崎陽メンズ
【現在】
「いらっしゃいませー」
赤と白のコントラストの看板に、遠目から見たらゴミにしか見えないようなドラゴンが描かれ、その横には知らない者はいないんじゃないかというほど有名な横浜名物のメーカ、崎陽軒と書かれている。
おれはその看板を見るたび、逃げ出したくなるような思いに駆られて、でも実際はそんなこと出来なくて、ただ遠巻きにそこを見て、近寄らずに通り過ぎるだけだ。
乗り換え駅として栄えている横浜駅の改札の外、中央コンコースに、コンビニ化している売店と背中合わせになるようにして存在している崎陽軒の売店がある。営業時間は恐らくこの横浜駅内にある崎陽軒の専用売店の中でも一番長いそこは、シフト制で回している。
そこでおれがバイトしていたのは、三ヶ月前までのことだ。
何をするという目的もなく大学に入ってから初めて始めたバイトが、この崎陽軒の売店だった。遅番というシフトで、大体五時頃から閉店十時半までの間、立ちっぱなしでひたすらお弁当を売るという仕事。聞くだけだと以外とチャラい仕事内容に聞こえるかも知れないけど、正直、時間中ずっと立ちっぱなしってのは結構堪える。しかも弁当だから定時に補充があって、その弁当の重さったらハンパない。
辞める機会を逃し続けたというか、ダラダラしてて気付いたら、というか、とにかくそんな感じで、気付けば大学四年間ずっとそこでバイトしていたワケだ。
なんで辞めたかっていうと、まぁ単純に就職が決まって大学を卒業するから。就職氷河期とか言うけど、なんでかおれはすぐに就職が決まって、ギリギリまでバイトしてようかとも思ったんだけど、ちょっとした事情によって少し早めにバイトを辞めた。
売店バイト時代、おれには仲のいい先輩が二人いた。一人は崎陽軒本社勤務の正社員で、繁忙時だけ売店にヘルプに来る人。もう一人はおれよりもバイト暦の長いというフリーター。時間シフトが重なることが多かったせいか、おれら三人は仲が良くって、よく一緒に飲みに行ったりしてた。
おれが辞めた後も、二人はいつもと変わらずに淡々と仕事を続けているようだ。パートのおばちゃんとか、バイトの女の子に偶然会ったときに出る話題は、大概が二人の話題だった。おれら三人が仲良かったのは、傍目にも分かりやすかったってことなんだろう。
でもおれは、二人が仲良くやってるということを聞くたび、苛々してしまってしょうがない。
これが何かを考えなくてもすぐ分かる。……これは嫉妬だ。
先輩二人とも男だったのに、どうして嫉妬心なんか出すんだって思うだろうけど、おれにとってはあの二人のうち一人は、誰よりも特別だった。
本当に、心から、あの人のことが好きだった。
【三ヶ月前】
雑誌のグラビアアイドルは可愛いと思う。テレビに出ている女優や歌手なんかも美人だし、キレイだと思う。初恋の子は小学生の頃、クラスにいた大人しめの女の子だったし、一番最初に付き合ったのは高校ん時の先輩だった。
今までかつて同性を好きになったことは一度もなかった。
だから、おれは最初非常に戸惑った。
第一印象は、とてもキレイな顔をしている人だと思った。次に感じたのは漠然とした好感で、話してみるとそのぼんやりとしていた好感が具体的になった。時間が経つにつれて段々と傾斜を転がり落ちるようにその好感が強くなって、気付いたら好きになっていた。
世の中「好き」と一言で言っても、色んな種類が存在するのは誰もがわかることだと思う。だけど、おれはこの人に出会うまで、そんな「好き」が存在しているなんて思いもしなかった。それほどまでに強く相手を想う「好き」をその人に対して感じた。
もしかしたら世間ではそれを「愛」と呼ぶのかもしれない。でも、おれにはそうだと断言できるような根拠もなく、ただその人と一緒にいたい、傍にいたい、触れたいと思うだけだ。ただそれをなんて表現するのか、語彙の足りないおれには分からなかっただけのこと。
「平山。どうした? 行くぞ」
おれの好きな人は佐藤誠太という正真正銘の男性で、彼を見た人は十中八九、彼のことを可愛いと表現するほど可愛らしい顔をしている。
佐藤さんは女の子よりも可愛いと表現される自分の顔にコンプレックスがあるみたいで、彼と面と向かって、特に男が、彼を可愛いと賞賛すると、彼は確実に怒る。一度までは許してくれるらしいけど、二度目はない。二度目以降彼を可愛いと表現しようものなら、彼の男らしい右足がぶち込まれることになる。
「あ、すみません」
「謝るなって。お前のソレって悪いクセだよな」
佐藤さんが一番信用しているのは、崎陽軒社員の田中さん。
田中さんはアルバイトの女の子と真剣にお付き合いしているという真面目な人だ。佐藤さんがバイトで入った頃に新入社員として入社したらしくて、二人は同期みたいなものらしい。同い年で、横浜駅の売店仲間内では有名なコンビだ。
佐藤さんの隣りにはいつも田中さんがいるというのが定番で、おれがバイトに入ってからはその一歩後ろにおれがいるっていうポジショニングに納まった。
おれも最初はそれで何の不平不満もなかった。そりゃそうだ。おれは二人の後輩にあたるわけだし、今更新参者のおれが二人と同じ土台に乗れるとは思えないわけだし。
「ははは、そうだよな。そういや平山ってよく謝る」
でもそれはおれが自分の想いを自覚するまでの話だ。
おれは佐藤さんが好きで、出来るなら、佐藤さんの隣りを対等に並びたいと考えてる。
「……すみません」
「ほら、また謝った」
正直に言えば、今の状況を壊したくないと思ってる。佐藤さんと田中さんがいて、おれがいる。その状況が気に入らないわけじゃない。むしろ、気を許せるメンバーって感じで居心地がいいのは確かだ。
それをおれが感情に流されて間抜けにも告白なんかして、その関係が壊れてしまうのが恐かった。おれが愚かな自己満足で佐藤さんに好きだと告げたら、今のこの状態はなかったことになってしまうだろう。居心地の良かった空間は、二度と戻ってこない。
「それに敬語もだよな。もういいだろ、俺らに敬語はさ」
「あー、それは言える。オフん時ぐらいは敬語やめてもいいよ」
でももういい加減、佐藤さんと田中さんが仲良くしているのを一歩後ろで黙って見ているのにも疲れてきているのも事実だ。
好きな人が他の人と自分には分からない話で盛り上がっていたりするのを、黙って見ていられるほどおれの心も広くない。好きな人が誰かの他の人と笑いながら話しているのを許容できるほど、おれの想いは軽くない。
「え……。いや、でも……」
「平山って真面目だよなー」
「ははは」
佐藤さんが笑い、田中さんが笑う。二人がただの同僚で、友だちだってことは知ってるはずなのに、おれの中にある醜い嫉妬心がそれを違う方向に勘違いさせる。
「佐藤さん」
「はは、ごめんごめん。別にからかってるわけじゃないって」
おれが田中さんに対してこんな嫉妬をしているって知れたら、おれは嫌われるかも知れない。
佐藤さんは過去何度も男に告白されたことがあって、そのたびに相手をこっ酷くフってきたらしい。だとすると、佐藤さんの隣りで笑う後輩が彼のことを頭の中でとはいえ押し倒し、いろんなことをしていると知れれば、嫌われるどころじゃないハズだ。きっと口も利いてもらえまい。
「おれ……」
「んっ?」
あなたのことが好きですとは決して口を出ない。言ってしまったら、今のこの状況はもう戻らないのだし、それより何より、佐藤さんに嫌われるなんて想像しただけでも頭が真っ白になってしまう。そんなこと、出来ない。
