1 旅の始まり
旅の令嬢と、その護衛。それが旅の設定だ。
設定に沿った、高級でなおかつ丈夫そうな素材のブラウスと裾の広がったスカートを身に着けたシャンテルは、最後に短剣をスカートの中に忍ばせることにした。太腿に皮の留具で固定する。必要かどうかはわからないが、お守りのようなものだ。気合も入る。
鏡に映った自分の姿を確認する。見た目だけなら普段の装いと大差ない。すっかり定着してしまったお団子もそのままだ。だが、気持ちは違う。今日はこの館に訪れて以来、初めての『外出』なのだ。そう思えば気合いも入る。
よし、と呟き覚悟を決めて、ついぞ見慣れることは無かった悪趣味な部屋に別れを告げた。
赤い絨毯の敷かれた階段をゆっくり下りながら、シャンテルは思う。
(あのとき、もう少し早く塔へ戻れていればきっと、この旅の必要もなかったんでしょうけど……)
塔での出来事を思い返せば、自然と拳に力がこもる。すっかりアーヴィンにしてやられた。どうせこの旅も彼の計算尽くのことなのだろう。
――数日前。
アーヴィンによって塔から落とされたシャンテルとアリステアは、追いついた従者達と共に、塔の上階へと戻った。だが、乱暴に扉を開け放ったシャンテルが目にしたのは、すでに空になった部屋だった。床に散らばる紙片や本はそのままだったが、机の上にあった紙束などはご丁寧に消えている。
「なんで居ないの……? 塔から出てくる人なんていなかったのに」
「……他律魔法の術式を持ってたんだな」
呆然と呟くシャンテルの視線を追って書物机を見やったリークは、机上に残された透明な石を無造作につまみあげた。上向けたリークの手の上で、石はさらさらと崩れ落ちる。
目を丸くするシャンテルに反して、冷静にリークは言った。
「使いきりの転移魔法――主には脱出用に用いる術式だ。転移魔法は扱いが難しい。ロアの技術じゃ、 もっと大掛かりな装置が必要だ。こんなちっぽけな触媒にはおさまらない。それに、こんなふうに魔力を結晶化した触媒を……『鍵』を介す術式は、ロアの魔法使いのものじゃない。――ユーリ=プテルス特有のものだ」
――ユーリ=プテルス。リークの口から出た隣国の名に、シャンテルはアーヴィンの言葉を思い出す。シャンテルを落とす寸前、彼はたしか、こう言ったはずだ。
「『クリスタベル』……って言ってたわ、あの人。クリスタベルを責めるな、って」
「クリスタベルは、ユーリ=プテルスの湖の名だな。ロアとの国境、シームリア大橋の近くにある。何より、そこで有名なのは――」
「『クリスタベルの姫』。クリスタベルには、俺の前の婚約者――シリエル皇女の離宮がある」
リークの言葉を引き継いで、アリステアが呟く。
垣間見えた表情は、困惑を隠しきれていない、沈んだものだった。
(やっぱり驚いてた……っていうより、傷ついてたのかしらね、あの顔は)
逸る気持ちを抑えて旅立ちの準備を整えていたこの数日。その間のアリステアを思い出し、シャンテルはため息をつく。表面上は普段と同じかそれ以上に明るく振舞っていたアリステアだが、ふとした隙間に、考え込むように明るい色の瞳を翳らせていた。
(そりゃそうよね。ようやく掴んだ不運の手がかりが、お兄さんと前婚約者が怪しいってものだったんだもの)
明るい容姿に不釣合いな沈んだ目の色は、彼には似合わない。どうにかしてやりたいが、この数日の間はリークもエリカも旅の準備にばたばたと駆け回っていてろくに話す暇もなく、アリステアを取り巻く状況の説明も聞けなかった。何もわからず、また彼自身が表立って落ち込んだ様子を見せない以上、安易な慰めは言えなかった。
「シャンテル。準備はいいか? 忘れ物はないか?」
「きゃあ!?」
考え込むうち、階段を下りきっていたらしい。
いつの間にかホールに到着していたシャンテルを迎えたアリステアは、まるで出かける子供を見送る親のような言葉をかけた。驚いて悲鳴を上げたシャンテルに、目元を和ませて笑う。
「ああ、すまない。驚かせたか? ……まあ、必要なものは大抵リークが準備してくれたし、往路の確保もしてくれたから、そう危険はないだろう。大丈夫だ、心配ないよ」
シャンテルの物思いを緊張のためと捉えたのか、安心させるように優しげに言うアリステアに、とりあえずは黙って頷いた。考えていたのはあなたのことよ、とはさすがに言えない。
うん、と頷き返したアリステアは、リークが普段着ているような紺色のかっちりとした上着に旅人風の外套を纏い、腰に長剣をさしていた。いずれもさほど仕立てのいいものではないが、それも旅の仕様だろう。白に近い金髪は、無造作に肩に落とされたままだ。
「……髪、そのままでいいの? 結ってあげましょうか?」
気になって、背伸びをしてアリステアの髪に手を伸ばしたその時、背後から間延びした声が聞こえた。
「いちゃついてるとこ悪いけど、御者さんが待ちくたびれておかんむりでーす。続きは馬車でおねがいしまーす」
「…………」
「いや、本気で嫌そうな顔をしないでくれよ、シャンテル」
相変わらずのん気なエリカの言葉に頬を引きつらせたシャンテルを見て、アリステアはおかしそうに笑った。そしてシャンテルの背をぽんと叩き、軽く言う。
「じゃあ、行こうか」
「……ええ」
頷いて、促されるまま館の扉をくぐる。やけに青く澄んだ空を背に、幌のついた二頭立ての馬車が待ち受けていた。
緊張するような、浮き立つような。何かに挑むような、何かが始まるような。
奇妙な心持ちのまま、先に馬車に乗り込んだアリステアの差し出してくれた手を取って、シャンテルも車上に乗り上げた。
なにはともあれ、出発だ。