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蹴鞠少女はひとりではない   作者: みつたけたつみ
4/11

桜餅

 その日も、京都タワーはでそこにあった。

 源平の合戦、応仁の乱、鳥羽伏見の戦い。無数の血を吸ってきた怨霊が建てさせたとしか思えないその気の触れたようなデザインのまま、ぬぼーっと突っ立っている。

 祖父が生前このけったいな建物を見上げるたびに、弘法さんより目立って邪魔や、と嘆いていた。弘法さんとは弘法大師空海の建てた東寺のことで、京都には東寺の塔より高い建物は建てないという不文律がある。

 いざ京都を発つ段になって、杏木はそんなことを思い出した。

 しかしその根本には京都駅があって、世界中の田舎者がいつでも帰って来れるようになっている。

 杏木もこれから田舎者になる。住み慣れた京都を離れ、東下りするのだ。

 卒業アルバムに書いた将来の夢。杏木はそれを他の誰よりも早く叶えた。

 女子サッカー選手になる。

 男がサッカー選手になる、と言ったら、普通はサッカー選手を職業とすることを指す。しかしこの国で女がサッカーで食っていくのは夢のまた夢。

 女子サッカー選手とは職業ではなく、生き方なのだ。

 十二歳の藤原杏木はその生き方を選んだ。しかしいつまでその生き方を続けられるか、本人でも分からない。

 次にタワーを見上げるのは、勝ち負けが着いたとき。

 母のお下がりのスーツはあまりにも無機質で、せめてもと胸元につけた簡素なリボンがかえって浮いてしまっていた。


「女がサッカーで食うてけるん?」

 葛飾プリンセーザの合格通知を見た母の由香の第一声がそれだった。

 男ならプロリーグとかあるけど、女のプロサッカー選手なんて聞いたことないわ。それって道楽やんな。そんなもんのために都落ちするん?

 畳み掛けられてぐうの音も出ない。由香は有限会社とりやの代表取締役社長である、損得勘定にはその辺の大阪人が裸足で逃げ出すほど渋い。

「その葛飾プリンちゅうんは、サッカーで言うと京大みたいなもんか?」

 父の賢太郎は口数が少ない。それは横浜の生まれで、いまだに京言葉がわざとらしく聞こえるのを気にしてるからだ。平安期の仏像にひかれ京都の美大に入り、そこから上記生菓子の世界に魅了されて杏木の祖父に弟子入りした変わり種である。

「京大やのうて東大です。日本でサッカーやってる子で、葛飾クラブの名前を知らん子はいてません。餡炊き三年、餡練り十年言いますやろ。ようなく餡を腹切れなしに炊けるようになってん。ここがええ職人になれるかの瀬戸際ですねん。修行に出してください」

 母が深いため息をつく。

「せやけど期限を決めましょ。男の子やったら、プロになれるかどうかやけど、女の子はプロになれへんのやろ。むつかしいなぁ」

 息苦しい沈黙がしばし続いたのち、杏木のおちょぼ口がひとりでに動いた。

 日の丸。

 二年前、日本で開かれたサッカーの祭典が頭をよぎった。日本列島が青で埋め尽くされたあの六月を。

「お父はん、お母はん。うち、日本代表になる。二十歳になる前になきんかったら、サッカーやめて帰ってくる」


 ものすごいハッタリをかましてしまったが、納得させるにはそれしかなかった。両親よりも自分自身を。

 ただ問題は、女子のサッカー代表の試合を見たこともなければどの程度のレベルかも知らない。

 そもそも、女子にも日本代表チームがあるってのを知ったのすら、葛飾プリンセーザのセレクションから帰ってくる新幹線の中でのことだった。

 これからまた同じ新幹線に乗る。目的地は終着、東京駅。

 死ぬまでここで暮らす、なんの根拠もなくそう思っていた京都を、今日、離れる。よほどのことがない限り、帰っては来ないと両親には告げた。自分に言い聞かせるために。

 行く人なのか、帰る人なのか。物言わぬ列に並ぶとほどなく時刻表通りの精確さで新幹線がホームに入る。

『京都、きょうとー』

 空気が抜けるような音とともに閉まるドア。

 春休みとあって車内はなかなかの混雑ぶりで、座りきれない乗客が通路にまではみ出している。指定席にして正解だった。

 キップを見ながら席を探す。窓側にいるピンクのワンピースが目に飛びこんできた。

「あるときー!」

 豚まんを持った両手の指に、春らしい桜色のネイルをほどこした桜井やよいが杏木を出迎えた。

「サクラ、奈良から新大阪ってどんくらいなん?」

 杏木が二つ目の豚まんを頬張りながら尋ねる。

「奈良行ったことないん?」

「奈良にあって京都にないもんて鹿と大仏だけやん」

「奈良県立民俗歴史博物館」

 オカリナの音色を口ずさみながらロボットダンスする二人。奈良出身の漫才コンビ「笑い飯」の鉄板ネタ「奈良県立民俗歴史博物館」は実在しない。日本竹馬連合会と同じだ。

 杏木は典型的な関西ノリが苦手だが、一緒だとついペースに引き込まれる。

「なんなん、京都人ってそんなに偉いんか」

「だって、京都奈良とは言うけど、奈良京都とは言わんやん」

 やよいは京都府民の上から目線に虫酸が走るが、それをストレートに口にする。

 あと二時間あまり、話し相手は他にいない。

「サクラ、あんた面談、なに聞かれてん?」

 杏木がわずかな停車時間を縫って湯がいてもらったきしめんをたぐりながら尋ねる。

 セレクション合格通知が送られた後、選手と保護者が東京に呼ばれ、監督と話し合いをそれぞれ持った。

 藤原家は首都圏の交通機関に慣れた父の賢太郎が店を休んで上京した。聞かれたことと言えば、住まいはどうするかということ、あとキーパーをやる気はないかと聞かれた。

 セレクション前に提出した申込書にはサッカー歴やポジション、利き脚に加え両親の身長を記入する欄があった。父は182、母は171センチ、杏木自身も現在165センチでまだ伸びている。だが断った、鞠は足でいらうものだと。

