しばしの別れ
ぴちゃり、と水音がした。
トンフィーは、わずかに心臓が高鳴るのを感じた。おそらく、魚が跳ねただけだろうにと、臆病な自分に苦笑する。――だが、昔に比べれば随分と度胸がついた方だ。一年半前なら、二十センチは飛び上がっていたはず。少し乱れてしまった呼吸を整え、改めて暗い川を見つめる。残念ながら手元の小さなランプの光では、先程の音の正体は見えてこなかった。代わりに、流れる川の、白くキラキラと光る水しぶきの中に、ぼんやりと一人の女性の顔が浮かんできて、トンフィーは目を細めてそれを見つめた。
――どうやら、自分は相当落ち込んでいるらしい。
勿論、川の中に女性の顔など浮かんではいない。あれは、気弱になるといつもトンフィーの前に現れる幻なのだ。
(……母さん)
悔いても悔やみきれぬ自らの過ちで、悪魔の兵隊になってしまった母。いずれこの手で、その胸に埋めこまれた命の石を打ち砕き、偽りの命を奪い取ると心に決めたのに、それでもまだ、恋しい母の姿を浮かべて安堵する自らの幼さが厭わしかった。曲げた両足に腕を回し、ギュッと目を瞑って丸くなると、トンフィーの太ももにスリスリと体をこすり付けてくるものがあった。チリチリという鈴の音を聞かなくても、それが十年近く共にいる自らのペットである事は分かっている。手探りで喉元を撫でてやると、小さな三毛猫はコロコロと喉を鳴らした。
「……アケ」
うっすらと目を開け、トンフィーは驚いて目を見開いた。先程までと違う周りの景色の鮮明さに、思わず体を起こして振り返ると、少し離れた所でぼんやりこちらを見ているメルメルを見つけた。手にしている異常に明るいランプの眩しさに目を細めて、トンフィーはふっと笑った。
「まるで猫みたいだね。全然足音に気付かなかったよ」
メルメルは、ほっとした顔になって走り寄って来る。
「こっそり近づいたから」
隣に腰を下ろし、にこにこと笑っているメルメルの顔を見ながら、トンフィーは思わず首を傾げた。
「こっそりって……どうして?」
「だって……」
――泣いているかと思って。
黙ってしまった少女の横顔をじっと見つめて、トンフィーはふと、その頭に巻かれたままの赤い布に気付き、ちょこんとそれを指でつついた。
「取り忘れたでしょう? 巻きっぱなしだよ」
「え? ――ああ。本当だわ」
メルメルは慌てて頭から布を剥ぎ取り、照れたように笑っている。その手に握られた赤い布を見つめて、トンフィーは胸の奥から苦いものがせり上がってくるのを感じた。
――赤は、あの人の色だ。
勿論、だからこそメルメルはこの色を選んだのだろう。それが分かっているからこそ、トンフィーは余計に切なくなるのだ。そんな風に、つい感慨深くメルメルの横顔を見つめて、今度はふと、メルメルの胸で光っている赤い石に目がいった。
「ラインさんが――」
突然きりだすと、メルメルは驚いたように顔を上げた。トンフィーは思わずしどろもどろになりながら、
「あ、あの、ラインさんが最後に使った技を憶えてる?」
「憶えてるわ。――クリムゾンファングでしょ。それがどうしたの?」
唐突な質問で驚くかと思ったのに、メルメルがよどみなく答えたので、逆にトンフィーの方が驚いてしまった。
(技の名前まで正確に憶えているなんて……)
それほどに、メルメルにとってはラインと過ごした日々の記憶は、かけがえのないものだという事なのだろうか。
「うん……。あの時ラインさん、わざわざメルメルから一度石を返してもらったでしょう? 僕ずっと、どうしてそんな事したんだろうって考えてたんだ」
「どうしてって……」
辛い記憶がよみがえってきたのか、メルメルはわずかに眉根を寄せた。トンフィーは、この話題は早く切り上げてあげるべきだと考え、慌てて先を続けた。
「あれはさ、たぶんその石に――」と、メルメルの首にかけられた石を指差し、「力を増幅させる魔力があるせいなんだよ。ほら、命の石なんかも魔力増幅の為の道具なんかに加工されているでしょう? この石にも、そんな力があるのかも知れない」
メルメルは首を傾げた。自分が持っている限りでは、そういった力を感じた事はなかったからだ。その様子を見て、トンフィーは言い訳するように続ける。
「力を引き出すには、何か特別な方法があるのかも知れない。それがどんな物か分からないけども、でも、可能性は十分あるし、他の大臣達の石だって特別な魔力を含んでいるかも知れないんだ。それを集める事で、七色の勇者とはどういう意味かも分かるかも知れないし……。僕は、その……ただ闇雲に戦うんじゃなくて、とにかく色々な可能性を試してみるべきだって思うんだ」
