辻占
京都駅を下りた世界中からのよそさんを真っ先にお出迎えするのは京都タワーの仕事だ。
コンビニの色まで配慮を求める京都の人が、なぜあれほど街の景観にそぐわないシルエットをを野放しにしているのか不思議でならないが、そのぬぼーっと立ちはだかる塔の前で右に曲がり、ずんずん進むと大きな川にぶつかる。鴨川だ。
京都の道には全て名前がついており、南北の道と東西の道が碁盤の目のように交差している。たとえば烏丸通りと三条通りの北側なら烏丸三条上ル、がその住所になるというように。そしてその基準となるのが京都の町を北から南に流れる鴨川である。
その鴨川の流れに逆らうように北へと上る。鴨川のほとりでは運が良ければ小鬼を使役して戦う京都の大学生の姿が見られる、という噂があるが、今見えるのは晴れ着姿の娘さんたちがせいぜいである。
しばらく行くと、川が二手に分かれる。向かって左が鴨川の本流、右が高野川。地図を見ると川がY字になっている。そこから先は世界遺産、下鴨神社だ。正式には賀茂御祖神社という名称だが、鴨川のさらに上流にある賀茂別雷神社が上鴨神社と呼ばれるのに対して下鴨の通称がついた。この二社が合同で開く祭りが京都三大祭りの一つに数えられる葵祭である。
本殿に向かうには、まず原生林を歩かねばならない。平安遷都以前の植物相をほぼ留めているとされる森にはおびただしい数の樹木が植えられているが、その大多数が落葉樹であり、葉が落ちるこの時期は空がはっきりと見えて道を明るく照らしている。松や杉が植えられた多くの参道のような暗く、うっそうとした雰囲気とは無縁だ。
生態系としては、ほ乳類の生存は平成に入ってから確認されていない。にもかかわらず、いくつかの巣穴が見つかっているのも事実である。おおかた舞妓はんに化けて祇園でよそさんをたぶらかして遊んだり、天狗と戯れる狸の住みかであろう。糺の森のただす、とは行いをただすからきているという説が有力だが、化かされた自らを問い質すという意味ではあながち間違っていないのかもしれない。
鳥居をくぐるとすぐ左手に小道があり、そちらに折れると女性の美貌を祈願する河合神社がある。美人祈願がカワイイ神社、太古の人のおおらかなネーミングセンスにツッコミの一つも入れたくなるが、問題はその河合神社の中にある小さくも真新しい庵である。
一丈四方の建物は下鴨神社の宮司の家に生まれた鴨長明の棲みかを再現したものだ。念願であった下鴨神社の宮司の職についに就けず、晩年記した日本三大随筆の一つ「方丈記」の題名はその終の棲みかが由縁となっている。
さらに参道を北へと進むとついに本殿の鳥居が見える。しかしそこをくぐっても本殿の姿を見ることはできない。神楽を奉納する舞殿が鎮座しているからである。
その、向かって左。すでに人だかりができており、デジタルカメラにその様子をとらえようとする人もあった。この日の京都は最高気温が10度を超える温かさだったが、何時間も前から待たされているため体は冷えきり、足踏みする姿がそこここであった。
一間四方に渡って掃き清められ、地表があらわになった場所でこの物語の幕が上がる。
外側にはどかされた白い砂利が薄高く盛られ、内側の四隅には竹の鉢植えが置かれている。ただ鉢はサッカーのコーナーフラッグのようにピッチの内外とを隔てるのではなく、人ひとりが通れるくらい内側に置かれている。これは懸と呼ばれ、蹴鞠にはなくてはならない装置だ。
一時半過ぎ、まず白装束の宮司と巫女とが本殿より姿を現した。巫女の手には榊の枝に結びつけられた白鞠がうやうやしく掲げられている。
鴇色、露草色、柑子色、萌木色・・・色とりどりの鞠水干に鞠袴、烏帽子姿の男たちがそれに続き、庭の南に二列に敷かれたむしろの上に腰を下ろす。衣装は平安時代そのままだが化粧などはせず、眼鏡をかけた者もいるし、何人かいる烏帽子のない女性の眉はアーチ状に整えられている。人数は十人をゆうに超え、九人目からは後ろのむしろに座す。鞠足と呼ばれるプレーヤーたちである。
