第四章 奪還2
「まずは、おぬしらが使えそうな武器を用意せねばのぉ」
警戒しながら先頭をいく保子莉に、長二郎が目を輝かせた。
「それって、もしかしてレーザーライフルなのか? それともビームセイバーか?」
すると猫娘が最後尾に視線を向けた。
「おーい、クレアよ。この船の武器庫はどこじゃ?」
「なに言ってるんですかぁ。この船は一般クルーザーなんですからぁ、武器庫なんかぁあるわけないじゃないですかぁ」
「だ、そうじゃ」
「ねぇのかよ!」
「まぁ、何かしらあるじゃろうから心配せずとも良い。それよりクレアよ。良くそんな非武装状態で、こんな辺境惑星まで来たものよのぉ。道中、海賊にでも遭遇したら、どうするつもりだったのじゃ?」
「その点ならぁご心配ありませんですよぉ。なにしろ必要最低限の経費だけしかぁ持ってませんからぁ、襲われたとしてもぉ最小限の被害で済みますですよぉ」
にこやかに答えるクレアに、保子莉が呆れた調子で言う。
「何を寝ぼけたことを。言うておくが、金品だけが海賊の獲物じゃと思ったら大間違いじゃぞ。金が無ければ人質として捕らえて身代金要求。それで応じる者がいなければ船を闇ルートで売り払い、乗務員を身売りするという末路が待ち構えておるのじゃぞ」
つまり何事もなく無事に生還できることは、ほぼ皆無といったところか。
――できることなら、そんな物騒な事件に巻き込まれたくはないな……
などと思っていると、クレアが涙目になってトオルにしがみついた。
「そんな恐ろしいことを言わないでくださいなぁ。帰るのが怖くなってきちゃうじゃないですかぁ」
「安心せい。帰星する際にはわらわの船が同行いたすから心配無用じゃ。しかし社員をひとりで地球に派遣するコスモ・ダイレクト社の神経が理解できんのじゃが……もしかして人手不足なのか?」
「色々と社事情もあるんでしょうけどぉ、単純に今回の事故案件がぁ、簡単なことだからだと思いますよぉ」
「未開惑星の原住民の首が吹っ飛ぶような事故が軽んじられるとはのぉ。いったい普段はどんな物騒な案件を請け負っているのか、聞いてみたいものじゃわい」
「そうですねぇ。大きいものでは小惑星の衝突による惑星半壊、全壊などでしてぇ、そういう損害には複数人で対応してますですよぉ。あとぉ近頃ではブラックホール災害におけるぅ……」
銀河スケールの雑談を始めた宇宙人二人にトオルがあっけにとられていると、長二郎がスマートフォン相手に親指をひっきりなしに動かしていた。
――ネットで再生体の対抗策でも調べているのかな?
しかしここは宇宙空間のはずであって、電波が届くはずがないのだが。と、長二郎のスマートフォンを覗き見れば……なぜかメモ帳を使って保子莉たちの会話を記録していた。
「なにしてんの?」
「見ればわかんだろ。将来、宇宙に出たときに備えて、メモしてるんだよ」
まったくもって意味が分からなかった。そもそも将来的に宇宙に行くことがあるかどうかもわからないのに、どうしてメモを取る必要があるのだろうか。
「アメリカ航空宇宙局(NASA)にでもいく気なの?」と将来の就職先を冗談半分に訊ねれば……
「NASAかぁ。昔、NASAで地球を守るための惑星保護管を募集してるのは聞いたことあっけど、俺の学力じゃ、ちょっとハードルが高けぇかなぁ。それに宇宙に行けるって保障もねぇしなぁ」
真面目な顔で将来を語る親友。どうやら本気だったようだ。
目的の施術室に着くと、真っ先に制御機器に詰め寄って解析を始めるクレア。培養治療におけるトラブルだけに、進捗ログを見直す表情も真剣そのものだ。その一方で、保子莉は収納壁を片っ端から漁って武器の代わりになるような物を探していた。
――僕の体は、いったいどうしちゃったんだろう
トオルは破損した培養カプセルと床を濡らす培養液を見て、肩を落とした。自分の体が深月を攫った挙げ句、この船内のどこかに立て籠もっているのだから、トオルの心境としては決して穏やかではない。
