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蹴鞠少女はひとりではない   作者: みつたけたつみ
3/11

椿餅

「ぼーん・・・ぼーん」

 週の真ん中だというのに、銀色に光る常磐線の下り列車は閑散としていた。

 ちょうど三河島を過ぎたところで、左手に見えるひどくだだっ広い青空と柔らかな朝日の下には隅田川が流れているが、そちらに目をやる者はこの車輌にいない。

 乗客は五人。優先席には哺乳瓶をくわえるのに必死な一歳にも満たない赤子、それをスリングで結わえた母親はどこか疲れながらも慈愛に満ちた眼差しを注いでいる。はす向かいに両足を床に投げ出しギターケースを枕にいびきをかく革ジャンの男。

 その同じ並び、列車の進行方向の一番端に座る客は「月刊 和菓子」と書かれた大判の雑誌に顔を埋めていた。

 あとはすべて空席の車輌で、一人だけ立っている人影がある。右手につり革、左手にマジソンバッグ。

 若草色のジャージに身を包み、両側で結った髪の毛を左右に立て赤いリボンで結わえた少女である。小柄でやせ形、全体的にあっさりとしていた顔立ちで、眉を細くアーチ状に整えているのが特徴的。

 座らないその理由はその足元を見ればすぐわかる。リフティングしているのだ。ただし蹴っているのはボールではなく丸めた靴下である。球とはいえない、形容しがたいいびつなそれを爪先だけで浮かせている。列車が線路の継ぎ目を通る際の揺れもそらに与える影響は皆無と言ってよかった。

「ぼーん・・・ぼーん」

 彼女の人生における最重要課題は、いかにして暇を潰すことだった。しかも、できるだけさりげなく。

 この子の仕事は、ひたすら「待つ」ことだったからである。スタジオに向かう列車の中、スタジオで呼ばれるまでの間、そして仕事が終わって家に向かう列車の中。有り余る時間をどうやり過ごすか、物心ついた時からそれは彼女の宿命だった。

 学校から出される宿題の量もたかが知れているし、マンガを含めて読書もあまり好きではない。かと言ってゲームなんかしてた日には年配の演者の機嫌を損ねる恐れがある。愛くるしい容姿に恵まれた彼女の商売道具は、そのイメージに他ならなかった。

 結果として、彼女の選んだ「教養」は、リュックサックから白いコードを伸びるイヤホンを耳に、さもたまたまそこにあったから丸めてボールにしてみましたよという体で軍手リフティングをすることだった。

 列車が急カーブを描いて左に折れた。爪先から軍手がぽろりと落ちる。隅田川駅を通過したのだ。隅田川駅は駅とはいっても乗客ではなく貨物を乗せるためのものである。

 列車は再び直進するも、落ちた軍手は慣性の法則に従って左へと転がり、くたびれはてた運動靴に当たって止まった。

「サクラ?」

「アズキ!」

 京紫のジャージの少女が細い目を雑誌の上から覗かせ、若草色のジャージの少女がイヤホンを外した。

 列車は南千住駅を出発、隅田川を渡る千住大橋にさしかかる。

「ここで会うたが百年目やな」

「地獄に仏くらいにしときいや」

 サクラ、と呼ばれた小柄な少女は杏木の隣に腰をおろし、しゅっとした顔立ちの口元に手をやる。あんまり近くにおらんでほしい、と杏木は自分の顔の大きさを気にする。

 関西で大会があると必ず顔を合わせた相手だ。どちらも少年チームの紅一点だったので、試合ではマッチアップする機会が多かった。

 お互い、男にコンタクトされるのは嫌だったから。

「なんやねん、その頭。奈良公園の鹿かい」

「目立たな」

 そう言って逆立てた髪をいらう。

「でもアズキ、あんたこそなんでここにおんねん」

 奈良の少女は京都の少女をそう呼ぶ。杏の木でアズキ、らしい。

「だってあんた」

『次は北千住、きたせんじゅ』

 車内アナウンスがあった。

「ここで降りるんちゃうん?」

「メイビー」

一足先に開くドアの前に進むやよい。風呂敷包みを手にした杏木の頭の高さにリボンがある。改札をくぐると左右を見回す。

「セレクションの人かな?」

 長身で筋肉質、あごにうっすらとひげをたくわえたいかつい男に声をかけられた。カールした短いオレンジの髪、白いそばかすだらけの顔、エメラルドグリーンの瞳。チェックのネルシャツをラフに着こなしていているが、下はジャージである。

