第二章 コーヒーと仁王の眼
路地裏の雨宿り
タローポリスの雨は、少しばかり鉄とマナ(魔素)の匂いがする。
灰色の雲が垂れ込める休日。
T-SWAT隊長、鮫島勇護は、愛用のオイルライターをカチリと鳴らした。
濡れたアスファルトに紫煙を吐き出しながら、彼はコートの襟を立てる。
「……ついてねぇな」
彼が目指していたのは、路地裏にある純喫茶『赤煉瓦』。
太郎のスキルで再現された昭和レトロなその店は、泥のようなブラックコーヒーと、静寂を提供してくれる数少ない聖域だ。
だが今日に限って、店内はカップルや家族連れで満席だった。
ガラス越しに見える「幸せな光景」は、血と硝煙に塗れた男には眩しすぎる。
「……他を当たるか」
鮫島は舌打ちをし、逃げるように更に奥の路地へと足を踏み入れた。
雨脚が強くなってきた。
彼は、シャッターの閉まった古い道具屋の軒先を見つけ、そこで雨宿りをすることにした。
だが、先客がいた。
「…………」
一人の女だった。
年齢は二十歳前後か。濡れた亜麻色の髪が頬に張り付いている。
服装は質素だが、育ちの良さを感じさせる清楚な顔立ち。しかし、その顔色は蝋人形のように蒼白だった。
彼女は、何かを隠すように、胸に抱いた茶色い紙袋を強く握りしめている。
まるで、捨てられた子犬だ。
鮫島はそう思った。
目が合った。
女の身体がビクリと跳ねる。彼女の瞳には、明らかな「怯え」の色があった。
「……場所、取るぞ」
鮫島は努めて無愛想に言い、女から距離を置いて壁に背を預けた。
別にナンパをする気も、職務質問をする気もない。今日は非番だ。
彼は再びタバコをくわえ、深く吸い込んだ。
――グゥ。
雨音に混じって、小さな音が聞こえた。
鮫島が横目で見る。女が顔を真っ赤にしてうつむいている。
抱えている紙袋は大事そうに守っているが、自分の腹を満たす余裕はないらしい。
(……面倒くせぇ)
鮫島は心の中で悪態をつきながら、コートのポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れたのは、硬い包装紙の感触。
相棒(坂上)から大量に押し付けられた、あの飴だ。
「……食うか」
鮫島は無造作に、黄金色の包みを差し出した。
女が驚いたように顔を上げる。
「え……?」
「毒じゃねぇよ。血糖値が上がる」
女は躊躇っていたが、空腹には勝てなかったらしい。震える手でそれを受け取り、包みを開けて口に含んだ。
「……あ」
「どうだ」
「……苦いです。コーヒーの、味」
「甘ったるいだけの人生よりは、マシだろ」
鮫島がニヒルに笑うと、女は不思議そうな顔をし、それから微かに、本当に微かに笑った。
雨の冷たさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとうございます。あの、私は……」
女が何かを言いかけた、その時だ。
ブーッ、ブーッ。
鮫島の懐で、魔導スマホ(業務端末)が不粋な振動音を立てた。
画面には『着流しクソ親父(坂上)』の文字。
「……チッ。悪い、少し待ってろ」
鮫島が電話に出るために身体を少し逸らした、その一瞬の隙だった。
女はハッとした表情で懐中時計を見ると、脱兎のごとく駆け出したのだ。
「あ、おい!」
呼び止める間もなかった。
彼女は雨の中へ飛び出し、路地の角を曲がって消えてしまった。
まるで、何かに追われているかのように。
「……なんだってんだ、全く」
鮫島はため息をつき、通話を切った(坂上には後で折り返せばいい)。
ふと、彼女が立っていた足元に、白い布が落ちているのに気づいた。
「ハンカチか?」
レースの刺繍が施された、上品なハンカチだ。
鮫島はそれを拾い上げ、何気なく鼻を近づけた。
女の残り香――甘い花の香りがする。
だが。
その奥に、もう一つ。
警察官の嗅覚だけが捉える、鼻を刺すような微細な刺激臭が混じっていた。
「……なんだ、この臭い」
安物の香水じゃない。
化学薬品と、精製された魔草が混ざり合った独特の臭気。
それは、ロス市警時代に押収した、違法ドラッグの現場の臭いに似ていた。
「……あいつ、何を運んでやがった」
鮫島は目を細め、雨に煙る路地の奥を睨みつけた。
降り止まぬ雨が、タローポリスに潜む新たな闇を告げているようだった。
手の中のハンカチを、彼は無意識に強く握りしめていた。




