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蹴鞠少女はひとりではない   作者: みつたけたつみ
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花菖蒲

「杏木よ、あづまでの暮らしはいかがなものでござりまするか」

 あづまとは源頼朝が鎌倉に幕府を開く以前の関東地方の呼び名である。この人物が本当に平安時代に生きたのであればこの言い方で正しいが、藤原杏木はこの男が太秦で働く大学生のアルバイトだという可能性をいまだに捨てきれてはいない。

 烏帽子に黒の水干、足にはアヒルのくちばしのように先の広がった鴨沓。なんで幽霊のくせに足があるのかと言えば、足のない幽霊を描き始めたのは江戸時代の画家だからである。

 この人物、名を藤原成通ふじわらのなりみち。中大兄皇子こと天智天皇とともに大化の改新を興した中臣鎌足の子孫として四代の帝に仕え、大納言の位にまで上り詰めた公卿である。

 風姿高貴にして容姿端麗、しかも多芸多彩。そう自分で言っていた。白塗りの顔に目鼻を描いているのでその下がどんななのか杏木も知らない。

 が、この人が後世に名を遺したのは政治家としてではなく趣味人としてである。雅楽、漢詩、和歌、馬術などあらゆる芸事に秀で、特に好んでいたのが蹴鞠であった。

 実体のないその足で、実に麗しい鞠を上げる。彼の蹴った鞠がよそに逸れたのを杏木は見たことがない。受けてみて分かるがその右足から放たれる鞠はくせがなく受け手、いや、受け足の意のままに操れる。蹴聖や鞠聖という二つ名は大げさではない。

「で、なにゆえ鞠を置いて行ったのでござりまするのか」

 歪めた口元には歯がないようにも見えるが、それはお歯黒のせいである。

 京都を出るときはやれあづまえびすが恐ろしいの、やれあづまやでは暮らせないのさんざん文句をつけておきながら、ちょっと珍しい話を杏木がすればこの調子でぐちぐちと続けるのだから始末に終えない。

杏木さま、なにゆえ一月も鞠を上げられませなんだか」

 と、緑の直垂の春揚花しゅんようか。成通からはオウと呼ばれる。後ろに逸らせた鞠を反転して上げる返足かえりあし、サッカーでいえばドリブルのターンの名人。その名を呼んで身を翻せば、相手が瞬きする間もなく置き去りにできる。

「鞠の道は焦らず、たゆまず、怠らずにござりまする」

 と、赤の直垂の夏安林げあんりん。アリと呼ばれる。強いボールを難なく受け、それを体全体に滑らせて足元に置く身傍鞠みにそうまり、トラップの名人。その名を呼んで身を浮かせば、どんな荒い鞠も意のままに操れる。

「それとも、鞠を蹴られぬ深き理由がございましたか」

 と、白の直垂の秋園しゅうおう。ヤカと呼ばれる。庭に落ちそうになった鞠に身を投げ出して拾う延足のびあし、スライディングの名人。その名を呼んで身を投げ出せば、一間先の鞠にも爪先が届く。

 顔は人間の子供、体は猩々のそれ。この三人は蹴鞠の精であるという。時に口やかましく、時に成通と杏木の仲立ちをする心優しき者共である。

「まあ、聞いたってや」

 杏木は後ろ足を止めない。後ろ足とはかかとのみで行うリフティングのことで、成通は熊野詣に際してこれを左右百回ずつ行ったという。

 その類いまれなる技を見せた肉体も八百年の昔に朽ち、鞠の精どもは元々この世の者ではない。

 端から見れば、少女が語りかけているのは、ただの鞠である。


 葛飾プリンセーザ13期生の生活が始まった。

 都内の私立校に通う楓瑞穂は朝の六時には白をベースにしたブレザー姿でJR松戸駅に自転車で向かう。それ以外は思い思いに朝食を食べると松戸市内の公立校に向かう。松田深雪には朝食を食べる習慣がなかったのだが、コンビニのサンドイッチでいいからと栄養士さんに言われてからそれを守るようにしている。

 瑞穂を除く四人の通う公立校は一学年12クラスのマンモス校で、全員が別のクラスに分けられた。特に荒れているわけではないが、セーラー服で登校すると学校指定のジャージに着替えなければならないのは気が滅入った。

 放課後は一度家に戻って八街駅へ。全員が葛飾クラブのチームカラーである江戸紫のジャージに着替えて北千住駅まで。そこからは徒歩。実家から片道一時間かけて通っている山路寛子はたいてい息を弾ませて千住スタジアムの脇にあるサブグラウンドにやって来るし、補講があると瑞穂は遅れてくるしかない。

 プリンセーザの練習は週四回、午後五時から七時。一見少ないようにも見えるが、シーズンが始まれば土日にはリーグ戦やトップチームであるハイーニャの運営ボランティアもすることになる。

 練習が終わると駅とは逆方向にあるクラブハウスへ。シャワーとカフェテリア形式の食事が与えられる。トップの選手や男子とも一緒なので、会話には事欠かない。

 帰宅する頃には九時を回る。ようやく自分の時間だが、宿題やら洗濯やらやらなければならないことは山のようにある。

 寝る時間はまちまちだが、気づいたら寝入っていることのほうが多い。

 このサッカー漬けの毎日は、彼女たちが引退するか移籍するまで続くことになる。

「で、稽古のほうはどのような?」

「どうもこうもない、あんなん陸上部や」

 先月まで小学生だった杏木たちはまず体作りから始められた。まず30分走を二回、合計一時間、川沿いの土手を走らされる。小学生では20分ハーフだった試合が中学生では30分になるのを逆算してそうなる。それが終わるとコーンやラダーを用いたダッシュやステップのメニュー。ボールに触れるのは最後の30分だけだった。

「鞠の巧拙は?」

「みなさんうまいでぇ」

 さすがは全国の足自慢が集まっただけのことはある。足元の技術に長けてるのは当たり前で、さらにスピードやパワーも兼ね備えている。上は高校生、体格も自分達に比べたらまるっきり大人だ。

 何よりサッカーに対してハングリーだ。これでいい、ということを知らない。練習が終わる頃には杏木たちがくたくたになっているのに、自主連をしたり、そのままハイーニャの練習に加わったりする者もいる。

「井の中の蛙大海を知らず、でござりまするな」

 ほほ、と扇子を口許に当てる成通。

「けどなぁ、先輩たち、ちっとも楽しそうに見えんねん」

 サッカーへの探求心は素直に尊敬できる。だがどの顔も固く奥歯を食い縛り、必死にサッカーにしがみついているようにしか杏木の目には映らない。

 そこまでしてプロになれるわけでもないサッカー選手になる意味ってあるのだろうか。

「またアフロがやかましいねん」

「あの手入れを怠った松の木のような頭のおなごでござりまするな」

 二月のセレクションに鞠を持って行ったので、成通の頭にはあの日千スタにいた全員の顔が入っている。

「すぐ怒鳴るし、キレるし、おっかないねん」

 ちょっとでもミスしようものならすぐ雷が落ちる。京都にあんな物言いをする指導者はいなかった。杏木より上手に蹴れる指導者などいなかったし、あまり厳しく言えば子供が辞めてしまう。子供はそういう弱腰を、大人よりも容易く見破る。

 葛飾プリンセーザ監督、菅原真澄は違う。少しでも走るべきところを走らなければ稲妻を落とした。

「そのような喧しき者の声など、聞き流せばよろしい」

「監督やもん、仕方ないやん」

「かんとくとはなんでおじゃりまするか?」

 蹴鞠に監督はいない。鞠の下で人はみな平等であるという考え方だ。

「そのような者におもねることはござりまするまいて」

「そんなんしたら試合に出られへん」

「二の座、三の座に出たらよろしい」

「二試合目も三試合目も出られへんねん」

 もっとも今の杏木はそれ以前の問題なのだが。

「あとな、監督って呼べんねん。テクニコって呼ばんと怒る」

「いずこの言葉にござりまするか」

「ポルトガル語、南蛮や」

 一語一義、という言葉がある。これはスポーツ用語である。

 サッカーのように世界中で行われてるスポーツの場合、一つの物事に様々な呼び名がある。そもそもサッカーという言葉が母国イギリスでは通じない。これはアメリカで生まれたスラングであり、イギリスでは単にフットボールと呼ぶ。ドイツではフスバル、中国では足球ズージョウ

 一語一義とはこれらを統一して混乱を避けるという考え方のことである。葛飾クラブは在日ブラジル人が作ったクラブなので、それは当然ポルトガル語である。

 そしてカテゴリを問わず、システムも4-4-2と決まっている。選手を縛るなと三流ライターがペンの暴力を振るいそうだが持ち場を放棄すれば守りが破綻する。

 一番後ろにはゴレイロ、ゴールキーパー。そのすぐ前にザゲイロが二人。その左右にラテラウが一人ずつ。この四人が最終ラインを作る、いわゆる4バックだ。

 中盤にはボランチとメイヤーが二人ずつ。日本でもなじみあるボランチ二人が真ん中に構え、その前でメイヤーが創造性を発揮する。

 前線にはアタカンチがツートップを組む。どちらもがストライカーで、アラ(ウイング)は置かないのが葛飾クラブ流。

 杏木はボランチである。このポジションに守りの選手という意味合いは薄く、ピッチの中心でゲームをコントロールする舵取りの役割を求められる。もっと前がええと杏木は反発したが却下された。プリンセーザに来る選手は全員がエースで10番をつけていた女子ばかりなのだから。

 また背番号はレギュラーからポジションごとにつけるものも決められている。ブラジルではボランチは5か8。杏木がもらったユニフォームには35とあった。第三チームのボランチ、という意味だ。中一から高三生まで所属するプリンセーザでは大きな番号からスタートし、自分の力で一桁をつかみ取るのだ。

「近習の方々はいかがでござりまするか。ほら、あの小さき方など」

 春揚花が訪ねる。禿たちの目にはやよいたちが杏木の家来に見えるらしい。

「やよいはホームシックになっとった」

 杏木とともに関西から上京した桜井やよいは、物心つく前から所属していた大阪の児童劇団から東京のタレント事務所に移籍した。プリンセーザがオフの月曜日に都内にあいさつに行き、けったいな色のTシャツ姿で帰ってきた。

 なんやそれ、阪急電車か。杏木のツッコミを聞いたやよいの目にぶわっと涙が湧いた。

「一日中、ずっとスルーされたんやて」

 京阪神を走る私鉄、阪急電鉄の全ての車両は阪急マルーンと呼ばれる独特の色合いををしている。マルーンとはマロン、栗色のことだが阪急電車のそれは光沢のある小豆色で、でろでろに流れるチョコレートフォンデュのような色味である。

 ウケ狙いで着ていったシャツに誰一人ツッコんでくれなかった。丸一日スベり続けたようなもので、関西人にはかなりきつい。

 そんなやよいのポジションはメイアー。ドリブルやパスで前線にボールを運び、また自らも前線に飛び出してシュートを放つ花形だ。背番号は37。

 そのやよいだが、体格で勝る先輩たちに当たり負けすること数知れず。最近はわざとこけてファウルをもらうくせがつき始めている。子役だけあって、間抜けな男なら笛を吹きそうになるが、女である菅原にそれは通じない。

「背の高き方は」

 秋園が訪ねる。

「あいかわらず、うちを蛸丸って呼びよる。好かんタコや」

「それは主が悪かろう」

 成通の言葉にぐうの音も出ない杏木。

 楓瑞穂。耳慣れない苗字であるが代々医者の家系であり、甲斐武田氏より賜ったものだという。薄明に青く光る瞳と金色に透ける髪は、日露戦争に軍医として従軍した曾祖父と結婚したロシア人の曾祖母からの遺伝だとか。

「あいつウザいし、キショいねん」

 小学生の頃から週一回葛飾クラブのセミナリオに通い、女子として初めてキャプテンをつとめたエリート。その気負いもあるのかとにかく場を仕切りたがる。練習では一歩でも立ち位置がずれると監督のように怒鳴り散らす。家に帰っても靴を揃えろだのちゃんと蛇口は閉めろだの、うっとうしいことこの上ない。

 ポジションはザゲイロ、守りの中心である。背番号が33なのは生え抜きと言えど例外ではない。貴重なレフティ(左利き)であり、170センチの長身であり、他のポジションもこなせるが、ザゲイロ一本にこだわった。

「きしょい、とは」

「骨の写真見てニタニタしとるんや」

「骨とな。しゃれこうべでござりまするか」

「頭がい骨やのうて、膝とか肘とか。関節フェチやねん」

 夜中に目が覚めてトイレなどに行くと電気のついた部屋が一つだけある。こんな夜更けまで勉強かと何の気なしに覗いてみれば、レントゲン写真ばかりが貼られた本を眺めるゆるみきった顔があった。骨であれば人間でなくてもよいらしく、羽根やしっぽの生えたものまで本棚狭しと並べられていた。

「ドトールになるんやと。コーヒー屋ちゃうで」

 ポルトガル語で医者、それもスポーツ外科医になるのが瑞穂の夢である。

「尼僧はいかがでござりまする」

 成通が言ってるのはもちろん超がつくベリーショートヘア、松田深雪のこと。

「豆腐を手づかみで食べはってた」

 共同の冷蔵庫から出した豆腐をパックから取り出すと皿にも盛らずにそのまま口に運んでいるのを見てしまったのだ。おおよそ杏木の常識にはないことだった。

「栄養士が大豆タンパク質摂れって、言うて今度は納豆を混ぜずに食べんねん」

 とにかく腹がふくれればいい、というその行動原理は和菓子屋の一人娘には度しがたい。瑞穂の細かさとは正反対の雑さ、いい加減さ。そんな人間につとまるポジションは一つしかない。アタカンチ、ストライカーだ。背番号は41。一の位が1なのはゴレイロ、ゴールキーパーの番号だが今年のプリンセーザはゴレイロが三人なのでたまたま空いていた。