メルメルはトンフィーの必死の表情を見ながら、確かにその通りだという顔で頷いてみせた。するとトンフィーは、急に情けない表情になって俯いてしまった。
「……本当は良く分からないんだ。僕は戦いの本質を知らないだけで、勝つためには余計な事を考えない方が良いのかも知れない。それに、確かにグッターハイムさんの言った通り、奇跡でも起きると妄想してる、あまっちょろい子供なのかも知れない。……だけど……だけど僕は……このままじゃ、嫌なんだ」
「……いや?」
メルメルはトンフィーの顔を覗き込むようにして尋ねた。すると、トンフィーは顔を上げてメルメルを真っ直ぐに見つめてきた。
「――このまま奇跡も起きないと悟って、ただ暗黒王を倒す為にだけ生きるような人生……。だって、そうじゃないか。最近はみんな戦いに疲れて、食事してる時さえ笑い声も出なくなってる。グッターハイムさんなんか本当にピリピリしてて、一緒にいるとこっちまでそんな風になってきちゃって……。そんな風に味気ない毎日を送り続けないと戦いには勝てないのなら、僕はその内、何の為に戦っているのかも分からなくなりそうだ……。だから、そんな人生って何なんだよって思っちゃって……」
(何より、そんな風に生きていくメルメルを見るのは嫌だ……)
再び深く俯いてしまったから、こちらからはその顔が見えないが、おそらくトンフィーは泣いていないだろうなとメルメルは思った。弱虫と周りに言われていた頃さえも、彼はあまり涙を見せた事はなかったのだから。そう考えて、自分も「あの日」以来泣いていないのかも知れないと、メルメルはふと気付いた。トンフィーと違って、人一倍泣き虫だったはずなのに。
「……ごめんねメルメル。さっきは、すごく嫌な雰囲気にしちゃったよね。メルメルは七色の勇者と予言された当人なんだから、とっても大変な思いをしてるし、僕みたいに不満を言ってる余裕も無いのにね……。グッターハイムさんにしたってそうだ。自分がメルメルをリーダーにしてしまったという思いも、元リーダーとして頑張らなきゃいけないっていう責任感も、すごくプレッシャーになっているだろうし、余裕がなくなってピリピリするくらい当然なのに、僕、わざと傷付けるような、あんな言い方をして……。ひどい事しちゃったな……」
シュンとうなだれたトンフィーの肩を、メルメルはポンポンと叩いた。眉をハの字にして顔を上げた少年に、にこりと笑いかける。
「トンフィーもね」
「……え?」トンフィーは不思議そうに首を傾げた。
「トンフィーも、すごく大変な思いをしてたわ。だって、トンフィーはとっても頭が良過ぎるんだもの。ワタシなんか想像もつかなような難しい事が色々分かってしまうから、だから、たくさん悩んで苦しかったと思うの」
「そ、そんな事ないよ。僕の苦しみなんて、メルメルに比べたら――」
「ワタシなんか、別に大して大変な思いなんてしてないわ。ワタシは、ただグッターハイムに言われた通り動いていただけなんだもの。稽古はちょっぴり厳しかったけれど、強くなれるなら、そのくらい全然大丈夫だったわ。ワタシ……強くなりたかったの。すごく強く。……ラインさんくらい、強く」
「…………」
「でもね、それじゃあ、本当は駄目だったんだわ。ただ強くなって満足して、グッターハイムに全部任せてたんじゃ駄目だったのよ。それじゃあ、グッターハイムに責任を押し付けて苦しめるだけだし、ワタシ自身が考えてちゃんと意見を言うべきだったんだわ……」
「メルメル……」
「――トンフィー」
「……え?」
突然メルメルが立ち上がって手を差し伸べてきたので、トンフィーは少し驚いて、目をぱちくりさせながらメルメルの顔を見た。
「ワタシはトンフィーの意見に賛成だわ。確かに、どうしてただの勇者ではなく七色の勇者なのかも気になるし、大臣の石を集めてもみたい。――行きましょう。グッターハイムもきっと分かってくれるわ」
キラキラと輝くメルメルの瞳をしばし見つめて、トンフィーは笑顔になりながらその手を取って立ち上がった。
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グッターハイムは腕を組んで目を瞑り、むっつりと押し黙っている。そんなふうになってから、どのくらいの時が流れたであろう。実際にはまだ一分程度しか経っていないが、メルメルには恐ろしく長い時間に感じられるのだ。つい、あれこれと説得の言葉を発したくなるが、口を引き結んでぐっと堪えていた。必要があれば、トンフィーが説得力のある言葉を使ってやってくれるはず。余計な口出しは無用だと、メルメルは自分に言い聞かせた。勿論、グッターハイムの石頭があんまり固いようなら、いつまでも黙っていられる自信は無かったが……。
