第五章 猫耳カノジョ1
エンジンルームを後にし、地球へと戻るときのこと……
「ところで深月よ。野暮な質問なのじゃが、トオルのどこが良かったのじゃ?」
先頭を歩きながら肩越しで訊ねる保子莉に、深月がクスクスと笑った。
「本当に野暮なことを聞くのね」
「じゃから、先にことわりを申したであろう」
「ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだけど、ついおかしくって。そうねぇ、私を守るために闘ってくれた……と、言った理由じゃダメかしら?」
「まぁ、わからんでもないがのぉ」
「でしょ。まぁ、確かに入学当初の敷常くんは印象が薄かったけどね」
正直な感想をもらす深月に、保子莉も苦笑する。
「あやつもエラい言われようじゃな」
「えへ、そうかもしれないね。でも実際に話してみると、彼って意外と男っぽかったりするじゃない。そこへもって、あんな告白されたら思わず胸がキュンってなっちゃって」
エンジンルームから逃げだす際、襲いかかってきた再生体。その拳を真っ正面から受け止めたトオルの背中を思い出し、保子莉も曖昧に相づちを返す。
「なるほどのぉ」
「あら、気のない反応ね。じゃあ訊くけど、保子莉さんはどんな男性が好きなの?」
「そうじゃのぉ……いつもわらわのことを理解してくれて、常にわらわを想ってくれる相手ならば、それで充分じゃ」
「あら、意外と普通ね」
「人を好きになるのに、特別な理由などいらんじゃろ」
「それもそうよね」
そう答えつつ、深月の関心は保子莉へと向けられた。
「ところで保子莉さん? その猫耳と尻尾って本物なのかしら? どう見ても作り物とは思えないんだけど?」
黒く長い尻尾をしみじみ覗き込む深月に、保子莉は動揺を隠しつつ、自慢の尻尾をしなやかに動かしてみせた。
「電気仕掛けで動く特注品じゃからな、そのように疑うのも無理かしからぬことかもしれんのぉ」
隠し立てのできない猫耳と尻尾。容姿に関して今さら弁解などできるはずもなく、そう嘘をつくしかなかった。もっとも相手は油断ならない頭の良い優等生だ。それだけに保子莉も次に来るであろう質問を予測し、回答を思案していると、予想に反した言葉が返ってきた。
「ふーん……本当に良くできてるねぇ。それで、この宇宙船みたいなセットも作り物なのかしら?」
意味ありげな物言いだった。
何しろクレハ星人が心を読めなかった相手である。気を許せば足下をすくわれかねないと判断した保子莉は、わざとらしく呆れ眼を向けた。
「その様子からして、まるでここが本物の宇宙船とでも言いたげじゃのぉ?」
「そうだけど。もしかして違ったかな?」
ほくそ笑む深月に、保子莉はスカートのポケットの携帯電話をギュッと握りしめた。
『惑星保護区の監視者』
脳裏の片隅で浮かぶ懐疑的な言葉。もちろん具体的な根拠はない。だがトオルの義体や再生体を目の当たりにしながら、取り乱すこともなく、さらにこの場所を宇宙船と言い当てたのだから、普通の地球人と考えるにはあまりにも不自然だったのだ。
猫族の時雨保子莉が規定に反して現地人と接触している。
仮にもし深月が管理局の関係者であれば、それだけの理由で検挙することができるだろう。同時にそれは、今日まで築いてきたネコ缶転売ビジネスの廃業を意味し、場合によっては宇宙刑法に基づき、辺境惑星への流刑も免れないものだった。
言い訳の出来ない窮地に追い込まれ、保子莉の瞳に焦りと覚悟が宿る。科せられる極刑から逃れるためにはただひとつ。
目撃者である一里塚深月の記憶を抹消することだった。
「あっ、ケータイ」
不意に発せられた深月の声に、保子莉は振り返り、自前の携帯電話を素早く銃にトランスフォームさせて深月の眉間に押し当てた。
「バレてしまってはしょうがない。残念じゃが正体を知られた以上、おぬしが見たこと全てを忘れてもらわなければならん」
リスク回避のためにリスクを重ねる行為。その悪党さながらの言動に、深月は困惑しながら数歩退いた。
「な、なんのこと? いったい、どうしたの保子莉さん?」
「この期に及んでまだシラを切るか? おぬしが惑星保護区の監視者であることくらい、すでにお見通しじゃわい!」
「監視者? ちょ、ちょっと待ってよ! 私は……」
疑念をもたれ、慌てて両手を振って否定する深月。だが保子莉は「問答無用!」と言い放ち、引き金に掛けていた人差し指に力を込めた。
ぱぴゅんっ!
