったコールリーダーがワニのように大きく口を開き、シャギーにした髪を振り乱しながらギザギザした鋭い歯を覗かせる。状況に応じてかけ声や替え歌をテンポよくチョイスする姿は敏腕DJのようで、そこら辺のプロクラブのゴール裏顔負けだ。

 だが試合は応援ではなくピッチの中で決まる。

前半5分、ゴール正面で右近が倒された。左がボールをセットし、浜学の応援団がゴールキーパーの名前を連呼する。

 左が蹴ったボールが緑の壁を越えてから大きく右に曲がりながら落ちる。キーパーの指先を弾いて浜学ゴールに突き刺さる。決めた左がベンチに走り、控えキーパーとしてベンチ入りしていた平手に飛びついた。

その直後、左がセンターバックとサイドバックの間を通す低いスルーパス。反応したのは右近。追いすがる浜学ディフェンダーを引きずりながら30メートル近くドリブル、飛び出したキーパーの頭を超えるチップキックで仕止めた。

後で知ったのだが浜松女学院は代表に三人、ケガで二人のレギュラーを欠いていたのだとか。後半ようやく反撃に出るがプリンセーザは志村を中心とした堅い守りで寄せつけない。

2-0。四戦目にして、ようやく今季リーグ初勝利を挙げた。

 人工芝の上で三々五々試合の準備を始める杏木たち。公式戦の後、出なかったプリンセーザのメンバーは浜松女学院中等部とのテストマッチを行うのがこのカードの通例なのだ。

「なんや、けったいなスパイクやな。安全靴か」

 杏木のスパイクが練習の時と明らかに違うのを目ざとく発見するやよい。何が違うかと言えば、その長さである。普通のスパイクは切れこみがくるぶしの下にあるが、杏木のそれはくるぶしをすっぽりかぶせるハイカットだ。メーカーを示すロゴはないが、ソールに黄色くasicsとある。

 葛飾クラブではユニフォーム、ジャージなどウェアやグッズの一切を支給するが、スパイクだけは自腹。こればかりは個人の感覚が優先されるからだ。

 杏木のスパイクはアシックス社のもの。京都の着倒れ、大阪の食い倒れと並ぶ履き倒れの街・神戸に本社を置くスポーツメーカーだ。

「これやと足がぐらつかへんねん」

 そう言って足首まで続く靴ひもをきゅっと結ぶ。普通ボールを蹴る時は足首をピンとしなわせて蹴る、そのほうが力が出る。

 しかし蹴鞠は足首を固定し、ひざから下の振りで鞠を上げる。飛距離は出ないが正確で、受け手に優しい微妙な回転がかけやすい。蹴るときの独特の音もこの蹴り方のせいだろう。

「三宮のセンタービルで一目惚れして、まとめ買いしてん。他の店で売ってへんねん」

「パチちゃうか、アシックサになっとるとか」

「パチもんでもええ。うちがこいつを、アシックスにしたる」

 風変わりな杏木のスパイクを散々にからかったやよいのスパイクはナイキのマーキュリアル。ブランド名は戦いの女神アテナが手にする勝利の女神ニケに由来する。フレディ・マーキュリーの名前の元になったマーキュリーは水星を擬人化した伝令の神で、太陽の回りをわずか88日で一周する水星のようなスピードを約束する軽さと素足感覚が売りである。

 瑞穂のスパイクは三本ラインのロゴがあまりにも有名なアディダス。モデルは当時銀河系軍団レアル・マドリードで猛威を震っていたジダン、ベッカムと同じプレデター。ただ彼女がこのメーカーにこだわる理由は単に扁平足で甲が高く、他のメーカーのものでは幅がきついかつま先が余ってしまうから。ちなみに修羅も現役時代からアディダスを愛用している。

 深雪はプーマの定番、パラメヒコ。プーマの創業者はアディダスの創業者の兄であり、兄弟喧嘩の末にプーマを興した。パラメヒコはペレやマラドーナといったクラッキも愛したスパイクだが、時代とともに素材が軽量化されるスパイクの中でやや重いと評価されることもある。だが深雪はその重さがいいと言う。それにパラメヒコを置いてないスポーツ用品店はまずない。

 そして、念入りにデオドラントスプレーを中に吹きかけた真夏の青いスパイクには正三角形の中に雄鶏の入った白いロゴが。メーカーの名はルコック。leは男性名詞を表す冠詞、coqはニワトリ。ニワトリはフランスの国鳥でもあり、フランスサッカー協会のエンブレムにも用いられている。彼女がそれを愛用している理由は、言うまでもないだろう。

真夏の父は日本人、母はアフリカ系フランス人。彼女もまた二重国籍者である。

「なぁ、ヤナギ」

 杏木は今こそそれを尋ねる時であると感じた。

「あんた、日本人なん? フランス人なん?」

「日本人だしー、フランス人だよ」

舌足らずで語尾を伸ばす真夏のしゃべり方はどこか幼い印象を与えた。

「そういうことやのうて」

 サッカーでは仮に一試合でも日本代表として国際Aマッチに出場した選手は他のナショナルチームではプレーできない。ただアンダー代表はその限りではなく、だから山路はあまり考えることなく召集に応じられた。

「アンコちゃんはさー、日本人になるのを望んで産まれたの?」

 珍しく鋭い切り返しを見せた真夏、杏木は言葉に詰まる。

「あたしだってこれからなるんだよ。フランス人にでも、日本人にでも」


「おらんなぁ」

「誰がや」

 センターサークルでキックオフの笛を待つ杏木とやよいの会話である。江戸紫をベースに肩や腰に赤紫の紋様が入れられた試合用ユニフォームをまとうのはこれが初めてであり、その真新しさに背筋が伸びる思いがした。

 葛飾クラブはポジションごとに背番号が決まっている。当然レギュラーは1から11番。4-2-2-2と左右対称に並ぶブラジル式に背番号も当てはめる。ゴレイロが1、ラテラウが2と6、ザケイロが3と4、ボランチが5と8、メイヤーが7と10、アタカンチが9と11。左右の区別はないがサイドバックだけが右は2、左は6と決まっている。ユニフォームは毎年新調され、背番号も変わる。小さくなればそれは期待の表れであるし、変わらなかったり逆に大きくなることで辞めてゆく選手も少なくないという。

 12番以降は一の位はこれに倣い、十の位が小さいほど序列が高くなる。たとえばこの試合で副審をつとめる左の16番と右近の19番ならそれぞれ第二グループの左サイドバックとフォワードを表している。

 新人だけはその年の同じポジションで最も大きい番号をつける。杏木が35、やよいが37、真夏が32、瑞穂が33。深雪の41は本来なら第四キーパーの番号だが今年のプリンセーザはゴレイロが三人だけなので空いていた。

「ウメコ」

 対する浜松女学院中等部のユニフォームは高等部と同じ山手線グリーンである。その中にいくつか見覚えがあるのに杏木は気づいていた。

 去る2月11日、杏木ややよい、真夏が千住スタジアムで対戦したりチームメートになったりした選手が何人かいた。あの日セレクションに落ちた子たちである。私立校である浜学は入学試験はあるが希望者は全員サッカー部に入れる。だが部員が三十人を超える学年もあり、試合に出られるかは全く別の話。

