2 書庫
やはり風邪をひいたらしい王子が大きなくしゃみをしたのをきっかけに、シャンテルとエリカは王子の部屋を退出した。正確に言えば、「治療をするから出て行け」とリークに追い出された。
「なんであの人が仕切るのよ。お医者さんは呼ばないの?」
猫の子のように部屋を放りだされて剥れるシャンテルを、エリカは昨晩と同じようにどうどう、と宥める。
「下手な医者よりリークの方が確実だよ。今回は風邪っぽいけど、アリスは基本、怪我の方が多いしね」
「……どういうこと?」
「『アヴァロンの王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)』は優秀だよ。君もロアの国民だったら知ってるだろ?」
「それはもちろん知ってるけど……リークは騎士でしょう。関係ないじゃない」
『アヴァロンの王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)』は、ロアの魔法使いに与えられる最上位の称号だ。
ロアはそもそも三百年前、魔法国家であるユーリ=プテルスの航海団が魔物の跋扈する海峡を越えて発見した島だ。長い年月の末に独自の進化を遂げ、魔法の力を持つものは今なお多い。シャンテルのように魔力を全く持たない人間は、ロアではいっそめずらしい。
ロアの国家機関である魔法院は、魔法大国のユーリ=プテルスの同じような機関と比べても遜色ないほどの力を持っている。『ロイヤル王宮ウィザード魔法使い』は、その魔法院の更に上位に位置する、王家直属の魔法使い達の名前だ。その職に任命された魔法使いは例外なく突出した能力を持っていると大陸でも評判が高いらしい。……すべては学院の教科書で得た知識であるが。
とにかく、その『王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)』が、リークとどう結びつくのかわからない。
きょとんとするシャンテルに、エリカはそうか、と一人で納得したように呟く。
「リークは言ってないのか。……騎士って肩書きにこだわるからなぁ、あいつ」
「……どういう意味?」
「そうだねえ……うん、説明しといた方がいいかもね。おいで」
返事を待たず、エリカはシャンテルの腕を引いて歩き出す。
しばし廊下を歩いて階を下り、エリカは昨夜の彼が居たのと同じ、両開きの扉の前で足を止めた。重たげな扉を開きながら言う。
「ここは書庫。ほとんど僕の私室みたいなもんだけど、本とか読むなら自由に使っていいから。蔵書は多いみたいだし」
どこか他人事のようなエリカの声を聞きながら書庫に足を踏み入れたシャンテルは、ぎっしりと並ぶ本棚に、思わずきゃあと歓声をあげる。
「すごいわね、学院の書庫みたい! ユリシーズの本もあるわ……ロアでは読めないと思ってたのに!」
好きな作家の本を見つけてはしゃぐシャンテルを、エリカはきょとんと見つめる。
「本好きなんだね。……ユリシーズっておもしろいの?」
「ええ、私はとても好き。民族史や神話なんかを題材にした話が多くて勉強になるし、幅も広くて面白いわよ。ユーリ=プテルス皇家を後援者に持つっていうのも頷けるわ。ユリシーズの本は検閲が厳しいらしくてロアでは滅多に手に入らないから、学院から戻った後は全然読めなかったんだけど」
小首を傾げたエリカの問いかけに、さっそく本棚から取り出した本のページを捲りながら答える。広い書庫の本を自由に読めたことは、学院での数少ない良い思い出だ。
「エリカはこういう物語は読まないのかしら。どんな本が好きなの?」
この書庫に入り浸っているらしいエリカに、好みの傾向を聞いてみる。おすすめがあれば教えてもらいたい。
だが、期待に満ちたシャンテルの視線の先で、エリカはうーんと唸ってみせた。
「僕は書物全般、基本的に読まないなぁ。すぐ寝ちゃうんだよね」
「……は?」
「絵がたくさんあればなんとか読めるかなぁ。あ、たまに料理の本とか眺めたりするよ? おいしそうだし。作れはしないけどさ」
「……エリカ、たしか魔法院所属の魔法使いだったわよね?」
――王宮機関所属の魔法使いといえは、書物に埋もれて日々研究と発明に明け暮れているものではないのだろうか?