その列のしんがりに、一人の禿があった。ハゲではなくカムロと読む。
禿とはおかっぱ頭の子供のことであり、平家が都に放った密偵であったり、遊郭の女郎の見習いであったりする。
その禿はやはり肩の上で髪を切り揃えてあり、眉は太く、目は細い。一人だけ平安風のコスプレをしているかのように見えるが、よくよく見れば顔を塗ったり眉を描いたりはしていない素っぴんであることが見て取れる。
奇妙なのはその水干である。狩衣と違い、袴を上に出して帯で止める、現代で言うシャツインするのが水干の特徴であるが、サイズが大きすぎて帯を隠してしまう背中に大きくあしらわれているのが、なぜかニワトリなのである。袴は藤色、これまたぶかぶかで膝のあたりがつんつるてんになってしまった年季ものだ。
上座、向かって左側から一人、また一人と懐から扇子を取り出して懐紙の上に置くとその庭の中に入ってゆく。
末席にちょこんと座っていた禿は八番目、つまり最後に立ち上がる。裾に隠した手にて巫女から榊にくくりつけられたままの鞠をうやうやしく受け取ると、右の足から庭へと足を踏み入れた。
毎年1月4日に執り行われる蹴鞠始めが、この年も始まろうとしていた。
蹴鞠と書いて本来はシュウキクと読む。起源が紀元前の中国にあるからだ。
紀元前の戦国時代の書物にその名が登場し、貴賤の境なく広まり、あまりの熱狂ぶりに風紀を乱すとして明代に入ってから禁止令が出るまで親しまれてきた。
では中国のシュウキクが日本に伝来したのはいつか、定かではない。
蹴鞠が日本の歴史に登場するのは中大兄皇子が蹴鞠の最中誤って飛ばしてしまった靴を拾った中臣鎌足と急接近したと記された「日本書紀」になる。恐らくはその前に遣隋使によって日本にもたらされたのであろう。
だが道端に棒があれば拾って振り回し、石が転がってたら蹴飛ばすのが男という生き物だ。当時ヨーロッパには戦争に勝つと落とした敵の首を蹴って祝う遊びが存在した。
蹴鞠が海を渡る前に、日本にも何かを蹴る遊戯があったとしても何の不思議もない。
とにかく、この遊びが隆盛を極めるのが、奈良から京に遷都される平安時代。
和歌や雅楽と並ぶ嗜みとして、蹴鞠は公家の間に広まる。ちなみにクヱマリが正しい発音だ。
午前は宮仕えし、昼過ぎに集まり、夜は和歌を読み酒を交わす。これが貴族の社交場であった。
政治が武家のものになると蹴鞠は家元制度が発足し、閉じられた世界のものになる。対照的に庶民の間にも地下鞠という鞠が流行る。入手しやすい犬の革で作られた鞠を蹴るもので、江戸時代にはこれが地方にまで伝播する。
明治維新とともに蹴鞠は急速に衰退する。西洋のものを尊ぶ風潮が蔓延し蹴鞠は過去のものとして忘れ去られていった。
今の蹴鞠は一度消滅したものである。目的は蹴鞠の保存であり、千年の昔のままでここに披露、奉納されるところだ。
まず禿が北西に立つ長老に榊にくくられたままの鞠を差し出し、長老がほどく。これを解鞠という。
蹴鞠は柔らかな鹿の二枚革を裏表をひっくり返してから硬い馬の革のひもで縛る。なので球型ではなく、内側にくびれただ円形をしている。またその材料であるけものの革から道楽である鞠に明け暮れることを「馬鹿」と呼び戒めたという説がある。
大きさは長径20センチあまりだからサッカーボールの4号球、少年用のものと大差ないが重さは100グラム台でずっと軽い。
全ての鞠はハンドメイドであり、ひとつひとつ重さも形も異なるので試し蹴りが必要になる。鞠を受け取った長老から数回蹴り、終わったら二番の者へ下手投げで弾まないように転がす。二番の者は腰を屈めてそれを手で受け取り、また数回蹴ると三番の者へ・・・を末席の者まで行う。これを小鞠と呼ぶ。
小鞠ひとつとっても見えることがある。その人が子供の頃、どれだけ鞠に親しんできたか、である。
一回蹴って地面に落としてしまうのは大人になってから鞠を始めた人である。
三回、四回と続けられるのはサッカーやラグビーなどの経験者だ。