 あの中に、小柄だがよく走る選手がいた。リンゴのような赤い頬に東北訛りの、純朴を絵に描いたような少女がそこに紛れてやしないかと探した。

 が、徒労だった。

 しかし、別の見知った顔ならある。シャギーにした前髪で左目を隠した選手である。さっきまで声を枯らして姉貴分に声援を送っていたコールリーダーがじっとこちらを見ている。

 そして、笑った。口の中が緑一色だった。

 背中に鳥肌が立つのを感じながら、修羅の吹くキックオフの笛を聞いた。

 飛び出した平手が捕球したのを確認して、それまで肩でブロックしていたフォワードから離れて前に出る瑞穂。その左足にボールが転がり出た。アウトサイドでずらしながらパスコースを探す。ボールをただ跳ね返しさえすれば良かったのは小学生までだ。ドリブルには抜くだけでなく運ぶドリブルもある。少しだけでもボールを前に運べれば、見える景色は驚くほど変わる。

 左足の低くて速いパスがセンターサークルへ。背後からのプレッシャーを背中で受け止める杏木。小学生まではほとんどの場合相手は男の子だった。もちろん触られたくないし、向こうだってやりにくかったろう。だが今は同性が相手、遠慮なくぶち当たられる。その力を受けながらいかに一の足、最初のトラップを意のままに決めるか。荒っぽく削られてもひるまず、相手の届かないところでボールを止める。それが決まれば、ターンして相手を置き去りにするのは容易かった。

 前線では相手ディフェンダーを背負う深雪が。ゴールが見えたらシュート、見えなくてもシュート、が彼女のサッカーの全てだった。もちろんそれも忘れてないが、それだけではなくなった。あえてマーカーを引きつけて前線のターゲットとなる意識が芽生えつつあった。我の強いその性格を考えれば大変な進歩だった。

 ポストプレーヤーが深さを作ればオフサイドラインが下がりスペースが生まれる。浜学のディフェンスラインの裏にポトリと落ちたパスに左斜め前に走ったのはやよいだった。足元にボールさえあれば幸せだったドリブラーもボールを持ってない時間が圧倒的に長いのがサッカーだからその時何を考えるかが重要だと気がついた。そしてゴール前でフリーならシュートを、ゴールを狙う。

 誰一人、このままの自分でいいなんて思ってなかった。

 決定的、と思われたシュートは大きく打ち上げられた。もんどりうって倒れたやよいが人工芝を巻き上げて何回も転がる。長い長い滞空時間の末、キーパーの懐に。

「なまらやべー!」

 そう言いながら緑色の口の中を見せつけるようにして立ち上がる浜学の4番。杏木のパスがやよいに出ると見るや否やマークしていた深雪を突き飛ばすようにして左足アウトサイドで弾き出した。右利きの選手で両足ともボールを蹴れる選手は珍しくないが、両足でタックルできる選手はなかなかいない。ボールを奪われたやよいはその足につまずいたのだった。

「七星!」

 ナナセ、と呼ばれた浜学の4番が受けるとそのまま前へ蹴り出す。杏木のはるか頭上を越えていったボールは瑞穂が跳ね返す。しかしこれを浜学が拾い、今度はサイドに展開する。

 浜松女学院のモットーは質実剛健。それはサッカーのスタイルにも色濃く反映されている。

 手数をかけず、とにかく前に。ボールがこぼれたら拾い、ゴールになだれこむ。走り負けるな。典型的な体育会系のサッカーである。

 葛飾クラブは違う。ショートパス、ドリブル、ロングシュート。ありとあらゆる手段を使い、いかにして点を取るかが肝心だった。

 そこにあるのは優劣ではなく、違いだけである。

 プリンセーザの選手に言わせれば浜学のサッカーは退屈だし、浜学の部員に言わせればプリンセーザのサッカーは軽い。

 杏木たちはプリンセーザのセレクションに落ちた選手が多くいる浜学の選手を低く見ていたが、全然そんなことはない。ただ葛飾クラブのスタイルには合わなかっただけである。

「ナナセ、35!」

 ボールを受けるためにフリーになろうとする杏木、しかし4番が影のようについてくる。汗ばんだ体をピタリとつけられると暑苦しいことこの上ないが、この愚直なストッパーはサボるということを知らない。

 速い。強い。先ほどまで試合に出ていた高等部の先輩たちより数段上だ。それでも試合に出られないのは、年功序列以外に理由が思い当たらない。

「まるで鶏合わせにござりまするな」

 鶏合わせとは宮中で行われた闘鶏である。炎天下のなか、髪を振り乱してけたたましく叫びながらボールを追い回す姿は軍鶏の喧嘩のような騒がしさだった。

「鞠とは、もっとこう、雅びやかなもので思うておりましたが」

 権大納言、藤原成通が杏木のそばで扇子を広げて口許を隠した。試合と聞いて麿も連れてゆけとさんざん駄々をこねて、鞠を浜松町まで運ばせたのだ。

「言いたいこと言うてからに」

 悪態はつくものの、確かに一理ある。浜学のペースにすっかり巻きこまれていたことに気づいた。相手の裏をかくのがサッカーの醍醐味、それをすっかり忘れていた。

 立ち位置を自陣にまで下げると、4番もそこまで深追いはしない。

「トランキーロ!」

 サイドで無理矢理突破を計ろうとやよいの背中に叫ぶ。焦るな、の声にボールを下げるやよい。フリーで受ける前に、わずかばかり右手を上げる杏木。

 杏木がダイレクトで前にはたくのと、その背後から黒い影が飛び出すのがほぼ同時に視界に入り、4番の動き出しが一瞬だけ遅れた。

 ミスのスポーツ。サッカーを端的に表現するとこうなる。確実性の低い足でのプレーはミスがつきものであり、ゴールは何かしらのミスから生まれる。

 そしてミスは、得てして予想外の行動が引き起こす。

 ディフェンダー、特にサイドバックが攻撃参加することをオーバーラップと呼ぶ。元々は重ね合わせるという意味で、外側を使って攻める前の選手のさらに外、大外からかぶせるようにして追い越す動きを指す。ただサイドバックの常識となっており、意外性は薄い。

 コーンローが残像を残すようなスピードでゴール前に侵入するさまはさながら忍者。真夏が取った動きは外から中へ、タッチライン際からゴール前へと斜めに走るダイアゴナルランだった。

 視界に入った白いボールと黒い人影に戸惑った4番だがすぐさま踵を返す。だが走った距離が数歩と数十メートルでは勢いが違いすぎた。あえなく跳ね飛ばされる。

 だが真夏も十分に準備ができているわけではない。全力疾走とプレッシャーとで心臓が倍速で脈を打つ。コンパスで引いたような半円を描いて落ちたボールが荒れた天然芝の上で打ち頃に弾んで戻ってくる。

 そのタイミングで4番に当たられた。バランスを崩しながらも、ボールに近い左足を必死に伸ばした。爪先に当てるつもりが、足首に当たってしまった。

 飛び出したものの遠ざかるボールのスピンに立ち止まってしまったキーパーの立ち位置は中途半端だった。その手を伸ばしても届かない高さにふらふらと打ち上げられたボールがそのままゴールの中に落ちるのを惚けたように見送るしかない。

