3 夜更けの出会い
目に痛い色に溢れる部屋ではたして眠れるだろうかと心配だったが、瞼を閉じてしまえば、そこには柔らかなシーツの感触があるばかりだった。思った以上に体は疲れていたらしい。慣れない寝床にも関わらず、シャンテルはあっという間に眠りに落ちた。
訪れた眠りの奥で、シャンテルは夢を見ていた。靄のかかったようにおぼろげに浮かぶ、どこか懐かしい風景。明るい広間、暖かい光、胸の奥に宿る熱――誰かの声。あれは誰だったろうか。聞いたのはいつのことだろう? ずっと昔の、金色の――そうだ、あれは、金色の鍵だった――。
「………っ!?」
身の内から湧き上がる熱に、シャンテルは唐突に目を覚ました。熱い。今までに感じたことのないくらい、胸の奥が熱を持っている。
どくどくと脈を打つ胸を無意識に押さえ、ベッドの中で体を丸く縮めて、込み上げる熱に耐える。
「なんなのよ、これ……!」
混乱する頭で、それでも努めて深く、ゆっくりと息をする。何度か呼吸を繰り返した後、やっと脈が正常な速さを取り戻した。
はあ、と最後に大きく息を吐いて、胸からそっと手を離す。
「……まだ熱い。どうしちゃったのよ、もう……」
込み上げるような熱さは治まったが、胸の奥にくすぶる熱は消えない。
ちりちりとした熱が息苦しく、とてもこのまま眠れる気はしない。せめて気を紛らわそうと、シャンテルはそろりとベッドを抜け出した。素足に室内履きをひっかけて、上着も羽織らずバルコニーへ足を進める。体が火照って熱い。新鮮な空気が吸いたかった。
外開きの硝子戸をそっと開き、バルコニーに出る。春とはいえ夜半過ぎの外気はひんやりとしていたが、火照った体にはかえって心地よかった。正円に近い月はさえざえと明るく、白い光に照らされた古い館はどこか神秘的に見える。
強く吹く風に髪を遊ばせ、月を見上げて立ち尽くすうち、胸にくすぶる熱はゆっくりと引いていった。
ほっと息をついたその時、視界の端に、ちらりと光るものが映る。
(……なにかしら?)
光につられるように視線を下ろすと、ちょうど正面にぼんやりとした暖色の灯りに照らされた人影が見えた。中庭をはさんで対称に作られた館の構造を考えれば、向かいの部屋もおそらく寝室だろう。人の少ない館、その上階に部屋を持つ人物が誰かは、考えるまでもないだろう。――王子だ。
思いがけず出会った館の主に、シャンテルは無意識に数歩、手すりの方へと足を進める。不思議と緊張もしておらず、鼓動は静かなままだった。
王子もシャンテルに気付いたのか、佇んだまま動きを止めた。しばらくそのまま見つめ合う。夜陰に阻まれてお互いの視線の在り処など見えるはずがないのに、彼も自分を見ているのだろうと何故かわかった。
不意に、王子は手にしたランプを手すりに置いた。小さな光が淡く彼を映し出す。顔までは見えないが、無造作に肩に落ちる髪の色が薄そうなことや、若者らしくしなやかに伸びた手足の快活そうな様子は、おぼろげに見て取れた。
視線の先で、王子は右手を胸に当てて腰を折り、シャンテルに向けてゆっくりと、きれいな所作で一礼した。その拍子に肩から滑り落ちた明るい色の髪が、ランプの光に照らされ、金属のように輝く。
それを見た瞬間、シャンテルは弾かれたように手すりへと駆け寄った。身を乗り出すようにして、闇に隠れてしまった髪の色をもう一度確認しようとする。どこかで見たことのある、その色。白に近い金の髪。
(さっきの夢……いえ、違うわ。もっと昔、たしかに、どこかで――)
シャンテルの重みを受けてミシミシと軋む手すりの音は耳に届いてはいたが、記憶の糸を必死にたぐるシャンテルは、耳障りな音を意識の外に追いやった。それどころではなかった。もう少しで、何かが掴めそうなのだ。さっきの夢を思い出す。淡い光、金色の鍵、胸の奥に、こんなふうに灯る熱――その熱をシャンテルに与えた『誰か』。
その『誰か』は、あんな色の髪をしていなかっただろうか?
(――って、なに? また、胸が、あつい……!?)
シャンテルが自身の胸に灯る熱に気が付いたのと、もたれた手すりががくりと大きく傾いだのは、ほとんど同時だった。
さっきまでの強い熱とは違うよく知った幸運の兆しに、シャンテルはようやく自身の失敗を知る。――そういえば、手すりには近付くなとエリカが注意してくれていた。
「シャンテル‼」
叫ぶように呼ばれた名前に声の方を仰ぐと、王子が身を乗り出すようにして、シャンテルに手を差し出している。向かいのバルコニーからでは届くわけはもちろん無いが、助けてくれようとする気持ちは嬉しかった。ありがとう、と、シャンテルは小さく呟く。
「――でもね。心配してくれなくても、私は大丈夫なのよ」
言い終わる前に、突如、強く風が吹いた。
「………っ‼」
下方から強く吹きつけてくる突風に、シャンテルは息を飲む。
冷たい風はシャンテルの纏う、妙にひらひらとしたネグリジェの裾を煽り、大きく膨らませた。
「え、て、きゃあ!?」
突然外気にさらされた素足に思わず悲鳴を上げるシャンテルをよそに、風をはらんだネグリジェは見事にまくれ上がり、持ち主の顔面を覆った。しなやかな布地に顔を覆われ、上半身の均衡を崩したシャンテルは、傾ぐ手すりとは反対側に尻餅をついて倒れ込む。
「った――……て、あら……?」
したたかに打った腰の痛みを堪え、涙の滲む目をなんとか開く。そして、目に映った光景に、シャンテルは言葉を失った。ついでに、嫁入り前の乙女としてはひどい有様になっているだろう自身の裾を直すことも忘れた。
見開いたシャンテルの目が呆然と映したのは、叩いたところで壊れそうにない頑丈そうな手すりごと庭の池に落下していく、王子の姿だった。