餡炊き三年、餡練り十年
連日、真夏日を記録し続けている暑い七月だった。
にもかかわらず、なるべく冷房を入れないよう自粛する空気が国中を覆っていたあの年のことである。
何もかもが崩れ、飲みこまれたあの日からちょうど四か月を数える。
夜が明けたばかりだというに、温度計は気温28℃と示している。30℃を超えないと入れないと話し合って決めていたエアコンだが、今日も太陽が上りきる前に作動されるだろう。
築三十年、5LDKの外は夜が明けていたが、そのリビングにある小型テレビの向こうはまだ前日の夜である。画面の右上に白くアナログと表示された大型のブラウン管は、あと半月で電波を受信できなくなる。ここでの生活が始まった頃はリモコンの奪い合いが毎日のように繰り広げられたが、今はそれぞれの部屋に小さなテレビがあるのと、この家が年内に取り壊されるので新しいデジタルテレビは買わないことにしていた。
テレビの片隅には、古ぼけたサッカーボールが転がっていた。台所や玄関、廊下、トイレにまでこの家には一つずつボールが置かれている。デザインや大きさはまちまちだった。
テレビを見ながら、食事をしながら、用を足しながらボールに触れていればそれが数年後には大きな差になる。そう提案された時他の者は首をかしげたが、それが正しかったことが今まさに証明されようとしていた。
「きたっ」
近所迷惑になりかねない大声とともに、テレビを見つめていた人影が立ち上がる。大きな目が赤く、口だけが白い。あとは全て真っ黒な顔がすすけた天井を見上げた。
コーンローのポニーテールが揺れ、ハーフパンツから突き出た細くて長い、ふくらはぎが発達した足できしむ階段を踏み抜かん勢いで駆け上がる。
「サクラちゃん、起きろ」
二階に上がってすぐのドアはスルーし、一番奥のドアノブをノックすらせずにひねる。もちろん内側からカギがかかっていて開かない。
「やかましいわ」
あからさまに不機嫌そうな声とともにドアが開かれる。パジャマにノーメーク、生あくびをすると他の歯に比べてサイズの大きい二枚の前歯がむき出しになる。小学生のように小柄で童顔だが整った面立ちなだけに、歯並びの悪さが一層際立ってしまう。
「アニメくらい一人で見いや。うちは台本読みでねぶいんや」
「受からない、オーディションの、ムダな台本読みでしょ?」
最後に役らしい役がついたのはいつだったか、そんな心の傷を容赦なくえぐり取られ、かたかたと前歯が鳴った。
「それより、出るよ」
「ほんまかっ」
もしそうなったら起こしてくれと頼んでいたのをようやく思い出し、あわてて部屋のテレビをつけようとする動きを、黒い手がさえぎる。
一緒に見たいのだ。いや、一人ではとても冷静に見られないのだ。
二人が狭い階段を踏み外さないギリギリの速度で降りると、テレビの前には先客がいた。
本来ブラウンの髪がテレビの光に透けてブロンドに見える。振り向くと黒縁の眼鏡を乗せた高い鼻が白い肌に影を落とし、机に突っ伏して居眠りしてついたのであろう頬の筋に重なった。
「ええんか、勉強せんで」
「これ見逃すくらいなら三浪してやる」
いつもならささやくように話す声が上ずり、早口になっている。さすがに興奮を押し隠せないようだった。
玄関から聞こえるぶしつけな大音がそれに水を差した。
爪が油で暗く汚れた指にいくつもの指輪。アッシュグレーの髪を五分刈りにしている。眉毛もきれいなアーチを描いているが、右の耳だけが餃子のようにふくれ上がっている。
「お早いお帰りで」
「ヤナギ」
小柄な少女にとがめられた黒人少女がへろっと舌を出す。眼鏡少女が立ち上がると短い髪の少女の前に進み、その顔を見下ろす。
「なんだよ、楓」
食ってかかるような相手の態度を気にもかけない。
