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ヤアタガラス

刑事事件としては不起訴。だが民事では、三浦義明は事実上の敗者となった。


 途中で裁判官が交代し、裁判の流れは一転した。論点はずれ、争点は拡散し、判決は形式だけをなぞるものになった。実はこれも裏から司法に手をまわしていた。


 判決が出た翌朝、新聞もテレビも一斉に彼を叩いた。


「結局クロだったんだろう」

「刑事は不起訴でも、民事は負けた」


 そんな言葉が、見えない刃となって三浦を切り刻んだ。


 勤務先の新聞社は彼を守らなかった。

 遠回しな退職勧告。居場所は消えた。


 それでも三浦は、細々と情報発信を続けていた。

 わずかな支持者に支えられ、どうにか食いつなぐ日々。

(……昔より、怒りっぽくなったな)


 自分でもわかっていた。

 事件と裁判が残した後遺症は、想像以上に深かった。


 裁判のことなど忘れ、本来の仕事をしたかった。

 だが――。


 結審の数日後、親友である楢崎晋一郎・元総理大臣が暗殺された。


 レッドバレットの情報を闇を知ったからではないのか。


「俺のせいじゃないのか……」


 警察の発表は単純だった。

 犯人は若い元自衛官。家族を破壊された宗教団体への私怨。総理がその団体の講演に出たため、狙った――。


 だが、あまりにも都合がよすぎた。


 民自党が、共産主義への対抗勢力としてその宗教と関係を持っていた事実。

 そこに、すべてを押し込めるような説明。


 三浦は、学生時代にその宗教団体に出入りしていたことを思い出した。


(まあ……当時若かった三浦は、かわいい女学生の信徒を追いかけていたこともあったのだが。)


 だが、信徒との宗教論争は本気だった。

 議論を重ね、知識を磨き、弁論を鍛えた。


 その教義の一部が、エノク書と奇妙に似ていたことも覚えている。


 ――堕天使。

 ――禁じられた交わり。

 ――知識の授与と堕落。


「……レッドバレットは、楢崎を、教団ごと消すつもりだったのか」


 その考えに至った瞬間、背筋が冷えた。レッドバレットにとっては教団などどうでもよかった。だがその中にエノクの秘儀が利用されていることはまずかった。


 三浦は事件を独自に調べ続けた。

 だが、警察と検察の情報の壁は厚かった。


 司法解剖の結果と、現場医師の報告は食い違っている。

 弾道と破損状況の説明も一致しない。


 それでも、真犯人は現れない。

 裁判は引き延ばされ、唐突に裁判は数年の実刑で結審した。


(この国の司法は……どこか壊れている)


 隠蔽。

 それ以外に説明がつかなかった。


 やがて政治も、奇妙な方向へ動き出した。

 国会では性をめぐるマイノリティ法案が急ぎ足で可決され、社会は混乱し始める。


 新聞の片隅に載る、ちぐはぐな事件記事。

 三浦には、すべてが一本の線でつながっているように思えた。


 そんなとき、ホピの長老の言葉がふと蘇った。


「目に見えるものだけを信じるな」


 三浦は、日本の“地下水脈”を調べ始めた。

 だがネットに溢れるのは、真偽不明の名ばかりの組織と人物。

(オカルトと、何が違う……)


 明治維新にも、偽書と自称霊能者が溢れていた。

 副島種臣、本田親徳、吉田茂――。


 政治と古神道の接点は感じられる。

 だが、それが今の戦いにどう役立つのかは見えなかった。

(俺は……何も掴めないまま、ここまで来た)


 祖父の言葉が胸に刺さる。


「そのうち、わかる」


 そして思い出した。

 裁判中、「ヤタガラス」を名乗る人物が、唯一支援してくれたことを。

 だがサイトは閉鎖され、連絡は途絶えていた。


 一方、璃々は世界を飛び回っていた。

 性被害を語り、思想を語り、メディアは彼女を英雄に仕立て上げた。

「ジャンヌ・ダルク症候群だな……」


 セックスを紅茶を飲むことに例えた同意論。

 急進的な思想。写真とモデル張りの容姿が、言葉以上に人を惹きつける。

 背後でメディアを操る男――ハンス。

 レッドバレットにとって、メディア操作は最優先事項だった。


 三浦は知っていた。

 この国の権力が、すでに腐っていることを。


 そして――彼は、底まで落ちていた。


 新宿。

 大久保公園の夜。


「いくら? ホ別二万?」


 男たちの声を聞ききながら、三浦は歩き続けた。


 そのとき。


「……あの」


 一人の女性が声をかけた。

 三浦は援助交際の女性が声をかけられたと思った。


「俺、金ないよ」


「違います」


 彼女は近づき、低い声で囁いた。


「三浦義明さんですね」


「……誰?」

挿絵(By みてみん)

