ウォッカ 5
バルバッサとゾーマが去っていっても、彼はしばらくその場に座り込んでいた。時折同じ制服を着た子供達が通りかかり、泥まみれになった少年の姿を見て一体どうしたのだろうかと立ち止まるが、相手が何者かに気付いた瞬間に慌てて何も見なかった振りで通り過ぎて行った。
(……遅刻しちゃうから、もう行かないと)
欠席や遅刻は進級査定に影響する。試験に合格したとはいえ万が一進級を取り消されては大変だ。
(せっかく、バルバッサのいない校舎に移れるのに)
パーツナム学園は、幼稚園、初等部、中等部、高等部でそれぞれ校舎が別れていた。初等部に入るのさえ彼の倍を要したバルバッサが、更に上の中等部へ進むのは容易な事ではあるまい。試験に合格しなくともエスカレーター式に進級するとはいえ、それだと初等部から中等部に上がるまで六年かかる事にり、バルバッサが中等部に上がるのにはあと五年もかかる事になる。中等部から高等部に進級するのは平均でも三年――彼は、自分なら二年あれば確実に進級出来るだろうと考えていた。つまり、この先は二度とバルバッサと同じ校舎に通う事は無くなる、という事だ。
この一年はひどいものだった。たった一年でもこれだけ苦しかったのだから、これ以上長くバルバッサと共に過ごすのは耐えられないと思った。勿論、ただ校舎が別れるだけで劇的に状況が良くなる訳ではないだろう。行きや帰りにこうして待ち伏せされるのを、完全に避ける事は出来ないのだから。でも、少しでも良い環境になるのは確かだ。校舎が違えば、少なくとも休み時間の度に呼び出される事は無くなるはずだ。
彼はぐちゃぐちゃになった「数学」の教科書を拾い上げ、フラリと立ち上がった。泥まみれのまま重い足を引きずるようにして歩き始める。ほどなくして、あの見慣れた無機質な校舎が見えてきた。開け放された門の前には一人の教師が立っている。確か国語の教師のはずだったが、中等部を担当している為にどういった人物かあまり詳しくは知らなかった。しかし、彼にしてみれば誰だって同じ事なのだ。この学園の人間は皆、彼に対して同じような反応しか示さないのだから。
国語の教師はこちらに向かってくる泥まみれの生徒に気付いて一瞬何か言いそうに口を開きかけたが、直ぐに視線を反らし別の方向から来た生徒におはようと挨拶をした。その生徒も彼をちらりと見て、何も見なかった顔で校舎の中に入っていった。通り過ぎる時に、おはようございますと挨拶をすると教師はちゃんと挨拶を返してきたが、決して彼と目を合わせようとはしなかった。
教室に入っても、クラスメートの反応は国語の教師と同じようなものだった。ホームルームが始まる前の室内は生徒達のお喋りで少しざわついていた。彼が中に入った途端に皆一様に静まり、また直ぐに何もなかった顔でお喋りを続ける。彼は教室の後ろまで歩いていき、自らのロッカーの中からハンガーを取り出し泥だらけのコートをかけた。それから席に座り、一時間目にやる予定の国語の教科書を広げ予習を始める。その間、誰一人として話しかけてくる者はいない。
学園にいると彼は時折思うのだ。自分はもしかすると、この世に存在していないのではないか、と。
朝家を出てから勉強を終えて再び家に戻って来るまで、彼は誰とも会話をしない。クラスメートは皆、彼を空気のように扱ったし彼も自分から話しかけようとはしなかった。