「試合と撮影、重なったらどないするて」

 桜井やよいは、関西ではそこそこ顔の売れた子役である。大阪の児童劇団に所属し、関西のテレビ局が製作するドラマやバラエティ番組にはちょくちょく出ていた。

「試合に出してくれるんやったらサッカー選びますって答えたったわ」

「強気やな」

「子役はな、二度売れなあかんねん」

 ほほう、とうなずく杏木だがあまりよくわかっていない。

「アズキ、生菓子と上生菓子って何が違うん?」

 今度はやよいから問いかけた。

「まず干菓子と生菓子はわかる?」

「そういうんが干菓子やんな」 

 そう言って杏木の口の周りを汚したうなぎパイのかけらを指差す。

「せや。菓子は生菓子と干菓子、いわゆる乾きものに分けられんなん。ちなみにうちの店は干菓子は置いてへん。なぜなら」

「とりやは御所さんの西やらかひがしはない、やろ。百万遍聞いたわ」

 静岡茶のペットボトルをあおる杏木。パイに口の中の水分を根こそぎ持っていかれた。

「せやから、なんで草餅は花見団子は上生菓子とは言わへんねん」

「草餅はよもぎの葉っぱが細かくなってるし、花見団子はそれを見ただけでいつ食べるかわからへんやんか。パッと見て、それが何の季節を表してるかわかるんが上生菓子。材料に旬のものを使ってへんくても、梅や桜の花の形をしとったらいつのお菓子かわかるやろ。そういうの、見立てって言うんや」

「見立てって、見立て殺人の見立てか」

 そう言いながら小まめにメモを取るやよい。

「そんなん聞いてどないするん」

「いつか和菓子職人の役が来るかもしれんやろ」 鯛めしの空き箱を足元に転がした杏木が寝息を立てる横で、やよいは窓に頬杖をつく。

 昨日は一睡もできなかったし、朝から何も食べていない。大好きな豚まんも口にしようとすると吐き気がこみ上げてダメだった。

 こいつは、サッカー一本に打ちこめるんやろうな。食いつぶれた京都人を、心底うらやましく思った。

 話し相手が眠りこけているので、イヤホンを耳に差す。持ってきたCDはアルバム一枚、人気俳優を起用して大ヒットしたドラマのサントラとして日本のみでリリースされたクイーンの「ジュエルズ」。これからいくつもの眠れない夜をともに過ごすだろう。

「ままぁー・・・」

 やよいが職を得たのは生後六ヶ月だった。自分の意思ではなく、物心ついた時にはもう芸事の世界にいた。卒園式も、入学式にも出ていない。連続ドラマの撮影で毎日スタジオやロケ現場にいた。

 学業を優先させる、なんててっぺんにいる売れっ子の言うことだ。自分の替わりなんていくらでもいるのは嫌というほど知っていた。

 さまざまな習い事もさせられた。ピアノ、バレエ、バイオリンに水泳。基礎をマスターすると、まるで旅芸人の子供が転校を繰り返すように次の習い事に移された。

 当然、学校の子とは話が合わない。クラスの女の子達が好きな芸能人の噂で盛り上がっても、やよいは彼らの裏を知っている。何を聞かれところで、うちよう知らんねんとへらへらと笑いながら相づちを打つしかなかった。

 現場では他の子役とも会う。うわべは仲良くしてるが、基本的にライバルである。あの子の仕事が増えれば自分の仕事がなくなる。イジメ、シカトは日常茶飯事。大人たちはそれを競争意識と呼び、煽った。

 勉強についてもそうだ。学校は行けたり行けなかったり、台本に出てくる鬱陶しいなんて難しい漢字は読めても分数どころか7の段も怪しい。

 何よりも息苦しかったのは母親の圧力。父や他のきょうだいとギスギスし始め、それも全部やよいのためと言えば通された。

 過剰な愛は人を殺す。

 自分がずいぶんいびつに育ってしまったのに薄々気づいた頃だった、サッカーに出会ったのは。

 きっかけは現場で一緒になった芸人との雑談だった。彼らの多くは、俳優や歌手に比べ低く見られているので、同じような境遇にある子役には優しい。

 その芸人はサッカー経験者だった。自国開催のワールドカップの前後で、あの国はこんなサッカーをするとか、撮影で一緒になったあの日本代表選手とこんな話をしたとか、子供の目線で話してくれた。もっと話を聞きたいと思ったが、芸人同士の集まりはほとんどが酒の席で小学生は参加できない。

 それで誘ってくれたのが、芸人で作ったサッカーチームだった。経験者と非経験者の割合は半々で、勝敗にも全くこだわってなかった。覚えたてのフェイントをやよいが披露すれば、もののみごとにコケてくれた。その心地好さはそれまでやよいが味わったことのないものだった。

 生まれて初めて自発的に始めた習い事がサッカーになった。当時奈良には少女サッカークラブがなく、成人女子チームと少年チームを掛け持ちすることになった。

 スタジオでの待ち時間はリフティングに費やした。小さくて弾まない丸めた靴下が持ってこいだった。

 一人で蹴っている時間が長く、得意なプレーは自然とドリブルになった。俊敏なダッシュや鋭いターンをするのに小さな体がむしろ利点になった。芸能界には元アスリートも多く、やよいがサッカーをやっていると知ると速く走るフォームや相手の裏をかく視線の使い方を面白半分に仕込まれた。一人抜けば場が沸くドリブルは、根っからの目立ちたがりなやよいの性分にも合っていた。

 女の子がサッカーやって何になるん?