「右でも左でも枠に飛ばすねん、宮本武蔵や」

「誰でござりまするか」

「ほら、あの二刀流の」

 宮本武蔵は江戸時代の人、その六百年前に亡くなった成通が知っているはずがない。杏木は日本史が苦手である。

 深雪がどちら足利きなのか、杏木はいまだにわからない。あえて言えばキーパーの手を弾くような強烈なシュートは右、コースを突いた繊細なシュートは左、というくらいだ。さすがは二次セレクションを待たずに合格しただけのことはある。

 人間としても実につきあいにくい。まずしゃべらない。何か話しかけようとすると薄い眉の下の三白眼でにらみつける。単にコミュニケーションを取るのが苦手なのではなく、コミュニケーションを取ること自体を拒絶しているとしか思えないオーラを全身から醸し出しているのだ。

「何を考えてるのがわからへん」

「あるいは、何も考えてないのかもしれませぬな」

 成通があごをなでながら続ける。

「何を考えてるか読まれるようでは、取れないところに鞠は出せますまい」

 納得できるような、できないような。

「では、面立ちの黒き」

「そいつや!」

 夏安林の質問をぶったぎる杏木の細い目が血走っていた。

「そいつ、えらいことやらかしよってん」

「そこから話しませい」

 成通がほくそ笑んだ。

「脱走してん」


 幸運だったのは、その日、クラブハウスの水道管が破裂してしまったことだ。

 練習が終わってシャワーも浴びられなければ食事も出ない。仕方なく杏木たち四人は松戸の家に帰り、真夏を誘って食事をしようということになった。

 その日真夏は体調が悪いと言って学校も練習も休んでいたのだ。

 家の鍵が開いていた。あわてて中に入る。真夏の部屋のドアが半開きになっており、中はもぬけの殻だった。練習に向かう前にはまだ靴があったのをやよいが覚えていた。

 当然、探そうという流れになる。が、それを止めた者がいる。松田深雪だ。

「逃げたいやつは逃げればいい」

 その目は見開かれ、焦点が定まっていない。

「まだ逃げたと決まったわけやないやん」

 やよいが口をはさむがさらに続ける。

「その方がライバルが減るだろ。おれらはお友達になるために東京に来たわけじゃない」

「へえ、あんた。練習が辛い言うて逃げるような子をライバル思てんねや」

 嫌味なら京都人の右に出る者はいない。ササラモサラにしてやる、と飛びかかろうとした深雪を体で止めた者がある。瑞穂だ。

「話し合いや殺し合いは後にしな。事件に巻き込まれた可能性だってあるんだから」

 すとん、という音とともに尻餅をつく杏木。腰を抜かしたのだ。ハッタリが鞠を蹴ってるような京都人は、ステゴロに極端に弱い。

「でもマナの実家新潟やろ。新潟新幹線って始発駅どこや。東京? 上野?」

 とっぷりと日の暮れた窓の外を見るしかできないやよいの口元に指を当て、携帯電話を取り出す瑞穂。小声で何かを話しながら他の三人に出発を目で促す。

 JR松戸駅に徒歩で向かう道すがら流れた着メロはポルノグラフィティの「サウダージ」。はい、と何度も言いながらうなずく横顔から安堵の笑みがこぼれた。

「ありがとうございます。場所は、はい。新宿2の8の10。キューシューダンジですね。すぐ行きます」

 その界隈に立ち入った瞬間、かつてないくらいの殺気を感じた。それは気のせいではなく全員が思っていた。

 右を見れば頭に巨大なカリフラワーを乗せ、犬が苦手なオバケの唇のような紅を引き、ばかでかいサイズのピンヒールを履いたドラァグクイーン。左を見れば角刈りアゴヒゲ、筋肉の上にほんのり脂肪を乗せた似た者同士で恋人つなぎする野郎たち。

 道に立つ全員が杏木たちに汚物を見るような視線を投げかけているのだから居づらさを感じないわけがない。

 杏木たち以外の全てが大人の男であり、しかも、ある共通項を持っている。

 新宿通りから靖国通りへ抜ける、わずか200メートルちょっとのごみごみとした路地を中心に、四百軒を越えるゲイバーがあると言われている。

 かつてないほど身を寄せる四人。他人の家に土足で上がりこむような居心地の悪さを圧し殺しながら、前進あるのみ。

「間違いないんか?」

「くどい」

「ガセだったらそのメガネかち割るぞ」

 深雪の悪態も、場の空気に気圧されて上ずるばかり。

「信頼できる人だよ。カメラ屋の前でうろうろしてるのを確保したって」

「でもだからって、なんで待ち合わせがここなん?」

 ここは新宿二丁目。日本が世界に誇る一大ゲイタウン。女子中学生にとってこれほどのアウェイはない。

「新宿って、まあ、ええ読みやったな」

 京都人が何かを誉めたときには必ず裏に毒がある。ようピアノ練習してはりますなぁ、ならへったくそなピアノがやかましいんじゃが本音。

 ゆえに京都人は日本一褒め言葉が苦手な人種である。東京だ上野だととんちんかんな推理を一蹴して行き先を言い当てた瑞穂を、杏木なりに褒めたつもりだった。

「理由は三つ。一つ目、葛飾から比較的近い東京や上野で待ち続けるより中央線に乗って西東京に抜けるほうが楽だとあの子なら考える。二つ目、追われる身には駅に止まるごと肝の冷える新幹線はきつい。三つ目、新幹線に乗れるだけの金を持ってない可能性がある。高速バスなら新宿だ」

 ほう、と感心する三人。

「あたしも、そうだったから」

 週一回、三年間。山梨県甲府市にある実家から葛飾クラブのセミナリオに皆勤した瑞穂だからこそ居場所がつかめたのだ。

「あ、あれや」

 やよいが雑居ビルの看板を指差す。ピンクの六芒星が描かれたネオンに勘亭流の書体で書かれている。九州男児、と。

「行くよ」

 眼鏡をずり上げる瑞穂。彼女にとってもここから先は未踏の地だ。

 深雪をしんがりに、カンカンと音を立てながら階段を上る足音四つ。

 カウベルの音とともにドアが内側に開いた。

 オレンジ色の壁、マホガニー製のカウンター、ところ狭しと並べられた観葉植物。

 そして至るところに男、男、そして男。

「ヤナギ!」

「・・・あんこちゃん」

 うつむく真夏がそこにいた。大荷物に隠れるようにしてさらに身をかがめ、固く組んだ指の上に杏木の手がふわりと重なる。

「言わんでええ」

 無事であった、それだけで。

「早かったねえ、瑞穂」

 カウンターに向かって斜め45度におじぎする先にオールバックに立派な口ひげをたくわえた男がいる。とてもガタイが良くTシャツの上からでもわかる分厚い胸板にサスペンダーが食いこみ、やはりぶっとい腕にはおびただしい量の剛毛が渦巻いている。男と言うよりオスと呼びたくなるたたずまいだ。

 やよいが空を飛んだ。丸椅子を踏み台にカウンターを越え、男にしがみつくまでわずか一秒。

「フレディー!」

「何よ、知らないわよあんた」

「・・・クロ高」

 一番最後に店内に入った深雪がぼそりとつぶやく。なるほど、当時週刊少年マガジンに連載されていた漫画「魁!!クロマティ高校」の登場人物にそっくりである。

 しかしやよいが間違えたのは漫画のキャラクターではなくイギリスのロックバンド・クイーンの伝説的リードシンガー、フレディ・マーキュリーのほうだ。有色人種、出っ歯、そして両性愛者のコンプレックスを乗り越えてスターとなったゲイのイコンである。

「新宿駅で迷子探せって、宝くじで一等当てろって言ってるようなもんよ」

 そう言ってマルボロに火を灯すヒゲの男。瑞穂の無茶ぶりで中断していた仕込みをようやく終えて一息ついたところだ。

「ま、一等のくじに目印でもついてたら話は別だけどもね」

 黒い肌、縮れた髪、針金のように細い体躯。それらの特徴を伝えられてなかったら店すら出る気になれなかったろう。

「誰もあたしにパスをくれない」

 アイリッシュコーヒーのアイリッシュウイスキー抜きを飲んだ真夏がぽつりとつぶやく。いつもの100ワット電球のような明るさはどこにもない。彼女をはさむようにして右に杏木とやよい、左に瑞穂と深雪がカウンターに並んで座った。

 真夏のポジションはラテラウ。右サイドが主戦場で背番号は32。相手のサイドプレーヤーを潰すのが第一の仕事、その上で攻撃参加も求められる。

 真夏の長所はそのスピードだ。短距離走で全国大会に出場した経験もある。

 だからチャンスと見ればタッチライン際を上がっていく。何度も、何度も。が、そこにボールが出ない。いわゆるムダ走りで終わってしまう。

「なんで? こんな見た目だから?」

 サイドを借り上げ、トップをていねいに編みこんだ髪をかき上げる。

「確かに肌は黒いさ、ハーフだもん。でも父親は日本人だし生まれも育ちも日本だよ」

 カウンターに突っ伏す真夏。恐らく、彼女の中でピッチの中と外の問題とが整理できていない。見かねた杏木が口をはさみかけるのをやよいが止める。

「水もまずいし米もまずい。新潟に帰りたい」

 しまいには長い指で顔を隠した。

「ヘッタクソ、だからじゃない?」

 あまりにも簡潔に本質を言い当てたので天使が通ったように静まり返る。

「前線にフリーでいたらとりあえずそこにパス出すだろ? それでも無視されるってのは出してもチャンスにならないって認識されてるから。本人がそう思いこんでるだけで実際はフリーになってないかオフサイドポジションにいるか、あるいはすぐ取られるのが想像つくくらいボールコントロールがなってないかのどれかだってことだ」

 凍りつく真夏。

「図星みたいだな。ディフェンダーが上がれば攻めに厚みは出るけど守りは薄くなるよ。自慢の足でボールより先に戻る気? 大方、つるべの動きもできてないだろ?」

つるべ、と呼ばれて真っ先に丸い眼鏡をかけたあの人を思い浮かべる杏木とやよい。

「落語家の話じゃない。つるべってのは井戸水を汲み上げる桶。あれって二つの桶が滑車の紐で結わえられてて、一つが上がれば一つが落ちるだろ。つるべの動きと片方のサイドが攻め上がったら、逆サイドは引いて守りを固めるラテラウの約束事だ。それすらできてないやつに恐ろしくてパスなんか出せるか」

 カウベルがさっきより大きく鳴らされる。

「修羅さん」

背中に虎の刺繍がされた緑色のスカジャンを羽織った黒川修羅が無言のまま入ってくると店の空気が一変した。それまで仲良く呑んでいた男たちが口々に叫ぶのだ。

「マカロンちゃんにギネス、ワンパイント!」

「修羅ちゃん、ワンパイント!」

 声のするごとに殺気だった視線がそちらに注がれ、瞬く間に店内の男どもが互いにガンを飛ばしあう。注文の声をカウンターで指折り数えていたヒゲの男が胸いっぱいに息を吸いこんだ。

「エーオ!」

「エーオ!!!!」

「エェーオ!」

「エェーオ!!!!」

 突如ミュージカルかインド映画のような空間に放りこまれ、完全に置いていかれる杏木たちの中でやよい一人がコールアンドレスポンスについていく。

「リーロリロリロリロレーロ!」

「リーロリロリロリロレーロ!!!!」

 オーライ、と締めると店内がまた元通りの和気あいあいとした雰囲気に戻った。暴動寸前だったところをうやむやにしてのけたこの男、何者なのか。

「ごぶさたしてます、石さん」

「フレディってお呼び。気にいっちゃったから」

「誰なんこの人」

大石尚幸たかゆき、石の壁って言われた葛飾クラブ伝説の守護神。去年までプリンセーザの監督だった人だよ。アルコイリスもこの人が考えたんだ」

 プリンセーザのセレクションでも採用された、多色のビブスを用いた練習はいまだに杏木たちの頭を悩ませている。

「あと元日本代表。ワールドカップにも行ってる」

 修羅の説明に瑞穂がつけ足す。

「第三キーパー兼キーパーコーチだけどねー」

 ジタンを灰皿の上でもみ消しながらおどけた。


「柳沢」

 人参のような色味の髪をツンツンに立たせた頭が、真夏の顔に高さを合わせる。

「まず相談してくれ。一方的に関係を破棄されたらこっちだってたまったもんじゃない」

「相談できるんならこんなんなんないわよね?」

 大石改めフレディが新しいジタンに火を灯したライターをぱちんと閉じる。

「たまったもんじゃないのはあんたらの都合。言えない雰囲気を作ってるのもね」

 図星を突かれ、修羅が押し黙る。

「監督とコーチ一年目、どうせてんてこ舞いしてんだろうけどさ、入団したての選手に脱走させてんのがあんたらの手腕よ」

 くわえタバコのままフレディが金色の竪琴が描かれたチューリップ型のグラスに泥水のような液体を注ぐ。半分まで注いだところで一度グラスを置いた。

「そんなとこに突っ立ってたら邪魔よ、お座り」

 飼い犬のようにおとなしくなった修羅に席を空けるため一つずつずれてカウンター席を空ける。

「コーチの仕事は選手を縛ることじゃない、選手と監督との間に立ってその仲を取り持つことよ。理不尽なことを監督が言ってたらやりあいなさい」

「アフロさんが悪いってんですか?」

「そんなのあたいの知ーらない」

 フレディが立てたグラスに残りを注ぐ。水たまりのようだった液体が次第に摺墨を流したような黒ときめ細やかな泡の白とに分かれてゆく。その境界線がくっきりした時が呑み頃だ。