おれは泣きそうな気分を誤魔化そうともせず、少し泣きそうになりそうになりながら、無理矢理に笑った。
「辞めるんです」
大学卒業はいい機会だと思った。就職が決まっているから、どっちにしろバイトは辞めざるを得ない。ただそれを早くにするか、ギリギリまで粘るかの違いだけだ。おれの場合、それは少し早めに設定した。それだけだ。
バイトを辞める件は既に田中さんに話してあった。ただ、他の人には言わないで欲しいと頼んで、伏せておいてもらっていた。どうして言わないで欲しいのか聞かれたとき、心の隅で本音をぶっちゃけてしまいたくなった。けど、理性がそれを押し留めて、上っ面の言い訳を並べ立てた。
所詮おれは弱い人間だ。人から後ろ指さされるのが嫌で、いつも本当のことを適当な嘘で誤魔化す。
「え? なにを?」
「ウチを、だよ。就職決まったんだって。平山くん今四年だから」
きっと佐藤さんは隠していたことを不満に思うだろう。佐藤さんはいつも話題の中心にいたがる人だから。彼はのけ者にされるのをものすごく嫌う。
自分は平気でおれをおいてけぼりにするのに、自分がされると怒るんだ。おれだって一人だけ取り残されるようにおれの知らない話題で盛り上がられるのは辛い。自分だけ知らされてなかったんだと思うと、苛立ちのようなムカムカした感情がこみ上げてくる。
でもおれの感情は、妬みと独占欲から来ているものだから、佐藤さんとはまったく異なるものだ。おれは醜い感情から彼らに腹を立ててる。
「何それ、聞いてない」
「ええ、言ってないです」
「平山、今日のオマエ、ムカつく」
ムカつかれたっていい。軽蔑されなければそれでいい。
だって、きっと佐藤さんと会うのはこれが最後になるから。おれはもう、佐藤さんとおれとを繋ぐ唯一だったこのバイトを辞める。辞めてしまえば、もう関わることはないはずだ。
「すみません」
「お前なぁ。平山くんは周りに変に気を使って欲しくないから黙ってたわけで、それを責めるのは間違ってるだろ」
田中さんがおれのことをフォローしてくれるのが少し痛い。おれはそ知らぬ顔で田中さんを騙してるのに、田中さんはそんなおれを全面に信用してる。きっと本当のことを言っても理解されない。だから嘘をついて騙してるだけなのに、罪悪感が募る。
「……すみません」
最後だったら言ってしまえばいいと何度も考えては、そんなことして嫌われでもしたら、もう会わないとはいえ、流石に堪える。出来るなら、佐藤さんには嫌われずに別れたい。おこがましいとは思うけど、せめて思い出の中だけでもいい後輩でありたかった。実物が醜い生き物だとしても。
「あのなぁ……」
「じゃ、おれ帰るんで」
「おいっ!」
甘えてるとは思うけど、このあとはきっと田中さんがフォローしてくれるだろうって思ったから、自分ではなんもせずにさっさとその場を離れた。佐藤さんが追いかけてくるなんて絶対にないはずで、おれもそれを望んじゃいなかった。
案の定、おれが改札をくぐってホームへ続く階段を上っても、電車がホームに滑り込んできてその口を開けて待つ人々を飲み込んでも、佐藤さんの姿は見えなかった。
最後に一目だけと望んだおれの希望は、あえなく潰えたってワケだ。
【数ヶ月後】
「お電話ありがとうございます。株式会社サクセス、平山が取りました」
社員十数人の中小企業じゃ新人研修なんてものはおざなりに終わらされて、すぐにオン・ザ・ジョブ・トレーニングとかいうものが始まる。
大学時代にずっとバイトをしていた身としては、どの業務もあまり苦ではないし、難しくもない。接客業経験者だから電話応対もそこそこできて、おれの指導役であるリーダーはさっさとおれを放置して自分の仕事に集中していた。
とはいえおれもみっちり研修をされるよりはある程度放っておかれたほうが気が楽だし、ある程度息抜きが出来ていい。学ぶことは多いけど、一気に詰め込んだって分からなくなるんだから、こうして実地で覚えていくのは一番楽に思える。
「はい、少々お待ち下さい」
どうせ新人社員であるおれにかかってくる電話なんて一本もなくって、おれはただビルのエントランスにある受付にいる受付嬢みたいにただ電話を取り次ぐだけ。あとは言われた雑務をしつつ、良く分からない内容の会議に出席したりする。新人の時分なんてみんなそんなモンなんだろうケド、流石に飽きる。
おれの悪いクセで、ヒマが出来てしまうと、過去を振り返ったり嫌なことばっかりを思い出す。特に最近多いのは、佐藤さんに関することだ。
未練たらたらにバイトを辞めてきただけあって、くどいくらいあの可愛い顔を思い出す。ああ、可愛いって言ったら怒られるんだっけ、と連鎖的に色々思い出しては少し欝になるのは不可抗力だと主張させて欲しい。一つ思い出せば、それに紐付いている情報ってのは、一緒に出てきてしまうものだと思うし。
時間が過ぎてくると、やっぱり佐藤さんに玉砕覚悟で告白ぐらいはしておけばよかったかなぁなんて思い始めるんだからタチが悪い。
嫌われたくないからと告白せずに、半ば逃げるようにしてバイトを辞めてきたっていうのに、どうしてそんなことが出来るっていうんだ? 告白なんかして佐藤さんに軽蔑されて、あいつはキモいホモだって認識されるより、黙って辞めたバイトの後輩ぐらいの思い出のほうが何万倍もマシだ。そう考えたからこそ逃げたのに。
佐藤さんは今頃なにをしてるだろう。まだあの売店で働いてるのは知ってるけど、元気だろうか? 誰かと付き合ったりしてるんだろうか……。
「平山、ちょっとこのメールの返信頼むわ!」
「あ、はいっ」
結局いつもおれは逃げてばかりで、本気の勝負に出たことなんて一度もない。就活だって、中小企業ですぐに決まりそうな無難なところで済ませて、倍率何倍っていう大企業には説明会すら行かなかった。遡れば高校受験だって、大学だってそうだった。
おれは一生こうして、勝負をしてもハズレのないところを狙って、自分が絶対に落っこちない安全な位置に立って、一か八かの大勝負に出る人を羨ましげに見てるだけなんだろう。
明白なのは、おれにはギャンブルなんてムリだってことだ。
【一年後】
「平山、あそこの売店でなんか手土産買って来い」
「手土産ですか?」
「そうだよ。今日行くのは上得意先だ。なんか菓子折りの一つでも持ってかないとマズいだろ」
先輩について営業周りに出るようになったのは、会社に入って半年が過ぎてからぐらいだったような気がする。営業周りったって主に打ち合わせの議事録取りだとかそういう細かい雑事を手伝うだけだったけど、社内でデスクワークしてるよりは気分転換出来ていい。
ウチの会社は小さい会社だから、営業周りと言っても相手企業は大概デカい企業ばっかりで、どちらかといえばペコペコして仕事がないか聞き出すというヒアリングばかりだ。時々決まってる案件の調整とかで出向くこともあるけど、それはかなり稀だ。
外回りをやるようになってからはそれなりに忙しくて、余計なことを考えずに済んでいるのが気が楽でいい。常に動いているから、無駄なことを考えて鬱々とするヒマもない。それくらいがおれには丁度いいのかもしれないと最近になって思う。
「何がいいんですか?」
「何でもいいだろ。あー、じゃ、月餅で」
「分かりました」
売店に向かい、おれは数歩も行かないうちに足を止めた。先輩に動揺を悟らせないようにケイタイを探すフリを死ながら、おれはどうしようかと頭をフル稼働させた。
おれの行く先にあるのが、思い出深い崎陽軒の売店だったからだ。
