2 怒りの茶会、そして告白
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予想外の客人を迎え、屋敷はにわかに騒がしくなった。
数日は留まるという兄妹用の客間を整えるため、リークとエリカは通いの使用人らと慌しく走り回っている。シャンテルとアリステアは、テラスで兄妹と卓を囲む係だ。正直、部屋の掃除の方がよかったが、婚約者という立場である以上は仕方があるまい。
「しかし、思いのほかお元気そうで何よりです、アリステア殿下。殿下がこちらに移住されてからというもの、王宮も落ち着かなくてね。どこから伝え聞いたのか、やれ呪いの王子やら、呪いは人に伝染するから身を隠しているやら、親しい従者を侍らせて不吉な企てをしているらしいやら、あげくの果てには兄王子と同じく国を捨て、とうに隣国へ出奔を遂げているやら……不穏な噂が飛び交っていて、最近はめっきり居心地が悪い」
悲痛に歪ませた眉とは裏腹に、まくしたてるマルシリオの声は楽しげに弾んでいる。
茶器の並ぶテーブルの下で、シャンテルはぎりりと強く拳を握った。無理やり浮かべた愛想笑いも完全に引きつっていることだろう。
「そろそろ立太子の儀を行っていただかないと、次の太子は分家から立つのではないかという噂まで囁かれていましてね。根も葉もないものですが、おかげで僕に取り入ろうとする連中の多いこと、多いこと。僕は王の器などではないときっぱり言ってはいますけど」
ますます悦に入るマルシリオに限界を感じて、シャンテルは笑うことを諦めた。このままでは遠からずテーブルを蹴り倒してしまいそうだ。
心の中で数を数えて必死に平静を保とうとするシャンテルにひきかえ、アリステアは自然な笑顔でマルシリオの雑言に頷いている。彼が怒らないうちは、自分が爆発するわけにはいかないだろう。先ほどのエリカの言葉を思い出し、シャンテルは耐える。
「そうか、君にも苦労をかけるな、マルシリオ。マルティナも『運試し』なんてものに参加させてしまったし……君たち兄妹には頭が上がらない」
「いいえ、私は自分の意思で『運試し』に赴いたんだから、迷惑なんかじゃないですわ。少しでもアリステア様のお役に立てれば、と思って……それにほら、妃となれば末永くお傍に控えていられますし」
ぽ、と愛らしく染めた頬に手を当てて、マルティナは小首を傾げてみせた。その仕草もまた上品で、可愛らしい。だが、そう思った瞬間、マルティナは一転して眼差しを鋭くし、憎憎しげにシャンテルを睨んだ。
「……まあ、結局そちらのお嬢さんに負けてしまったのだから、全て無意味でしたけど」
「…………」
それは申し訳ないことをしました、とでも言えというのだろうか。
虚ろな目で沈黙を返すシャンテルに、マルティナは見下したような笑みを向けた。
「まあ、毒にも薬にもならなそうなあなたなら、王宮でも反感を買わずにやっていけるかもしれませんわね。私はほら、恵まれて見えるのか、よく妬まれてしまって」
遠まわしにシャンテルをけなし、自分を持ち上げている。なるほど、よく似た兄妹だ。
勝ち誇った顔でアリステアの反応を窺うマルティナはしかし、すぐにその笑みを凍らせた。おそらくは、アリステアが唐突にシャンテルの肩を抱き寄せたからだろう。
「アリス……?」
「ああ、すまない。鳥が君のリボンを狙っているようだったから」
彼の視線を追えば、たしかに近くの木の枝に止まった数羽の鳩がこちらを向いている。だが、おそらく鳩が狙っているのはリボンではなく、テーブルに載った菓子だろう。アリステアもそれはわかっているはずだ。その証拠に、近い距離にある彼の水色の目は、いたずらっぽく笑っている。
(話を逸らしてくれた、ってことね)
ちらりと窺えば、顔を青くしたマルティナはわなわなと唇を震わせて言葉を失っていた。後は怖いが、とりあえずはいい気味だ。引きつりっぱなしだった顔の筋肉がようやく解れる。これで、なんとかこの時間も乗り切れそうだ。――そう思った時だった。
「ははは、なるほど! 災いの、呪いの王子というわりに、我が王太子殿下はずいぶんと楽しく毎日をお過ごしのようだ! ……さて、会って数日とはいいますが、そちらの『鍵』とはずいぶんと親しくなられたようですね。彼女は一体、誰に宛がわれた娘です? 誰の言葉があって、あなたはその娘を近くに置いたのかな?」