「目を覚ましてください。あなたには、まだ役目があります」


 導かれるまま、車に乗る。


 夜の高速を抜け、熊野へ――。


 高速の流れに乗ると、車内は不自然なほど静かだった。

 夜の街灯がフロントガラスを滑り、三浦の顔に白い線を走らせては消える。


 助手席の女は、ハンドルを両手で軽く包み、視線を前に固定していた。速度は出ているのに、乱暴さがない。むしろ神経が行き届きすぎている。


 三浦はシートに沈みながら、探るように言った。


「……熊野って、あの熊野ですか」

「はい。熊野です」


 返事は短い。だが声は落ち着いている。

 三浦は苦笑した。


「遠いな。今から向かう距離じゃない」

「急ぐ必要があります」

「急ぐ理由は?」

「……話せる範囲でお話しします」


 彼女は少しだけ息を吸った。言葉を選ぶ癖があるらしい。

 三浦は、あえて軽い口調を作った。


「俺のこと……誰に聞いた」

「聞いたのではありません」

「じゃあ何だ。盗聴か?監視か?」

「違います」


 彼女は速度を落とさず、ただ言った。


「“知らせ”です」

「……知らせ?」

「笑いますよね」

「いや、笑えない。今の俺には冗談が通じない」


 彼女は口元をほんの少しだけ緩めた。


「烏丸美弥子と申します」

「烏丸……」

「熊野の神社におります。いわゆる、巫女です」


 三浦は反射的に、疑う目になった。


「巫女が、夜中に新宿の路上で俺に声をかける? ……常識的じゃない」

「常識から外れたことが起きているからです」


 言い切る声に迷いがない。

 三浦は、喉の奥で笑い損ねた。


「俺みたいな人間に“役目”って。無職のフリーターですよ」

「“無職”は今の状態です。あなたの本質ではない」

「本質ね……。じゃあ聞くけど、俺の本質って何」

「プライドの高い、諦めきれないジャーナリストです」


 三浦は口をつぐんだ。

 図星を刺された感じがした。


 彼は窓の外を見る。夜の高速道路。追い越していく車。遠くで点滅する標識。

 どこへ連れていかれるのか、まだ見えない。だが――。


「……俺のこと、世間じゃ“強姦魔”って言うんだぞ。君もネット見たろ」

「見ました」

「それでも?」

「そう見えるように作られた、と思っています」


 三浦は思わず目を細めた。


「作られた?」

「あなたが追っていたものは、そういうことをします」


 しばらく、ワイパーの音だけが続いた。

 三浦が言う。


「……君は、俺を信じてるのか」

「“聖人君子”だとは思っていません」

「言い方がきついな」

「でも、あなたが“全部やった”とも思っていません」


 三浦は、ふっと息を吐いた。

 裁判で誰も言ってくれなかった言葉だ。


「で。熊野に着いたら、何がある」

「会ってほしい人がいます」

「誰だよ」

「“統領”とだけ」


 三浦は鼻で笑った。


「統領? ……秘密組織かよ」

「信じなくてもいいです。見ればわかります」


 彼女は一瞬、視線を横に流して三浦を見た。

 その目は意外に人間的で、疲れていた。


「……あなた、怖い?」

「怖いよ。だけど――」


 三浦は言いかけて、言葉を飲んだ。

 怖い。だが、怖い以上に、放っておけない。


 楢崎の暗殺。

 あの“説明の合わなさ”。

 そして、レッドバレット。


「だけど?」

「……俺は、もう一度だけ、ちゃんと調べたい。楢崎のことも、自分のことも」


 烏丸は、小さく頷いた。


「それで十分です」


 しばらく走り、やがて高速を降りる。

 街灯が少なくなり、闇が濃くなる。山の匂いが混じってくる。


 車はさらに細い道へ入った。舗装はあるが、古い。

 ナビの音声が途切れがちになり、圏外表示が出た。


「……電波、死んだな」

「この先は、そういう場所です」

「“そういう”って?」

「守られている場所です」


 烏丸は前を見たまま、淡々と言う。


「ここから先、あなたは“普通の説明”では納得できなくなります」

「やめてくれ。急に宗教勧誘みたいな言い方」