ボールコントロールが身につくの小学校高学年だ。筋肉や骨格が成長する体と技能を吸収しやすい頭脳とを併せ持ったこの時期に覚えたことは死ぬまでの間、ぎこちなさのかけらもなく披露することができる。それゆえこの時期はゴールデンエイジと呼ばれ、あらゆる芸事を修得するための最も重要な三年間となる。
ならば禿はどうであったか。七番から足元に投げられた鞠に手ではなく右足を出した。履いているのは沓と足袋とを縫い合わせた鞠沓ではなく、一人だけ黒いサッカースパイクだ。その爪先に鞠を乗せると、足を高く上げて音もなくすくい上げる。空に舞い上がった鞠は禿の背後へと落ちる。そちらに視線を向けることなく、今度はかかとに当てた。右の肩を超えたまりわさらに振り子のように振った足で三たびとらえた。雨のない空に虹をかけたる鞠は長老の胸にすっぽりと収まった。早くもどよめきが。
そして上げ鞠、サッカーでいうところのキックオフを長老が行った。
ケマリには敵味方がない。中国におけるシュウキクは球門と呼ばれるゴール状のものに鞠を蹴り入れる、サッカーに近い形式でも行われていたが、ケマリにはそれがない。
鞠庭に入った八人が一つの鞠を落とさぬように蹴ってその数をどれだけ伸ばせるか、このルールに変化はない。
だから前に強く飛ばすのではなく、高々と上げる。沓裏を地面から浮かせずすり足で、上体をぴんと伸ばしたまま動く。蹴り足の膝を曲げず、地面すれすれで、足首を直角に固定したまま右足の甲に当てる。回数に制限はないが、相手からの鞠を支配下に置くのに一回、自分の技を見せるために一回、次に鞠を渡すのに一回の計三回費やすものという暗黙の了解がある。
大切なのは「うるはしく上げる」ことである。そのために必要なのが色と音だ。色とは鞠の回転で、自分や次の者がさばきやすくなるような回転をかけるのをよしとする。音は文字通り鞠を蹴るときの音で、当たりどころが良いと鞠は小気味良く、鼓を打ったような甲高い音とともに空に上がる。蹴鞠の原料である鹿の革は鼓にも使われている。
何より、その上げる高さ。
まるで鞠足を邪魔するように鞠庭に立てられた四本の懸であるが、その高さは一丈半、4メートル半と決められている。これより高すぎず低すぎず、虹がかかるように上げるのが「うるはしく上げる」ということである。
そう、かくのごとくに。
「アリ!」
そう叫べばあさっての方向に飛んでいったはずの鞠にも足を伸ばし、スパイクの先にからめ取ってしまう。
「ヤカ!」
そう叫ぶと右足を振るい、楽器を鳴らしたような乾いた音とともに懸の高さへ上げた。
「オウ!」
そう叫ぶと鞠は右隣の鞠足に渡った。その足に当たると鞠が打ち頃に跳ねた。バックスピンがかかっていたのだ。
足運びは決まって三歩。右足から踏み出して次の右足で上げる。まるで白鳥が水を蹴るかのごとく上体は静かに、足だけが細かに動く。
軽い身のこなしに子供らしいはつらつとした声、そして卓越した技。
この禿こそが鞠庭の主役であることに疑いの余地はなかった。
鞠を操るのに四苦八苦するのが非足、鞠を意のままに操るのが名足。
しかしこの禿はどうであったか。
鞠ばかりか、そこに居合わせた全ての人の心までつかんでみせたのだ。禿に鞠が渡るだけで歓声が上がり、観客は寒さを忘れた。
やがて一の座が終わり、鞠足が交替して二の座が始まる。
しかし禿だけが二の鞠にも参加した。息一つ乱さず鞠をさばく。
やがて技を披露することに飽きてきたのか、回ってきた鞠を一足にて返すことが増えた。それでも鞠は正確に受け手に渡り、他の者が三足で行うことを一回で終えてしまう。
かと思えば回ってきた鞠を低く上げた足の上でぴたりと止めたかと思うと浮かせ、その回りでスパイクを一周させてから再び止めたりした。
頭を越えるような高い鞠が飛んできたら、とっさにその場で逆立ちをし、かかとで蹴り返したりもする。
そのたびにマイクを持った長老がしわがれた声で説明するのだが、どれだけ見る者の耳に入っているか怪しい。
極めつけは、二の座が終わる直前。
