2 王子の館
馬車が館へ到着したのは、夜半も過ぎた頃だった。
都へ売りに出す馬や羊の牧畜を生業としているらしい、こじんまりとしたのどかな村の中心に、煉瓦造りの古びた館はひっそりとそびえていた。
鉄製の格子門をくぐり、小さな前庭を通り抜けた馬車は、館の前で静かに停車した。
扉を見張る兵士とリークが二言三言言葉を交わしている間に、シャンテルはこっそりと馬車から降りた。すっかり固まってしまった体を解しつつ、松明の細い光に照らされた、蔦のからまる館を観察する。
三階建てらしい館の規模は、故郷のシャンテルの実家と同じ程度だろうか。中庭を囲むような形に建てられた館は、部屋数も十をいくつか越える程度しかなさそうな小ぶりなものだった。貴族はもとより、王族が住まうものとしては、私邸としても簡素に思える。
通り抜けたばかりの前庭は小さいが、館の奥にうっそうと繁る森はかなり広い。その更に遠くに頭だけ見えている長細い建物は、物見の塔だろうか。
気になって、もっとよく見ようと馬車から離れようとすると、背後から襟首を掴まれた。なによ、と振り返れば、不機嫌な顔のリークがこちらを見下ろしている。
「勝手にうろうろするな。子供か、お前は」
「ねえ、あの遠くに見える塔はなに? この館の敷地にあるようだけど」
咎めるリークの声を無視して問いかける。
シャンテルの示す塔に目をやったリークは嫌そうに――もっと適切に言うならばうんざりとしたように、露骨に顔をしかめてみせた。
「……あの塔には近付かない方がいい。厄介なことになる。いいか、忘れるなよ。お前のために言ってるんだ」
「え?」
嫌味な素振りもなく、むしろ真摯に告げられた言葉に疑問符を放つが、リークにそれ以上語るつもりはないらしい。この話は終わりとばかりに頭を振って、とにかく、と口調を改めた。
「ようこそ、アリステアの館へ。とりあえずは、主に代わって歓迎しよう。幸運の鍵――シャンテル・アルフォード」
「やっと騎士様らしい振る舞いをしてくれたわね?」
それまでの態度とは打って変わって慇懃に差し出された手の平にくすりと笑うと、からかわれたと思ったのだろう。リークは嫌そうに顔をしかめた。
文句を言われる前に手を重ねる。広い手の平に導かれるまま、シャンテルは開かれた扉をゆっくりとくぐった。
古びた外観とは裏腹に、足を踏み入れた館内は手入れが行き届いていた。
夜中だけあって明かりが少なく、薄暗いのは仕方が無いが、足元を包むやわらかな深紅の絨毯と飾られた花の匂いに、シャンテルはほっと息をつく。なにやら訳ありらしい王子の隠れ家とあっては、どんなおどろおどろしい所かという不安も大きかっただけに、そこに真っ当な生活の香りがあることに安堵した。
玄関ホールを抜け、いくつか階段を上った所で、通り過ぎてきた部屋よりも一際重厚な作りの、両開きの扉が見えた。
「ここは――」
何の部屋、と問おうとしたそのとき、シャンテルの視線の先で、扉は唐突にガチャリと開いた。隙間から、ひょこりと黒い頭がのぞく。
「やあ、おかえり、リーク。遅かったね」
「エリカ……気付いてたなら出迎えぐらいしろ」
「してるじゃん、いま」
渋面を作るリークに、エリカと呼ばれた人物は軽く肩をすくめて見せる。
まっすぐな黒髪を高い位置で無造作に束ねた、繊細な印象の青年だ。年はシャンテルと同じか少し上程度だろう。虹彩の大きな紫の瞳は重たげにとろりと緩み、作りのきれいな白い顔はやや少女めいて見える。決して小柄なわけではないが、細い体躯が余計にそう見せるのかもしれない。
ゆったりとした白いローブを纏った彼は、眠そうにも見える無表情でぼんやり小首を傾げてシャンテルを見つめてから、唐突に右手を差し出した。
「はじめまして。待ってたよ。僕はエリカ・メルヴィル。一応は魔法院所属の魔法使い。今はリークと一緒に、アリスの護衛任務に就いてる。よろしくね」
「わ、私はシャンテルよ。こちらこそ、よろしく」
口調はのんびりしているが、言葉の中身は無表情に似つかわしくない明朗なものだ。
その差異におどろきつつ、差し出された手を取ると、細長い指は親しげにシャンテルの手をぎゅっと握った。
(――あれ?)