「まったく、この船にはろくな装備が無いのぉ」
「おい、それはどういうことだ? ってか、俺たちが持つはずの武器は?」
「残念じゃが、おぬしらに持たせられるような武器がなかったということじゃ」
意に満たない顔をする保子莉に対し、長二郎が露骨に訝しげな視線を投げる。
「マジで、なにもねえのかよぉ?」
「いや、あるにはあったのじゃが……宇宙蚊撃退やゴキブリ潰し機(G・クラッシャー)の類しかなくてのぉ」
他人事のようにヤレヤレと肩をすくめる猫娘に向かって、長二郎が吠えた。
「っざけんなよ! ドアを一撃でブッ壊すようなバケモノ相手に、害虫退治の道具だけで戦うなんて冗談じゃねぇぞ!」
「無いものは無いのじゃから仕方あるまい。文句があるなら、この船を管理しているクレアに言ってくれ」
すると鬼の形相をしながら、管理者が猫娘を手招きした。
「お嬢さまぁ。ちょっと大事なお話がぁ」
「なんじゃ? 何をそんなに怖い顔をしておるのじゃ?」
「とにかく、こっちに来てくださいなぁ」
呼ばれるがまま歩み寄る猫娘に、トオルが一抹の不安を抱いていると……
「先週の夜ぅ、トオルさまのぉお体にぃ何かされましたかぁ?」
腰に両手を添えて問いただすクレアに対し、保子莉がグッと眉間に皺を寄せた。
「……し、知らん」
あからさまに泳ぐ目。その挙動不審な態度に、クレアがHUDの宇宙文字をビシッと指差した。
「じゃあ、コレはなんなんですかぁ! スッとぼけになられてもぉ、遺伝子ドライブを施したことは、履歴を見れば一目瞭然なんですよぉ!」
「判っておるなら、わざわざ呼びつけんでも良かろうに」
猫目を伏せ、ボソリと文句をこぼした途端、クレアの栗色の髪が逆立った。
「呼んだのにはそれなりに理由があってのことでぇ、お嬢さまに事の重大さを認識してもらうためなんですよぉ! だいたいですねぇ……」
その剣幕たるや、普段のクレアからは想像できないほど凄まじいものだった。当然、保子莉が首をすくめ、猫耳を後ろに寝かせていたのは言うまでもなく、その様子を遠巻きに眺め見ていた長二郎が積年の恨みを晴らすかのように大笑いをしていた。だがトオルにとっては笑い事では済まされなかった。
「なんで勝手にぃ再生配合を変えたんですかぁ!」
「それはほれ、トオルの体をじゃな、ほんのちょっと強化してやろうと。さすれば、少しはポジティブになるであろうと思うてな……」
口を尖らせて言い訳をする保子莉に、クレアがブチ切れた。
「ほんのちょっとでぇここまでする人がいますかぁ! ポジティブどころか超越しちゃってるじゃないですかぁ! 良く見てください、この数値を! DNAの塩基配列が大幅に狂っちゃってますですよぉ!」
「大袈裟じゃのぉ。どれ見せてみよ」
そう言って保子莉は今日までの進捗履歴を読み取り……尻尾を硬直させた。
「なんじゃぁコレはぁ? わらわはこのような設定をした覚えはないぞぉ!」
悲鳴を上げる猫娘に、トオルも不安な面持ちをして駆け寄った。
「どうしたの? 保子莉さん」
「……トオル。おぬしの体がとんでもないことになってしまった」
口許をヒクヒク歪ませ、HUDを指を差す保子莉。しかしトオルに宇宙文字など読めるはずはなく……
「どういうこと? 僕の体に何が起こったの?」
するとクレアが今にも泣きだしそうな顔をして言う。
「実は先週ぅ、お二人がぁここに来た時にぃ、お嬢さまがぁ勝手に各増強剤を注入してしまったんですけどぉ……」
「それは僕も知ってるけど……でも、ちょっとだけって保子莉さんが言ってたよ」
「確かにぃ誤差範囲内の注入量なのでぇ、数回の使用ならば特に問題はなかったんですぅ。でもぉ、お嬢さまは必要性の無い増強剤まで加えた上にぃ設定途中で放置したまま断続的にぃ今日までぇ注入し続けてしまったんですぅ」
もう嫌な予感しかなかった。
「ち、ちなみにそれを続けると、どうなるの?」
「ある時間を境にぃ遺伝子が突然変異してしまいましてぇ、凶暴なバケモノになっちゃうんですぅ」