 ほとんどのゴールはミスが絡む。が、攻撃側のミスの場合だってある。

「かしわもちー!」

 杏木の絶叫は恐ろしく変わっていた。が、あの日柏で柏餅を食べていて思いついた攻めの形にだった。

 白い餅の中のみそあんは黄色かった。赤黒い小豆が入るべき場所をしげしげと見つめているうちに、ひらめいたのだ。

 柏餅を柏餅たらしめているのは外側の葉っぱだが、食べるのは中身だ。

 そしてその真ん中に、黄色いみそあんではなく黒い小豆を入れたら。

 ボールを持たずに走らせたらプリンセーザでも真夏に敵う者はない。ただあまりに速すぎるのでボールをコントロールしきれないことが多々あり、いくらタッチライン際を疾走してもそこにボールは出なかった。

 だが、それがゴール前なら話は別だ。ゴール前に味方がノーマークでいたら何があってもパスを出す。より直接的な動きなら真夏のスピードが活かされ、技術の拙さもカバーできる。

 現在ではこれをインナーラップと呼ぶ。オーバーラップのように外側を上がってクロスを上げるのではなく、中に入ってシュートを打つ動きを世界中のサイドバックが行っている。だがその動きに、まだ名前はなかった。

 だから適当につけた。柏餅、と。

「柏餅とか、だっさ」

 やよいが皮肉たっぷりに祝福してくれた時だった。

 にわかにゴール前が騒がしくなった。黒服を着た修羅が小走りに向かう先には受勲者のはずだった真夏が倒れている。そしてそのそばには、顔を押さえてうずくまる4番が。

 黒服に身を包んだ志村が真夏を立たせ、胸から出したレッドカードをその頭上に掲げた。

 その瞬間、4番が緑色の口の中を見せて笑った。杏木にはそう見えた。


「ありえない」

 副審をつとめた右近が潮風に焼けた髪を指で透いた。彼女の位置からは真夏が4番に肘鉄を入れたのがはっきり見えた。見てしまったものは旗を上げるしかなかった。

「なんであんなことしたんだ、柳沢」

 腕組みしたまま問い詰める修羅。真夏はそちらを見ずに、脱ぎ捨てたスパイクから人工芝に敷き詰められた黒いチップを追い出す。

 やがて、その厚ぼったい唇が、小刻みに震え始めた。

「臭いんだよ、って」

 トラッシュ・トーク、相手に対して口汚い言葉を浴びせて集中を乱す個人戦術である。それにまんまとかかってしまったわけだ。重いため息が漏れた。

「腹を立てるのは図星だからだ」

修羅がバッサリと切り捨てた。

 口にはしないが、誰もが思っていた。この暑さの中、真夏から独特な体臭がするのは事実だった。靴の中や脇の下にこまめに汗止めスプレーを施しているのを見たことがない者はないし、生理が始まるとその体臭で近づいてにいることが分かるほどなのだ。

「だから日本は嫌なんだよ! 水虫にもなるし!」

ついに爆発するなく真夏。

 空気が乾燥しているヨーロッパの内陸部に位置するフランスに比べて高温多湿の日本。昔の人は下駄や草履といった通気性の高い履き物を好んだが、それらで試合はできない。

 目を充血させた真夏の顔にはこう書いてあった。もうたくさんだ、と。

「もう、マナったら」

 アミーゴである左がトウモロコシ頭を抱いてなだめた。

「おれは気にしねえよ」

深雪が、爪のあとがつくほど自らの拳を強く、握る。

「一日使った籠手ほどじゃない」

「志村はん、先にちょっかいかけたんは向こうです」

「そんなことはわかってる」

 黒服を脱ぎ捨てながらやよいに向かって吐き捨てる志村。後半は浜学が審判を出すことになっていた。

「あんた、今日はおれらの監督だろ。選手を守りもしないのかよ」

「やめろ松田」

 右の耳から入ってくる争いの声。

「ゆめゆめ、事を荒立てませぬよう。乱れた心で上げた鞠は醜くなりまする」

 左の耳から入ってくる小言。

 今ごろ海の向こうでは、一緒に葛飾クラブの門を叩いた選手が世界を相手にしているのに。

「わかったか、藤原」

「わかりましたか、杏木」

 同時に言われ、杏木の何かが崩れた。

「やかましい大納言小豆! 腹も割れん臆病もんが!」

 大納言小豆と呼ばれた成通の顔がにわかに強ばる。摂関家に生まれ四代の帝に仕えながら口の悪さからついに大臣の位には就けなかった彼にとって、それは最大級の侮辱であった。

 そして腹を割って話そうとしてないのが明らかな菅原にも偶然その言葉が突き刺さった。成通の姿は杏木にしか見えないのだ。

「どういう意味だ、藤原」

「別に。ただ見損のうただけや、今まで以上にな」

「なんだと」

呼び止めようとする修羅の間に割って入った平手が叫ぶ。

「踊らしちゃれ!」

 熱気ゆらめく人工芝の上に戻る杏木の頭にあるのは、ただ決着をつけることのみ。それに続くやよい、瑞穂、そして深雪。片肺飛行のままで飛ぶ覚悟のようなものが表情の端々からにじみ出す。

「春揚花、夏安林、秋園」

 成通が鞠の精を呼ぶ。それまでコーナーフラッグやゴールポストにもたれて涼んでいた禿たちが、一斉に目を覚ます。

「おいたが過ぎませぬように、な」


 十人のプリンセーザは真夏のいた右ラテラウにやよいが下がり、前線を深雪の1トップにした。かたや選手を大幅に入れ替えてきた浜学、点差が大した意味を持つでもない試合にも関わらず緑のユニフォームは本気だ。

「かまかせー!」

 そしてその最後尾で吠える4番。唯一、彼女だけは替えがきかない。

 ならば、そこを破れば、敵は総崩れだ。

 一人多い浜学は中盤を厚くした。言わずもがな、杏木対策だ。常時二人がつき、チャレンジ&カバーをさらに徹底してきた。

 狙いは悪くないが、相手が悪い。

 杏木のサッカーの根底に蹴鞠がある。ボールを持った相手にはマンマークが有効だが、蹴鞠は三の足までに鞠を離すのをよしとする。さらには杏木に鞠を叩きこんだ鞠聖は三たびも蹴らばしらけて見ゆと豪語した人物である。

 ボールに対して右足を出すとキープせず、ダイレクトで味方にはたく。この繰り返しはプリンセーザにリズムを生んだ。杏木にマークが引きつけられる分時間とスペースが生まれ、数的不利を感じさせない。

 杏木に対して二人でつく浜学の作戦は完全に裏目に出た。蹴鞠は四本の懸と呼ばれる木の間で行う。人が二人立てば必ず「間」ができる。杏木はその間を見つけ、入り、受けては放す。

 右サイドをオーバーラップするやよいにパスが出た。タッチラインの上に落ちたボールをトラップ、そこからさらにサイドを深々とえぐる。4番がファーに走る深雪につく。クロスは速くて高かったので、ニアで合わせるのは極めて難しいと判断したから。

「オウ!」

 ニアサイドを覆う紫の影。延びきった足でクロスを押し出すと天井ネットに突き刺した。

 スライディングしながら軽く3メートルは跳んだ杏木を、信じられない、といった目で見てくる4番。冷ややかにそれを見下すと、低くつぶやく。

「お立ちやす」

 ぞくり、と4番の背筋に鳥肌が立った。

「キーパー!」

 右からのクロスに平手が飛び出す。体が小さいのでほとんど飛び蹴りのように足を上げて体を守り、両拳を揃えてパンチング。

 瑞穂がフリーで拾う。前を向くと西日が差して何も見えなくなる。

「カエデ!」

 遠くからの声に必死に目をこらす瑞穂。35番が手を上げているのがうっすらと見えたので、めいっぱい左足を振るった。

 ロングボールはまっすぐな軌跡を描いてハーフウェーラインを越え、浜学ゴール前に近づくにつれてゆっくりと高度を下げる。杏木の右を並走する4番。トラップの瞬間に体を当ててバランスを崩させるつもりだった。