 母親が深いため息とともにぼやいた。

 日に焼け、ケガが増え、女の子っぽさがなくなる娘が、それでも小学校を卒業すればその熱病から醒める、そう思いこんでいたようだ。

 それが、東京のチームにを入りたいと言い出した時、ついに爆発した。サッカーなんかのために東京に行きたい、と言い出した娘が本当に狂ってしまったのではないかと思いつめるほどに。

 そして、娘が差し出したのは二枚の合格通知。一枚は葛飾プリンセーザの。

 そしてもう一枚は、ドラマのオーディション。二十年もの間続いている人気作の第七シーズンで、三十名の生徒役に選ばれたのだった。

 サッカーだけでは上京を許してくれなかったであろう母親を納得させることができて、やよいは、ようやくスタートラインに立てた。

「ままぁー、うーうううー」

 やよいが殺したのは自分自身だ。子役である自分を、母親の望む娘を。

『次は終点、東京』

 女声アナウンスに杏木が飛び起きた。

「シウマイ食い損ねた」


 改札を出たら緑色を探せ。

 雑にもほどがある待ち合わせのサインだったが、二人が改札を出る前に目に飛びこんできた。

 長身の上に山高帽までかぶっているので目立つことこの上ない。帽子もジャケットもハイソックスも緑、そしてタータンチェックのスカートまで緑色をあしらったものだった。腕には三本の管が伸びたバグパイプを抱えており、大道芸人と勘違いした者が足元に小銭を置いたりお婆さんが托鉢かなにかと間違えて拝んだりしている。

「パレードの帰りだ」

 オレンジ色のつけひげをあごから外すと、セレクションでマカロンと呼ばれていた青年の顔があらわになった。

 駅からは北千住駅と同じ車だった。ただし乗っているのは杏木とやよいのみ。一緒だったあの子もこの子も残れなかったのか、そう思うとやよいは少し心が重くなった。

 東京というところは恐ろしく道路が混んでいるところである。それだけ目的地に着く時間が長いということである。

 そう言えば、自己紹介をしていなかった。

「うちは」

「藤原杏木と桜井やよい、だろ」

 驚いた。

「これから面倒を見るやつの顔と名前くらい覚えるよ。俺はマックアーロン修羅、葛飾プリンセーザのコーチだ」

「修羅って、まさか黒川修羅さん?」

 やよいがすっとんきょうな声を上げたので杏木の肩がびくっとうなった。

 改札を出たら緑色を探せ。

 雑にもほどがある待ち合わせのサインだったが、二人が改札を出る前に目に飛びこんできた。

 長身の上に山高帽までかぶっているので目立つことこの上ない。帽子もジャケットもハイソックスも緑、そしてタータンチェックのスカートまで緑色をあしらったものだった。腕には三本の管が伸びたバグパイプを抱えており、大道芸人と勘違いした者が足元に小銭を置いたりお婆さんが托鉢かなにかと間違えて拝んだりしている。

「パレードの帰りだ」

 オレンジ色のつけひげをあごから外すと、セレクションでマカロンと呼ばれていた青年の顔があらわになった。

 駅からは北千住駅と同じ車だった。ただし乗っているのは杏木とやよいのみ。一緒だったあの子もこの子も残れなかったのか、そう思うとやよいは少し心が重くなった。

 東京というところは恐ろしく道路が混んでいるところである。それだけ目的地に着く時間が長いということである。

 そう言えば、自己紹介をしていなかった。

「うちは」

「藤原杏木と桜井やよい、だろ」

 驚いた。

「これから面倒を見るやつの顔と名前くらい覚えるよ。俺はマックアーロン修羅、葛飾プリンセーザのコーチだ」

「修羅って、まさか黒川修羅さん?」

 やよいがすっとんきょうな声を上げたので杏木の肩がびくっとうなった。

 黒川修羅。

 葛飾クラブのトップチーム、葛飾インペラドールの若きディフェンスリーダー。

 アメリカ人の父と日本人の母の間に産まれ、小学生から葛飾クラブ一筋。高校生でインペラドールに昇格するとその年にレギュラーに定着していた。

 相手の足ごとにボールを刈り取る激しいタックル、攻守ともに存在感を示す長身を利したヘディング、冷静な読みと果敢な挑戦を併せ持ったインターセプト。何よりも左足から繰り出される強烈なキック。今まさに行われているアテネ五輪アジア予選に出場している二十三歳以外日本代表にも名を連ねていた、ごく最近まで。

