ラスファイアス~炎の祭典 後編
朝、目覚めると小雨は降り続いていた。
礼香さんは心なしか元気がないように見えたが、まあ、殆どはいつもの彼女だった。……それにしても、夜中のあれは、あの涙は何でもなかったのだろうか。
「昨日、礼香さんが出掛けた後、ツミが飛んできたよ。冷蔵庫の魚肉ソーセージとかハムとかあげたら美味しそうに食べたよ」いや、美味しそうにと言うのは違うな。まったくもって無表情だったな。まあ、鳥に表情が無いのは当たり前か。
「あの子、何でも食べるから。小さくてもやっぱり、鷹なんだって思うわ」礼香さんは、そう言いながらやさしく微笑んだ。
でも、微笑んだ礼香さんがやっぱりどこか元気なく弱々しく感じられた。
「礼香さん……大丈夫? 熱、あるんじゃない?」
そう言葉を掛けると、礼香さんは唐突に僕の額に自分の額を押し当てた。間近で、吸い込まれるような礼香さんの美しい瞳を見た。熱がどうこう言うような状況ではなかった。甘い吐息に唇が触れる寸前に感じられ、心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらいドキドキした。僕は、まるで思春期の子供のようにドキドキしていた。
「うん。大丈夫、平熱」と、何事もないかのように礼香さんは言った。
「……礼香さん」
「三十六・一度」
「え? あ、体温? それって?」
「そう、うふふふ」
でも、夜になると事態は一変した。
礼香さんが高熱を出して容体が悪化したのだ。
診療所に備蓄してあった古い抗生物質では熱は下がらなかった。薬が古くなっていたせいもあるが、なによりも、有効な薬で、およそめぼしいものは僕の治療に全部使用してしまったためロクなものが残っていなかったのだ。それに加えて運の悪いことに、普段は充分すぎる位に在庫してある点滴パックすら残っていなかった。
「大丈夫よ。寝ていたら治るから。それに、明日になれば医者が往診にやってくるから……それよりも、コウくん……ずっと、側にいてくれる?」
熱にうなされた礼香さんは、本気なのかうわごとなのかは分からなかったが上気した妙に色っぽい顔で、そう呟いた。僕は少しばかり様子をみることにした。
だけれども、数時間経っても一向に熱は下がらなかった。
僕は横たわった礼香さんの手を握り、じっと彼女が寝入るのを待っていた。
診療所の電話はすでに不通になっていた。礼香さんは携帯を日本に持ち込んでなかったため外部への連絡手段がまったくなかった。
僕は自動車で下山して街へ向かうことにした。
自動車には無線機が設置してあった。この無線は明日やって来る医者のいる病院に直通していると礼香さんが言っていたのを思い出し、何度も呼び出してみたがまったく応答はなかった。エンジンを掛け少し動いたところで胸に耐えられないくらいの痛みが走った。診療所から麓の街までは舗装されていない道路が続いているのに加えて、今は止んでいるものの何日も降り続いていた雨によって一層、道路の凸凹が深くえぐられていた。とてもじゃないが、自動車の激しい振動には耐えられそうにもないと思った。
麓までは直線の下り道路でおよそ三キロメートルしかない。普通に歩いて三十分。今の僕の状態でならば一時間強といったところだろう。運が良ければ途中で誰かに遭遇するかもしれないし。
よし、歩いて行こうと決意した。
街の灯りが目前に広がった。途中、誰にも出くわすことはなかったが、街が近づくにつれて雑踏とした賑わいが感じられ、なんだか少し安心感を得ることができた。河川敷の方から花火が打ち上がった。どうやら夏祭りで街中が盛り上がっているらしかった。
「……綺麗だな」
遠くで打ち上がった花火に見とれて無意識に口をついて出た。と、同時に油断もしていた。道路脇の轍に足を滑らせてしまった。転倒した僕は、例によって胸の痛みに襲われ、うずくまったまま一歩も動けなくなってしまった。
「浩?!」
聞き覚えのある声を掛けられた。うずくまっている僕の顔を覗き込んだのは一斉だった。
「やっぱり、浩じゃんか! ひでーな。泥だらけじゃねーか。むちゃくちゃ心配したんだぞ。一週間以上音信不通でさっ」
「ごめん……携帯、壊れて……」
一斉は僕の入山記録を手掛かりに、この街に留まり安否を気遣ってくれていたのだ。
「先ずは、お前の親父さんに連絡するから。ちょっと待っててくれ」