「ギネス、1ガロンいただきました」

 1ガロンは8パイント。「九州男児」はアイリッシュパブなので1パイントは568ミリリットル。修羅は4・5リットルの黒ビールを呑まされる計算になる。

「修羅さん、アフロさんには」

「言えるわけねえべ」

 一気に飲み干した。泡までのどに流しこむ。

「少しは味わえ」

 そう言って二杯目を用意するフレディ。修羅の席はカウンターの中央、店中の男たちの視線がその一挙手一投足に集中する。ショーウィンドーの向こうのトランペットをじっと見つめる黒人少年のように。

「服のダサいイケメンに転ばないホモはいないわよね」

 イケメンはゲイ用語である。イケるメンズ、男の目から見て魅力ある男を現す隠語であった。それがイケてる顔面という意味で一般的に使われ出した頃であった。

「あの、修羅さんも、その」

「俺が男が好きだったら、態度を変えるのか?」

 いえ、そう言うわけではと口ごもる瑞穂。男の巣窟に先陣切って飛びこんでいった勇ましさのかけらもない。

「ここが一番、ギネスが安く呑める。それだけだ」

「危ない橋を渡ってませんか?」

「うちの客にそんな無作法なのはいないわよ」

 ゲイにとってノンケ、異性愛者の男は高嶺の花。自分のものにならないのは分かってるから、ビールの一杯もおごって少しでもその場にとどめようとしてくるのだ。

「あいよ」

 滝のような色味が黒と白に分かれきるのを待たずにのどを鳴らした。

「ああ、あちぃ」

 スカジャンを脱ぎ、タンクトップ一枚の姿になった修羅の姿に野太い悲鳴が上がった。

 杏木たちの位置から見えたのは、二の腕に描かれた十字架。シンプルなクロスの交差する部分を円で囲んだデザインはケルト十字と呼ばれる図柄である。

「・・・すげえ」

 深雪がその紋様に見いってしまう。

「やめな、親からもらった体にちんけな落書きなんて」

 どうも本物らしい。

「どうせきれいな体じゃねえし」

 吐き捨てる修羅の顔には無数の傷が刻まれている。こめかみに眉の下、すっと伸びた鼻梁も左に曲がってるし、左の前歯も一枚だけ真っ白で差し歯だと分かるし、右の頬骨もいびつだ。彼がボールに対して命を削ってきた証である。

「恐くないん?」

「恐いってなんだ?」

 早くも三杯目をあおると、ふーっと猫のように息を吐く修羅。

「本当にすごいのは、感じた恐怖に勝てる勇気だよ」

 かぶりを振り、空のグラスをコースターの上から下ろす。

「恐怖を感じない俺に勇気は無縁だ。ぶつけた体の痛みでしかてめえの形がわかんねえんだよ」

「何にしても、逃げたら負け」

 フレディがモスコミュールのウォッカ抜きを真夏に差し出す。

「プリンセーザってとこは全国から天才少女が集まるチームですから、地元で一番だった子が井の中のかわずだった、ってのはよくあること」

「でも、ボールをもらえないんじゃ何もできなません」

 そりゃそうよね、と四杯目のギネスの泡にシャムロック、三つ葉のクローバーを描くフレディ。

「たとえば、前線に出るときサイドじゃなくてゴール前に走ったらどう? ミスキックしたボールがゴールに入ればしめたもんだし、ボールが出る確率も上がる」

 ふんふん、と真夏が相づちを打った。他の者はカシスオレンジのクレームドカシス抜きやレッドアイのビール抜きなどを片手に一緒に話を聞いたり、ぼんやりと店内を見回している。見た目は至ってシンプルなアイリッシュパブのそれだ。ジャガイモ飢饉のため祖国を追われたアイルランド人が故郷を懐かしんで集う酒場は世界中にある。

 違うのは、全ての席に小さなパッケージに包まれたゴム風船がさりげなく置かれていることくらいだ。45才の若さでエイズで死んだフレディ・マーキュリーの遺した教訓が活かされている。

「ドアに筆文字でハッテン禁止って書いとった」

 トイレから戻ったやよいがげんなりといった表情で座る。

「うちはノンケも女もバッチこーい! なお店だからねぇ」

「おまえ、なんでサッカーなんてやろうと思ったんだよ」

ジントニックのジン抜きのグラスを傾けた深雪がボソッとつぶやいた。

「あれだけ速ければ、他のスポーツからだって引く手あまただったろうに」

真夏のぎょろっとした目が、しばし、小粋な装飾のされた壁面をさ迷う。

「誰かのために走るのが楽しいから、かな」

 舌打ちする深雪。

「自分一人のためになんか走れないよ」

「人のことも考えずにトンズラしようとしたやつが何言ってやがる」

 まあまあ、とフレディが二人を分ける。

「本当は、イラストレーターになりたいんだ」

 思い詰めた声に、店中の視線が集まる。

「東京に出たらなんとかなるって思った。新潟じゃやってない映画がたくさんある。アニメだって何週間も遅れる。舞台だって、美術館だって東京ならすぐ行ける」

「またなんで絵描きに?」

「見た目が関係ない仕事だから」

 失笑が漏れた。

「だって、この顔じゃコンビニのレジにも立てない!」

「サッカーにも人種はねえぞ」

 五杯目を呑みきった修羅がグラスを叩きつける。白い肌が真っ赤である。

「ハーフがなんだ、この街にはあふれ返ってるじゃねえか」

「ニューハーフはハーフと違います」

「まぁね。けどあんたみたいなのが日の丸つけるようになったら、この国だってちったぁましになるはず。サッカーもイラストも、どっちも気張んなさい」

 フレディがうまくまとめた。

 六杯目のギネスが注がれるのをじっと待つ修羅。

「そう言えば、なんでマカロンって呼ばれてますのん?」

「俺の本名だよ、マックアーロン修羅。黒川は母親の名字だ」

「お菓子のマカロンとは関係ないんや」

「男と蒸発したおふくろに見つけてもらおうって日本名で選手登録してたとかバカよね」

 オリンピック日本代表がアテネ行きを決めたのは先月のこと、黒川修羅はその常連だった。去年まで。当時は髪も今のような赤毛ではなかった。

「スネークオブアイリッシュですよ、キレないほうがどうかしてる」

 なんのこっちゃ、と五人が首を傾げる。

「アイルランド島に蛇はいないのよ。こいつのミスで負けた試合でイギリス人の監督が吐き捨てたのよね、アイルランドの蛇って。聖書に出てくるアダムとイブをそそのかした蛇のことね。小粋なブリテンジョークを飛ばしたつもりなんだろうけど、イギリス人に島を追い出されたアイリッシュ系にとっては神経逆なでされたようなもんよ。止めながら、ちょっとだけチビっちゃったわ」

 かかかと笑い飛ばすフレディはさらに続ける。

「引退するって息巻いて、でもこんなろくでなしに行く場所なんてあるわけないじゃん。結局オヤジが仲立ちしてトップチームの通訳として再雇用、顔も見たくないイギリス人と四六時中顔を突き合わせるとか、どんだけ」

「そういうフレディは、なんでプリンセーザの監督やめたん?」

 何の気なしに尋ねるやよい。

「クビよクビ」

 あっけらかんとした答えが返ってきた。

「試合でミスった子にこのオカチメンコ! って言っちゃったのよね。それを見てた部外者がおたくの監督はパワハラしてるのかって抗議があって。でもオカチメンコはオカチメンコじゃない。世界で戦うなら、あらゆるストレスにさらされる。そういうことを教えることも大事なんだけど。セミナリオ創設メンバーとしては名残惜しかったけど、これも運命よね」

 そう言うと酒瓶がところ狭しと並べられたカウンターの隅に立てかけられた厚手の冊子を取り出す。

「石さん、ち、ちょっと、それは」

 空になった七杯目のパイントグラスが転がった。

「ご開帳ー!」

 フレディの人生は葛飾クラブの歴史そのもの。そのアルバムには、修羅の白い顔が真っ赤になるくらいの恥ずかしい写真がみっちりと敷き詰められている。

「どうせドラマの主題歌で昨日今日知った口でしょ」

「それでも好きやねん! フレディに会いたかったわ!」

「あんたにフレディの何がわかんのよ?」

 オカマと小娘が、十年以上前に亡くなった知り合いでもなんでもないイギリス人について不毛な言い争いを続けていると、ようやく八杯目のギネスがグラスから修羅の胃に消えた。

 フレディは飲食代の持ち合わせのない五人に、体で払ってもらうと冗談とも本気ともつかない口ぶりで伝え、ハンカチを振って見送った。ぐでんぐでんになった修羅を品川まで山手線で送る間、残った四人は松戸へ。

「なんもない」

 酒くさい常磐線の列車の中で、やよいが真夏に身を寄せる。

「今日のことは、うちたちしか知らん」

 うん、とうなずく真夏。よほど急いだのだろう、トランク一つでは収まらない荷物を無理矢理詰めこんでいたのは資源ゴミのポリ袋だった。

「おれは認めねえぞ」

 刺すような視線を、ぶらぶらと揺れるつり革に向ける深雪。

「食べるところも、寝床まであるんだ。そこから逃げる理由がどこにある」

 杏木は深雪をたしなめることも、真夏をフォローすることもしない。

 ただこの夜がずっと忘れられないような予感に身を委ねていた。

 まるでジェットコースターのようにあらぬ方向に何度も揺さぶられ、それでも全てが何も変わらずに収まってしまった。こんな手品のような夜は、この先そうそうお目にかかれないだろう。

 それはやはり、あのカレー屋でナンを焼いてそうなヒゲの男による部分が大きい。何もかもを手のひらで転がすかのようなやり手ぶりは、彼がつい先日までさぞ有能な指導者であったことを想像させるに充分であった。

「なんや、ご先祖はんに似てはるなぁ」

 独り言は警笛にかき消された。


 四人が松戸の我が家に着いたのは十時を回ってからだった。何の気なしに郵便受けをまさぐった杏木の手に手応えがあった。

「不在通知や」

 差出人はとりや、杏木の実家である。

「明日でええやん」

 そうはいかない。藤原賢太郎ではなくとりやで出した荷物ということは間違いなく和菓子、しかも生菓子である可能性が高い。京都から東京まで運ばれたということは少なくとも一日は経過している。明日配達されるのを待っていたら食べられたものではなくなる。

 何も言わず、郵便局まで共用の自転車を走らせた。何もかもが目まぐるしく過ぎた今日という日を締めくくるにふさわしい。練習と移動とで追いこまれた足がサドルの上できしんだ。

 案の定荷物は保冷パックに包まれた菓子箱だった。自転車のかごにそれをそっと入れるとしずしずと来た道を戻った。上生菓子は形が命である。潰れた上生菓子などただのあんこ玉である。

 家に戻ると瑞穂も帰宅していた。横須賀線に修羅をぶん投げて来たそうでしきりにちゃんと帰れたかを案じていたが、もはやどうでもよかった。

 テレビの前の机に菓子箱を置いた瞬間、杏木も精根尽き果てていた。開けてもええ? という問いにもただ生返事するのみであった。

 その一言が、耳に入るまでは。

「菖蒲だねぇ」

 あやめ、という言葉は、最初自分の聞き違いだとしか思えなかった。しかし箱の中に散りばめられた練りきりを見た瞬間、それが間違いではなかったのを悟る。

 紫色の練りきりに筋をつけ、それを重く濡れた花弁に見立てたさまは菖蒲以外の何物でもない。ぼた餅とおはぎの区別もつかないような他の少女たちにもはっきりそれと分かる造形になっているのは、杏木の父のいい仕事である。

 それ自体には何の問題もない。

 問題なのは、今日がまだ四月であるということだ。

「菖蒲は五月の花や」


「それは面妖な」

 自分も妖怪のような存在であるくせして、成通がいぶかしげにする。

「皐月の花を模した菓子を卯月に贈りたるなど、野暮の極み」

「母御前が送ったのでは?」

 夏安林が問う。確かに杏木の母なら、そんなんで喜ばはるんやなぁ、といけずをかますなど朝飯前だ。その血をしっかり受け継いだ杏木でもそう思う。

 だが、この菓子を作ったのは当然母ではない。愚直を擬人化したような父がそんなことをするだろうか。

「単に先取りなさっただけでは?」

 春揚花が問う。だが上生菓子は見た目が全てと言ってよい。わざわざ季節外れな菓子を作り、崩れないように箱に入れ、クール便で送る。あり得ない。

「花言葉などは?」

 秋園が問う。確かにそれも考えた。調べるとアヤメにはいくつも花言葉があったがどれもピンとこなかった。

「もう、こんなんするしかなかったわ」

 そう言うやいなや立ち上がったかと思えば両手を床につき、足を宙に投げ出した。

「これ、目上の者の前で逆立ちなど」

「ご先祖はんかて、偉い人の前でこうしながら椿餅食べはって、餅が下から上りまするぞって言いはったそうやん」

 わざとらしく扇子で顔をあおぐ成通。くすくすと笑う鞠の精たち。

「にしましても、おなごがそのようなことをいたしますと、いたづらにかいなが太うなりまするぞ」

 だが逆立ちをやめな杏木。フレディや修羅のぶっとい二の腕を見て確信したのだ。

「蹴鞠とはちごうてな、サッカーは腕でやるんや」


「いただきっ」

 風のごとき早業であった。

 わざわざティッシュに包んで一日持ち歩き、すでに表面が乾燥してしまった花菖蒲をひったくられ、杏木は返す言葉もなかった。

 葛飾クラブのジャージをまとった女性がころころと笑った。眉の上でぱっつんと揃えた黒髪をポニーテールに結わえた姿は来年三十路になるとは思えないほどあどけない。こういう突飛もない行動や常に微笑みを絶やさない少し離れたタレ目は少女がうっかり年を取るのを忘れてしまったのかのようで、化粧で取りつくろった若さとは対極にあるものだった。