奇妙な音と共に携帯電話の銃口から光が放たれた。同時に深月は抵抗する術もなく、回らない呂律でもって言葉を返す。
「……ただ……私のスマホが無いから……」
「なんじゃと?」
意識を失い、膝からガクリと崩れ落ちる深月を、保子莉は慌てて支えた。
「……間際らしいことばかり並べ立てるから、バックアップも取らずに記憶を消してしまったではないか」
深読みしすぎた自身の失態に、猫娘は頭を抱えた。
「困ったのぉ。かと言って、いつまでもこんなところに、おるわけにもいかんしのぉ」
と、ひとり途方に暮れる保子莉だった。
「何やってんだよ、トオル! もっとガードを固めてけ!」
激しく攻め立てる再生体のパンチを喰らい続けるトオルに、長二郎がボクシングのセコンドさながらに檄を飛ばす。
「さっきまでのカッコいいお前は、どこに置いてきちまったんだよ!」
告白直後の威勢はすでになく、それどころかエンジンルームの隅に追い詰められ、逃げ場を失っていた。
再生体から保子莉と深月を守った後のこと。
嫉妬で怒り狂った再生体の八つ当たりに圧されていた。しかも相手は本能的にトオルの頭が打たれ弱いことに気付き、執拗なまでに頭部を攻めてきていたのだ。
「手を出せぇ、手を! もっと積極的に手を出して攻めてけよ!」
ここでトオルが倒されれば、たちまち外野に危険が及ぶだけに、長二郎も必死である。
――言うほど、簡単じゃないんだよ!
反撃を許さない打撃の応酬。
懸命にガードをしても、両腕の隙間をすり抜けてくる拳を受ける度に、脳みそが揺さぶられ、同時に瞼が重くなっていく。口の中では生ぬるい血の味が広がり、トオルの精神と忍耐を徐々に削ぎ落としていた。
「うがっ! うがっ! うがっ! うがぁぁぁっ!」
――いっそ、このまま倒されて楽になりたい……
この苦境から逃れられるなら、そうしても良いとさえ思い始めていた。
「なぁなぁ、クレアたん。なんでトオルの奴は小さくなってんだ?」
身長が縮み、四肢も細くなっていくトオルの形態。長二郎からすれば、それは萎んでいく風船のように見えたに違いない。もちろんクレアも、その凋落ぶりを見逃すはずはなく、端末でもってトオルの身体状況を確認する。
「たぶんですけどぉ、顔に受けた強打によってぇ、闘争心が薄らぎ始めてるんでしょう」
「ざけんなよ。ボスキャラ前にして戦意喪失かよ」
頭を抱えて苦悶する長二郎。だが……
「いや、待てよ。なぁなぁ、クレアたん。例えば、その端末から義体のパワーアップとか自動操縦とかできないのか?」
苦し紛れな素人の閃きに、クレアが一考する。
「そうですねぇ、できなくもないですけどぉ……。わかりました。ちょっと乱暴ですけどぉ、やってみますねぇ」
そう決断するなり、端末操作を始めるクレア。
「あのぉ、クレアたん、何してんの? まさか、マジでアレに何かすんの?」
「えぇ。トオルさまの頭と分離してぇ、義体だけの自動操縦に切り替えますですぅ」
まぁ、見ててくださいと、クレアは闘う両者に割って入っていった。
――こんなバケモノ相手に、僕が勝てるわけがなかったんだ……
と義体の力を過信し、自身の慢心と浅はかさを後悔したときだった。
「クレアキィィィックぅ!」
突如、美脚から繰り出されたフライングドロップキックを食らって錐揉み状に吹っ飛ぶ再生体。卑怯極まりない不意打ち行為。だが窮地に追い込まれていたトオルにとって、それは願ってもないフォローだった。
「ク、クレア……」
瞼を腫らして情けない声を出していると、クレアが慈悲深い言葉をかけてきた。
「トオルさまぁ、痛かったでしょ。でもぉ、もう安心ですよぉ。すぐに苦痛から開放させて差し上げますからねぇ」
その優しさに心が癒される。……が、ろくに説明もないまま、いきなり頭を鷲掴みにされ、力任せにグリグリと首を捻られた。