触れ合った手の平の感触に疑問を持ち、シャンテルは軽く目を瞠る。
「ねえ、エリカさん」
「エリカでいいよ? 僕もシャンテルって呼ばせてもらうから」
「じゃあ、エリカ。あなた、魔法使いって言ったけど、剣も使うの?」
握っていたエリカの手をくるりと裏返し、魔法使いには不似合いな堅い手の平をじっと見つめてシャンテルは尋ねた。よく見れば、いくつかまめの痕も見える。日常的に剣を扱う者の手だった。
エリカとリークは、そんなシャンテルを驚いた顔で見つめていたが、やがて手を掴まれたままのエリカが、あは、と笑ったような息を漏らした。
「なるほど鋭いね、シャンテル。アリスは鈍いから、性格的にもお似合いかもしれないな。あの人の仕切りにしては、案外いい縁談なんじゃない? ねえ、リーク」
表情は変えず、声だけに愉快そうな響きを宿して、エリカはリークに言葉を投げる。
「……余計なことを言うな、エリカ。それより、アリステアはどうだ。起きてるなら、これを連れてきたと報告するが」
この話題には触れたくないのか、リークはエリカをいなして話を逸らす。
これ呼ばわりと、シャンテルの質問をことごとくはぐらかすその態度には腹が立ったが、アリステア――王子に紹介する、という言葉の方が、今は気になった。もう夜中だし、今日はないだろうと思っていたのだが、どうしよう。心構えをしていなかった。
にわかに緊張するシャンテルをよそに、彼らは二人だけの会話をのんきに続ける。
「あー、ごめん、無理。今日も派手にやっちゃって、いま寝てる」
「……またか。お前がついてて何やってるんだ。護衛はお前の任務だぞ」
「とかいって、リークだって完璧に守りきれたことないじゃん」
「う……」
年上に見えるが、リークの立場がエリカより上というわけではないらしい。
あっさりとリークを言い負かし、エリカは飄々と続ける。
「ま、責任は感じてるよ、それなりに。薬だってちゃんと処方したしさ」
「お前がか!?大丈夫なのかソレ!?」
「なんか昼から起きないんだけど、とりあえず息はしてるし。平気なんじゃない?」
「息は……って、お前な……」
がくりと肩を落とし、リークは呻くように呟いた。
彼らの内情を知らないシャンテルは想像するより他ないが、どうやら王子は現在、具合がかんばしくないらしく、したがって今日中の対面はないということと、この二人は従者とはいえ王子と親しい間柄なのだろうということはわかった。二人ともそれなりに身分のある家の子息のようだし、王子とは学友かなにかで気安い仲なのだろう。
それにしても、とシャンテルは首を傾げる。
「もしかして、王子は誰かに狙われたりしてるの? それで私が必要なのかしら」
だからこんなふうに、王宮から離れて館へこもっているのだろうか。王族ともなれば、命や身柄を狙われることもあるだろう。とびきり危険な何かが迫っているから、唐突に幸運を求めたりしたのだろうか? ……それにしては従者たちがのんきすぎる気もするし、人の気配もまばらな屋敷の警護も、ずいぶんとずさんではあるが。
疑問を口に出せば、やいやいと口論していた従者たちはそろってシャンテルを振り向いてから、黙って顔を見合わせる。口を開いたのはエリカが先だった。
「やっぱ鋭いね。ちょっと違うけど、いい線はいってるなぁ」
「そんな分かりやすいものなら、こんな苦労はしないだろ。もっとばかばかしくて……もっと厄介だ」
どこか自嘲の響きを宿した口調でそう言って、リークは唐突に踵を返した。
「ちょっと、どこいくの?」
シャンテルを置いて廊下を戻るリークに、慌てて声をかける。
