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ウォッカ 1

 白い壁が長く続いていた。それはもう、本当に長くて、幼い彼には永遠に続くかのように感じられた。買い物帰りに、母は、よくこの道を通る。本当は、二本隣を平行して走っている広い表通りの方が彼は好きだった。色々なお店があって、人もたくさん歩いていて――その人々が連れている、様々な種類のペットを見るのが、彼はとても好きだった。

 僕、あっちの道を行きたい。

 そう、彼は言った事がある。母は困ったように笑って、表通りを歩いてくれた。しかし、次の時はまた、このもの寂しい裏通りを行く。幾度かそれを繰り返して、母があの表通りを嫌っている事に、彼は気が付いた。それで、それ以来あちらの道を行きたいと言うのはやめた。

 静かな裏通りはあまりにも退屈で、冷たい母の手を握りながら、この白い壁が途切れるまで、数を数えてみようと彼は思いついた。

(一……ニ……三……)

「ウォッカ、お父さん今日は来るかな?」

 母が問いかけてきた言葉に、彼の思考は止まった。振り仰いだ母は顔を前に向けたままで、先ほどの言葉はまるで話しかけたというよりは、ただの独り言だったのかのようだ。だが、彼は母が次の言葉を期待している事を知っている。

「……来るといいね」

 彼が気持ちとは逆の言葉を口にすると、母は嬉しそうに、笑った。


************


「帰って下さい!」

 忍ぶような、それでいて頑なな母の声が戸口の方から聞こえてきた。

 彼は戸口から数えて二つ目の部屋で、一人積み木をして遊んでいた。戸口から幾つ目の部屋か数えねばならないほど、彼の家は広い。彼と母しか暮らしていないというのに、こう広いと寒々しい感じさえする。彼は他人の家というものを訪れた事がないので、家とは、まぁこういうものなのだろうと思っていたのだが。

「本当に……お願いだから、もう帰って!」

 再び母の声が聞こえて、彼はすっくと立ち上がった。何となく足音を忍ばせ、ゆっくりと部屋の入り口のドアに近づく。こもったような小さな声が聞こえてきたが、まだ良く聞こえない。彼がほんの少しドアを開くと、今度はかなりはっきりと男の話し声が聞こえてきた。

「何で、そう冷たい人間になっちまったんだ。あぁ、やだね〜。金が人を変えちまうのかね〜」

 ――あいつだ……。

 彼は幼い顔で、精一杯のしかめっ面を作った。

 時折この家に訪れてくる、汚ならしい服を着た男。笑う時に、黄色い歯をむき出して、酒臭い息をはきちらかすのだ。何度か顔を合わせた事もあるが、母はあいつがくると、いつも彼に家の奥に引っ込んでいるようにと指示をする。

「人に見られたら困るから、お願い。お願いだから帰って!」

「なんだなんだ。スラムに暮らすような兄貴がいちゃ、恥ずかしいってか! お前だって、以前は俺と同じようにスラムで暮らしていたくせに」

「兄さん、本当に困るから……」

「じゃあ、とっとと金をよこせよ」

 来る度に、あいつは必ずこのセリフを口にする。その後の母のセリフも、だいたいいつも決まっていた。

「この間、あんなにたくさん渡したじゃないの。ウチだってそんなにないのよ」

「何言ってやがる! 大臣様のお妾様が、そんなしみったれた事言ってんじゃねぇよ! 体張って手に入れた地位だろうが。もっと、奴からまきあげてこいよ」

「やめてやめて! そんな事言うなら、もう二度と来ないで!」

「なんだと〜? 俺はお前の兄貴だぞ! 本当なら、この家に一緒に暮らす権利だってあるんだ。……そうだ。そうするか? 今日から俺もこの家で――」

「分かったわ! もう、分かったから、ちょっと待ってて」

 廊下を走る母の足音が近づいて来る。彼は慌ててドアに張り付いていた体を引き剥がし、数歩後ろに下がった。足音は彼の部屋の前を通り過ぎ、奥へと消えて行った。

「…………」

 息を潜めて待っていると、ほどなくして母が廊下を小走りに戻ってくる足音が聞こえてきた。通り過ぎたら再びドアに張り付こうと思って彼が耳を澄ませていると、部屋の前で足音がピタリと止まってしまった。数秒の後、ドアがぱたりと閉められて、母の足音は遠ざかって行った。


************


 優しい目をした男だった。少し痩せすぎで頬がこけているが、それほど貧相な感じはしない。それは、骨格がしっかりしていて肩幅が広いことや、背筋も真っ直ぐに伸びて凛とした印象を抱くからかも知れない。あるいは、男の低く落ち着きのある声音のせいか。その声音にも、なんとも優しい響きが含まれていた。