「黒川はおふくろの名前だ。今は父方の姓を名乗ってる」

 黄金の左と呼ばれた左足でクラッチを踏み、ギアを一段上げる。七分丈にまくったジャケットから覗く腕は白くたくましい。

「でも黒川さん、いや、マカロンさん」

「どっちでもいいよ、俺は俺だ」

「あの、その、引退しはったんですか?」

 修羅の表情がにわかに曇った。やよいが口にしてしまったことを後悔する。

「事情があって、今は選手登録してない」

 すぐに気にしてないという風に答えが返ってきたが、わずかばかり声が上ずっている。

 川沿いに、ビール会社のビルが見えてきた。黒い社屋に、屋上にはビールの泡を模した金の炎と呼ばれるオブジェが乗せられたデザインだが、どう見ても・・・

「あ、うんこ」

 杏木が誰もが思っても口にしないことを言ってのけた。

 ビルの手前で車が折れる。吾妻橋が見えた。

 スピードを上げた車が、雨で水位が上がった隅田川の上を渡って行く。


「ええ加減にしいや」

 業を煮やすやよい。耳を貸さない杏木。

 杏木がこの世の終わりのようにうちひしがれたのは車が着いてからではない、江戸川を渡った瞬間からである。演歌にもなった矢切の渡し付近に建てられた橋のたもとにこう書かれた看板をみた瞬間からだ。

 千葉県、松戸市と。

「都内で五部屋ある一軒家がいくらすると思ってんだよ」

 未来のサッカー選手を志して葛飾クラブの下部組織に入団する子供は全国にいる。当然彼ら彼女らを迎え入れるクラブハウスがあり、食事も出される。

 ただ近年は女子選手が増え、女子寮が手狭になっている。特に今年は遠方からの入団者ばかりで部屋が足らずに一軒家を借り上げることになった。寮費と同じ金額で住める代わりに、物件の選択はクラブに一任された。

 白羽の矢が立ったのが千葉県の西の端、ベッドタウンとして名高い松戸市の5LDK。JRからも私鉄からも徒歩10分、しかし築35年の木造建築というそれなりに年季の入った物件。

 しかしその家そのものより、その庭に生い茂る鬱蒼とした樹々が否応なしに不安を駆り立てる。お化け屋敷。誰もがそれを連想するが、誰もそれを口にできない。

 完全にふてくされた杏木を車から引きずり出すと、家から人影がのそっと出てきた。が、足はちゃんとある。

「ま、古いんですけど、それなりに手入れをしてあるんで。庭もベランダも広いですし」

 生まれてから一度も日光浴をしてないような青白い肌にかなり度のきついレンズの入った眼鏡をかけた三十男がマッシュルームカットをなびかせながらぶつぶつつぶやく。

「これでみなさんですか?」

「いえ、あともう一人です」

 二人の同居人は、すでに家の中にいるらしい。

「小梅ちゃん、いてるかな」

 セレクションで自分にスパイクを貸してくれたこけしのような面立ちを思い出す。

「全員揃ったらクラブハウスに行くから、それまであいさつでもしとけ」

 玄関に靴は二つ。一つは外に向けてきっちり揃えられたスニーカー、もう一つは脱ぎ散らかされたとしか言いようがないバスケットシューズ。

「行くで」

 杏木の襟首を猫のようにつかんで、やよいが靴を脱ぎ捨てた。

「トウモロコシ!」

 黒光りする肌にコーンローヘア、朱鷺色のジャージ。あの時と全く同じ姿だった。

「おいすー」

 オレンジのジャージをまとった柳沢マナがソファーベッドの上で気さくに手を上げた。

 一瞬のスピード、独特のリズム感、ボールを奪う抜群のリーチは優等生だらけの中でも一際目立っていたから順当だろう。

柳沢真夏マナさんだよね。うちは桜井やよい」

「藤原杏木」

 部屋は五つで、一人がまだ来てないと言っていた。

「もう一人はどこですか、寮母さん」

「寮母じゃねえよ」

 眼鏡をかけた長身の女性が声を荒げる。服装こそ上下ともに白のスウェットだが、セレクションのアシスタントをしていた、あの女性であることにやよいがようやく気づく。

「・・・楓瑞穂」

 杏木だった。

「なんや、やっぱ知り合いなん?」

「知らないよ、そんな男の子」

 くっくっと笑いながら、特徴的な鷲鼻の眼鏡をずり上げる。

「あんたらとおんなじ新中学生だよ」

 老けてる、という声をぐっと飲みこむやよい。

「セミナリオからの昇格だからセレクションはないんだ」

 セミナリオとはポルトガル語で学校。葛飾クラブは一都三県に小学生のチームをいくつも持っており、優秀な者はセレクションなしでユースに引き上げられる。今年度の内部昇格者の中で女子は彼女一人であった。

「あと一人、まだ来てないって言ってたけど」

「ああ、さっき帰ってきたよ」

 でも靴が玄関にはなかった。

「靴は自分の部屋に持って行くんだ。誰も取らないって、あんなぼろ靴」

 けらけらと笑う真夏に、あきれたように目を伏せる瑞穂。

 どかっ、という音とともに奥の部屋の扉が開いた。

 真っ先に目に飛びこんだのがトリマーで刈ったとおぼしきスキンヘッド。サングラスにマスク、黒ずくめのいかついシルエットが近づくと、ゾンビを追ってきたハンターが迫ってくるようで緊迫感が走った。