それは「いじめ」というのとも少し違っていて、皆は彼と接触するのを極端に恐れているだけなのだ。仲良くする事も喧嘩する事もしたくないという気持ちから、なるべく無関心を装い、結果として彼との会話を避けるようになった。
この異常な状態を引き起こした原因は、やはりバルバッサだった。
幼稚園に入った当初、彼は比較的周りの園児と変わらぬ生活を送っていた。噂があり、彼が特別な人物の子供だと知ると妙に話しかけてくる者の数が増えた。その中には幼いながらに敬語を使ってくる者もかなりいて、彼は初めとても戸惑ったものだ。子供達は親からよく言い聞かされていたのだろう。
大臣様の子供に対して、決して粗そうの無いように――と。
だから誰一人、彼をけなすような事は言わなかったし、逆に何かと言えば彼を褒め過ぎて気味が悪い程だった。そして、まるで学園一の人気者のように扱われていた彼の日常は、バルバッサの入園と同時に一変したのだ。
バルバッサは彼を執拗に攻撃した。休み時間には彼の教室までやってきて、クラスメートの前でひどい侮辱の言葉を浴びせたりもした。だが、あれだけちやほやしてきたクラスメートの中に、彼をかばってくれる者は一人としていなかった。それどころか逆に彼に近づく者、話しかけてくる者は誰もいなくなってしまった。周りは皆、二人の「大臣様の子供」を前にしてどちらを取れば良いのか戸惑っていたのだ。そして、バルバッサを恐れてもいた。教師さえもそうだったのだから、彼を救ってくれる者は誰もいないという事だ。唯一味方になりえるのは、週に一度彼の通うパーツナム学園で魔法薬の講師をしているティムルだが、ティムルの担当しているのは高等部の為、彼の置かれた苦しい状況には気付いていないようだった。彼からティムルに助けを求める事もしなかった。何故なら、ティムルはおそらく母に相談をするに違いないと考えたからだ。彼は、母にだけは知られたくなかった。
だからバルバッサから殴られ怪我をして帰っても、母には体育でやったなどと嘘を言って誤魔化していた。もしも母に事実を伝えれば、誰から攻撃を受けているのかを言わなくてはいけなくなり、必然的にバルバッサの話をしなくてはいけなくなる。バルバッサについての話を、母とは絶対にしたくなかった。話せば、自分と同じように母も傷つくだろうと思ったからだ。
それに、彼はこの現状を変えようとは思わなかった。いや、変えたいが変わらないだろうと諦めていた。それは、全ての事が何もバルバッサのせいばかりではなかったからだ。
バルバッサが現れて戸惑いながらも遠ざかっていった友人達。当初、その瞳には彼に対する憐れみが含まれていた。彼に恨みはないし、かわいそうだとは思うがバルバッサには逆らえないから仕方ない。皆の表情から、彼はそんな心情を感じ取っていた。だが、バルバッサがある言葉を言った瞬間、彼らの瞳から憐れみが消え失せたのを彼は見たのだ。
――こいつの母親は、スラム生まれのスラム育ちなんだぞ!
「それでは、三十ページの頭から誰かに読んでもらいましょう」
いつの間にか授業が始まっていたようで、教壇に立った教師が生徒を見回している。おそらく、どの生徒に当てようか悩んでいるのだろう。しかし、彼は他の生徒のように慌てて教科書をめくるような事はしない。どうせ、当てられる心配など全く無いのだから。
彼は教科書をめくる代わりに、机の上に自らの両手を広げてみた。泥だらけで、薄汚れた手だ。ふと、周りに目を向ける。チリ一つ落ちていない教室、磨かれた机や椅子。それに腰かける、美しい揃いの制服を着たクラスメート達。綺麗に髪をとかされ、シャツはシワ一つなく白く輝いていて、どの顔も上流階級に生まれた者独特の品性が漂っている。その中で、ポツリと浮いたように汚れた自らの両手に再び目を向けると、彼の頭の中にバルバッサの言葉が甦ってきた。