「はい、大和若草FCの桜井やよいです」

 そう言って45度に会釈し、顔を上げると満面の笑みを浮かべる。一切非の打ち所のない振る舞いで、百点満点の第一印象を与える。

 やよいは、女優である。

「そっちは?」

「藤原杏木」

 やよいのそれに比べると事務的だ。男はくしゃくしゃに丸めた名簿から二人の名前を見つけると、左手に持ったボールペンで○をつけた。

 モータープールにマイクロバスが止まっていて、ネルシャツ男がそのドアを開ける。

 電線に止まった雀のように、同じ年頃の女子ばかりがぎゅうぎゅう詰めになっている。二人と同じように色とりどりのジャージに袖を通し、一様に黙っている。

 昨日の友は、今日の敵。杏木とやよいも同じように口を閉じた。

「じゃ、行くぞ」

 ネルシャツが運転席に飛び乗り、ハンドルを握ると動き出した。戦場へ向かって。

バスが最初の突き当たりを右に折れると拍子抜けするくらい早くその全容があらわになった。まだ1キロちょっとしか走ってないというのに。

 手前に隅田川、右手に荒川。バスのドアが開くと川からの風が車内に吹きこむ。何も言わず、前の者から社外に出る。

「アズキ、行くで」

 真っ先に降りたやよいが急かす。運転席の男と何やら言葉を交わしている。とっくに他の子達が降りてから、ようやく、タラップを降りた。

 奴隷や猛獣に殺しあいをさせたコロシアムさながらに彼女たちの前にそびえ立つ円形の建築物は鈍色で、唯一明るく輝く出入口から彼女たちを次々と飲み込んでゆく。

 杏木もやよいも、他の少女も、一言も発せず黙々とその門を潜る。

 薄暗く、冷たく、かび臭い一本道を潜り終えると一気に明るくなった。

 目の前に広がるのは、四方を座席に囲まれたスタジアムである。天然芝のピッチに電光掲示板しかないシンプルな作りではある。特徴的なのはピッチの周りにトラックや砂場といった陸上競技場としての施設がないことだ。屋根もないが、その分太陽の光がふんだんに降り注ぐ。

 都立千住スタジアム。

 冬芝が青々と茂るピッチの中では、すでに同年代と思われる少女たちがにアップしている。服装も、体の大きさも、みんなバラバラだ。

「あれ、おらんな」

 その群れを見たやよいがつぶやく、

「これで全員です、アフロさん」

「テクニコ、な」

 きっとにらんだのはアフロヘアを風にたなびかせた三十代の女性だった。ただでさえ長身なのが引力に逆らう縮れ毛のせいでさらに大きく見え、その顔は黒く日に焼けている。

「一人少ないはずだけど」

 ここまで杏木たちを運んできた男が右手の風呂敷包みをあわてて利き手に持ち替え、空いた手をつっこんだ右のポケットからくしゃくしゃの紙を取り出す。確かに一人だけ、名簿に○がない。

「一次通ったの、二十人でしたよね」

「一人追加したんだ。で、別の一人が遅刻するって電話があった」

 ああ、と言って男が碧眼を伏せる。

「始めますか?」

 ネルシャツやアフロと同じ紫のジャージをまとった女が尋ねた。髪は長く、眼鏡をかけている。

 その女を見た杏木が、誰にも聞こえないように舌打ちしたのをやよいは見逃さない。

 当たり前のことを聞くな、と言わんばかりにアフロヘアが顔を上げる。ひとかたまりになった二十人を値踏みするようにしてから、声高らかに宣言した。

「これより葛飾クラブ女子ユース、葛飾プリンセーザの二次セレクションを始めます」

 2月11日。冬空の下、日本各地より足自慢の少女たちが集った。


 日本のサッカーは一貫してヨーロッパのそれを模倣してきた。

 明治維新とともにフットボールの母国、英国の海軍がサッカーを伝える。軍隊は女王陛下の持ち物だからそのサッカーはロングボールにヘディングを合わせるイングランド式。そこにショートパスをつないで攻めるスコットランド式のスタイルが留学生によって大学サッカー界にもたらされる。

 戦後は旧西ドイツから指導者を招へいし、その提案により全国サッカーリーグが誕生。日本代表チームの監督をつとめるのもオランダ、フランス、旧ユーゴスラビア、イタリアといったヨーロッパ出身の監督がほとんどである。

 葛飾クラブは、その日本サッカーの潮流から大きく外れたところから産まれた異端児である。

 高度経済性長期に南米、特にブラジルからの出稼ぎ労働者が多く住み着いたのが家賃の安い下町だった。平日は工場などで働くが、休日にはやることがない。彼らの目の前には河川敷が大きく広がっていた。

 自然とボールを蹴り始めた。やがてチームを作りゲームをしようとなった。メンバーの一人が勤めていた縫製工場から、不人気で大量に在庫のあった紫色の布地をタダ同然の値で仕入れ、ユニフォームを作った。葛飾クラブの誕生である。

 華麗なテクニック、踊るようなリズム、汚く勝つことを厭わないマリーシア(ずる賢さ)。アウトサイダーと呼ばれたチームは、全国リーグに参加し日本人主体になっても南米の香りを失わないままメインストリームに飛び出した。

 その葛飾クラブの二枚看板が、環境と育成である。

 ホームグラウンドである都立千住スタジアム、通称千スタは東京オリンピックの直後に建てられた、当時としては画期的な球技に特化した競技場だ。野球ならネット裏、相撲なら砂かぶりが一番面白い。邪魔なトラックのない千スタは、狭いながらも臨場感あふれるスタジアムとして愛されていた。

 そしてそれ以外の練習は、隅田川や荒川の河川敷で行われた。芝のピッチのように整えられておらず、ちまちまつないでいたらどんなイレギュラーをするか分からない。だからパスよりドリブル、ゴールが見えたら即シュート。見ている分にも面白いサッカーが定着した。

 そして高校や大学から有望な選手をスカウトするのが当然だった時代に、葛飾クラブはユースチームを作り、自前で選手を育てた。その方が安くあがるし、選手がステップアップすれば移籍金も取れる。ブラジルの道や空き地よろしく、子供たちの練習に大人が混じり、文字通り大人げなくボールを追った。