 サングラスを外すと充血した三白眼のつり目が表れる。カミソリのような鋭い目つきが周りを威圧してくる。杏木の位置からは、潰れた餃子のような右の耳が見えた。

「あ」

 その殺気だった表情をやよいは忘れていなかった。

 二回目の一次セレクションだった。前回しくじった教訓を活かして、とにかくこいつと組んだら自分も高いところまで行けるだろうと感じる「相方」を探した。

 一人だけいた。ベリーショートの髪に死んだ魚の目。こいつだ、と直感した。

 そのコバンザメに徹してパスを出すと恐ろしい勢いでゴールを決めまくった。速く走ったり高く飛んだりできるだけではない、ボールに対する執着がすさまじかった。何度もゴールをしようと、ネットにからまったボールを拾うとセンターサークルに走った。ボールだけでなく敵、時として味方まで蹴飛ばして押し退ける。

 しかしその姿は二次セレクションにはなかった。あまりにもエゴイズムが強すぎる点がいけなかったのか、と思いきや。

「こいつは一次のみで合格したんだ、オーナーの鶴の一声で」

「ああ、あの散らかしてはる人」

 深雪と呼ばれた彼女がぎろっとにらんだ。つかつかとこちらに寄ってくると、ひっと言う声をあげそうになる。

 次の瞬間、猛烈な勢いでくしゃみを連発した。花粉症らしい。


「しかし松戸、て」

 減らず口を叩くだけの元気が戻ってきたのか、車内で杏木がぼやく。

「なんなら埼玉のほうが良かったか? 上葛飾橋を越えたら三郷だ。中坊がメットかぶって、芋ジャー着て、チャリで通学してるぞ」

 修羅の言葉に身震いする杏木。

「県民かぁ、千葉県民かぁ」

 元府民のぼやきは止まらない。どんな辛さでも耐える覚悟はしていたが、こんな覚悟は想像だにしていなかった。

「でも松戸って何がありますのん?」

 やよいはもうちょっと違った角度でものが見れる。

「二十世紀梨とか有名だな」

「有名人は?」

 短く刈り上げたオレンジ色の髪をかきむしる横で、眼鏡の彼女が携帯電話を取り出し、「i」と書かれたロゴボタンを押す。

「瑞穂、またパケ代で死ぬぞ」

 ボタン操作して数十秒。

「・・・阿部サダヲ」

 やよいが思わず吹き出す。

「誰なんそれ?」

「池袋とか木更津のドラマに出てる、やたらテンションの高い人」

 後ろを振り返りながら説明する楓瑞穂の姿にマナが目をみはる。

 江戸川の川面に反射する夕日に透けたその髪はブロンドで、瞳はアイスブルーだった。家にいた時は普通の色だったのに。

「夜明け前と夕暮れ時、太陽が低い場所にある時だけ目や髪の色が変わって見えるんだ」

 長い髪を指ですきながら、もう何べんも繰り返したであろう説明をしてから前を向く。

「松戸なぁ。松戸まつどマツド・・・」

 杏木が呪文のように繰り返している間に、車がクラブハウスに着いた。面接の時に一度訪れてるから、勝手知ったる場所と言っていい。

「松田、先に降りてアフロさん呼んできてくれ」

 坊主の彼女が無反応のまま外に飛び出す。花粉を恐れてか、ダッシュでクラブハウスに消えた。

「マツド?」

「松田、あいつの名前だよ」

 オチとしては非の打ち所がないが、さんざん自分の名前と一字違いの土地をネタにされた彼女はどんな思いで一連の戯言を聞いていたのだろうか。


 静まり返った一室に三列に並んだ長机に二つずつの椅子。

「失礼!」

 静寂を破るハスキーボイス。人物がセレクションでアフロさんと呼ばれていた女性であるのは、その雷雲のような髪型で瞬時に判別できた。手にした書類に目を走らせ、顔写真と目の前の人間とを一人ずつ組み合わせてゆく。

「桜井やよい! 柳沢真夏!」

低く、太く、何よりも大きな声が狭い部屋いっぱいに響き渡る。

「松田深雪! 藤原アンコ!」

「アキです」

「失礼! 藤原アキ!」

 アンズに木の葉のコ。読めなくはないが、そんな名前をつける親もいなかろう。そして坊主頭の少女はカミソリのような目をこすりながらうなずいた。

「楓瑞穂! 山路果子かこ!」

 後列の二人、眼鏡の女ではなく少女と、もう一人。

「うぃーす」

 緊張感のかけらもない返事。以前見たときよりさらに背が伸びて、180センチにならんとしていた。花冷えのする夜だというに、タンクトップに短パン。

「以上六名、葛飾プリンセーザ13期生として入団を認めます! 本来ならばオーナーの佐藤から話をすべきところですが不在ですので、監督の菅原真澄より話します! 私のことはテクニコと呼ぶように!」

 怒ってるわけではなく、地声がでかいだけだとようやく一同が気づいた頃なので、そろそろ無駄に多い!マークも省略する。

「話は三つだけ。あなたたちの目的、禁止事項、そしてなぜあなたたちが選ばれたか」

 かっと目を見開くアフロヘアの菅原監督。

「あなたたちの目的は葛飾クラブ女子のトップチーム、ハイーニャへ昇格すること。ですがそれを果たせるのは毎年一人か二人であることをまず知っておいてください。そしてもし昇格を果たせてもプロのサッカー選手にはなれません。なぜならこの国で女がサッカーで食っていけるのは夢のまた夢だからです」