電話している一斉の傍らに凛としてスーツを着こなした見知らぬ女性が立っていた。年齢は僕達と同じくらいだろうか。
「あの、私、小牧宏美って言います。お父様にはいつもお世話になっています」
しっかりとした口調の女性だった。恐らく営業職に就いた優秀な会社員なのだろうと思った。なぜか、そう思った。
「お父様、毎日、浩さんのこと捜してたんですよ。でも今朝方、一旦、どうしても会社に戻らなければならなくなって帰ったんです」
父が僕を捜してた? 心配して? とてもじゃないが信じられなかった。
でも……それは真実だった。
「ほら」彼女が指差した。先には僕の写真入りのポスターが貼られていた。
「ここだけじゃないですよ。街中、至る所に貼って歩いたんですよ。本当にいいお父様ですね。私は早くに自分の父親を亡くしてるんで、羨ましいなって、いつも思ってるんです」
彼女は上着を脱ぎ捨てると、インナーのシャツが汚れるのも気にせず僕の支えとなって宿泊先まで搬送してくれた。何度も衣服が泥だらけになるから申し訳ないと言ったのだが、彼女は頑なに譲らなかった。
一斉には、すぐに診療所へ、ひと通りの薬を届けてもらうことにした。あわせて、医者の手配も任せることにした。
自動車で診療所へ向かった一斉から間もなく連絡が入った。
「誰もいないな。いや、屋根の上に鳥が一羽いて、こっちをジッと見ていたが診療所には誰もいないな」
鳥? ああ、ツミのことか……。診療所には鍵は掛かっていなかったため外周内部とも確認したが誰もいなかったとのことだった。自動車もそのまま残されていた。
考えられることは、明日来ることになっていた医者が無線の履歴から異常を察知して診療所へ行ったということなのか。……一抹の不安は僕のことを捜しに出たという可能性だ。いや、だが、メモを残してきたから可能性は限りなくゼロに近いな。
やがて、一斉が戻ってきた。
「浩、お前、まだそんな格好のままなのか?」
一斉に指摘されてみると確かに僕の身なりは汚かった。道で転んで泥だらけの衣服。一週間剃っていない、無精ひげ。なにもかもがダメダメだった。胸の痛みはあったが、この際、浴室をかりてさっぱりすることとした。
浴室を出て、小奇麗になった僕を見て、一斉がニヤニヤしていた。
「彼女、いい娘だな。フィアンセなんだって?」
「はあ? 何、言ってんだ」あ……ああ、そうか……全て理解した。父親が言っていた『僕に会わせたい女性』とは、彼女だったのか。
一斉が僕に耳うちした。
「彼女、ひげも綺麗に剃ってサッパリしたお前のこと見て絶対惚れ直してるぞ。お前、そうとう気に入られてるみたいだぞ」
「何言ってんだ、馬鹿じゃないのか」でも、一斉に言われてみれば確かに彼女の顔は赤みがかっていて、僕を見て、なんだか照れているように感じられた。
「お前はカッコいいからな……いつももててさ。俺はいっつも羨ましいよ」
一斉がそんなことを考えてたなんて、この時、初めて知った。
「お前はそのままで二枚目。俺は努力しての二枚目……なのさ」続けて、一斉が真面目な顔で言った。ま、実際、自分のことを二枚目と言ってのけるところは相変わらず一斉らしいといえば、一斉らしいなと思った。
小牧宏美。
彼女は見た目の通りの……服装の着こなしからもわかるようにキッチリした性格の女性だった。良妻賢母という言葉がふと頭をよぎった。まさに、将来、良妻賢母になるのが今の、独身の、現段階でハッキリとわかるような、そんな女性だった。それ程、服装に限らず、すべての常態の所作が折り目正しい人だった。父が彼女のことを気に入っているのが何となく理解できた。礼香さんが何処かミステリアスな部分と天真爛漫な部分を併せ持っている女性と考えるならば、小牧宏美はある意味その対極にいる女性と言っても過言ではないのかもしれないと思った。
雨の上がったその晩は夏祭りの最終日だった。小牧宏美に肩を貸してもらいながら、僕は夜店の並ぶ通りに出てみた。数日間、この町に留まり、僕たちは診療所を何度も訪ねていた。しかし、礼香さんの行方は分からないままだった。
この間、僕が残してきたメモ紙も数枚になったが、最初に書いたメモ以外は、一向に読まれた形跡はなかったのだ。