他の鞠足が蹴った鞠が舞殿の屋根にかかり、そのまま滑り落ちてきた。
スパイクが舞殿の欄干を蹴った。
五条大橋の牛若丸もかくや、という高さで飛び上がった禿が落ちてきた鞠をスパイクでとらえた。
ぶかぶかの水干が翻り、帯の上に隠れていた水干の全容が明らかになる。魚の鱗のような尾羽が連なるのはニワトリのそれではない。
鳳凰。十円玉にも描かれた平等院の屋根に乗せられている瑞鳥である。
水干をたなびかせて膝から落ちた禿、拍手どうぞとばかりに両手を広げた。
「人々が蹴鞠を愛している時代には国は栄え、政治もうまいこといき、幸福がもたらされ、病気もしないと故事には記されております・・・」
三の座まで終わって長老が締めの挨拶を行っているのは三時前。日がだいぶ傾き、長老の締めの挨拶が終わらぬうちに帰り始める者も出る。
鞠足たちは扇子を懐に戻し、くつろいだ様子でいる。今年も無事に務めを終えられた安堵からくる柔らかい表情で誰もいない鞠庭を見つめている。この庭は程なく懸をしまい、薄高く盛られた砂利を均してあるべき姿へと戻されるのだ。
その中で一人だけ様子のおかしい者がある。件の禿である。
空を見上げ、何事かぶつぶつとつぶやいているのだ。太い眉をしかめ、細い目をつり上げ、おちょぼ口に広げた扇子を当て、声を押し殺してはいるがその独り言は次第に大きくなってゆく。
「また鞠は後世にもよい影響を与えると申します」
「・・・しいひんだけや。空気読みぃや」
「鞠を好む人は、一度庭に立つとあらゆる雑念から解放されるからでございます」
「・・・できひん違います」
長老が咳払いするのも明らかに耳に入っていない。
「さすれば自然と心から罪は消え、輪廻転生にもよい縁をもたらし、未来永劫まで」
「ああっ、もうっ」
ついにむしろから腰を上げると、きっとにらんだ空に向かって言い放つ。
「そない言うんやったらやったるわい」
そう言うとあっけに取られた一座の前を横切り、長老のマイクを奪い取る。
「えー、本日は寒い中お集まりいただきありがとうございます」
ヤケだった。ゆでダコのように紅くなった顔がそれを雄弁に語る。
「今日ここに来る前、清水寺行かはった人、どれぐらいいてます?」
わらわらと手が上がる。京都の東に位置する音羽山の山中にある清水寺、祇園さんこと八坂神社を経て下鴨へ行くのは鉄板の初詣コースだ。
「下鴨でお守り買ったら他のお寺のお守りは置いてってくださいね。神さん同士がケンカしはりますから」
どっと笑いが起こり、そぞろ歩きで帰途につこうとしていた者も思わず耳を傾ける。
「清水さんいうたら舞台が有名ですやんか。あの広い境内の、どこからどこまでが舞台か知ってはります?」
答えようとする者はない。誰一人そんなことを考えたことがなかったのだ。
「答えは柱の欄干。端から伝っていくと、角張った欄干があるところから急に丸うなるんです。その丸なってるところが、いわゆる清水の舞台と言われてるところです」
禿の話はさしてうまくない。ただその場にいる大勢の人たちと交信できる。その手段が鞠が、会話か。違いはそれだけだ。
「ご存知の通り、清水の舞台の下は切り立った崖です。なんで清水の舞台から飛び下りるなんて言うようになったか。願をかけてから飛び下りて、生きて帰ると願が叶うという信仰がありましてん。今そんなことしよったら警備員さんが連れていかはりますけど」
うんちくと笑いのサンドイッチに観客がぐいぐいとひきこまれる。予定終了時刻は過ぎ、ホウキを手にした神社の職員はすっかり手持ちぶさたである。
「・・・昔、鞠の聖と呼ばれた名人がいてまして」
声のトーンが落ち、視線が空を向く。何もない空を。
「その名前は藤原成通といいまして、平安時代に大納言にまでならはったお公家さんです」
空を見上げたまま、ふんふんとうなずくと続ける。
「この成通という方、見た目は高貴で美しく、学問にも秀で芸達者、性格も信心深く人情に篤かったと言われております」
禿の目は泳ぎ、口の端が心なしかひきつって見える。
