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深淵の王  作者: 伊里谷あすか
五、夜は浸食する
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5―20 畏怖

 拾い上げた紙片をしばらく眺めた成巳は、不意に興味を無くしたかのように紙片を捨てた。


 すぐに紙切れは風に流され、視界から消える。


 それを目で追うこともなく、穏やかな笑みを湛えたまま成巳は此方へと視線を向けた。


 黒いシャツに黒いコートに黒いズボンと、相も変わらず黒ばかりの成巳の姿は、夕闇の中でぼんやりとどこか霞んで、輪郭が曖昧な影のように見える。


「此方くんもお久しぶり、と言いたいところですが……そんな敵意の籠もった目で見るのは止めて頂けませんか? 別に害を為しに来たわけではないんですから」


「何をぬけぬけと。白々しいですよ、人殺しの仲間のくせに」


 表情のない能面のような顔をした此方が、忌々しい、といった口ぶりで吐き捨てる。


「仲間って……」


「たぶん、睦月さんの協力者のことを指しているんでしょうねぇ」


 茫然とした呟きに言葉を返され、美咲がぎょっ、として振り返ると、真後ろに成巳の姿があった。


「失礼」


「きゃ……っ?!」


 次の瞬間、成巳は美咲を抱えて後方へ大きく飛んだ。


 ――その距離、およそ二十メートル。


 直後、一瞬前まで美咲たちがいた場所の地面が大きく抉られる。


「おや、危ないですね。美咲さんが怪我をしたらどうするんですか」


「ご心配なく。そんなことはあり得ませんので」


 おどけたように言った成巳に、此方が淡々と返した。その顔には何の感情も浮かんではおらず、少し前までは壊れたように笑っていたというのに、今はまるで表情そのものが壊れてしまったかのようだ。


 成巳は此方から目を離さずに、抱えていた美咲を下ろす。


 少しふらつきながらも無事に地面に降り立った美咲は、困惑した顔で黒衣の女性と此方に交互に目を遣った。


 そんな美咲に、微かな苦笑を向けてから成巳は此方に向き直る。


 ……まるで美咲を庇うかのように、彼女に背を向けて。


「人殺しの仲間、というのは語弊がありますね」


 成巳の表情は、美咲の位置からは見えない。だが、その声音は――


「私たちの中に、人を殺さず生きてきたなんていう高尚な人物はいませんから」


 ――迷子の子供のように寂しげで、そして悲しげで。


「そうですか」


 けれども、此方は何の感慨も見せず、


「……でも、そんなのどうでもいいんです。僕は美咲さんを当主さまのところに連れて行かなきゃいけないんですよ」


 どうでもいいと切り捨てて、


「邪魔しないでもらえますか」


 こちらに――美咲に向けて手を伸ばした。


「行きましょう、美咲さん」


 ぎょろり、と口以外微動だにしていなかった此方の顔の中で目が動いて、美咲を見やる。


「ひっ」


 その目がまるで昆虫か何かのもののように見えて、美咲は思わず引きつった声を上げた。



 成巳が静かに動いて美咲と此方の間に立ち、その視線を遮る。そのまま真っ直ぐ此方を見て、欠片も動じることなく成巳は口を開いた。


「……さっきも言いましたけど、それは困るんですよ。美咲さんを……いえ、此方くんも、その当主とやらのところに行ってしまうと――とても困る」


 だから、と彼女は微笑み、


「邪魔させてもらいます」


 コートの内側から、一つの扇を取り出した。


 ……一メートル近い巨大な鉄扇。見るからに重そうなそれを、成巳は左手で緩やかに構える。


「な、成巳さん……?」


「美咲さん、申し訳ないのですがそこから動かないでくださいね」


 声を掛けた美咲を見ずに、成巳は鉄扇の先を此方に向けた。


「動いたら……命の保証はできませんから」



 ――――成巳の気配が、変わった。



 穏やかさは鳴りをひそめ、静かでいて、威圧感を覚えさせる厳かな雰囲気が辺りへ広がる。


 その表情こそ変わっていないが……きっと笑っているけれど、少しも心から笑っていない。


 ……怖い、と美咲は思った。


 それは純粋な畏怖。絶対零度の死を感じさせる綾の気配とは異なる、ただそこに在るだけで他者を圧倒する、恐怖感。


 美咲が彼女の気配に気圧(けお)されて言葉を紡げないでいる間に、成巳は音もなく、此方との距離を詰め始めた。


 ゆっくりと歩を進める成巳を警戒してか、此方が再び腕を振るい《何か》を放つ。


 だが、それは鉄扇によってはじかれ、成巳は何事もなかったかのように此方に近づいていった。


 十五メートル、十メートル。そして残り五メートルになったところで、彼女は笑みを消して、





「守護十二家が一つ、成宮家現当主・成宮成巳――――参ります」





 瞬きの間に此方の背後に回ると、ためらいなく扇を振るった。




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