 改源春風かいげん・はるか。もっともその名で呼ぶ者ははほとんどいない。

「カピはん、カピカピやん、それ」

「はらひはひれば、ほんなひだほ」

 口をモグモグさせながら言うものだから全く聞き取れない。

 葛飾クラブにはアミーゴという制度がある。意味そのものは仲間とか友達のことだが、入団した選手に教育係の先輩が一対一でつく。当然、プリンセーザ13期生にもそれぞれにアミーゴを割り当てられた。

 が、杏木だけがなかなか決まらなかった。

 原則としてアミーゴは同じポジション同士で組まれる。だが杏木のポジションであるボランチの選手がで空いている者がいなかったのである。

 そこで、目の前の彼女に白羽の矢が立った。

 まだプリンセーザが立ち上がる以前、大人に混じってハイーニャでプレーしたしていた生え抜き。2000年から四年間アメリカでプレーし、今年葛飾クラブに復帰した改源ははクラブとプロ契約を結ぶ唯一の女子選手。時間がある分下部組織であるプリンセーザの練習にも参加する彼女が杏木の面倒を見せることになったのだ。

 ぼくが今日からきみのアミーゴだ。そう言われてからまだ数日間なのに、数年来の友人のようであった。他人に対してなかなか心を開くことのない杏木が不思議と彼女にはざっくばらんに接することができた。

 鼓を打ったような甲高い音に、河川敷を犬を連れて散歩していた老人が足を止める。 

 杏木が出した浮き球のスルーパスを文字通り相手選手の間を通したボールがキーパーの前に落ち、逃げるようにして戻ってくる。反応したのは深雪、犬笛のごとに甲高い声を発しながら、猛然とボールに詰め寄る。

 通せんぼされた。相手を押しのければプッシングの反則だが、あらかじめ伸ばしておいた腕に相手がぶつかってくる分には正当とされる。深雪がいくら前に進もうとしてもそれを許さず、前に出たキーパーに捕球される。足を止めて天を仰ぐ深雪の横で、キーバーが下手投げしたボールを受ける改源。 

 その前にやよいが身を屈め、どちらに振られても対応できるように構える。改源が青いスパイクの上にボールを乗せ、チップキックを披露した。ただでさえ小柄なやよいは頭上を抜けるボールに棒立ちのまま。

 サイドから真夏の、刃のようなスライディングが。スパイクの先でボールを浮かせ、先ほどまで真夏がいたポジションに。そこに味方が受け、真夏が体勢を立て直す間にゴール前に走りこむ。真夏が立ち上がろうともしないほどの軽やかさで。

 ふわりとしたクロスの落下地点に瑞穂と改源が。身長そのものは瑞穂が10センチほど高い。しかし改源は瑞穂の左の肩に右の腕を乗せた。瑞穂は改源の体を乗せて跳び、額に薄く当てて逸らせるようなヘディングを許す。

「和菓子一個分は走ったかな」

 強い、巧い、速い、高い。

 揺れたナットには見向きもしない。中学生相手に格の違いを見せつけた改源春風は、日本女子代表チーム主将でもある。ニックネームのカピタンはキャプテンのポルトガル語読みだ。

 練習後、車座を作らせる改源。とはいえ堅苦しい様子はなく、杏木たちもストレッチしながら話を聞く。友達でも身内でもない人間を呼び捨てやあだ名で呼ぶのは失礼という理由で、年下には男女区別なくくんづけをするのが彼女のルールであった。

「松くん、殺気が強すぎる。ゴールを決めたい気持ちは誰だって同じけど、むき出しにしたらすぐ気取られちゃうよね。ペナはいかに執着を圧し殺せるか、その修行の場だ」

 お坊さんの話のようだ、と深雪は聞き入る。

「桜くん、守るときは半身、どちらかの足を前に出そう。それから背筋は伸ばして。ただでさえ小さい体がもっと小さく見えちゃう。きみのボール扱いは確かだけど、ボールが足元にない時間の方がはるかに長いからね」

 はっきりとした声で答えるやよい。

「柳くん、ぼくがタックルの直前にボールをずらしたの気づいた? あれで右足タックルを左に変えるしかなかったよね。左右の足でボールを蹴れるのと同じくらい、左右の足でタックルできるの大事よ。スラ(イディング)したら絶対にボールを取らなきゃ」

 全ては相手の手の中であったことに真夏がようやく気づいた。

「楓くん、悪いくせが治らないね。高く飛んでも、先に触られちゃ無意味だ。ザゲイロとしてやってくなら、あんな簡単に入らせないと。何がなんでも跳ね返すってオーラを出してこう」

 見知った顔である瑞穂への言葉は自然強くなる。

「藤くん」

 そらきた、と首をすくめる杏木。

「きみのパスは素晴らしいよ。メッセージが伝わってくるし、音だけできみの蹴ったボールわかる」

 足に魂をこめよ。杏木がその偉大なる祖先から口を酸っぱくして言われていることだ。ただ渡すのではなく、こう受けてこう出せと伝わるように。それができて初めて鞠に命が宿るのだと。音が違うというのは、杏木はほとんどももを振らずひざから下の動きだけでキックしているからだろう。距離は出ないが速度や軌跡、回転までも意のままに操れる。そのせいか普通であれば鈍器で殴ったような音を立てるボールから、楽器を鳴らしたような音色が響く。

「けど、それだけだ」

 ここからが本番である。改源が口からつばきを吐きまくる。

「走らない守らない、達者なのは口ばかり。まるで昔のぼくだ」

 ここまで言い切られたら、誰だっておもしろくないだろう。なのにその言葉に説得力にあふれ、かつ同じ目線で話すから、不思議と誰一人頭にこない。

 飄々としている、というのはこういう人のことなのだろう。風や雲に腹を立てても仕方がない。

 なおも熱弁をふるう改源に近づく人影がある。アフロヘアのそのシルエットはプリンセーザ監督、菅原真澄のものだ

「春風、取材だ」

「へーい」

 呼んだ菅原と呼ばれた改源。

 すれ違っても、視線を交わそうとはしなかった。


 サッカー日本代表チームのユニフォームは一貫して青と白である。

 なぜ日の丸にない青が採用されたのか明確な理由はわかっていない。

 だが元号が昭和から平成と変わった間の数年間だけ、それが赤だった時代がある。

 当時日本サッカーはワールドカップのアジア一次予選すら勝ち進めないようなどん底の時代にあり、なんとか風向きを変えようとしての苦肉の策だったがそんなことで勝てるようになるはずもなく、結局1992年に青に戻されている。

 しかし二丁目の発展バーでフレディがご開帳したアルバムには、そのわずかな間赤だった日本代表のユニフォームに袖を通した改源春風、そして菅原真澄の写真があった。

「1991年に中国でやった初めてのワールドカップの写真だ。一度引退してたあたいは葛飾クラブからサッカー協会に出向する形でついてった。男子が初めてワールドカップに出る七年前、すでに女子は世界の舞台に立ってたんだ。世間どころか当のサッカー協会にすら見向きもされず、選手もスタッフも自腹切って参加した。ただ高校生と大学生だったハルカとマスミの分だけは全員で折半したけどな」

「うちたちが産まれた年や」

 運命的な何かを感じた杏木の背筋に鳥肌が立った。

 そして、その写真に驚かされたことがある。

「アフロさんが、アフロじゃない」

 集合写真の中央、改源の左で腰を降ろした菅原の頭は少年のように短いが、それでもストレートなのははっきり見て取れた。

「二人ともギンギンのストライカーでね、風神雷神って呼ばれてたもんよ」

 どちらが風神でどちらが雷神なのかは聞くまでもないだろう。

「ハルカの一瞬の抜け出しとマスミの強引な突破、個性が見事に真逆だったから共存できたのよ」

「ピッチの外でも気持ち悪いくらい仲がよかったですよね。そういう関係なのかと思ってましたもん」

「少なくともマスミは違うわよぉ。あたいにコクったくらいだし」

 告白するまでゲイをゲイと気づかなかったような人物に選ばれた五人は、自分の才能が疑わしくなって一様に暗い顔になる。

「これよこれ」

 修羅の首に手をかけ、銀色のロザリオを引っ張り出すフレディ。

「ネックレスか何か?」

「勝守よぉ、帝釈天の」

 柴又帝釈天の名で親しまれる葛飾区題経寺のお守りのことである。インド密教の雷帝インドラが仏教に取り入れられた帝釈天は軍神として名高く、そのお守りは必勝祈願に用いられる。

「二人のコンビは国内では無敵だった。アジアでも通用した。けど」

 世界の壁は途方もなく高かった。初めてのワールドカップで日本女子代表チームは三試合無得点で予選リーグ敗退していた。

「帰国してからオヤジと膝突き合わせてさ。才能が現れるのを指くわえて見てたらいつまでもこのまんまだ、受け皿を作って育てなきゃって。それで立ち上げたのがプリンセーザ」

 今年葛飾クラブの門を叩いた杏木たちが13期生なのでその12年前、1992年にプリンセーザは産声を上げた計算になる。いかに彼らが女子の育成を火急と考えていたかがよくわかる。

「ちょうどフレディ・マーキューリーが亡くなって、クイーンの曲が流れまくってる頃だったわ。今でもボヘミアン・ラプソディを聴くとそのことを思い出すわね」

 そして今自分たちのいる場所は、あの二人の挫折がきっかけで生まれたのをその時初めて知らされたのだ。

 しかしこの話には不自然な点がある。

 修羅曰く、恋人のように仲のよかったという創世記の女子サッカー二枚看板、改源と菅原。

 だが、仕事以外で会話をしているのを誰もまだ見ていない。用がなければ距離を置いているのも見知っている。

 改源はアメリカでプレーして今年ハイーニャに復帰したばかりだし、菅原はとっくに引退して今年からプリンセーザの監督に。環境も変われば立場も変わった二人に接点がなくなったといえば一応説明はつく。

 しかし、おネエは基本おしゃべりである。

 二人に何があったのかを、聞かれてもいないのに教えてしまった。

 修羅はこの会話を何一つ覚えていなかったが、しらふだった五人は忘れられない。

 そもそも、アメリカでプレーしていた改源が帰国したのには理由があった。

 これがぼくが日の丸をつけて戦う最後になる、改源自身がそう公言してはばからない大会がもうすぐ開かれる。

 アテネオリンピックアジア予選。

 日本女子代表は、二大会ぶりのオリンピック出場を目指してこれに臨む。

 女子サッカーでオリンピックはワールドカップ以上にステータスの高い大会である。

 それまではオリンピックの前年に行われるワールドカップがオリンピックの予選も兼ねていたほどであったが、今回より独立した大会として行われるようになった。アジア枠は二つ、それを十一の国で争う。

 日本サッカー協会の力の入れようは半端ではなかった。抽選会ではドロワーを人気絶頂だったアイドルの松浦亜弥とモーニング娘。の辻希美が務めたことからもその本気ぶりが伺える。日本が振り分けられたグループCは他のグループより国が一か国少ない三か国、しかも全て東京開催で移動がない。ホームタウンデジション、地元有利を最大限に逝かした。

 三つのグループから各組の一位のチームと二位の中で最も成績のいいチームの四か国がトーナメントを戦い、準決勝に勝てばオリンピック出場にできる。そしてグループC一位の準決勝の相手はグループA一位のチームであり、順当であれば北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国と当たる算段だった。

 当時のアジア女子サッカーの勢力図を大まかに説明する。マチルダスの愛称で知られるオーストラリアがまだオセアニア枠であり、広大なアジア大陸の中で女子サッカーが行われているのは極東と東南アジアのみで、中東には女子のナショナルチームどころか女性がスタジアムでサッカー観戦するのさえ禁じられていた時代である。

 女子サッカーの黎明期、アジアの女王といえば中国だった。第一回のワールドカップを自国開催し、女子サッカーが初めて公式種目になったアトランタオリンピックでは銀メダル、アジアカップでは優勝八回と世界屈指の強豪国であった。

 そして21世紀に入って台頭したのが北朝鮮である。市や県のチームから有望な選手を選抜して強化する、日本でいうトレセン制度に相当する強化を国を挙げての強化が実り目下アジアカップを連覇中だった。

当時の日本は韓国と共に、この二か国から周回遅れの第二グループといった位置づけにあった。

この二強にあって日本にはないもの、それはスタイルである。

中国なら体格的な優位さを活かしてゴール前で発揮する高さと強さ。北朝鮮なら抜群の走力をベースにした執拗なまでのサイド攻撃。これらは世界でも武器になりえた。

この時の日本はまだそのような型を確立するには至ってなかった。相手の出方に合わせて必死に食らいついてはゆくが最後には瓦解する負けパターンがしみついてしまっており、これを克服するのは簡単ではなった。