狼狽えるクレアに、保子莉が不貞腐れ気味に口を尖らせた。
「ちょっと失敗しただけじゃろうに。しかし、なんでそんなことになってしまったのじゃろうかのぉ?」
猫耳を瞬かせて先週の記憶をまさぐる保子莉。そして滝のような大汗をかき始めた。
「しまった……。確かに増強剤の注入を止め忘れておる……」
「はぁ? なんで? どうしてそんな大事なことを忘れちゃうのさぁ!」
今までいろんなことに対し、用意周到に策することができていた彼女。それなのに、どうして水道の蛇口を閉め忘れたかのような間の抜けたことをしてしまったのか。すると保子莉がトオルの鼻先に人差し指をグリッと押し付ける。
「おぬしじゃ! おぬしがあの時、わらわの耳の話をしたからじゃろ! その時じゃ! その突拍子もない話にわらわは驚いて、制御するのを忘れてしまったんじゃ!」
「ぼ、僕のせいなのっ?」
耳を疑うような責任転嫁に声を荒げるトオル。窮余の責任逃れとはいえ、それはあまりにも酷すぎる言い訳だった。
「そそ、そうじゃ、元はと言えば、おぬしが原因を作ったのじゃ! と、言うわけでクレアよ。トオルがわらわに話かけてさえしなければこんなことには……」
と押しの一手でたたみかける猫娘だったが……
「ぬぁにぃトオルさまのせいにしているんですかぁ! そもそもぉ最初からお嬢さまがぁお手を触れなければぁ、こんなことにはなってなかったんですよぉ!」
「お、おぬしだって端末で四六時中、監視できた立場であろうに! ゆえに業務を怠っていたクレアにも責任があるじゃろ」
自分の犯した過失を認めず、クレアをも巻き添えにする保子莉。こうなると、もう目くそ鼻くそレベルだ。
「肥料さえ与えておけばぁ、勝手に育つ作物くらい優しいお仕事なんですからぁ、モニタリングなんかぁするわけないじゃないですかぁ!」
例えそれが比喩だと分かっていても、本人の目の前で口にするのはいかがなものかと思うのだが。
「少しは反省してください」
「うぅ……」
結局、反論の余地がないまま己の非を認め、身を縮める保子莉。が……
「まぁまぁ、クレアたん。二人ともまだ未成年だしぃ、そのくらいで許してあげようぜぇ」
と長二郎がヘラヘラ笑って介入した途端、クレアの怒りが再燃した。
「なにを言ってるんですかぁっ! 地球で未成年であってもぉ、宇宙では自立した時からぁ成人とみなされるんですからぁ、余計な口を挟まないでくださいなぁ!」
長二郎本人は軽い気持ちで援護をし、保子莉に貸しでも作っておきたかったのだろう。だがクレアの怒りは収まるどころか、ますます苛烈していく一方だった。
「お嬢さまはぁ顧客ですからぁ関係無いんでしょうけどぉ、少しは私の立場も考えてくださいなぁ! この不祥事が公になったらぁ、うちの会社の信用問題になってぇ、場合によってはぁ私も始末書だけでは済まなくなっちゃうんですよぉ! 銀河ネットコミュニティーで惑星中に実名曝されちゃってぇ、世間からは『無能』とか誹謗中傷された挙げ句ぅ、親や姉妹まで迷惑かかっちゃうんですからぁ!」
具体的かつ悲惨な末路を想像して捲し立てるクレア。喋るにつれて涙目になっていくのが痛々しかった。すると一通り反省を終え、気持ちを切り替えた保子莉が宥めの言葉をかけた。
「そう心配するでない。わらわたちがバケモノとなったトオルを捕まえて、元に戻せば良いことじゃて。それで万事丸く収まる」
「でもぉ、もしそうならなかったらぁ、どうするんですかぁ?」
「今回のは些細な事故だと公表すれば良いではないか。トオル本人が勝手にやらかして暴走しちゃいましたと笑って公表すれば、世間から咎められることもあるまい」
その恣意的な隠蔽発言に、トオルも黙ってはいられず猛抗議した。
「冗談じゃないよっ! やらかしてもいない上に自分の体がバケモノになってるんだから、笑えるわけがないじゃないか!」
「体ひとつ無くなったくらいでガタガタ騒ぐでないわ! 魂の増殖と消滅を繰り返す宇宙の摂理に比べれば、体などタダの器にすぎんわい!」