「勧誘ではありません。あなたに選択権があります」


「今さら?」


 三浦が言うと、烏丸は首を振った。


「今だからです。引き返すなら、ここです」

「……引き返さない」


 三浦は、言ってから自分で驚いた。

 意地なのか、責任なのか、あるいは――もう他に道がないのか。


 烏丸はそれ以上、何も言わなかった。


 やがて車は、山林の奥で止まった。

 ヘッドライトの先にあるのは、未舗装の細い道。人の気配はない。


「車はここまでです」

「ここから歩くって?」

「1時間ほど」


 三浦はドアを開け、冷たい空気を吸い込んだ。

 酒の残りが少しだけ抜ける。


「……1時間か」

「大丈夫です。私が合わせます」

「君、体力ありそうだな」

「少し、鍛えています」


 三浦は、彼女の靴を見た。硬めの登山靴。迷いがない装備。

 自分は、たまたまスニーカーだったのが救いだった。


 歩き始めると、森の匂いが濃い。

 足元の枯れ枝が鳴り、遠くで水の音がする。


 沈黙に耐えきれず、三浦が聞いた。


「……さっき“巫女”って言ったな。普通、夜中に男を連れ回すのか?」

「普通はしません」

「だろうな」

「でも、今は“普通”の外側ですからね」


 歩調は早い。

 烏丸は時折、三浦が遅れると立ち止まり、振り返る。


「……君、何か武道でも?」

「ええ。家伝の“平法”を少々」

「平法?」

「合気道に似ています。……説明は、後で」


 森がひらけ、闇の向こうに鳥居が浮かび上がった。

 三浦は足を止める。


「……鳥居?」

「はい。ここからです」


 鳥居の先には、石段が闇へ伸びていた。

 数は多い。整然としていない。人の手で積んだ、重い年月の階段。


 三浦が呆れて言った。


「何段ある」

「三百六十九段」

「……やっぱり意味があるのか」

「ただ“ミロク”と符合する聞いています」


 三浦は喉の奥で笑った。

 笑うしかない。だが、笑っている場合でもない。


「俺さ、ほんとに熊野まで来たんだな」

「来ました」


 烏丸は振り返った。闇の中でも目が澄んでいる。


「三浦さん。ここから先は、聞こえるものが増えます」

「……何が?」

「あなたが、ずっと聞きたかった“答え”です」


 三浦は唾を飲み、石段を見上げた。

 そして、ゆっくりと一歩目を踏み出した。


 石段は、不揃いだった。

 一定の高さも幅もなく、踏み外せば簡単に転げ落ちそうな段が続く。苔が張りつき、ところどころ角が欠けている。人の足で削られ、何世代も前から使われてきた痕跡だった。


 三浦は息を整えながら、ゆっくりと登った。


(……整備されてない。観光用じゃないな)


 背後を振り返ると、すでに闇が濃く、来た道は溶けるように見えなくなっていた。


 前を行く烏丸美弥子は、一定のリズムで歩いている。

 無駄がない。息も乱れていない。


「……慣れてるな」


 三浦がそう言うと、彼女は立ち止まり、少し振り返った。


「この道は、子どもの頃から登っています」

「修行か何か?」

「生活です」


 淡々とした答えだった。

 三浦はそれ以上、踏み込まなかった。


 石段を登り切ると、視界がひらけた。

 木々の隙間に、黒い影のような建物が現れる。


「……神社?」


 瓦屋根は古く、木材は風雨に晒されて灰色がかっている。

 だが、崩れてはいない。むしろ、異様なほど整っていた。


「ここが……」


「はい」


 烏丸は短く答え、拝殿へ向かって一礼した。


 三浦も、見よう見まねで頭を下げた。

 祖父に教えられた作法が、身体の奥から自然に出てくる。


(……不思議だな)


 この場所に立った瞬間、胸のざわつきが少しだけ収まった。


 拝殿の脇に、控えめな社務所があった。

 灯りが一つ、ぽつんと点いている。


「ここで、少し待っていてください」


 そう言って、烏丸は中へ消えた。


 三浦は、八畳ほどの部屋に通された。

 畳は新しくはないが、清掃が行き届いている。壁には余計なものがない。


(……物が、少なすぎる)


