3 カンパネラ
本を数冊借りて書庫を後にしたシャンテルは、少し悩んでから王子の部屋へ足を向けた。具合も良くなさそうだったし、きっと今頃は休んでいるはずだ。病気のときは心細くもなるものだし、傍で本を読むくらいなら邪魔にはならないだろう。
(私の部屋じゃ、落ち着いて本も読めないものね)
桃色とレースに溢れた自分の部屋を言い訳のように思い出しつつ、到着した扉を小さくノックする。少しの間の後で、扉は内側から開かれた。
「……何しに来た」
「何って……エリカに、王子と仲良くしろって言われたから」
扉を開いたのはリークだった。
つい言い訳めいてしまったシャンテルの返事に、リークは不機嫌さを隠しもせず、眉をしかめてため息をついてみせた。あんまりな出迎えに腹が立ち、言い募る。
「私を連れてきたのはあなたでしょう。何が気に入らないのか知らないけど、今更とやかく言う権利はないはずよ。部屋に入れてちょうだい」
「……生意気な女だな」
「嫌味な男よりましでしょう?」
間髪入れず言い返せば、リークは更にうんざりと顔をしかめた。それでも諦めたように扉を引いて、シャンテルが通る隙間を作る。
開かれた扉をするりとくぐり、ベッドの傍に移動する。背後ではリークが扉を閉める小さな音が聞こえた。静かな所作は、眠る王子を慮ってのものだろう。
(気遣いのない人ではないみたいだけど……どうしてこう喧嘩腰なのかしらね)
胸中でため息を吐きつつ、ベッドに横たわる王子の静かな寝顔を見つめる。
水色の目を閉じた王子の顔は、思いのほか繊細に見えた。白に近い金の髪が、寝乱れて頬にかかっている。
起こさないようにそっと、明るい色の髪を払う。金属質な輝きを持つこの髪を、昨夜はたしかにどこかで見たことがあると思ったのだが。一晩明けた今となっては、その確証も曖昧だ。
扉を閉めたリークはしばし逡巡の気配を見せたあと、ベッドの傍らに腰を下ろしたシャンテルから少し離れた長椅子に座った。午後の日差しが差し込む部屋に、にわかに沈黙が落ちる。
「……怪我の痕が多いわね、王子」
王子の寝顔を見つめながら、沈黙を破ってリークに言う。考え込むような間の後に、リークは存外静かな声で答えを返した。
「アリステアの不運は洒落にならないところまで来てる。元からついてない奴だったのは確かだが、最近じゃあ本当に、呪われてるとしか思えない。……実際そう思って調べたこともあるが、俺には気配が探れない」
「王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)であるあなたでも無理なら、魔法院が総力を挙げても難しいってことね」
「……エリカか。余計なことを」
毒づくリークを無視して、シャンテルは更に問う。
「それで『幸運の鍵』が選ばれた。――じゃあ、あなたが私を厭う理由はなに?」
「この婚約は、お前になんの利益もない」
きっぱりと言い切るリークに、シャンテルは目を丸くする。
「アリスの不運はいつ終わるとも知れないし、巻き込まれる危険も付きまとう。貴族連中なら、それでもあいつと――ロア王家と婚姻関係を結ぶ利益はいくらでもある。だが、お前は元のままでも充分に幸福なお嬢さんだ。父上も、お前を娶る代わりに授けようとした高位貴族の地位を拒むくらい、政治的な野心はないらしい」
「父さんが……」
そんなことがあったとは知らなかったが、王家の命令であったにも関わらず、シャンテルを手放すことを最後まで反対していたのは父だ。一介の宿屋から身を起こし、リントをロア有数の観光地として盛り立てた地元の名士である父は、その功績から男爵の地位も授かっている。だが、元より彼は商売人だ。娘と引き換えの地位に興味がないのは当然だった。もしかしたら、シャンテルの逃げ道を残してくれたのかもしれない。――いつリントに戻ってもいいように、と。
父の思いやりに里心がつきそうになったシャンテルをよそに、リークは言葉を続ける。
「契約は相互利益により成り立つものだ。利のない契約は信用できない。だから俺はお前を信用しない。……お前に比べりゃ、マルティナ様の方がまだましだった」