「痛たたぁっ! 痛いってクレア! クレアの力で引っ張ったら首の骨が折れちゃうよ!」
「首と義体を接着しているぅ糊着細胞がぁ分解できていないのでぇ、ちょっとだけぇ我慢しててくださいなぁ」
「いったい何を言ってるんだか、分からないよ!」
首筋に走る激痛に、目を閉じて歯を食い縛っていると、浮遊感と同時に四肢の感覚がなくなり、首の痛みがスッと引いた。その不自然な感覚に恐る恐る目を開けてみれば、なぜかクレアに抱えられていた。
「ク、クレア。なんだか、まるで体が無いみたいなんだけど……」
「みたいじゃあなくってぇ、無いんですよぉ。ほら、トオルさまのお体はあちらですものぉ」
とクレアに正面を向けられて見れば、首の断面を青白く光らせて座り込んでいる『かりそめ』の体がそこにあった。
「ク、クレア……ぼ、僕の体から、僕の頭が無くなってるんだけど」
「説明は後でしますからぁ、取りあえず落ち着きましょうねぇ」
首と胴体の生き別れ。義体に指を差すことも叶わず、クレアのほうに振り向きたくとも振り返れない分離体験に狼狽えていると、首の無い義体がひとり立ちをし、肉体を膨張させて躍動し始めた。その勇姿に「首なし騎士、カッケぇぇぇーっ!」と長二郎が歓喜したのは言うまでもない。
「今から義体だけでぇ再生体と闘いますからぁ、トオルさまはぁ、もう痛い思いをしなくていいんですよぉ」
頭だけとなったトオルを抱え、女神のように微笑むクレア。……が、その背後に殺意を漲らせた巨影が忍び寄っていた。
「クレア! 後ろ、後ろっ!」
「ご心配なくですよぉ」
組んだ両拳を高々と振りかざす再生体を見て、クレアが余裕の笑みを浮かべる。
「うがぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「クレアぁぁぁぁっ!」
岩石のような拳がクレアの頭上に振り下ろされた。だが間一髪のところで、頭の無い義体がそれを受け止めた。
「全てのリミッター解除した今ぁ、トオルさまの義体はぁ無敵のフルパワーで闘えるんですからぁ、甘く見ていると大怪我しますですよぉ」
そして勝ち誇ったように命令を下す。
「と言うことでぇ、やっちゃってくださいですぅ!」
すると義体は即座に再生体の腕を絡め取り、その巨体を遠くへブン投げた。その機敏さと加減知らずの怪力振りに、クレアが満足げに頷いていた。
とは言え、視覚も聴覚も備えていないのに、どうしてそんな芸当ができるのだろうか。
「空間を把握する自立型次元感知センサーの情報を元にぃ、当社が独自に開発した脊椎反射プログラムで動いてますですよぉ。まぁ、言ってみれば昆虫のようなものですねぇ」
そう言ってクレアは頭だけとなったトオルを抱え、長二郎のもとへ駆け戻っていき……
「それでぇトオルさまぁ、お怪我の具合はどうですかぁ? かなり痛いですかぁ?」
ボコボコに殴られたためか、顔全体が火を噴くように熱く、瞼や唇も腫れあがり、奥歯もグラついていた。
「可哀想に……。わかりましたぁ。このクレアが心を込めて手当てしてあげますですよぉ」
クレアはその場でアヒル座りを決め込むと、トオルの頭を膝に置き、端末でもって診察を始める。
「ごめん、クレア。僕がもう少し義体をうまく使いこなせていれば、こんなことをする必要もなかったのに」
「そんなことありませんですよぉ。こうやってトオルさまのお世話ができるだけでぇ、クレアは幸せですからぁ」
クレアの介護を受けながら、自身の不甲斐なさを悔やんだ。気弱な性格で根性も無く、いつも誰かを頼ってきた。そして今も再生体に負けて、こうしてクレアの保護を受ける結果となっている。
――もっと強くなりたい
弱い自分自身に苛立ちながら、そう強く切望するトオルだった。
その一方で剛力無双の相手に対し、妙技を繰り出し続ける義体の闘いぶりに、長二郎が胸を熱くさせていた。