 その輪の中に女性の姿が見えるようになったのは男女雇用機会均等法が施行された頃のこと。大の男が女相手に容赦しないのが葛飾クラブの流儀である。その中で揉まれた彼女たちは必然的に強くなり、十一人集まったところで独立した。

 男子チームと区別する意味で、このチームには愛称があった。ハイーニャ、ポルトガル語で女王。なんとも傲岸不遜なネーミングではあるが、この葛飾ハイーニャは今日に至るまで日本の女子サッカー界に君臨し続けている。名は体を現す、である。

 育成を是とするのが葛飾クラブである。特に女子サッカーの育成年代の指導者が少ない日本にあって才能ある少女たちが育つ環境を整えるのは火急であった。

 名前はすぐに決まった。女王の座を狙う者、王女、プリンセーザ。


「やってもうた」

 マジソンバッグを探っていたやよいが叫ぶ。それまで決して大口を開けなかったので気づかれなかった出っ歯が白日のもとにさらされる。

「スパイクないわ」

「うちらごとき、スニーカーで十分やろ」

 杏木が息を吐くように毒を吐く。京都人の真髄である嫌味に構う余裕もないやよいに、同じような背丈のマッシュルームカットの少女がおずおずと寄ってくる。色白の顔に真っ赤な頬、こけしのようだとやよいは思った。

「これ、もしよかったら」

 彼女が差し出したのはスパイクの裏のスタッドが取り換え式になっているものだった。ピッチがぬかるんでる場合などに使われるタイプのもので、多少重いが、履いてみるとサイズもぴったり。あわてて口元を手で隠し、微笑むやよい。

「あんた、テレビ出てっよね? 夏に見かけて、うまいなーと思ってた子が出ててもっとびっくりしたよ。二足のわらじってのか? おらびっくりだ」

「おら、二本松小梅。みんなにはウメコって呼ばれてるだ」

 思わず出てしまったなまりに、頬がリンゴより赤く染まった。

 かたや、杏木は眼前にそびえ立つ山を見上げていた。ここは海抜ゼロメートル地帯。

 でかい。他と頭二つは違う。先ほど舌打ちしてやった眼鏡女よりもなお5センチは高い。

 真っ赤な無地の半袖に黒いトラウザース、手には真新しいキーパーグローブ。おでこが大きく前に突き出した顔立ちはゴリラのそれを連想させた。

「カーンや」

ドイツ代表ゴールキーパー、日韓ワールドカップMVP、当時世界最高峰の守護神。オリバー・カーンに瓜二つだった。

「なぁ、あんたほんまに六年なん?」

 杏木の問いは大きく首を振って否定される。

「あかんやん」

 葛飾プリンセーザは新中学生以外の受験を認めていない、のだが。

「キーパーだったら受けさせてくれるって言われたかんな」

 山が揺れ、地鳴りがした。

「あんたこそそのボール、イカすじゃん」

「ボールやのうて鞠です」

 ぐわはっ、と笑うと山が揺れたようだった。

やよいは芝の上で脚を開き、さらに上体を倒す。両足と上体とが垂直になる柔軟さは幼い頃バレエを習っていた賜物だ。

 バレエだけではない。ピアノにバイオリン、ヒップホップ。芸の肥やしになると思えば親は何でもやらせてくれた。

 サッカーもあくまでその一つに過ぎなかった。サッカーをやってる女の子って周りにはいないし、オーディションでサッカーやってますと言うと審査員が食いついてくる。だから形だけでも続けていた。

 けど中学生になれば、女子がサッカーを続けられる環境は極端に少なくなる。

 まず女子サッカー部のある中学校がほとんどない。男子とサッカーするのは体力的にも精神的にも難しくなる。女子のクラブチームで大人に混じってプレーしたいとまでは思わなかった。

 葛飾プリンセーザの存在を知ったのは六年生になってから。夏休みを利用して、記念受験のつもりで受けた。

 衝撃だった。まず三十人くらいだとたかをくくってたらその倍はいる。しかもみんな速くてうまい。気圧されたやよいはトウモロコシのひげみたいな髪型の子にマークされ、その黒く長い足でことごとくボールを奪われた。

 一度ぐしゃぐしゃに丸めた不合格通知に秋のセレクションの知らせが同封されていた。

 他の習い事を全てやめ、サッカーの家庭教師をつけた。スタジオでの待ち時間だけでなく行き帰りの電車の中でもボールや丸めた靴下を蹴るようになった。酔っぱらいのおっさんにからかわれても気にしない。本気になるのが遅かった分を取り戻すにそれ以外なかった。

 秋はその反省を生かすべく、電車の中でアップを済ませた。夏とそう変わらない人数が集っていた千スタに着くやいなや人間観察を始めた。養成所で相方を見つける芸人よろしく、これは、と思ううまそうな子がいたらそのコバンザメのようにくっつく作戦だった。

 一人いた。バリカンで刈ったような短い髪に死んだ魚の目をした少年のような少女。全身から触るんじゃねえオーラをかもしていたそいつにパスを出しまくった。そいつは死んだ魚の目のままばかんばかんボールをゴールに蹴りこみ、同時に人間も敵味方の隔てなく蹴飛ばしていた。