「マルティナって……『運試し』で最後に残ってた公爵令嬢よね。あの人は信用できて、私はできないの?」
「あの人は野心があるし、自力で運試しを勝ち抜いた執念もある。……性格はアレだが」
「つまりあなたは、私が王子の不運を恐れて逃げ出すと思ってるのね」
「俺たちは、王太子妃の座を餌に、幸運のお裾分けを『鍵』たる娘に頼むつもりだった」
気色ばむシャンテルに、リークは淡々と続ける。
「だがそれは、お前に対する見返りにはならない。それじゃ、契約は成立しない。だとすれば、他人の災難になんて巻き込まれたくないのが人間だろう」
ひとつ息をついて長椅子から立ち上がったリークは、皮肉げに歪めた口元とは対照的に、やけにまっすぐな目でシャンテルを見つめて言った。
「いっそ、お前がこいつに惚れてくれたら、俺も安心できるんだがな」
「…………」
言い残し、背中を向けて部屋を後にするリークが静かに扉を閉める音を聞いてから、シャンテルはなんだかなあ、と肩を落とした。
気を取り直して借りた本を開こうとしたその時、隣から衣擦れの音が聞こえた。
「すまないな」
いつの間にか目覚めていたらしい。王子は水色の目を細め、困ったように笑っていた。
「あなたが謝ることじゃないわ」
起き上がろうとする王子を止めて言うと、彼はいや、と緩く頭をふった。
「リークのあれは俺のせいだからな。あいつは心配性なんだ。シリエル皇女の件では、俺が柄にもなく落ち込んだから。……城にも騎士団にも、俺の『不運』は知られつつある。口さがない者も居るし、心労もあるんだろう。緩衝の役目を押し付けているのは俺だ」
「…………」
そんなことはない、と言うには、シャンテルは彼らの事情に詳しくない。
軽い慰めを言うこともできず、ただ沈黙を返したシャンテルに、王子は明るく笑ってみせた。
「とにかく、リークは口うるさいが性根は悪くない。むしろ真面目で優しい奴だ。気に障ることもあるだろうが、嫌わないでやってくれ。あいつにも注意はしておくから」
「……腹は立つ人だけど、それだけで嫌いになんてならないわ」
不安げにシャンテルを見上げる王子に呆れ半分で告げると、彼はきょとんと目を瞠る。「あの人、私にあなたを好きになってほしいって言ったわ。そうすれば、それがあなたの傍に居る、たしかな理由になるってことよね。つまり、あの人は好きになったら裏切らないってことよ。――いい従者を持ったわね」
水色の目を真ん丸く瞠った王子は、しばらくそうして驚いた顔をした後で、唐突にくしゃりと目を細くした。そして、とびきり嬉しそうに笑ってみせる。
「ああ。いい従者で……大切な友人だ」
言い直す王子に、シャンテルも笑った。
「あなたもいい主で、いい友達ね。王子様」
それはべつにして、とシャンテルは笑顔を消して呟く。
「あの言い方は気に入らないわ。あの人こそ、私のことが嫌いなのかしら。マルティナって娘の方がいいとか何とか……たしかに田舎成金の娘と公爵家のご令嬢じゃ、比べるまでもないでしょうけど」
『運試し』で最後に張り合った、絵に描いたような高位貴族の令嬢を思い出すシャンテルに、王子は苦笑を浮かべた。
「まあ、リークも本心で彼女を推したわけではないよ。彼女では……そうだな、状況の打開というよりも、破壊へ導きそうだからなぁ」
「知り合いなの?」
目を丸くするシャンテルに、王子はあっさり頷いた。
「ああ、マルティナはロア家の分家、アルティエリ家の令嬢だ。うちの親父の父さんの妹の娘の娘――平たく言えばはとこだな。兄もいて、兄妹揃ってなかなか愉快な奴らだよ」
「愉快……ねえ……」
やけに高飛車だったマルティナを思い出して、シャンテルは不吉な予感を覚える。苦笑を浮かべたままの王子の表情を見るに、穿った意味での『愉快』なのだろう。
「ロア家は少子家系で一つところに居つかない連中も多いから、まともに家系を追える唯一の分家だし、そのうち会うこともあるだろう。なんと言っても、君は俺の婚約者なんだからな。幸運の鍵――金の林檎」
柔らかく微笑む王子に、どくんと心臓が跳ねる。何度も繰り返している言葉のはずなのに、『婚約者』という響きが、どうしてか急に現実味を帯びて感じられた。
動揺する自分をごまかすように、シャンテルは努めて強い調子で言う。
