サルトルノート
彼女は普通の女子高生だ。
しかし、普通とは自己の主観を客観に還元し一般化する暴力的な基準である。
彼女の生きてきた唯一無二の人生を、構造論的に回収し、乱暴にくくり、平板に叩きならす。いかに生きていようと、一切合切の区別なく、ただ一個の人間を有象無象に埋没させる。
ゆえにこそ、彼女は普通の女子高生だ。
生まれや暮らし生い立ちに、ほどほどの波があり、ほどほどに悩み、ほどほどに乗り越え、ほどほどに未来へ生きている。ほどほどに死を背負いながら。
普通のことだ。
§
「あなたは、極めてエリートな家庭の中で育った。知識階級ど真ん中、手を伸ばせば百科事典三十五巻セットやら専門書やら、なんにでも触れることができるような、知的な空間に生きていた」
ユングは彼女を見るや、そう評した。黒いベールを頭にかぶり、水晶玉を抱えて、電灯に照らされる自分の影を覗き込んでいる。
「間違いなく恵まれた環境で、愛されて育ったわ。でも愛し方が足りなかった、あるいは、あなたには届かなかった。あなたは、彼らとの間に深い隔絶を感じていた。少なくとも、あなたを愛する素晴らしい両親を、素晴らしいと客観的評価を下す程度には」
ユングの話を、彼女は筋書きの破綻したオペラを観るような顔で黙って聞いている。ユングは彼女を向いていない。
己の影が落ちる壁を見つめるユングは、むしろ、その影に話す言葉を教えてもらっているかのようだ。
「あなたは幼少期から友人に恵まれ、あまりコンプレックスに悩まされることはなかった。だからそれは、深く触れられないまま、あなたの疑問や不安を糧に、草の根のように浅く、広く、問題の範囲を一般化し、あなたの心の底に広がっていった。つまり」
ピクリとユングは顔をあげて影の頭を見た。
壁紙の厚さしかない灰色の女は淡々と告げる。
「世界とは、なぜこのように在るのだろう」
彼女はユングを見たが、ユングは彼女を見なかった。
§
あんなものはでたらめだ、と彼女は丁寧に私に言った。
そうだろうと思う。
§
世界に意味などない。
あるのは形だけ。ただ、そこにそれがそのように存在する、という事実だけだ。
なぜか、という問いを立てるのは人間だけだ。
なぜなら、という答えを立てるのは人間だけだ。
世界は答えない。
人間は無いものを在るものとして扱う。「そういうもの」を作り、「そういうもの」を名でくくり、「そういうもの」が存在する世界で生き始める。
神と呼ばれるもの。風に名をつけ、空気を拝み、供え物を置き捨てる。像を崇め、本を祀り、熱心に文節を唱える。
子どもの日記を諳んじた方が、まだしも有益である。少なくとも、その子どもは持ち上げられる錯覚に浸ることができるからだ。
世界は変わる。傲慢に、乱暴に、恣意的に。
世界は答えない。淡々と、冷ややかに、分裂し、増殖し、分割され、共有され、離散していく。
求めよ、さらば与えられん。
§
デモクリトスは死んだように笑っている。
「君も私も、肉の固まりに過ぎないよ。正確にはもっと細かい、粒子の集まりでしかない」
「会話をする粒子か。ロマンチックだね」
「会話なんて、とんでもない。声の出るタイミングが近いだけさ。私たちの存在は、棒が傾いて倒れる、そのプロセスを極めて遠大に煩雑にしただけだよ。微かな風に葉が揺れるさまを、踊っていると見立てるようなものさ。環境の影響を受けて動き回っているに過ぎないんだ」
「その割りには、出来すぎてない? 偶然で話がつながるかな」
「今、私は何語で喋ってたと思う?」
彼女はデモクリトスを見つめて口を閉じ、子猫が穴を覗き込むような顔をした。
デモクリトスはしたりと笑う。
§
世界がこのようにある、ということに、なんの意味もない。
だが、われわれは容易に、そこに意味付けることができる。
では、意味付けるということに、なんの意味を与えられるだろうか。
そして、その虚飾と幻想を取り払ったとき、われわれに残されるものはなんだろう。
無惨に弄ばれた残骸の転がる荒野のほかに、得られるものはなんだろう。
ただ在ることを許せない。
永遠に満たない水を注ぎ足すように、意味と知識をそそぎ続ける。いつか荒野も大海になると信じているのかもしれない。
水などありはしないのに。
§
「いいかしら?」
パルニメデスはそう言って話を切り出す。
誰に対し、なにを求めているかは分からない。
私に発言の許可を求めているのかもしれないし、パルニメデスの考えを理解することが求められているのかもしれない。