「やっぱ、デュラハン、強ぇわ……。最初から義体だけで闘わせておけば良かったんじゃねぇのか?」
向かってくる相手をものともせずに、応戦し続ける義体。その活躍振りに目を見張る長二郎だったが……その表情がだんだんと険しいものに変化していく。それもそのはず。義体が再生体をぶん投げる度にエンジンルーム内の設備が破壊され、至る箇所から火が噴き出し始めていたからだ。
「って……おいおい! クレアたん、いくらなんでも、アイツやり過ぎじゃねぇのか?」
慌ただしく稼働する船内の自動消化システムに、長二郎が冷や汗混じりに後ろを振り向けば……トオルのおでこに『の』の字を書いているクレアが。
「ねぇ、トオルさまぁ。取っておきの治療法があるんですけれどもぉ……それを今から試してよろしいですかぁ?」
痛みから早く開放されるならば、どんな荒療治でも構わないと、トオルは振れない頭で首肯した。
「ではぁ、失礼してぇ」
生首を持ち上げ、嬉しそうに顔を近付けるクレアに、トオルは無い体でもって尻込みする。
「ちょっとクレア? いったい何するつもりなの? まさか……」
「んふっ。何ってぇ、そんなこと決まってるじゃないですかぁ。治療ですよぉ。ちぃ・りょぉ・う」
甘い吐息を漏らし、最後に呟いた「う」という形を保ったまま、艶やかな唇を寄せるクレア。奪われかねない自身の貞操。確かにキスはしてみたいが、ファーストキスは好きな人としたいのだ。が……
――いや、待てよ。予行練習は必要かも
考えを改め、打算的な思いを巡らしていると、長二郎がクレアの手からトオルを取り上げた。
「それだけは断じてさせるくぁぁぁぁぁあっ!」
ギリリと食い込む長二郎の爪先に、トオルが悶絶さながらの声を上げたのは言うまでもない。
「んっもぉ! 私のトオルさまを返してくださいなっ!」
お気に入りのオモチャを取り上げられた幼児のように、大きなお尻で地団駄を踏むクレアだったが……
「今はそれどころじゃないぞ! 見ろ、アレを!」
うねる炎と煙の中で闘い続ける義体と再生体に、クレアが悲鳴を上げた。
「大変! エンジンのダメージが著しく最悪ですぅ!」
真っ赤な警告画面が表示されている端末画面に、クレアが真っ青になった。
「まぁ、火事になっているくらいだからな」
トオルの頬を抓る長二郎に、クレアが声を震わせた。
「すでに臨界点を突破しちゃってぇ、爆発寸前なのにぃ、何、のん気に構えてるんですかぁ!」
ギギギッとエンジンから軋むような音が辺りに響き渡った。
「おいおい。マジ勘弁してくれよ」
「どうしましょう、どうしましょう!」
爆発寸前の動力源に、うろたえるクレア。こうなっては原因の発端となっている再生体と義体の闘いをやめさせる方法以外ないだろう。
「と、とりあえず義体を止めようよ」
「そ、そうですねぇ。トオルさまの言うとおりにしてみますぅ!」
と、額に汗を浮かべて端末操作するクレアだったが……
「あれぇ、変ですねぇ? そんなはずはないんですけどぉ?」
端末と義体たちを交互に見比べ、クレアが小首を傾げていた。
「どうしたの? 早く義体を止めないと」
「それがぁ……こちらのコントロールを受けつけないみたいでしてぇ」
クレアは壊れたオモチャでも見るように義体を眺めながら、推測を述べる。
「おそらくですけどぉ破損したエンジンから漏れ出している反重力波の影響でぇ、命令系統になんらかの不具合が生じちゃったのかもしれませんですぅ」
言い知れぬ予感に、冷ややかな汗がトオルの後頭部を伝った。
「つまり、それって……」
「はい。もぉ、誰もあの二人の闘いを止められませんですぅ」
同時に凄まじい爆発音と熱風が吹き荒れ、反射的に身を縮める頭と二人。見れば自動消化装置が停止し、あちらこちらの空間にHUDの警報灯が光瞬いていた。
「ク、クレア、どうにかならないの?」