出店の出し物を見るとは無しに、ぼんやりと眺めていると、甘い懐かしい香りが鼻についた。実際には幻覚、いや幻臭なのだろうが、なにか気配というか第六感的な何かに吸い寄せられるように、僕はまばゆく光り輝く、はだか電球の集積している方向に視線を向けた。光の束の、ひときわ明るい、その真下に礼香さんが佇んでいた。この時、僕は愚かにも、実に馬鹿げた「一生の不覚」というものを演じてしまった。それは、ほんの一瞬の出来事だった。
診療所での、月明かりの中、大自然の中での礼香さんは、とっても美しかった。そんな情景が脳裏をよぎった。でも、それに比べて、今見る、人混みの中の、人工的な光の中で見る礼香さんが、何だか、少しばかり、みすぼらしく貧相に感じたのだ。その要因は、彼女がどこかで転んだのかもしれない衣服の汚れもあったのだろうか。この時、彼女のお気に入りの白いワンピースは泥まみれだったのだ。それとも、若しくは、汗まみれで歩き回った彼女の疲労困憊した表情が原因だったのかもしれない。一瞬だが、本当に、実に一瞬だが、その佇まいがどこか浮世離れした、幽霊のような感じさえ受けたのだった。礼香さんは、明らかに誰かを、僕を、さがしている様子だったのだが、声をかけることができず躊躇しているうちに、とうとう見失ってしまったのだ。
それから、もう、この夏、二度と礼香さんを見つけることはできなかった。
半年が過ぎ、僕の身体の傷も癒えた頃、大学になんとなくどこか見覚えのある男性が訪ねてきた。
その男は、僕が怪我をしたあの日、治療してくれた医者だった。
「これは、礼香に、かたく口止めされていたことなのだけれど、礼香はあの日、危篤の祖父のもとへ向かう途中だったんだ」
男は、礼香さんのいとこにあたる人だった。あの怪我をした日、礼香さんは、このいとこと一緒に危篤の寿一朗さんの元へ向かう途中だった。そして、崖から落ちた僕に遭遇した。礼香さんは、僕の看病をしていて、とうとう、寿一朗さんの臨終をみとることができなかったと……。
そうか、つまり、あの晩。礼香さんが泣いていたあの夜。あの日。あれは、亡くなられた寿一朗さんの、告別の日だったのだ。礼香さんは臨終に立ち会うことはできなかったが、あの日、最後の別れをしてきたのだ。
僕が、どうしようもないいたたまれない感情に押しつぶされていると、いとこがキッパリと言った。
「祖父は、そんな礼香を誇りに思いながら逝ったよ。祖父もまた根っからの医者なんだよ。そして、君はこのことについて、何ら罪悪感を感じる必要はないんだ。怪我で苦しむ君をほったらかしにして祖父の元へ会いに行っても、絶対に喜ばない。そんな、祖父だったんだ。だからこそ、元々、そんな祖父に影響を受けて、礼香は医の道へ進んだんだ」
僕はそれからしばらくの間、後悔と罪悪感に苦しむ日を続けた。
いとこは、何度か大学へ足を運んでは僕の様子をうかがいに来てくれた。その間、僕は色々な話を聞いた。祖父の寿一朗さんやいとこが、この大学の出身であることや、僕の所属している山岳部のこと。寿一朗さんが、部の初代部長であったことや、白い鳥の謂れなんかを。やはり、白い鳥のマークはツミをかたどったものだった。いや、厳密には初代のツミだ。僕が、あの診療所で遭遇していたツミは、何代か後の鳥なのだという。寿一朗さんは診療所を開業したときに初代ツミと出会っていた。何か、そのときにとてもラッキーなことがあったらしいのだが、それはいとこもまた詳しくは知らないとのことだった。
そして、礼香さんは……今は、スペインに帰国しているのだという……。
二年が経っていた。
四年生になった僕はK医科大の研修を終えフランスから電車でスペインに入国していた。K医科大では姉妹提携しているフランスの大学との研修が四年生のこの初夏の時期に必須科目としてあるのだ。研修を終えた僕は少し帰国を遅らせてスペインの礼香さんの住む街へと足をのばすことにしたのだ。礼香さんの住むバレンシアの街まではもう少しだった。
思えばこの二年間、スペインに来ようと思えば来ることはできた。勿論、礼香さんに会うこともできただろう。でも、礼香さんに釣り合うような、そんな、自分自身に確固とした自信がなかった。まあ、今だって、さほど自信はない。でも、あの頃の自分よりは幾分、若干なりとも大人になった自負はある。……いや、違う。そんなごちゃごちゃした理由や理屈なんかじゃないんだ。
