初夏
なんで高校生っていうのは、ちょっとだらしないやつの方がモテるのだろう。
「﨑木先輩…ずっと、好きでした。もし良かったら、付き合ってくれませんか?」
「ありがとう、でもごめんね。」
凌は菫高校において、実はそれなりに女子からの人気を集める存在だった。とは言っても学校に定着できていない彼のモテ要因はおそらく、あの色白で、瞳は大きく、でも何を考えているかわからない顔、だけだろう。
優はいつも思っている。私だったら、絶対にあんなちゃらんぽらんは選ばない…
しかし、優がそう思えるのは家での彼の姿を見ているからだ。彼がいつも舐めているキャンディにしたって、そこらの女子からすれば萌えアイテムらしいが、実際は優のお小遣いをせびって手に入れたものだ。そんなこと、兄をアイドル扱いしている女の子達は知る由もない。
(まあ、いちいち言わないけど)
「彼女…いるんですか」
「うーん…。そういう訳じゃないんだけどね?」
「じゃあ…どうして」
ここ何ヶ月分の想いを、勇気を振り絞って伝えたであろう少女は、自分の告白によって目の前の男の気持ちが1ミリも動いていないことを悟り、今にも泣き出しそうな表情をしている。
そんな彼女に追い打ちをかけるかの如く、凌は言葉を続ける。
「まあ…特に理由はないんだけど」
✳︎
「まーた﨑木先輩、1年の女子に告られたらしいね?」
「…ふーん」
「ふーんて、優。知らなかったの?」
「や、自分のお兄ちゃんの恋愛事情なんて、普通知らないでしょ」
「しかもあのお嬢で有名な門林凛ちゃん。なんの理由もなく振ったらしいよ?」
「…何の理由もなく付き合うのも、どうかと思うけど…」
修学旅行も終わり、季節は梅雨に入った。
初めて乗った韓国行きの飛行機の中で優は、自分が高いところが苦手であることを知った。まんまと気分が悪くなった彼女は、初日の夕食は全く食べられなかったばかりか、鑑賞した韓国伝統舞踊も全く耳に入らなかった。最悪の幕開けだった。
しかし、それでも人生初の海外旅行は刺激的だった。思っていたほど辛くない本場のキムチも、必要以上にスキンシップを取ってくる姉妹校の生徒も、通じない英語も、何もかもが初めてというだけで楽しかった。2週間経った今でも、その一瞬一瞬が鮮明に思い出せる。
優は改めて、美沙子と同じクラスで良かったな、と思っていた。似たような寺がいくつも続く道でクラスの皆とはぐれた時も、地図に強い美沙子がナビしてくれたし。
そんな楽しい時間もあっと言う間に過ぎ、中間テストも終わった6月の朝。優と美沙子は、雨の中、いつものように登校時間を共にしていた。
「まーそうなんだけどさ。あんたはイケメンの兄ちゃん持ってるから、感覚が麻痺してんのよ。普通かわいー子に告白されたら、理由なんかなくたって彼女にしたいと思うよ?」
「そういう美沙子はイケメンにこだわるタイプじゃないでしょ?顔より音楽の才能がある人がいいとか言ってたじゃん」
「そんな事ないよ〜。私だって、優から先輩のグチ聞かされてなかったら、先輩のこと狙ってたかもしんないって思うもん」
「う、嘘…?!」
「本当だって。だって﨑木先輩ってさ、色白で華奢で、女子みたいに肌綺麗なのに、ギター弾いてる時のカッコ良さと言えば異常でしょ?まあ、ギター弾いてる男の子は大体カッコいいけど」
美沙子の楽器フェチの基準は分からないが、セレブ妻と不倫をしていた元彼・高野先輩も、確かバイオリンを弾いていた。
「…そう言えば、先輩のことはもう大丈夫なの?」
そう聴きながら、バカな質問したな、と優は少し後悔する。
「んーもう、考えたってしょうがないことだしね。徐々に立ち直ることにした。人生ってこーゆうこともたくさん起こるんだよ、きっと」
「…ごめん」
「なんで謝んのよ?もー、優はほんとそういうとこ、変に他人行儀なんだから」
優はこれ以上余計な言葉を言うまいと、混雑している下駄箱で少し立ち止まって美沙子と少し距離を置いた。すると、目の前の自分の下駄箱に何かが挟まっているのが見えた。
「…?」
優が挟まっていたものを手に取ると、それは真っ赤な封筒だった。
「何してんの?」
「何か、入ってた」
優が封筒を見せると、美沙子は色めき立った。
「えっ!これ、もしかして…優へのラブレターじゃない?」
「まさか…今の時代にそんな古風な」
「もー優は冷めてんだから…じゃー誰がこんなとこに手紙なんか置くのよ?とにかく早く開けてみて!」