「酸素供給をカットすればいいんですけれどぉ、それだと私たちも死んじゃいますのでぇ、今はどうすることもできないんですぅ」
つまり、八方ふさがりということらしい。
「だとすると、この状況において俺たちはどうすればいいんだ? 闘いが終わるまで待つのか? それとも、この場から逃げたほうがいいのか?」
二択を切り出す長二郎の問いに、クレアが躊躇なく決断の声を張り上げた。
「とりあえず逃げますですぅ!」
目指すは地球とばかりに、先ほど保子莉たちが出て行った隔壁へと走るクレア。その後ろを、トオルも長二郎に抱えられたまま後を追う。あの扉の向こう側へ行けば、この状況から脱することができる。そう信じてやまなかった。だが特殊合金の扉は、クレアの解除要求に応じることなく固く閉ざしたままだった。
「ぬぅあんでですかぁぁぁあっ?」
迫る火勢に加えて充満しつつある煙の中、クレアが懸命になって原因を探り始める。
「クレア! まだ開かないの?」
熱波に耐えながら、開放作業のクレアに問えば……
「すみません、トオルさまぁ。火災による防壁機能が働いてましてぇ、隔壁が開きませんですぅ」
逃げ場のない袋小路に、三人の表情に落胆の色が浮かぶ。
全滅。
その運命を受け入れるように、長二郎が虚空を見上げた。
「ようするに、このままだと俺たちは地球に帰還することもできず、宇宙で火葬されちまうというわけか」
「冗談じゃないですぅ! 私の星では水葬なんですからぁ、ローストチキンみたいにぃ焼かれるなんてぇ、まっぴらごめんですぅ!」
「そうだよなぁ。俺もまだ観ていないアニメもあるし、完結していない漫画もあるしなぁ……」
パニックからなのか論点がズレまくっている二人。このままでは本当に死んでしまう。と未練タラタラな長二郎に抱えられたままトオルは無い知恵を絞った。……が、しかしここは宇宙空間。それだけに、これといった有効的な脱出手段が思い浮かばなかった。と、そこへ長二郎がひしゃげた隔壁を指し示した。
「だったら、学校へ戻ればいいんじゃね?」
「それが先ほど、こっちにぃ戻ってくる時にぃ、再生体が二度と地球へ逃げないよう空間接続解除をしてしまいましてぇ、もう学校へは行けなくなってるんですぅ」
「後戻りもできねぇのかよ!」
ハシゴを外されたような状況に、さすがの長二郎も眉を曇らせた。
「じゃあ、その空間を接続し直せば? ねっ、そうしようよ。クレアなら簡単なことでしょ?」
大抵のことならば、ほとんど解決できるクレアである。きっとこの提案も難なく実行してくれるはず。だがクレアの反応はトオルの意に反したものだった。
「実はぁ空間接続においては厳密な位置情報と設定が必要でしてぇ、短時間で設定ができるほど簡単なことではないんですよぉ」
「それでもやらなきゃ、僕らは死んじゃうんだよ!」
勢いを増す炎に怯えながら、必死になって訴えるトオルに対し、クレアが困惑しながら答える。
「エンジンが爆発するまでぇ……持って数十分。それに対してぇ空間再接続するにはぁ、どんなに早くてもぉ三十分を要しますですぅ」
その成す術のない返答に、トオルの脳裏に絶望の二文字が浮かんだ。
「そっか……。僕らはあの二人と一緒に、宇宙の藻屑となるのか」
思えば十五年……短い人生だった。心残りといえば、深月との交際を果たせなかったことくらいだろうか。
「せめてもう一度、もう一度だけ一里塚さんに会いたかった」
と充満する煙にむせ返っていると、長二郎が容赦なく頭を叩いた。
「縁起でもねぇこと抜かすんじゃねぇぞ。クレアたん、脱出装置みたいなのとか無いのかよ!」
「脱出ポッドのことですかぁ? まぁ、あるにはありますけれどぉ」
「じゃあ、それに乗って逃げようぜぇ! それでどこにあんだ、そのポッドは?」
するとクレアが当惑の色を浮かべながら、目の前の制御不能な隔壁を指した。