「………………分かった」
長い沈黙を破ってグッターハイムが発した言葉に、メルメルは目を丸くした。トンフィーには分かってくれるなどと言ったくせに、本当は説得は容易な事ではないと考えていたのだ。だから、この素直過ぎる相手の反応には心底驚いた。
グッターハイムはゆっくり目を開き、最近見せないような穏やかな顔になり、
「お前達が考えて決めたのなら止めはしない。何より、トンフィーの考えは俺なんかより数倍も優れているのだから、反対するなんて愚の骨頂だろう」
メルメルはいよいよ目を丸くした。素直過ぎるにも程がある言葉に、思わずいぶかしげに相手の顔を見る。どうやらトンフィーも隣で同じような顔をしているようで、そんな自分達を交互に見ながらグッターハイムは思わず、といった感じで苦笑した。
「――そんな顔をするな。……いや、さっきまでを考えれば当然かも知れんがな。まぁ、俺も一応反省出来る生き物だったという事だ。……トンフィーにガツンと言われて、異常に意固地になっている自分に気がついたのさ。誰の意見も受け入れられなくなっていた。――いや。受け入れちゃいけないと思っていた」
「どうして……」
メルメルは思わず呟いた。この言葉には、何故そう思っていたのかというのと、何故急に受け入れられるようになったのかという二つの疑問が込められていた。
「自分が決めた事を曲げちゃいけないという、バカな男の意地のようなものだ」
トンフィーが、男の意地……と口の中で呟いた。グッターハイムはにやりと笑った。
「お前も大人になれば少しは分かる。男ってのはよく、自分は間違ってないと思いこむ病気にかかるもんなのさ。あげくには、年をとるとそれに頑固のオマケまでついちまう」
トンフィーは答えに困って曖昧な顔で笑った。そんな少年の顔を見つめながら、――だが、とグッターハイムは言葉を続ける。
「何も急に病気が完治した訳じゃない。いずれまた、同じように自分本位な事をするし、それにまだ、自分の考えを貫きたい気持ちもあるんだ。だから俺は――」グッターハイムは少し瞬巡するように間を置き、「ここで、お前達とは別れようと思う」
メルメルは目を見開く。そうして直ぐに首を横に振って、
「そ、そんな必要ないじゃない……」
「そうですよ。何も別れる必要ないじゃないですか」
トンフィーも困り顔でメルメルの意見に同意した。自分の言った事のせいで、グッターハイムがそんな考えを持ったのだと思って、責任を感じたのだ。そんなトンフィーの気持ちを察したのか、グッターハイムは再びにやりと笑った。
「俺は別に、ふてくされて言ってる訳じゃないぞ。――ただ、色々な事情を考えればその方が良いと思っただけだ。レジスタンスはまだまだ人手不足だし、大臣の石を探そうという意見には賛成だが、それに戦力はそれほど割けないんだ。だから、悪いが石探しはメルメルにトンフィー、それからペッコリーナの三人でやってもらおうと思う。まぁ、三人じゃちっと寂しくなるかも知れんが――」
グッターハイムはメルメルの顔に目を向けて、一瞬目をぱちくりさせた後、つい吹き出してしまった。あまりにも少女が、悲しいような情けないような顔をしていたからだ。
「大丈夫さメルメル……。大臣の石を探すのには、それほど危険な事は起こらないだろう。大概の敵はペッコリーナがいれば問題ないしな。それと……お前自身、とても強くなったからな」
初めての誉め言葉に、メルメルは驚いて目を見開いた。グッターハイムはその顔を見て笑った。
「何より、大人顔負けのトンフィーの知恵があれば、三人でも立派にやっていけるさ。――それに、あまり大人数で動き回るより敵に見つかりにくいだろう。何せ、これからはわざと目立つ必要が無いんだからな」
いたずら顔でウィンクしてきた相手に、メルメルは何とか笑う事が出来た。しかし、直ぐに寂しそうな顔に戻って周りを見回す。優しそうなニレのにこにこ顔があり、男みたいに髪を刈り上げた強面のキーマのちょっぴり涙ぐんだ顔があり、戦いの時も、ずっと寄り添って支えてくれたマリンサの優しく微笑んだ顔がある。
「――心配するな」
力強い声で言われて、メルメルはそちらを見上げた。
「いざという時は、直ぐに駆け付ける。――どこにいようともな……」
よく日に焼けた、グッターハイムの精悍な顔がにやりと笑った。とても厳しく扱われてきたが、メルメルは彼をずっと父親のように頼りに思っていたのだ。たまらなく寂しい気持ちが込み上げてきたが、涙をぐっと堪えて笑い返した。これで、永遠の別れという訳ではないのだ。
――生きてさえいれば、きっとまた会える。
いつかのラインの声が、耳の奥で響いた。