「アリ!」

 全力で肩をぶつけたにも関わらず、その頭からかかとまで鉄の棒が入ってるかのようにびくともしなかった。

 杏木は右足のインサイドに合わせたボールを、自分の左足の後ろに通した。ひとりでにその場に倒れる4番を尻目に右足首をコンパクトに返す。飛び出していたキーパーの手の先5センチ上を抜いた。

 なおも杏木は容赦しない。浜学の横パスを奪うとそのままドリブル。ボールが取れないとわかっているから、緑のユニフォームが寄せられない。右にはたくとやよいがオーバーラップ。ふわりとしたクロスにやぁっ、というかけ声とともに深雪が飛びつく。

 4番が寄せていた。杏木のところで取れないなら他で取る。しかし深雪も半身を入れ、先に落下地点に。せめてゴールを向かせまいと必死に当たる。

 深雪のヘディングはゴールと反対の方向に。そこには反転し、足を頭よりも上げて飛ぶ杏木が。

「ヤカ!」

 女子の、しかも中学生の試合ではなかなかお目にかかれない、鮮やかなバイシクルキック。深雪と折り重なって動けない4番。飛びつくが触れないキーパー。ゴールを倒す勢いで揺さぶられるネット。

 35番をつけた背中が音を立てて芝の上に落ちた。

 後半だけでハットトリックを許し、残り時間もわずか。浜学の足はとっくに止まってしまっていた。ただ一人を除いて。

「かしぐな! けっぱれ!」

 声をことさら張り上げ、腕を広げ、うつむく味方の顔を上げさせる4番。だがすでに勝負あった事実は動かせず、効果はない。

 業を煮やし、自らの判断で前線に上がってゆく。プリンセーザは瑞穂がすでに下がっており、ヘディングで勝ちまくる。うち一本が平手の短い腕が届かないコースに飛んでゴールに飛びこんだ。疲れた味方をこれ以上勇気づけるプレーはない、とにかくゴール前にハイボールを上げる浜学。

「藤原!」

 自陣ゴールを何度も指差す修羅。高さのなくなっていた最終ラインに入れ、の指示だ。さっきまで自分にしつこくまとわりついていた4番が今度は自分を振りほどこうとするのはちょっとした快感だった。

 すでにスタミナ切れのやよいがあっさりとかわされ、クロスを上げられる。これは杏木の足元に落ちてきたが、ただ跳ね返すなど彼女の趣味ではない。

飛んできたボールを、足の上で止める。そして真上へと上げる。

「おいでやす」

 ちょいちょいと指で誘うその目は、ねずみをなぶり殺しにする猫のそれだった。

飛びつく4番を腕でブロックしながら再び上げる。その下をくぐられるとかかとで上げる。むきになって頭から飛びつく4番。杏木のほほに生え際のあたりが入る。ボールはタッチラインを出た。

 口の中に広がる鉄の味。もごもごと口を動かし、手のひらに吐き出すと真っ赤に染まった。


 浜学グラウンドのはす向かいにある歯科医さんは、いつけが人が運ばれてもいいように試合の日は開けているのだという。

 院長先生はやや恰幅がいいものの整った顔立ちで、若い頃のロジャー・テイラーにそっくりだと付き添ったやよいが教えてくれた。もっともクイーンのドラマーを杏木は知らない。

 唇に裂傷ができており、下顎全体に麻酔をかけて縫合した。今日は水以外口にしてはならないと言われた。

「藤原さんは、唇をかむくせがあるのかな? 傷が歯形と一致する」

 確かに東京に来てから、練習などの後にあごがだるくなるようになった。

「スポーツ選手や職人さんはどうしても歯を食い縛ることが多いから、年を取って歯がガタガタになっちゃうんだよ。お婆ちゃんになっても自分の歯でごはん食べたいでしょ?」

 祖父が生前、総入れ歯になって大福が食べられなくなったと嘆いていたのを思い出した。

 これは提案なんだけど、と前置きした先生がカタログを持ってきた。

「マウスガードを入れませんか? その方が力も出るし」

 真っ先に浜学の4番の、緑色の口を思い浮かべる。もう二度と見たくないと思っていたその顔を。

「それは、やっきりこいてしまったね」

 今日起こったことを話すと、歯科医は浜松弁でいたわった。やはりあのマウスガードはここで作られたものだった。

「けど、大熊さんがそんなことを言うとは考えにくいな」

 あの4番は大熊七星という名前なのだという。東京の親戚を頼って北海道から出てきたことも初めて知った。

「彼女は浜学中等部のキャプテンだ。そんな汚い言葉を吐く人に、五十人以上の部員がついていくかな?」


「よう、嬢ちゃんたち」

 葛飾に戻ると、日はすっかり傾いていた。

 クラブハウスに入ろうとした杏木とやよいが、背後からのどら声に足を止める。声のする方を恐る恐る向くと、Vシネマから飛び出してきたような風貌の男が大きな木の箱を肩に担ぎながらがに股で近づいてくるではないか。

 きっちりとコテを当てたアイパーにレイバンのサングラス、左のほお骨からあごにかけて走る向こう傷。鯉の描かれたシャツに腹巻き、ステテコ、雪駄。逃げ出そうものなら後ろから撃たれそうな風貌に足がすくんだ。

「新鮮な白いのが手に入ったから、しゃぶにしてくんな」

 そう前歯がない口で笑うが、誰と間違えているのやら検討もつかない。

「嬢ちゃんら、葛飾組のモンじゃねえんか」

 浅草に程近い葛飾という土地柄、それっぽい方とすれ違うことがないわけてはないが、そんな組事務所がこの辺にあるとは聞いたことがない。

「うちは葛飾組じゃなくて葛飾クラブですよ、極道さん」

 地獄に仏、修羅が間に入ってくれた。

「ようシャバ僧。見てくんな」

 そう言うと男がトロ箱の中を開いた。大皿に盛られた白身の魚が二皿、しゃぶしゃぶ用に薄作りにして盛られていた。

「工藤さん、うちに出入りしてる魚屋さんだよ。大石さんと小学校の同級生」

 フレディの幼なじみと聞いて納得いく。よく見ると鯉のシャツはニットであった。どこに売っているのだろうか。

「今日、日曜っすよ?」

「シノギじゃねえよ。腹一杯食っておくんなせえ」

 そう言ってサングラスを外すが、細く剃られた眉毛が恐くてちっともホッとできなかった。


「豚じゃない、牡丹よ」

「このイノシシ野郎!」

「狂牛病が恐いからよく焼いたのよ」

 ハイーニャのお姉様たちの間ではドロドロとした昼ドラが大流行してるらしい。大声で笑いながら肉や魚を運んでくる彼女たちは日本を代表するサッカー選手でありながら、それを本業にしてはいない。フルタイムで働く者がほとんとで、院生を含む大学生が数名。

 ハイーニャから三人、プリンセーザから二人、そして菅原真澄をコーチとして送り出しているU19女子日本代表の試合が、録画ではあるがBSで放送されることが急きょ決まった。ハイーニャとプリンセーザの選手が一人一品ずつ持ち寄り、観戦することになったのだ。