「それがぁ、この先の向こう側のエリアでしてぇ」
「よりにもよって、そっちかよ」と毒づく長二郎。まぁ、気持ちはわからなくもない。
「だったら、ほかの道から、その脱出ポッドのある所まで行こうよ」
すかさず迂回路を提案するトオル。遠回りでも、助かるならば多少の危険は覚悟の上だ。と思っていると、クレアが気まずそうに首を横に振った。
「それがぁ、ほかの通路からは行けないんですぅ」
まさかの万事休す。聞けば、負傷者などの患者をいち早く脱出させるため、施術室付近に配置してあるとのことらしい。確かに合理的で人命優先の設計ではあるが、結果としてアクセスするためのルートが限られているのでは、何の意味も果たしていないに等しい。すると長二郎が呆れた口調で学校側の通路を指差した。
「ちなみにあっちには、何があんだよ?」
「そうですねぇ。確か、あっち側にあるのはぁ」
とクレアは一考し……ポンッと手を叩いた。
「ありますぅ! ありますぅ! 格納庫がありましたですぅ!」
「マジか! で、格納庫には何があんだ? 小型戦闘機か? それとも人型戦闘機動メカか?」
長二郎の問いに、トオルも期待の色を浮かべた。この修羅場から一刻も早く脱出できるのであれば、どんな乗り物であろうと文句は言わないつもりだった。が……
「戦艦じゃぁないんですからぁ、そんな大袈裟なメカなんかぁ積載してるわけがないじゃないですかぁ! そもそも格納庫にあるのはぁ、修理でお預かりしているぅお嬢さまのライドマシンが置いてあるだけなんですからぁ、過度な期待はしないでくださいなぁ!」
生存を賭けた危機的状況において、よもや『空飛ぶスクーター』などの単語が出てくるとは思わなかった。
「あれぇ? お気に召してないようですねぇ?」
「お気に召すも何も、保子莉ちゃんのバイクじゃなぁ」
「空飛ぶバイクなんかで、僕らの命が助かるわけないしね」
このごに及んでバイクがなんの役に立つのだろう。と長二郎とせせら笑っていると……
「おふたりと何をおっしゃっているんですかぁ? スクーターと言ってもぉ宇宙技術満載のバイクなんですよぉ。地球のゴムタイヤで走る乗り物と一緒にしないでくださいなぁ」
クレアの説明によれば、大気圏突入ができるほどの性能を兼ね備えているらしく、トオルたちはその残された脱出手段に一縷の望みを賭けるほかなかった。
「とにかく急いでぇ、ここから逃げますですよぉ」
クレアは長二郎からトオルを奪うと、猛火の中で激闘している両者を掠め見ながら、壊れた隔壁に向かって走り出した。
「ちょっと待って、クレア! 僕の体が、まだあそこにいるんだけど」
「こんな時に、なに非常識なこと言っているんですかぁ。お体より、命の方が大切なんですからぁ、男らしく諦めて下さい」
いや、頭だけ生き残るほうがおかしいと思うのけど。
「そんなことありませんですよぉ。頭さえあればぁ、また新しい義体をご提供できるんですからぁ、駄々をこねないでくださいなぁ!」
説き伏せるクレアの言葉を聞きながら、トオルは遠退く義体を求め、あるはずのない腕を伸ばした。……が、やはり頭だけでは、どうすることもできなかった。
結局、三人は逃げることを優先し、煙を引きずりながら通路を走り続けた。
「ここですぅ!」と格納庫を披露するクレアに、トオルたちは目を疑った。
「これが格納庫?」
「物置き小屋の間違いじゃねぇのか?」
てっきりロボットや戦闘機などが収納されていると思っていた区画。……なのに、軽自動車がギリギリ一台収まる程度の狭さとは。これなら自分たちの部屋のほうが、まだマシだ。
だが、クレアはそんなことを気にする風もなく生首を長二郎に預けると、レストアしたてのライドマシンの始動に取り掛かる。
「リアクター次元レギュレーター正常ぉ。パルスジェネレーターへの接続完了ぉ……」