「中でも蹴鞠の腕前、いや、足前はすさまじかったそうで数えきれないくらいの伝説が残ってます。かかとで左右百回ずつ蹴ったとか、思いきり蹴り上げた鞠が雲に隠れたきり落ちてきたとか、鞠を蹴ったまま家来の肩を飛んで当たって最後に頭に乗られた坊さんがせいぜい笠が頭にのっかったくらいにしか感じなかったとか」
しゃべり倒す禿、まるでその目で見てきたかのようになおも続ける。
「中でも有名なんが、父親に連れられて清水さんに行って、父親が参拝してる間に右足で鞠を蹴りながら左足で欄干を端から端まで渡った話です。欄干は丸くて、外に足を踏み外したら奈落の底。それを願かけとかやなく、単にヒマだったからって」
そこまで言うと庭の中央にに目をやる。白鞠が木から落ちた果物のように転がっていた。
「実はうち、この成通と関係があります」
おおっと言うどよめきが、次の言葉で爆笑に変わる。
「単に名前が藤原ってだけなんですけど。まぁ同じ名字なんで、紀香さんや竜也さんともどこかでつながってるかもしれません」
いくぶん長すぎた前説を経て鞠庭の鞠を拾う。
「この庭は清水の舞台ほど広くはありませんけど、それでもこれを鞠を落とさず、足も踏み外さず渡りきってみたいと思います」
ぽつら、ぼつらと鞠庭がしずくで濡れる。しかし太陽の周りには雲ひとつない。狐の嫁入り、というやつである。
蹴鞠は神事、つまり日本古来の神に供えるためのものである。だから奉納が行われるのは神社であってお寺ではない。
またその根底にあるのは「和」の精神である。聖徳太子が十七条の憲法にて和を以て尊しとなすと定めた和は、そのまま鞠を蹴る人たちが作る「輪」にも相通じる。
ゆえにたった一人で猿回しのようにその技をひけらかす、などというのは蹴鞠の精神にもとるばかりか、下手すれば神をも愚弄する行為とさえとらえられかねない。
にわかに神社側の者が色めき立つ。神社の敷地内、しかも神殿の前を見せ物のために貸すことはできない。
それをさえぎるのは鞠足たちであった。禿が何を思ってこのようなことを言い始めたかはわからない。が、それを問い質す前に壁となった。
藤原さんの孫がお稲荷さんにつままれた、そう噂になったのは先一昨年のことだ。
お稲荷さんは京都駅の南にある伏見稲荷大社のことで、その化身が狐である。
この子が蹴鞠を始めたのは、鞠の練習に欠かさず連れてきた祖父の影響だった。
祖父は烏丸一条にある老舗の和菓子屋の先代だった。店名は「とりや」。京都御所から見て酉の方角、西に店舗を構えているから。焼き鳥のうまい居酒屋とよく間違われる。
祖父が蹴鞠を始めたのは隠居してからだ。当然いびつな形をした鞠を足で扱うのは至難の技。三回続けられたら大喜びという有り様。小枝にひもでくくった鞠を飽きることなく蹴っていたその孫が祖父を上回るまで時間はかからなかった。教えられることがのうなった、とおぐしを撫でながら細い目をほころばせるばかりだった。
その祖父が亡くなった。翌年日本で行われたワールドカップを見ることなく。
四十九日が明け、練習に現れた孫の顔は、狐面をかぶせたように変わり果てていた。顔は青白く、ふっくらとしていた頬はこけ、目の縁は赤く、細い目はつり上がっていた。
鞠をくくりつけた木の下を離れ、祖父おさがりの鳳の水干に藤色の袴をまとっては庭に立つようになった。会費は祖父が向こう三年間納めていた分でまかなえた。
蹴鞠は一度滅んでおり、同時に様々な曲(技)も失われている。
鞠庭に立った孫は、それらの曲を次々と再現してみせたのだ。無論誰に教えられたでもないその動きを見ては文献をあたり、あれはこれのことではないかと推測した。
またサッカーも始めたようだった。全国大会に出場した写真が「とりや」にも飾られている。
しかし、良いことばかりではない。
むしろ目立つようになったのは、その奇妙な言動の数々だった。
まず見ての通り、ぶつぶつと独り言をつぶやくようになった。もっと言えば独り言ではなく、何者かに話しかけていた。一人と話している時もあれば大勢と話している時もある。しかしその視線の先には誰もいない。