FIFAランキングでも中国が5位で北朝鮮が7位、日本は14位。男子に比べて競技人口の著しく少ない女子サッカーにおいてこの開きはかなり大きい。

 そして日本は、北朝鮮に対してひどく相性が悪い。過去の対戦成績は日本の七連敗中。

 なおかつこの時期、両国は拉致被害者の帰国を巡って緊迫した情勢にあった。サッカーに政治を持ちこむのはタブーであるが、無関係とは言い切れない時期でもあった。

 それでも、日本はオリンピックに行かなければならない。

 改源が帰ってきたのもそのためだった。

 今は予選前のインターバルで、古巣である葛飾クラブで調整する改源はひっきりなしにある取材に応じていた。日本代表キャプテンとして。

 そんなあわただしさの中、それは起こってしまったのだった。


 山路からのロングキックが前線に。柄にもなく前線に飛び出したのは杏木、仲間の前でバッサリ言われたのが堪えていたのかもしれない。

 だが笛が鳴る。副審をつとめていた修羅の旗が上がっている。改源がアピールのために挙げていた右手を、得意気に握りしめた。

 改源ら日本代表選手が代表合宿に戻る前日、ハイーニャはプリンセーザとのテストマッチを行った。合宿前の最終調整になる練習で、この日も複数のカメラが取材に来ていた。

 ハイーニャでは杏木と同じボランチ一筋の改源だが、代表でのポジションは3バックの真ん中、特定のマークを持たず最終ラインのコントロールとカバーリングを担当するリベロだった。

 リベロ改源の十八番がこのオフサイドトラップ。前線にパスが出されると見るや号令とともにディフェンダー全員が押し上げ、相手フォワードをオフサイドポジションに追いやる。一糸乱れぬ動きが必要なのと、もし失敗した時のリスクは高いが、一度成功すれば相手の出足を鈍らせることができる。今も改源は杏木の飛び出しを読みきり、他のディフェンダーを声で操った。杏木がいた場所にボールを置くと短く出し、リターンをもらう。

 そこに杏木がつっかけた。改源はベテランらしく小娘の意地を軽くいなし、ボールを左にさばく。だが杏木の勢いは止まらない。

 鈍い音。折り重なるようにして倒れる二人。

 立ち上がろうとした杏木の尻に、焼けるような痛みが走った。

 何すんねんな、と払いのけようとした手が止まった。

 さっきまで涼しい顔で汗一つかいてなかった改源の顔に、霧吹きを用いたような玉の汗が。

「痛がって」

 そのただならぬ表情に、杏木は何かが起こってしまったのを悟った。

 とても、とても不吉な何かが。

 お邪魔しまんにゃわ、と一度立ち上がりかけた杏木が人工芝に足を高く上げて寝転がった。

「あ、あたたた、こらぁ、骨が折れたかもしれんわぁ。病院行かなあかんわ。慰謝料もらわんとかないまへんがな」

 わざとらしく痛がってファウルをもらいにいく男子とは違い、痛がるのは恥という風潮が女子サッカーにはある。だから杏木も痛がる演技などしたことがなく、休日の昼間に流されている吉本新喜劇とミナミの帝王をとっさに真似てみせた。

「しょうがない、ぼくが病院に連れていくよ」

 改源は杏木の左肩を担ぐと見せかけ、右足を浮かせていた。それがバレないよう、杏木はさらに騒ぐ。

「痛いやんけワレ、しばくどワレ、根性見せんかいワレ」

 ワレワレ騒ぎながら報道陣をかき分け、クラブハウスを横切るまでのなんと長かったこと。幸いすぐにタクシーがつかまり、後部座席に改源を投げこむと自分は助手席に座る。ワンメーターで行ける場所にある総合病院が、ギリギリ空いている時間帯だった。

「いてぇーっ!」

タクシーが走り出した瞬間、改源の口からしぶきがあふれた。

「これは骨だ。間違いない」

 改源の右足の甲が赤く膨れあがっている。少なくともただでは済まない事態に陥ってしまったのは確実だった。

「なんで、なんでこんな時に」

 そんな嘆きをたた受け止めるしかできない杏木。やがて嘆きは嗚咽を伴う呪詛となる。堪忍え、と杏木はその言葉から耳を塞ぐ。

「ずっとがんばってきたのに。誰も見送ってくれなかった成田で、今度泣くときは嬉し涙にするんだって。英語なんてわからないのにアメリカで、日本人だからって馬鹿にされてもずっと笑って。それもこれも全部このためだけだったのに。ちくしょう。くそっ」

 全ての結果には原因がある。仏教の開祖である釈尊の言葉ではある。

 全てをなげうち、単身海外で戦ってきた。そのがんばりが蓄積してこうなった。それはもう、悲喜劇と言うしかなかった。

「なんでって」

 自分にこの人の、風のように清らかな改源春風のサッカーへの思いに口をはさむ資格なんてこれっぽっちもない。杏木はそれをわかった上で、改源の首にかかった麻のひもを引く。

 古ぼけて、そこここ糸のほつれた青い守り袋に、白く浮かぶ「勝」の文字。

「このためちゃいますのん? 全部、そのためになげうってきたんちゃいますのん?」


 女子サッカーだって華やかな時代があったんだよ。

 男子に合わせてLリーグって名前がついた国内リーグに世界的な選手が何人も入ってきて。葛飾クラブもマスミとハルカを実質的なプロ選手として契約できた。代表チームもオリンピックに出て、勝てないまでも得点できるところまできた。

 けど、いい時代ってそう続くもんじゃない。

 90年代後半、あんたらがボールを蹴り始めた頃から日本経済が急速に落ちこんでね。Lリーグのほとんどが企業チームだから、経営が悪化すると真っ先に運動部がつぶされる。年末になるといくつもチームが消えていって、それが何年も同じように続いた。悪夢よ悪夢。

 その流れが決定的になったのが五年前。アメリカで行われた第三回ワールドカップで日本代表が惨敗した。この大会はシドニーオリンピックの予選も兼ねてたんだ。

 女子スポーツはオリンピックに出る出ないで天地の差なんだ。オリンピックに出られなくなったことでスポンサーが次々撤退したLリーグそのものが傾いちまって、代表クラスの選手でさえプレーするチームがなくなってった。

 純粋なクラブチームで景気に左右されないのが売りだった葛飾ハイーニャもそれとは無関係でられなくなった。

 オヤジがマスミとハルカを呼び出して、もうプロとして契約することはできないと告げた。働きながらハイーニャでプレーするか、退団か、引退か。

 マスミは葛飾クラブに残ることを選んだ。引退して、指導者としてね。

 ハルカは現役を続けることを望んだ。葛飾を離れてね。

 あの二人の溝はその時のもの。それまで同じほうを向いて二人三脚だったのが、決断を迫られてたもとを別った。マスミにしてみればハルカは葛飾を捨てた裏切り者だし、ハルカはハルカでこのリベンジをせずにスパイクを脱いだマスミのサッカーへの思いを疑いたくもなるって話。

 バカだよな。二人揃って、本当に救いようのないバカ。


 レントゲン検査の結果、右足第五中骨の疲労骨折と診断された。

 何度も体重をかけることで摩耗していった骨がその重みに耐えられなくなるもので、とりあえず杏木との接触が直接の原因ではないことがわかった。

 が、事実は何も変わらない。骨さえくっつけば完治するが、決戦はもう目と鼻の先に迫っていた。

 会計を待つ間、うなだれる改源に杏木はかけるべき言葉も見つからない。

「・・・りてきて」

 前半がうまく聞き取れなかった。

「車椅子、借りてきて」

「そんなに痛いんですか?」

「きみが乗るんだよ。藤くんのケガでここに来たことになってるんだから、それなりの格好で帰らないと」

 マスコミが流す情報が与える心理作用は計り知れない。自分の身におきてしまった異状は、それこそ生き死にに関わる。

 フレディが言っていた。四年前にオリンピック出場を逃した日本の女子サッカーは現在棺桶に片足突っこんだ状態で、連続で出られないとなったら今度こそ滅ぶと。

 サッカーは戦争ではない、そんなことは本当の戦争を知らないやつが言うもんだ。ある監督の語録を残したが、女子サッカーはサッカーではないのかもしれない。

「これは、きみとぼくだけの秘密だ。いいね」

 起こってしまったことはどうしようもない。ただ、隠し通すしかなかった。

 同じようにタクシーでクラブハウスに戻り、折り畳み式の車椅子を自分で広げてその上に座った。後ろから改源が手すりに手を添えてるが、それは足に負担をかけないためで、杏木は両手で車輪を回す。普段何気なく歩いている道がこんなに凸凹しているなんて思ってもみなかった。

 クラブハウスに戻る頃には、あれだけいた取材陣は跡形もなく消えていた。夜のニュース、翌日の朝刊に間に合わせるために。

「大根」

ずいぶんな言葉でやよいが出迎え、杏木は頭をかきながら杞憂に終わった車椅子から立ち上がった。


「キャバクラでお寿司投げてるやつはいないよ」

 杏木の携帯電話には改源からのコールが毎日のようにあった。代表チームでも骨折のことを知っているのは監督とドクターだけ、連日のようにニュースのスポーツコーナーやワイドショーで流れる画像を見る限り他の選手と変わらないメニューをこなしているようだった。

「今日は中国とテストマッチ。動けないから声で周りを動かすようになった」

 この時点ですでにまともではない。ジョーンズ骨折は軽度であれば歩行くらいはできなくないが、そのまま足を動かしていれば治るものも治らない。

「痛くないんですか?」

「もうすぐ痛くなるよ、麻酔が切れるから」

ここ一発の時ではなく練習で麻酔注射を使っているのはどう考えても正気の沙汰ではなかった。

 改源にはメディアへの不信感がある。自分の異状がマスコミを通じて漏れ伝わることを何よりも恐れていた。

「ぼくにとってこれが最後の代表、悔いは残したくない」

「せやけど、オリンピックは」

「この大会に勝てるのなら、ぼくは悪魔に魂を売るよ」

 かける言葉もなかった。

 ただ、全てを受け止める。

 杏木ができるのも、改源が望むのも、ただそれのみである。

 アジア予選が始まった。

 日本代表は18日にベトナム、22日にタイと対戦。それぞれ7-0、6-0と勝利。決勝トーナメントに進出した。

 ともに東京で行われた試合だったが、プリンセーザの練習があって観戦には行けなかった。ただスポーツニュースで取り上げられた一分くらいのダイジェストとインタビューを見ることはできた。

 サッカーのハイライトはたいていゴールシーン中心になる。ゴールした選手を祝福する輪から一人離れた改源が、左腕に黄色いキャプテンマークを巻いた背番号5が画面の端にちらりと映りこんだ。

 センターサークルの中に入り、喜ぶチームメートに何かを叫んでいるが、アナウンサーとコメンテーターの声にかき消されている。

「戻れ、だって」

 唇を読んだのはやよいだった。キックオフの際、相手チームの選手はセンターサークルにいてはいけないルールがある。それを逆手に取り、味方が戻る時間を稼いでいるのだ。すてに大差をつけて相手に対して。

「大勝だが、内容は伴っていない」

 試合後キャプテンとしてインタビューを受ける改源の表情は険しいものだった。さして守りが苦労する展開でもなかったのに、その顔はじっとり濡れて光っていた。

「次の北朝鮮戦に選手生命の全てを、女子サッカーの運命を賭けて臨みます」

 日本より一試合多く戦う北朝鮮はこの時点でグループ一位突破が確定してはいなかったが、相手に一本のシュートも許さない完全試合をやってのけるなど格の違いを見せつけていた。

 両サイドハーフがウィングのように張り出して上げたクロスを2トップが確実に仕留める。パワー、スピードともに男子かと見まがうほど。アジア最強の呼び声は伊達ではない。

 改源率いる日本の守備陣がそれをどう食い止めるか、と他人事のようにアナウンサーがまとめた。

「ボア・ソルチ」

 杏木が祈るような声で伝えた。ポルトガル語でグッドラックを意味する。

 幸運は勇者に味方する。そう信じるしかなかった。


「蛸丸、どこだ?」

「蛸丸ちゃいます」

「だから駅のどこだよ」

「改札にいてるわ。ヤナギとマツもおる」

「本当に浅草駅なんだろうな」

「だから、浅草橋にいるわ」

 瑞穂から携帯電話をひったくるやよい。

「あんたそれ、京都と京橋を一緒にしとるようなもんやで」

 24日は学校も土曜で休み、プリンセーザの練習もオフだった。

 五人が上京して一緒に暮らし始めて、初めてのなんにもない一日だった。

 目覚ましをかけずに寝た。真夏は朝から走りこんでいた。前髪が決まらないと深雪がなかなか鏡台を離れなかった。学校で補習を受けた瑞穂、事務所に宣材写真を撮りに行ったやよいと合流した時には正午を回っていた。

