5―9 夜闇
あくまで慎重に、周囲を警戒しながら走ること数分。美咲と鳴海は煉賀の屋敷に辿り着いた。
内心安堵しつつも、勢いを殺さぬまま二人は門を通り抜け――――思わず足を止めた。
急激なブレーキを掛けたために二人の足は地面を削り、ひどい砂埃が舞い上がったが、そんなことを気にしている余裕は、ない。
門の先に足を踏み入れた瞬間、確かに見えていた屋敷の姿は掻き消え……眼前には朱塗りの鳥居と石段が現れていたのだから。
「…………え?」
「な、ん…………!」
同時に呟くも、周りの光景は変わらない。
山にほど近い緑に囲まれた舗装されていない道に、石畳の参道。その延長戦上にある苔むした石段に、空を覆う所々剥げた朱色の鳥居。
屋敷の中とはかけ離れた、けれど見覚えのある風景。
確かに、屋敷に足を踏み入れたはずだった。だが、眼前に広がっているのは――最近訪れたばかりの、再開と決闘の舞台となった街外れの古びた神社の入り口。
――落ち着け。
思考が追いつかない。パニックを起こしかけている頭を無理矢理鎮めるように、大きく深呼吸。
――落ち着け。
――冷静になれ。
暗示を掛けるようにそう心の中で繰り返しつつ、美咲はゆっくりと足元に目をやる。
美咲たちの足元は、先程大きく削ってしまった砂と土の地面があり、まだうっすらと砂埃が残っている。屋敷に入ってすぐの地面は綺麗な石畳であるはずだから、そうそう削れるものではない。
――――つまり、今見えているものは幻覚の類ではなく、実際に自分たちは神社の前にいるのだろう。
くる、と後ろを振り返ってみても、通ったはずの屋敷の門の姿はなかった。当然のように、街外れの自然の多い光景が見えるだけだ。
そして、空。急激な変化に戸惑い最初は気付かなかったが、明らかに変わっていた。
木々の隙間の向こう、夜闇の中に、煌々と月が浮かんでいる。
歪な夕闇は門をくぐった瞬間に霧散し、それが当然であるように世界は夜の姿を取り戻していた。
雲ひとつない空に輝く満月だけが、辺りを明るく照らしている。木々の落とす濃い影が、ぬらりと妙な重みをもっているように感じられ、酷く気味が悪い。
先程までの夕闇の光景とは違う、コントラストを無理矢理強調したような光と影の風景は、絵画に描かれたかのように作り物めいた異常さを孕んでいる。
「……?」
辺りを見渡した時に、ふと、木影とは異なる陰影を視界に捕えた気がして、美咲は眉を寄せた。もう一度、今度は目を凝らして、同じ場所をじっくりと見る。
砂の上? ……違う。
参道? ……違う。
鳥居? ……違う。
石段? …………――そこだ。
――黒い影のようなものが一筋、石段を伝っていた。
「鳴海……あれ」
「……?」
すっ、と美咲が指し示した先を見て鳴海は目を細める。
そして、それ(・・)を視界に収めた直後――ごおおおぉっ、と一陣の風が辺りを吹き抜けた。
風は神社の……石段の先から流れ込み、思わず目を瞑った美咲は、次の瞬間にはそれを大きく見開く。
わずかな間に通りすぎた暴風。それは確かに鉄錆に似た匂いを運び、辺りは一瞬にしてむせ返るように濃い匂いに包まれた。
そう、まるで、血のような……。
……ざああああぁぁぁ、と風に揺られた木々の枝葉が擦れて音を鳴らす。まるで手招くように、枝が揺れ動く。
枝とともにその影が動いたことで、影に埋もれていた石段がわずかに照らされた。
それ(・・)をはっきりと認識した美咲は、嫌な予感ほどよく当たる、と心中でそうひとりごちる。
つ……、と石段を流れ落ちるひとしずくの影。――――その色は確かに、赤。
赤い紅い液体は、石段の上、本殿がある境内から音もなく次々と流れてくる。
「……どう思う、鳴海」
答えなど分かり切っているが、頭がそれを拒否していた。せめて口先だけでもいいから違うと言ってほしい、そんな現実逃避が思考をよぎる。
しかし、当然のごとくそんな甘い考えは切り捨てられた。
「血、でしょうね」
鳴海はあえてはっきりとそれを口にした。美咲と同じく逃げそうになる思考を、現実に留めるために。事実から目を背けないために。
鉄錆の匂いにか、それともその赤い色に引きずられてか。二人の頭に、十日ほど前の、工事現場での惨状がよみがえった。
あの時に似た空気に思わず身震いがする。思いだすだけで、緊張で体が強張る。
――おそらく、この先にはあの……血の炎と同じか、それ以上の凄惨な光景が広がっているのだろう。
ようやく、屋敷で感じた予感の一部が、今、ここではっきりと形を成し、そのことを美咲たちに伝えていた。
「……美咲さん、どうしますか」
鳴海が、静かに問いかける。考えていることは同じだろうに、生真面目に問うその様子に、美咲は思わず笑みをこぼす。
きっと、進めば戻れない。だが、今引き返したところで屋敷に帰れるとも思えない。
「行こう。……進むしか、ないよ」
きっ、と前を見据えて、美咲はそう答えた。
区切りが悪かったのでいつもより文章量が多いです。初の二千字越え。
気をつけてはいますが、誤字脱字等ありましたら報告下さると助かります。