独り言のみならず、行動も奇抜になった。
昨日は先斗町で、今日は錦市場でその姿を見たと目撃談が上がる。ただ歩いてるのならそんなことにはならない。噂になるのはその足元に必ずサッカーボールがあるからだ。狭い路地を、買い物客でごった返す商店街をドリブルしながら走り抜ける。そういう催しなのかと勘違いした観光客にカメラを向けられてもお構いなしに。
とりやさんとこのお子さん、サッカーがんばってはりますなぁ。
京言葉でそれは、ボール蹴りながら歩くんやないという意味になる。あまりにも出没の噂が絶えないため鞠の練習のたびにほどほどにとたしなめたが一向に聞く耳を持たない。
狐は心のすき間を突いて人に憑く。大切な人の死が大穴を空けた心に、血生臭い歴史を併せ持つこの町の怨霊が住み着いても、何の不思議もない。
にわか雨はものの数分で止んだ。
長老が宮司に平謝りをしてから、再びマイクを持つ。
「寛大な処置をいただき、特別に、五分間だけ、一人鞠を奉納させていただける運びとなりました」
そう言うと汗を拭きつつ手元の腕時計に目をやる。三時五分前だった。
そんな悶着など他人事のように、禿が庭の最も本殿に近い隅で鞠に立つ。
懸、庭の四方に立つ四本の木は正しくは艮(うしとら、北東)に桜、巽(たつみ、南東)に柳、坤(ひつじさる、南西)に楓、乾(いぬい、北西)に松を植える。それぞれ春夏秋冬を代表する樹木であり、このため懸は四季とかけて式木とも呼ばれる。また蹴鞠をすることを木の下に立つと表現することもあり、それだけ四本の木が蹴鞠と切っても切り離せないものであることがわかる。
だからこの挑戦のスタートは春を意味する艮の方角から始まる。拳の幅ほどの砂利の山から足を踏み外すことなく鞠をついたまま移動するさまをごろうじろというわけだ。
禿が右の足で鞠を蹴る。小刻みに上下動する鞠に見いるその顔は青ざめ、爪先の神経までも研ぎ澄ませているのが誰の目からも明白だった。
一座となって鞠を蹴るのであればもししくじったところで許しあえばよい。だが一人で蹴るとなれば過ちは全て自分の責任。
ひとつの鞠の前に、人はみな一人である。
「アリー」
その孤独を引き受けると、迷いもろとも、懸のはるか上へと鞠を蹴り上げたのだった。
雲にかかるかと思った鞠はやがて力を失い、今度は同じ速度で禿の頭上に落ちてくる。
それに合わせるように左の爪先を浮かせ、わずかに宙に浮くと肩にかかった鞠は胸から腰と滑り最後は曲げた右足で止まる。小さからぬどよめきが起きた。
「えー、これが身傍鞠でございます。体に当たった鞠は強く跳ね返りますが、これは人間の体が重力に縛られているためでございます。ですが真上に飛び上がり、その一番高いところにいる瞬間、飛び上がる力と地球に引っ張られる力が等しくなった時だけ体には何の力も加わってないのと同じになり、鞠には地球の重力だけがかかって体を伝って落ちてくるのでございます」
長々とした説明の間も鞠は小刻みに上がり、早くも巽の懸にさしかかる。それまで南に取っていた進路を西に向けなければならない。
右足から上がった鞠が肩に当たって左に逸れる。禿をなびかせ、左のかかとを軸に東を向いた。
「ヤクァ」
右足で背後に上げると、今度は時計回りに踵を返して西を向く。鞠はその右足に落ちた。砂利道の隅にえぐりこんだような跡をのこして。拍手喝采、投げ銭まで落ちた。
「今のが、その、返足でございます。ちょうどバスケットボールのピボットターンのように左足を軸にして回りながら鞠を落とさぬように蹴るのでございます」
薄高く盛られた砂利の上に沓跡を残しながら今度は坤の懸が目前に迫る。また同じように返足を打とうとして右足で蹴り上げたが、鞠が足の甲ではなく母趾球、親指の付け根に当たってしまう。当然鞠は前にこぼれる。
「オウ」