ただ、単純に会いたい。礼香さんに会いたい。それだけだ。今までの僕のつたない人生の中で礼香さん以上の女性はいなかった。これからも礼香さん以上の女性があらわれない確信がある。僕にとって唯一無二の存在。それが礼香さんなのだ。
でも……あれから二年。もしかしたら礼香さんはもう独身ではないかもしれない。結婚はしていなくても好きな男性がいて当たり前だし……。
「おい、着いたぞ」研修も終わったのになぜか、ここまで同行してきた一斉に声をかけられた。果てしなく堂々巡りの思いにふけっているうちに、いつしか電車は到着していた。陽はもう落ちていた。
そして、一斉はというと、なるべく帰国を遅らせたいらしいのだ。詳しくは聞かなかったが、また何かやらかして膳爺を怒らせているとのことで日本に帰るのを少しでも遅らせてほとぼりを和らげようという魂胆なのだろうか。
電車を降りるとさほど大きな街ではないにもかかわらず、たくさんの人々で賑わっていた。もうとっくに夜なのに熱気を帯びた空気に街全体が包まれ妙に上気していた。
ああ、そうか。
炎の祭典。
思い出した。そうだ、礼香さんが言っていた。一年に一度大きな祭りがあるって。それがスペインを代表する一大イベント。炎の祭典。ラスファイアス。そうだ、確かに言っていた。……そんなことを考えていると、人だかりの向こうからひときは大きな歓声と、ほぼ同時に炎が上がった。炎はやがてあちこちで上がり始めた。それに呼応して人々の熱気も増していくようだった。
祭りに参加している数々の山車に火がつけられ燃やされているのだ。山車の中には手の込んだ、それこそ何年もかけて装飾を施されたものまである。どれもが一様に工夫されたものばかりだ。そんな山車が一夜にして燃えてしまうのだ。燃え尽きるものの瞬くようなきらめき、今の今まで栄華を誇っていたもが朽ちていく様。栄枯盛衰の一瞬のモノガタリ。それがこの祭りの最大の見せ場なのだ。
次々と山車が燃やされ、祭りが最高潮に達しようとしている中、ひっそりと、こじんまりとした小さな山車を通りの向こう側に見つけた。それは、とってもなつかしくて見覚えのある山車だった。モチーフは「鳥」。大学の、いつものあの部室で毎日見ていた「白い鳥」の山車だった。いや、それともツミをかたどったものなのかもかもしれない。そして僕はすぐに理解した。ここに礼香さんがいるのだと。
そんな中、一斉は呑気に辺りの女性を物色してニヤケていた。
「スペイン来てよかったよ。みんな可愛い娘ばっかりだな。スペインて美人率がとてつもなく高いな。あの娘、可愛いな。いやいや、すっごい美人だな。ああいう髪の毛なんて言うんだっけ……たしか、ストロベリーブロンドとか言ったっけ?」
一斉に言われて、その赤いブロンドの女性を見て驚いた。礼香さんと初めて会ったときに幻のように彼女を見間違えた髪の色、そのものだったのだ。
いや、髪の色どころの話じゃない。その人は……礼香さん本人だった。長くサラサラの髪をかきあげる仕草。やさしい眼差し。髪の色こそ違えど、紛れもなく、何もかも礼香さん本人だった。
「礼香さんっ!!」 僕は、あらん限りの大声で叫んだ。傍で女性を物色していた一斉が、それに反応して一瞬ビクッと全身が痙攣したのが判るほどの大声だった。今度は、礼香さんを絶対に見失わないようにと、無意識下で僕は僕自身に大声を出させたのだった。もう、二度と礼香さんを見失いたくない。その一心だったのだ。
もう礼香さんに付き合っている男がいるとかどうとかそんなことは意識から吹っ飛んでいた。
「礼香さん! いつかの返事、くれるよね?」
「返事?」
「僕の気持ちが変わっていなかったらってやつ。僕は礼香さんが好きだ! ぜんぜん気持は変わってない!」
僕の告白を聞いて、少し躊躇してから礼香さんは言った。
「……私、三十歳になったわ」
「だから?」
「八歳も上なのよ」
「それで?」
「本当にいいの? 私で?」
「うん」
次の瞬間、人混みをかき分けて、礼香さんは僕の腕の中に飛び込んできた。腕の中の礼香さんの懐かしい温もりは二年前、初めて出会った時のままだった。やさしい笑顔、しなやかな身体。そのすべて、なにもかもが、そのままだった。
やがて、炎の祭典が終盤を迎える頃、ストロベリーブロンドの柔らかい髪が腕の中で初夏の夜風に揺れ甘い香りを醸し出していた。