「アンコちゃんの実家のお菓子、素敵なんですよ」

 左の祖母は茶道の家元である。お茶請けにとりやの上生菓子を見繕ったところ大層好評で、お取り寄せしてもらえることになった。

 そのようなことがあり、杏木たちの学年は入団のごあいさつがわりに郷里の甘味を持ち寄ることになった。

 やよいはどら焼だった。どら焼は三笠山ともいい、三笠の山にいでし月かもと百人一首に歌われた三笠山(春日山)の丘陵と似ていることから奈良土産の一つになっている。やよいが持ってきたのはハチミツやバターがふんだんに使われた洋菓子風のものだった。

「鹿せんべいちゃうん?」

「あんなまずいもん、人の食べるもんやない」

「食うたんかい」

 瑞穂は信玄餅だった。求肥と餅米を固めたスライム状のものにきな粉がまぶされ、黒蜜をかけて食べる。持ってきた本人同様手堅いが、面白味に欠けた。

 深雪が黙ったままばりばりとあぐらの上に載せた段ボールの大箱を開ける。柑橘系の匂いがあたりに立ちこめる。中身は大粒のいよかんだった。

「お菓子って言ったじゃん」

 口ごもる深雪。自分でもやってしまったと感じたのだろう。何となく、場違いな雰囲気が流れる。

「果物のことをな、水菓子とも呼ぶんやで」

 救いの手の差し伸べたのは杏木だった。

「果物って旬があって、一年中食べられへんやん。その代用品としてお菓子が作られたっちゅう説はちゃんとある。フルーツかて、立派なお菓子や」

 そう言って厚手の皮をむくと瑞穂の鼻をつまみ、開いた口に丸のままねじこむ。それで空気が和み、大粒の橙色が回り始める。柑橘類に多く含まれるビタミンとくえんは疲労回復に効き目があり、その瑞々しい香りだけでも疲れが吹っ飛ぶ気がした。

「・・・ありがとう」

 不意に手を握られた。深雪の手のひらは固く、特に指の付け根に大きなタコができていた。

「真夏は?」

 それは上品な包装紙に包まれていた。それを破ると白い箱が表れ、さらにそのふたを取ると、薄く茶色い焼き菓子が几帳面に収められていた。クッキーかと思って一枚手に取り、割ると驚くくらい柔らかかった。あわてて口に放りこむと、噛むまでもなくほろほろと溶けてゆく。くどいくらいの甘さを残して。

「マカロンだ」

「修羅さん?」

 違う。修羅は疲れたと言ってさっさと帰ってしまった。

 砂糖とメレンゲとアーモンドでできたフランス伝統の菓子だ。焼き菓子だが熱に弱く日持ちもしない。

「実家がケーキ屋なんです。父がパティシエで」

「そんなん初耳や」

「和菓子屋の子にそんなこと言ったらいじめられると思って」

「そんなわけあるかい」

 黒い顔に白い歯がむき出しになる。真夏にやっと、笑顔が戻った。

「はんかくさい、って知っとる?」

 くさい、という響きに身を強ばらせる真夏。だが杏木は続ける。

「北海道で、あほって意味なんやて」

 浜学の4番、大熊七星は札幌生まれ。小学校卒業と同時に単身上京したとイケメン歯科医が教えてくれた。浜学に寮はなく、今でもアパートで独り暮らしをしているのだとか。

「これはあくまで想像やけど、悔しくて思わず独り言を言うたんやないか? コン畜生、みたいな」

「はんかくさい、くさい」

 真夏が反すうする。そう言えば、くさいの前に何かついていた気がする。

「別にうちもあんなやつの肩を持つつもりはない。ないけど、誤解やったらつまらんやん。人間、憎むより許すほうがずっとむつかしいねんから」

 確かに怒りは時として絶大なパワーを生むこともある。シュートの一つ前のパスが得意な杏木があそこまでシュートに、ゴールに対して貪欲になれたのはある意味あの4番への反発からだった。それはある意味大熊のおかげだったが、その代償としてこれだけおいしそうなものがありながら今晩彼女が口にできるのは手にしたマックスコーヒーだけである。

「あとな、その、匂いの原因はは多汗症なんやて」

「タカンショー?」

「汗をようさんかくから匂うんや。ヤナギ、あんたよう走ってくれはるもんな。おかげでうちは楽できる」

 鼻腔を広げて笑いをかみ殺す真夏。

「楽しいよー、みんなのために走るのは」

 うなずく杏木。多汗症は簡単な治療で緩和され、保険もきくと教えてもらった。だがそれを告げるのはまたの機会にすることにした。

「東京なんて田舎者の集まりだ。言うじゃねえか、三代目からが江戸っ子だって」

右手に鳩サブレ、左手にういろう。バーコード頭のじいさんが突然顔をつっこんだ。

「皆の者、大儀であった」

「カピはん」

 何様かと思うような登場の仕方で現れたのは真打ち、改源春風。先月の試合の翌日手術を受け、第五中指骨の骨折部分にボルトを埋め込んだ。骨だからほっといてもいずれはくっつくが、八月に控える本大会に向け、治りの早いほうを選んだ。現在はリハビリと、動かせる部分の強化につとめている。

「あ、オーナーもいてはる」

「人をグリコのオマケみたいに言うんざゃねえよ」

 前世はアリかミツバチだったかのような勢いで甘いものを手当たり次第ポケットにねじこむ佐藤好太郎。

「藤原、武勇伝があったそうじゃねえか」

「聞いちゃったよ、藤くん」

 改源がプロレスラーのように太くなった腕で杏木の頭をぐじゃぐじゃになで回す。その手が傷口に触れて悲鳴を上げそうになった。

「きみはズル賢くて、おせっかいで、腹黒で、そして素敵な人だ」

 とてもほめ言葉には聞こえない。

 改源が持ち寄ったのはこんにゃくとネギだった。どちらも鍋物には欠かせない。

「で、藤くんは何を持ってきたの?」

「大したもんやないですよ」

 とりや謹製の風呂敷包みから取り出したのは、何の変鉄もない柏餅だった。

「おっきいねぇ」

 佐藤が目を丸くする。彼女の祖母が取り寄せていた上生菓子が赤子の拳大なのに比べ、この柏餅は大人の男の拳ほどもある。

「柏餅みたいなシンプルなお菓子は見た目と素材で勝負ですやん」

 京都は職人の町でもある。一日働いた体に、二口三口で消えるようなお上品な大きさでは足りるはずがない。お客様用の上生菓子は午前に売り、普段使いの大ぶりな大福や最中は午後に売る。これ和菓子屋の鉄則なり。

「なんともはや、にぎやかにござりまするな」

 病院から直接クラブハウスに行ったので、当然、バッグの中には鞠が入ったままなのをすっかり忘れていた。

「ささ(酒)も呑まずに、よくもまあここまで上機嫌になれまするな」

 そう言って不機嫌そうにすねる成通の肉体は八百年前に土に帰っている。どれほどの美食も目で楽しむことしかできず、多分にやっかみが含まれていた。リノリウムの床から三尺ほどの高さに沓を浮かべたまま、恨めしげに丸眉をひそめている。

 一応怨霊の類いに入る存在なのだからあまり人前に出ないでほしいのだが、鞠聖は遠慮というものを知らぬ。もっともその姿が見え、声が聞こえる者が杏木の他にはないので、はた目にはまた独り言が始まったとしか思われずに聞き流される。