右足から滑りこむ。地面すれすれで爪先にひっかけた鞠が北の方角に。砂利の山を崩していた左足から立ち上がる。左足は砂利の道を踏み外してはいない。かろうじて残した鞠が落ちるところへまたも身を投げ出す。今度は高々と上がり、砂にまみれた袴を立てる足を立てる余裕があった。坤の懸を過ぎたところで拍手に混じって口笛まで聞かれた。
「これが延足ですな。スライディングしながら遠くに行ってしまった鞠を拾う。名人と呼ばれる人になると滑った跡が一間ほどにもなると言われとります」
なるほど、禿の後ろには5メートルほどの滑走した跡がはっきり残されていた。
残すは乾の懸のみ、という段になって禿は迷い始めた。
身傍鞠、返足、延足。これらは蹴鞠の三曲と呼ばれる大技であり、これを超えるものはないとされる。
禿にそれらを授けた者たちはそれぞれの懸で待っていた。その名を呼べばいつでも現れ、力を貸してくれる。
しかしこれから向かう懸にいるのはそんな従順な存在ではない。醜悪で、尊大で、陰湿な怨霊。そもそも禿がこんな芸当を披露する羽目になったのもそいつのせいなのだ。
触らぬ神に祟りなし。さっさとしまいにしもたれと特に何もせずに、最後に見映えだけでもするようにと高く蹴り上げ、左足を踏みこむ。
風もないのに枝が揺れ、鞠を真下に叩き落とした。体重は全て左の爪先に乗っており、翻ることもできない。ああ、というため息が漏れる。
──過ちを犯さぬ者などあろうか。
冷たくなった禿の頭にささやく声がある。頭のてっぺんから抜けるような甲高い声だ。
──過ちを過ちのままにするが非足、過ちを巧みに隠すが非足。
凡人と名人との違いを説いた後、こうも加えた。
──鞠聖の末裔ならば、過ちをも技に変えましょうぞ。
蹴鞠の足の振りは小さい。膝から下の動きだけで蹴る。
右足を、後ろに振った。かかとで頭の上へと浮かせる。
飛んだ。
頭よりなお高く振り上げた足で鞠の真芯を叩く。舞を締めくくる鼓の音。
「ひっ」
マイクを取り落とした長老がそれを両手で受け止める。腕時計の針はかっきり三時。
鳳凰の描かれた背中から落ちる禿。清水の舞台であれば今ごろ奈落の底であったろう。
後ろ足からのとんぼう返り。拍手も喝采も起こらない。
ただ、そのすさまじさに静寂だけが舞殿に響くばかり。
五時ちょうどに直会が始まった。
直会とは神事の後、神様への供え物を頂くことで神様の力を体に取りこみ、その守りを受ける宴会、平たく言えば打ち上げである。鞠足たちは背広に着替え、酒や肴を前に会話を楽しんでいる。
子供にとって酒の席ほど退屈なものはない。周りはみんな大人で、酒のせいでみんなテンションが高い。
禿は京紫のジャージ姿でその片隅にちんまりと座っている。酒も飲めないし、餅も三が日で食べ飽きたし、食事は魚や野菜を炊いたんばかりで、ジュースすらない。みかんばかり食べている。
帰りたくてしかたないが直会も神事の一部である。勝手に抜け出すことは許されない。
足元に鞠さえあれば自分は王様である。だが、鞠は今神棚の上にある。
「アキ」
長老に名を呼ばれ、橙色の皮をむく手を止める。
見れば、三方に乗せられた焼き菓子が積まれている。これも供物のうちである。
「辻占や。じぶんから引きぃ」
アキ、と呼ばれた禿がみかん汁くさくなった手をその飴色の山に伸ばした。
辻占とは辻、十字路で行う占いのこと、あるいはそれを商う易者のことでもある。古くは万葉集にもその名前が登場する由緒正しきものだ。
これが江戸時代、辻に子供を立たせて参拝客にみくじを引かせる新しい商売が始まり、これも辻占と呼ばれた。
辻占煎餅とはこれをさらに発展させたものである。焼けたばかりの煎餅が柔らかなうちにみくじをはさみ、さらに折り曲げて抜いたり中身を覗き見できないようにする。これがアメリカに渡り、中国系アメリカ人がチャイナタウンで大々的に売り出したのがフォーチュンクッキーである。
その辻占、みくじをくわえこんだハマグリのような形をしている。手で割るもよし、口の中でかみ砕くもよし、注意するのは煎餅ごと紙を飲みこんでしまわないことだけだ。