前方のシールドスクリーンに映し出される計器表示を入念にチェックするクレア。その間、トオルは長二郎の手の中で固定アンカーに支えられているライドマシンを眺めていた。
「いつかは僕もこういう大きなバイクに乗って、一里塚さんと……」
地平線の彼方が茜色に染まる夕暮れ時。
海岸から吹きつける潮風を受けながら、ハンドルを握る自分と後部シートに座る深月。彼女の細腕が自分の腰を抱きしめ、胸が背中に密着する。そして静かな浜辺で肩を並べ、暮れゆく夕日を背景に無言でキスを交わす二人。
などと夢想に耽っていると、不意にクレアに頭を掴まれ、座席シート下に設けられた収納空間であるラゲッジスペースにゴロンと放り込まれた。
「い、いきなり何するのさっ!」
「お楽しみ中のところ、すいませんですぅ。それよりもトオルさまぁ、ちょっと窮屈でしょうけどぉ、ほんの少しだけぇ、この中で辛抱しててくださいなぁ」
「なんで僕が、こんなところに入れられなければならないのさ!」
巣穴のような空間から猛抗議するトオルに、小さく手を振りながら、座席シートをゆっくりと閉じていくクレア。
「地球に着いたらぁ、すぐに出してさしあげますからぁ、それまで良い子にしててくださいねぇ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! クレ……」
悲しいことに、トオルの訴えは光とともに容赦なく遮られた。
「さぁ、長二郎さん。行きますですよぉ」
「おう!」
座席シートに跨がるクレアに続き、後部座席に飛び乗る長二郎。同時にライドマシンの四方側面から透明なシールドが伸張し、前方のシールドスクリーンと連結接続された。
「おおっ! 凄ぇーっ! さすが宇宙のハイテク!」
搭乗席を丸ごと包みこみ、気密性を保つように張り巡らされた全面シールド。そのコックピットシステムに長二郎は歓喜の声を上げ……同時にクレアの前傾姿勢に鼻血を垂らした。
「おぉ……王道のライディングスタイル……」
そんな同乗者のエロ視線を尻目に、クレアは遠隔操作でもって格納庫の外部ハッチを開放する。同時に重力は瞬く間に失われ、塵と一緒に格納庫内の酸素が外へと吸い出されていく。そして頃合いを見計らい、クレアは固定アンカーを解除し、船外の宇宙空間を見据えた。
「クレア、いきま〜すぅ!」
リアクターエンジンを甲高く唸らせ、ドンっと一気に加速するライドマシン。その急激な慣性重力に、身構えていなかった長二郎は後方シールドに叩きつけられ、また収納空間に閉じ込められていたトオルも後ろ側面に叩きつけられ、激痛にもがいていた。
クレアは上方に浮かぶ青い地球を垣間見ながら大きく旋回し、美しい流線形を描くスペースクルーザーの正面に回り込んだ。いたる箇所から火柱を上げて朽ち果てていく宇宙船。その様子をクレアは物憂げに見つめ、ため息をついた。
「思ったよりも酷い状態ですねぇ……。仕方ありませんからぁ処分しちゃいますですぅ」
気の進まぬ表情で端末を弄り始めるクレア。すると船の直上に巨大な漆黒が出現し、一瞬で宇宙船を飲み込み、跡形も無く消滅してしまった。
その不可思議な超常現象を目の当たりにした長二郎が、後頭部を摩りながら訊ねた。
「クレアたん。今のって……何?」
「ダストホールですよぉ。早い話が人工ワームホールと言ったところですぅ。あのままだとぉ大爆発を起こしてスペースデブリになってしまう恐れがあったのでぇ、ダストホールに廃棄しましたですよぉ。あの空間内ならぁ爆発したところでぇ誰にも迷惑がかかりませんからぁ安心なんですぅ」
晴れない表情をして宇宙テクノロジーを説明するクレアに、長二郎も同情の言葉を唱えた。
「でもよぉ、宇宙船が無くなったら、帰れなくなっちゃうんじゃねぇ? まぁ俺としては、いつまでもクレアたんが地球にいてくれると嬉しいけどよぉ」
