5 稽古
カン、と乾いた音を立て、リークの手にした訓練用の木剣は彼の手を抜けた。ぽすりと静かに地面に落ちるそれを視線で追ってから、呆れ半分にシャンテルは呟いた。
「現役の騎士に勝てるとは思わなかったわ……。あなた、本当に剣は強くないのね。力は私よりあるんだから弾かれるなんて情けないわよ。柄の握りが甘いわ」
「……というか、なんでお前が剣を使うんだ、しかも達者に! 一応はお嬢さんなんだろうが!」
「学院で覚えたのよ、暇つぶしに。よく男子部に紛れて訓練したもんだわ。家に戻ってからも、相手を捕まえては練習してたし」
その相手はもっぱら現在の姉婿――父の秘書であり、よく家にも出入りしていたユイだったのだが。ふと蘇った記憶にため息をついて、剣を木陰で見物していたエリカに渡す。
「もういいの?」
「一回なら偶然で済むけど、何度も負かしちゃったらリークも言い訳のしようがないでしょ。仮にも騎士さまなんだから、体面は大事だわ」
「だそうだ、リーク。シャンテルは優しいな!」
「明らかに嫌味だろうが……」
朗らかに笑うアリステアに、リークは渋面を作る。
面倒そうに剣を構えたエリカとリークが打ち合いを始めた。それを眺めつつも、シャンテルの意識は隣に座るアリステアに向かう。
(結局、昨日はあんまり寝れなかったわ)
きっと大した意味などない。そう結論付けたはずなのに、アリステアに言われた言葉がどうしてか心を離れず、まんじりともしないままに夜明けを迎えてしまったのだ。
眠い目を瞬くシャンテルとは対照的に、アリステアはすっかり回復したようで、顔色もずいぶん良くなっている。きちんと服を改め、従者たちの稽古を面白そうに眺めるアリステアはどこから見ても快活な、幸福そうな若者だった。厄介な事情を抱え、隠遁している者の悲壮感はどこにもない。
(この人も、どうにも掴みどころのない人よね……)
それなのに、妙に心にひっかかる。どうしてかしらと物思いに耽りはじめた時、不意に彼が口を開いた。
「しかし、君は剣も使えるんだなぁ、シャンテル。しかも太刀筋が潔くて綺麗だ。手合わせ願いたくなるな」
「……遠慮するわ。あなたと私じゃ公平な勝負にならない気がするし」
「それもそうだ。あいつらもそう言って、最近めっきり稽古に混ぜてもらえない。少々さみしいんだが……まあ、仕方ないな」
諦めたように話すアリステアをちらりと窺えば、そこには稽古をする従者たちを眩しそうに見つめる姿があった。聞き分けのいいことを言ってはいるが、本心は違うのだろう。
「剣術が好きなのね?」
「ああ。名手とまではいかないが、そこそこ使える自信もあるよ」
奢りも謙遜もなく笑ってみせるアリステアに、シャンテルは問いかける。
「ねえ、アリス。失礼を承知で聞くけど……運が悪い、ってどんな気持ちなのかしら」
唐突に思えただろう問いかけに、アリステアは驚いたようにシャンテルを見つめた。
「私はね、確かに運は良かったわ。でも、それが幸福だったのかっていうと、そうでもなかった気がするの」
それだけが理由とは言わない。だが、学院であそこまで目の敵にされたのも、最終的にはこの幸運のせいだった気がする。運によるものか偶然の結果かはわからないが、二人きりの時間を過ごすことの多かったユイへの恋も、結局は実らなかった。――では、この幸運がシャンテルにもたらしてくれたものとは、一体なんなのだろう。この幸運の意味は。
「……俺は、君とは逆だな」
「……逆?」
不運によって多くのものを奪われたであろう王子は、沈むシャンテルとは反対に明るく微笑んだ。思いがけない表情にシャンテルは目を瞬く。
「運がないせいで大変なこともあったが、最後の最後は、そう悪いところには行き着かない。俺は悪運は強いみたいだ。一応は健康だし、命も失くしてない。案じてくれる友人もいる。それに、君にも会えた」
「え……?」
てらいもなく言うアリステアに、頬がかっと熱くなる。おまけになんだか胸まで熱い。
(って……胸……!?)
よく知った幸運の兆しにはっとして、顔を前に向ける。
持ち上げた視線の先には、今まさにエリカによって弾き飛ばされた、リークの木剣があった。その軌道はシャンテルを向いている。
「あぶな……っ」
叫ぶようなリークの声。だが、シャンテルは動じなかった。胸に灯る熱。幸運の兆し。この熱があれば、災難は絶対に、シャンテルには降りかからない。学院でされた嫌がらせでもそうだった。仕掛けられた板消しも手桶の水も、シャンテルに危害を加えなかった。
(ほら、現に、剣の軌道も反れはじめて――ない、わね……?)
……さて、どうしてだろう?
方向を変えずまっすぐ迫る木剣に、シャンテルは首を傾げる。
「シャンテル‼」
予想外の展開に、迫る剣をかえってぼんやり見つめてしまったシャンテルを、アリステアが抱き込むようにして庇った。その勢いで、背にした木の幹に強く体を打ち付けられる。衝撃と同時に、すう、と、胸に灯った熱は失せた。
痛みに息を詰まらせたシャンテルの目の前で、飛んできた木剣は王子の頭に直撃した。