「きたよ」 それを聞いた短い髪の少女が親の小言を待つ子供のようにテレビの前にひざを揃えた。
「マツ、笑ってるし」
黒人少女が目を丸くする。それくらいうれしそうだった、夜の町ではとうてい見つからない喜びに触れて。
ブラウン管の向こう側は慌ただしく動いていた。
四人のお目当ての選手が左の膝にサポーターを巻き、蛍光イエローのビブスを脱ぐと半袖の藍色のユニフォームがあらわになる。三本足のヤタガラスがサッカーボールをつかんだエンブレムの上に日の丸、男子代表と同じデザインながら首の下のワンポイントだけがピンク色。
背中には白く「5 FUJIWARA」とある。この状況に出ていく選手のものとしては小さい。相手にリードを許した後半、できるだけ早い時間帯で追いつかなければならないはずだが、5番はどちらかといえば守備的なポジションの選手がつける番号である。
そしてその足に履いたスパイクはさらに奇妙だった。くるぶしを隠すような長さで、つま先が鳥のくちばしのように広がって上を向いた形状をしていた。
二十歳までにものにならんかったら、戻ってこい。
烏丸通で和菓子を営む父が東京に行きたい、サッカーをやりたいと言い出した十二歳の一人娘に約束させたことだ。
父親が娘の夢に期限を与えたのには理由があった。神社仏閣好きが高じて京都大学に進学した父はそこで和菓子の世界に魅せられ、先代に弟子入りした。その時に言われた言葉がある。
和菓子の命である餡を腹切り、皮が破れないように炊けるまでに三年。それを小麦粉や砂糖と混ぜ、細胞を破壊して餡の劣化をさせないようにしながら練れるまでに十年かかる。逆に言えばそれまでに技が身につかなければ別の道を探す。和菓子職人の掟だ。
九歳でサッカーを始めた娘は和菓子職人でいえばようやく餡が炊けるようになった、おいどの青いひよっこ。それがいっぱしのフットボーラーになれるかどうかはわからない。
男であらばユースチームからトップに昇格する、プロサッカー選手になれるかがその見極めになるだろう。
だがこの国に、サッカーで「食える」女子フットボーラーはほとんどいない。そのことも小学六年生の彼女はちゃんと知っていた。
生業とはそれを職業にできているかどうかはじめてそう呼べる。だが日本でサッカーで食っている女子はほんの一握り。
この国において、女子サッカー選手とは職業ではない。生き方だ。
だから、父の言う「ものになる」とは日の丸をつけることだと解釈した。
高校入学と同時にトップチームに昇格した。世代別代表にも呼ばれた。しかしフル代表はすでにメンバーも固定されていた。高校を卒業すると二子玉川の製菓専門学校に通った。来春には京都に戻る覚悟を決めていた。
二十歳を迎える月だった、代表監督の口からその名前が初めて読み上げられたのは。
しかしそれはワールドカップのバックアップメンバーとしてだった。やることは荷物運び、ドリンク作り、盛り上げ役、練習試合での副審。これではものになったとは言えなかった。
アクシデントがあったのは開幕日のこと。現地入りして最終調整をしていたディフェンダーの選手が肉離れを起こして離脱してしまう。初戦の試合開始の24時間前まではメンバー変更可能のルールに乗っとり、彼女が登録された。
けど変わったことと言えば、パスケースがスタッフ用からプレーヤー用になったことだけ。予選リーグで出場機会のなかったフィールドプレイヤーは彼女だけ。大会中ではアピールのしようもない。秘密兵器は秘密のままで終わるんやと国際電話でうそぶいた。
負けたら終わりの決勝トーナメントが始まり、もう出番は来ないとあきらめていたところだった。
松戸の一軒家で四人は手を取り合っていた。互いの鼓動を感じられるように肩を寄せる。