 今年のプリンセーザの一次セレクションはその二回のみ。だから少なくとも、やよいは今日いる子全員を一度は見ているはずである。小梅は夏の、大女は秋のセレクションで見かけた。

しかし、トウモロコシも死んだ魚の目もいなかった。あんな子らでさえ残れないってどんなに厳しいんだと。

 にもかかわらず、一人だけ、ここで顔を見るのが初めて、という人間がいる。

 藤原杏木。

 やよいがここ東京で旧知の京都人の顔を見たのは、なぜか今日が初めてなのだ。


 お昼休憩になった。休憩場所はメインスタンドで、思い思いに持参した昼食をとる。

 やよいはマジソンバッグから黒くて長いものを取り出す。それはラップに包まれた太巻きで、奈良を経つときに母親に持たされたものだ。

「節分かい」

 杏木がそう言って笑ったが小梅はきょとんとしている。節分に切らないままののり巻きを恵方を向きながら無言で食べる恵方巻きの風習は、また関西ローカルのものだった。

 午前は四組に分かれての5対5。4分の1のコートにコーンを並べたゴール。10分×三本の総当たりで、キーパーはなし。ネルシャツと眼鏡がそれぞれ笛を吹き、アフロ監督は腕組みしてそれを見ていた。冬場ということもあり、ウォームアップのつもりで、という前置きが先にあった。

 小梅は一本目から三本目まで、息も切らさずに走り続けた。

 やよいは吸いつくようなボールテクニックで何十回も相手を抜き去った。

 最も目立っていたのは言っても杏木だった。ただし、悪い意味で。

 相手のゴール前にへばりつき、腰に手を当ててボールを待っているだけ。十一人であれば一人が守備をサボっても守備力は一割減だが、五人のうち一人がサボれば二割減だ。当然後ろからディフェンスしろという声が飛ぶ。 

「後ろにおるんは、守備したいんからと違うん?」

 相手チームにいたやよいは、もう少しで自分がすんまへんと謝ってしまいかけた。

 京都ではそれでも許された。パスもドリブルもシュートも、彼女より上手い男子はいなかった。だからそのやり方が合理的だった。

 しかし今日この場には女子しかいない。自分一人を特別扱いしろ、なんて言おうものなら総すかんを食らうのが必然。ましてここにいる全員、自分を見てほしいという気持ちがむき出しになっているのにその態度はありえない。

 それでしおらしくなればまだかわいげもあるのだが、京女の情念はそんなことでは収まらない。やよいへのパスが少し浮いたところをかっさらい、そのままふわりとコーンの間を通した。サッカーは一人でも勝てると言わんばかりに。

 ボールが来ないと、一人ぶつくさぼやいている。うっさいわ、とか、わかっとります、とか聞こえてきた。薄気味悪いことこの上ない。

 杏木は浮いていた。女社会で孤立は致命的だ。

「なあ、あれ」

 人の食べるものが気になるのは、そこから家庭が垣間見えるからだろう。

 杏木の割り箸の先にはカーンがいた。

 アルマイトの弁当箱、いわゆるドカベンにみっちりと入ってるのは餃子である。焼き餃子ではなく水餃子なので、時々右手で弁当を揺すってくっつかないようにしながら左手の箸で突き刺している。

 キーパー志望というが思った以上に足技もあり、周りを完全に子供扱いしていた。三つも年上だから当たり前なのだが。

 しかし、そんなことよりやよいが驚いたのは、一人で餃子を食べるその姿だ。

 孤独を引き受ける、その覚悟がやよいにはないし、そんなことができるならサッカーではなく個人種目を選んでいただろう。

 もっと言えば、切りもしないのり巻きをわざわざ母に頼んだのも、誰かに驚かれたり、笑われたり、ツッコまれたりしたかったからだ。一人でのり巻きをくわえても何の味もしない。

「ほら、あそこにも」

 今度は小梅が反対の方向を見やる。

 たった一人、猫背のおっさんが座っている。還暦は過ぎているだろう、髪は薄く、ループタイ姿で、貧相という言葉がぴったりくる風貌だ。セレクションは非公開ではないので、見学者が混じっていても別におかしくない。

 しかし目を引くのは、その行動だ。

「四つ目、いや、五つ目か」

 膝に抱えた箱から次々とあんこの玉を取り出しては、それをはさんだつややかな緑の包み紙を丁寧にはがし、残ったあんこ玉を次々と口に放り込む。さながら落語の「饅頭こわい」だ。またそのとろけそうな表情が、たかが甘味であそこまで至福の表情を浮かべるさまが一層おかしく感じられた。

 目が合った。おっさんの目に焦りの色がありありと浮かび、あんこ玉を口に運ぶスピードを上げる。

 いやいやいや、とやよいがフォローを入れようとしたその時。

「遅くなりましたあっ」

 鼓膜をつんざくような高音が全てを止めた。

 アフロの前でうずくまった朱鷺色の三本線ジャージにやよいは見覚えがあった。

「新幹線がゴジラに襲われました!」

 カチューシャをしたコーンロウの髪がばっと舞い上がると、犬のように息を切らせる顔があった。

「ゴジラに襲われましたって遅延証明書、JRにもらってきたか」

 あきれ顔でアフロが頭をかく。

「ああっ、あの、トウモロコシ」

 赤褐色の肌、大きな口に白い歯。やよいのくちびるがわなわなと震える。忘れもしない、夏のセレクションでことごとく止められた相手がそこにいる。二月だというのに汗びっしょりのおでこを見るに北千住駅から走ってきたようだ。