おれが今立っている位置からでも、その売店の中にいる店員の姿を確認することが出来た。赤い制服は女性の制服だから、あれは恐らく日勤のパートの女性。そのほかに白い姿が見えるのは、多分、……佐藤さんだ。
じんわり手に汗が出てきた。
絶対に近付くまいとわざと避けて通っていただけに、その姿を見るのも実に一年ぶりになる。話はちらほらと聞いてはいたけど、バイトを辞めてから半年もした頃にはもう話も聞かなくなった。
「いらっしゃいませー」
観光客風の男がおれの前に割り込むような形で売店に向かい、佐藤さんが記憶の中にあるものと同じ笑顔でその男を歓迎する。その声、その姿、その仕草。どれをとっても記憶の中にある佐藤さんと寸分変わらない。そりゃあ、一年ぐらいでそう変わるもんでもないとは思うけど、記憶が美化されてないってのも少し不思議だ。
「すみません、シウマイ弁当二つ下さい」
月餅が置いてあるあたりはおれの担当だった。弁当周辺が佐藤さんのシマで、菓子類はおれ。シウマイは丁度真ん中で、二人で分担してやった。懐かしい。あれが一年も前のことだとは思えない。
……こう思うと、佐藤さんに対する気持ちが少しも色褪せてないことに驚きを通り越して少し呆れる。まだ懲りずに彼のことを好きだったなんて、おれってなんてしつこいんだろう。これじゃ、もし仮に告ってフラれでもしてたら、今頃どうなってたんだか。
「すみません、月餅の十二個入り一つ下さい」
佐藤さんが弁当の客に取られてる隙に、手の空いている女性店員に声をかける。見たことない顔だから、きっとおれが辞めた後に入った子なんだろう。手つきはそれほど怪しくもないから、新人ってわけじゃなさそうだけど。
おれはなるべく隣りの弁当を買っている人の影に隠れるようにしながら、かつさり気なさを装って顔を逸らしながら、店員が月餅を袋に詰めるのを待つ。
「シウマイお弁当お二つお待たせいたしました」
佐藤さんの声に、反射的に振り返りそうになるのをかろうじて堪える。白い服が視界で動いてるけど、根性で顔を逸らし続ける。
そこで月餅を買っているのが元後輩だってバレる可能性が高いけど、バレなければバレないでいい。そのほうが都合がいい。
「こちら千六百五十円になります」
「あ、はい」
「二千円お預かりいたします」
カウンター越しに渡された紙袋を掴む手が不自然に汗ばんでるのは、佐藤さんに見つかるかという緊張と、早くその場を離れたいという焦りからきている。反射的にスーツのズボンで手を拭うけど、気持ち悪さは拭いきれない。
「お返し三百五十円になります」
顔を逸らしていたせいか、少し強めに言われて振り返えり、しまったと思った瞬間には、こっちを見ていた佐藤さんとばっちり目が合った。
「あっ」
ほとんど条件反射で、小さな声がもれた。自分のうかつさを呪うしまったという思いと同時に、佐藤さんに気付いてもらえたという小さな、ほんとに小さな喜び。
「あ、れ? オマエ、平山?」
佐藤さんの顔から営業スマイルが消えて、素で驚いたという表情が現れる。
いつも仕事中はすましている佐藤さんだけに、そのギャップに少し違和感を感じるほどだ。おれにつり銭を差し出していた女性店員まで驚いた顔で佐藤さんを見遣っている。
「あ、どーも、お久しぶりです、佐藤さん」
受け取ったつり銭を確認もせず財布に突っ込み、動揺を隠そうと必死になりながら笑顔を浮かべる。
昔に比べれば愛想笑いやその場を繋ぐためだけの曖昧な表情を作るのが上手くなったような気がする。それもこれも営業を始めてからだけど、今この状況では出来てよかったと切に思う。
「わー、マジか。久しぶり。今何やってんの? サラリーマン?」
「営業です。今日もこれから客先に行くところで……」
月餅の入っている紙袋を掲げて見せると、佐藤さんは悟ったような顔で頷く。
それを手土産に客先に行くサラリーマンは、おれのバイト時代でもよくいた客だ。横浜の企業だったら崎陽軒を持っていけば問題ないというのはセオリーなんだろう。
崎陽軒でバイトしていた身でこう言うのも難だけど、正直挨拶用に持っていくならありあけハーバーとか、ベストはフランセのミルフィーユだと思うんだけどね。甘いお菓子で、尚且つ軽いもののほうが女性受けが良くって喜ばれるし。
「あ、じゃ引き止めてちゃ悪いな。でも、また今度飲もうぜ」
一年前におれが辞めたとき、佐藤さんは黙っていたことを怒った。でも、今はそんなのなかったことになってるかのように、いつも通りの態度だ。
もしかしたらまだ怒ってるかも知れないとか、口も利いてくれないんじゃないかとか考えたこともあった。でも流石に一年もたってるし、佐藤さんも大人だ。今までずっと根に持ってるなんてことはないか。
「そうですね。じゃ……」
「おう、また連絡する」
佐藤さんに見送られながら、おれは緊張して凝った身体をくるりと返し、先輩の待っている改札方面へと、走らないように気をつけながら、でもなるべく急いで向かった。
先輩を待たせてるという気持ちよりも、佐藤さんから離れたいという気持ちのほうが強かったけど、そこは建前上、先輩を待たせてはいけないということにしておいた。
ヴーッ、ヴーッ。
本当に丁度客先を出た直後に、ケイタイが着信をポケットの中で知らせて来た。マナーモードだと着信でもメールでも何でもバイブ設定だから何事かと焦ってポケットをまさぐり、ようやくのことで探し当てるが、バイブは既に止まっていた。
「どうした?」
「あ、いえ、大丈夫です」
立ち止まってケイタイを取り出していたせいか、先を歩いていた先輩が心配そうに見てきた。おれは画面に表示された新着メール一件という表示を確認して歩き出した。
先輩はおれが歩き出したのを確認すると、駅方面へと向かい始める。
時間は既に定時を過ぎていて、今日のアポもさっきので最後だ。今日の予定は直帰にしておいたから、あとは帰るだけ。明日は今日の分のペーパーワークが待ってるけど、流石に今日これから帰社してやるのは避けたい。そんな甘いこと言ってられる日もそうそうないんだけど、今日は大丈夫だ。
「じゃ、オレはこっち方面だから」
「あ、はい。お疲れ様です」
「お疲れー」
たった一通のメールを見るのに躊躇っていると、先輩はサクサク駅のホームへと続く階段を下っていってしまった。おれはおざなりに頭を下げると、先輩が下って行った方とは逆方面のホームに向かいながら、メールフォルダを開いた。
嫌な予感がしていたのは確かだった。
まさかそんな偶然とはいえ、もう会うまいと決めていたはずの佐藤さんと顔を合わせてしまい、挙句の果てには連絡するとまで言われた。嫌ですもう会いたくないですとは決して言えないし、正直に言えば佐藤さんに会いたい気持ちがないわけではない。
仕事が忙しくて思い出すヒマもなかったとかは言い訳で、おれの中には常に佐藤さんの存在はあったし、忘れようと思っても、忘れられなかった。まさかこんなに佐藤さんのことを想ってたなんて、自分でも思わなかったぐらいだ。漠然と離れればいずれ忘れるだろうって思っていたのに、なんたるザマだ。
メールの差出名は想像通りに、佐藤誠太。この名前がおれのケイタイに登場しなくなって一年。専用に作ったメールフォルダの中身は保護をかけていなかったから、他のメールに圧迫されて全部消えてなくなっていた。つまりこれがフォルダに一通目だ。
電車がホームに到着するというアナウンスを聞きながら、緊張して上手く動かない指でメールをスクロールさせる。
「うわ……」