アナウンサーがこのチームでただ一人の十代だの、この大会中に二十歳を迎えただの、これがデビュー戦だの、手持ちの資料を読み上げる。解説者がフレッシュな動きでチームを活性化させて欲しいですねと子供の作文のような感想を繰り返す。
彼女のことを、誰も知らなかった。
テレビの向こうでコーチの指示を受ける糸のように細い目は完全に宙をさまよっていた。四人には何もできない。届くはずのない念を、9000キロメートル先へと飛ばすことしか。
グローブをはめた腕がコーチをブラウン管の外へ追いやる。代わりに彼女の前に立ったのはオールバックに黒々とした口ひげをたくわえた大男。鼻筋の通った浅黒い横顔はインド料理屋でナンを焼いていそうでもあり、三十年前からタイムスリップしてきたようなハードゲイのようでもあった。
「フレディ!」
四人の表情に輝きが。フレディ、と呼ばれた口ひげの男は腕を広げ、大きな声で歌い始めた。マイクはその声を拾わないが、彼女がそれに続きテレビの前の四人も合わせる。
「エーオ♪」
コール&レスポンスを繰り返すうちに、蒼白だった顔に表情が戻る。
フレディと呼ばれた男は最後にその太い口ひげに手をやり、それを外すと少女の口の中にねじこんだ。
開かれた口から覗いたマウスガードはお歯黒のようだった。
「オーライ!」
ひげのなくなった顔に笑みを浮かべたこの男とも、もう長きのつきあいになる。
東京に移り住んだのは、自分の足に宿った千年前の技がどれだけ通用するかを試すためだった。
紀元前に生まれ、平安の都で百花のごとく栄えた太古のフットボール。物心ついたら足元には鞠があった。
鞠をボールに持ち換えて三年、京都を出て七年。そろそろ京都に戻る覚悟をしなければならないと思い始めていた頃、それは起こった。
阪神淡路の時三歳だった彼女にはその記憶がない。まだ何者でもない十九歳の自分に何ができるが彼女なりに自問自答したが、何もなかった。
その上で思い出したのが、遠い昔に聞かされた鞠の精神だった。
鞠を愛でれば国は栄え、寿命が延び、病気もしないばかりか未来までもが幸福になる。
なぜなら鞠を蹴るとき人は誰しも無心になる。人を不幸にするのはありとあらゆる雑念だが、鞠を蹴るとそれらから解放されるのだと。
東北の人々の痛みや苦しみを引き受けるなどおこがましいが、それらを一瞬でも忘れてくれるのなら。
そうですやろ、ご先祖はん。
スパイク、すね当てをチェックされボードを手にした第四審判の隣で足踏みする。気温は日が沈んだとは思えないほど高いものの湿度はさほどではない。
下がる選手は汗だくで、血の気を失い、精魂尽き果てたという様子だった。
ラインを越えると、足が勝手に走り出す。
自分がものになったと言えるのか、そんなことはどうでもよくなっていた。
日本は朝の七時。体が目覚めきらないので冷蔵庫から和菓子を出してきた。
京都から毎月必ず季節の上生菓子が届く。ただの一度とも欠かしたことはない。今月は紫陽花を模した「朝の露」である。
和菓子なんて大福と団子くらいしか知らなかった四人は、四季折々の花に見立てた豊かな彩りや芸術の域に達するような細工、素材を活かした上品な甘みを楽しみにするようになっていた。学校と練習場、週末に試合の地味な生活と疲れた体がどれだけ救われたことか。
餡を餅粉や小麦粉と練ったものはこなしと呼ばれ、蒸すことで生まれるねっちりとした独特の歯触りが関東式の練りきりと異なる。紫陽花の色は紫芋、花びらに浮かぶ朝露は寒天で表現しているようだった。
紫陽花の名はアズサアイ、藍を集めるからきているという。がく状の小さな花が集まって一つの花を形作る紫陽花にこのチームはよく似ている。
紺青が群れ、群青となるそのさまが。
その花びらの一片になる権利を、今ようやく彼女は得たのである。
