ウォッカ 2
訪問者の少ない彼の家を時折訪れて来るのは、母の兄だという「あの男」と、大好きなティムル。それともう一人。彼の父親だった。
父親を訪問者扱いするのも妙な話だが、家にいるのは多くても月にニ、三日で、時にはふた月も顔を見ない事があるのだ。だから、彼にとって父親とは共に暮らす者ではなく、訪問者でしかなかった。しかも最近は更に訪れて来る回数が減っている。
今回もひと月ぶりにやって来て、なにやら皮袋の中から取り出し、正座をした彼の前に並べていた。それは玩具やぬいぐるみの類などではなく、草や木の実などの植物だった。見慣れたような物もあれば、見た事もない不思議な形をした物もある。一体これらは何なのかと、緊張した面持ちで見つめてから、彼は、いよいよ他人のそれと変わらないように感じられる父親の顔を、こっそり上目遣いに覗き見た。
女性である母と変わらないほど、透明な白い肌。子供の彼が見ても見惚れるような整った顔立ち。ただ、それは整いすぎて、まるで作り物の彫刻のように無機質な印象を見る者に与えた。そして、長いまつげの下に隠された、色の薄い瞳。彼の瞳が父親のものとそっくりだと、母はいつも嬉しそうに言う。だが、彼はこの瞳があまり好きではなかった。感情の読み取れない、何を考えているのか分からない、冷たい灰色の瞳。
突然、その瞳が自らへ向けられて、彼は慌ててうつ向いた。
「何を見ていた?」
低い声で尋ねられ、彼は無言で小さく首を横に振った。握りしめた拳に、じっとりと汗が浮かんでくる。
「………………」
顔を伏せたままでも、分かる。父親が、あの冷たい瞳を自分にじっと向けているのが。
この時間が、いつもたまらなく恐ろしい。
わずかな時間かも知れないが、彼にはとても長く感じるのだ。こうした無言の後、時に父親は大声で怒鳴る。何を言っているのか聞き取れないほどヒステリックにわめきちらし、ともすれば彼を殴る事もある。酷い時には鼻血が出るほど殴られ、ある時などは意識を失い、慌てて母が病院へと担いで行ったという。
それでも大概の場合は、何かを堪えるように口を歪め、神経質にこめかみを痙攣させただけで終わる。あるいは興奮したとしても、母が頭を地面にこすり付け、お願いだからやめてくれと懇願すれば、そこで終わる事が多かった。
だが、彼には意識を失うほどに殴られた時の恐怖が、忘れられない。怒りをかった理由は、いまだに分からなかった。二度と同じ過ちはおかすまいと思うのだが、理由が分からないからそれも難しい。父親の逆鱗に触れた事は確かだが、何故それほどに怒るのかが、彼にはいつも良く分からないのだ。確か、あの時は名前を呼ばれたのだった。
――ウォッカ。
そう呼ばれ、はいと返事をした。
――ウォッカ。
再び呼ばれ、もう一度はいと返事をして、父親は黙りこんだ。
襟首を掴まれ、拳で数回殴られると彼の意識は直ぐにもうろうとしてきた。――死んでしまうから、お願いだからやめてくれ、と叫ぶ母の声。そして、あの冷たい父親の声。
――これで死ぬようなら、私の息子である資格がない。だから、死んでもかまわないのだよ。
それ以来、返事をする事すら恐ろしい。
だが、返事をして怒られたのはそれきりで、逆に返事をしない方が怒られる事が多かった。だから、勿論返事はするが、父親といると、いつ、どこで怒りをかうか分からないという恐怖が、彼には付きまとうようになったのだ。
「これがヤコイ草。これは軽い毒しかなく、煎じて飲ませても人を痺れさせる程度で、死に至らしめる事は出来ない」
おもむろに父親が、並べた植物の説明を始めた。指差しているのは一番左の赤い葉だ。彼は慌てて、食い入るようにそれを見つめる。そして父親は隣の植物へと、指先を動かした。
「これがルイファコスの実。これを火で焚けば、その煙を吸い込んだ者を数秒で眠りつかせる事が出来る」
彼は頭の中で、父親の言葉を幾度も繰り返し、記憶に刷り込む。父親の指先は、更に隣へと移る。その辺りに生えているような、平凡な草だ。針のように細長くて、少し固そうに見える。良く見れば、全体的には緑色をしているのに、葉先の方だけが、ほんのりと赤い。