「ちょっと待てな」

 アフロとネルシャツが顔をつき合わせる。どうやら定刻に間に合わなかったことで失格にするかどうかを相談しているようだ。

「あかんやろ、そんなん」

 杏木に皆が賛同する。サッカーはいつ何時そこに出るか分からないボールに対して走らなければならないスポーツだ。決まりきった場所と時間にそこにいないようなやつとは一緒にできない。

 何より、一人でも競争相手は少ないに越したことは、ない。

「いいじゃねえか、やらせてやれ」

 周りがあんこだらけの口から発せられた太い、低い声。

 「加点方式だから、午前の分は0点だけど、それでもいい?」

 アフロの言葉に何度もうなずくコーンロー。

 その渋いのどに似合わぬ風貌のおっさんは、また何事もなかったかのように和菓子をむさぼる。

「一応、名前は」

 渋々といった様子のネルシャツに、これまたキンキンの声で返した。

「マナっす! 柳沢真夏っす!」

 見た目のみならず、声まで暑苦しかった。

「マカロン、名簿」

 ○のついてない名前のなくなった名簿を、アフロがネルシャツから奪った。

 受験者が全員揃って21人、3で割るとちょうど7人ずつになる。

 ハーフコート、高さ2メートル幅5メートルのゴールにキーパーを置いて15分マッチ。

 赤のビブスが杏木と小梅、青のビブスがやよいとトウモロコシ、緑のビブスはカーンがゴールに入る。今日来ている中でキーパー志望は彼女だけのようだ。

 キーパー志望者がいない赤と青のチームは誰か一人キーパーを出さなければならない。

「うちやりますっ」

 手を上げたのは誰よりもちっちゃいやよいだった。

「いや、無理だべ」

 小梅の言葉にみなが笑う。

 ぼんさんが屁をこいた。関西でだるまさんが転んだをこう呼ぶ。

 知り合いの芸人さんに言われた言葉だ。おごそかな職業であるお坊さんが屁をこけば、それだけでおかしい。それが緊張と緩和、笑いで言うところのフリとオチであると。

 ここにいる誰もが受かりたい。それはいい。けどその気持ちが強くなりすぎれば空気はギスギスして、ベストのパフォーマンスを出すところか、足の引っ張りあいにもなりかねない。そこに全く守備をしない者や遅刻して悪びれない者がいれば、その攻撃的な抑圧のはけ口はそこに向かう。それはあまりにもいたたまれなかった。

 ベタといえばベタである。けどそれをせずにはいられないのがやよいの性分だ。


 一本目、青対緑。青チームのキーパーには眼鏡からグローブを借りたトウモロコシが入った。暖まってない上半身を、両腕を交互に上げ下げしてほぐしている。

 片や、緑チームのゴールにそびえ立つ大女。だらりと腕を下げ、構えすら取らない。

 なめとんのか。やよいのハートに火がついた。

 ドリブルほど一人ではできないプレーは他にない。それが理解できない人間はサッカー選手にはなれない。

 まずドリブルはボールを引き出すところから始まる。マーカーを外し、ボールが欲しい場所を伝える。普段から一緒にやっているならどこに出せばいいか知っているが、今日のような場合はしつこいくらいアピールするしかない。ボールが出たらそこにどうやって先回りするか。裏を取るのか、体を入れるのか。そしてプレッシャーを受けながらのファーストタッチをどこまで自分のイメージに近づけることができるか。

 サッカーはだましあいだ。大げさなフェイントでたたみかけなくても、相手の逆を突けば抜ける。右に重心を移すふりをしながら左にいったり、ボールと逆に走ってディフェンダーの背後で再会したり。並走する味方に視線を送るだけでも相手をかわせる。できもしないキーパーに立候補して失笑されるのも、気持ちよくおとりになってもらうため。

 最後はボールの捨て方。ゴールの中にボールを捨てられないならどこまで深く切りこめるか、あるいはフリーの味方に渡すのか。そこは失っても逆襲を受けない場所か。パスコースにある敵の足は利き脚ではないか。

 前を向いてボールを受けたやよいが二人、立て続けに抜いた。残るはキーパー一人。

 左下、右足のすぐ横を狙った。端の持ち方でカーンが左利きなのはわかっていた。

だからカーンの右に回りこむ。そこへ伸びる軍手をはめた右腕。

「わあっ」

もんどりうって倒れた。ごろごろとその場に転がる。笛が鳴る。そこはペナルティエリアの中。

「触ってねえよ」

両手を広げ、アピールするカーン。当然だが判定は覆らない。ほくそ笑みを浮かべるやよい。ここぞと言う場面で、思わず笛を吹きたくなる倒れかたは彼女の十八番だった。小さくても女優である。