ホームに電車が入ってくる音でかき消されたけど、思わず口から声が漏れていた。現実にゲンナリする意味合いよりも、その内容が予想通り過ぎて嫌だという意味合いのほうが強い。
佐藤さんからの一年ぶりのメールは、今日、仕事帰りに時間が空いているなら飲みに行かないかという誘いが簡潔に書かれていた。思いついたら即日行動の佐藤さんらしい行動の早さだ。もしかしたらおれの逃げ足の速さを警戒して早めの行動を心がけているのかも知れないけど、それは勘ぐりすぎてるかも知れない。
さっきの時間で佐藤さんが店にいたってことは、佐藤さんは今日、日勤のシフトで入ってるってことなんだろう。ってことは今メールが来たのは丁度仕事が終わったからか。おれがどこまで行ってて、何時に終わるかなんて知らないはずだから、多分自分の予定で誘ってるんだろうな。佐藤さんはいつも自分中心に物事を進める人だ。
来た電車に乗りながら、メールの返信を悩む。
もしここで断ったとしても、佐藤さんのことだ。絶対に次回の約束を取り付けに来る。そうでなくても、都合のいい日を教えろと来るかも知れない。とにかく、行くといったら行くことになるはずだ。
だからといって、佐藤さんと仲良く顔を突き合わせて飲みに行くってのも、非常に気まずい。佐藤さんを前にして平静でいられる自信は正直なところ、ない。これで田中さんがいるっていうならまだマシかも知れないけど、二人っきりだったりしたら堪えられないかも知れない。
「あ、そっか」
思いついてメールを打ち始める。前は佐藤さんが飲みに行くと言えば大概田中さんとセットで三人だった。つまり、今回も三人である可能性が高いってことだ。
佐藤さんはいつもおれには予定を聞くけど、田中さんに関してはほとんど何も言わずに突然捕まえて連れて行くというパターンが多かった。田中さんは本気で予定がなければ、文句を言うもののわざとらしく嫌々そうにしながら付いてきた。佐藤さんとの付き合いが長いだけあって、抗っても無駄だってことは分かってるんだろう。
ポジティブに考えるなら、今回も田中さんがいると思って大丈夫だ。
田中さんもいるのかという確認を込めてメールを送信すると、五分も待たずに返信が返って来る。恐らく仕事が終わってケイタイを片手にどっかで休憩してるんだろう。だから返事が早い。
それにしても、佐藤さんを諦めたその一年後にこうして佐藤さんとメールをやりとりしてるなんて、当時のおれには想像もつかなかっただろう。佐藤さんのことを好きになりすぎたから、彼に迷惑をかけないようにバイトを辞めたわけだし。
一応、もう一生会わない覚悟だったんだけどなぁ……。
田中さんが来るかどうかの確認のメールだったのに、何を間違ったのか、佐藤さんはそれをおれが行くという返事に解釈したらしい。横浜駅の西口に来るように指示が書かれていて、おれは思わず青息吐息。
ホントに都合のいい解釈の仕方だな……。
でもそれが嫌じゃないから問題だ。嫌だったら嫌で話がとても簡単に済む話なのに、佐藤さんのこのちょっと自己中的な考え方が少し懐かしくて、変わってないことがこんなにも嬉しいんだから救いようがない。
無意識に笑っていたのか、電車の窓に映った自分の顔がにやけていることに気がついて、慌てて表情を取り繕う。でも所詮電車の中の話だ。誰も見てはいないだろうと半ば開き直る。
おれは隠し切れない嬉しいという気持ちを抑えるために無理矢理に無表情を繕いながら、佐藤さんの命令調のメールに、短い返信を送った。
「佐藤さん! お待たせしました」
横浜駅西口の五番街にある交番前。横浜駅の常習利用者ならそこを待ち合わせに使うことが多いだろう。その例に漏れず、佐藤さんはその交番前でぼんやりと立っていた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はゆりの花……、じゃないけど、佐藤さんは黙っていれば誰しもが振り返るキレイな顔をしている。中性的で、チラリと見ただけだと女性にも見えなくはないほどで、彼に見とれる人は男女問わず多い。
「おう。こっちも突然だったからな」
仕事用じゃなくて、プライベートでの少し気の緩んだ笑みで迎えてくれると、思わず勘違いをしてしまいそうになる。
佐藤さんはあまりこういう気を許した態度を取らない。おれだって最初は警戒されてて、田中さんと佐藤さんとの三人で初めて飲みに行ってから、佐藤さんがおれにもプライベートな面を見せてくれるようになった。
あの頃は一番、楽しかったかも知れない。佐藤さんのことが好きで、一緒にいられるだけでよかった。それ以上を望まなかったし、田中さんとの仲を疑ったりしなかった。三人で下らない話題に盛り上がりながら飲むのが純粋に楽しかった頃だ。
「メール頂いたときは丁度こっちも終わったところだったんで、すごいタイミングでしたよ」
佐藤さんは声に出さず進行方向を指差して歩き始める。どこの店に行くかは聞いてなかったけど、多分いつも三人で行っていた飲み屋に行くんだろうと疑いもしない。その店は佐藤さんのお気に入りだったはずだ。
「いや俺もメール送った後で、もしかして仕事中かも知れないって気付いたんだよ。でも返信きたし、まいっかって」
「はは。でも最初はすごいタイミングで何事かと思いました」
またこうして佐藤さんと並んで歩く日が来るなんて、想像どころか妄想さえしてなかった。佐藤さんは黙っていなくなったおれを嫌っているものだと思い込んでいたし、嫌わなくとも疎遠になった元後輩なんてお義理に挨拶する程度かと思ってた。まさかまだこうしてプライベートな面を見せてくれるなんて。
絶対にありえないことだって分かっていても、おれのお天気な頭は物事を自分のいいように解釈してしまう。
もしかしたら、佐藤さんもおれのことを好きなんじゃないかなんて、考えるだけでもおこがましいのは分かりきっているのに。
「……それにしても元気そうだな」
「ええ、まぁ。佐藤さんのほうも元気そうじゃないですか」
付き合ってる人とかいるんですか、と訊きたい気持ちがあるけど、訊きたくても訊けない、聞きたくない気持ちが先立って、その質問は声にならない。逆に自分にその質問を投げられても答えられないし、更に突っ込まれて好きな人はいるのかとか訊かれでもしたら、と考えると何も言えない。
「あー、うん、まぁほどほどにな」
佐藤さんは珍しく曖昧に答えて、いつもの居酒屋に入っていく。おれはその背中を見つめながら、どうしたのかと不安になった。でもそれを尋ねるような隙はなくって、心配そうに見つめることしか出来なかった。
「いらっしゃい! お、佐藤さん! 今日は二人?」
おれがここに来ていたときでさえすでに常連だった佐藤さんは、この店の店主と結構長い付き合いらしい。お互いに顔も名前も知れてるからか、まるで友だちの家に遊びに来たかのような扱いだ。
「ふたりー。あっちの隅っこの席入っていい?」
「大丈夫ですよ。すぐ行きますから」
のれんで区切られた半個室みたいな席を指して、佐藤さんは背後にいるおれを確認せずにさっさとその席へ歩いていく。おれは店長に挨拶をされながら、気持ち的にちょっと萎縮しながらそのあとに続く。
おれはただでさえ身長がデカいせいで人目を集めるのに、こんないかにも常連です店長と知り合いです的な空気をかもし出すと、これでもかというほど注目を集めることになる。正直言ってあまり目立つのが好きじゃないおれにとって、これは軽く拷問に近い。
そそくさとボックス席に入ると、少し新鮮な気がしてふと気がつく。
「あ、このボックス席初めてですね」
「え? そうだっけ?」
