EP 3
夜の路上教習
深夜。タローポリスは再び濃霧に包まれていた。
人通りの絶えた大通りを、ガルーダ国の伯爵ゼフィルスは、獲物を求めて徘徊していた。
「……つまらんな。どいつもこいつも、家に閉じこもって震えているのか」
昨日の事件のせいで、夜の街からは人の気配が消えていた。
ゼフィルスは舌打ちをし、腰の魔刀『吸血鳥』の柄を撫でる。刀が「血が足りない」と不満げに脈打っているのが伝わってくる。
「外交特権という鎧がある限り、私は無敵だ。……警察(SWAT)の連中の、あの悔しそうな顔ときたら!」
昼間の出来事を思い出し、ゼフィルスはクツクツと笑った。
何をしても許される。この国は私にとって狩り場に過ぎない。
その時。
霧の向こうから、調子外れな鼻歌が聞こえてきた。
「♪酒は飲むべし〜飲まれるべからず〜……ヒック」
千鳥足で歩いてくる男が一人。
時代錯誤な着流しを着て、一升瓶(中身は水)をぶら下げている。
無防備極まりない、格好の獲物だ。
「……フン。死に急ぐ馬鹿がいたか」
ゼフィルスは残忍な笑みを浮かべ、音もなく背後に忍び寄った。
魔刀を抜く。赤い刀身が闇に走る。
「その血、我が糧となれ!」
ヒュオッ!
必殺の袈裟斬り。商人を両断したのと同じ、不可視の神速剣。
だが。
「……おっと」
男が、まるで石ころに躓いたかのように、ふらりと上半身を沈めた。
刃は男の頭上数センチの虚空を切り裂き、空振りに終わる。
「な……!?」
ゼフィルスが目を見開く。
偶然か? いや、今のタイミングで?
「危ねぇなぁ、おい。……刃物遊びは、お家でやりな」
男――シンさん(坂上)が、一升瓶を揺らしながら振り返った。
その目は、酔っ払いのように虚ろだが、奥底には剣呑な光が宿っている。
「き、貴様……何者だ!」
「俺か? 俺はただの……通りすがりの遊び人よ」
シンさんは懐から扇子を取り出し、パチリと開いた。
「遊び人だと? 下賤な猿が……切り刻んでやる!」
ゼフィルスが激昂し、連続攻撃を繰り出す。
ガルーダ流剣術『千羽斬り』。目にも止まらぬ刺突と斬撃の嵐。
だが、シンさんはその場から一歩も動かない。
カッ、キン、パシッ。
扇子が舞う。
切っ先を弾き、刃の側面を叩き、手首を払う。
ただの紙と竹でできた扇子が、魔刀の軌道をすべて逸らしていく。
「馬鹿な……!? なぜ当たらない!」
「太刀筋が正直すぎるんだよ。……教科書通りのお稽古剣術だな」
シンさんが呆れたように溜息をつく。
「それに、腰が入ってねぇ。……こうやるんだよ」
瞬間。
シンさんの気配が消えた。
気づいた時には、ゼフィルスの懐に潜り込んでいた。
「――喝ッ!!」
ドゴォッ!!
扇子を閉じた先端が、ゼフィルスの鳩尾に深々と突き刺さる。
北辰一刀流・柄当て。
「グガッ……!?」
ゼフィルスの肺から空気が強制排出される。
さらに、シンさんは返す手で、ゼフィルスの頬を「パァン!」と扇子で張り飛ばした。
「痛っ……!? き、貴様、私は外交官だぞ! 貴族だぞ!」
「知らねぇな。俺はただの酔っ払いだ。……酔っ払いの喧嘩に、身分もクソもあるかよ」
シンさんはニヤリと笑い、へたり込んだゼフィルスを見下ろした。
「悔しかったら、警察にでも言いつけな。『遊び人の酔っ払いに喧嘩で負けました』ってな。……恥ずかしくて言えねぇだろうがな」
「う、ううう……!」
屈辱。
外交特権も、魔刀の力も、この男の前では何の意味もなさない。
ただの「喧嘩」として処理されれば、公権力は介入できない。
「覚えていろ……! この顔、忘れないぞ……!」
ゼフィルスは背中の翼を広げ、無様に空へ逃げ出した。
捨て台詞だけが、虚しく夜空に響く。
「……やれやれ」
シンさんは扇子を懐にしまい、襟元を直した。
「少しは懲りりゃいいが……ま、逆効果だろうな」
彼は夜霧の向こうへ消えていく鳥男を見送り、ニヤリと笑った。
種は撒いた。
あとは、あのプライドの高い鳥が、どう踊るかだ。




