ヤアタガラス
刑事事件としては不起訴。だが民事では、三浦義明は事実上の敗者となった。
途中で裁判官が交代し、裁判の流れは一転した。論点はずれ、争点は拡散し、判決は形式だけをなぞるものになった。実はこれも裏から司法に手をまわしていた。
判決が出た翌朝、新聞もテレビも一斉に彼を叩いた。
「結局クロだったんだろう」
「刑事は不起訴でも、民事は負けた」
そんな言葉が、見えない刃となって三浦を切り刻んだ。
勤務先の新聞社は彼を守らなかった。
遠回しな退職勧告。居場所は消えた。
それでも三浦は、細々と情報発信を続けていた。
わずかな支持者に支えられ、どうにか食いつなぐ日々。
(……昔より、怒りっぽくなったな)
自分でもわかっていた。
事件と裁判が残した後遺症は、想像以上に深かった。
裁判のことなど忘れ、本来の仕事をしたかった。
だが――。
結審の数日後、親友である楢崎晋一郎・元総理大臣が暗殺された。
レッドバレットの情報を闇を知ったからではないのか。
「俺のせいじゃないのか……」
警察の発表は単純だった。
犯人は若い元自衛官。家族を破壊された宗教団体への私怨。総理がその団体の講演に出たため、狙った――。
だが、あまりにも都合がよすぎた。
民自党が、共産主義への対抗勢力としてその宗教と関係を持っていた事実。
そこに、すべてを押し込めるような説明。
三浦は、学生時代にその宗教団体に出入りしていたことを思い出した。
(まあ……当時若かった三浦は、かわいい女学生の信徒を追いかけていたこともあったのだが。)
だが、信徒との宗教論争は本気だった。
議論を重ね、知識を磨き、弁論を鍛えた。
その教義の一部が、エノク書と奇妙に似ていたことも覚えている。
――堕天使。
――禁じられた交わり。
――知識の授与と堕落。
「……レッドバレットは、楢崎を、教団ごと消すつもりだったのか」
その考えに至った瞬間、背筋が冷えた。レッドバレットにとっては教団などどうでもよかった。だがその中にエノクの秘儀が利用されていることはまずかった。
三浦は事件を独自に調べ続けた。
だが、警察と検察の情報の壁は厚かった。
司法解剖の結果と、現場医師の報告は食い違っている。
弾道と破損状況の説明も一致しない。
それでも、真犯人は現れない。
裁判は引き延ばされ、唐突に裁判は数年の実刑で結審した。
(この国の司法は……どこか壊れている)
隠蔽。
それ以外に説明がつかなかった。
やがて政治も、奇妙な方向へ動き出した。
国会では性をめぐるマイノリティ法案が急ぎ足で可決され、社会は混乱し始める。
新聞の片隅に載る、ちぐはぐな事件記事。
三浦には、すべてが一本の線でつながっているように思えた。
そんなとき、ホピの長老の言葉がふと蘇った。
「目に見えるものだけを信じるな」
三浦は、日本の“地下水脈”を調べ始めた。
だがネットに溢れるのは、真偽不明の名ばかりの組織と人物。
(オカルトと、何が違う……)
明治維新にも、偽書と自称霊能者が溢れていた。
副島種臣、本田親徳、吉田茂――。
政治と古神道の接点は感じられる。
だが、それが今の戦いにどう役立つのかは見えなかった。
(俺は……何も掴めないまま、ここまで来た)
祖父の言葉が胸に刺さる。
「そのうち、わかる」
そして思い出した。
裁判中、「ヤタガラス」を名乗る人物が、唯一支援してくれたことを。
だがサイトは閉鎖され、連絡は途絶えていた。
一方、璃々は世界を飛び回っていた。
性被害を語り、思想を語り、メディアは彼女を英雄に仕立て上げた。
「ジャンヌ・ダルク症候群だな……」
セックスを紅茶を飲むことに例えた同意論。
急進的な思想。写真とモデル張りの容姿が、言葉以上に人を惹きつける。
背後でメディアを操る男――ハンス。
レッドバレットにとって、メディア操作は最優先事項だった。
三浦は知っていた。
この国の権力が、すでに腐っていることを。
そして――彼は、底まで落ちていた。
新宿。
大久保公園の夜。
「いくら? ホ別二万?」
男たちの声を聞ききながら、三浦は歩き続けた。
そのとき。