PKスポットに自らボールを置くやよい。両手を広げるカーンに対してなかなか蹴り出せない。どこにもシュートコースがないのだ。

ギリギリまで粘り、先にキーパーが動くのを待つ。だが動かない。ペナルティキックがバーの上に消えた。

「やってもうた」

頭を抱えるやよい。悪いことはできない。

 二本目、赤対緑。緑チームが反対のエンドに入るのでカーンはピッチの端から端までのしのしと移動する。

 杏木が小走りで追い出した。二本のゴールポストに手を添え、何事かぶつぶつとつぶやく。

 緑チームが連戦ということもあり、赤が一方的に押し込む展開に。

「飛びこむなー。回させろー」

 カーンの声がハーフコートいっぱいに響く。前二人、後ろ四人のブロックを崩さないカテナチオ。どうしても守りが弱くなる急造チームを、有無を言わせぬコーチングでリードしている。

 杏木がボールを持って前を向く。どれだけ嫌われ者だろうと、ゴール前でフリーでいる味方にパスしない理由はない。彼女がいたのは緑のビブス四人がいるその中間点だった。偶然ではない。誰からのプレッシャーも受けないわずかなすき間に、彼女は必ずいる。

 前から二人、後ろから二人、四方からはさみにくる。後ろ手で、誘うように指を曲げたのをやよいは見逃さなかった。

 緑のビブスをひきつけるだけひきつけ、前から来る二人の背後にできたスペースに浮かせた。芝に落ちたボールがバックスピンで戻り、一度は前に出た大女が後ずさりする。後ろの二人のマークを外した小梅が受ける。迫るカーンの頭上を越えるループシュート。

 巨体が飛んだ。左腕がボールをはたき落とし、落ち際を外に蹴り出す。杏木のため息がやよいには聞こえた。

 この後、杏木は小梅にパスを出さなくなった。

 三本目、赤対青。なんと赤チームは杏木がキーパーに名乗りを上げた。

「どういう風の吹き回しなん」

「もう疲れた。あまり走りたない」

 ゴールキーパーの走行距離は他の選手の半分以下である。しかし問題が起こった。キーパーグローブが一双しかないのだ。大女の軍手は杏木の手にはブカブカすぎてとても用をなさない。

「楓」

 アフロ監督の一声で、眼鏡女が薬箱を持ってくる。強烈なシュートで指を持っていかれないようテーピングを施された。

「よう、蛸丸」

「蛸丸違います」

 眼鏡女と杏木のやりとりより、眼鏡女のはさみの持ち方が衝撃だった弥生。普通なら穴に親指と人差し指を入れるところを、親指と薬指を穴に入れ、人差し指と中指を添える持ち方。それでいて細やかさと素早さは息を飲むほどの鮮やかさ。

「おおきに」

 そう言ってゴールに入る杏木。まず左のゴールポストに触り、ぶつぶつとつぶやき、移動し、右のポストにも触れる。

 やよいには不思議なことがある。なぜあんな風にものでしかポストに祈るのか。そして杏木が触れたポストは、なぜか彼女の味方をしてくれることが多いような気がするのだ。

 小梅がボールを運ぶ。その前にオレンジのジャージが立ちふさがる。小さく右にフェイクを入れてから逆に。タイミングをずらすことで相手が向きを返る時間を稼ぐフェイントは地味だが有効、のはずだった。

 足が伸びたようだった。安全圏に遠ざけたはずのボールに、重心を崩したはずの体から別の生き物のように動いた右足一本が突きだし、ひっかけ、ついでに小梅を倒した。もちろんファウルではない。

 しかしそこからの展開は、おせじにもうまいとは言えない。近くの味方にボールを預けるとそのまま下がってしまう。

「ヘイ!」

 またもマナがボールを奪った瞬間を見逃さず、やよいが前線に走る。ロングボールは、ペナルティエリアを大きく飛び出した杏木がさらった。そしてそのままドリブル。

「そんなんありかい」

 口許を押さえ、苦笑いするやよいが杏木につく。大きく蹴り出そうとしたボールがやよいの足に当たってはね返り、ゴールのほうへ。

 右のポストに当たり、杏木の懐に戻ってきた。


「ぼーん・・・ぼーん・・・」

 重心は低く、両足を交互に使い、足から離さない高さに靴下を上げるやよい。

「あねさんろっかくたこにしき・・・」

 背筋を伸ばし、右足一本で、高々と鞠を上げる杏木。

 リフティングひとつを取っても、その人のプレースタイルや性格、生きてきた環境がにじみ出るものである。

最後の紅白戦は11対11。大人と同じフルコートとゴールで30分。

組分けは向こうがカーン、ディフェンダーにトウモロコシ、トップ下に小梅。

ビブスなしは中盤に杏木、フォワードの一角にそれからキーパーがアフロ監督にカエデと呼ばれた眼鏡女である。今は眼鏡をスポーツ用のゴーグルに替えてはいるが、彼女が入ることでようやく頭数が揃った。

 ネルシャツが名前を呼び、六色のビブスが渡されていた。マナが紫、小梅が青、杏木がオレンジでやよいが赤。キーパー二人はビブスなし。

「トゥーラブユーも歌いや」

 壊れた柱時計のようにやよいが口ずさんでいたのは、クイーンのBorn to love youのサビだった。ちょうどこの曲を主題歌にしたドラマがヒットしていて、やよいはコピーガードのかかったそのCD一枚をプレーヤーに入れて上京する間ずっと聴いていた。