「杏木さま、何の宴でござりまするか」

 夏安林が小首を傾げて尋ねる。

「先ほどの鞠を祝うものでござりまするか」

 秋園の問いは少し違う。

「中国とは、随の国でござりますな」

 春揚花が杏木の答えにうなずく。

 鞠の精たちの声は鈴を転がすようで、どことなく眠気が誘われる。

 蹴鞠は紀元前の中国、春秋時代の軍事訓練に端を発するとされる。遣隋使によって日本にもたらされると独自のものとして栄え、明治維新とともに廃れ、保存されて現在に至る。

 成通が鞠にその御霊を宿している理由は実にわかりやすい。一度滅んだ日本の蹴鞠を、今一度現世に復興させようと子孫である杏木に憑いている。その鞠への執着たるや凄まじいものがある。

 だが鞠の精たちにはそのような行動原理が見当たらない。杏木に鞠を強いるでもなく、名を呼ばれれば力を貸してくれる。それはなぜなのか。

 無邪気に肩や膝や頭に乗っても一果ほどの重さも感じぬこの小さき者たちが何者で、どこから来て、どこに向かうのか。

 杏木は何も知らない。


 十時きっかりに画面が切り替わった。審判団を先頭にした入場行進と共に白文字でタイトルが写し出される。「U19女子サッカーアジア選手権準々決勝 中国対日本」と。日本との時差一時間の蘇州がまだ明るいので、これが録画放送だとすぐわかった。

 蘇州は上海の西にある交通の要所で、日本では李香蘭の「蘇州夜曲」で知られる。李香蘭こと山口淑子は当時日本領だった中国で日本人の両親のもとに生まれ、堪能だった中国語で中国人スターとして名を馳せる。戦後国家反逆罪に問われるも中国人ではなかったことが判明して処刑を免れ、国外追放されて戻った祖国日本で国会議員になるという数奇な運命を辿った女性である。

 すぐに画面が切り替わり、アウェイ日本の君が代斉唱が始まる。真っ先に大写しにされた顔三つには見覚えがあった。そっくりの顔三つが、日の丸が掲げられてある方に向けて敬礼をしている。

「品川三姉妹だね」

 改源が防衛大学校の三つ子の名前を教えてくれた。3番のディフェンダーの桜、5番がミッドフィルダーの錨、7番がフォワードの翼、と。

「葛飾クラブに来ないかってオーナーが何度も誘ったらしいんだけど、そのたんび断られたってさ。防大生は国家公務員だから給料が出るし、プロでもない女子サッカー選手よりはずっと安定してるもの」

 その言い回しはやや自虐的に聞こえた。

 続いて他の日本選手も写る。ハイーニャの選手は全員スタメンだったが、プリンセーザの10番鬼頭さゆりはベンチスタート。

 そして最後にゴールキーパーが。他の選手より頭二つ大きいので顔が見切れていたがあの肩幅は間違えようがない。

 カメラは日本選手の列の後ろをぐるっと回り、メインスタンドを仰ぎ見るその背中を写した。黄色いユニフォームの背中にプリンセーザと同じ21番がある。

 が、その上にローマ字表記された名前に驚きの声が上がった。

「リー?」

 アルファベットでLEEとある。別人? と誰かが言ったが、そんなわけもない。

 日本のパスポートは二種類ある。十年用の赤、五年用の青。短期間で顔形が変わる未成年者は五年用のパスポートしか取得できない。このチームは全員19歳以下なので、中国の空港で見せたパスポートは彼女たちのまとっているユニフォームと同じ青色である。

 だが他のチームメートと一人だけ違うゴールキーパーの持っているパスポートは中国政府が発行する赤である。そしてそこに記載された名前はLeeGuanYu 。

 重国籍者であることを隠さず、山路寛子はこの大会に臨んだ。

 そして一万人規模のスタジアムを埋め尽くした中国人の、国家斉唱すらかき消す怒号のようなブーイングのほとんどはこの長身キーパーに向けられていた。原因はその背中の名前である。自分たちの国の名を持つ者が敵国にいる、そのことがどれだけの憎悪を巻き起こすのか身をもって知ることになった。

 そして罵声を一身に受けるゴレイロは、日の丸をつけた腕を後ろに回したまま口を固く閉じている。

 君が代を歌うことはなかった。

「やせたなぁ」

 ハイーニャの選手がしみじみと言った。確かにどの顔もほっそりして見える。いや、顔面蒼白で、やつれたと言うべきだった。

 女子代表、しかもアンダー代表に充分な予算を組めるご時世ではなかった。さすがに自腹を切って、というほど鬼ではなかったが、この大会もホテルと呼ぶのもはばかられる安宿しか手配できなかったと後に聞かされることになる。

 何が最大の問題かといえば、食事である。アウェイに滞同する専属コックなど雇えるわけもない。まだ欧米のホテルならビュッフェ形式の食事で栄養補給できるが、このチームが泊まったホテルの食事は思いきりローカル食だったのだ。三食とも油のきつい中華で食堂に寄りつかなくなった選手は一人や二人ではなく、自室で日本から持参したパックのご飯を食べたなんて涙ぐましい話まで漏れ伝わってきた。

「これ、食べさせてあげたいな」

 山海の珍味に甘味、ありとあらゆるごちそうが並べられたテーブルを見て、改源がぽつりとつぶやく。

 食の洗礼に屈しなかったのは品川三姉妹だけであった。食べられるだけましとばかりに油ものて白米をかっこむ逞しさがあった。

 さらに大量に余った食事をもりもり食べたのが山路だった。普段から食べ慣れているものを出され、むしろ増量しているようにさえ見えた。その意味では彼女にとってアウェイではなかった。

 そして。

「アフロさん写った!」

 選手よりも監督よりも目立つそのアフロヘア。プリンセーザ監督、菅原真澄が青色のジャージに身を包み、コーチとして因縁の地・中国に殴りこみをかけていた。

 試合は立ち上がりから大歓声を受ける地元中国のペース。鋼鉄の薔薇という愛称を持つ赤いユニフォームの女傑たちは高さとスピードにおいて凌駕していた。

 中でも圧倒されるのはサイドチェンジだった。サッカーのピッチ幅は国際規格で68メートル、これを広く使えば試合は有利に運べる。男子であればピッチの端から端まで速く、正確なボールを横切らせることができる。だが女子のキック力では雑であったりスローであったりなかなか有効な展開に持ちこめない。

 サイドバックとサイドハーフ、ウイングに品川三姉妹を配する右サイドは日本のストロングポイントだった。中国の左サイドの選手は三人を引きつけ、逆サイドに速くて正確なロングボールを送り、揺さぶりをかけてきた。何度も。

 日本も全てにおいて中国に劣っていたわけではない。特にボールテクニックに関してはこの時点でアジアのトップクラスにあった。また攻めにおいてはより多くの選手がボールに絡み、守りにおいては必ず複数でボールに当たる約束ごとを徹底していた。

 だがこのゲームのピッチコンディションは、そんな日本のスタイルに著しく適していなかった。芝はところどころ地表が見えるほどひどい有り様で、ショートパスをつなごうとしてもまともにボールが転がらない。また組織的なサッカーのベースになる運動量も、この不安定なピッチでは目減りしてゆく。