「……あの」
一人の女性が声をかけた。
三浦は援助交際の女性が声をかけられたと思った。
「俺、金ないよ」
「違います」
彼女は近づき、低い声で囁いた。
「三浦義明さんですね」
「……誰?」
「目を覚ましてください。あなたには、まだ役目があります」
導かれるまま、車に乗る。
夜の高速を抜け、熊野へ――。
高速の流れに乗ると、車内は不自然なほど静かだった。
夜の街灯がフロントガラスを滑り、三浦の顔に白い線を走らせては消える。
助手席の女は、ハンドルを両手で軽く包み、視線を前に固定していた。速度は出ているのに、乱暴さがない。むしろ神経が行き届きすぎている。
三浦はシートに沈みながら、探るように言った。
「……熊野って、あの熊野ですか」
「はい。熊野です」
返事は短い。だが声は落ち着いている。
三浦は苦笑した。
「遠いな。今から向かう距離じゃない」
「急ぐ必要があります」
「急ぐ理由は?」
「……話せる範囲でお話しします」
彼女は少しだけ息を吸った。言葉を選ぶ癖があるらしい。
三浦は、あえて軽い口調を作った。
「俺のこと……誰に聞いた」
「聞いたのではありません」
「じゃあ何だ。盗聴か?監視か?」
「違います」
彼女は速度を落とさず、ただ言った。
「“知らせ”です」
「……知らせ?」
「笑いますよね」
「いや、笑えない。今の俺には冗談が通じない」
彼女は口元をほんの少しだけ緩めた。
「烏丸美弥子と申します」
「烏丸……」
「熊野の神社におります。いわゆる、巫女です」
三浦は反射的に、疑う目になった。
「巫女が、夜中に新宿の路上で俺に声をかける? ……常識的じゃない」
「常識から外れたことが起きているからです」
言い切る声に迷いがない。
三浦は、喉の奥で笑い損ねた。
「俺みたいな人間に“役目”って。無職のフリーターですよ」
「“無職”は今の状態です。あなたの本質ではない」
「本質ね……。じゃあ聞くけど、俺の本質って何」
「プライドの高い、諦めきれないジャーナリストです」
三浦は口をつぐんだ。
図星を刺された感じがした。
彼は窓の外を見る。夜の高速道路。追い越していく車。遠くで点滅する標識。
どこへ連れていかれるのか、まだ見えない。だが――。
「……俺のこと、世間じゃ“強姦魔”って言うんだぞ。君もネット見たろ」
「見ました」
「それでも?」
「そう見えるように作られた、と思っています」
三浦は思わず目を細めた。
「作られた?」
「あなたが追っていたものは、そういうことをします」
しばらく、ワイパーの音だけが続いた。
三浦が言う。
「……君は、俺を信じてるのか」
「“聖人君子”だとは思っていません」
「言い方がきついな」
「でも、あなたが“全部やった”とも思っていません」
三浦は、ふっと息を吐いた。
裁判で誰も言ってくれなかった言葉だ。
「で。熊野に着いたら、何がある」
「会ってほしい人がいます」
「誰だよ」
「“統領”とだけ」
三浦は鼻で笑った。
「統領? ……秘密組織かよ」
「信じなくてもいいです。見ればわかります」
彼女は一瞬、視線を横に流して三浦を見た。
その目は意外に人間的で、疲れていた。
「……あなた、怖い?」
「怖いよ。だけど――」
三浦は言いかけて、言葉を飲んだ。
怖い。だが、怖い以上に、放っておけない。
楢崎の暗殺。
あの“説明の合わなさ”。
そして、レッドバレット。
「だけど?」
「……俺は、もう一度だけ、ちゃんと調べたい。楢崎のことも、自分のことも」
烏丸は、小さく頷いた。
「それで十分です」
しばらく走り、やがて高速を降りる。
街灯が少なくなり、闇が濃くなる。山の匂いが混じってくる。
車はさらに細い道へ入った。舗装はあるが、古い。
ナビの音声が途切れがちになり、圏外表示が出た。
「……電波、死んだな」
「この先は、そういう場所です」
「“そういう”って?」
「守られている場所です」
烏丸は前を見たまま、淡々と言う。
「ここから先、あなたは“普通の説明”では納得できなくなります」
「やめてくれ。急に宗教勧誘みたいな言い方」