 時計も、カレンダーも、テレビもない。

 時間の感覚が、じわじわと剥がれていく。


 ほどなくして、足音が聞こえた。


 障子が静かに開き、白い袴を身につけた老人が現れた。

 顎には白い髭。背筋は驚くほど伸びている。


 その横に、烏丸美弥子がいた。


「ようこそおいでくださいました」


 老人は深く頭を下げた。


「この社の宮司をしております、烏丸事継と申します」


 三浦は慌てて立ち上がる。


「三浦義明と申します。夜分に突然、お邪魔して……」

「いえ。こちらこそ、ご無理を申し上げまして」


 柔らかいが、芯のある声だった。

 形式ばった挨拶の裏に、別の緊張が潜んでいる。


「娘が、無作法はありませんでしたかな」

「娘さんでしたか……正直、少し驚きましたが」


 三浦は言葉を選びながら続けた。


「乱暴な扱いは、一切ありませんでした」

「それは何よりです」


 宮司は一度、深く頷いた。


「実はここ数週間、娘が夜中にうわ言のように申しておりましてな」

「うわ言、ですか」

「“東京へ行かねばならぬ”と。理由を聞いても答えぬまま」


 三浦は、美弥子の方を見た。

 彼女は静かに視線を伏せている。


「昨日の夜、突然支度をして出て行きまして」

「……それで、俺のところへ?」

「はい。理由は……後ほど」


 宮司は一瞬、言葉を切った。


「まずは、少しお待ちください」

「何を?」

「お会いしていただく方がおります」


 三浦は眉をひそめた。


「……ヤタガラス、ですか」


 宮司は、微かに目を見開いた。


「その名をご存じでしたか」

「裁判中に、一度だけ」


 宮司は、ゆっくりと頷いた。


「では、話が早い」


 彼は立ち上がり、奥の襖に手をかけた。


 ――すっと、開く。

 さらに奥の襖も、静かに開かれる。


 八畳だった空間が、一気に広がった。

 畳二十四畳分の広さ。奥には簡素な神前。


 三浦は、自然と中央へ導かれた。


 ほどなく、複数の神職が姿を現した。

 白衣に身を包み、足音を立てずに並ぶ。


 その中に、烏丸美弥子がいた。


 先ほどとは違う。

 所作が、完全に変わっている。


 彼女は一歩前へ出て、神前に正座した。

 背筋は一本の線のようにまっすぐだった。


 拍手が打たれる。


 一、二、三、四。


 三浦も、無意識に手を動かしていた。

 祖父の礼法と同じだった。


(……身体が、覚えている)


 祝詞が始まる。


 低く、抑えられた声。

 意味を追おうとすると、逃げていく。


 三浦は、ただ耳を澄ませた。


 そのときだった。


 美弥子の肩が、わずかに震えた。


 唇が動く。

 だが、出てきた声は、彼女のものではなかった。


「……ミカドの系を、守れ……」


 三浦は、息を呑んだ。


 声は低く、重い。

 人の喉を借りているが、人のものではない。


「鏡を備えよ。剣を備えよ。玉を護れ」

「気をつけよ狐が玉をとりにくる。」



 言葉が、空間に沈み込んでいく。

 神職と長老の間で、短い応答が交わされる。

 三浦には意味が取れない。ただ、圧だけが伝わってくる。


 最後に、拍手。


 静寂。


 美弥子の身体が、ふっと緩んだ。

 次の瞬間、彼女は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。


 ――元に戻っていた。


 神職たちは静かに退いた。

 宮司が、三浦に近づく。


「……お待たせしました」


 三浦は、しびれた足を伸ばしながら、かろうじて口を開いた。


「……今のは」

「説明いたしましょう」


 宮司は別室へと三浦を案内した。

 椅子と机のある、小さな部屋だ。


 湯気の立つ湯呑みが差し出される。


「先ほど、美弥子に降りられたのは――おもいかねの神でございます」

「……ヤタガラス、じゃない?」

「ヤタガラスは、一柱の神ではありません」


 宮司は、静かに言った。


「複数の神霊、その働きの総称です。状況に応じ、代表として名が使われる」


 三浦は、湯呑みを両手で包んだ。


(……一即多、多即一、か)