 夜まで暇だし、下町観光でもしようということになった。


「わぁ」

 ガラスに囲まれた灰色の模型に鼻面を押しつける。瑞穂が何も考えずに待ち合わせ場所を選ぶはずもなかった。

「こっからだと四本全部見える」

 指折り数えて煙突を模した円柱を数える深雪。

「ここだと二本だ」

 そのすぐ隣に真夏の位置からはちょうど後ろの二本が前の二本に隠されて見えない。

「ここやと三本」

 やよいが真正面から見上げると真ん中の煙突に一本隠されてあと二本がだいぶ離れて見える。

「うおおっ」

 杏木がやよいの右90度で吠えた。一本が完全に隠れ、二本が左右にずれてくっついて見えるので、太い煙突が一本だけ立っているように見えた。

ここはテプコ浅草館。古きよき東京の下町を再現させたテーマパークで。

 五人を釘付けにしたのは千スタのある場所にかつて建てられていた千住火力発電所の模型だった。

 長らく浅草のランドマークとなっていたお化け煙突の仕組みを知り、早くも満足していた。四本の煙突は、12あるボイラーから出る煙を効率よく大気中に逃がすためにつぶれたひし形に配置されているのだが、そのおかげで見る方角によって本数が増減する魔法をも生み出していたのである。

 人は知らないものを懐かしむことはできない。だが杏木たちが今感じているのは、失われた風景への郷愁以外に他ならない。

 サウダージという言葉がある。ポルトガル語だが、本国ポルトガルにはないブラジリアン独特の言い回しで、他の言語に訳するのが最も難しい言葉のひとつとされる。

 未来をも懐かしむ、それこそがサウダージである。

 杏木たちもまたしかり。知らなかったお化け煙突に思いを馳せている。

 さらに向かった先にかっぱ橋商店街があった。かっぱは雨ガッパの合羽と書くのが正しいが、同音異義の河童のオブジェやペナントが並ぶそこは、街全体が大きなホームセンターとでも言うべき空間だった。鍋だけを扱う店、看板だけを扱う店、白衣だけを扱う店・・・それらの専門店が軒を連ねることで、単一のホームセンターではお目にかかれない商品が陳列されているのは見ているだけで楽しかった。

「ちゃっちゃ、ちゃっちゃ」

「サッカーやめてラーメン屋なるんか」

 金物屋の湯切りにへばりつく杏木。ラーメンの湯切りをする網の正式名称を彼女は知らない。

「本物よりおいしそう」

 真夏がつかまったのはディスプレイ用の食品サンプルの店。ナポリタンを巻きつけたフォークが宙に浮いている。

「二、三人刺しても刃こぼれしないな」

 銘を打ってくれる包丁の店では深雪が出刃包丁を品定め。

 そのまま上野アメ横まで歩いた。

「ちょっと、あそこ寄っていい?」

 瑞穂がそう言ったのは、スカジャンやネイビージャケットを扱う店だった。同じような色やデザインのスカジャンでも値段はピンキリだ。

「比べてみなよ」

 前歯のない店長が一万円のスカジャンと八万円のスカジャンを並べて見せた。図柄の巧拙、刺繍の繊細さと使われる糸の色の数、何もかも違う。

最後に洋裁店に寄った。バラバラであった五人の服装を統一させるように

「このTシャツをください」

 五枚千円の無地のシャツを手にした年配の店員さんの前に、同じ色の男物のシャツをさらに一枚。

「アメ横って、オマケしてくれはるんですよね」

 やよいの声は有無を言わさぬ鋭いもので、持ってけドロボー、と笑顔で返された。

 東京駅、銀の鈴。瑞穂と修羅が杏木とやよいとの待ち合わせに選んだ場所。

 待ち人は五時半きっかりに来た。約束は五時だったのだが。

「いやぁ、品川駅にゴジラが出てさ」

 山路寛子、いつもの調子で参上。背中に銀色の龍が入った真っ赤なスカジャンをまとい、左の手にチケットをひらひらさせながら。

 そんな彼女にも青いTシャツを羽織らせ、六人となった一行はオレンジ色の中央線に乗る。

 日本サッカー協会のおひざ元である御茶ノ水、お岩さんで有名な皿屋敷のあった四谷、飯田橋を過ぎた辺りから右側に流れる川は神田川だといちいち瑞穂が教えてくれる。彼女の通う私立中学校は代々木にあるのだ。

 目的地が近づくにつれ、次第に口数が減ってゆく。

 もし負けたら、日本の女子サッカーは死に絶える。そうしたらプリンセーザも解散するだろう。育成は最も儲けが出ない部門だからだ。

 修羅が言っていた。本当なら今年、プリンセーザはセレクションをやらないはずだったと。もし上京してたった一年で地元に帰らせるかも知れないから。

 それをさせなかったのは石さんだ、自分が辞めて人件費を浮かせたんだ、と言ったところでウーロン茶がぶっかけられた。シャツに浮かんだ乳首に店中の男どもが狂喜乱舞した。

 あたいのことなんてあんたらには関係ない。だけどこの一戦はあんたらにも無関係じゃない。死に水、取っておやり。

 フレディはまた陽気なおネエの皮をかぶり、濡れ鼠ににおしぼりを投げたのだった。

 電車の揺れる音だけが鳴り響く車内。杏木が鼻をくんくんと鳴らした。

 密室だからわかる程度だが、山路の体から何かが匂ってくる。青臭い。

「山はん、午前中、草むしりとかしてはりました?」

 いんや、と首を横に振られる。

「女子サッカーの一大決戦だもん、身を清めてきただけさ」


 千駄ヶ谷駅で降りるとホームから改札まで人で埋め尽くされていた。

 青、青、どこまでも青。

 青のレプリカユニフォームの左腕には日の丸、胸には三本足のヤタガラス。

 改札を抜けると、香ばしい匂いが立ちこめてきた。無数の屋台が縁日のように並んでいる。パチもんのユニフォームをずらりと並べた店もあれば、右翼の街宣車はやかましく政治問題をがなり立てている。

 その果てで、そびえ立つ灰色の無機質な建造物が、それらの青を次々と飲みこんでいく。その佇まいは否応なしに杏木たちの緊張感を高めた。

 国立霞ヶ関競技場。

 国立と名のつくスタジアムは数あれど、国立と言ったらここしかない、日本サッカーの聖地。

「国立来るの、初めてって人」

 やよい、真夏、瑞穂、深雪、そして山路の手が挙がった。テレビでは何度も見たことがあっても、実物を見るのは初めてだった。

「アズキ、いつ来たん?」

「十一年前」

「十一年前って、あんた一歳やん。覚えとるん?」

 もちろん、と前置きしてから力強く答える。

「覚えてへん」

 1993年は日本サッカー界にとって大きな節目の一年として記憶されている。いくつもの大きな出来事があった。

 一つ目はJリーグ開幕。日本代表がアジアを勝ち進むためには国内リーグの充実が不可欠であるという発想から、それまでの実業団チームの社員選手ではなくプロの選手を擁するクラブチームを発足させた。一躍脚光を浴びた選手のレベルは飛躍的に伸び、社会現象になった。

 二つ目はU17世界選手権。十七歳以下のワールドカップにあたる国際大会にホスト国として出場した日本代表はベスト8に進出した。そしてこのチームが後に黄金世代と呼ばれるチームの土台となった。

 そして、ドーハの悲劇。カタールの首都で行われたアメリカワールドカップ最終予選に出場した日本代表は、勝てば悲願のワールドカップを果たすことのできた試合でロスタイムの失点でつかみかけていた切符を逃すことになった。

 この年の元旦、国立競技場で天皇杯決勝が行われた。

 そのハーフタイムに蹴鞠の披露が行われたのだ。そしてそこに鳳凰の水干に袖を通した杏木の祖父がいた。

 なぜ蹴鞠だったのか。恐らくは大きく変わろうとしていた日本サッカーには帰る場所のようなものが必要だったのだろう。原点回帰である。

 杏木はその年の元旦を東京で迎えた。父親に抱かれ、かけ声とともに鞠を上げる祖父に笑顔で手を振っていたという。

 杏木にとっては、それ以来の国立である。

 初めてと一緒にされたくはない。

「だから、中学生ですって」

 モギリに瑞穂がひっかかった。この試合は中学生以下は入場無料だったが、初めて彼女を見た者は誰もそう信じまい。いらだたしげにポケットから学生証を探る彼女を置いて黙々と進む一行。

「最上段開放しました。今来られたお客様は上へとお進みください」

 誘導する声に従って薄暗く湿っぽい通路を前にゆく。

 光、音、そして風。

 それらが渾然一体となって杏木たちを包んだ。そのまぶしさに細い目をさらに細めた杏木の目に飛びこんできたのは、見渡すばかりの群青であった。

 この深い青は単色では表現できないものである。人と人とが群れる時そこには必ずすき間があり、そこには影が生じるからである。

 めまいを覚えるばかりの青に、人の間にできる影が墨のような影を落として初めて、この色合いは完成するのだ。

 群青とは読んで字のごとく、青が群れた現象である。

 メインスタンドも、バックスタンドも、ゴール裏も。

 青に埋め尽くされつつあった。

 どうせなら一番上まで行こう。言い出しっぺの山路がいつの間に買った青いタオルマフラーを首から下げ、紙コップに入った生ビールを手にしていた。

「禁酒禁煙禁男!」

「だからうまいんじゃん」

 そう言ってごくごくとのどを鳴らす山路。

 ピッチの上ではすでに練習が行われている。日本は青、北朝鮮は赤のユニフォームだ。アウェイ側のゴール裏、わずか1ブロックだけ赤くなっており、そこから派手な鳴り物の音が続くが、それにかぶせるようなニッポンコールにかき消されがちだ。

「カピはん」

 赤のブロックの真下、他の日本選手から離れたところに改源の姿があった。長い髪をたれ流しふらふらと歩くさまはさながら十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るイエス・キリストのようだ。足の裏でボールをこねているが、時おり顔をしかめると杏木は気が気でない。

 アップ時間が終了する。先頭を切って引き上げる改源は手首の輪ゴムで髪をきつく、ポニーテールに結い上げた。

 両チームのスターティングイレブンが発表される。ホームの日本は後から読み上げられた。

「えっ」

 何が起こったか理解できないように、杏木が隣のやよいと顔を見合わせる。

 そこに、改源春風の名前がなかった。


 午後七時半。葉桜もとうに散ったというに、なんとも花冷えのする夜となった。

 世紀の一戦に臨む両チームの選手が緑の芝の上に青と赤の線を描いて下り立つ。ゴール前にビッグフラッグが踊り、雰囲気は高まる。

 見慣れたポニーテールはその列にはいなかった。ベンチで監督やスタッフと並んで座っていた。

「どないなっとん」

 十年以上日本代表チームの主力を張ってきた選手を。

 この大会ここまで全試合フル出場したチームの要を。

 主将であり、精神的な支えでもある彼女を。

 この大一番でスタメンから外すことが何を意味するか。

「バクチや。バクチ打ってきはった」

 何かが起こる、それはもう間違いのないことだった。

 そしてそれは、キックオフの前にはっきりとした。

「4バックだ」

 予選リーグを、このチームは改源をリベロに置いた3バックで戦ってきた。

 しかし今、青いユニフォームはゴールキーパーの前を四人が固めている。しかもその前には三人のボランチが四人のディフェンダーのすき間を埋めるように立っている。前線には2トップとトップ下を残すのみ。

 サッカーは地元チームに有利とされている。ゆえにホームでのドローは負けに等しいとされ、自然ホームチームは攻撃的な布陣を敷くことが多い。

 だが日本は、キーパーを含めた八人でゴールを守る選択をした。

 ジャージを羽織り、ソックスを足首まで下げた改源がベンチで見守る中、主審が長い笛を吹いた。

 その見慣れたなで肩が、杏木には悲しいくらい小さく見えた。

 日本の作戦は単純明快だった。

 ここまでの日本が採用していた3バックディフェンスは相手フォワードをマークするストッパー二人の背後に余らせた改源が背後をカバーし、中盤の大外の選手がサイドの全てのエリアを任される。ゆえにどうしても背後ににスペースができる。北朝鮮は左右にウイングのように選手を張らせてここを突いてくる。

 ところが今日の日本はセンターバック二人と左右のサイドバックが同じ高さに並ぶ4バックディフェンスを敷いてきた。ただそこに走りこめばスペースがあるはずが、そこにほ青いユニフォームが待ち構えている。

 そして北朝鮮がサイドでボールを持つと、ボランチがそちらに流れてサイドバックとともにはさみ撃ちにする。決して焦って飛びこんだりせず、粘りに粘って相手が仕掛けるのを待つ。そこで初めて一人が奪いにいき、もう一人がフォローする。その約束事を徹底しているのが伝わってきた。

 効果はてきめんだった。北朝鮮も日本の情報はある程度つかんではいただろうが、それはすでに古いものになっていた。

「いけるんちゃう?」

 開始10分過ぎ、杏木のつぶやきが的中する。

 サッカーはボールを奪う、あるいは奪われる瞬間に攻守が入れ替わる。

 しっかり守れてさえいれば低い位置に置かれた選手も大胆に攻め上がれる。

 タッチライン際をオーバーラップした日本の右サイドバックにパスが出る。

まだゴールまでは遠く、北朝鮮の選手はプレスに来ない。

 日本のサイドバックはこれを、左足ダイレクトでゴール前に上げた。

 コーナー付近まで深くえぐってのクロスに比べ、崩しきれてないうちに上げるアーリークロスはボールと選手とを同時に見られるので対応がしやすい。

 ところがボールは胸の高さに上がった。足を出すには高すぎ、頭を出すには若干低い。北朝鮮のセンターバックは上体をかがめるようにして頭を出す。

 クリアボールが、その足元に落ちた。

 そこに日本のフォワードが飛びついた。至近距離からのシュートに北朝鮮のキーパーがなす術がなく見送った。

 ネットが揺れた。あまりにもあっけなく。

 国立全体が揺れた。地鳴りがした。耳が割れるようだった。

 杏木はその瞬間、自分が何をしていたかわからなかった。

 叫んでいたし、ガッツポーズをしていたし、抱き合っていた。

 自分が自分でなくなっていたのだけは間違いなかった。

 煮えたぎった釜のように沸き立つスタジアムの中で、その人だけが涼やかな風をまとっていた。

 ベンチからすっと立ち上がるとテクニカルエリアに入り、自分の替わりにキャプテンマークを左腕に巻いた選手を呼んだ。キャプテンは三人いるボランチの中央に位置している選手で、その言葉にうなずくと自分の両脇に立つ二人に何事かを伝えたようだった。