「勧誘ではありません。あなたに選択権があります」
「今さら?」
三浦が言うと、烏丸は首を振った。
「今だからです。引き返すなら、ここです」
「……引き返さない」
三浦は、言ってから自分で驚いた。
意地なのか、責任なのか、あるいは――もう他に道がないのか。
烏丸はそれ以上、何も言わなかった。
やがて車は、山林の奥で止まった。
ヘッドライトの先にあるのは、未舗装の細い道。人の気配はない。
「車はここまでです」
「ここから歩くって?」
「1時間ほど」
三浦はドアを開け、冷たい空気を吸い込んだ。
酒の残りが少しだけ抜ける。
「……1時間か」
「大丈夫です。私が合わせます」
「君、体力ありそうだな」
「少し、鍛えています」
三浦は、彼女の靴を見た。硬めの登山靴。迷いがない装備。
自分は、たまたまスニーカーだったのが救いだった。
歩き始めると、森の匂いが濃い。
足元の枯れ枝が鳴り、遠くで水の音がする。
沈黙に耐えきれず、三浦が聞いた。
「……さっき“巫女”って言ったな。普通、夜中に男を連れ回すのか?」
「普通はしません」
「だろうな」
「でも、今は“普通”の外側ですからね」
歩調は早い。
烏丸は時折、三浦が遅れると立ち止まり、振り返る。
「……君、何か武道でも?」
「ええ。家伝の“平法”を少々」
「平法?」
「合気道に似ています。……説明は、後で」
森がひらけ、闇の向こうに鳥居が浮かび上がった。
三浦は足を止める。
「……鳥居?」
「はい。ここからです」
鳥居の先には、石段が闇へ伸びていた。
数は多い。整然としていない。人の手で積んだ、重い年月の階段。
三浦が呆れて言った。
「何段ある」
「三百六十九段」
「……やっぱり意味があるのか」
「ただ“ミロク”と符合する聞いています」
三浦は喉の奥で笑った。
笑うしかない。だが、笑っている場合でもない。
「俺さ、ほんとに熊野まで来たんだな」
「来ました」
烏丸は振り返った。闇の中でも目が澄んでいる。
「三浦さん。ここから先は、聞こえるものが増えます」
「……何が?」
「あなたが、ずっと聞きたかった“答え”です」
三浦は唾を飲み、石段を見上げた。
そして、ゆっくりと一歩目を踏み出した。
石段は、不揃いだった。
一定の高さも幅もなく、踏み外せば簡単に転げ落ちそうな段が続く。苔が張りつき、ところどころ角が欠けている。人の足で削られ、何世代も前から使われてきた痕跡だった。
三浦は息を整えながら、ゆっくりと登った。
(……整備されてない。観光用じゃないな)
背後を振り返ると、すでに闇が濃く、来た道は溶けるように見えなくなっていた。
前を行く烏丸美弥子は、一定のリズムで歩いている。
無駄がない。息も乱れていない。
「……慣れてるな」
三浦がそう言うと、彼女は立ち止まり、少し振り返った。
「この道は、子どもの頃から登っています」
「修行か何か?」
「生活です」
淡々とした答えだった。
三浦はそれ以上、踏み込まなかった。
石段を登り切ると、視界がひらけた。
木々の隙間に、黒い影のような建物が現れる。
「……神社?」
瓦屋根は古く、木材は風雨に晒されて灰色がかっている。
だが、崩れてはいない。むしろ、異様なほど整っていた。
「ここが……」
「はい」
烏丸は短く答え、拝殿へ向かって一礼した。
三浦も、見よう見まねで頭を下げた。
祖父に教えられた作法が、身体の奥から自然に出てくる。
(……不思議だな)
この場所に立った瞬間、胸のざわつきが少しだけ収まった。
拝殿の脇に、控えめな社務所があった。
灯りが一つ、ぽつんと点いている。
「ここで、少し待っていてください」
そう言って、烏丸は中へ消えた。
三浦は、八畳ほどの部屋に通された。
畳は新しくはないが、清掃が行き届いている。壁には余計なものがない。
(……物が、少なすぎる)
時計も、カレンダーも、テレビもない。
時間の感覚が、じわじわと剥がれていく。
ほどなくして、足音が聞こえた。
障子が静かに開き、白い袴を身につけた老人が現れた。
顎には白い髭。背筋は驚くほど伸びている。