いつもこの店に来ていたときは三人で、椅子と机の席じゃなくって畳の座敷席の端っこを陣取っていた記憶がある。壁際に佐藤さんが寄りかかりながら座っていて、田中さんはその隣り、おれはその正面に座っていた。いつもそのポジションで、最後まで変わることはなかった。
「そうですよ。いつも座敷だったじゃないですか」
「あー、俺が座敷好きだからね」
言われてみれば確かに、佐藤さんは胡坐をかいて壁に寄りかかって座る姿が板についていた。
おれは昔から椅子と机の生活が長いから、地べたに直接座るのが長時間続くと辛い。葬式なんかは正に地獄に等しい。足がしびれて五分弱立てなかったことだってあるくらいだ。
「そうだったんですか? じゃ、今日も座敷のほうが良かったんじゃ……」
「いい。今日は別に……、いや、ここのがいいと思う」
なんていうか、らしくない佐藤さんに違和感を感じる。以前だったらこういう風に言葉を濁すことはほとんどなかったし、悪い言い方だけど、おれに気を使わないで自分中心にさっさと物事を決めていた。おかげでメニューの選択権はおれにほとんどなかったわけなんだけど。
「それならいいんですけど……」
「お待たせしましたっ。はい、こちらお手ふき。今日は季節限定メニュー初日なんで、良かったらどうぞ」
体調でも悪いのかと尋ねようとした瞬間に重なるようにして店長自らがあったかいお手ふきとメニューを持って入ってきた。おれは差し出されたお手ふきを受け取りながら、言いかけていた言葉を飲み込んだ。
いつもこうして何か言いかけて終わることが多いから、聞きたいことがきちんと聞けたためしはあまりない。悪いクセだと自覚してはいるんだけど、長年のクセになってるものはそう簡単に直るもんでもない。
「良かったら飲み物の注文取って行きますよ?」
「あー、じゃ生で」
「そちらは?」
「あ、じゃ、おれも生」
「生二つ、すぐにお持ちします」
ごゆっくりどうぞと言いながら去っていった店長をぼんやりと見送っていると、ふと佐藤さんの視線がザクザクと突き刺さるような錯覚を覚えて、何事かと振り返る。
しかし、おれが佐藤さんのほうを振り返るとほぼ同時に、佐藤さんはおれに向けていた視線を露骨に逸らした。まるで変な人をじっと見てたけど、目が合うのは嫌だから露骨に視線を外した、みたいな感じで。流石にそれをやられると気分悪い。
「……なんですか?」
そういう中途半端な行動は佐藤さんらしくない。佐藤さんなら、見るなら見る、見ないなら完全シカトぐらいはやってくれるはずなんだけど。
……もしかして少し記憶美化してるのかな? ……いや、そんなことはない。佐藤さんはいつもキビキビした行動をする人で、おれがグズグズ悩んでたりすると、それを見かねてさっさと先に決めちゃったりするんだから。仕事中でも、どれにしようか決められないお客さんを相手したときは先手を打っておすすめ商品を押しまくって、結局それを買わせる。商売上手だ。
「なんでもない……、って言いたいところだけど、そうでもない」
「って、何なんですか?」
流石のおれでも、そこまでもったいぶられると我慢できない。ここまで持って来ときながら、やっぱやめたとかは本気でやめて欲しいオチなんだけど。
「……オマエに会ったらいろいろ言ってやろうって思ってたんだけど、一年も経っちゃったからそれもなんかなぁって思ってたトコロ」
やっぱ怒ってたんだ。でも一年もそれを抱え続けられるようなものでもないよな。……まぁ、恋愛感情は別だったわけなんだけど。でもそれはまた別の話。
「……黙って辞めたの、怒りました?」
こっちにも謝るチャンスが欲しくて一応お伺いをたててみる。
佐藤さんはおれにプライベートな面を見せてくれるほどおれのことを信頼してくれていた。おれはその信頼を裏切るような形でバイトを辞めたわけだ。これはやった本人である自分でさえ酷い行いだと思う。やられた方からしてみたら、殺意を抱いたって不思議じゃない。
だけど、佐藤さんは力なく首を横に振った。
「怒ってはない。あー、少しは怒った。でも、それが全部じゃなかった」
「え……?」
怒る以外になにがあるのかと疑問が生まれた。おれが佐藤さんの立場だったら、信頼していた後輩が理由も言わず、自分に黙ってバイトを辞め、その後一切連絡をしてこなかったとしたら、とても怒るだろうと思う。
だけど、それに対して怒らなかったとしたら、一体どんな感情が残るだろう? ……悲しい? それとも、寂しい?
「俺はこのカオだろ。昔から男女共によくモテてたんだよ」
唐突に始まった話に一瞬何かと思って出遅れるけど、すぐに合いの手のようにして相槌を打つ。佐藤さんはそれに気付いたのか気付いてないのか分からないけど、お手ふきをクルクルと丸めながら先を続ける。
「だから、大体自分のことが好きなヤツってのは分かるんだよ。……分かる、つもりだったんだよ」
自分の気持ちをすべて見透かされていたような、地面だと思い込んでいたところが実は落とし穴だったということに気付いたかのように、ドキッとする。
だけど、佐藤さんが続ける前に、隣の席との間に垂れ下がっているのれんが外側から持ち上げられた。
「お先生二つお持たせしましたっ」
流石に先を続けることはせず、佐藤さんは差し出された生を受け取って自分の前に置いた。おれもそれに倣ってジョッキを受け取る。冷やされていたジョッキは取っ手も冷たくて、おれは思わず小さく呻く。
「何か注文ありますか?」
「お任せで」
「食べれないものとかあります? なければ適当に四、五品くらいでいいですか?」
居酒屋でお任せとかあまり聞かないよなぁ。これってやっぱり常連だから出来る荒業って感じがする。でも佐藤さんと田中さんの三人でここに来てたときは、結構こういう頼み方してた記憶がある。田中さんが結構好き嫌いがあって、あの時はお任せって言いながらも、田中さんがほとんどメニューを決めていたような気もするけど。
「おれは大丈夫です。あまり辛いのとかじゃなければ」
「佐藤さんは大丈夫ですよね。わかりました」
ごゆっくりどうぞとにこやかに店長が去っていくと、佐藤さんはさっきの続きをするのではなく、来たばっかりのジョッキを掴んで掲げた。その意図に気付いて、おれも慌ててその冷たいジョッキを掴みあげる。
「じゃ、とりあえずお疲れってことで」
「お疲れ様です」
カツンと音を立てて乾杯して、佐藤さんとおれはほぼ同時にジョッキに口を付けた。冷たく冷やされている生ビールは、ぐいっと呷ると空っぽの胃がきゅーっとなった感覚を覚える。これがイイって言う人が多いけど、正直おれはあまり好きじゃない。空きっ腹にアルコールは身体に良くないと思うんだよね。
酒豪の佐藤さんはその一口でジョッキ四分の一ぐらいを流し込んだのか、テーブルに置かれているジョッキは既に三分の一ほど中身がなくなっている。流石におれはそこまで飲めないから、きっちり一口分だけでテーブルにジョッキを戻す。
「さっきの続きだけど」
外見に合わず少し低めの佐藤さんの声に、おれはほんの少しだけ緊張して顔を佐藤さんに向けた。でも、佐藤さんは視線をジョッキに落としたままでこっちを見てなかった。
「オマエがさ、俺のことそういう目で見てるんだって分かってたんだよ。オマエ結構カオに出るタイプだし」
「えっ?」
バ、バレてたって、こと……? そんなまさか。だったらどうして一緒に飲みに行ったり、遊んだりしてたワケ? 普通、自分に好意を持ってるヤツがいて、自分に興味がなければ遠ざけるもんじゃないの?