花の名はなでしこジャパン、サッカー女子日本代表チームである。
背番号5が入ったのは中盤の右サイドだった。彼女も日本人女性としては背が高い部類に入るが、黄色いユニフォームを着た相手チームの選手と並ぶと子供にしか見えない。
途中交代した選手がスムースに試合に入るにはファーストタッチが大事だ。
中央から低く、速いパスが足元へ。一度中に入るフェイクを入れてマーカーの背後へ。が、インサイドで止めようとしたボールが足首に当たってしまい、大きく弾ませてしまった。
ミスタッチは仕方ない、しかしその後がまずすぎた。右タッチラインに向かって逸れてゆくボールを追いもせず足を止めてしまったのだ。ピッチをを出たボールに5番をつけた背中をふて腐れたように丸くながらとぼとぼと歩いて戻る。
黄色いユニフォームの8番がリラックスした表情でボールを拾う。このワンプレーで入ったばかりの彼女への警戒心を解いてしまったようだ。スローインを声のする方へ投げ入れる。ゴールマウスを空けたキーパーに一度下げて落ち着かせようとした。
5番をつけた背筋がピンと伸びた。その場で踵を返すと、猛然とそのボールを追った。
面食らったのはボールを受けようとしていたキーパーだ。足同様スローインでのバックパスをキーパーは手で触れない。ボールまであと一歩の場所に来たとき、日本の5番が目前に。その体に当てないよう高く蹴り上げるしかない。
「アリ!」
右足でペナルティラインを蹴ると、青いユニフォームが舞った。
左肩に当たったボールが力を失って落ちる。胸、腹、腰、もも、ひざ、すねと滑って足の上で止まった。
キーパーが飛びこむのをためらう。ペナルティラインをはさんでボールが外側、人間が内側にある。ペナルティエリア外のボールを手で触れば退場、エリア内の人間を倒せばペナルティキックを与えてしまう。
飛びこむコースはラインの上。ボールと人とを遮断するのが狙いだった。
「ヤカ!」
闇夜にかかる虹の橋。甲高い音とともにゆるやかに上げられたボールが大きな弧を描いて青いユニフォームの背後に落ちる。かかとが芝につくかつかないかのタイミングで時計回りにターン、高々と上げた足で肩越しに叩きつけるように落とす。左腕でキーパーをいなしながらつま先立ちで逆時計回りに鋭く向きなおると巨体が横倒しになる音が聞こえた。
無人のゴールが見えた瞬間だった。左膝に、引きちぎられるような痛みが。スローインをしくじった相手の8番に倒れながら足首をつかまれたのだ。長袖であればすそを引かれただけで済んだのだが、前に出ようとする右足と後ろに引き戻される左足。レフェリーが口に笛を運び、肺一杯に空気を吸いこんだ。
「オウ!」
ぴんと伸ばした右足の、スパイクの爪先がかかった。だがボールは前にではなく上に。ふわりと落ちた先に走りこむ別の青いユニフォーム。相手のディフェンダーとゴールキーパーが折り重なりオフサイドラインは消滅している。
シュートではなく、パスだった。
角度のないところから蹴りこまれたボールが逆サイドネットを揺さぶった。
松戸の借家に轟く雄叫び。南米のアナウンサーのようにゴール、を連呼するテレビをそっちのけで叫び、抱き合う。
テレビの向こうでも藍色のユニフォームが喜びを爆発させる。
だが、背番号5が動かない。
仰向けに倒れ、体をピッチに横たえたまま顔を歪める様子が映し出されるまでに1分近くかかった。
芝にまみれたしもぶくれの顔がアップになる。そのかたわらに転がる黒いマウスピース。白い肌ににじむ脂汗。サポーターを外すと大腿骨が膝から不自然に突き出ているのがわかった。
「アズキ!」
「あんこちゃん!」
「アキ!」
「藤原!」
届くはずのない声が、朝露とともに消えた。