ウォッカ 4
翌朝、彼は目覚めると同時に、最近に無いような大きな喜びを感じていた。
また一歩卒業へと近づいたのだ。しかも来年の春になれば、今いる初等部の校舎から中等部の校舎へと移る事が出来る。そうすれば、あいつとはもうほとんど会わずに済む。
そう考えると、いつもと同じはずの朝は特別素晴らしい物に変わり、彼は弾むように起き上がった。自然と浮かび上がって来る笑顔を押さえようともせず、夕べのうちから用意していた制服に着替え、勉強机の上に置いてある鞄の中身を取り出す。こちらの方も夕べちゃんと準備しておいた物だが、念のためもう一度確認しておこうと考えたのだ。予定表を開き、一つ一つ照らし合わせていく。国語の教科書、ノート、魔法の教科書、ノート、数学の――。彼はそこで、笑顔を引っ込めた。
数学の教科書は入っていなかった。しかし、彼はそれを探そうとはしなかった。無表情で取り出した中身を全て鞄に戻し、それを肩にかける。部屋を出て食堂へと向かうと、廊下まで朝食の匂いが漂ってきた。あまり食欲は無いが、少しは食べないと母が心配してしまう。溜め息でも吐きたいような気持ちで食堂のドアを開けると、布巾でテーブルの上を拭いていた母がにこりと笑った。
「あ……おはようウォッカ。ご飯とトーストどっちが良い?」
どちらもあまり食べたくは無かったが、仕方無しに彼はトーストと答えて席についた。母はキッチンへと向かい、すぐに戻ってきて、彼の目の前にホットミルクや目玉焼き――ちゃんと彼の好み通り硬めに焼いた物――や、ほどよい焼き色のついたトーストを並べた。
それらに手を伸ばしのろのろと口を動かしていると、ふと母がこちらをじっと見つめている事に気が付いた。視線を合わせると、母はゆっくりと瞬きをして、
「……ウォッカ、学校はどう?」
――どう? とはどういう意味か。本当は聞かなくても分かっていたが、意味を掴みかねるような顔で、彼は首を傾げてみせた。母はそれを見て、少し笑顔になる。
「――楽しい?」
楽しい訳がない!
そう言って、机の上の物を払い落としたくなった。皿が割れ、ミルクが飛び散り、焼きたての目玉焼きは無惨につぶれ、母は驚いて言葉を無くすだろう。
彼は沸き上がった衝動を抑え、軽く目を伏せた。
「……うん」
長い間があって、母は、「そう……」と呟いたが、その後無言になってしまった。彼は目を伏せたまま食事を続けたが、黙りこんだ母がじっとこちらを見続けているのが分かって、たまらなくなった。全て食べ終わらずに席を立つ。
「――あら、もういらないの?」
「もうお腹いっぱい。行ってきまーす」
行ってらっしゃいという返事を背中に受けながら、彼は振り返りもせずに家を飛び出した。
*********
外に出ると、雨が降っていた。彼は立ち止まり空を見上げる。それほど強い降りではない。いかにも霧雨といった感じで、雨音さえ無く、だからこそ家を出るまで全く気が付かなかったのだろう。
――少しくらい濡れたって構わない。
彼は傘を取りに戻る事なく、歩き出した。
家の中に戻れば、何か忘れでもしたかと母が慌てて出てくるかも知れない。先ほど気まずい空気になってしまった事が尾を引いて、今は何となく母と顔を合わせたくなかった。
それにしても暗く寒い朝だった。どんよりと厚い雲が空をおおって、太陽の光はほとんど地上に届いていなかった。彼は、雨がコートの内にまでしみこんでしまう前にたどり着かなくてはと、道のりを半ば駆けるようにして急いだ。学園までは歩いても十分ほどの距離だから、これくらいの雨なら大して濡れはしないだろうと高をくくっていた。しかし、道のりの三分の二を消化したところでアクシデントがおきた。
そこは丁度、買い物帰りにいつも母と通る場所だった。道の右側には、白く高い壁が呆れるほど長く続いている。距離にすれば五百メートル以上あると思われるその壁の向こうには、実はとある人物の屋敷が建っているのだと、今は人に聞いて知っていた。高い建物を造る事を禁止しているこの地区で、その屋敷だけ何故五階建てなどという事が許されているのか、その理由もすでに彼は知っている。それは考えてみれば単純な話で、この白い壁の向こうに住む人物はとても身分が高く、街の者は誰も逆らう事が出来ないからなのだ。それに、そもそもこの地区に高い建物を建ててはいけないなどという決まり事を作ったのもその人で、理由は、自分の屋敷からの景観が悪くなるからだという、子供の彼でも呆れるような実に自分勝手なものだった。
彼は立ち止まって白い壁を見上げる。次いで目を瞑り、その、この街で一番身分が高く、逆らえる者の誰もいない人物の顔を思い浮かべようとした。もう長いこと会っていないのに、自分でも驚くほど鮮明に思い浮かべる事に成功して、その冷たい灰色の瞳に背筋がぞくりと震えた。