「いいかしら? この世界にはいろんな概念、解釈、思想が存在する。人によってマチマチで、時代によってバラバラで、国と地域でサマザマな、無数の理解がね」
パルニメデスはやれやれと首を振る。手に遊ぶボールペンの赤いフレームがチラチラと目に強く写る。
「そんな恣意に基づいた仮説のうえに仮説を重ねるから、逸れていってしまうのよ。天動説が運行線を重ねているようなもの。だから理解が届かず、思想が自分さえも惑わせていることに、気づかない。世界はもっと単純なルールで動いているわ」
パルニメデスはボールペンを胸ポケットに隠すようにしまった。しかし、服の形が歪んで、中に固い棒状のものが収められていることは分かる。
「在るものは在り、無いものは無い。それだけのことよ」
パルニメデスが服を撫でると、変な形に収まって傾いでいたボールペンはストンと落ち着く。質のいい服はそこに何かがあることを完璧に隠した。もしかしたら巧妙な手品で、すでに内懐に無いかもしれない。
§
「ぎぼぢわるい」
彼女は心配そうな顔をした。
袋を敷いたバケツを手に、湿らせたタオルを握っている。
「ごべん、だいじょうぶだがあ」
その顔を見るだけで胸骨の下が山なりに波打つ。食道が痙攣し、内管が剥離して雑巾絞りのようにねじくれている。耳が遠くなり、視界に赤黒い斑状の影が、紙に水滴を落とすように広がっていく。
握り潰されるようにひきつっていた胃袋が跳ねた。喉の奥から口内と舌が圧される。
こらえようとする暇もない。逆流した胃液は口内を満たして溢れる。止めようとした分だけ勢いをつけ、口から体液が吹き出した。
差し出されたバケツに胃液が跳ねて飛び散っている。その様子がやけにはっきり記憶に残る。新しいビニールの臭いが、腐乱物のような苦く酸っぱい吐瀉物の臭いにかき消されていく。悪臭と汚物に構わず、顔をバケツに突っ込んで腹の底を吐き出した。
あらかた吐き尽くし、腹は軽くなった。肺に饐えた臭いが残っている。胸の内側にこびりついているような、たまらなく不快な感触がある。指を突っ込んでかきむしりたい。指の代わりに唾を飲み込む。臭気と苦味と粘っこい痛みが下っていく。
跳ねた吐瀉物が髪についていた。最悪の気分だ。顔色も、さぞ悪いに違いない。
彼女は手際よく袋を縛ってバケツから抜き出し、代わりの袋を押し込んで縁に口をまくっていく。
その姿に鳩尾がムカムカとうずく。また気分が落ち込んだ。
「心なんてない」
彼女は答えない。
ささくれだった感情を慮ってくれていることは、容易に知れた。ゲロの残る歯を噛み締める。
最悪の気分だった。
§
「私に心があって、あなたには無い。
私に心なんて無くて、あなたにも無い。
私に心があって、あなたにも心がある。
それとも実は、私に心なんて無くて、でもあなたにはある。
……ねぇ、どれが一番幸せだと思う?」
§
バークリーは手に開いたラジオの基盤を退屈そうに叩いている。
「電波って面白くない? 見えも触れもできない何かが、水面の波紋みたいに、でも三次元的に波打って、空間を広がってるなんて」
「見えないのは、光の波長が長いからでしょ」
「ン……あなた、自分の感覚を過信してない? 見える波長があるのではなく、まれに見せてもらえるのよ。主体的に世界を知覚できるなんて、思い上がりもいいところ」
解体したアンテナを指示棒のように伸ばし、彼女の頬を小突いた。肌にめり込む銀の棒は彼女の肌色を映し込んでいる。彼女が不快そうに眉根を寄せた。
バークリーは首を傾げる。
「あなたのその感覚は、肌から、あなた自身から内発したもの? そんなはずないわ。感覚は、神によって与えられて、私たちの中で、あたかも目の前に世界があるかのように作られる。ちょうど、ラジオが電波を受けて、饒舌にしゃべくり倒すようにね。人体機能の奇跡を謳うより、遥かに合理的でしょ?」
「都合のいい神様だこと。ご親切に世界の夢を見せてくれるわけだ」
バークリーは犬のように口角をつり上げて、低く笑う。
彼女は頬の棒を払った。素直に手を引っ込めたバークリーは基盤をラジオの箱に戻し、つまみをあてがう。
「まあ、それがあなたにとって都合のいいことかどうかは、知らないけれど」
アンテナを差し込まれ、解体して広げただけのラジオは、基盤をさらしたまま音を漏らした。
彼女はラジオを指差してバークリーに尋ねる。
「なにか聞こえる?」
「ええ、素晴らしいジャズね」
ラジオは明日がどれほど素晴らしい晴れになるかを熱心に語っている。
§
「外れない占い、って知ってる?」
「いえ」