「もう京都が懐かしいんか」

 姉(小路)三(条)六角、蛸(薬師)錦とは、縦横に張り巡らされた通りの名前を覚えるための歌だ。京都人なら誰でも歌えるし、この歌がないとあっという間に道に迷う。

 やよいと杏木、今まで何度も同じゲームを戦ってきた二人。

 しかし味方として、同じゴールを向かうのは、これが初めてだ。

 杏木は今度は相手のゴールポストだけでなく左右のコーナーフラッグにまで手を添えて回った。

 キックオフを取り、センターサークルに入る二人。

 やよいの右手が、心臓のあたりでビブスを固く握りしめていた。


 オレンジのビブスがボールをキープする。その瞬間、赤のビブスは何の迷いもなく前方のスペースに走る。

 オレンジのビブス前に立ちはだかる青のビブス。そのすき間を縫うようにして走るボール。赤のビブスの直前、紫のビブスがめいっぱい伸ばした足がその行く手を阻む。

 ボールが跳ねた。スパイクの上を通過したボールがやよいの足元へ。そのまま左足で叩く。カーンのキーパーグローブの指先をかすめて外へ。

 すぐさまコーナーに走る赤いビブス。敵も味方も動くより先にショートコーナーを蹴る。進み出たオレンジのビブスがゴール前に入れる。相手ディフェンスの頭の上に越えるロブはわずかに味方の頭に届かない。

 大女のゴールキックがノーバウンドでハーフウェーラインを越える。緑と黄色のビブスが頭で競ったボールに反応したのは青のビブス。パスの出所を探る。

「ウメコ!」

 ビブスの色は確かめなくても分かる。そこに浮き球を上げた。

 はためく紫のビブス。最終ラインから走りこんだ勢いそのまま、1メートル近く飛んだ紫のビブスが全身を弓のように反らすと、コーンロウの長い髪がたてがみのようにたなびいた。

「アリ!」

 ボールに向かい、オレンジのビブスをまっすぐにぶつける杏木。最初から競り勝つ気はない。身を寄せて充分な体勢で打たせない。力なく飛んだヘディングシュートは眼鏡、いや、ゴーグル女の胸に飛びこんだ。

 六色のビブスが入り乱れる目にも鮮やかなな光景は、葛飾クラブの伝統である。練習あるいはセレクションの最後に必ず行うこのゲームをアルコイリス、虹と呼んでいる。

 暖色系と寒色系でチームを区別し、さらにポジションごとで色を分ける。誰が敵で誰が味方か瞬時に、フルスピードで動きながら判断できるかを求められる。体が疲れたところに頭も追い詰めるのが目的である。

 何でもないボールをトラップミスしたり、敵にパスをしてしたり・・・正確無比なプレーを披露していた少女たちが、疲労のため凡ミスをくり返す。

 それまでは腕組みしながらぼんやりとボールが動くさまをながめていたアフロがこまめにメモを取り出す。一人、また一人と選手の名前に×をつける。ふるいをかける段階に入ったのだ。

 振り落とされぬよう必死にしがみついている物も少なからずいた。

 まずトウモロコシ。黒い顔から白い歯をむき出しながら、信じられないような速さと強さとでピンチを芽のうちに摘んでゆく。しかしそこからのアイディアが単調だ。小梅へのパスは杏木にインターセプトされる。

 そのまままっすぐにマナに向かっていく杏木。赤や黄色のビブスが両サイドを走り、青や紫のビブスが迎え撃つ。後ろからは小梅が追走する。

 ふわりと浮かせたボールを、恐るべき反射神経でももに当てたトウモロコシ。真上に向かうボールに、オレンジのビブスが翻る。敵も味方もあざむくために、ボールはあるのだ。

「ヤカ!」

 杏木からボールが放たれた瞬間、前線のやよいが駆け出した。自分を越えたボールがどう考えても間に合わないスピードで冬芝の上を飛んでも、並走していたマーカーがさっさと足を止めても、ひたすら前に進む。普通ならありえない。