「おい、貴様」
最悪の種類に入るような呼びかけ方をされたが、彼はそれでも顔色を変えることなく閉じたまぶたをゆっくりと開いた。
道の先に二人の少年が立っている。片方は彼より背が少し低くて痩せていた。もう片方は彼より背もかなり大きく、顔付きは少年というより青年に近かった。大きな方の少年は小さな方の少年の一歩後ろに立って、小さな方の少年に傘をさしかけていた。自らの体は雨に打たれてずぶ濡れになっているが、全くそれを気にする風はない。
――やはり、あまり似ていない。
先ほどまで頭に思い浮かべていた顔と小さい方の少年の顔を比べて、彼は心の中でこっそりそう思った。
「何を黙りこんでいる――ちゃんと返事をしろ」
――喋り方は少し似ているかも知れない。人に命じる事に慣れた、傲慢不遜なものだ。
相変わらず黙りこんでいる彼を見て少年は不愉快そうに顔を歪め、つかつかと大股で近づいてきた。歩いてくる少年の頭上には、まるで魔法でも使って固定しているのかと思えるほどしっかりと傘がさしかけられ続けている。そうして目の前までやってきた小さな少年の後ろに立つ、置物のように無口で無表情な大きな少年をちらりと見上げ、彼は改めて小さな少年の顔に視線を移した。
――やはり似ていない。
「ここまで近づくと、本当に臭いな」
少年が意地悪そうににやりと笑い、わざとらしく指で鼻をつまんで見せた。そのまま、後ろに立つ少年を振り仰ぐ。
「なぁゾーマ。スラムの人間は臭くてたまらない」
ゾーマと呼ばれた少年は変わらず無表情のままで、コクリと頷いた。
「まことに」
肯定の言葉を聞いて、少年は無邪気ともいえるような顔で笑った。
「うふふふ……。ちゃんと風呂に入っているのか? それともウォッカ、風呂に入っても血に染み着いた匂いは取れないか?」
彼はうつ向き口を引き結んだ。少年との長い付き合いで学んだ事は、とにかく、なるべく口を開かない方が特だという事だった。
「また得意のだんまりだ。それとも、スラムの奴らは喋る事が出来ないのかもな。人間とは言えない、虫けらのような連中だからな」
逆らってもへつらっても、この苦痛な時間を長引かせるだけの事だ。
目の前にいる小さな少年――その名をバルバッサという。一つ年下のバルバッサは、彼の通い始めた一年後にパーツナム幼稚園へとやってきて、それ以来、まるで鼠をいたぶって遊ぶ猫のごとく、彼をいたぶる事を日課にし始めた。初めは彼も逆らう事があった。しかしその内、逆らうのは無駄な事だと悟るようになった。何故なら、バルバッサは彼が何らかの反応を示すのを楽しんでいるのだと分かったからだ。バルバッサの目的は、怒ったり泣いたりする自分を見ること。だから一番有効的な対抗手段は、口を開かない事だった。
「おい虫けら、話す事は出来なくても泣く事くらいは出来るだろう」
足先で膝を蹴られたが、彼はそれでも黙って堪えた。
「おい、何とか言えよ虫けら。……ふん。なぁウォッカ、ところでお前の母親もそんなに臭いのか?」
頭にかっと血が昇った。相手を殴りつけたいような衝動にかられるが、拳を強く握りしめる事でそれを抑える。
「……ふん。臭いに決まっているか。スラム生まれでスラム育ちの虫けら女なんだから――うわぁ!」
気が付くと彼はバルバッサに掴みかかっていた。情けない顔で悲鳴を上げた相手を、そのまま押し倒して組み伏せてやろうと思ったが、直ぐに後ろに立つゾーマに腕をねじり上げられ、逆に組み伏せられてしまった。頬の下には、雨に濡れて冷たくなった地面の感触がある。
「……ふん」
不愉快そうにバルバッサが鼻を鳴らすのが聞こえたが、彼はゾーマに頭をしっかりと押さえ込まれていて、そちらを見ることが出来ない。
「泥まみれじゃないかウォッカ。虫けらにふさわしい姿だ。ところで――こいつを返そうと思ってわざわざ待っていてやったんだった。ゾーマ、手をどけろ」
頭の上の重圧がなくなった瞬間、バサリと頭に何かがぶつかって顔の横に落ちた。彼はぼんやりとそれを見つめる。それが何なのかは直ぐに分かった。背表紙に、「数学」と書かれているのが見えたからだ。
「おっと、これも虫けらが使うのにふさわしい物にしておいてやらないとな」
バルバッサは数学の教科書を踏みつけ、ぐいぐいと地面にこすり付けた。彼は色の無い瞳でそれを見てから、わずかに顔を反らして頭上に目を向けた。
――やはり似ていない。つぶれて醜い鼻の形も、曲がった品の無い厚ぼったい唇も、黒くて濃い瞳の色も。
(僕の方がずっとずっと似ている)
嬉々として教科書を踏みつけ続ける少年の顔を見ながら、皮肉な事実に笑い出したいのを彼は必死で堪えていた。