彼女はカフェテリアの窓際席で、レモネードに差したストローを回している。引き抜いたストローで私の鼻先を指差して、深夜のコンビニ店員のような顔で言った。
「物忘れに注意。ぼうっとして失敗する日。運命の出会いがあるかも」
「……それは」
言葉の続きを先取って、そう、と彼女はうなずく。ストローからグラスに垂れた滴を追って、ストローもまた透明感のある炭酸水に沈む。
「当たり障りのない、誰しもいつでもありうること。起これば当たったことになり、起こらなければ回避したか見落としたかになるって寸法ね。古典的で単純な詐欺」
彼女は昼間のライオンのように、のっそりと顎を腕に乗せて、窓から見える庭園を眺める。
「予知や予言と違うこの認識は、得たそばから生活に回収され、影響を与え始める。もしかしたら、の占いが、その日の人生を侵食する」
彼女の目がころりと動く。私を捉えた。
「人は認識によって、世界を見る目が容易に変わる」
雷は神が怒り鳴らしているのではないように。
サンタクロースはお父さんであったように。
認識が変われば世界は変わる。
「じゃあ、認識を作る、意識という現象そのものが幻想だと断じれば、どうなるかな。たぶん、現実と観念はばらばらになって、世界と結びつけることは困難になると思うけど」
認識の転倒した世界では、世界はおろか、自己さえも残らない。
「ああ……気持ち悪い」
彼女は小さく吐き捨てた。
§
メルロ・ポンティは歌う。
空を仰ぐオープンテラスを舞台に、腰かけて揺らす足をリズムに、透き通った声で歌う。
全人類の蒙昧を嘆き、無能を哀しみ、天恵を慶び、才覚を讃え、生を言祝ぎ死を悼み、生きる主体に感謝する。透明な歌を繰り返す。
「いい歌ね。うっかり感動しちゃったわ」
「ありがと」
草が風に震えるように軽く笑った。つと人差し指を立てて左右に振る。
「でも、感動したっていうのはマチガイ。耳に心地いい声だったから、後付けで感動した気になっただけ」
「あら、なんで?」
「人は体で生きてるんだよ。人間から起こるあらゆるものは、体が先立ち、後追いで思考や感情が起きる」
苛立たしいことがあったから怒るのではない。身体が興奮したために怒りの感情が追随する。
幸福だから笑顔になるのではない。笑顔を浮かべているから、幸福であるように感じる。
「あくまで体が主体だよ。精神だの魂だのもいいけど、体のことを忘れてはいけない。……でないと、地に足がつかなくなっちゃうよ」
ハミングのような含み笑いをこぼして、メルロ・ポンティはそう言った。
§
「あなたの体で受け取る世界の景色と、私の感覚で受け取る世界の景色は、それは同じ? それとも、違う? っく、うぐ」
手で口を押さえる。数秒と持つことなく、傍らのバケツに頭を突っ込んで背中を震わせる。湿った音がびちゃびちゃと響く。
震える顎から唾を吐いた。
「まあ、違うでしょうね。少なくとも、吐き気がするのは私だけだし」
悪臭を立ち上らせる袋の口を縛る。濁った液体が揺れる。
「……違うよね」
答えはない。
§
「人は世界を見るとき、恣意を避けることができません。その、いわば世界の意訳と言えるものは、動物的な機能としては、極めて合理的なものかもしれない。けれど、それゆえに、私たちは世界を正しく、ありのままとして見ることができません」
図書館の窓際で、フッサールは顔をうつむけて、内懐に隠す何かに話しかけている。そう思えるほど聞き取りづらかった。フッサールは肩を恐縮させながら、死にそうな声で言う。
「例えば、これを見たとき、私たちはどんな思考をするでしょう」
机を指先で触れて見せる。その気弱な手つきは、下手に揺らすと砕けると思っているかのようだった。
「まず『机』という名で判断し、また『タンス』や『犬』ではないと理解するでしょう。さらに『ものが載せられる』機能を願望するかもしれません」
盗み見るように目を向けたフッサールは、すぐに顔を逸らして、細い声を連ねる。
「そのほとんどが、見たものから受ける認識では、ありません。私たちが付加してしまう、認識です。ものに重ねられた別の意味を、見ないように囲って留めて……留保して。純粋に、世界を見なければなりません。でなければ、私たちは何を見ても、何も見たことにならない、から」
彼女は神妙な顔でフッサールの話を聞いている。
感銘を受けているのかもしれないし、エポケーを実践して声を音に還元し意味から切り離しているのかもしれない。あるいは、フッサールのかすれ声が聞こえていないのかもしれない。
§