取り乱しながら意味不明なことを口走る猫娘。もう何が何だか、さっぱり意味が分からなかった。
「とにかく、なんとかしてよ」と解決策を求めたときだった。保子莉が猫耳をピクリと瞬かせ、出し抜けにあさっての方向を睨みあげた。
「チッ! ヤツめ、ついに隔壁を破壊しおったか」
その素振りに、トオルは苛立ちを覚えた。
「そうやって、話をそらさないでよ!」
「そんなくだらん討論をしている場合ではないわ!」
そう言って、疾風の如く施術室を飛び出していく猫娘を追いかけるトオル。
「保子莉さん、話が終わっていないのに、どこへ行くつもりなのさ!」
「なにを言っておる! ヤツが隔壁を破壊した音が聴こえんかったのか?」
どうやら人間の耳では捉えられない何かを察知したようだ。それを裏付けるように一緒に走っていたクレアが端末を睨みつつ対象者の位置を的確に告げる。
「お嬢さまのおっしゃるとおり、再生体はエンジンルームの隔壁を壊してぇ、私たちとは反対側の通路を高速移動していますですぅ」
「反対側じゃと? 確か、そっちは……」
「はい。学校の廃校舎に繋がっている直通ドアがありますですぅ」
すると直通ドアの存在を知らない長二郎が眉根を寄せた。
「なんで家から宇宙船に来てるのに、学校に繋がってんだよ?」
「その説明はこの件が片付いてから、ゆっくり講釈してやるわい。クレア、ヤツの行く手にある全ての通路を遮蔽しろ! なんとしてもヤツを地上に出すでないぞ!」
「言われなくともぉ、とっくにやってますですぅ!」
ヒステリックな声を上げて必死に端末を操作するクレア。同時に猫娘が焦りの色を浮かべる。
「得体の知れないバケモノが未開惑星の地上で暴れようものならば、わらわの社会的立場が危うくなるではないか」
と一考し……
「そうじゃ、クレアよ。各ブロックの隔壁閉鎖後、エアーロックを開放してヤツを船外に放り出してしまえ! さすれば証拠も残らん!」
証拠隠滅。
結論を急ぐあまり、もうひとりの存在を失念してしまう保子莉に、クレアが突っ撥ねた。
「深月さんが一緒なんですからぁ、そんなことしたらぁ絶対にダメですぅ!」
「そうだよ、保子莉さん。もう少し落ち着いて考えようよ」
「そうだぞ、保子莉ちゃん。せめて宇宙服は着せてやらんと」
矢継ぎ早の非難に、猫娘が両手でもって猫耳をふさぐ。
「分かった分かった。頼むから人の頭の上で喚き散らすでない! って、長二郎、貴様にだけは言われたくはないわ!」
「大変です、お嬢さまぁ! 隔壁が閉まり切る前に、再生体が各ブロックをすり抜けちゃいましたですぅ!」
「なんて足の速いヤツじゃ。本当にヤツはトオルの再生体なのかっ?」
オリジナルの当人を前にして貧弱扱いする保子莉に、流石のトオルも黙っていられず……
「悪かったね! これでも体力は人並みにあるんだからね!」
「あぁ、分かった分かった。わらわが悪かった」
保子莉は棒読み同然にトオルをあしらうと、続くクレアの報告に猫耳を傾けた。
「ちなみにぃ、現在は学校へ繋がるドアの前でぇ立ち往生しているようですねぇ」
――お願いだから、そのままジッとしててくれ
「良し、最終ブロックで取り押さえるぞ! クレア、我らの通行の妨げにならぬよう、閉じた隔壁を開けておけ!」
返事と共に速やかに実行に移すクレア。その急迫する状況にトオルの心情も穏やかではなかった。そして一同は船尾のエンジンルームへと足を踏み入れ、閉塞機能を失った隔壁を見て硬直した。
「これはまた酷いありさまじゃのぉ……」
ひしゃげられた特殊合金の隔壁。想像を絶するその様子に、トオルは自身の体である再生体に脅威を感じた。
「本当に僕の体が、この硬い金属を素手で壊したの?」
「少なくとも、深月でないことは確かじゃろうな」
分かりきったことをしれっとして言う猫娘。正直、もう怒る気もない。
とそんなときだった。クレアが声を震わせた。
「お嬢さまぁ……ターゲットをロストしましたですぅ」