混乱のあまり、おれは無意識に手元にあったお手ふきをくちゃくちゃに握り締めていた。
「でもオマエは変にアプローチとかして来なかったし、面白かったから、告白してくるまでは黙っててやろうって思ってたんだよ」
今更ながら、佐藤さんが座敷じゃなくて個室に入った理由を理解した。でもまさかこんな話をするとは露も想像してなかったけど。でも一応人目を気にしてくれたってことなんだろう。自分のためかもしれないけど、おれからしてもすごく助かった。
「でもオマエ、何も言わずに辞めただろ」
佐藤さんの言いたいことは分かったけど、彼が何を考えているのかが分からない。おれに何を期待しているのか想像がつかない。
もし当時おれが告白をしていたら、佐藤さんはなんて答えてくれたんだ? こっ酷く罵って、おれが再起不能になるまで叩き潰してた? それとも……。
「アレで、オマエが何考えてんだか分かんなくなった。オマエは俺のことどう思ってたの?」
これが佐藤さんじゃなかったら、何様だと思うぐらい自己中心的な台詞。
だけど、それを言っているのが佐藤さんだから、それを批判するよりも、自分の優柔不断さに嫌気が差してくる。おれの曖昧な態度が佐藤さんを悩ませていたなんて、想像だにしてなかった。
「おれは……」
「失礼します。お先通しと、特製サラダでーす」
かなりクリティカルなタイミングで、店長に代わって女性の店員が明るく宣言した。続いてのれんが捲り上げられ、宣言通りに小さな小鉢のお通しと、木製の鉢に入ったサラダが置かれる。
「失礼いたしましたーっ」
元気良く去って行く彼女を黙って見送り、テーブルに視線を戻すと、早くも佐藤さんがサラダを取り皿に盛っていた。
……まただ。またおれが中途半端にしたからこの空気。佐藤さんだったらこういう間も繋ぐのが上手いのに。どうしてかおれはこういう微妙な間を作ってしまう。作るだけ作って、取り戻せない。
「佐藤さん」
「なに?」
一時中断されて気まずい空気になっているのはおれだけなのか、それともそういう空気感をあまり気にしないのか、佐藤さんはシャクシャクと音を立ててレタスを貪っている。おれもその場の空気を壊さないようにサラダを皿に盛る。
「おれ、佐藤さんが怒ってるんじゃないかって思ってたんです」
「どうして?」
リサイクル箸を持ったはいいけど、食べるよりも話さなきゃいけないことのほうが先行して、小皿の上に転がっているプチトマトをつつくだけに留まる。でも佐藤さんはそんなの意にも介さずパクパクと順調に食べ進んでいるようだ。
「何も言わずに辞めたので」
「ああ……」
そんなことかとでも言うような声で頷かれ、おれは少し拍子抜けした。そこが結構おれ的には気になっているポイントだった。でもこの佐藤さんの様子からすると、大してそこは問題じゃないみたいに思える。
佐藤さんが気になっているのは、おれの気持ちそのものだけ? それはそれで嬉しいんだけど、なんかちょっと緊張する……。
「オマエ時々、予想外の動きするよね」
「そう……、ですか? そんなことは……」
「する」
キッパリと断言されて、おれは答えに窮した。今まで生きてきてそんなこと言われたのは初めてだ。思考が短絡だとかマイナス思考だとか言われたことはあるけど。
「今日だってそうだろ。フツー、そういう気まずい辞め方した職場に顔出したりしないと思うんだけど」
そ、それは不可抗力ってヤツなんだけど……。先輩が買って来いって指差したのがたまたま元職場だったっていうオチなんだけどな。おれが選んだわけじゃないし。
そもそも、先輩が崎陽軒のあの赤い売店を指差したりしなければ、おれだってあの売店に近付いたりはしなかった。それまではあの中央コンコースを通る時だってなるべく距離を置いて通ったりと努力してた。
「今日のは完全な不可抗力です……」
「じゃやっぱりそれまでは避けてたんだよな。それって、何で?」
責められてるように感じるのは勘違いなんかじゃないんだよな。佐藤さん、口では怒ってないとか言ってるけど、やっぱ怒ってたんだ。おれが何もかもを中途半端にして逃げたから、今までずっとスッキリしなくてモヤモヤしてたんだ。
胸の中がすごく申し訳ない気持ちで一杯になる。サッパリした性格の佐藤さんがまさかそんな風に思い悩んでるなんて思いもしなかった。おれも人のこと言えないくらい自己中じゃん。
「佐藤さん、間違ってないです」
唐突に泣きたくなって、言葉を一度区切る。
今は自分の気持ちをはっきりさせて、佐藤さんに分かってもらわないといけない。それで結果が佐藤さんに罵倒されて軽蔑されることだとしても、それは仕方のないことだ。それはすべて自分で招いた結果だ。
おれは何かを掴んでいないと不安になるから、それを誤魔化すためにジョッキの取っ手を握った。
「おれはずっと佐藤さんのことが好きでした。嫌われたくなくて、告白出来ませんでした」
言葉にしてしまうと本当に情けない。敵前逃亡って戦場じゃ死刑にも値するんじゃなかったっけ。なんて下らない考えがこのシリアスなクライマックスを誤魔化すように浮かんで、慌ててそれをかき消した。
おれは至って真面目に、絶対にしないと決めたハズだった告白をしてる最中だ。余計なことは考えず、今するべきことに集中するべきシュチエーションだ。
佐藤さんはじっとおれを見てから、ふっと視線を取り皿に落としたかと思うと、真っ二つに切られているプチトマトをひょいと口に放り込んだ。
それはどういう反応なんだろうかと不安になってきた。ニコリともせず黙ってビール飲んでるし。これはおれに対してどんなことを言ってやろうかって考えてるのかな……?
「……でした? じゃ、今は?」
サラダを食べながらさらりと言われた問いの意味を理解し損ねて、間抜けな顔で佐藤さんを見遣ると、佐藤さんはジョッキに残ったビールをキューッと飲み干してからジロリとまるで睨みつけるようにおれを見た。
「でした、は過去形。じゃあ今はどうなんだ? どうしてオマエはここにいるんだ?」
馬鹿な子供に対して言うかのように、簡単に、分かるように繰り返した佐藤さんの声には少しの苛立ちが感じられる。怒ってるんだろうかと不安が、まるで足元の地面が少しづつ崩れていくような不安に感じられた。おれは反射的にうつむいた。
「すみません」
「答えになってない」
間髪を入れない厳しい声に、正直泣きたくなってくる。
佐藤さんとの関係が壊れるのが嫌だったから告白出来なかったっていうのに、これじゃあ同じだ。佐藤さんにこうやって責められると堪えられないって思ったから黙っていたのに。ああ、もう。子供みたいに泣いて喚いて逃げ出したい気分だ。
「その……」
「好きか嫌いかの二択だろ? なんで黙るんだよ」
嫌いだなんて選択肢はない。例え傷つけられたとしても、相手が佐藤さんなら、おれはきっと許してしまうに違いない。今だってこうして責められていても、おれは佐藤さんに対して負の感情を抱いたりしていないんだから。どちらかと言えば悲しいと感じるくらいだ。
「おれは、絶対に、何があっても、佐藤さんを嫌いになったりしません」
カラカラに乾いてしまっている雑巾から更に水分を搾り取るような作業みたいだった。乾いてもいないのに、喉が張り付いて声が奥に引っ込もうとするのを無理矢理に押し出して、それをなんとか言葉に形成する。
喋るのがこんなにも辛い作業だなんて今まで思いもしなかった。
言いながらも、おれは恐くてしょうがなくって、顔を上げることが出来ずにいた。間抜けにも、おれは掴んだジョッキに向かって搾り出すようにして語りかけている。それを第三者が見たらとても変な人に見えるに違いない。
「おれは、佐藤さんのことが好きなんです。これだけ経てば忘れると思ってたのに、全然っ……、むしろもっと好きになって……っ」
堪え切れなかった涙がボロッと零れ落ちた。