高らかに、耳につく笑い声を上げたマルシリオは嘲りを隠しもせずに、唇を嫌な形に吊り上げて言った。言葉の意味を掴みかね、ぽかんとするシャンテルを芝居がかった仕草で見やり、マルシリオはとうとうと続ける。
「――今、城で一番信憑性のある噂はね、殿下。あなたは傀儡だというものなんですよ。あなたの『友人』――王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)とメルヴィルの落ちこぼれが、あなたを取り込み呪いをかけ、息のかかった娘を宛てがい、何食わぬ顔で傍に控え、尽くし……やがて巡るあなたの時代に備えているという――……」
ガシャン、と尖った大きな音に、マルシリオはびくりと肩を震わせ言葉を止めた。
丸く目を瞠った彼は、最初に倒れた茶器を、次に茶器から零れた紅茶が白いクロスに広げる染みを見やり、最後にぽかんとした顔でその原因を――テーブルの足を蹴り飛ばしたシャンテルを見つめた。マルシリオだけではない。マルティナも、そして隣に座るアリステアも同じように目を瞠り、シャンテルの行動に驚いている。
「な、なんて乱暴なひとなの……品のない」
「……品がないのはどっちなのよ」
怒りに震える声で、シャンテルは低く呟いた。たしかにテーブルを蹴り飛ばすのは行儀が悪い。そんなことをしたのは、シャンテルだって初めてだ。おかげで力の加減がわからず、打ち所が悪かったのか足がじんじんと痛む。だが、そんなことはどうでもいい。
「アリスがどんな気持ちでこの館に篭っているのかも、リークとエリカがどれだけアリスを心配してるのかも知らないで、よくもそんなくだらないことが言えるわね。リークなんか私を宛がうどころかアリスを心配しすぎるあまり遠ざけようとしてるわよ。過保護もいいとこよ。大体あの人たち基本的にばかじゃない、アリスの心配以外のことほとんどしてないわよ、仕事しろって感じよ、いつそんなこと企んでるっていうのよ……?」
込み上げる怒りを抑えようとするあまり、声は抑揚のない平坦すぎるものになる。
「……い、いやその僕は、あくまで噂の話をしたのであって」
「ちょっと……不気味よ、あなた。怖いわよ、悪鬼みたい」
突然に怒りを見せたシャンテルに圧されたのか、マルシリオは視線を宙に泳がせ、しどろもどろ弁解じみた言葉を口にする。反してマルティナは、驚きが冷めるやいなや、蔑みの目でシャンテルを見やった。その目を真っ向から受けたシャンテルは、眦を鋭くして遠慮なくマルティナを睨み返した。この兄妹に対しては、もう一歩も引く気はない。
「……っははははは!」
「アリス?」
「アリステア様?」
張り詰めた空気を割った朗らかな笑い声に、睨みあっていたシャンテルとマルティナは、同時に目を丸くしてアリステアを見つめた。眉尻を下げ、肩を震わせる彼に毒気を抜かれ、楽しげに笑い続けるアリステアをぽかんと見つめる。
「いや、シャンテルが――婚約者が失礼した」
ひとしきり笑ったあと、浮かんだ涙を拭きながら、アリステアはまず兄妹に詫びた。
婚約者、と言い切ったアリステアに、マルティナの表情がまたぴきりと凍った。それに気付いたふうもなく、アリステアは更に続ける。
「だが、まあ、俺の噂は事情の説明を行っていない俺の非だから構わないがな、マルシリオ。リークとエリカは俺の大切な臣下で、友人だ。特に、リークは君の直接の臣下でもあるだろう。――あまり口さがないことを言うと、『呪いの王子』の災いが及ぶかもしれないと、忠告しよう」
あくまで朗らかに、にっこりと笑って紡がれた言葉に、マルシリオは顔をひきつらせてこくこくと頷いた。
「ま、まあ、単なる噂ですよ、殿下。僕はこれっぽっちも信じちゃいない」
ハハハと乾いた笑いを交えて言うマルシリオの背後から、聞きなれた声がした。
「マルシリオ様、マルティナ様。部屋の仕度が整いました。ご案内いたします」
「お待たせしましたー」
しれっと澄ました顔で現われたリークとエリカは、おそらく今しがたの会話を聞いていたのだろう。エリカののんびりとした声の語尾は楽しげに弾んでいるし、ちらりとシャンテルを見やったリークは、余計なことを、とでも言いたげな渋面を作っている。
なによ、と睨み返した視線をきれいに無視したリークは兄妹を促し、シャンテルに背を向ける。その態度はやはり憎たらしいが、こうでなくてはと思う気持ちもないではない。
「それでは、また後でな、ふたりとも。ひとまず休んでくれ」