 彼は、この男がとても好きだった。

 ティムルと名乗るこの男は、毎週火曜日に家にやってくる。彼は火曜日が来るのが待ち遠しくてならなかった。何も、ティムルがいつも持ってくる玩具やぬいぐるみが楽しみだっただけではない。ただ、彼はティムルに会うのが楽しみだったのだ。

「ペット闘技場には、もう行ったかウォッカ?」

 ティムルは戸口に立ち、彼の頭を優しく撫でながらたずねた。

 この男は、一度も家の中へと入って来た事がない。母とは昔からの知り合いのようでとても親しげなのに、母が中へ入るように勧めても、「遠慮する」と一言答えて、決して中には入らないのだ。凍えるような冬の日でも、幼い彼などは震えてしまうような寒い戸口で、いつもしゃんと背筋を真っ直ぐにして立っている。

 彼が、まだペット闘技場には行ったことが無いと答えると、ティムルはにこりと笑った。笑うと目尻にしわが刻まれる。

「では、今度連れて行ってやろう。男は、ああいう闘いなどというものを見ると、たまらなく熱くなるものだ」

 すると、彼の後ろで二人の会話を聞いていた母が、思わずという感じでぷっと吹き出した。

「男なんて……ウォッカはまだ三つよ?」

 ティムルは腕を組み、首をひねった。

「う〜ん、そうだな……。――よし。幼稚園に通うようになったら連れて行ってやろう。入園すれば、立派な一人前の男だからな」

「ねぇ、入園と言えば、この間見てきたのよ」

 母が言って、ティムルはああという顔になった。

「オーラド通りの幼稚園か。中々良いところだったろう?」

「ええ、とっても。園長先生も、他の先生方もみんな優しそうで」

「校庭がとても広かっただろう?」

「そうね。建物は少し小さかったけど、校庭は本当に広かったわ。たくさん動物がいて……まるで牧場みたいだった。ウォッカは動物が大好きだから、とっても楽しそうにしてて――ねぇ、ウォッカ?」

 二人が話しているのが、つい先日母と訪れた場所の事なのだと分かり、彼は勢い良く首を縦に振った。

 家からバスに揺られて二十分ほど行った場所に、その幼稚園はあった。広い校庭には作が設けられ、牛や馬、羊やヤギ、またはそれらに似たような珍しいものなど、様々な動物が放し飼いにされている。校舎は彼の家と同じくらいの大きさで、古びた木造建てに薄い黄色のペンキが塗られていて、彼は大好きな絵本に出てくるクマの家にそっくりだと思った。

 母に連れられて校舎の中にはいると、同じ年頃の子供が大勢いて、それらが目をくりくりさせて興味深そうに見つめてきたので、彼はすっかり戸惑ってしまった。しかし、でっぷりとした白髪の老人が両手を広げ、

「こんにちわ! 私がここの園長だよ。よろしくね。さぁ、みんなも新しいお友達に挨拶だ!」と言うと、

「こんにちわーーー!」

 部屋が揺れるほどの大きなみんなの「挨拶」に、彼の緊張はいっぺんでほどけて、にっこりと笑って挨拶を返すことが出来たのだ。

「どうだろう、試しに一日入園してみないかい?」

 園長のこの提案に、彼は再び戸惑った顔になった。

 彼は、あまり同じ年頃の子供と触れ合った事がない。近所にも子供が数人いるが、共に遊んだ事は一度もないのだ。そもそも、一人で外に出る事を母が許さないし、その母自身があまり外には出なかった。遊ぶ時はいつも、一人で積み木や絵本を見るか、母とままごとをしたり、家の中で隠れんぼをするくらいだった。

「いいじゃないのウォッカ。一緒にやらせてもらいなさいよ」

 そうして母にも勧められ、彼の「お試し入園」が決まった。

 彼が、思い出すだけでもドキドキするようなその日の出来事――みんなで馬や羊に餌をやった事や、歌をたくさん歌った事など――を、実に楽しそうに話すと、ティムルは声を出して笑った。

「これはもう、あそこに通う事で決定だな」

「ふふ……そうね。この子は本当に楽しそうだった。あなたにあの幼稚園を紹介してもらって良かったわ」

「いや、お役に立てて良かったよ。あの園長とは昔からの知り合いでね。彼のところなら、安心して君に紹介出来ると思って」

「ありがとうティムル。やっぱりあなたは頼りになるわ。あなたがいてくれて、本当に良かった……」

 母の言葉に、ティムルは照れたように薄く笑って、うつ向いた。

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