 北朝鮮のキックオフの笛を背にベンチに戻る改源の振る舞いは、さながら監督のようでさえあった。

 北朝鮮の左からの攻め上がりに左サイドバックとボランチが二人がかりで対応する。サイドバックが外を切る、ボールを持った相手の前に立ち縦への突破をさせない。ボランチが中を切る、切り返しての中央突破を許さない。強引に抜きにかかれば一人が前に出て奪いにいき、もう一人がその背後をカバーする。いわば王手飛車取りのような状況を作る、これを日本は徹底した。

 北朝鮮はボールを一度下げて組み立て直すか、その場からを入れるしかない。真ん中のボランチが下がり、ゴール前で相手ストライカーとの空中戦に挑む。高く飛ぶ必要はない、先にボールに触りさえすれば。

 日本選手がヘディングでクリアしたボールがペナルティアークの中に落ちる。そこに飛びこむ赤いユニフォーム。二列目からの強烈なミドルシュートも北朝鮮の得点パターンの一つだった。だがボールはクロスバーのはるか上へ。右のボランチが中に絞り、キャプテンが下がって空いたエリアを埋めた。迅速なブロックにシュートコースは消されていた。

 改源の指示通りだった。二次攻撃をどう防ぐか、三人のボランチがどう連携するのか、確認のが効を奏した。

 日本の先制点の後、しばらく北朝鮮の時間帯が続いた。ボールを握り、両サイドを広く使って攻めてくる。

 が、決定的な形にまで持っていくことはできない。

 日本はことごとくクロスを跳ね返し、シュートコースをふさいだ。

 これはディフェンダーだけの手柄ではない。フォワードが前線からボールを追い回し、北朝鮮に後ろから攻撃を組み立てさせなかった。前の三人が中を切るので、どうしても外にボールを吐き出さざるを得ない。タッチライン際での攻防なら前と横を切りさえすればいいし、もし突破を許してもゴール前でクリアすればよかった。

 言葉にすれば簡単だが、実際にやるのは困難だった。

 一人一人が勝手に動くのではなく、ピッチにいる十一人が連動しなければ、あるいは誰か一人でも足を止めたら必ずどこかに穴ができる。

 それだけのハードワークを、日本は絶えず続けた。

 そしてその足がいつ止まるかと思うと、杏木は冷静ではいられなかった。

 前半も残りわずかになった。点数は1-0のまま動かない。

 このままで終われ。杏木は祈るように指を組んでいた。

 リードして終わるのと土壇場で追いつかれるのとでは精神的にまるで違う。

 北朝鮮もそれはわかっているのだろう、サイドパーフがウイングのように張り出したままになって、前線に四人がとどまっていた。

 だから日本が中盤での横パスをかっさらった時、北朝鮮の中盤と最終ラインの間には広大なスペースができていた。本来の持ち場を離れていた選手が戻れない北朝鮮。

「いけえっ」

 絶好のカウンターアタックに瑞穂が立ち上がった。赤いユニフォームの足取りは鈍い。攻撃に気を取られたあまり、守備のためのスタミナまで使い果たしてしまったかのように。逆に青いユニフォームは、それまでためていた力を爆発させるかのように躍動して見えた。

 左サイド、日本のツートップの片割れがグラウンダーをゴール前に放つともう一人がゴール前に飛びこむ。北朝鮮のセンターバックがそれでも懸命に足を出す。ボールが当たったのは反対の軸足。飛び出したキーパーと逆の方向へゆるやかに向かっていく。それを見送るしかない北朝鮮の選手がその場に這いつくばった。

 望んでもいなかった形で転がりこんだ追加点に、杏木は手当たり次第にハイタッチを交わした。知ってる顔も知らない顔も区別なしに。

 2-0。最高の形でハーフタイムを迎えることがてきた。


「もらったも同然やん」

 ハーフタイムは放熱の時間だ。試合中に沸騰した体をひんやりとした夜風が心地よく撫でた。

「北朝鮮、大したことないじゃん。勝てるって」

 やよいに真夏が同調する。軍隊のような団結を誇るはずの北朝鮮は度重なるミスで疑心暗鬼になっているようにさえ見えた。

「いや、まだだ」

 あくまで慎重なのは瑞穂である。

「2-0は危険なスコアって言うだろ。もし後半一点返されたら流れが北朝鮮にいく」

「おれもそう思う」

 深雪はそれとは違う視点で、まだ安心はできないと説いた。

「2点はどっちもミス絡みだ。まだ崩して取った点がない」

「お、カピさんだぜ」

 山路が指差した先に、ロングパスを練習する改源がいた。出番か来るような気配はなく、ゆっくりと体を暖めている様子が伺えた。

 彼女の足が今どんな状態か、杏木は知らない。

 ただ、出してあげたかった。

 この晴れ舞台は、彼女のためにこそあるはずなのに。

「そういやさ」

 不意に思い出したようにつぶやく深雪。

「アヤメがどうとかってほたえてたのはどうなった?」

「ほたえ?」

「ほたえる、騒ぐって意味や」

 西日本の広い範囲で使われる方言であり、やよいが説明した。

 目の前に広がる群青が照明に暗く反射し、屏風に描かれたアヤメの花のように見えてそう連想したのだろう。

「ショウブや」

 杏木がぼそっと返す。花の話をしてたのに、サッカーの話をされたと思った一同が首をかしげる。だが杏木は見当違いなどしていない。

「山はんが教えてくれてん」

 山路の体から漂う残り香がヒントになった。

「そんなん、いつでも話せる」

 ハーフタイムを終え、両チームの選手がメインスタンド正面から現れる。

 ボールを高く蹴りあげた改源が、それらの選手とタッチしながらベンチに下がるのが見えた。

 その姿を、目に焼きつけようと杏木は誓った。


 ハーフタイムに発破をかけられたのだろう、メインから見て右に攻める北朝鮮が猛然と日本ゴールに迫る。

 日本のやるべきことは変わらない。前線から徐々に包囲網を狭め、決定機を与えない。だが2点のリードがある以上無理に攻めてボールロストしないよう時間をかける。このままいなし続ける算段だ。

 山路の体からほのかに漂った草の匂い、あれは菖蒲湯のものだった。

 ショウブはアヤメ同様菖蒲と書くが、花が蒲の穂のような丸い形をしておりアヤメとは全く異なる植物である。そして端午の節句にそのショウブの葉を湯船につける習慣がある。それが菖蒲湯だ。

 古来ショウブの葉には邪気を払う力があるとされており、またショウブは勝負にも通じる。これを始めたのは関東の武士であると言われ、関西にこの習慣はない。そしてその葉からはかなり強い草の香りがする。

 杏木の父、賢太郎は横浜の生まれ。京都で生まれ育った杏木が知らないこの習慣を知っていて当然だった。

 それで四月にアヤメの菓子を送ってきた理由もようなくわかった。

 この一戦は在京のテレビ局や新聞社で大々的に報じられていた。京都にもその様子は流されていたであろう。

 あのいくぶん青がかったアヤメは、父からの激励であった。

 アヤメ→菖浦→ショウブ→勝負という、連想ゲームのようにあの上生菓子にメッセージを託していたのが、いかに杏木の父親らしかった。

 そして父と同じ横浜から葛飾に通う山路にとっても、この一戦は絶対に負けられないものだったことがわかったのが杏木はうれしかった。

 時間は誰に対しても同じように流れるが、その感じ方はそれそれ違う。

 同じ一秒が北朝鮮には一瞬より早く、日本には永遠より長い。

 この大会、三人まで選手を交替できる。日本の控え選手は全員アップゾーンに入り、いつでもいけるように体を暖めている。

 その中には改源もいた。他の選手に混じって黙々とアップダウンを繰り返している。だが呼ばれるのは別の選手だった。それでも、骨の折れた足を止めようとはしない。

 恐らく後半開始の15分で一点返すよう指示が出ていたのだろう、それを過ぎると北朝鮮の足が徐々に止まり始めた。

 そのタイミングで日本がコーナーキックを取った。右コーナーにキッカーがゆっくり向かう。北朝鮮は前線に三人、エリア外に二人を残す。

 この大会、日本のセットプレーは全て、近いサイドにライナー性の速いボールを入れてきた。北朝鮮はその対策を練ってきたようで、ニアサイドに長身の選手が集まってくる。

 だから、キッカーがふわりとした高いボールを、ただ見送るしかなかった。

 ヘディングで折り返したボールをキーパーの鼻先でつつくと、本日三回目の歓喜が訪れた。

 もう、何がなんだかわからないほど叫んだり抱き合ったりするばかり。

 残り25分あったが、これがだめ押し点になるのはほぼ間違いなかった。

 後のない北朝鮮が一糸報いようとハイクロスの雨を降らせ、ロングシュートの嵐を吹かせる。この試合、北朝鮮のシュートは日本の9を上回る15本を記録した。

 しかしそのどれもが徒労に終わった。青いソックスが、ゴールキーパーの手が、そしてゴールマウスやクロスバーまでもがそれを跳ね返した。まるで神風が吹くように、追い風が日本に吹いていた。

 そしてそれを、31324人を記録した大観衆の歓声が後押しする。

 真夏と深雪が肩を組む。瑞穂はしきりに手の甲で目尻を拭う。やよいはプレーの一つ一つに叫び声を上げ、山路は興奮のあまり紙コップを握り潰した。

 刻一刻と時間が過ぎる。少しずつアテネが近づいてくる。

 だが誰一人、不思議と早く終われとは思わなかった。

 むしろこの時間が永遠に続くように願った。それこそがサウダージだ。

 なおも北朝鮮の攻撃は続く。

 強引に放ったミドルシュートが青い壁に阻まれる。大きく跳ね返ったボールがセンターサークル付近に落ちる。つないでいる時間を惜しむように大きく前に蹴り出すモーションに。

 その声は、杏木たちのいるスタンドの最上段にまで届いた。

 北朝鮮のフォワードがノーマークで受ける。目の前には日本のゴールキーパーただ一人。胸で落とし、シュートモーションに入る。

 主審の笛が杏木の耳にも入った。副審の旗が上がっている。

 アップゾーンにいたポニーテールの彼女が掲げていた右手がガッツポーズに変わる。それまでゴール前に張りついていた青いユニフォームの選手が全員押し上げ、赤いユニフォームを三人も罠にはめたさまは壮観と呼ぶほかない。

 そしてこれが、この試合両チームを通じてただ一回のオフサイドになった。

 間接フリーキックで再開する前に、日本が最後の交替選手を送り出した。

 出番がなくなるのが確定した控え選手たちが三々五々ベンチに引き上げる。

 口元の飛沫を拭いながら彼女が、ゆっくりとポニーテールをほどく。

 杏木はひとりでに手を叩いていた。

 改源春風の戦いが、ようやく、終わりを告げたのだ。


「カモン勇者たち!」

 ショートボブのウィッグに丸くて大きいイヤリング、アイラインに真っ赤な口紅、肩口から黒いブラひもが覗くニットの胸元は豊満に盛り上がり、レザーのタイトスカートからストッキングを履いた美脚を覗かせハイヒールで軽快なステップを踏むひげの似合う美人ママ。

「ウィーアーザチョンピオン!」

 やよいが抱きついた途端、胸の風船が破裂する音が響く「九州男児」。

 試合が終わり、冷えきった体を暖めようとしたが一軒だけ空いていたラーメン屋は青いユニフォームで行列ができていた。このまま松戸には帰れないので新宿まで出た。

「現地で見れなかったチキンどもの席はあちらでーす。ニワトリにハゲタカ、鳥の巣になりまぁす」

「でかしたー!」

 今度は赤毛のとさかを逆立てた修羅が瑞穂をあらん限りの力で抱きしめる。酒樽に浸かっていたような匂いがして何杯飲んだか聞くのも恐ろしい。

「しゅら、しゅ、しゅ、しゅ」

 凍りついた瑞穂に店中の男がブーイングを飛ばす。

「金比羅船船かい」

 慣れた様子で深雪と山路が二人を分ける。

「生きた心地がしなかったよ。低血糖だ」

 さみしい頭を撫でながら生クリームをぬったくった口にホールのショートケーキを放りこむ佐藤。

「いがったな、荷物まとめて秋田さけぇらずに済んで」

「男鹿におれの帰るとごろなんか、ね」

 アフロヘアを仰向けにしてグラスを空にする菅原の顔は真っ赤だった。

「今日は無礼講よ。タクシー出すから時間も気にしないで楽しんでってね」

「じゃ、生一つ」

「自分で稼ぐようになってから飲みな」


「勝因は三つ。一つ目は4バックで臨んだこと」

 フレディが出したのは赤子の手のひらのような愛らしい饅頭が二つずつ。お通しというよりはお茶うけと呼ぶほうが適している。

「もみじ饅頭や」

 杏木でなくても知っている。広島を代表する銘菓で、カステラ状の焼いた生地の中にこし餡が入ったシンプルな菓子だった。砂糖や蜂蜜がふんだんに使われており、頬張ると和洋折衷の甘味が口の中でほどける。