その横に、烏丸美弥子がいた。
「ようこそおいでくださいました」
老人は深く頭を下げた。
「この社の宮司をしております、烏丸事継と申します」
三浦は慌てて立ち上がる。
「三浦義明と申します。夜分に突然、お邪魔して……」
「いえ。こちらこそ、ご無理を申し上げまして」
柔らかいが、芯のある声だった。
形式ばった挨拶の裏に、別の緊張が潜んでいる。
「娘が、無作法はありませんでしたかな」
「娘さんでしたか……正直、少し驚きましたが」
三浦は言葉を選びながら続けた。
「乱暴な扱いは、一切ありませんでした」
「それは何よりです」
宮司は一度、深く頷いた。
「実はここ数週間、娘が夜中にうわ言のように申しておりましてな」
「うわ言、ですか」
「“東京へ行かねばならぬ”と。理由を聞いても答えぬまま」
三浦は、美弥子の方を見た。
彼女は静かに視線を伏せている。
「昨日の夜、突然支度をして出て行きまして」
「……それで、俺のところへ?」
「はい。理由は……後ほど」
宮司は一瞬、言葉を切った。
「まずは、少しお待ちください」
「何を?」
「お会いしていただく方がおります」
三浦は眉をひそめた。
「……ヤタガラス、ですか」
宮司は、微かに目を見開いた。
「その名をご存じでしたか」
「裁判中に、一度だけ」
宮司は、ゆっくりと頷いた。
「では、話が早い」
彼は立ち上がり、奥の襖に手をかけた。
――すっと、開く。
さらに奥の襖も、静かに開かれる。
八畳だった空間が、一気に広がった。
畳二十四畳分の広さ。奥には簡素な神前。
三浦は、自然と中央へ導かれた。
ほどなく、複数の神職が姿を現した。
白衣に身を包み、足音を立てずに並ぶ。
その中に、烏丸美弥子がいた。
先ほどとは違う。
所作が、完全に変わっている。
彼女は一歩前へ出て、神前に正座した。
背筋は一本の線のようにまっすぐだった。
拍手が打たれる。
一、二、三、四。
三浦も、無意識に手を動かしていた。
祖父の礼法と同じだった。
(……身体が、覚えている)
祝詞が始まる。
低く、抑えられた声。
意味を追おうとすると、逃げていく。
三浦は、ただ耳を澄ませた。
そのときだった。
美弥子の肩が、わずかに震えた。
唇が動く。
だが、出てきた声は、彼女のものではなかった。
「……ミカドの系を、守れ……」
三浦は、息を呑んだ。
声は低く、重い。
人の喉を借りているが、人のものではない。
「鏡を備えよ。剣を備えよ。玉を護れ」
「気をつけよ狐が玉をとりにくる。」
言葉が、空間に沈み込んでいく。
神職と長老の間で、短い応答が交わされる。
三浦には意味が取れない。ただ、圧だけが伝わってくる。
最後に、拍手。
静寂。
美弥子の身体が、ふっと緩んだ。
次の瞬間、彼女は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
――元に戻っていた。
神職たちは静かに退いた。
宮司が、三浦に近づく。
「……お待たせしました」
三浦は、しびれた足を伸ばしながら、かろうじて口を開いた。
「……今のは」
「説明いたしましょう」
宮司は別室へと三浦を案内した。
椅子と机のある、小さな部屋だ。
湯気の立つ湯呑みが差し出される。
「先ほど、美弥子に降りられたのは――おもいかねの神でございます」
「……ヤタガラス、じゃない?」
「ヤタガラスは、一柱の神ではありません」
宮司は、静かに言った。
「複数の神霊、その働きの総称です。状況に応じ、代表として名が使われる」
三浦は、湯呑みを両手で包んだ。
(……一即多、多即一、か)
「そして今、この世において、あなたに“役割”があると告げられました」
「俺に?」
三浦は思わず笑った。
「見ての通り、落ちぶれた人間です」
「泥をかぶるのは、戦の最前線に立つ者です」
宮司の目は、冗談を許さなかった。
「あなたは、すでに渦中にいます」
三浦は、言葉を失った。
宮司は、静かに続けた。
「あなたを陥れた女――璃々。彼女の背後にいるもの」
「……レッドバレット」
「ええ」
はっきりと、肯定された。