 しかしパスの主はあの藤原杏木なのだ。底意地の悪い京女なのだ。

 ピッチを出るはずだったボールが跳ね上がって戻ってきた。コーナーフラッグの根本に当たって内側にこぼれたのだ。

 やよいにはもうボールしか、ゴールしか見えない。

 やよいがボールを自分のものにしたのは右のゴールライン付近。ゴールへのわずかな角度はカーンの巨体に塞がれている。

 シュートコースがなければ、ドリブルすればいいじゃない。

 ゴールラインの上をボールと取り替え式のスパイクが渡ってゆく。打つよ、打つぞ、という視線をバシバシ送りながら狙いを絞らせない。

 中に切りこんだやよいに、たまらず飛びつくカーン。シュートのモーションに、巨体を横に倒す。

 どう、という音の直後にかん、という音。

 無人だと思ったゴールに、全速力で戻ったトウモロコシがカバーに入っていた。それがやよいの焦りを、クロスバーにぶち当てるシュートミスを誘った。

「オウ!」

 その背後には滑った跡が3メートルも続く。

 目の前にはトウモロコシとカーン。ゴールラインの上のボールに爪先で触れる。クロスバーを叩いたボールが、今度はそのままゴールの中に落ちた。

「ほんま、わざわざ人が、こしらえた見せ場、譲ってくれはるなんて、優しおすなぁ」

 人の手をわずらわせおって、の一言を吐きたいがための全力疾走だった。

「うわっはっはっは・・・」

 カーンが笑い、いまいましげにボールをセンターサークルに蹴り出した。

「切りかえろ! まだ時間あんぞ!」


 戦い済んで日が暮れて。

 杏木とやよいは夜の新幹線で関西に帰る。東京見物している時間はない。

 だからせめて、送迎車には乗らず、北千住駅まで歩くことにした。

「どやった?」

「サッカーやってる女の子がこんなにようさんいてるなんておもわなんだわ」

「・・・せやな」

 それはやよいの感想とは似て非なるものだった。

 朝から夕までボールを蹴れば誰だって疲れるしミスだって増える。杏木だけが違った。蹴れば蹴るほどその技は正確になったのは杏木が並外れた体力を持ち主だからではない。

 やよいを含めた他の受験者が少しでも点数を稼ごうとやっきになっている時に、彼女一人がそれを引いたところから見下ろしていた。そして勝負どころと見るや爪を出し、全てをかっさらっていった。

 自分はシュートをバーに当てて外した。しかし京女はシュートを入れるためにバーを狙った。目の前の二人の壁を外せるのは、真上しかなかった。

「おーい」

 聞き覚えのあるバリトンに向き直ると、手を振る影がある。

「いやぁ、うまかったよ」

 おっさんはそう言うときれいに折り畳んだ風呂敷を杏木に返した。

「特に餡が素晴らしい。ずっしりとした甘味がありながら、くどくない。一気に全部食っちまったよ」

「一箱、食べはったんですか?」

 杏木が細い目を丸まると見開く。

「二種類あったから交互に食ったら飽きなかったよ。肉桂と、あと一つは」

「薄荷です。父が和菓子はどれもあんこの味だって言われるん嫌やて」

「あれはきみのお父さんが作ったのか」

「烏丸一条でとりやという店を構えてます」

 ほう、とおっさんが手を打つ。

「あの、うちにも分かるように話して」

 おいてけぼりを食ったやよいが口をはさんだ。

「椿餅はだな、源氏物語に出てくる和菓子の名前だよ」

 おっさんが見かけによらず博識なところを見せる。

「蹴鞠に疲れた若い宮仕えたちが休憩する場面で、梨やミカンと一緒に振る舞われる。それをすだれ越しに見つめていたお姫様がいたんだが、猫がそのすだれを取っ払っちまったところからロマンスが始まるんだ」

 おっさんが餅をはさんでいた椿の葉を指先で回す。

「でもきみの店の椿餅はあんこなんだな。椿餅って確か甘葛あまづらをかけるんだろ?」

「ヅラ?」

「かぶってねえよ。なんでわざわざハゲヅラかぶらなきゃなんねえんだよ」

 そう言って自分のバーコードを手でスキャンするおっさん。

「甘葛ってのはツタの茎を搾って抽出した液を煮詰めて作る甘味料だ。あてなるもの、けずりひにあまづらいれて、あたらしきかなまりにいれたる。だっけか」

「日本語でお願いします」

「枕草子や。新品のお椀に持ってかき氷に甘葛をかけて食べたはったんやて」

 うー、と怒ったら犬のようなうなり声をあげるやよい。おっさんと杏木が自分をのけ者にして甘いもの談義してるのが気に入らない。

「そのアマヅラって、ツタから出る汁なん? おかしいやん。ツタならナラジョにぎょうさん植わってるけど、そんな甘いんなら鹿がみんな食べてまうはずやんか」

 鼻息荒く主張するやよいだが、おっさんは予想外のところに食いついた。

「きみは奈良の子か。確かに奈良女子大のキャンパスにはツタが植わってるし、野良鹿もうろうろしてるよな」

 いたずらっぽく笑うおっさん。少しキショいと思ってしまった二人。

「ツタの革にはな、皮膚を刺すような細かい結晶が無数についてるんだ。だから直に口につけると唇が真っ赤になるんだ。だから鹿も食わないんだろう」

「ほんまなん?」

「俺がきみらぐらいの時に実証済みだ。丸一日、何も食えなかった」

「こんなところにいた」

 雷様、いや、アフロ監督がのしのしと近づいてくる。

「マカロンから渡された菓子折、出してください」

 はいよ、と椿の葉しか入ってない白い箱を渡されると、もう一度雷が落とされる。

「高血糖で死にたいんですか!」

「甘いものが食えないくらいなら死んでやらぁ!」


「おっさん、涙目やったな」

 杏木の問いに、ああ、と気のない返事を返すやよい。あの騒ぎで疲れはて、結局バスに乗ってしまった。

 佐藤好太郎。

 作家、大学教授、政治家、そして葛飾クラブオーナー。

 宿に忘れていたやよいのスパイクを取りに戻った足で東京駅へ。座席に座り、「月刊 和菓子」でおっさんかインタビューされているページをしげしげと眺める。

「袖の下とか、やることせこいわ」

「お父はんがな、失礼のないようにって持たせてくれてん」

 杏木が電光掲示板を見上げる。

「うちはな、別にあのチームに入れんくてもええねん」

 衝撃発言が飛び出した。

「もう絶滅するしかない蹴鞠を広めるために、サッカーをやる。それには一番強いチームでやるんが早いやろ」

 驚いた。もう出発点からして違う。

「サクラ、あんたはどないするん? 落ちたら」

「やめる」

 やよいがイヤホンに耳を通す。杏木が何を言おうと聞きたくなかった。

 流れてきたのはMy best friendだった。


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