 今にも降りだしそうな空がゴロゴロと鳴り出す、そんな口調で続けられる。

「私はあなたたちを子供扱いはしません。自立しなさい、自分の足で歩きなさい」

 全員が黙々とうなずく。メモを取るのさえ忘れるほどに。

 稲光のような筆跡がホワイトボードに刻まれる。右上がりに殴り書きした文字は。

「禁酒! 禁煙! 禁男!」

 ルールはこれだけです、と続ける。

「酒やタバコは論外ですが、最後のこれだけ説明します」

 そう言ってかつかつとマジックで示すのは、男の文字。

「女子選手がつまずきやすいのは、圧倒的にこれです。そしてその場合痛い目を見るのは女のほうなんです。不公平な話ですが」

 瑞穂が重いため息をつく。

「先生! 徹マンはダメですか?」

 バナナはおやつに入りますか、のノリで手を挙げる山路。徹夜で漫画でも描くんか、と小声で聞いた杏木に徹夜マージャンやろとやよいが返した。

「別にマージャンは禁止してないけど、夜遊びしながら続けられるような生易しい環境ではないとだけ言っておきます。それからあたしは先生じゃない。監督、またはテクニコと呼びなさい」

 手を下ろす山路を一瞥し、釘を刺すように菅原が続ける。

「最後は、なぜあなたがたが今ここにいるか。選んだ私の口から教えます」

 胸いっぱいに空気を吸いこむと、アフロヘアが大きくふくらんでゆくように見えた。

「あなたたちには、他になにもないからです」

 稲光を受けたようなショック。やよいの手からシャーペンが落ちた。

「サッカーを続ける環境がなかったり、地元に居場所がなくなったり、上京する必要に迫られたりしたからうちを受けた。才能があったのはたまたまです。そして、あなたたちくらいの才能の持ち主ならいくらでもゴロゴロしてるのがプリンセーザです」

 真夏はすでに涙目になっていた。

「これからあなたたちは、セレクションに落ちていたらと何度も後悔するでしょう。でも今座ってる席は、あなたたちの何十倍ものの女の子が座りたかった席であることを忘れないでください。そして、今この場にいる全員の顔を見てください。一人残らず」

 そう言われ、六人が左右に首を振る。

「ここにいるのがあなたたちの仲間です。心を許しあう友達ではありません。しかし蹴落としあう敵でもありません。生きるも死ぬも、一蓮托生です。以上」


 嵐が去り、うちひしがれた六人だけが取り残された。

「なにもない、やて」

 やよいが開いた口がふさがらない。

「新潟帰りたい・・・」

 真夏の顔が青ざめている。

「アフロさん、別人みたいだった」

 瑞穂がずり落ちた眼鏡を直そうともしない。

「ま、最初に甘いこと言われるよりましだ」

 深雪が気だるげに耳を掘る。

「甘いもん食いたくね? ゴマ団子とか、杏仁豆腐とか」

 山路が思いきり空気の読めないことを言い出した。が、人間は極度のストレスにさらされると血糖値が下がる。その場から立ち上がる気力がわき上がらなかった。

「ゴマ団子やないけど」

 杏木がずっと伏せていた目を上げ、風呂敷包みを解き始めた。

「ケスクセ?」

 しげしげと目の前の桃色の物体を眺める真夏。

「桜餅やけど」

「桜餅って、こう、生地がグレープみたいにぺらぺらしてて」

 瑞穂がうなずく。目の前にあるのは餅米を丸めたもので、もち米を完全には潰しきってないので粒々が浮かんで見える。文字通り桜色の本体や、それを包む桜の葉っぱは同じなのだが。

「半殺し」

 坊主頭の松田深雪がぼそっとつぶやき、そのジャックナイフのような視線を杏木にぶつけてくる。止めな、と思いながらもやよいは隣のマナにしがみつくしかできない。

「・・・よう知ってはるなぁ」

 杏木が深雪の肩に手を置いた。

「入るぞ」

 炎のような赤毛が目に入った瞬間、助かったとやよいは安堵した。

「オーナーからだ。こないだの椿餅のお礼だって」

 ジャージに着替えた修羅が紙袋に入った箱を取り出す。

「これこれ、これが桜餅だよ」

 小麦粉を薄くのばして餡をくるんだ、真夏や瑞穂が知っている桜餅がそこにあった。

 今度は杏木とやよいがいぶかしげに首をかしげる番だった。特に杏木は穴が開くほど箱を見つめて、一言。

「東京にも和菓子ってあるんや」

「なんや雷様みたいやったな、建仁寺の」

 杏木が桜色から小豆が覗くそれを口に運ぶ。薄い生地はさっくりと歯を通し、まずは濃厚な餡の甘みが口いっぱいに広がり、次いで塩漬けにした桜の葉の香りが鼻を抜けた。甘味も塩気も強く、いかにも江戸っ子が好みそうなメリハリが効いていた。

 墨田区向島の長命寺の境内であまりに桜の葉っぱが降り積もるのでその処分に困り、塩漬けにして薄い生地に餡を巻いて売り出したところ大変な売れ行きになったのがざっと三百年前、江戸時代中期のこと。

「超泣きそうだったんだけど」

 山路が丸々としたシルエットを一思いに頬張る。もち米、しかも米の形を残すそれはぬちっという歯ごたえがする。何度も噛みしめるうちにその食感が消えて餡の、そして米の甘みがじわじわとしみだす。味わいは関東風のそれよりずっとまろやかだ。

 時は平安、学問の神様菅原道真のおばにあたる尼僧が仏に仕えていたのが大阪府藤井寺市にある道明寺。ここで作られたのが蒸したもち米を天日で乾燥させ臼で粗びきしたほしい。戦国時代には兵糧として重宝されたこれを発祥地から道明寺粉と呼び、それを使う桜餅は桜道明寺とも呼ばれる。