 加えて、この観衆だ。日本の選手がボールを持とうものならシャーニー、殺すの大合唱である。人間、経験したことのないものを受け入れるには時間がかかる。まして当時女子の世代別世界大会は二十歳以下大会しかなく、ほとんどの選手にとってこれが初めて身をもって知る本物のアウェイ。それらを力に変えるには、彼女たちはあまりにもうら若き乙女だった。

 いつ中国が先制してもおかしくない。序盤からずっとそんな状況だった。

 だがそれをたった一人で食い止めた者がある。

 唯一中国選手に見劣りしない体躯を誇るゴールキーパーはその怒濤のような攻撃を受け止めた。鋭い反応で、冷静な読みで、勇敢な飛び出しで。

 中国の低くて浅いクロスに両拳を揃え、魚雷のように飛びつく。弾き返したボールを拾われ、頭越しにふわりとしたループシュートを打たれると両手地面につき、海老ぞりになってかかとで蹴り返した。

 中国のサイドチェンジ。青のユニフォームが一人もいない左サイドに、猛然と飛び出した。赤いユニフォームを背中でブロック、タッチラインを割るまでボールに触れさせなかった。日本のスローインを自分で入れるとまたゴール前に戻った。

 左サイドからのハイクロスにどんピシャのヘディングを許した。着地した中国選手が着地と同時にガッツポーズするほど完璧なコースに飛んだボールに対し、ゴールラインを蹴り、猫のような敏捷さで飛びついた。指の先をかすめたボールはクロスバーを叩き、その懐に戻ってきた。

 日本のゴールキーパーが1点もののシュートを止めるたびに、スタンドが静まり返った。

「ゴールキーパーは孤高の鷹、神秘の人、最後の砦」

 佐藤が柏餅の葉っぱをむきなからつぶやいたのは、どこかで聞いたフレーズだった。

「ロシアの作家ウラジミール・ナボコフの言葉だよ」

「ナボコフって、あの?」

 改源のあの、には若干の毒が含まれていた。

「そうだ。『あの』ナボコフは『あれ』以外にも多くの優れた文章を遺している。特に大学のフットボールチームでゴールキーパーをやっていたこともあって、ゴールキーパーへの賛辞の言葉を多く記した。俺の若い頃は翻訳書なんかなかったから原文で読んだもんだ」

 すっかり禿げ上がった佐藤の頭だが、その中身の知性は少しも錆びついてはいない。

「たった一人超然と、ゴールマウスの前に冷静に立ちはたかるゴールキーパーに少年たちは魅了され、通りで見れば追いかける。闘牛士か撃墜王を見るように、人はゴールキーパーを見て憧れに胸を震わせる」

 なおも続く佐藤の暗唱をもはや誰も聞いていない。それほど目の前で繰り広げられるセービングの嵐は圧巻だった。

 何をどうしても入らないんじゃないかという予感さえ漂い始めた前半終了間際、品川錨のタックルに中国選手が転んだ。故意ではないもののオーバーリアクションすぎやしないかと思う転び方だったが、主審は日本の5番にファウルの判定を下す。直接フリーキックのピンチである。

「全員戻れ! ナナ!」

 左右のゴールポストを移動しながら向かって右側に壁を作り、自分は左につま先立ちする山路。フリーキックの壁になる男子選手は両手で股間を隠すが、女子選手は片手で胸をかばう。

 シュートは壁の右から二番目、品川翼の頭上を抜けてきた。日本の7番も恐れずにジャンプしたのだが悲しいほど高さが足りてない。

 サイドステップで壁の背後を移動し、ゴール右上へ落ちてきたボールに対して山路が飛びつく。伸ばしたキーパーグローブの先をかすめ、ゴールの角に当たった。こぼれ球を中国が拾い、シンプルに上げる。こういう場面でことごとくボールを拾えないのがこの試合の日本だった。

 落下地点に、品川桜がいた。立ち上がった山路が真っ先にすべきだったのは任せるか、それとも自分がいくのかを声にすることだった。

 しかし黙って飛び出してしまった。そして背後から赤い壁のユニフォームが忍び寄ってるのに気づかなかった日本の3番がフリーでのヘディングを許してしまう。自分が飛び出した後の無人のゴールにふわりとしたボールが落ちるのを見送るしかない。

 チームに合流して間もないがゆえのコミュニケーション不足が起こした致命的なミス、山路が地面を叩いて悔やんだ。

 録画放送なのでハーフタイムなしでいきなり後半が始まる。追う展開の日本はストライカーの鬼頭を入れてきた。

 ところが開始早々、大ピンチを迎える。中国に突破を許したその鬼頭が赤いユニフォームのすそを思わず引いてしまったのはペナルティエリア手前だったが、主審が指差したのペナルティスポットだった。ボールはすでにペナルティエリアの中にあったから、という判断らしい。イエローカードである。

 倒された中国選手がボールを運ぶ際、山路は身を屈めてゴールの中にいた。ボールをセットして青を上げると、ゴールラインの上で両手を高く広げていた。大きな体を、さらに大きく見せるために。

 山路が動くのが一瞬早かった。それを見切ったペナルティキックが真ん中へまっすぐ飛ぶ。だが残っていた右足一本でけりあげた。無害な曲線がそのまま倒れたキーパーの懐へ。押しこみにくるキッカーから取り上げるようにボールをつかむと高く上げた。赤いユニフォームの勢いは止まらず、胸にスパイクの形がくっきりとつくほど強い蹴りが入った。息ができず、両足をばたばたとさせる山路。

 後半、中国は好守を連発した日本のキーパーを潰しにきているようだった。主審の笛がさほど厳しくないのは前半で明らかだったので、ハイクロスに飛びついた体に容赦なくひざを入れてくる。だが大抵は捕球した山路の長い脚によって蹴り飛ばされたり、ボールもろともパンチングされてノックアウトする運命にあった。

もちろん山路も無傷ではない。先ほどの顔面にブロックで血がにじむ口の端のを親指で何度も拭った。

 どちらのペースとも呼べなかった後半23分だった。

 中盤での競り合いは何でもないようなものに見えた。しかし主審は旗を挙げた主審に確認してまたもイエローカードを胸から探り出すと競り合った鬼頭の頭上にかざした。二枚目であるから、当然次はレッドカードが出される。

 すぐさまリプレイが流される。前方のボールに対して追う両チームの選手。先に倒れた中国選手が鬼頭の足をひっかける。倒された鬼頭は蹴り返した。これを報復行為と見なされた。

納得いかない、と書かれた顔に罵声や、弁当の空き箱や、食いかけの鶏の骨などが浴びせられ、ようやく自分が何をしてしまったか悟る鬼頭。ベンチから真っ先に飛び出し、抱擁したのは彼女を育てた菅原だった。

「どうして退場してはいけないか、わかるよね」

 改源の問いに黙ってうなずく真夏。スクリーンの向こうでは、十人になってしまった日本がシュートの雨に打たれるがままだった。差す傘もなく。

 同時に二人の選手を交替させる日本。下げられたのはいずれも度重なるエアバトルで疲弊していたセンターバックの選手。

 テクニカルエリアに飛び出した菅原が指を三本突き出して何事か叫ぶと、右サイドに張っていた品川三姉妹がポジションを下げ、ペナルティスポットと左右のペナルティエリアの門に張った。

 中盤に三人ずつ二列に並んでパスコースを限定し、球際に強い三人のところで跳ね返す。本来リードした状況で相手の放りこみを回避するためのフォーメーションだったが、中国が数的優位を利用し、手数をかけずに試合を終わらせようとしたのでやむなくこの形を取った。