「アリスの様子を見てくる。お前の部屋はこの突き当たりの階段を上ったとこだ。説明はエリカに聞いてさっさと寝ろ。以上」
「以上って……私は荷物じゃないのよ! リーク!」
遠ざかる背中にむかって叫ぶが、リークは振り返りもしない。
「もう、なんなのよ、あの人! いろいろと失礼すぎるわ!」
「どうどう、シャンテル。とりあえずほら、部屋にいって休もうよ。もう遅いし、疲れてるだろ? 文句は明日、本人にいくらでも言っていいし、なんなら殴ってもいいからさ」
腹は立つが、丸一日馬車に揺られて疲れているのは事実だった。先に立つエリカに促されるまま、仕方なく絨毯を敷いた階段を上り、部屋へと向かう。
「部屋は僕が女の子仕様に整えといたから。部屋の中のものは好きに使って、足りないものがあったら言ってね。……あ、バルコニーの手すりだけは仮柵だから近付かないでね? この館、よくいろんな場所が壊れるんだ」
「……古そうな館だものね。内装はしっかりしているし、嫌な感じはないけど」
憤るシャンテルを気遣っているのか、細々と教えてくれるエリカに、少し溜飲が下がる。エリカの言うとおり、リークに対する不満は本人にぶつけるとしよう。
気を取り直したシャンテルの言葉に、エリカは口元に手をやって、うーん、と困ったように唸った。
「それだけじゃないんだけど……まあ、その話はちょっと長くなるからさ。今日はゆっくり寝て、明日以降、ちゃんと話そう。ね」
子供を説き伏せるように言われてしまえば、これ以上ごねることもできない。
「わかったわ」
しぶしぶ頷けば、エリカもうん、とひとつ頷き返して、シャンテルの頭にぽんと手を乗せた。意外な仕草におどろいて視線をあげたシャンテルに、エリカはほんの微かにだが口角を上げて、笑顔のような表情を浮かべてみせる。
「おやすみ」
言い残して背中を向けるエリカをぼんやり見送りながら、シャンテルは思う。
掴み所がなく、変わっていることは確かだが、エリカはリークに比べればかなり友好的で、親しみやすそうだ。頼ってもいい人かもしれない。何もわからないこの屋敷の中に、ひとりでも親切な人がいると思えば心強い。
少しは明るくなった心で、与えられた部屋の扉を開ける。
――そして、言葉を失った。
「………………なにこれ?」
やたらどぎつい桃色と、けばけばしいレースの装飾に溢れた痛ましい空間に、シャンテルの意識はくらりと遠のきそうになる。
(――これが、私の、部屋……?)
後退しそうになる体をなんとか押しとどめると、シャンテルは意を決して扉を閉め、じりじりと中へ踏み込んだ。大きな家具調度の類はまともそうだが、それ以外――張り出し窓にかけられたカーテンや机のクロス、クッションやベッドのシーツ、敷かれた絨毯――シャンテルのために揃えられたであろうもの達はみな、例外なくひどい有様だった。
「……エリカが整えたって言ってたわよね、この部屋。壮絶だわ……。誰も止めなかったのかしら……」
ベッドの上に置かれていた、やたらと派手なフリルのついたネグリジェを手にとって、シャンテルは遠い目をして呟いた。この手触りは絹だ。自分には少し大きいかもしれないが、つるつるとした感触は肌に心地よく――それがどうしてかひどく空しい。
足りないものは一応無いし、部屋は清潔で、きちんとしているといえばしているのだろう。だが、どうにも感謝する気になれない。シャンテルは深くため息をつき、ひとつの決意を胸に刻む。……エリカを頼る局面は、きちんと考えることにしよう。
ひっそりとそう誓い、シャンテルはぼすりと桃色のベッドに倒れ込んだ。
肌に触れたシーツからは、薔薇の良い香りがした。