「私が見てる『世界』は何なのか。ただそこに在って、気持ち悪いくらい不気味なもので、ワケが分からなかった。でも私が『見てる』世界も、同じくらいワケが分からなくて、気持ち悪い。けど、じゃあ、一体、世界を見てる『私』って、何なの?」
彼女は胃液に焼けたかすれ声で、呪うように言った。
「あなたが見てる『世界』は、あなたが『見てる』世界は。……『あなた』は、なんなの? それは私にとって、どういうもの?」
彼女は自分の手を、まるで他人のそれと知らないうちに取り換えられていたかのように、おぞましそうに見つめる。
「私は、なんなの?」
答えはない。
吐き気がした。
§
吐き気は高まる。
手に触れるものが、ものなのかどうかも確かではない。触れているかどうかも分からない。そもそも、触れているそれは実在するのだろうか。触れる手は存在するのだろうか。
黒く濁るような酩酊感に、脳がしわくちゃに潰される。視界は歪み、見えているかどうかも定かではない。胃の痛みは捻り潰すような次元を越え、引きつって反り上がり、胸の中心まで浮き上がっていた。真っ赤な痛みが喉から肩甲骨まで広がり、足の力は抜けて震えている。
目の前で、蝋人形の顔が覗き込んでいる。死神が死ぬのを待っているかのようだ。
洗面台にすがり付く力も抜け、タイル敷の床に倒れ込む。呼吸が浅く、意識は遠のいていた。
§
決断しなければならない。
ひとつとして確かなものなどないあやふやな世界で、不確かによって殺されないために。
私は私であることを選ばなければならない。
全て忘れ、幻想に身を委ね、ただ潮に流されて漂流するように。世界に任せて生きていくのか。
それとも、何の頼りもないまま、潮を御し、かき回し、海に落とした砂金を探すように。実存とその価値を、求め続けるのか。
私が私であるために、決断しなければならない。
人間は自由ゆえに、決断を迫られる。
§
カフェテリアの日当たりはよく、邪魔者を追い散らした空でふんぞり返る太陽が地上を見下している。
けっ、と散々噛み締めた苛立ちを、ガムのように吐き捨てた。
「ストレス性胃潰瘍だったよ」
薬とその説明書を机に投げ出す。彼女は驚いたようにその紙袋を見て、苦笑混じりに私を見上げた。
「それでお休みをなさっていたのですね。もう大丈夫なんですか?」
「らしーよ。しばらくは流動食中心だって。やんなっちゃう」
ため息をついて、わざと音を立てて彼女の対面に座る。勢いをつけすぎてお尻が痛い。その恥ずかしさと、己の境遇から、またムカムカとイラついてきた。
「ああ、もう、ホント、最悪!」
「どうしました?」
「だって! 散々あんなにのたうち回って、なのに、もっと早くかかってればよかったって! もう、ホント、この、苦痛はなんだったのって感じ!」
両腕で拳をつけた主張も、彼女にはあまり通じない。微笑ましそうに聞いているだけだ。
「そう怒らないでください。では、快気した暁には、私から何か甘いものを贈りましょう」
「お、いいね。ケーキとかシュークリームとか、たっぷり頼むよ」
「ええ。お任せください」
「あ、でもチョコ系もいいなあ。いやパフェかな。うーん、ドーナツとかも最近食べてないかも。……ああっ、ひどい! しばらく食べられないって言ったばっかなのに! 超食べたくなってきた!!」
「それは、なんていうか。すみません」
「もー、気をつけてよねっ」
「はい。それで、これは私が悪いのですか?」
「そうでもない」
気の抜けた会話をして、頬杖を突く。
「……ずいぶんな目にあったけど、得るものは、あったかもね」
「そうですか?」
「うん。私を縛るものは、本当の意味で、何一つとしてないんだ、ってね」
私の感覚、世界の見方は、私が自ら与えて作っている。何一つ縛られることなく、何一つ定められることなく。自ずからに由って、私は今、ここに在る。
肩をすくめて、笑みを作った。
「ただ、他人から押し付けられる『私』については、勘弁、って感じだけど。私を縛りはしないけれど、私の手も届かないし」
「そうですか」
彼女は目を伏せて、テーブルの上に乗せた手を重ねる。
「でも、あなたが、あなたであって私ではない理由は、なんでしょう」
「え?」
「私が私である理由は、私があなたではなく私を『私』だと考えている、それ以上のものがありますか? 私が『あなた』である可能性は、そんなにも低いものですか?」
「いきなり、なにを」
言っているのでしょう。
彼女はいたずらっぽく笑って、片目だけを薄く開きます。指先で遊ぶように、薬の袋をなでました。
大きな澄んだ瞳に映る、小さな人影。
「あなたの瞳……とても綺麗で、私は、好き」
答えはなかった。