「そして今、この世において、あなたに“役割”があると告げられました」

「俺に?」


 三浦は思わず笑った。


「見ての通り、落ちぶれた人間です」

「泥をかぶるのは、戦の最前線に立つ者です」


 宮司の目は、冗談を許さなかった。


「あなたは、すでに渦中にいます」


 三浦は、言葉を失った。


 宮司は、静かに続けた。


「あなたを陥れた女――璃々。彼女の背後にいるもの」

「……レッドバレット」

「ええ」


 はっきりと、肯定された。


 三浦は、湯呑みを置いた。

 指が、わずかに震えていた。


 三浦は、しばらく言葉を失っていた。

 畳に落ちる自分の影が、やけに濃く見える。


「……待ってくれ」


 ようやく口を開く。


「璃々の背後に何がいようと、俺と彼女の問題は――」

「すべて仕組まれたのです」

 宮司は静かに遮った。


「敵は彼女を使ってあなたをひっかけ、主張の信頼性を奪ったのです。」


 三浦は乾いた笑いを漏らした。


「俺は、裁判で負けた。仕事も家族も失った。ただの――」

「それでも、あなたは調べることをやめなかった」


 宮司の視線が、まっすぐ三浦を射抜く。


「多くの者は、そこで折れます」

「……」

「あなたは折れなかった。怒り、疑い、あがいた」


 三浦は、反論しかけてやめた。

 否定できない。


「璃々という女性は、あなたの名を踏み台にしました」


 宮司は淡々と続ける。


「性と被害を語り、正義を装い、時代の象徴になった」

「……ジャンヌ・ダルクか」

「ええ。しかし、彼女は火刑に処される側ではありません」


 三浦の胸に、重いものが落ちる。


「彼女は“燃料”です」

「燃料?」

「世論を煽り、分断を生み、社会を不安定にするための」


 宮司は湯呑みを置いた。


「レッドバレットは、常に“もっともらしい正義”を必要とします」

「だから、彼女を利用した?」

「ええそしてあなたを“加害者”にした」


 三浦は、目を伏せた。


 裁判。

 報道。

 切り取られた言葉。


(……そういうことか)


「あなたが追っていたレッドバレットは、表に出ません」


 宮司は言う。


「彼らは思想を使い、人を使い、制度を使う」

「神を使うってわけか」

「“神の言葉”を」


 三浦は思い出す。

 ホピの長老。

 エノク書。

 点と点が、遅れてつながっていく。


「……九尾の狐って話も、比喩だな?」

「半分は、です」


 宮司は否定しなかった。


「人の欲望や恐怖につけ込み、姿を変えて生き残る“型”がある」

「型……」

「昔は狐、今は悪霊です」


 三浦は、苦く笑った。


「象徴ね。メディア向きだ」


 宮司は、ほんのわずかに口角を上げた。


「あなたは理解が早い」

「皮肉だな。こんな形で知識が役に立つとは」


 沈黙が落ちる。


 その沈黙を破ったのは、美弥子だった。

 控えめな声だが、芯がある。


「三浦さん」


 三浦は顔を上げる。


「……何だ」

「あなたにお願いがあります」

「お願い?」

「我々に力を貸してください。」


 三浦は一瞬、言葉に詰まった。


「……それは、命令?」

「いいえ」


 美弥子は首を振る。


「選択です」


 宮司が続ける。


「我々は、あなたに命令できません」

「できない?」

「ヤタガラスは“動かす”組織ではない」


 三浦は眉をひそめた。


「じゃあ、何なんだ」

「“つなぐ”存在です」


 宮司は静かに言った。


「人と人。過去と現在。表と裏」

「……ずいぶん地味だな」

「地味でなければ、続きません」


 三浦は、ふっと息を吐いた。


「で、俺は何をすればいい」

「まず、知ってください」


 宮司は立ち上がった。


「日本の中枢に、あなたがまだ知らない場所があります」

「場所?」

「皆神山です」


 三浦の眉が動いた。


「長野の?」

「ええ」


 宮司は淡々と続ける。


「戦時中、陛下を匿う計画がありました」

「聞いたことはある」

「戦後、その地下は“別の用途”で使われました」


 美弥子が補足する。


「表向きは、閉鎖されたことになっています」

「……表向き、か」

「実際には、再利用されています」


 三浦は、背もたれに深くもたれた。


「何のために」

「“考えるため”です」


 三浦は思わず吹き出した。


「考える?」

「ええ。人と神をつなぐ“思考装置”が開発されています。」


 その言い方が、妙に現代的だった。


「……AIか?」

「そんなところです」


 宮司は即答しなかった。


「人の意思を補助し、暴走を止めるための」

「レッドバレットのAIへの対抗措置か」

「ええ」


 三浦は、しばらく天井を見た。


(……俺、どこまで来たんだ)