「なんじゃと? それで地球に通じておるドアはどうなっておる?」
「それもぉ、壊されましたですぅ」
その事実に全員が青ざめた。隔壁を破壊するほどの力をもった再生体。それが地球へと逃げ出してしまったのだから、ただで済むはずがない。
「マズいぞ。この事実が惑星保護団体などにバレでもしたら、営業許可証を取り上げられ、猫缶廃棄ビジネスがパァになってしまう」
ビッグビジネスを失い、損失金額を指折り勘定する保子莉。その隣でトオルは虚空に目をやって呆然となった。
「バケモノと一緒のトオルにぃなんか大嫌い! 怖いから近寄らないで!」
などと両親共々、妹にまで罵倒された挙げ句……
「敷常くんがバケモノだったなんて……そんな人とは付き合えないわ」と深月に嫌われることを想像し、涙目になるトオル。その隣では、神妙な顔つきをしている長二郎が。表情から察するに、きっとマスコミから『仲の良かった友人C君』として、インタビューを受けている自分を想像しているのかもしれない。またクレアは施術室の時と同様、世間からの非難を受けている一族を想像していたようだった。いずれにしても事の結末が笑い話で済まされなかった。
その望まない未来像を前にして、保子莉が叫んだ。
「ヤ、ヤツを追うぞ! 何がなんでも絶対にヤツを世間の目に触れさせてはならぬ!」
「おぉーーーーーーーっ!」
満場一致の声が船内に響き渡った。
一同は通路を駆け抜け、再生体の後を追うように地球へと繋がるドアに到着した。
――ここはいったい……どこだ?
威勢良く宇宙船から踊り出れば、灯りのない小部屋がトオルたちを待ち構えていた。
窓から射し込む月明かり。床を見れば、頭のない人体模型や埃が積もった実験器具が転がっており、カビ臭い匂いとともに饐えた薬品の匂いがツーンと鼻腔を刺激した。その独特な匂いに、ここが木造廃校舎の理科準備室だということが容易に判断できた。そして闇夜に慣れ始めた目でもって扉口に視線を向ければ、保子莉宅同様に木製の引き戸が砕かれていた。その荒れ果てた惨状の中、保子莉が廊下へと続く新しい足跡を目敏く発見する。
――なんだ、これは?
人の者とは思えない巨大な裸足の形。自分の靴のサイズがようやく26センチになったばかりなのに、積もった埃に沈んだ足の大きさは優に30センチを超えている。
――どう見ても、僕の足じゃないだろ
信じがたい痕跡を確認しようと、スマートフォンの懐中電灯で照らそうとした瞬間、長二郎に止められた。
「点けるな、トオル」
もしかして夜目に慣れろということなのだろうか?
「それもあるが、それ以前に相手側からこちらの位置が丸見えになるぞ」
もっともな理屈だった。小さな光とは言え、暗い中で人工的な光が動いていれば、相手も気づかないはずがなく、むしろ狙われる可能性が大きいだろう。
するとライトを必要としない保子莉が、猫目を光らせた。
「どうやら、こっちの方角に逃げたようじゃな」
周囲の気配を探りながら、足跡をたどり始める保子莉。その背中を追うようにトオルたちも後に続く。ミシミシと軋みを上げる廊下。正直言って、肝試し以上に不気味だった。
すると先導を務めていた保子莉が、不意にT字路の突き当たりで歩みを止めた。
「一足遅かったか……」
木枠ごと突き破られ、風通しの良くなった木窓。そこで足跡がプッツリと途切れていた。屋外への逃亡。その痕跡にトオルが愕然としていると、おぞましい咆哮が夜陰に響き渡った。
「どうやら、ヤツはこの上におるようじゃな」
猫耳を澄まして天井向こうを睨み上げる保子莉に合わせ、長二郎も壊れた窓から闇深い外の様子を覗き見る。
「おいおい、マジかよ。今のはどう聞いても人間の声じゃねぇぞ」
「どちらかと言えば獣の声じゃな。いずれにせよ、事実確認の必要がありそうじゃ」
保子莉の判断に従い、二階から校庭へと降りた。そして腰ほどまでに生えた雑草をかき分け、廃校舎の屋根を見上げた瞬間……
想像を超えた自身の肉体に、トオルは絶望の境地に陥った。