その事実があまりにも恥ずかしくて、おれは顔を真っ赤にして顔を両手で覆った。
身長百八十の大人の大男が、告白して泣いてるなんて世話ない。あまりにも情けなくて、同時にそれを見られてしまったことが恥ずかしくって、おれは顔を上げられず、スーツの袖で涙を乱暴に拭い続けた。
佐藤さんもまさかおれが泣き出すとは思いもしなかったのか、おれが黙ってグズグズしている中、何も言わず、二人しかいない半個のボックス席は気まずい沈黙で溢れかえっていた。
流石にスーツで顔をごしごし拭い続けていると、顔がヒリヒリとして痛くなってくる。当たり前なんだろうけど、ハンカチを出している余裕なんかなかったし、何より自分の意思とは関係なく流れ出る涙をどうにかしなくてはという気持ちが先立って、それどころじゃない。
こんな情けない泣き方をしたのはおれの長くもない人生でも初めてのことだ。佐藤さんは呆れてるに違いない。
早く泣き止まなきゃと、既に涙で濡れている袖で顔を拭おうとした直後、その腕が横からの力に引っ張られて、グイッと持っていかれる。
「えっ?」
何事かと驚いて反射的に顔を上げると、テーブルに身を乗り出しておれの腕を掴んでいる佐藤さんと思いのほか近距離で目が合う。
あまりにも突然の展開すぎて、泣き顔を見られたというショックとか、それが引き金に涙が止まっていたとかそういうことには気がつかなかった。ただ目の前にあるきれいな佐藤さんの顔に、阿呆面して見とれてしまっていた。
「カオ、赤くなってる。それ以上こすんな」
無愛想にそう言って、佐藤さんはおれの腕を掴んでいるほうとは別の手で、ハンカチを差し出してきた。
おれがハンカチを持つようになったのは、崎陽軒バイト時代に佐藤さんから言われてからだ。洗った手を振って乾かしていたら、そんなの衛生上良くないからハンカチは必ず持ち歩けと注意されたんだったっけ。あの時は洗い直しをさせられて、挙句に佐藤さんにハンカチを借りてしまった記憶がある。
あの時とデジャヴを感じながら、おれは抵抗もせずそのハンカチを受け取る。
佐藤さんのハンカチはやわらかくって、少しだけいいにおいがした。それで涙を汚れた顔を拭くのには躊躇したけど、それは佐藤さんが許さないだろうと判断して、濡れた頬を拭った。
「平山、オマエ、ヘタレって言われたことない?」
「へ、へたれ……?」
鼻をすすりながらオウム返すと、佐藤さんは分からないならいいと首を横に振った。
おれは言われた言葉の意味は分かったけど、自分がそうだという自覚はなかった。だけど、そのあたりはあえて訂正する必要もないだろうとそのまま黙っておく。泣いた直後だし、まともに喋れるかどうかも怪しい状況だ。黙っているのが最善だろう。
「あーあ。そんな赤くなっちゃって。オマエも馬鹿だなぁ」
顔が赤くなっているのは、袖で拭い続けて腫れてしまった部分もあるだろうけど、照れで赤くなってる部分もあるに違いないと思う。もう少し経てば少しは元に戻るんじゃないかと思うけど。
「泣くほど俺が好きなら、なんで言わなかったの?」
「き……、嫌われたくなかったから……」
「嫌うって……。どうしてそう思うかな」
ふうと呆れた様子で溜息をつかれると、正直堪える。
今一番のトップシークレットを大暴露した後とあっては些細なことなんだけど、でも、佐藤さんのことが好きだから、つまらない男だとか、下らないヤツだとか思われたくなかった。
確かにおれはお世辞にもいい男とは言えないし、背は高いけどスタイルがいいわけでもない。頭がいいわけでもないし、佐藤さんみたいに顔がきれいってわけでもない。ただの平々凡々、一般的な平均値だ。
だけど、最低なヤツとか、下らないとか、馬鹿みたいとか、そういう人間だとは思ってない。ただちょっと情けなくて、意気地なしで、格好悪い保守派の男だってだけだ。勇気がなくて、好きな人に好きだと伝えられないだけの、一般的な人間だ。
「俺は今まで何度かこうやって男に告られたことがある。その度に、ウゼェなって思ってフってたんだよ。大体のヤツが好奇心で告ってたのが分かったし」
佐藤さんのフり方が酷いのは、実は実際に見て知っていた。
おれが佐藤さんを好きになったきっかけになったのが、その、見知らぬ男が佐藤さんに告白してる現場だった。たまたま道を歩いていたときに、佐藤さんが男から付き合ってくれと迫られているところに通りかかった。
そのときは同性愛とか全然身近なものじゃなかったから、かなりギョッとして思わず注目した。でもそこで、佐藤さんに目を惹かれた。佐藤さんは不満そうに告った男を見下して、覚えてないけど、何か結構酷いことを言い返していた。
「でも、オマエみたいなの初めてだよ」
おれはあの時、罵れるだけ罵って去っていく佐藤さんがおれの近くを通り際、小さな、ホントに小さな声で「またか」って呟くのを聞いた。
最初はその言葉の意味が分からなくて気にも留めなかったんだけど、考えていくうちに段々と佐藤さんのことが気になり始めて、ある日唐突に、佐藤さんが外見とかに捉われず、好奇心だけじゃなくて、本当に佐藤さん自身のことを見てくれる人に出会いたいって思ってるんだって気がついた。
そう思った途端、おれは佐藤さんのことが知りたくなった。あんなにきれいな顔をしているんだから恵まれてるって思われがちな佐藤さんが、どんな悩みを抱えていて、本当はどんな人で、どんなことを思う人なのかを知りたくなった。
「変なヤツ」
「ちょ、変って……」
あまりの自分の痴態にあわせる顔がなかったんだけど、反射的に顔を上げて突っ込みを入れてしまった。目が合うと、佐藤さんは楽しそうにケラケラと笑った。
「変って言葉が嫌なら言い直す。可愛いよ、オマエ」
「かわっ……!」
まさかこんなきれいな顔をした人に可愛いとか言われるとは思ってもみず、おれは思わず絶句した。
可愛いって、おれのどこを取ったらそんな言葉が出て来るんだと小一時間問いただしたいところだけど、そこは大人だから我慢。
「ここだけの話、俺結構オマエのこと気になってたんだよ。黙って辞めるし、何考えてんだかサッパリ分からないし」
ううっ。何度も言われると本当に佐藤さんには申し訳ないことをしたという気持ちで一杯だ。そんなに気にしてくれていたんなら、玉砕覚悟でさっさと告白すればよかった。
「……ん? あれ……?」
「どうした?」
そういえば、おれの告白は佐藤さんの中でどういう扱いになったんだろうか。気になってたという言葉を思わずプラスに取ったけど、もしかして普通に気になっただけで、別に佐藤さんにはおれに対して特別な感情はないとかそういう……。
「俺と付き合うのはイヤ?」
「えっ! い、いつの間にそういう……!」
きれいな顔で覗き込むように首を傾げられて、おれは反射的に距離を置こうと仰け反りながら変にデカい声で問い返した。また顔が真っ赤になってるのはしょうがないことだと早々に諦めることにする。
佐藤さんはおれの過剰反応にケラケラ笑いながら、座っていた椅子を立ち上がった。何事かとそれを目で追うと、佐藤さんは心配するなと言いたげに苦笑して見せた。
「ちょっとトイレ。オマエはその間に俺に告白したっていうイミと、今後どうしたいのかを原稿用紙一枚分ぐらいにまとめておきなさい」
まるで小学校の先生みたいに締めくくられて、おれは否定も出来ず、その場で頷くことしかできなかった。佐藤さんはヒラヒラと軽やかに手を振って、ボックス席を出て行った。
【その後】
ピピピピピピピピピピ……。
「ん、んー」
目覚まし時計をセットしておいたケイタイがセットした時間を知らせている音に、おれは唸り声を上げながら目を覚ました。基本的に目覚ましをかければ一発で起きれるはずなのに、今日に限って全身がダルい。顔を上げて、遮光カーテンに遮られて薄暗い部屋の中をぼんやりと見回す。
ピピピピ……。