三浦は、湯呑みを置いた。
指が、わずかに震えていた。
三浦は、しばらく言葉を失っていた。
畳に落ちる自分の影が、やけに濃く見える。
「……待ってくれ」
ようやく口を開く。
「璃々の背後に何がいようと、俺と彼女の問題は――」
「すべて仕組まれたのです」
宮司は静かに遮った。
「敵は彼女を使ってあなたをひっかけ、主張の信頼性を奪ったのです。」
三浦は乾いた笑いを漏らした。
「俺は、裁判で負けた。仕事も家族も失った。ただの――」
「それでも、あなたは調べることをやめなかった」
宮司の視線が、まっすぐ三浦を射抜く。
「多くの者は、そこで折れます」
「……」
「あなたは折れなかった。怒り、疑い、あがいた」
三浦は、反論しかけてやめた。
否定できない。
「璃々という女性は、あなたの名を踏み台にしました」
宮司は淡々と続ける。
「性と被害を語り、正義を装い、時代の象徴になった」
「……ジャンヌ・ダルクか」
「ええ。しかし、彼女は火刑に処される側ではありません」
三浦の胸に、重いものが落ちる。
「彼女は“燃料”です」
「燃料?」
「世論を煽り、分断を生み、社会を不安定にするための」
宮司は湯呑みを置いた。
「レッドバレットは、常に“もっともらしい正義”を必要とします」
「だから、彼女を利用した?」
「ええそしてあなたを“加害者”にした」
三浦は、目を伏せた。
裁判。
報道。
切り取られた言葉。
(……そういうことか)
「あなたが追っていたレッドバレットは、表に出ません」
宮司は言う。
「彼らは思想を使い、人を使い、制度を使う」
「神を使うってわけか」
「“神の言葉”を」
三浦は思い出す。
ホピの長老。
エノク書。
点と点が、遅れてつながっていく。
「……九尾の狐って話も、比喩だな?」
「半分は、です」
宮司は否定しなかった。
「人の欲望や恐怖につけ込み、姿を変えて生き残る“型”がある」
「型……」
「昔は狐、今は悪霊です」
三浦は、苦く笑った。
「象徴ね。メディア向きだ」
宮司は、ほんのわずかに口角を上げた。
「あなたは理解が早い」
「皮肉だな。こんな形で知識が役に立つとは」
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、美弥子だった。
控えめな声だが、芯がある。
「三浦さん」
三浦は顔を上げる。
「……何だ」
「あなたにお願いがあります」
「お願い?」
「我々に力を貸してください。」
三浦は一瞬、言葉に詰まった。
「……それは、命令?」
「いいえ」
美弥子は首を振る。
「選択です」
宮司が続ける。
「我々は、あなたに命令できません」
「できない?」
「ヤタガラスは“動かす”組織ではない」
三浦は眉をひそめた。
「じゃあ、何なんだ」
「“つなぐ”存在です」
宮司は静かに言った。
「人と人。過去と現在。表と裏」
「……ずいぶん地味だな」
「地味でなければ、続きません」
三浦は、ふっと息を吐いた。
「で、俺は何をすればいい」
「まず、知ってください」
宮司は立ち上がった。
「日本の中枢に、あなたがまだ知らない場所があります」
「場所?」
「皆神山です」
三浦の眉が動いた。
「長野の?」
「ええ」
宮司は淡々と続ける。
「戦時中、陛下を匿う計画がありました」
「聞いたことはある」
「戦後、その地下は“別の用途”で使われました」
美弥子が補足する。
「表向きは、閉鎖されたことになっています」
「……表向き、か」
「実際には、再利用されています」
三浦は、背もたれに深くもたれた。
「何のために」
「“考えるため”です」
三浦は思わず吹き出した。
「考える?」
「ええ。人と神をつなぐ“思考装置”が開発されています。」
その言い方が、妙に現代的だった。
「……AIか?」
「そんなところです」
宮司は即答しなかった。
「人の意思を補助し、暴走を止めるための」
「レッドバレットのAIへの対抗措置か」
「ええ」
三浦は、しばらく天井を見た。
(……俺、どこまで来たんだ)
新宿の路上から、熊野の奥。
次は皆神山。