場を逃げ出す口実を得てほっとした様子のマルシリオと、相変わらず剣呑にシャンテルを睨むマルティナを屈託のない笑顔で送り出してから、アリステアはさて、と呟いた。
「……すまないな、シャンテル。また君に不快な思いをさせてしまった。迷惑ばかりかけるな、俺は」
迷惑、とは、なんのことだろう。今しがたの出来事か、数日前の怪我のことなのか、それとも、シャンテルをここに招いたことなのだろうか。――おそらくは、その全てを指しているのだろう。
「不快だったのはあなたでしょ、アリス。……あなたが我慢してるのに、私がしゃしゃり出ることはなかったわ。ごめんなさい。つい、かっとして」
「いや、さっきの啖呵は、こう言ってはなんだがすっきりしたよ。君はなんだ、見た目は可愛くて女の子らしいのに、格好いいなぁ。惚れ惚れする」
反省を見せたシャンテルに、アリステアは感嘆を込めてそう言った。
眩しそうにシャンテルを見つめる水色の目は真摯な光を宿していて、だからこれは皮肉ではなく、本心からの言葉なのだろう。格好いい、が年頃の乙女に向ける正当な褒め言葉であるのかどうかは別にして。
「あ……ありがとう」
嬉しいような悲しいような複雑な心境で曖昧に笑ったシャンテルに、アリステアはうん、と優しげに深く微笑んた。そして言う。
「しかし、まずいなぁ」
「……何がよ? やっぱり言いすぎだったかしら」
「いや、その件は大丈夫だ。彼らはわりと忘れっぽいから、すぐけろっとするだろう。そうじゃなくてな……うん。やっぱりまずいなぁ」
「だから、何がよ?」
困ったようなことを言うわりに、アリステアの顔は微笑みを湛えたままだ。幸福そうですらある表情と、それに反した言葉に、シャンテルは首を傾げる。
「俺はこの三日、君を家に帰すことを考えていた。……必要に迫られているのは理解していたが、俺はそもそも『運試し』を始めとする、この計画には乗り気じゃなかったんだ」
「……は?」
思ってもないことを言われ、シャンテルは目を丸くした。リークのみならず、当の王子までがこの計画に反対だったとは。さすがに立つ瀬がない。
「そ……それなら、迷惑なら最初から、言ってくれればいいじゃない。今更なによ」
思いのほか衝撃が大きく、声が意図せず揺れる。
「いや、違う、違うんだ。最後まで聞いてくれ」
おそらく表情も沈んでしまっていたのだろう。慌てたように手を振ってシャンテルをなだめ、アリステアは続ける。
「もともとこれは、兄上の思いつきを真に受けた母上が王宮魔法使い(ロイヤルウィザード)に命じて進めた企画だ。だが――俺は、やっぱりまだ怖かった。俺はきっとまた、選ばれた誰かを危険にさらしてしまうのではないか、とな。なら守ればいいと強がってはみたが、結局、君に怪我をさせてしまったし。だから、どうしようもないことになる前に――これ以上、君に気持ちが向く前に、ちゃんと帰さなければと思っていたんだ」
「そんなこと……勝手に……」
言おうとした文句は続かなかった。
あんなちっぽけな、怪我のうちにも入らないようなことをどうしてこんなに気に病むのだろう。第一、怪我をしたのはシャンテルの幸運が彼の不運に負けた結果だ。『鍵』の役割を果たせなかったのはシャンテルなのに、どうしてこの人は、全部自分が悪いような言い方をする。彼はなにも、悪くないのに。
言葉は頭を回るばかりで、それをうまく口に出せない。黙り込むシャンテルをよそに、アリステアは口調を唐突に明るいものにして、あっけらかんと笑った。
「だが、俺は自分の惚れっぽさを侮っていたようだ」
「……はい?」
「うん、だからまあ、なんだ。……どうやら俺は君に惚れてしまったらしい。だからもう、君が嫌だと言っても、素直には帰してやれないかもしれない」
「……は……?」
驚きのあまり二の句を継げず、思考すら追いつかない。だが、高鳴った鼓動と熱く火照る頬を思うに、空回る頭はきちんと彼の言葉を聞いていたようだ。
動揺に反してやけに冷静に自分を分析するシャンテルに、アリステアは更に言う。
「あの本は読み終えたか?」
「いいいい、いえ、まだよっ‼」
上擦った声で反射的に否定したシャンテルの嘘を知ってか知らずか、アリステアは人懐こい顔で笑った。
「読み終わるのを待ってる。もう一度、君に約束させてくれ」
「わわわわかったわ、じゃあ、あの、私、用事思い出したから、また後でね!」
言い残して、縺れる足で逃げるようにテラスを去る。
見送るアリステアの目は、最後まで笑っていた。