「見る気満々じゃん」
笑いながら、どうせ何かの間違いだろう、と優は封筒を開ける。すると、1枚の白い紙が入っていた。
そこには、パソコンで打ったらしき文字で、たった1文だけが書かれていた。
”ずっと、あなたを見ています”
「…え」
「これって…ラブレターって言うの?」
優は美沙子に尋ねてみた。
「いや…分かんないけど、これ、何か気持ち悪くない?なんで手書きじゃないんだろ…真っ赤な封筒っていうのも不気味だし…普通、ラブレターっていうと白とかピンクとか…」
「…捨てよっか」
「え?」
「どー見てもイタズラでしょ、コレ。差出人も書いてないしさ。誰の下駄箱かもわかんないで入れたんじゃない?」
「んー…でも、捨てたらなんか呪われそう…」
「な訳ないでしょ。ほんと美沙は心霊番組見すぎなんだから」
優は笑いながら、傘立ての側にあったゴミ箱に、封筒を捨てた。
それが始まりだった。
*
(お、こーこもバイト募集してねーのかー。そろそろ次のとこ決めないとヤバいよな…。このままじゃギターの練習場所借りんのもままならねーし)
午後7時頃、自宅近くのコンビニに寄った帰り、凌はほんの少しだけ危機感を感じながら帰路に着いていた。
1ヶ月前に職を失ったままだった彼は、ここの所外食をする余裕もなく、友人の誘いを断って自宅で夕食を食べることが増えていた。
大概の日は優の方が早く帰宅していたが、この日は水曜。妹は20時まで塾に行っているはずである。
(夕飯俺が作るしかねーか…)
しかし、凌が自宅に近づくと玄関先には既に人影が見えた。凌はしめたと思い、すぐさま声をかける。
「優ちゃーん?ごめん、今日も俺夕飯…」
ふと、凌は気付く。あんなにうちの妹は大柄だっただろうか?
「…誰だ?」
影へと近づくとそこには、凌と同年代と思しき制服姿の男が立っていた。
「…何してんの?」
男は凌の声を聞いた途端、動きを止めた。
「俺んちに、何か用?」
「…」
凌が話しかけると、男は無言で反対方向へと去った。
(菫高?けどあんなやつ、見たことねーな)
男が着ていた制服は、紛れもなく菫高校のものだった。顔は一瞬しか見えなかったが、おそらく見覚えはない。全員の顔を覚えているわけではないが、少なくとも3年の生徒ではないように思えた。
(…まあ、俺あんま学校いってないからわかんねーか)
優ちゃんの友達かな?と考えるが、それなら玄関先で声をかけるはずだ、と思い直す。それに、あの男は手に何か持っていた。
(あれ…カメラだったよな)
✳︎
優が唯一不得意である教科が、言うまでもなく音楽だ。
普通、副教科に中間テストはないが、菫高校では音楽担当教師・荒川氏の好意により、6月末に小テストが行われ、しかもしっかりと成績に反映される。ペーパーテストであれば難なく解ける優だったが、その後の歌唱テストが問題だった。
歌唱テストでは、荒川の裁量でランダムに選ばれた課題曲を、グループに分かれて混声合唱することになっていた。しかし、楽譜が読めない上に極度の音痴な優は、主旋律以外の部分が全く歌えない。
テストは1番と2番でパートが交代される。当然アルトパートも回ってくるわけで、そうなると、優はもうちんぷんかんぷんだった。
「はーい、Bグループの人、OK。良いわね…アルトが良く効いたいい合唱だったわ。次は
Cグループの﨑木さんから津村さん。曲は…48ページを開いてください。ではよろしく」
(絶対音感、今だけ欲しいな…)
優は彼女にしては馬鹿げたことを思い浮かべながら起立する。絶対音感の有無と歌唱能力には、実はさほど関連性はない。覚悟を決め、優は荒川が言った課題曲「大地讃頌」の載っている歌集の48ページをめくった。
パラッ
すると、間に挟まっていた何かが落ちた。優はそれを拾い上げようとしゃがむ。
しかし、落ちた物を見た途端、固まった。
「何……これ…」
優はその場に座り込んだ。
「﨑木さん?どうしたの?」
様子がおかしいことに気づいた荒川が、落ちた物を拾う。
それは数枚の写真だった。
「…これは…」
荒川は眉をひそめた。それは、学校帰りに友人と談笑している姿、教室で1人居残りし勉強している姿、下駄箱でスマートフォンをいじっている姿…様々な優の姿を写した何枚もの写真だった。中には、自宅の写真もある。
しかし、どの写真も優の目線はカメラに向いていない。
「﨑木さん、これ、あなたの?」
「…」
優は無言で首を横に振った。
これは…何だ?
