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作者: 十月十日

 彼女はいつもそこにいた。

 道に背中を向けたまま微動だにしない後ろ姿を、僕はいつも同じ場所で見つけた。


――何を見てるの?


 尋ねても、彼女は僕を見ない。底の見えない湖のような漆黒の瞳は少しも揺らぐことなく、ただ前にひたと据えられている。


――あのさ。いつもここにいるけど、何してんの?


 もう一度尋ねると、随分長い時間を経て、彼女の形の良い唇が開いた。


――見てるの。虎を


 淡々とした声で紡ぎ出された言葉は到底満足できるものではなく、僕は眉間に皺を寄せた。


――それくらいわかるよ。でも、動かない虎の何が面白いわけ?


 多少不機嫌な口調になったのは否めないが、彼女はまるで表情を変えなかった。


――そうね、君には多分わからないと思うわ


 鉄の柵に両肘を乗せて無表情に檻を見つめるその横顔は、白く滑らかな肌と相まってまるで精巧な人形のようだ。


――……あのさ


 並んで檻を眺めながら、できるだけ何気ない風を装って僕は口を開いた。


――何?


 こちらに目を向けることなく、彼女は静かに答える。


――なんであいつ、ずっとこっち見てんのかな


 堂々とした体躯の虎は、鈍い金色の瞳を光らせてじっとこちらを見ていた。直視すれば本能的に怯んでしまうようなその視線を、しかし彼女は平然と受け止めている。


――何故でしょうね。私にもよくわからない


 そう言った彼女は、でも、と呟いて首を傾けた。艶やかな黒髪がさらりと肩を滑る。


――もしかしたら山を見ているのかもしれないわ


 一人言のように淡々と言って、彼女はふいと身を翻した。突然のことに呆気にとられている僕を置き去りにして、すたすたと歩いていってしまう。


――もう閉園よ


 その言葉に被さるように、閉園を知らせるアナウンスが流れた。一人取り残された僕は檻の方を少し振り返り、急かされたようにゲートを出た。



 その翌日も、翌々日も、彼女は同じ場所にいた。同じ姿勢、同じ表情。それまでとまるで変わらない。ただ一つだけ違っていたのは。


――また来たのね


 少し呆れたような声と共に、彼女はちらりと僕の方に目をやった。


――どうして毎日、飽きずに来るの?


――あの虎が気になるからかな


 虚を衝かれたように瞬きを一つして、彼女はゆるゆると檻に顔を向けた。静かに寝そべり、二人を凝視している獣に心を奪われたように、そこにほとんど表情はない。


――私は、彼にここから出て欲しいの


 低く抑えられたような声は、白い息に混じって空気に溶けた。


――どうやって?


――……わからない


 少し眉を寄せて、彼女は頬杖をついた。そのままぼんやりと黙り込んでしまう。

 僕から話しかけるのもなんだか憚られて、二人でずっと沈黙していた。


――私が身代わりになれたらいいのにね


 どれほどの時間が経ったのだろう、ふいに彼女はぽつりと呟いた。思わず僕が答えあぐねていると、それを見て困ったように淡く微笑する。


――冗談よ。そんな顔しないで


 初めて見た笑顔はそのまま溶けて消えてしまいそうで、気がつくと僕は彼女の手を掴んでいた。白くほっそりとした指は、鉄の柵に熱を奪われてすっかり冷たくなっている。

 微かに目を見開いた彼女は、俯きがちに僕の手に指を添えてきた。その羽のような感触にどきりとする。


――ねえ、一つお願いがあるの


――なに?


 口を開きかけて、彼女はまた唇を閉ざした。言葉に迷っていることがありありとわかる。

 しばらく躊躇するように視線を揺らして、ふいに彼女は僕を見上げてきた。

 初めて真正面から見た瞳は、吸い込まれてしまいそうに深く澄んでいる。


――もし私がここに来なくなったら、代わりに君が来てくれない?


 どうして僕がそんなことを。

 そう言って断ることもできたはずだった。なのに僕の喉には何かがつかえたかのようで、ようやく絞り出した声もみっともないほどに掠れていた。

 彼女の双眸から目が離せない。


――いいよ


 彼女の纏う空気が緩んだ。自分から頼んだくせに、少し驚いたような表情を浮かべている。


――ありがとう。……ごめんね


 吐息のような囁きが耳元を掠めた。反応する間もなく唇に何かが触れ、次の瞬間に手の中から冷たい指先が引き抜かれる。

 彼女が目の前からいなくなっても、告げられた言葉は僕の頭からずっと離れようとしなかった。



 それから数日が経っても、彼女は常に僕の中で大きな位置を占めていた。

 まっすぐな視線にいつも見つめられているような気がして、ふと我に返るとまた同じ場所に立っていた。

 まだ開園して間もないせいだろう、奥まったここにはまだ人気がない。

 霧がうっすらと残る中に、彼女は一人立っていた。いつにも増して静かなその横顔を見て、無性に僕の胸が騒いだ。

 少し速度を上げて走り寄った足は、冷たい柵に阻まれた。

 鉄柵の向こうに佇む彼女は、もう僕のことを振り返ろうとしなかった。

 彼女の黒髪が、夜露に濡れたように光っていた。

 僕らの周りはとても静かで、はるか遠くから鳥の声が聞こえてくる。まだ他の獣たちは眠っているのだろうか。昼間のどこかざわついた雰囲気とは打って変わって、全てが息を潜めているようだ。

 冷たい空気が揺らぐ。

 気づけば、すぐ近くにあの虎が立っていた。彼女と檻を隔てて向かい合い、燃えるような金色の瞳を静かに煌かせている。その大きな顎が開いて深紅の口腔が見えたとき、世界から一切の音がたち消えた。


――……!


 その時自分が何を叫んだのか、僕はよく覚えていない。

 ただはっきりと思い出せるのは、手を伸ばして掴んだ彼女の腕の冷たさと、翻った黒髪の鮮やかさ。

 そして、驚くほど強い力で僕の手を振り払った彼女の表情。


 邪魔しないで。


 確かに彼女はそう言ったのだ。氷のようにぎらつく、ぞっとするような瞳で。

 僕の指先からすり抜けた白い手は、そのまま檻の中に呑み込まれた。

 金網の狭い隙間を、細い指が通り抜ける。



 それから起きた事は全て現実のはずだが、布一枚を隔てたように手応えのないものだった。

 僕が我に返った時には全てが終わっていたようだ。

 気づけば彼女の姿はどこにもなく、代わりに見知らぬ青年がそこにいた。

 どこにでもいそうな、ごくありふれた顔立ちの彼は、穏やかな琥珀色の瞳を大きく見開いていた。何か物言いたげに唇を動かすが、声になる前にその輪郭が崩れる。

 立ち尽くしていた僕を一瞥して、獣に姿を変えた青年はひらりと柵を飛び越えた。

 大きく逞しい体躯がどこかへ駆け去るまで、僕はただ呆然としていた。

 のろのろと振り向いた僕は、そこに一頭の獣の姿を見た。

 理知的な光を湛えた金色の瞳は気高く、まっすぐに視線を向けてくる。

 不思議と恐怖は感じなかった。

 黙って見つめ返していると、ふっと彼女は目を逸らした。檻の奥で体を丸めて蹲り、前肢に顎を預けて目を閉じる。

 彼女はそれきり、再び僕の目を見ることはなかった。


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