――虫けらにふさわしい姿だ。
その通りだと思って、彼はきつく瞳を閉じた。
(この場所は、僕にはふさわしく――ない)
彼は手を洗いにトイレへと行き、深くその事を後悔していた。
――手の汚れなど気にせず放っておけば良かったのだ。どうせ手だけでなく、足だって顔だって泥だらけだったのだから。
とうに汚れの落ちきっている手をなおも洗い続けながら、彼は心の中で自分をののしった。
「全く……トイレにいてもお前の臭さは際立っているな。トイレより臭いのじゃ、もう人とは言えないじゃないか」
バルバッサは意地の悪い笑みを浮かべながら言った。彼は何も聞こえないような顔をして、黙って手を洗い続ける。しかし実際は体中から汗が吹き出していた。
よりによって一番会いたくない相手と鉢合わせしてしまった。しかし、ただの偶然ではないのかも知れない。バルバッサは、休み時間にはしょっちゅう彼をいたぶりにやって来るのだ。彼が教室にいないのでわざわざ探しに来たのかも知れない。なんにしても、誰もいない密室で攻撃されるのは恐ろしかった。
たとえ他の人間がいても助けを期待する事は出来ないだろう。とはいえ、バルバッサは誰かが見ているとそれほど酷い攻撃はしてこないのだ。少しは、人の目というものを気にしているのだろうか。だが、今までも人のいない場所では思い出すだけで震えあがってしまうほどのむごい目にあってきた。彼はその記憶に怯え、何とかこの場から逃げられないものかと出入口の扉を見た。すると、扉の前で仁王立ちしているゾーマと目が合ってしまい、慌てて視線を反らし下を向いた。
――あいつさえいなければ……。
彼は唇を噛み締める。
所詮バルバッサは一つ年下だし、彼より背も小さくて華奢な体つきをしているから、いざとなれば力でねじ伏せる事も可能なはずだ。しかし、バルバッサの隣には常にゾーマがいて、この三つ年上のゾーマに彼は手も足も出ないのだ。ゾーマは背も大きいし体もがっしりとしてたくましい。ケイトで開かれた武術大会では大人ばかりの中に混じって出場をし、その上何と三位入賞を果たすほどの力を見せつけているのだ。
「そういえばウォッカ、お父様が今ケイトに戻って来ていると知っているか?」
彼は思わず手の動きを止めた。
「あれれ、もしかして知らなかったのか?」バルバッサは嬉しそうに笑う。「夕べはお父様の帰郷を祝って、僕とお父様とお母様の三人だけで家族パーティーをするつもりだったんだ。だけど、挨拶に訪れてくる者が後を絶たなくてね。そうだな……結局、百人くらい集まって来てしまったな。まったく、お父様の人気にも困ったものだよ。まぁ、半分くらいは僕の友人やその家族だったんだけどね。そんなこんなで、結局、いつの間にか特大パーティーになってしまったんだ」
愉快そうにお喋りを続けるバルバッサをよそに、彼は水道の蛇口をひねり水を止めた。ポケットからハンカチを取り出して手を拭く。バルバッサは笑顔を引っ込め、冷たい目で彼を見据えた。
「しかし……本当にお父様は、貴様にも貴様の母親にも興味がなくなったのだな」
――これが言いたかったのか。
彼は軽く瞳を閉じた。そうやって、先ほどの言葉に、自らの心が何の反応も示さない事を確かめる。
――お前の目論見はいつでも的外れだ!