優はとっさに状況を理解できないでいたが、目の前に落ちている数枚の写真を見ていると、なんだか気持ち悪くなってきた。
優の反応から、写真は優のものではなく、他者が撮ったもの、つまり隠し撮りされたものかもしれないと察した荒川は、冷静さを保ちつつ写真を他の生徒に見えないよう懐にしまった。
「とりあえず、﨑木さん…保健室に行きなさい」
「え、や、別に大丈夫です」
「そんなこと言ったって、あなた…顔が真っ青よ」
「え」
自分では何が起こったかいまいち掴めていなかった優は、斜め後ろの席の美沙子の様子を見た。彼女は心配そうな表情で自分を見つめている。教室がざわつき始めており、咄嗟に優は大事にしないほうがよいと悟った。ここは、先生の言う通りにしておいた方が良さそうだ。
「着いていこうか?」
「や、大丈夫。ありがと」
声をかけてくれた美沙子に笑顔を返し、荒川へ、すみません、お言葉に甘えます、と伝えた優は、1人で廊下へ出る。
少し歩くと、遠ざかっていく音楽室からは何事もなかったかのように、クラスメイト達の歌声が聴こえ始めた。
✳︎
まだ5時間目の授業の真っ最中である午後1時35分。保健室へ続く1階の廊下は、当然の事ながら生徒は1人もおらず、がらんとしていた。
そう言えば、保健室なんて入学してこのかた来たことなかったな、と、歩きながら優は考える。
いや、一度だけある。よく保健室で授業をサボっている凌が、家の鍵をベッドに忘れてきた時だ。
『そんな訳で家入れなくてさー、優ちゃん、まだ学校居るよね?』
兄が当たり前のように面倒な頼み事をしてくるのは、今に始まったことではない。
(…お兄ちゃんって、いつもここで授業サボってんのかな)
そんな事を考えながら、優は保健室の引き戸を開けた。
「あら…どうしたの?﨑木さん。珍しいわね」
「…森川先生」
そこには、養護教諭の森川澪がいた。
彼女は今年赴任したばかりの24歳、気が利き、優しくておまけに美人という、アニメか何かのキャラさながらの条件を兼ね備えている。当然のように、赴任して間もなく、多くの生徒の人気を集めていた。
超健康優良児で、どこかの誰かのように授業をサボることもあり得ない優には、あまり縁がない人物ではあったが。
「あれ…なんで私の名前…?」
澪は一瞬、焦ったように口をつぐんだが、すぐに表情を立て直し、スラスラと話し始めた。
「そりゃあ、自分の学校の生徒の名前と顔くらい覚えてるわよ。それに、﨑木さんは学年トップの成績で有名人だしね?」
「…そうですか」
どーせお兄ちゃんのことで知ってたんだろうな、と優は思う。別に、隠さなくていいのに。自分以外のことで名前が知れているのは、いつものことだ。
しかし、何故だか悪い感じのしない先生だな、とも思った。
「ちょっと、気分が悪くなってしまって。休ませてもらってもいいですか?」
「あら、可哀想に…もちろんよ。確かに顔色が悪いわね…昼ごはんはちゃんと食べた?」
「ハイ。少し休めばすぐ治ります」
「そう。起立性貧血かしら?そこのベッドを使ってね」
優は案内されたベッドに横たわる。保健室の匂いって何か落ち着くな、と思う。幸い2つあるベッドには両方とも先客はおらず、優が目を閉じると澪がカーテンを閉めてくれた。
少し安心すると、脳裏にさっきの出来事が蘇ってきた。
(誰が…あんな写真を)
少し考えを巡らせてみるも、当然、思い当たる人物は浮かんでこなかった。これまで広く浅くの付き合いをしてこなかった優は、同学年ですらも、そこまで知り合いが多い訳ではない。いや、あんなことをする人物が友人の中にいるとは思えない。知り合いとは限らないか…?
(…あ)
ふと、優は今朝の出来事に思い至った。
あの赤い封筒に入った手紙、アレは…
(ずっと、あなたを見ています…)
途端に、寒気がした。
✳︎
「優ちゃん、大丈夫?」
「…ん…」
目を覚ますと、そこには心配そうな兄の顔があった。
「うわっ」
「うわってなんだよ、その驚き方」
「いや…だって、なんで、お兄ちゃんがここに?」
「何でって…6時間目体育だしサボろーと思ってココ来たらさ、丁度来てた荒川に優ちゃんが気絶して保健室に運ばれたとか聞いてさ。大丈夫か?」
「や、気絶なんてしてないから」
一体荒川先生はどういう説明をしたのだろう?
