EP 1
カツカレーと海軍魂
海上自衛隊呉基地、隊員食堂。
漂うスパイスの香りが、金曜日の昼を告げていた。
坂上真一は、スプーンでカツを断ち割ると、ルーをたっぷりと絡めて口へと運んだ。
サクサクとした衣の歯ごたえと、少し辛めの欧風カレーのコクが、疲弊した脳に染み渡る。
「……美味いな」
独りごちて、紙ナプキンで口元を拭う。
年齢は五十を迎えた。白髪が混じり始めた短髪に、制服の肩には一等海佐の階級章。
イージス艦『こんごう』の艦長を経て、現在は統合幕僚監部・防衛計画部に出向中。次世代護衛艦の設計思想を巡り、財務省や装備庁との折衝に追われる日々だ。
祖父は、還らなかった特攻隊員だった。
その遺影に恥じぬよう、ただ国の盾となるべく生きてきた。
若き日の過ち――背中に彫り込んだ『阿吽の仁王』の刺青は、今も軍服の下で、己への戒めとして熱を帯びている。
「さて、と……」
完食し、冷たい水をあおる。
午後の会議まであと三十分。仮眠室で少し横になろう。
坂上は食堂を後にし、慣れ親しんだパイプベッドに身を沈めた。
意識が、深い海底へと沈んでいくように遠のいていく。
それが、坂上真一が「日本」で見た、最後の光景だった。
***
ガヤガヤとした喧騒と、鼻をつく脂の匂いで目が覚めた。
消毒液と鉄の匂いがする基地の空気ではない。
坂上は目を開けた。
天井が高い。蛍光灯ではなく、木枠の窓から日差しが差し込んでいる。
身体を起こす。自分が寝ていたのはパイプベッドではなく、硬い木のベンチだった。
「……状況開始、か」
坂上は慌てなかった。長年の艦上勤務で培った胆力が、混乱を強制的に排除する。
周囲を見渡す。
石造りの壁。掲示板に貼られた羊皮紙。
行き交う人々は、鎧を着た男、杖を持った女、そして――犬の耳を生やした人間。
「獣人……それに魔法使い、か。部下の読んでいたWeb小説にあったな。『異世界転移』というやつか」
広島弁のイントネーションが混じる低い声で呟き、坂上は己の身体を確認する。
服装は、なぜか非番の日によく着ている着流し……ではなく、グレーのスウェット上下だった。足元はサンダル。
完全に「近所のコンビニに行くおじさん」の格好だ。だが、背中の感覚――刺青の熱と、長年鍛えた剣の腕(北辰一刀流)の感覚は残っている。
「まずは情報収集、そして兵站の確保だ」
腹が減っては戦はできぬ。幸い、日本語が通じる言葉で会話が聞こえてくる。
坂上は目の前のカウンター――『人材ギルド・登録窓口』と書かれた看板の下へ歩み寄った。
「登録かい? おっさん」
窓口に座っていたのは、緑色の肌をしたゴブリン……いや、ドワーフか。
無愛想に羊皮紙を突き出される。
「名前、年齢、特技、前職を書きな。嘘は書くなよ、『鑑定』のスキルでバレるからな」
坂上は頷き、備え付けの羽ペンを取った。
嘘をつくつもりはない。軍人にとって、虚偽報告は万死に値する。
彼は達筆な文字で、淡々と事実を記入した。
氏名:坂上 真一
年齢:50歳
特技:艦隊指揮、戦略立案、北辰一刀流
前職:海上自衛隊 一等海佐(イージス艦艦長、統合幕僚監部防衛計画部)
「……これでいいか」
「はいよ。……ん? カイジョウジエイタイ? イージス? なんだこりゃ」
ドワーフが首を傾げていると、横からスッと手が伸び、羊皮紙を奪い取った。
「どれどれ〜? おっちゃん、いいガタイしてんね」
現れたのは、ジャージ姿の若い男だった。
首にはタオルをかけ、片手には食いかけのフライドチキン。
どこにでもいる日本の若者に見えるが、その場の空気が一変したのを坂上は感じ取った。周囲の視線が、畏怖と敬愛を含んでいる。
男は羊皮紙に目を落とし――次の瞬間、食っていたチキンを取り落とした。
「……は?」
男が目を見開き、坂上を凝視する。
「あ、アンタ……『イージス艦長』って書いた? あの、イージスシステム搭載の?」
「いかにも。こんごう型護衛艦の艦長を務めていた」
「マジかよ!! 本物だ!! 本物の『海自』だ!!」
男が興奮して坂上の肩を掴む。
坂上は眉一つ動かさず、静かに問うた。
「貴殿は?」
「俺? 俺は佐藤太郎。一応、ここの王様やってる」
王様。
坂上は瞬時に思考を回転させた。このジャージの男が、この国の最高権力者。
ならば、敬意を払うべきだ。彼はスッと背筋を伸ばし、見事な敬礼を送った。
「失礼しました。日本国海上自衛隊、一等海佐、坂上真一です。現在は漂流中の身、以後お見知り置きを」
「うわっ、本物の敬礼だ! カッケー!!」
太郎は子供のように目を輝かせたが、すぐに真顔に戻り、ニヤリと笑った。
「坂上さん、仕事探してるんだよね? 俺、アンタみたいな『硬派で頼れる日本人』を待ってたんだよ」
「海軍の創設ですか? 私の知識がお役に立つなら」
「いや、海軍も作ってほしいけど……今はもっと優先順位が高い場所がある」
太郎は懐から、一冊の分厚い本を取り出した。
表紙には金文字で『六法全書』とある。
さらに、木製の重厚な小槌を坂上に手渡した。
「は?」
「坂上さん。アンタ、今日からウチの国の『最高裁判官』やってくんない?」
坂上の表情が、初めて崩れた。
「……裁判官? 私は軍人ですが」
「軍人だからいいんだよ! この国、今急成長中でさ。悪徳商人とか詐欺師とか、法を舐めた連中が蔓延ってんの。ナヨナヨした文官じゃ舐められるんだわ」
太郎は坂上の背中をバシッと叩いた。
「『背中に信念背負った男』にしか裁けない悪がある。……違うか?」
ドキリとした。
この男、まさか背中の『仁王』が見えているのか?
いや、比喩だろう。だが、その瞳は本気だった。祖父が生前語っていた、死地に向かう男の目と同じ、覚悟の色が見えた。
坂上は手の中の小槌を握りしめた。
ずしりと重い。それは、人の命運を決める重さだ。
軍人として国を守るのも、法で秩序を守るのも、根底にある『正義』は同じか。
「……よろしい」
坂上は不敵に笑い、小槌をポケットにねじ込んだ。
「軍艦の舵も、法廷の木槌も、握り方は心得ております。その任、お引き受けしましょう」
「よっしゃ! 決まりだ! じゃあ早速、溜まりに溜まった書類の山、よろしくね!」
「……え?」
太郎が指差した先には、天井まで積み上がった未決裁の訴訟書類のタワーがあった。
「……状況、極めて困難。だが、やるしかあるまい」
元イージス艦長、坂上真一(50歳)。
異世界での第二の人生は、潮風ではなく、書類の山と悪党の匂いと共に幕を開けた。