もちろんそれは、本格的な魔法使いの知り合いなど居ないシャンテルの想像でしかない。だが、少なくとも魔法使いには、生来の魔力の他に魔法を解き明かし理解する頭脳が必須のはずである。魔法理論の課程は、難関と評判の学院の中でもとびきり難しかったと記憶している。そもそも魔力を持たないシャンテルは受講する資格すら無かったが。
ともかく、文字を読めば眠り、料理の絵を見つめて満足するような、そんな魔法使いはありえないはずだ。
「ま、そこがこれから説明しようとしてることなんだよ。……とりあえず、本選ぶのは後にして話そうか?」
書庫の奥に置かれた飴色の古びた長椅子を示し、エリカはどこか面白がるように、ひょいと肩を竦めてみせた。
「この屋敷に居るのは、どこか欠落した人間ばかりだよ」
革張りの長椅子に隣り合って座ったエリカは、まず始めにそう言い切った。
「……欠落?」
「さっき本人も言ってた通り、アリスは運に見放されてる。――僕は魔法使いだけど、魔法がろくに使えない」
子供のように投げ出した足の真ん中で、組み合わせた自分の両手を見つめながら、エリカは淡々と言葉を紡ぐ。
「――でも、エリカは魔法院の所属なのよね? 院に入るには試験があるでしょう?」
思わぬ告白にきょとんとするシャンテルをちらりと見やり、エリカは説明を追加してくれる。
「僕の家――メルヴィル家は魔法使いの家系なんだ。今の院長は僕の祖父だよ。一族もみんな、それなりの役職に居たりするから、出来の悪い孫の一人をねじ込むことくらいはまあ、出来なくもないらしい」
他のまともな人達には迷惑なことだろうけど、と他人事のように言って、エリカはシャンテルに同意を求めるように首を傾けた。
どう答えたものかわからず、うまく言葉を見つけられないシャンテルに構わず、エリカは話を続ける。
「リークも同じだよ。ロイル家は騎士の名家で、しかもリークは僕と違って長男だ。だからあいつは騎士であることにこだわってる。十人並み以下の才能しかない剣なんか捨てて、『王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)』として生きていけばいいって、今はあいつの親でさえ思ってるのに、あいつは頑なだ。バカなんだよね。頭が固くて、糞真面目でさ」
王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)――リークが。
一市民であるシャンテルには、ほとんどお伽話の世界の話でしかなかった偉大な魔法使いの称号を、まさか彼が持っているとは。世の中とはわからないものだ。
「……騎士の家系なのに、どうしてそんな才能が……そもそもどこで学んだのかしら」
ひとり言のようなシャンテルの呟きに答えるように、エリカは組んだ指を開き、手の平を見せるようにしながら言った。
「僕とリークは幼馴染なんだ。よく家に行き来してたせいで、講義や剣の稽古なんかも、一人よりは二人の方が楽しいからって一緒に受けたりしててね。そしたら、うっかりお互い、逆の才能を見つけちゃったわけだよ。リークは魔法の――僕は、剣の」
指の長い、白い手の平に不似合いな堅い皮の感触を思い出し、納得する。あの感触とリークの反応は、そういう意味だったのだ。
「リークと僕がアリスの護衛に任命されたのは、アリスの学友だったっていうのもあるけど、一番の理由は騎士団と魔法院からの厄介払いだよ。組織に適さない力しか持たない、でも身分だけはある若造なんて邪魔なだけだからね。役職とはちぐはぐだけど、僕とリークが居れば護衛の役割は果たせるし、アリスの傍にいてやりたいのは僕らの意思でもあるからいいんだけどさ」
言葉の通り、さして気に留めていなさそうなのんびりとした口調で言って、エリカは虹彩の大きな紫の目でシャンテルをひたと見つめる。
「君のことは聞いてるよ。実業家の父上に仲の良い家族。裕福な家庭で健康に賢く育ち、国中の娘の中で一番の幸運を引き寄せるような欠けたところの無い君にとっては、『不運の王子』の婚約者なんていい迷惑かもしれないけど――これも君の幸運の招いた結果だ。よろしくね、『金の林檎』」
「……金の林檎なんかじゃないわ」
わざとらしく紡がれた二つ名に腹が立ち、思いがけず尖った声が出る。
「何もかも思い通りになってるなんて、思わないで」
「君の思い通りにならなかったことなんてあるの?」
明らかに不快を示すシャンテルを気に留めた様子もなく、飄々としたエリカの言葉に、姉とユイの――姉の夫となった青年の姿が蘇る。そう、思い通りにならないことが、無いわけがない。ありきたりで、ちっぽけで、けれど一番だった願い。それが叶わなかったから、シャンテルは今、この場所に居るのだから。
「…………『光源』」
黙り込むシャンテルをじっと見守るようにしていたエリカが、不意にぽつりと呟いた。俯いた視界の端に、暖色の光が映る。
つられるように顔を上げると、エリカの両手の中には、拳ほどの大きさの光の球が浮いていた。
「これ、僕が唯一使える魔法なんだよね。光球を出す魔法なんて初歩の初歩だけどさ」
言いながら、シャンテルの方に光を押し出すようにする。ふわふわと不規則な動きで近付く光球に手を差し伸べれば、光は生き物のようにシャンテルの手の平に収まった。――そして鳴く。
「くけ!」
「きゃあ!?」
「くけけけ」
「な、何!?」
「おだまり、タマオ」
「タマオ!?」
突然声を上げた光球――どうやらタマオという名前らしい――に驚きを隠せず、手の平にぴかぴかとしたその物体を乗せたまま、シャンテルはあわあわとエリカを見やる。
エリカは落ち着いたもので、慌てるシャンテルをよそに、相変わらずのんびりと言う。
「それ、タマオ。なんか普通の光球と違う気がするけど、かわいいでしょ」
「か、かわいい、かしら……?」
光球というよりむしろ生き物のような気配を持つタマオをおそるおそる見つめる。タマオは、シャンテルの視線に答えるようにぴかぴかと瞬いた。……うん、生き物っぽい。
「自分勝手で悪いけど、僕らはもう、君の幸運にすがるしか手がないんだ」
感情の色の乏しい声に微かに込められた慰撫するような気配に、シャンテルは視線を上げてエリカを見る。ひょっとして、落ち込んで見えたのだろうか。タマオを出して見せたのは、シャンテルに対する慰めなのかもしれない。
「そう言われても……私、何をすればいいのかわからないわ。私が運の強い人間だってことは認めるけど、それ以外に特別な取柄なんてないし――『幸運』を自分の意思で使ったこともない」
「君に何かしてもらおうなんて思ってないよ。君はただ、ここに――アリスの傍に居てくれれば、それでいい。僕らの頼みはそれだけだ」
意外な言葉にぱちりと瞬くシャンテルに、エリカはぼふ、と長椅子の背にもたれて、飄々とした口調に戻って言った。
「とりあえずはさ、難しいこと考えないで、アリスと仲良くしてやって。あれでけっこう寂しがりなんだ」