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ウォッカ 3

 耳が冷えて、まるで切れたかのように痛んだ。マフラーでも巻いてくれば良かったと、彼は後悔した。母が編んでくれたマフラーを首にぐるぐると巻いて、それに顔を半分埋めるようにすれば、さぞや今より暖かいだろうと想像する。まだ十一月に入ったばかりとはいえ、真冬にはマイナス二十度にもなるケイトの事だから、日が傾いてくれば外はかなり寒かった。ましてや、今彼がいるような場所ならなおさらだ。

 彼がいる場所――それは、木の上だった。

 彼の家から二百メートルほど行ったところに十字路があり、その中心に大きなイチョウの木が生えている。

 彼の暮らしているパーツナム地区は、金持ちの多いケイトの中でも一番と言われる高級住宅街で、日の光を遮るような背の高い建物を作ってはいけないという決まりがあった。だから、どの家も広大な敷地を贅沢に使っていかにもお屋敷といった感じの平屋造りの家を建てている。それ故に、木の上などに登れば視界を遮るような物がなく、しかもこの辺りは高台になっているから、かなり遠くの景色まで見通せるのだ。

 しかし、何も彼は展望を期待して木に登った訳ではなかった。実は、買い物帰りの母を驚かそうという、彼にしては珍しい悪巧みを考えての行動だったのだ。

 今日、彼は進級試験に合格をした。彼の通っているパーツナム学園は、試験など受けなくとも一定期間が過ぎれば幼稚園から高等部まで自動的に進級出来るシステムになっている。しかし一定期間過ぎなくとも、試験さえ合格すればどんどん上の部に行く事も可能になっているのだ。彼は四年前幼稚園から学園への入学をたった一年で果たし、更にこの度の試験に合格して、平均より四年早い中等部への進級が決定したのだった。

 彼は特別頭が良い訳ではなかったから、試験に合格するのは容易な事ではなかった。それこそ寝る間も惜しみ、必死になって勉強をしたのだ。だからといって、別に勉強が好きな訳でもなかった。高みを目指し、上の学部へ行きたいなどという向上心ではなく、とにかく彼は早く――卒業をしたかっただけなのだ。

 大嫌いなあの場所から早く出ていきたい。思いは、ただそれだけだった。

 しかし、母にとってみれば息子の試験合格は単純に嬉しい事であろうから、彼は早く報告しようと急いで家に帰って来たのだ。ところが、母は買い物に出掛けたらしく不在だった。そこで彼は、試験合格のウキウキした気分も手伝い、母が通るであろうこの十字路で待ち伏せをして、木の上から飛び降りて驚かせ、更に合格を告げて二重に驚かせるという、なんとも子供らしい作戦を思いついた訳だ。

 結局、直ぐにその寒さに辟易して木を降りたくなったのだが、ある事情からそれが出来なくなって困っているのだった。

「――だけど、本当に変わっているわよね〜。うちの子も、ほとんど話した事が無いらしいの。同じクラスなのよ? とっても無口で、笑っているのを見た事がないんだって。やっぱり、ちょっと卑屈になるのかしら。――妾の子だから」

「お母様も、とってもお静かな方よね? ちょっと話しかけるのがためらわれてしまいますわ」

「不気味よねぇ、なんだか暗くて。まぁ、でもさすがに綺麗は綺麗よね。あれで三十二だっていうんだからねぇ」

「あら本当? わたくし絶対年下だと思ってましたわ」

「本当に若いし綺麗よね。あの、紫の大臣のお眼鏡にかなっただけの事はあるわよ」

「そうですわね。マローネ様の……羨ましいですわ〜」

 この二人の女性がやって来てお喋りを始めた為、彼は木から降りられなくなってしまったのだ。話の「たね」は先ほどからずっと、近所に住む変わり者の親子についてだった。

 寒さに身を縮め、弱ったなと思いつつ、彼は仕方なしに街の景色を眺めた。

 北側に目を向ければ、ペット闘技場――赤茶色をしたドーナツ型の観客席が見える。四年前、入園した直後にティムルに連れられて、母と三人で一度だけ訪れた事があった。動物好きの彼にはとても楽しい場所だったが、残念ながら最後の試合が始まる前に母が体調を崩し、ティムルがおぶって慌てて家に帰る事になってしまった。母は、ただ少し熱を出しただけで大事には至らなかったが、結局、彼はその後勉強が忙しくなり、幾度かのティムルの誘いも断り続けていて、いまだに二度目は行けずじまいだった。