彼は内心で相手をあざ笑いながら、目一杯顔を苦痛に歪めて見せた。その時、休み時間の終了を知らせる鐘の音が聞こえてきた。今回の「いたぶり」はこれで終了だろう。バルバッサは目的を果たし、すっかり満足したはずだ。
彼は肩を落とし、とぼとぼとドアに向かって歩き始める。
「どこへ行く?」
力強く腕を掴まれ、彼ははっとして相手の顔を見た。
「まだ、貴様の汚れは落ちきってないだろう」
バルバッサは怒りで顔を歪めていた。そして、その顔を間近で見て初めて彼は気が付いた。その、ぶ厚い唇から覗いている小さな前歯が一本欠けてしまっている事に。よく見れば、口の端は青黒く痣になっている。そう――まるで誰かに殴られたかのように。
「僕が貴様の汚れを落としてやる!」
力一杯腕を引かれ、彼は思わずよろめいた。バルバッサは容赦なく髪をわし掴みにして、洗面台へと押し付けてくる。負けじとこちらも力一杯押し返したその時、突然押し付けてくる力が数倍になって、彼はしたたかに額をぶつけてしまった。
「よし――ゾーマ、しっかり抑えておけ」
一瞬意識が遠退いたが、頭に勢い良く水が降り注いできた為、気を失う事はまぬがれる事が出来た。もっとも、気でも失ってしまった方が早く楽になれたという気もするが。
「ほら、こうして水で流せば少しはきれいになるかも知れないぞ。……スラムの女から生まれたお前でも少しは、な」
少しずつ、洗面台に水が溜まってきた。頭を抑えつけられているせいで、彼の頬が排水口を塞いでしまっているのだ。その溜まってきた水の中に、うっすらと赤い色が混じっているのに気が付いて、彼はぼんやりする頭で、先ほど打ちつけた額が切れているのかも知れないな、と考えていた。
「なぁウォッカ、どうして進級試験なんて受けるんだ?」
バルバッサが顔を近づけて問い掛けるように言ってきたが、口元までせり上がってきた水を吸い込んでしまった為、彼は激しくむせてしまった。バルバッサは苛立った顔になり、彼の前髪を掴んで顔を自らの方に向かせた。頬との間に隙間がうまれ、排水口に水が勢い良く吸い込まれていく。
「汚れた血筋の貴様が、同じ学園に通ってるだけでも寒気がするのに、進級試験を受けるなんていったい……いったい、どういうつもりなんだ!」
怒りで目を血走らせているバルバッサの顔を見ながら、何にこれほど、この弟が腹を立てているのかを考えていた。
――父親が、自分の母親とは身分の違う女に子供を生ませたからか。その子供の顔が自分よりも父親によく似ていて、馬鹿にしていたはずなのに自分より優秀な成績を残して進級して行くからか。それとも、所詮自分もその子供と同じように妾の子供でしかないからか。あるいは――その、すべてか。
「お前には相応しくない! 汚れたお前には何もかも相応しくないんだ!」
目覚めると、母の泣き顔が目の前にあった。
「ウォッカ!」
母は新しい涙を流しながら、彼の手を握りしめる。
「ウォッカ! ――どう? 大丈夫? まだ、痛む?」
矢継ぎ早の質問には答えず、彼は周囲を見回した。この景色には見覚えがある。怪我をしたり、風邪などで具合が悪くなった時に何度か訪れた事があるからだ。学園に付属された診療所。どうやら自分はその診療所のベッドの上に寝かされているようだと気付いた。と同時に額がずきりと痛み、何故こんな所にいるのかという理由が分かって、彼は弱ったなと思った。
「一体何があったのウォッカ? こんな酷い傷……」
何と言い訳しようかと考えているその時、部屋の扉がガチャリと開いた。扉の向こうから現れた人物を見て、彼は目を丸くする。
――今日は、水曜日ではないはずなのに……。
「目が覚めたか。具合はどうだ? ウォッカ」
ティムルは閉じた扉にそのまま体をもたれさせて、彼を見た。何も言えずにその瞳を見つめ返すと、向こうも同じように無言で彼を見つめてくる。まるで全てを見透すようなティムルの瞳に、彼は思わず逃げるように視線を反らしてうつ向いた。
「……ウォッカ」
強く手を握りしめられて、彼は恐る恐る顔を上げる。
「別の場所で暮らそうウォッカ……。もう、こんな場所で我慢する必要なんてないわ……」
彼は目を見開いて、改めて母の顔を見た。母はいつもより更に疲れた顔をしていて、その美貌がくすんでしまったように感じられる。彼はその疲れた顔の中に、これまでの母の苦悩を見た。そうだ。辛く苦しかったのは自分だけではなかったはずだ。彼は唇を噛み締め、コクリと母に頷いて見せた。