「だから言ったでしょ?寝てるだけだって」
カーテンが開き、澪の声がする。ベッドにはオレンジ色の光が差し込んでいた。ふと我に返った優が時計に目をやると、4時20分頃だ。どうやら、3時間近く寝ていたらしい。
「うわ…先生、すみません、こんな時間まで」
「いいのよ。よっぽど疲れてたのね」
「6限も終わってるよね…私、帰ります。荒川先生はまだ授業中ですか?」
「気にしなくていいわよ。私から、元気になったと伝えておくから」
「あ…ハイ。分かりました」
挨拶をしたかったというのもそうだが、優は荒川が懐にしまった、あの写真の事が気になっていた。
が、なぜかこの場では口に出せなかった。
兄が荒川先生と出会ったという事は、心配してわざわざ様子を見に来てくれたのだろう。兄や森川先生には、どこまでのことが伝わっているのだろうか。
「じゃあ…失礼します」
「お大事にね。﨑木くん、送っていってくれる?」
「あ、俺スーパー寄って帰るわ。優ちゃん、先に帰ってて」
「え、お兄ちゃん、もう帰るの?まだHRあるんじゃ」
「んー。どうせサボるつもりでココ来たし。今日は部活もメンバー揃わなくて練習ないし、夕飯俺が作るよ」
「それには賛成だけど、あんまり寄り道しちゃダメよ。﨑木さん、病み上がりなんだから…」
「わーかってるって。じゃー優ちゃん、先帰っててね」
そう言うと凌は、澪に向かって友達のように手をひらひらと振り、保健室を出ていった。
優は写真のモヤモヤをまだ引きずりながらも、翌日に荒川に尋ねることにし、ひとまず帰る支度を始めた。
(そういえば、やっぱり森川先生は私とお兄ちゃんが兄妹だってこと、知ってたんだな)
ふとそう思い彼女を見ると、彼女はにっこりと笑って言った。
「それじゃあ、﨑木さん、お大事にね」
✳︎
凌がたまに作る夕飯と言うと、メニューは大抵チャーハンだった。
しかし今日はそれに冷凍の餃子をチンしたものがプラスされており、心ばかりの中華定食のような雰囲気を醸し出している。体調を崩した妹に、兄が少しばかり気を遣った様子がうかがえた。
優は少し嬉しかった。
「お兄ちゃんてさ、いつもあそこで授業サボってんの?」
「んー?まあ」
わざわざ凌が部屋まで運んできた餃子を箸で掴みながら尋ねると、彼にしては歯切れの悪い返事が返ってきた。
「全く…誰もいない時ならともかく、あんなに堂々とサボりに来てちゃ森川先生に怒られるよ?内申にも響くし。担任の先生にだってすぐバレるよ」
「はは…優ちゃんがそんな心配しなくていーのに。留年すんのはオレなんだし」
なんだその投げやりな言い方は…
優がろくでもない兄を睨んでいると、視線が合わなくなっているのに気づく。いつのまにか兄の眼は、こちらを見ていなかった。
「優ちゃん、デイジー好きなの?」
「…え?」
唐突な質問だと思った。
凌の視線を追って振り返ると、部屋の隅に、いつかの美術の時間に描いた花の写生画を置いていたのを思い出した。
「ああ、これのこと」
優はその絵を手に取る。あれは、4月だったか。自分で言うのも何だが、あの日は良く晴れていて気分が乗っていたからか、上手く描けたように思う。
「別に特別好きって訳じゃないよ。ただ、花壇に咲いてたから描いただけ」
「ふーん。そっか…」
凌はその絵を、目を細めて見つめる。
「やっぱ絵が上手いな、優ちゃんは」
「…やっぱ、って何よ…」
別に、これといって兄に絵の才能を褒めてもらったことはない。というか、今まで絵を見せたことなんてないでしょ、と優は思う。
だが、優が写生画が得意であるのは事実だった。何より、絵が好きだった。小学校の時から図工が好きで、5、6時間目が図工の日は1人で放課後まで学校に残っていた。
皆が帰っていく姿を眺めている時間。ほとんどの生徒は遊びに夢中で、優のことなど気にも留めないが、中には声をかけてくれる友人もいた。そして友人が去ると、動いていた風景が再び静止画のように帰ってくる。
その穏やかな時間が、優にとってとても大切だった。
あのころの優の姿など、兄は気に留めてもいないと思っていたけれど。
「…ありがと」
「うん」
何が気に入ったのか凌は、その絵をしばらくの間、穏やかな表情で眺めていた。