時空を巡るホットケーキ
テーブルの上に一枚の皿が置かれた。
僕は昼過ぎのワイドショーから、それへ視線を移す。
「作ってみたの」
背中まで長く伸びた髪を耳にかけ、彼女が言った。
着古したスウェットに、薄緑色のエプロン。
化粧はしているが、いつもよりさっぱりと仕上がっている。
気合いの入った彼女も好きだが、自然体の彼女も好きだ。
しかし表情はあまりはっきりとしない感じで、どこか不安そうにしている。
理由はおおむね僕が想像する通りだろう。
皿の上には、黒光りした円盤が乗せられていて、それはホットケーキのように見える。
失敗してしまったのだ。
たぶん随分と前、僕がなんとなしに「ホットケーキが食べたい」と言ったのを覚えていてくれたのだろう。
そんな僕へ、彼女は親切心からホットケーキを焼いてくれた。
しかし、上手くはいかなかった。
そのことに関して、なぜか彼女は申し訳なさを感じているのだ。
「美味しそうだね」
僕は言うが、これではあまりにも不憫で、思い遣りに欠けるということに気付いて言い直す。
「でも、少し火加減が強すぎたのかな」
「ごめんなさい、すぐに食べさせたくて。強火で……」
「ありがとう」
「やっぱり食べたくないわよね、こんなの」
彼女が皿を引っ込めようとしたので、僕は急いでそれを引き寄せて、ナイフを入れて一切れ頬張った。
香ばしさを通り越した苦み。そして溢れ出すとろみ。
中の生地はまだナマの状態だった。
「なるほどね。うん……」
「無理に褒めようとしないで」
「ごめん」
謝るべきではなかった。
彼女はとうとう悲しそうに目を伏せてしまう。
●
テーブルの上に一枚の皿が置かれた。
僕は読んでいた推理小説を閉じる。
「作ってみたの」
彼女が不安そうに僕を見ていた。
肩よりちょっと長い髪をサイドに結んだ、僕が好きな髪型の一つ。
白いブラウスに、ぴったりとしたジーンズ。
少し歪ませた口元は鮮やかな紅いルージュで彩られ、珍しく眼鏡をかけている。
皿の上には、まだら模様の円盤が乗せられていた。
それは、ホットケーキだった。
恐らく、以前に僕が「ホットケーキが食べたい」と言ったのを覚えていてくれたのだろう。
しかし見たところ、あまり上手くはいかなかったようだ。
きっと彼女は、フライパンに生地を落とした後、お玉を使って薄く延ばそうとしてしまったのだろう。それで凹凸のある焼き目が出来てしまった。些細な失敗だ。
「ありがとう。覚えていてくれたんだ」
「ええ、この前いっしょに映画を見に行った帰りだったかしら。食べたいって言っていたから」
「そう……だったかな」
「でも、映画に出て来たホットケーキはとても綺麗に焼けていた。こんな脳みそみたいな模様、なかったわ」
「そうかもしれないけど、これだって美味しそうだよ」
別に彼女を慰めるために言っているのではない。
彼女が僕のことを考え、僕のために焼いてくれたホットケーキ。
そう考えるだけでも、これがどんな料理よりも美味しいなんてことは分かり切ったことだ。
しかし何を言ったところで彼女の心が満たされることはないようだった。
『失敗した』という結果について、彼女はやけに気にする性格なのだ。
「最初は誰だって失敗するよ」
「そんなことないわ。ただホットケーキを焼くだけだもの」
彼女は悲し気に、目を伏せた。
●
テーブルの上に一枚の皿が置かれた。
スマホでニュースを見ていた僕は、それを置く。
「作ってみたの」
彼女が僕を見ていた。
なぜか泣きそうな顔をしている。
それにしても、髪型をベリーショートにした彼女も素敵だ。
海外の良く分からないロックTシャツにデニムのショートパンツ。
その服装に似合っている。
化粧は少し濃いめだが、それは凛とした彼女の雰囲気を引き立てるだけで違和感などない。
むしろ良い。
彼女が置いた皿の上には、ホットケーキが乗せられていた。
うっすらと湯気を立ち昇らせるそれは、とても綺麗なキツネ色をしており、漂う香りに食欲をそそられる。
さらにはホイップクリームでハート形の模様が描かれていて、彼女の底知れぬ愛情を感じる。
「嬉しいよ」
「食べたいって、前に言っていたから」
「そうだっけ」
その瞬間、彼女の目から一粒の涙が零れた。
僕は咄嗟に立ち上がり、それを拭ってあげた。
「どうしたの?」
「言ったのよ、あなたは。『ホットケーキが食べたい』って」
「うん、そうだった。ごめんね」
訳が分からなかった。
だって、僕は彼女に対してホットケーキが食べたいだなんて言ったことはないし、ホットケーキの話題を出したこともないからだ。
それとも僕が忘れているだけで、僕は過去にホットケーキを食べたがっていたのだろうか。
彼女を泣かせてしまうほどに、ホットケーキを欲していたのか?
