6 塔の住人
森を抜け辿り着いた塔の周囲は、近くで見れば案外に牧歌的な空間だった。
塔自体は、切り出した石をそのまま積み上げたような無骨なものだ。だが日当たりはよく、近くには飼葉桶がいくつも設置されている。馬屋が近くにあるのだろう。
視認できる範囲に裏門があり、なるほど、とシャンテルは納得した。屋敷のある表門からは遠いが、裏から入ればすぐこの塔に着く。馬屋の番人はこの門から出入りしているに違いない。見渡せば、馬車庫らしき建物も見えた。
マルティナの怪談のせいもあり、おどろおどろしい場所を想像していたシャンテルは、ほっと肩の力を抜いた。この風景の中でなら、そう危険なことは起こらなそうだ。
ふわふわと先を行くタマオに次いで塔の前に立ったシャンテルは、分厚い木造の扉に付いた、赤錆の浮く古めかしいノッカーを右手で掴み、ずしりと重いそれを打ち鳴らす。しんとした空間に、鈍い音が大きく響いた。だが、しばらく待っても返事はない。
「……誰も居ないのかしら」
扉を離れ、塔の周囲をうろうろと見渡す。非難用のものか、簡易な階段が外壁にそのまま取り付けられているが、手すりもない木製のそれはずいぶんと頼りない。できればこれを登るのは避けたいところだ。
未練がましく正面の扉へ戻り、取っ手を掴んでみる。どうせ開いてはいないだろう、と体重をかけて押してみれば、扉は存外にあっさりと小さな隙間を作った。
「開いてた……のね」
隙間から薄暗い塔の内部を窺う。すると、シャンテルの頭上をふわふわと漂っていたタマオがひょい、と中へ進入した。
「あ、ちょっと……タマオ!」
タマオを追い、シャンテルも作った扉の隙間に体を滑り込ませるようにして塔へと入った。光るタマオに照らされて、明り取りのない薄暗い塔の内装がぼんやり見える。石肌はそのままだが、防寒のためか壁には取り取りの色で折られた壁掛け(タペストリー)が飾られおり、今は灯されてはいないものの、蝋燭の残るランプも置かれている。手入れが行き届いているとはいえないが、廃墟というには積もる埃も少なく、人が住んでいることは確かなようだ。
タマオはふわふわと、何かを求めるように先へ進む。それを追って段差の大きな狭い階段を小走りに登ったシャンテルが行き着いたのは塔の最上階、突き当たりにある一室だった。
石造りの古びた塔の中で、その部屋の扉だけはやけに真新しく見えた。塗料の香りすらしそうな扉は、明らかに最近になって取り付けられたものだ。その前に、ふわふわとタマオが浮いている。
「さて、どうし……」
「くけけけけ!」
どうしようかしらと言おうとした途端、タマオはぴかぴかと光りながら大きく鳴いた。
驚いてびくりと肩を震わせたシャンテルの前で、緩慢に真新しい扉が開く。
「……なんだよ、まだ明るいじゃないか。さっき寝たばかりなんだから……」
不明瞭な抗議と共に現われたのは、奇妙な印象の男だった。
おそらく寝巻きなのだろうそっけない黒の上下に、同じく黒のナイトキャップ寝帽子を目深に被っている。帽子からだらりと落ちた艶のない髪の色も、不自然なほどに真っ黒だ。そこに、どうしてか明るい色の房が時折見えて、まるで白髪のようだった。年老いているのかと一瞬思うが、声の調子は存外に若い。
「あ、あの……」
とりあえず何か言おうと口を開けば、奇妙な男は弾かれたように顔を上げてシャンテルを見つめた。目元には濃い隈が浮いており、疲れが滲んで見えたが、顔自体は声と同じく若いものだった。せいぜいが二十代の半ば程度だろう。
くすんだ顔色の中、驚いたように瞠った双眸だけは鮮やかな水色だ。その目の色には覚えがある。――アリスと同じ色だ。
「ああ、君か。いきなり来るから驚いた。こちらから出向こうと思ってたんだけど、どうにも仕事が忙しくてね。やっと片が付いたところで――」
初対面だというのに親しげに、まるで既知の人物と話をするように喋り始めた男は、しかし途中で言葉を切った。男とシャンテルの隙間を縫って、部屋の中へ光の球が突進していったからだ。
「……た、タマオ!」
タマオを追って身を乗り出したシャンテルを、男はすんなりと部屋に招きいれる。
部屋の中は、一見して書斎のようだった。
まともな家具と呼べるものは、大きな書物机と簡素なベッドの二つきり。机の上には分厚い紙束と万年筆が一本。石の床、毛織の敷物の上には書き付けを残した無数の紙片が散らばり、書物が塔のように幾つもそびえていた。
その本の塔に埋もれるように、ぴかぴかと光るタマオは居た。上から覗きこめば、隙間に置いてあったらしい菓子鉢の中の菓子をもそもそと齧っているようだ。どうやら空腹だったらしい。食べ物の匂いを追って、シャンテルをここまで導いたのだろうか。……やはりただの光球ではない。
「……ごめんなさい」
躾の悪い飼い犬の粗相を詫びるような心持ちで、シャンテルは男に言った。
「君が謝ることじゃない。あれはエリカの光球だろ? あいつも意外と食い汚いからね、似てるんだろうさ」
「……エリカを知ってるのね?」
「そりゃ、エリカもリークも知ってるさ。ああ、もちろんアリスもね」
目を瞬かせるシャンテルを、男は水色の目を愉快そうに細めて見つめた。そして言う。
「俺はアーヴィン。アーヴィン・サキ・バーナード・ロア。――アリスの兄、と言った方が分かりやすいかな?」
告げられた言葉に、シャンテルは目を見開いた。驚きのあまり、声も出ない。
(この人が、アリスのお兄さん。有名な、ロア家きっての問題児……)
アーヴィン・サキ・バーナード・ロア。
それはたしかに、このロア王国の第一王子の名前だった。
数年前――正確には七年前まで、彼はたしかにロアの王太子だった。だが、彼は立太子の儀の直前に国を出奔し、姿を消した。理由は知らない。国民には知らされなかった。だが、ロア王家が国内の民にも、他の国々に対しても、彼を王家から除籍する旨を宣言したことから、相当な何かを引き起こしたらしいということだけは広く知られている人物だ。
「まあ、ロアを名乗ると怒られるんだけどね、もう。まったく、父上も磊落なようでいて意外と根に持つからなぁ。城にも入れてくれないし、だからロアに居るときは、こうやって弟の元を頼ってるんだ。ここは静かだから執筆にはもってこいだしね」
「執筆……」
書き物をする人なのか。たしかにこの部屋は書斎のように見えるが。
床に散らばる紙片を一枚手にとって、書かれた文字を目で追う。そして、シャンテルは再び大きく目を瞠った。
「これ、この物語……もしかして、あなた……」
覚えのある人物名や単語の書き付けられた紙面を凝視するシャンテルに、アーヴィンは笑みを含ませた声で言った。
「ああ、読んでくれているんだね。嬉しいなぁ」
「……ユリシーズ、なのね?」
やっと視線を持ち上げて、アーヴィンを見つめる。視線の先で、彼は弟と同じ水色の目を和ませて、ゆっくりと頷いた。