「爆発するまでぇ救難信号が会社のほうにぃ送信され続けますからぁ、その点はご心配なくですよぉ。ただ、それよりもぉ会社への報告が面倒なんですけどぉ……」
「もしかして事後処理ってヤツ?」
「はい。正直なところぉ、始末書を書きたくないのがぁ本音ですぅ」
憂鬱な面持ちで愚痴をこぼすクレア。が、すぐに気持ちを切り替え
「まぁ、済んだことを考えても始まりませんしぃ、その時はその時で考えますですよぉ。とりあえず地球に帰りましょう。いつまでもトオルさまをお尻の下にぃ閉じ込めておくわけにもいきませんですからぁ」
そう言ってクレアは全面シールドをしろがねの耐熱仕様に変成させると、マシンの鼻先を青い星に向け、重力に引かれるように降下した。
無事に大気圏を突破したライドマシンは、真夜中の南太平洋へと着水し、一路、日本を目指して北上していた。
「トオルさまぁ。地球に着きましたですよぉ」
煤だらけの顔もそのままで、運転を自動操縦に切り替えて事の成り行きを説明するクレア。だが、それらはトオルにとって納得できない話ばかりだった。
「元の体どころか、義体まで消してどうするのさ? これじゃあ一里塚さんに会わす顔がないじゃないか!」
もっともこの場合、顔と言うより体がないのだが。
「会社とのぉ連絡が付き次第ぃ、早急に新しい義体を取り寄せますからぁ、どうか機嫌を直してくださいなぁ」
狭いマシンの中で平謝りするクレアに対し、トオルは大声を張り上げた。
「義体は代わりがあるからいいよ! でも、オリジナルの僕の体はどうするつもりなのさ?」
「残ったトオルさまから幹細胞を採取してぇ当社委託のバイオ・リリース社で一から体を作り直しますですぅ。ですからぁ、そんなに怒らないでくださいなぁ」
「怒ってなんかないさ! ただ僕はこれからのことを考えているだけだよ! これから一里塚さんと付き合うことになるんだから、体のことを考えるのは当然じゃないか!」
「ですよねぇ。トオルさまの言っていることはもっともですぅ」
健気に相槌を打つクレアに対し、トオルは不満をぶちまけ続けた。……が、エネルギーを必要とする肉体がないためか、すぐにスタミナが尽きてしまい、クレアの腕の中で眠りに落ちてしまった。すると後ろで静観していた長二郎が手を合わせてクレアに詫びた。
「ゴメンな、クレアたん。トオルの奴がしつこくって」
だがクレアは嫌な顔ひとつせず、無言で首を横に振る。
「ついこの間まで、こいつは人見知りが激しくってさぁ、自分の意見なんか口にできないほど大人しい性格で、俺もいつも心配してたんだ。でもよ、クレアたんたちと知り合ってからは、トオルもずいぶんと変われたと思うんだ。つまり、その……なんだ、上手く言えないんだけどさ、トオルも俺も、クレアたんや保子莉ちゃんと出会えたことに感謝してるんだぜ。だからトオルの言ったことは、あんまし気にしなくっていいから。って、俺が言いたいこと分かってくれるかな?」
上手く気持ちを伝えられない長二郎に対し、クレアは小さく頷くだけだった。
「そっか……。俺があらたまって言わなくっても、クレアたんにはすべてお見通しだったな」
するとクレアは寝息を立てているトオルの前髪を撫でながら言う。
「……長二郎さんは、いい人ですねぇ」
「あれ? 今頃、気づいたの?」
「もちろん最初から知ってましたですよぉ。いつだって親身になってぇトオルさまのことを考えていたこともぉ、全部、お見通しですぅ」
クスクスと笑うクレアに、長二郎は「それほどでもねぇよ」と照れ笑った。
「さて、トオルさまの体力も限界のようなのでぇ、夜が明ける前にぃ、急いで家に戻るとしましょう」
そう言って自動操縦を解除し、ライドマシンのスロットルを開くクレア。それに伴い、空飛ぶマシンは海面に白く長い尾を引きながら、あっという間に小笠原諸島を縦断したのだった。