「それまでのやり方を捨てるってことはそんな簡単なことじゃない。もし負ければ真っ先にそこを責められるし自分達も悔いが残る。でもそれをやった」

「日本の3バックは北朝鮮に研究され尽くしていましたからね、捨てるしかなかった」

 修羅が半分残ったパイントグラスを飲み干し、おかわりを要求する。

「明日の日曜礼拝行かない気?」

「日曜日なんてすぐ来るけど、こんな夜は二度と来ませんから」

 んだ、と菅原が自分も空のウイスキーグラスを振る。

「ザゲイロさ二人に減らし、その分ボランチさ厚ぐする。ラテラウはザゲイロの横まで下げて守備から入る。北朝鮮は面食らったべな、突こうとしでたスペースに日本の選手がいんだもん」

 このアフロヘア、飲むとお国なまりが丸出しになるらしい。

「でも、よくバレませんでしたね」

 もし策が事前に漏れたら全てが水の泡だ。代表合宿には多くの取材陣が押しかけていた。どの社もスクープを求めてそこにいる。直前でのシステム変更なんておいしいニュースを前に、功名心に走る者がいなかったのか。

「そこはホレ、このうすらハゲがね」

 はたきでバーコードをはらうフレディ。

「ただ練習が始まる前に全員の目を見て言っただけだ、わかってんな、って」

「このハゲ、半世紀もマスコミの世界にいたからね。テレビ局だろうが新聞社だろうが、どの社も一発でひっくり返るネタをつかんでるんのよ」

「うまいものは最後までとっておく主義でな」

 そう言って、手をつけずにいたイチゴを頬張った。

「二つ目はあの大観衆」

 フレディが淹れたホットコーヒーにはわずかばかりスコッチウイスキーかたらしてあった。一口すすると、失われた体温が戻ってくる。

「いくら自国開催でもスタンドがガラガラ蛇じゃホームゲームにはならないもの、相手チームと審判にプレッシャーをかける雰囲気をどうやって作るか、その辺も抜かりなかったわ。毛は抜ける一方だけど」

「政治学者やら芸能関係者やら思いつく限り声はかけた。大事なのは見る側が他人事じゃなく自発的にかかわってくれることだ。みんな国際問題の取材で試合のことに触れてくれたり、タレントにノーギャラでイベント出てくれたり」

「そしてテレビ中継」

 ゴールデンタイムの地上波で女子サッカーの試合が全国ネットで放映されたのは、この試合が初めてのことだった。

「放映権を買うテレビ局が真っ先に気にするのは数字、視聴率が取れるかだ。この試合に大きな意義があっても、視聴率を見込めなければスポンサーがつかない。向こうも商売だからな」

 そこでだ、と上唇のクリームをなめずる佐藤。

「抱き合わせで売ることを持ちかけた」

 三人が囲むテーブルの上にある携帯テレビでは日中の熱い日差しの中引き続き日本代表の試合が流されている。女子より一足先にアテネ行きを決めた23歳以下男子代表のゲームが開催国ギリシャとの間で行われていた。

「ギリシャと日本の時差は六時間だ。開始時間を繰り上げてもらって、四時間ぶっ通しで試合を放映できるようにしてもらった」

「でもよくそれを男子の代表が承知しましたね。向こうだって本大会前の貴重な強化試合なのに」

 アテネは向こうは地中海の日差しが最も厳しく照りつける時間帯で、普通そんな時間にサッカーの試合はしない。

「こいつがさ、こうやってくれたのよ」

 フレディが赤いとさかに手を乗せ、ぐいっと押し下げた。

「人生初土下座だ。自分のことなら絶対にそんなことはしねえ」

 マカロン修羅が今まさにギリシャで試合するかつての仲間の映像を見つめる。彼らは笑って協力してくれ、おまえも早く戻ってこいよと言ってくれた。

 結果としてこれらの心配は杞憂に終わる。この試合、瞬間最高視聴率は30%を超えた。単純計算して、三千万人以上が見たことになる。

「三つ目はあの子、ハルカを土壇場で外したこと」

 試合後のウイニングランで、十年以上あのチームの中心で居続けた改源春風はその最後尾で控えめに日の丸を掲げていた。杏木は山路に肩車してもらい、タオルマフラーを振った。

 それに気づいたのか、日の丸を振りながら唇を動かした。

 藤くん、と呼ばれた気がした。何だか憑き物が落ちたようなような笑顔で、涙はなかった。

「言っとくけどね、4バックにしたからあの子が外れたんじゃなくて、あの子抜きで3バックができないからシステム変更したんだからね」

 それでも予選リーグの二試合、折れた足でピッチに立った。走れなくても声で味方に指示を出した。戦術変更を北朝鮮に悟られないために。

 求心力のある選手がメンバー外にならばチームにら動揺が生まれる危険性があり、本人が不満をあらわにすればチームが崩壊することもあり得た。ましてや改源がアメリカのクラブに対して大きく待遇の下がる葛飾クラブに戻ってきたのは、全てこの大会のためだったのだから。

「ハルカの振る舞いはパーフェクト。ピッチの外にいてもキャプテンだった。ピッチの選手に大歓声に負けないくらいの声を送り、交替選手を笑顔で送り出した。あのクソガキが、よくあそこまで大人になったわ」

「なんも変わってねっす、あの子は」

 ふーっと荒い息をつく菅原が前髪をかき上げる。杏木は思わず息を飲んだ。

 左眉の上の生え際からつむじにかけて、稲妻のような傷が走っていた。

「四年前、シドニーに行けなくなった時、一番叩かれたのはキャプテンだったあだしと10番をつけてたあの子だった。相手のシュートに頭がら飛びついて、そのまま意識さ失って病院に運ばれたのに目が覚めてあんな思いをさせられるのが我慢できなくてあだしは引退した。あの子はその悔しさを張らすために四年間耐えた。自分ひとりのことなんて、あの地獄に比べたらなんもだ」

「そう思うんだったら本人もそうおっしゃいな」

 フレディが菅原の首から引っ張り出したのは改源と色違いの真っ赤な勝守。

「でも俺は、その傷にザゲイロのなんたるかを教わりました」

 修羅が菅原のグラスをグラスで鳴らした。

「大石、てめえはいつだってそうだ」

 佐藤がケーキのかすがついたフォークをひげの似合う美人ママに向ける。

「てめえのことは何も話そうとしねえ。まったく、いけ好かねえ野郎だ」

「オカマに向かって野郎とは失敬なハゲね」

「なんでここにこいつがあるか、知ってるか?」

 やよいのもみじ饅頭をひったくり、口の中に放り込む佐藤。

「一週間、センチメンタルジャーニーしてきたのよ。生理休暇取って」

そんなもんあるか、というツッコミを入れる気力もなかった。

 この大会が開催されていたのは東京だけではなかった。北朝鮮のグループAの開催地は広島で、大石尚幸は日本代表チームのスカウティングスタッフとしてその全試合を視察していた。

「これでもかってくらいサイド攻撃ばっかしてきて、こりゃ日本戦も同じってのは明らかだった。だから重心を落としてまずは守備から入る、そうすればひとまず五分には持ちこめるだろうって。でもそれじゃ半分、負けないかも知れないけど勝てはしない」

 北朝鮮の守備の綻びを見つけるには、どの試合もあまりに一方的すぎた。

「第五列しかなかったわよ」

 フォワード、ミッドフィールダー、ディフェンダー、ゴールキーパー。サッカーの四つのポジションのどれにも当てはまらない、相手の練習に潜伏してその弱点を探り出す五番目のポジション。スパイ行為である。

「向こうも将軍様に尻叩かれてるだろうし、あたいが向こうにメンが割れてるかもしれない。もし見つかって、あんなことやこんなことされたらどうしましょうって、考えるだけでゾクゾクものよ」

 そう言って巨体を身悶えさせる姿は心底うれしそうだった。

 広島から移動してくる北朝鮮チームは一日だけ東京で非公開練習する。それが最初で最後のチャンスだった。

「東京に戻ってこの店に来て、別れの杯を交わしたわ。そしたらね」

 にかっと笑うフレディ、その視線の先には佃煮にできるほどのゲイたちが。

「あんた一人を行かせたら末代までの恥よ、って。この街の住人は全員が末代だってのにさ」

 報道陣をシャットアウトした北朝鮮の練習に五十人近い男が詰めかけた。

 おネエ、ドラァグ、ガチムチ。ありとあらゆる類いのゲイたちが食い入るように練習に見入る。

 当然北朝鮮のスタッフが追い払いに来る。だがその姿を上から下へ、まるでなめ回すようにして眺められると多勢に無勢、すごすご退散した。監督さんちょっと素敵、私はあのコーチを泣かせたいわ。そんな下品な会話が飛び交うなか、北朝鮮は調整を続けるしかなかった。

「木の葉は森に隠せってね。この中にあたいが紛れてても気づかない」

 フレディがナプキンの隣に備えつけられた正方形の包装紙を噛みきり、中のゴムをぷーっとふくらませ、胸に入れた。

「おかげさまで収穫があったわ。高いボールにやたらキーパーが出てきたがる、もしかしてセンターバックに不安があるんじゃないかしらって。普通キーパーとディフェンダーの間を狙って入れるクロスを、あえてセンターバックめがけて入れたら何かが起こるかもしれない。そう伝えたわ」

「じゃ、あの2点は」

「もう笑いが止まらなかったわよ」

 クリアミスとオウンゴール、どちらもセンターバックのミス。命を削ってのスカウティングが実った。

「共産主義国家じゃ同性愛者は資本主義の生み出した堕落の象徴なんだって。それをこんだけ見せつけられたら悪夢以外の何物でもなかったろうね」

「なんで、そこまでして」

「四年前、あの子らは地獄を見た。家族が引き裂かれるようだった」

「俺たちには何もできなかった。あんな思いはもうごめんだ」

「そしてあんたらが、また安心してボールを蹴れるようにね」

フレディがハイヒールを履いたままカウンターに飛び乗る。天井に頭をぶつけ、ウィッグが落ちても気にしない。

「エーオ!」

「エーオ!!!!」

 2004年4月24日。

 日本サッカーの表舞台に初めて女子が立った記念すべき日に、多くの男たちが尽力したことを記した資料はない。

「それはそれは、楽しゅうございましたな」

 紅を塗った口元を閉じた扇子で軽く叩く成通。不機嫌というか、すねている時の癖だ。

「楽しい? こんなしんどい一ヶ月は人生初やったわ」

 あごに乗せた手を指で叩く杏木。血は争えない。

「仮にも一国を代表するチームやで、あんな悲壮感漂わせて試合させたらあかんやん。あれじゃついてくるもんもついてきいひんわ」

「なるほど。ぬしの話を聞いておればこう、眉にしわを寄せてこらえる様子が思い浮かびまするなぁ」

 扇子が音もなく閉じる。

「されど、ぬしの顔を見れば、その言葉の通りとは思われませぬ」

 ほほと笑う成通が杏木は面白くない。

「杏木さま、ずっと笑うておられましたよ」

「長い話の間、えびす様のようでございましたよ」

「さぞかし、お楽しみでございましたな」

 鞠の精どもがはやし立てる。

 鞠の功徳。鞠が盛んな時、国は栄える。

 鞠を蹴る者も、それを見守る者も。

 小さき者も、肌が黒い者も、金髪の者も、坊主頭の者も。

 体に傷が負った者も、心に傷を負った者も。 

 女も、男も。若者も、年寄りも。そしてそのどれでもない者も。

 要するに、誰もが幸せになった。

 一つのボールの前に誰もが平等であった。

 たくさんの声援に勇気をもらい続けた選手たちは、この90分で、それまでになかったスタイルを身につけたのだ。

ひたむきさ、という名のスタイルを。

一対一では勝てない相手でも、十一対十一でなら勝てる。青が群れをなし、大きな群青を形作って戦う。それをこのチームのスタイルとして確立させるに至った試合になった。

 そしてその戦い方が、図らずも気づかせたのだ。

それまでサッカーを諦めて他の競技に転向すべきか悩んでいた少女や、男に混じってボールを蹴っていた女性に。

 がんばっているのが自分一人だけじゃないことを。

 自分のやってぎたことは間違いなんかじゃないことを。

 そして、自分が目指すべき場所があの青の中にあることを。

 この日、世界への重い扉を押し開けた乙女たちが作り上げた蕾は、七年後、大輪の花を咲かせることになる。

群れを成して挑むスタイルを根底に、より強い個の力をつけて。

 選手や監督、戦術は変わっても。

 その魂を揺さぶる戦い方は変わらずに。

 全員で守り、耐え、絶対に音を上げず、最後には勝利をつかみ取る。

 あらゆるものが崩れ落ち、失い、うちひしがれ、不安な未来しかなかった日本を今度は彼女たちが勇気づけるのである。

 だが今日見たチームが世界を制し、そして自分がその中にいるなどと、この時の杏木は知るよしもない。

ただ照明の落ちた国立を明治神宮の方角から見上げ、冷えきった手を取り合って、誰にも言わない約束で誓いを立てただけである。

うちたちもここでやるんや、あの青を見上げたるんやと。

 それが叶うかはわからない、でもそこを目指すことを決めた。六人で。

「おなごの鞠も、なかなかに侮れませぬな」

 成通が、末裔と生き写しな目を細めた。


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