 新宿の路上から、熊野の奥。

 次は皆神山。


「……断ったら?」

「その場合でも、我々は止めません」


 宮司は言う。


「ただし、あなたは“何が起きているか”を知ったまま、日常に戻る」

「それは……」

「辛い選択です」


 三浦は目を閉じた。


 楢崎の顔が浮かぶ。

 笑いながら、軽口を叩いていた、あの男。

(……放っておけるかよ)


 目を開ける。


「皆神山へ行く」

「よろしいですか」

「ええもう失うものはない」


 宮司は黙って頷いた。


 三浦は立ち上がった。


「……案内してくれるんだろ」

「はい」

 美弥子が答えた。


「車で向かいます」

「今から?」

「ええ」


 三浦は苦笑した。


「寝る暇もないな」

「大丈夫です」

 美弥子は、少しだけ視線を逸らした。


「……私が、運転します」

「さっきも運転してただろ。目がくぼんでるぞ」


 三浦は一瞬、何かを言いかけてやめた。


「じゃあ、途中で交代だな」

「助かります」


 夜明け前の熊野を後にし、二人は車に乗り込んだ。

 エンジンがかかる。


 ヘッドライトが、闇を切り裂いた。


 皆神山へ――。



 夜明け前の空は、色を失っていた。

 熊野を離れるころには、東の稜線がわずかに白み始めている。


 車内は静かだった。

 エンジン音とタイヤが路面を噛む低い響きだけが続く。


 しばらくして、三浦が口を開いた。


「……さっきの儀式のあと、君、顔色が悪かった」

「ええ」


 美弥子は前を見たまま答える。


「降りた直後は、毎回こうなります」

「慣れないのか」

「慣れません」


 意外な答えだった。


「巫女ってのは、慣れるもんだと思ってた」

「慣れてしまったら、危ないと思っています」


 三浦は、それ以上聞かなかった。

 聞けば、踏み込んでしまう気がした。


 山道を抜け、高速に入る。

 車は一定の速度で走り続けた。


 やがて、美弥子が小さく息を吐いた。


「……すみません。少し休んでもいいですか」

「いいよ。次のPAで交代しよう」

「助かります」


 パーキングエリアで車を停め、運転を交代する。

 三浦がハンドルを握った。


「皆神山って、そんなに特別な場所なのか」

「はい」


 シートを倒しながら、美弥子が言う。


「表から見れば、ただの低い山です」

「めだたないよな」


 三浦は彼女を見た。


「……戦時中の話、本当なのか」

「史料としては断片だけです」

「でも、地下は?」

「あります」


 即答だった。


「今も?」

「はい」


 三浦は、前方に視線を戻す。


「……日本は、そんなものを隠したままなのか」

「“隠している”という意識すら、もうない人も多いです」

「忘れてる?」

「関心を持たなくさせるほうが、簡単ですから」


 三浦は苦く笑った。


 しばらく沈黙が続いた。

 美弥子の寝息が聞こえ始めた。


(……本当に疲れてる)


 皆神山に近づくころ、彼女は目を覚ました。


「……あ、すみません」

「よく寝てたよ」

「そこ、次を左です」


 ナビの表示とは違う道だった。

 細く、目立たない林道。


「この先、一般車は入れません」

「監視?」

「道が細くて車が通れないのです。」


 車を降りる。

 空気が変わる。湿り気がなく、ひんやりとしている。


「ここからは歩きます」

「またか」

「今回は、短いです」


 森の中を十分ほど進むと、唐突に“何もない場所”に出た。

 岩肌と土だけの、小さな広場。


「……何もないじゃないか」

「あります」


 美弥子は、岩壁に近づいた。

 一見すると、ただの岩。


 だが――。


 彼女が特定の位置に立つと、低い音がした。

 地鳴りのような、機械音。


 岩が、ゆっくりと割れる。


「……おい」

「声は出さないでください」


 中から現れたのは、無機質な金属の扉だった。

 古いが、手入れされている。


「熊野より、よほど現代的だな」

「時代ごとに、姿を変えています」


 扉が開く。

 中は、想像以上に明るかった。


 白い照明。

 無駄のない通路。


「……地下基地、だな」

「そう呼んでも構いません」


 二人はエレベーターに乗る。

 数字は表示されない。代わりに、深度だけが示されていた。


 下へ、下へ。


 三浦は、耳の奥が詰まる感覚を覚えた。


「どこまで潜る」

「“中心”まで」


 エレベーターが止まって扉が開いた。

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