 そのペット闘技場から南の方に目を向けると、華やかなりしケイトの象徴とも言える物が街の中心に見える。三十万人を収容出来るという中央広場に据えられた――巨大ステージ。そこでは、日夜問わず様々な催し物が行われていた。歌や踊り、楽器の演奏、演劇、サーカスやマジックのショー。しかし、誰もがあの巨大ステージに立てるわけではない。トキアでも指折り数えられるような有名な踊り子や楽団などだけが、あの場所に立つことを許されるのだ。

 丸い巨大ステージの真ん中には、やはりこれも巨大な箱形の四角いスクリーンがあり、遠くの観客までもが楽しめる造りになっていた。

 どうやら今も、何か催し物を行なっているようで、そのスクリーンがキラキラと光って見える。しかし、さすがに彼のいる場所からは一体誰がスクリーンに映っているのかまでは分からなかった。

 それから更に南には、東から西を突っ切るようにケイト川が流れていて、その川の南側には貧しい者達が暮らすスラム地区があった。

 華やかな街の隅に汚泥のように澱み、川によって切り離されたかに見えるその場所を、彼は睨み付けるようにして見つめた。

「――スラムの出身?」

「そうよ。やだ、知らなかったの?」

 彼はゆっくりと顔を下に向けた。二人の女は、実に楽しそうな顔でお喋りを続けている。

「たまに薄汚い男がうろうろしてるの、知らない? あの人の兄妹なのよ、あれ。一度、役所に突き出されて大事になったんだから」

「な、なにか悪い事でもしたのかしら?」

「なんでも、子供に話しかけてるのを見た人が通報したらしいのよ。そりゃそうよね、私ならあんな汚ならしい男が近所でうろついてるの見たら、子供に話しかけてなくとも通報しちゃうわよ」

「でも奥様、先ほどたまに見かけるっておっしゃったわよね? 嫌だわ……」

「そうなのよ。薄気味悪くって。大体、スラムの人間がこの辺りに住んでる事が問題なのよ」

「ですけど、あの方はねぇ……」

「そうなのよ。大臣の妾じゃ、まさか追い出す訳にいかないでしょう? それにしても上手くやったわよね~。スラムの人間じゃ、逆立ちしたってあんな豪邸に住めないわよ」

「でも、どうやってマローネ様と知り合われたのかしら?」

「確かあの人、マローネ様のお屋敷で掃除婦をやっていたとか――まぁ、あの美貌だもの。上手いこと言い寄ったんでしょうよ」

「言い寄るなんて凄いですわね。わたくしにはとても真似出来ないわ~」

「だけど知ってる? 最近はパッタリとマローネ様の足が遠ざかってるのよ。そもそもあの方は、ハルバルートでのお務めが忙しいらしくて、故郷であるケイトにはあまり戻って来ないじゃない? だけどその少ない帰郷の時でさえ、ほとんどあの人の所には寄らなくなっちゃったんだって……」

「あら、どうなさったのかしら?」

「飽きられたのよ、きっと。いくら綺麗でも三十二じゃあね~。あのお方は、若い子が好きで有名だもの」

「あら、飽きられたなんてお可哀想~」

「それに、ほら、ハルバルートにいる正室が子供を生んだでしょう? もう、妾の子供には興味ないのよ」

「あらあら、本当にお可哀想ですわ~」

 今さら、話す内容に心を乱されはしなかった。ただ、いつまでもお喋りをやめそうに無い女達に、彼は途方にくれながら遠くを見た。すると、肩を並べて通りを歩いてくる母とティムルの姿が見えた。

 ――学園で見かけなかったから忘れていた。そういえば、今日は水曜日だ。

 いつものように彼の家に向かっていたティムルと、買い物に出掛けた母が偶然出会ったのだろう。

 ティムルが何故水曜日の度に家を訪ねて来るのか、その理由をもう彼は知っていた。ティムルは彼の通う学園で、週に一度だけ魔法薬の特別講師をしているのだ

。スラムへの帰り道に、学園近くに住む彼の家に寄っていたという訳だ。――そう、ティムルはスラムの住人なのだ。

 近づいてくるティムルは背筋を伸ばし凛としていて、遠目にもその知性を感じる事が出来た。

 ――とても、スラムの人間には見えない。そして、こちらも――。

 彼はティムルの隣へ視線を移した。

 どこか儚げで、何かに疲れたようには見えるが、三十二歳とは思えない美しい母――。

 数秒後、女達は母とティムルの姿に気付き、逃げるように去っていった。

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