「地元、もう咲いてる?」

 隅田公園の桜が三分咲きだったのを思い出す瑞穂。

「ソメイヨシノが満開やった」

 やよいが誇らしげに鼻の穴をふくらませる。

「まだ道に雪が残ってるよー」

 マ真夏は両手にした餅をテイスティングするようにちまちまと食べ比べる。

「・・・もう、葉桜かな」

 深雪の食べ方は豪快で、赤飯の握り飯のようにむしゃむしゃと食らう。鼻が詰まっていてその淡い風味を味わうことができないのだ。

 なぜ国の花でもない桜が日本の象徴のように扱われているか、決定的な資料はない。

 ただ春は別れと出会いの季節である。初対面の人間といきなりこみ入った話はできないだろう。

 無難で、誰もが参加できる話題。

 それにはやはり、桜の花しかないだろう。

 桜餅は材料に桜の葉を用いているから生菓子ではあっても上生菓子ではない。

 そして形も味わいも関東風の長命寺、関西風の道明寺でまるで違う。

 だからこそたくさんの人に親しまれてもいる。花を愛でる気持ちに東西の差はない。

「なんや、いろんな人がいてるなぁ」

 しみじみと、杏木がつぶやいた。

「けどこれからあそこに帰るん、いややな」

 桜餅がきれいになくなり、そろそろみんな眠くなってきた頃だ。

「なんで」

「出そうやん」

 ぶらりと下げた両手で幽霊を表現するやよい。

「神様とか霊魂とか、資本主義国家の産み出した幻想だ」

 腕組みしながらあくびをする山路。

「そうでもねえぞ」

 甘いものが苦手でずっと場を外していた修羅が車のキーを指で回しながら戻ってきた。

「お化けですね。千スタの」

 瑞穂の一言に、場が凍りつく。

「・・・出るん?」

 出た、いや、あっと言うべきか。

「お化け煙突って知ってるか? 千住スタジアムは火力発電所の跡地に作られたんだよ」

「マンガで読んだ。こち亀とか、三丁目の夕日とか」

 真夏がすっと右手を挙げた。

 千住火力発電所は元号が大正から昭和に変わる年に建てられた。そのシンボルがボイラーから噴き出す煙を吐き出すために立てられた煙突だった。高さ83メートル、他に高いビルやマンションのない下町にそびえ立つシルエットは、長らくそのランドマークであったという。

「こいつがな、見る場所によって増えたり減ったりしたんだよ」

 さも見てきたように続ける修羅。

「荒川から見ると三本、隅田川にかかる橋から見ると四本。千住桜木の人は二本だって言うし、一本に見えたって言い張る人までいたって」

「なんでですのん?」

「さあな、俺も見たことない。東京オリンピックの年に取り壊されて、跡形もなく消えちまったって話だからな」

「ああ、それでお化け煙突」

 ぽつりとつぶやく杏木。どう反応していいかわからずに静まり返る。スが入る、というやつだ。



 蹴鞠少女はひとりではない。

 この表題について語るべき時は来たり。


 大きなラップ音にやよいの眠りは妨げられた。

 くじ引きでやよいが割り当てられたのは二回の北向きの部屋。狭いが生活音が天井から聞こえる一階よりはましだった。昨晩一睡もできなかったこともあり真新しい布団の上に早々に飛びこんだはいいが、暗闇の中で深いため息をつく。時計を見た。午前二時。

「堪忍してえな」

 そうつぶやいて頭から布団をかぶるが、その音は何度も規則的に鳴った。いくら年代物の物件とはいえ、これは尋常ではない。

 しばらく耳を澄ましていると、音だけではないのに気づいた。屋根が、壁が、木造の家そのものが揺れているのだ。

 まさか、本当に。

 パジャマの上にカーディガンを羽織り、部屋を飛び出した。電灯もつけない廊下に大きな桃が見えた。ネグリジェ姿の真夏の大きなお尻であった。

 さらに近づくと昼と同じスウェットの瑞穂、ランニングにボクサーパンツの深雪も見えた。全員こちらに向けて背中を向けているのでやよいには気づかない。ただ事ではないが小さな体を利して二人の間を抜けるしかない。

「・・・!」

 絶叫は、辛うじて瑞穂の手によって止められた。

 月光の下、人影が一つ。

 ベランダで、着物を着て、裸足でいびつな球を蹴り上げている。

 ただしその左足はベランダの床から1メートルほどの高さにある手すりの上にあり、球を蹴り上げるたびに少しずつ前身している。右足はずっと上げたままなので、その瞬間体は宙に浮く。そして着地のたび大音がして、家全体が揺さぶられるのだ。