 均衡を保っていたゲームバランスは、たった一つの、得点とは何の関係もないプレーによってあっさりと崩れ去った。それが意図したものものかはともかく、その代償を負わされるのは残された者である。

 上背のない日本の3バックめがけて放りこまれるハイクロス。

 怪鳥音を発して飛び出す黄色のユニフォーム。キーバーグローブをはめた両手でつかむとすぐさま前線へ。交替したばかりの俊足の選手へ。しかしシュートまで持ちこめない。中国がまたもハイクロス。これもキャッチ、即キック。

 日本が背水の陣を敷いた。

 それは正気の沙汰ではなかった。

 普通負けているチームは前からボールを奪ってショートカウンターを狙う。そのほうが相手ゴールにも近いし、チャンスの数も増える。

 しかしこの時日本は十人だった。蒸し風呂のような暑さと湿気、そして連戦とアウェイの悪条件。ほとんどの選手の足はすでに止まってしまっていた。走り回ってはめるのは不可能だった。

 ならば一番確実に取れるのは一人だけ手が使え、運動量も少なく披露もしていないゴールキーパーのところだった。相手を引きつけてのロングカウンターなら消耗も少なくて済み、手元から落としたボールを蹴るパントキックのほうが地面のボールを蹴るよりより飛距離が出た。

 とはいえ、シュートやクロスに触れなければ全てが台無しになる。負ければ敗退が決まり、世界大会にも行けずチームは解散する。日本という国を選んだことも早計だったことになってしまう。

 それら全ての覚悟を引き受けた山路の目はそれまでとはまるで違っていた。錐のように尖り、それでいて波一つ立たぬほど静かだった。

「鍾馗様や」

 独り言が杏木の口をついて出る。子供が一人娘しかいない藤原家では端午の節句を祝うことはないが、とりやでは毎年五月人形を飾る。それが鍾馗で、この時期になると幼い日の杏木は店に寄りつきたがらなくなった。

 鍾馗は無病息災や学業成就の神様。中国の民間伝承から生まれ、日本では男の子の守り神としてこどもの日に祀る。大きく剥いた目に長いひげをたくわえ、右手に剣を構え左手で鬼をこらしめる恐ろしげな姿で描かれる。

 また京都では、屋根瓦の上に鍾馗の瓦人形を置く。よそさんが邪気を追い払う鬼瓦を置くなら、鬼より怖い鍾馗を置いて厄を祓うのがいかにも京都人らしい。

 決死の表情で立ちはだかる山路の姿は、杏木が今でもちょっとだけ苦手な鍾馗様のそれだった。

 ゴール前の鍾馗様は打たれ続けながら、じっと勝機を伺っていた。

 鬼頭の退場があったせいかアディショナルタイムは5分。それも3分を過ぎ、主審がこまめに腕時計を確認している。

 もう何本目か分からない中国のクロスが上がった。キープして時間を稼ぐのではなく、あくまでとどめを刺しにくる姿勢を崩さなかった。

 ボールを抱えて前進する山路。左足利きの山路がまっすぐ前へフィードしようとすればどうしても蹴り脚の側に蹴るしかない。だから両チームの選手は向かって左に移動する。

 山路は蹴るのではなく投げた。右へ。がら空きのサイドに走った品川桜が運ぶ。あわてて中国選手が寄せるが、外側から追い越す青い影に渡す。受けた錨がハーフウェイラインを越える。横一列に揃った中国の壁を通すスルーパス。センターサークルから飛び出したのは翼。ディフェンダーの裏を抜け、エリアを飛び出した中国キーパーのスライディングをかわすが、トラウザースのすねで足首を刈られた。だいぶ遅れて追いついた主審がイエローカードを出す。

 レッドだろ、という落雷のような声をマイクが拾った。そちらに向けられたカメラが、テクニカルエリアを飛び出し、ピッチの中に両足とも踏み入れていたアフロへアの背中をしっかりと写し出す。

 今度は逆方向に走った主審が、出ろ、とジェスチャーする。試合に出ていない選手やスタッフにカードは出せない。退場ではなく、退席処分としとベンチから追い出される。

 けっ、と言いたげな菅原の顔に、葛飾では爆笑が巻き起こった。

 ともかく、相手ゴール正面でフリーキックのチャンスを得た日本。フィールドプレーヤーが中国陣内に入った、とアナウンサー。画面の中で二十人の選手がひしめき合うさまはのっぴきならない状況を象徴していた。

 ボールの前に立つのは品川三姉妹。中国の壁は八枚。主審が腕時計を確認してから、ホイッスルを吹いた。

 一列に並ぶ三姉妹。まず走ったのは7番の翼。ボールをかかとで蹴って、壁の右を抜ける。次は5番の錨。ずらしたボールを足の裏で止め、壁の左を抜ける。最後に3番の桜がインサイドキック。赤い壁の右を転がったボールは翼の足へ。飛び出したキーパーの脇の下を転がすクロス。飛びこんだ錨の正面にポスト付近にいた中国選手が。その頭上を破ったシュートがクロスバーを叩き、ゴールの中に落ちてフィールドに戻される。

 主審がコーナー付近に立っていた副審を見やる。主審の手が笛を吹き、センターサークルを指せばゴールインだ。だが副審は手にした旗を振り、主審も笛を口にしない。ノーゴール。

 ボールの勢いが思いの外強く、大きくピッチ中央へと上がったボールを誰も追おうとしない。

 たった一人、センターサークルに残っていた日本のキーパーを除いて。

 トラップしている時間はなかった。中国ゴールから30メートル以上ある地点からダイレクトで蹴ったボールは天井ネットの上に落ちた。

 三度、無情の笛が響く。

 攻撃参加をしくじり、自分の守るゴールに賭け戻っていた山路寛子の足が止まり、その場にひざまずいた。


 ああ、というため息が葛飾クラブの一室を包んだ。だが予想できた結果でもあった。これは録画放送である。もし同点に追いついて延長戦に突入していたら尺が収まりきらない。

 ベスト8敗退でこのチームは解散する。だがこの日の選手たちが積んだ経験は決して無駄にはならなかった。

 七年後の快挙に、ここから六人もの選手たちが名を連ねるのである。

「よくやったじゃねえか、うちの娘たちはよ」

 佐藤が手を叩く。

「いいもん見せてもらいました」

 改源もうなずく。退場してしまった鬼頭も含め、全ての力を出しきった。

 その中でも山路の活躍は別格だった。怒濤のような攻めをぶったぎる姿はどこか崇高で、痛みに耐え笑顔を忘れず、観客の罵声を黙らせる不可思議さを持ち、何より最後までゴールを守りきる姿勢は揺るがなかった。

 読める空気を読まない勇気。

 敗れはしたが、今日のの山路寛子には神様がついていた。いや、彼女こそが守護神だった

 そんな彼女も、うずくまって起き上がらない。整列に向かうため、品川三姉妹に背中と両腕を担がれたまま泣きじゃくる姿は大きな赤子そのものだった。

 その背中に罵声を浴びせ、ファインセーブのたびにため息をつき、ゴールを奪った瞬間狂喜乱舞した中国の観衆が最後に惜しみない拍手を送った。

 帰ってきたら、あの泣き顔を思いきりいらってやろう。杏木が目をこすった。



(引用文献 ウラジミール・ナボコフ自伝「記憶よ、語れ」岩波書房刊)



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