スヌーズ機能は使わない主義だから、今鳴っている目覚ましが止まったら、その後の保険はない。朝起きるのは得意だからそうしているんだけど、ぼんやりとしている頭で、せめて今日だけでもスヌーズをかけておけばよかったと考える。
そこまで考えて、はたと思考が一時停止した。
薄く開けていた目を開き、横になったままの視界で辺りの様子を窺うと、薄暗いながらも部屋の中の様子が見えてくる。しかし、そこはどう考えても、見慣れたおれの部屋じゃない。
「あー……」
力なく口から声が漏れ、小さな声だったにも関わらず、その声の大きさに驚いて慌てて口を閉じる。
腕を上げようとして、その動作でさえ全身で拒否するほどの異常なダルさに疑問を覚えて、そこまで来てハッと自分の身に何が起きたのかを思い出した。
そうだ……、そうだよ。ここは佐藤さんの家で、この全身のダルさは……。
「いま何時……?」
もぞもぞと布団が動いたかと思うと、ひょこっと佐藤さんが顔を覗かせ、おれは動けないながらもギョッとしてそれを見遣った。
佐藤さんは寝癖になってしまっている髪をポリポリと掻きながら、眠そうにおれの身体にその顔を押し付けてくる。狭いベッドの上じゃそれぐらい近付かないとお互い狭くて、おれは動くことも出来ずにその場に硬直していた。
「あー……、えっと……」
ケイタイは手の届くところにはなくって、いまが何時なのか知る術はなかった。だけど、佐藤さんは寝ぼけている様子でぐりぐりとおれに身体を押し付け、おれの返答を待つでもなく眠たそうに唸った。
「……起きる?」
佐藤さんのくぐもった声が聞こえ、おれは緊張とダルさで動けないまま、回答に困った。
実際のところは、起きたくても起きれないというのが現状だった。意識的には起きているけど、身体を動かせるかと訊かれれば、少し難しい。その、主に、下半身が。
「圭」
「はい?」
愛称を呼ばれて律儀に振り向くと、佐藤さんと目が合う。佐藤さんはまだ半分寝ているかのような眠たげな表情でゆっくりと瞬きを繰り返す。そのきれいな顔に思わず見惚れていると、佐藤さんがニヤリと笑った。
「身体、大丈夫?」
「う、あ……。その、少し……」
昨日したことを思えば、これぐらい全身がダルくてもしょうがないなって気分にはなる。なるけど……、思い出すだに恥ずかしい……!
もぞもぞと佐藤さんが動いているのが分かって何かと目で問いかけると、佐藤さんは被っていた布団を行儀悪くも足でベッドの外へと追いやっていた。流石にまだ布団なしでは寒いから文句の一つでも、と思って口を開いたけど、不満の声を出すことは出来なかった。
なぜなら、佐藤さんがその、全身をおれの身体に押し付けてきたからだ。
いやっ! それだけならまだいい。でも、その、あのっ……、朝だから、その、押し付けられた佐藤さんの下半身が少し元気だったから、おれは反応に困って硬直してしまった。
「さ、佐藤さん……?」
「昨日はアレだけ名前で呼んでくれたのに、今日は違うんだ?」
昨日は名前にこだわるとかそれどころじゃなかったし。言われることをやるのだけで必死で、それ以外のことなんか考えられなかった。結局はなんかスゴいことになってたけど、後悔はしてない。そんなことよりも、嬉しかったっていう思いのが強く残ってる気がする。
別にセックス自体が初めてってワケじゃないけど、男同士でやるのは当然ながら初めてだ。やり方もイマイチ分からないような状況だったし、スゴく緊張した。でも、佐藤さんは緊張と未知への恐怖でガチガチだったおれを宥め賺して、落ち着かせてくれた。
「だ、だって、なんかクセで……」
「じゃいまからクセをつける。俺のことはなんて呼ぶの?」
密着している身体が気になって、おれは落ち着かない気持ちで佐藤さんを見る。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんでいた。それは昨日から何度も何度も見た表情だ。煮え切らないおれに対して、意地の悪い要求をするときの顔。
「……誠太さん」
「そう。良く出来ました」
チュッと音を立てて額にキスされた。それだけでも相当恥ずかしいのに、佐藤さんはそれだけでは済ましてくれない。
互いに昨日はシャワーを出てからぐったりと裸のままベッドに入って、絡み合うようにして眠りについた。今朝目覚めても服を着た覚えなんかないんだから、当然のように二人とも全裸だ。
その身体が密着しているということは、つまり、……そういうことだ。
佐藤さん改め誠太さんは、おれの身体に乗り上げるようにしてかぶさって来た。おれは全身が今まで経験にないぐらいダルくて、まともに身動きなんか出来ない。誠太さんはおれの顔を覗き込むようにして見ると、おれが抵抗する前にその口をふさいだ。
……当然、その唇で。
「っ……!」
おれには誠太さんに抵抗してそれをやめさせるという選択肢と、それを甘受するという選択肢が残されていた。
だけど、起き抜けだし、昨日の疲れもあるしと抵抗する構えだったおれの脆く愚かな理性は、誠太さんの唇と巧みな舌の動きに、昨日の行為を思い出して抵抗する気力が完全にそがれてしまった。
「ぁっ、……ん」
キスをしながらもぐいぐいと押し付けられる下半身に、おれの身体も反応し始めていた。昨日ほとんど気を失うほどお互いを求め合ったっていうのに、懲りない自分が恥ずかしい。
「圭一郎、今日休みだよな?」
「や、休みですけど……。少しは休ませて下さい……」
普段普通に生活してたら絶対に使わない秘所を使った行為は、どう考えても疲れる。それにおれは初心者だから、余計に疲労感が募っているような気がする。
おれの弱音に不満そうに眉を歪ませた誠太さんだったけど、納得した様子で肩を竦める。
「オマエには一年分その身体で払ってもらおうと思ってたんだけど」
「いっ、一年……?」
一年前に黙って崎陽軒のバイトを辞めたことをそこまで根に持たれてるなんて……。いや、誠太さんのことだ。これは絶対に嫌がらせだ。
そう考えなきゃ、一年分身体で払うなんて無理だ。そんなことしたら死ぬし。
「オマエのことが気になってたから、この一年恋人作らなかったんだ。オマエのせいだろ? 責任取れ」
そんな横暴な台詞も、誠太さんの口から出てるってだけで納得出来ちゃう自分が憎い。これが惚れた弱みってヤツ……?
「誠太さん……」
困った顔で名前を呼ぶと、誠太さんは冗談だよと言うかのように表情を崩して、今度は触れるだけのキスをおれの額に落とした。
「冗談だって。そんな無理させない」
キレイな誠太さんの顔が優しく微笑む。おれはその笑顔が見れただけで有頂天になって、おれの頬を薄く撫でていた誠太さんの指に頬をすり寄せた。誠太さんはその動きが予想外だったのか、一瞬驚いた様子でその手の動きを止めたけど、すぐに頬をくすぐるように指を動かした。
おれはその指の動きが気持ちよくて、じゃれるように口を寄せ、その優しげに動く指を軽く唇でかむ。
「誠太さん、好きです」
視線が絡んでいた彼の目が驚いて見開かれ、おれは少し勝ったような気分で笑みを浮かべる。誠太さんは生意気なおれの態度が気に喰わなかったのか、片方の眉毛を吊り上げて見せた。
「圭一郎のクセに生意気だな」
クスクスと笑いながら不平を言われても、文句には聞こえない。おれはつられて笑いながら、もう一度誠太さんの手のひらに口付ける。
「真実ですから」
「もういいから黙れ」
「好きです、誠太さん。愛してます」
「圭一郎!」
本気のグーパンチで殴られるまで、おれは照れて真っ赤になってる誠太さんの顔が見たいがために、そうしてクサい睦言をかましていた。だけど、その表情だけでも、グーパンチを食らう価値はあったんじゃないかなって、思う。
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