「何も泣くことないじゃないか。ちょっとど忘れしてたんだ。それじゃあ頂くとしようかな。うん、美味し……い」
口中に広がる味に、思わず言い淀んでしまった。
このホットケーキ、何かがおかしい。
「美味しいはずないわ」
「……どうして? 僕のために頑張って作ってくれたんだろ?」
「ええ。あなたは甘いものが好きだから、生地へお砂糖を多めに加えたの。加えようと思ったの……」
なるほど。
彼女は砂糖と塩を間違えてしまったのだ。
しかしそんな失敗、現実にあり得るのだろうか。
いくら料理が得意でないといっても、それは得手不得手の範疇を超えている。
彼女のことは何でも知っているつもりだったけど、僕にはまだ知らないことがたくさんあるようだ。
「珍しいね、君がこんな間違いを起こすなんて」
「気を付けようがなかったの。私は失敗するつもりなんてこれっぽっちもないのに」
「……どういうこと?」
「情報量がね、減っていっているの。一方で、私の情報だけが増えていくの。そうしないと……」
僕は取敢えず彼女を椅子に座らせた。
それから、僕も彼女の前に腰を掛ける。
「何かあった?」
「設計を間違ったのかも……」
「レシピのことかな。見間違いとかはさ、誰にでもあるよ」
「違うの。どうしても辻褄が合わないのよ。私はただ、あなたから『初めてなのに上手だね』って褒められたいだけなのに」
「難しい本でも読んだのかな」
僕は本気で心配してそう言った。
そうなのだが、彼女はとうとう声を出して泣き出してしまった。
●
テーブルの上に一枚の皿が置かれた。
僕ははっとしてそれを見る。どうやらぼうっとしていたみたいだ。
「作ってみたの」
彼女が見ている。なんだか疲れた顔をしている。
そしてどういう訳か、今日は白いワンピースを着ている。
それは特別なデートでしか着ないはずのものだった。
服はとても素敵だったが、彼女の長い髪は乱れ、化粧もしていない。
最近は仕事が忙しいのだろうか。
それでもこうして頑張ってくれるのだから、こういうところは本当にかわいいと思うし、そんな彼女のことが好きだ。
皿の上には、プリンが一つ乗っていた。
コンビニやスーパーなどで見かける、良くあるものだ。いや、そう見える。
しかしどうも手作りとは思えない。
「すごいね。まるで買って来たやつみたいだ」
僕はプリンの出来栄えに、心からの称賛を送った。
でも彼女はふっと寂しげに笑って、プリンを憎らし気に見つめる。
そして言った。
「買って来たの」
「なあんだ、そうだったのか」
「ホットケーキをね、作っていたの」
「本当? すごいね。君が初めて作ってくれた料理、なんだか楽しみだな」
「捨てちゃった」
「え、どうして」
僕は尋ねるも、彼女はうつむいてなかなか答えようとはしてくれない。
今の軽いやり取りで、まさか僕を騙しただなんて罪悪感を感じているのではないだろうな。
それとも、ホットケーキが食べられることに喜んだ僕を裏切ったと、そう思ってしまったのだろうか。
どちらも気にすることなんてないのに。
むしろ、彼女が買ってきてくれたプリンというだけで僕は価値を見出せるのだ。
「だって……」
彼女が口を開く。
「真っ黒に焦げていて、たぶん中はナマなんだもの。きっと砂糖と間違えてお塩をたくさん入れてしまっているわ。あんなの、私が作りたかったホットケーキじゃない」
「初めてなんだから、失敗くらいするだろ?」
「初めてじゃないの。今まで何枚、何十枚、何百枚と作ったのに、一度として上手く作れなかったのよ! 私はなんだって出来る筈なのに……」
そう言って彼女は手で顔を覆い、泣き出してしまった。
それにしても驚いた。そしてこれほど喜ばしいことがあろうか。
彼女は今まで、僕のためにそれほどホットケーキを焼いていてくれたなんて。
そうとなればもはや味なんてどうでもいいじゃないか。
僕を想って、僕のために作ってくれたのなら、たとえホットケーキの体を成していなかったとしても、それは誰が何と言おうと彼女が焼いた『僕だけのホットケーキ』だ。
それでも彼女は、完璧でない自分が許せない。
きっと苦手な料理だって難なくこなして、褒められたかったに違いない。
なんて愛らしいのだろう。
「僕はそんな君も好きだ」
「っ……!」
驚いたように顔を上げた彼女。
そういえば、こんな風に気持ちを伝えたことなんてなかったから、なんだか恥ずかしい。
しかし彼女の勘違いを正すことが出来るなら、そんなのは些細なことだ。
「完璧じゃなくても……、私が料理の出来ない女でも、あなたは私のことを好きでいてくれるの?」
「そんなことで泣いていたんだ。僕は『君』という人間を好きになったんだ。料理が出来ないってのも『君』じゃないか。そのことで自分が許せないなら、今度は僕も手伝うよ。一緒に美味しいホットケーキを作ろう」
「……嬉しい」
「良かった」
本当に良かった。
彼女にはいつも笑顔でいて欲しい。
たかがホットケーキなんかで悲しまないでくれ。
出来ないことがあれば、二人で克服すればいいだけのことじゃないか。
「ねえそれなら早速、材料を買いに行きましょう?」
「え、今から行くの? いいけど……」
「ちょっと待ってね。いまキッチンを片付けるから。食器を洗って、調味料をしまって、戸棚に鍵も掛けなくちゃ」
すっかり機嫌を直した彼女は軽やかにキッチンへ駆けて行く。
僕はプリンを一口食べた。
当たり障りのない甘い味だ。
二人で作ったホットケーキは、きっとこれより格段に美味しいに違いない。
またしてもSFに興味を持ってしまった私をお許しください。
読んで頂きありがとうございました。
ツッコミ、お叱り、お待ちしております。