「……断ったら?」
「その場合でも、我々は止めません」
宮司は言う。
「ただし、あなたは“何が起きているか”を知ったまま、日常に戻る」
「それは……」
「辛い選択です」
三浦は目を閉じた。
楢崎の顔が浮かぶ。
笑いながら、軽口を叩いていた、あの男。
(……放っておけるかよ)
目を開ける。
「皆神山へ行く」
「よろしいですか」
「ええもう失うものはない」
宮司は黙って頷いた。
三浦は立ち上がった。
「……案内してくれるんだろ」
「はい」
美弥子が答えた。
「車で向かいます」
「今から?」
「ええ」
三浦は苦笑した。
「寝る暇もないな」
「大丈夫です」
美弥子は、少しだけ視線を逸らした。
「……私が、運転します」
「さっきも運転してただろ。目がくぼんでるぞ」
三浦は一瞬、何かを言いかけてやめた。
「じゃあ、途中で交代だな」
「助かります」
夜明け前の熊野を後にし、二人は車に乗り込んだ。
エンジンがかかる。
ヘッドライトが、闇を切り裂いた。
皆神山へ――。
夜明け前の空は、色を失っていた。
熊野を離れるころには、東の稜線がわずかに白み始めている。
車内は静かだった。
エンジン音とタイヤが路面を噛む低い響きだけが続く。
しばらくして、三浦が口を開いた。
「……さっきの儀式のあと、君、顔色が悪かった」
「ええ」
美弥子は前を見たまま答える。
「降りた直後は、毎回こうなります」
「慣れないのか」
「慣れません」
意外な答えだった。
「巫女ってのは、慣れるもんだと思ってた」
「慣れてしまったら、危ないと思っています」
三浦は、それ以上聞かなかった。
聞けば、踏み込んでしまう気がした。
山道を抜け、高速に入る。
車は一定の速度で走り続けた。
やがて、美弥子が小さく息を吐いた。
「……すみません。少し休んでもいいですか」
「いいよ。次のPAで交代しよう」
「助かります」
パーキングエリアで車を停め、運転を交代する。
三浦がハンドルを握った。
「皆神山って、そんなに特別な場所なのか」
「はい」
シートを倒しながら、美弥子が言う。
「表から見れば、ただの低い山です」
「めだたないよな」
三浦は彼女を見た。
「……戦時中の話、本当なのか」
「史料としては断片だけです」
「でも、地下は?」
「あります」
即答だった。
「今も?」
「はい」
三浦は、前方に視線を戻す。
「……日本は、そんなものを隠したままなのか」
「“隠している”という意識すら、もうない人も多いです」
「忘れてる?」
「関心を持たなくさせるほうが、簡単ですから」
三浦は苦く笑った。
しばらく沈黙が続いた。
美弥子の寝息が聞こえ始めた。
(……本当に疲れてる)
皆神山に近づくころ、彼女は目を覚ました。
「……あ、すみません」
「よく寝てたよ」
「そこ、次を左です」
ナビの表示とは違う道だった。
細く、目立たない林道。
「この先、一般車は入れません」
「監視?」
「道が細くて車が通れないのです。」
車を降りる。
空気が変わる。湿り気がなく、ひんやりとしている。
「ここからは歩きます」
「またか」
「今回は、短いです」
森の中を十分ほど進むと、唐突に“何もない場所”に出た。
岩肌と土だけの、小さな広場。
「……何もないじゃないか」
「あります」
美弥子は、岩壁に近づいた。
一見すると、ただの岩。
だが――。
彼女が特定の位置に立つと、低い音がした。
地鳴りのような、機械音。
岩が、ゆっくりと割れる。
「……おい」
「声は出さないでください」
中から現れたのは、無機質な金属の扉だった。
古いが、手入れされている。
「熊野より、よほど現代的だな」
「時代ごとに、姿を変えています」
扉が開く。
中は、想像以上に明るかった。
白い照明。
無駄のない通路。
「……地下基地、だな」
「そう呼んでも構いません」
二人はエレベーターに乗る。
数字は表示されない。代わりに、深度だけが示されていた。
下へ、下へ。
三浦は、耳の奥が詰まる感覚を覚えた。
「どこまで潜る」
「“中心”まで」
エレベーターが止まって扉が開いた。