藤原杏木の食べ方は、まず縦に二つに割ると細長く折り畳まれたみくじを引き抜き、残りをまとめて口にほうりこむ。こうすればつばでみくじが濡れることも、破片がぽろぽろこぼれることもない。形が変わっているだけでその本質はいたってシンプルな味噌煎餅である。口の中に広がる味噌の味。いくぶんかための食感。耳を外側からも内側からも刺激する音。今年も正月がやってきたのを実感し、残りの冬休みの日数と手つかずの宿題を計算すると暗い気持ちになった。
気を取り直し、みくじを開く。
末吉。
杏木の母の字である。この辻占を供えたのは杏木の実家だ。
「とりや」では基本、煎餅や落雁といった乾菓子は扱っていない。とりやの店名は御所の西に店を構えているからで、乾菓子は置かない。しかしこの時期だけは別で縁起物のうえ日持ちのする辻占は職人や店員に正月休みを与えるのに一役買っていた。
杏木の母、由香は典型的な京女である。色は白いが腹は黒い。
おみくじはなぁ、悪い方に外れたら腹立つけど、良い方に外れる分には誰も腹立てへんねん。そう言いながら達筆としか言い様のない文字で凶や末吉と書きこんでゆく母の顔は店番に立つ時よりずっと輝いて見えた。
全て手書きなので、待ち人がどうの、なんてことはいちいち書いてはいられない。
ただ、吉凶の下に、都々逸をしたためてゆくだけだ。
あきらめました どうあきらめた あきらめるのを あきらめた
都々逸だから、当然意味するところは恋愛だ。しかし杏木は思わずくすりとなる。
あまりにも、今の自分の心境を言い当てていたからだ。
祖父が亡くなったのは三年前の春、杏木が四年生になったばかりの日だった。
不思議と悲しくはならなかった。
ただ、とてつもない不安に襲われた。
その日から一週間、口にしたのは水と葬式饅頭だけだった。
何を食べても味がしない。何を言われても言葉が頭に残らない。お通夜もお葬式もほとんど記憶にない。
初七日に形見分けが行われた。杏木に渡されたのは鞠装束一式だった。もともと水干は読んで字のごとく水洗いしてすぐ干せる簡素な服装のことだったが現在では一式揃えると数十万はする。それから鞠の入った桐の箱もひとつ、遺されていた。
しかし杏木が故人から受け取ったもっと大きなものがある。
恐らく、送った本人も忘れているであろう何気ない一言は、まるでのどに刺さった魚の小骨のように杏木の心を深くえぐっている。
初七日が過ぎて、杏木は鞠を再開した。形見の鞠を。
それ以来、ただの一日も欠かすことなく蹴り続けている。
晴れの日は校庭で、雨の日は体育館で、風邪を引けば布団の中で。
絶えず足元に鞠を置いた。足元に鞠がなければ落ち着かなくなった。
そして、サッカーも始めた。月二回の蹴鞠の練習では飽き足りなくなり、プロサッカークラブの下部組織の門を叩いた。
サッカーボールよりずっと小さく、軽く、いびつな鞠をずっと蹴っていた杏木にはずいぶんとたやすいスポーツであった。学校の行き帰りに、買い物ついでに、旅行先に、白と黒の鞠は欠かせないお供となった。
四年生で六年生のチームに飛び級した。五年生になると府内にライバルはいなくなり、関西でも知られる存在になった。
だがサッカーや蹴鞠にうちこめばうちこむほど、杏木の肩身は狭くなるばかりだった。友達は減り、陰口ばかりが聞こえる。
ここは千年の都、変わらぬことを宿命づけられた町。
蹴鞠も同じだ。古式床しい太古のフットボールが今後進化することはない。
選択肢は二つしかない。変わることをやめるか、生まれ育ったこの町を捨てるか。
鴨長明はその随筆「方丈記」にこう記した。
鴨の超うめええ! ではなく。
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にはあらず。
千年の昔から流れ続けている鴨川だって、一瞬たりとも同じ水であったことはない。
杏木は挑むことを選んだ。
あきらめがつくくらいなら、とっくにつけている。
2004年1月4日。
形見の鞠を蹴り続けて、ちょうど千日の満願日のこと。