 無理矢理口を塞がれた理由がやよいにもようやくわかった。もし声をかけてこちらに意識が向いたら、左足を外側に踏み外したら5メートル下の庭に叩きつけられる。

 百歩譲って、それだけならまだ自分を追いこむためのトレーニングと言えなくもない。

 それが正気の沙汰ではないのは、顔が足元ではなく、満月のほうを見上げているから。

 月に向かって狼のように吠えながら鞠を蹴り上げ、拳ほどの幅しかない手すりの上をを飛んでいるのだ。弁慶のいない牛若丸のように。


「うっさいわ! 気ぃ散るから黙っとき!」

 杏木の世界にこの者が降りてきてから、もうすぐ三年が経つ。

「いいえ、黙りませぬぞ」

 甲高い声を鈴のように転がしながら、月光のように輝く扇で隠した口元に紅を引き、わずかに覗く歯は黒く染められている。

 丸眉、狐のような目、白粉で塗った下膨れの輪郭。杏木と似た面立ちの男はする墨色の水干と烏帽子。

 いわゆる、麿である。

「杏木様、背が丸うございます」

「アリ!」

 杏木の背後、緋色の直垂の禿が諭すと、背筋をピンと伸ばして上げる。

かいなが低うございます」

「ヤカ!」

 杏木の右手、萌木色の直垂の禿が諭すと、両腕でバランスを取って上げる。

「まなこが鞠を離れてございます」

「オウ!」

 杏木の左手、卯の花色の直垂の禿が諭すと、鞠を穴が空くほどにらみながら上げる。

 幼児ほどの背丈、肩にかかる高さで揃えた髪、卵に目鼻を描いたような顔。

 そして裾から覗く、猿のように毛むくじゃらな小さな手足。

 まとった直垂の色以外でこの三人を見分けることが未だにできない。

 緋色が夏安林げあんりん萌木色が春揚花しゅんようか卯の花色が秋園しゅうおん。麿がそれぞれアリ、ヤカ、オウと呼んでいる鞠の精たちである。

 杏木が鞠ではなくボールを蹴るとき、この三人は木陰で休んでいる。サッカーグラウンドの場合はゴールマウスやコーナーフラッグにもたれながら。

 それゆえか、杏木が蹴ったボールはポストやバーに当たってゴールに入ったり、ピッチに出そうなところをフラッグに当たって戻ってきたりすることが多い、気がする。


 そして杏木の正面に立つ、いや、浮かぶ人物である。

 165センチの杏木と比べても頭半分は大きく、それが烏帽子をかぶっている。

 そして鴨沓を履いた足は手すりからわずかばかり上で浮いている。それが上から指図をしてくるので鬱陶しいことこの上ない。三人の禿に至っては杏木や麿の周りを俊敏な動きで飛び回っており、愛らしい顔とけだものの体をあいまって、この世のものではない雰囲気を否応なしに高めているが、杏木にとっては見慣れた風景だ。

「学ぶ者は牛毛の如く成る者は麒角の如しと申しまする。皆が寝静まる丑三つ時こそ他者を蹴落とすにはうってつけでありましょう」

「うちは寝たいんや、ご先祖はん」

 ぶつくさ言いつつも足は勝手に鞠を上げ、手すりの上を滑るように動く。

「そうは参りませぬ」

 麿は扇を閉じ、黒衣の裾を烏のように翻す。

「そなたはいやしくもこの鞠聖まりのひぢりと呼ばれし成通の末裔、末法の世に今一度鞠を栄えさせるさだめにござりまする。口ごたえするいとまがありましたら鞠に勤しみませい」

 脳天から突き抜けるような声もろとも見下してくる麿。名を藤原成通。

 大納言にまで成った公卿にして、あらゆる芸事に通じた趣味人。

 中でも蹴鞠の技は鞠聖、蹴聖と呼ばれるほどのもの。台盤の上で音もせず鞠を蹴っても音一つしなかった、蹴った鞠が雲の上から落ちてこなかった、蹴りながら侍の肩のや坊主の頭を気づかれずに飛び渡った、尋常ではない逸話が様々な文献に登場する。

 中でも有名なのは父について清水寺に行き、参拝を待つ間、暇をもて余して下が崖になった舞台の欄干に飛び乗り、鞠を蹴りながら右から左、左から右に渡り歩いたという話。これが清水寺に切り立った舞台が存在したのを記した最古の記録である。

 今杏木がやらされているのは、まさしくそれである。

「だから蹴っとるやないか、大納言小豆」

 腹立ちまみれに、その鞠を憎々しげな顔に蹴り上げた。しかし鞠は白い顔をすり抜ける。ほほ、と口元を隠す男の足元にも、杏木を囲む禿たちの足元にも影はない。

 月の下、唯一動く影があわてて鞠を追う。足元が金属製の欄干であることも忘れて。

 生身の体を持つ人の子の足が手すりを外側に踏み外す。とっさに伸びた右手が延び放題になっていた枝振りのいい幹をつかんだ。

 めきめきという音とともに折れた幹もろとも落ち、庭に派手に尻餅をついた。和菓子屋の令嬢といえど、この餅ばかりはいただけない。


「死ぬか思たわ!」

 腰をさすりながら笑えない冗談に、やよいが噴き出した。

 笑いと恐怖は構造的に酷似しているという。その感情が臨界を超えると感情が爆発して声が出る。爆笑と悲鳴の違いはあれど、端から見れば気が触れたとしか思えない杏木の振る舞いに、恐怖が笑い声となってこみ上げたのだ。

 千住スタジアムのある位置に立てられていた煙突のようにのぼーっと突っ立っていた四人は、それを合図に、ようやくアクションを起こすきっかけを得たのである。

「どうする?」

「ほっとくしかないでしょ」

 四人の目には黒衣の男も、顔が子供で体が猿の三人の禿も映ってないのだ。ただ杏木が一人で手すりの上でリフティングをしてるうちに足を踏み外して庭に落ち、独り言を叫んだ。それが全てである。

 彼女に言えることがあるとすれば、深夜のリフティングが近所迷惑だからやめろ、くらいしかない。

「いろんな人がいてる、か」

 やよいが先ほどの杏木の言葉を反復する。

「あんたに言われたないわ」

 三人が、首がもげるほど縦に振った。


 蹴鞠少女はひとりではない。

 鞠聖が憑いているのだから。




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