「か、鍵とか林檎とか、勝手に呼び名を付けるのは止めて、王子様。私の名前はシャンテルよ」
「そうか。君が嫌なら、そう呼ぶことにしよう。……ただし、条件がある」
「な、なによ」
警戒して尋ねるシャンテルに、王子はいたずらをしかける子供のように笑う。
「俺のことも王子ではなく名前で呼んでくれ、シャンテル。アリスでいい。友人と――家族はそう呼ぶ」
「な……っ!」
含みを持たせた王子――アリステアの台詞に、シャンテルは言葉を失った。かっと頬が熱くなる。
返す言葉を見つけられず口を開けたり閉めたりするシャンテルを見て、アリステアはこらえきれないというように、声を上げて笑い出した。
「……っははは! いや、かわいいな、シャンテル」
「は!?」
肩を震わせるアリステアにからかわれたことを悟り、猛烈に腹が立つ。真剣に動揺した自分が忌々しい。
「……それだけ元気なら看病の必要もないわよね? 私は部屋に戻るわよ?」
口元に笑みを刻んで静かに呟き、本を抱えて椅子を立つ。シャンテルの怒りを悟ったらしいアリステアは慌てたように弁解した。
「悪い、からかったわけじゃないんだ。怒らないでくれ。……こちらの勝手で婚約者に仕立ててしまって、すまないと思ってる」
にわかに真面目な口調で呟いたアリステアに、シャンテルは扉へ向かっていた足を止めて振り返る。ほっとしたように息をついた彼は、シャンテルの持つ本に目を留めたあと、目元を和ませてこう言った。
「……だから、俺の不運に君を巻き込むことになったその時には、俺が君のカンパネラになろう」
「『鐘』……?」
場にそぐわない単語に首を傾げるシャンテルに、アリステアは微笑みを深くした。
「その本は初めてか? なら、読み終えたら教えてくれ。その時にもう一度、同じ言葉を君に誓おう」
「……わかったわ」
先ほど書庫で借りたユリシーズの著書を示して言うアリステアに、シャンテルは彼の真意が掴めないながらも頷き、部屋を後にした。
□□□
足早に廊下を渡り自室に戻ったシャンテルは、ちかちかと落ち着かない桃色の部屋の中、長椅子に座っていそいそと本を開いた。
(べつに王子の……アリスの言葉が気になるわけじゃないけど)
取り繕うように胸中で呟きながらページを捲る。本は、大陸神話を元に構成された小編集だった。文字を追い読み進めるうち、いつしかシャンテルは本に引き込まれていた。
いくつかの物語を読み終えた後、捲くったページに書かれた文字に、シャンテルはふと我に返った。同じページに描かれた二つの言葉――『小さな鐘』と『金の林檎』。どうやらこれは、この二つを題材にした話らしい。自らのあだ名が神話に登場するものとは知らなかったシャンテルは、ふむ、と頷きながらページを繰る。
(これを読めば、『カンパネラになる』って意味がわかるのかしら?)
そう思い、また文字を追う作業に戻る。
だが、読み進めるうち、ページを捲くる手は遅くなり、文字を追う目は戸惑って揺れた。……これは、どういう意味だろう。
長い時間をかけて短い物語を読み終えたシャンテルは、最後の行を読むなりぱたんと本を閉じた。頭が若干、混乱している。
(てっきりまた、からかい半分の言葉だと思ったんだけど――)
本に記されていたのは、女神に託された『金の林檎』を悪党の手から守るため、命をかけて戦った「小さな鐘」――カンパネラの物語だった。
『金の林檎』の守護者である竜を呼ぶ鐘を持つカンパネラ。ある日、竜が留守のとき、『金の林檎』を狙う悪党が果樹園を訪れる。『金の林檎』を必死に守りつつ、竜を呼ぶため、悪党に斬られてもなお鐘を鳴らし続けたというカンパネラ。健気な少年の物語。
(命がけで守る……ってこと? アリスが、私を? なにそれ……馬鹿げてるわ)
運に見放された王子が、幸運の鍵たるシャンテルを守れるはずがない。第一、自分と彼では命の重みも違うだろう。不運の王子でも、彼はこのロアを受け継ぐ唯一の人間だ。
(冗談よね……きっと)
そう結論付けて、シャンテルは本を遠くに押しやった。
この話を読み終えたことは伝えないことにしよう。そう決めて、シャンテルはクッションを抱え、ぼすりと長椅子に横になった。