「そして、これがゾゾ草。ここに並べた中でも圧倒的に強い毒性を持っている。葉を舐めただけでも、お前くらいなら一瞬で死に至らしめるほどの毒だ」
そうやって次々と、父親は並べられた十種類の植物の説明を終え、再びその中のひとつを指差した。
「さて。ウォッカ、これは何という葉だ?」
問いかけられ、彼はじっと父親が指差した葉を見つめた。全身が、極度の緊張で強ばっている。一度頭の中でその名を唱え、間違い無いことを確かめた。
「……ルイファコス」
彼の答えに、父親は表情も変えず、次を指差す。
「これは?」
緊張をほぐす間もなく、次から次へと名を問われ、十すべて答えると、ようやく父親は満足そうな顔になった。
「全て正解だ。さすがは私の息子だ」
「ふふ。物覚えの良い子でしょう? この間も幼稚園の先生にほめられたのよ」
両手でトレーを持った母が、タイミング良く部屋に入って来た。トレーの上に載せられた3つのマグカップからは、それぞれに湯気が出ている。
「幼稚園の先生?」
母からマグカップを受け取りながら、父親が不思議そうに首をひねる。母は、そうそうと嬉しそうに笑って、
「この間、幼稚園の見学に行ってきたの。なかなか素敵な所だったのよ。――ほら、この子とっても動物が好きじゃない? そこの幼稚園では――」
「場所はどこだ」
父親が、冷たい声で話をさえぎった。少女のようにはしゃいでいた母は、一気に顔を曇らせる。
「……オーラド記念館のそば」
母はわずかにうつ向き、上目遣いになりながら答えた。この答えに対して、相手が愉快な反応を示さないと分かっているのだ。
「何故、そんな場所まで行く必要がある?」
案の定、父親は不愉快そうに眉を寄せた。母は慌てて顔を上げる。
「あ、あの、確かに少し遠いかも知れないけど、本当に良い幼稚園で――」
「もっと良い所が直ぐそばにあるじゃないか」
母は再び上目遣いになった。
「……パーツナム幼稚園?」
「そう。素晴らしい幼稚園だし、私もあそこの出身だ。あそこならパーツナム学園へエスカレーター式に上がる事が出来るし、将来もっと上を目指すのにも有利だ」
「もっと上って?」
「ケイト大学とか」
母は苦笑いを浮かべた。
「ケイト大学なんて……そんなすごい所に行かなくても」
父親は厳しい顔付きで、首を横に振る。
「すごい所などではない。かりにも私の息子だぞ? 紫の大臣、マローネの子だ。生まれながらに、すでに素晴らしい能力が備わっているのだよ」
「……そうね」
「それなりの人間の中にいれば、おのずと能力も上がって行く。だが、くだらない連中の中にいれば、どんな高貴な血も腐る事がある。――オーラド記念館の傍の幼稚園だと? そんなものは聞いた事もない。おそらく貧乏人どもの通う、掃き溜めのような場所だろう」
「…………」
母はもう何も言えずにうつ向いてしまった。父親は、今度は彼の方へ顔を向けた。
「いいか。くだらない連中と交わるなよ。負け犬になるぞ」
口癖だった。事あるごとに父親はこの言葉を口にする。――負け犬になるな。
「そんな息子、私はいらないからな」
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それは、ひどく無機質な建物だった。外から見た時もそう感じたが、中に入ればその印象はなお強くなった。
統一された白い壁も天井も、拭き清められてチリひとつ落ちていない石の床も、見る者によっては清潔感があると感じられるかも知れないが、彼には先ほどのようにしか感じられないのだった。そして、今は朝の十時をまわったばかりで、この建物の中にはたくさんの子供がいるはずなのに、笑い声ひとつ聞こえてはこない。その事は、彼だけではなく、彼の母親をも不安にさせた。
「ここ、幼稚園なの?」
彼は、不思議に思って母にたずねた。何故なら、あまりにも以前訪れた「幼稚園」という物と、違ったからだ。
「……そうよ」
見上げた母は、疲れたようなため息をひとつ吐いた。
「ウォッカ。あなたは明日から、ここに通うのよ」
白い壁の中に、同じように白く無機質な父親の顔が浮かび上がる。その灰色の瞳がギョロリとこちらを見て、彼は思わず、いやだという言葉を飲み込んだのだった。