ハニートラップ
璃々は、世の中には規則が多すぎると思っていた。小さな規則にこだわって叱られた時には相手が悪いと思った。
高校時代、彼女は六本木のクラブやキャバクラでこっそりアルバイトを始め、そこで海外の男たちと付き合うようになった。年上の男と関係を持ち、金品を得ることも覚えた。六本木に集まる富裕層の外国人とつながれば、海外へ出ることもできる——そんな現実を、早い段階で体験した。璃々はそこで多彩な経歴とコネクションを持つ同僚たちと知り合い。男との距離の取り方、見せ方、振る舞い方。真実に嘘を織り交ぜて語る技術を身につけた。
ある日、銀座のクラブで接客中、三十代の男から指名をかけられた。ハンス・シュナイダーと名乗るその人物は、璃々が流暢な英語を話すのを見て、興味を示した。
「何をしたい?」
「世界を駆け巡るジャーナリストになりたい。」
ハンスは少し考えて
「ニューヨークの大学に留学させてやる。いかないか?」
「行きたいけど……アメリカの大学って学費が高いでしょう?」
「学費は出す。住まいは知り合いとシェアして、生活費は、知り合いのピアノバーで働いてもらえばいい」
楽な話だと璃々は思った。
身体を寄せ、甘えるようにそう言うと、男は満足げにうなずいた。
「よし。入学の手配は私が整えよう。ただ時々私の依頼にもこたえてくれ。」
そういってハンスはヨーロッパの著名人との付き合いをもちかけた。
璃々はその頃、知り合った男たちと海外渡航を重ねて、海外で働くという夢を膨らませていた。
ハンスは、三浦が追っていた組織――レッドバレットの、いわばリクルーターだった。
若い女性を世界中に派遣し、旅をさせる代わりに、各国の要人の相手をさせる。そこから情報を吸い上げ、コネを築き、弱みを握り、権力者を動かす種をまいておく。
璃々はアメリカの大学に入学しジャーナリズムを学ぶ傍ら、時々ハンスの依頼にこたえて、ピアノバーに来る客の相手をした。そんな客の一人に三浦がだった。
レッドバレットはアメリカの盗聴器網エシュロンに接続されているAIを完成させていた。三浦がレッドバレットを調査し始め、エノク書の秘密をつかんだことなどはバレており、要注意人物としてマークしていた。ハンスは三浦と璃々を近づける計画を進めていた。早期に一度接触させ、しばらく間をおいて再度親密な関係に持ち込む。本格的な接触の手口である。
学費はハンスが工面し、生活費は同棲した組織のエージェントが支払っていた。生活費はピアノバーで稼いでいたが璃々の消費癖はそれを満足させるものではなかった。次第に学費を取り崩すようになり、ハンスが手配していた学校を継続することができなくなっていた。日本でキャバクラ生活を始めて、以前日本のキャバクラでともに働いていた美樹からメールが入った。
「元気?」
「まあね。でも金欠で日本に戻ってきちゃった。」
ハンスは璃々を金欠に追い込み帰国させる手筈を整えていた。
そんな中ある日仲の良いキャバクラ仲間だった幹から連絡が入った。
「ハンスから裏の仕事を依頼されたんだけどやってみる?うまくいけばまたアメリカで仕事ができるかも。」
美樹は日本でキャバクラで店を切り盛りしながら、裏で頼まれて女性の派遣業も行っていた。
今回の依頼は、すでに面識のある三浦のアシスタントになり、行動を逐一報告するというものだった。
アシスタントになれれば渡航とアメリカでの生活が保障される。情報の内容に応じて報酬は上積みされる。
ただし、仕事内容を漏らしたり失敗した場合、重いペナルティが科される。海外に飛ばされるか、汚れ仕事をさせられる。最悪の場合、家族ごと東京湾に沈められる。
サン新聞社内には、レッドバレットの関係者が多数入り込んでいた。三浦が組織を調べていることは社内でも知られており、レッドバレットの一員であるハンスは、三浦が核心に迫る前に手を打つ必要があった。
ハンスは三浦の会社にいるスパイから三浦の行動をつかみ、実行を美樹たちのチームに委ねた。綿密な計画のもと、璃々のスマホから三浦にメールが送られ、久しぶりにバーで再会するという演出が仕組まれた。
三浦の記事の中吊り広告が出たその日に璃々からメールがきた。「東京でお会いできれば幸いです。」
三浦は少しいい気になっていたようだ。
恵比寿の行きつけの寿司屋に招待した。彼女は勢いよく酒を飲み、したたかに酔って周囲の客に絡みだした。しかしこれは彼女の手であった。社交的であることをアピールしつつ三浦の気を引こうと英語のアピールまでした。
しかし三浦は簡単にはなびかなかった。
彼の慎重なのには理由があった。
先輩記者が、付き合いの浅いキャバクラの女に嵌められ、性暴力で訴えられたことがあったのだ。三浦はその先輩をよく知っており、そんなことをする人間ではないと信じていた。だが先輩は民事裁判で事実上敗訴し、社会的信用も家庭も失った。
女性と向き合うたび、その先輩の姿が頭をよぎる。彼は一夜にしてすべてを失った。
璃々は仕事の話を切り出し、三浦のもとで働きたいと伝えた。三浦は酔っても慎重に言葉を選び、確約はしなかった。そのことがまた璃々を苛つかせた。
璃々はトイレで美樹へメールを送った。
『なかなか落ちない。どうすればいい?』
『少し待って』
美樹は、全体を統括するプランナー役の白井に相談し、指示を返した。
『酔ったふりをして、同じタクシーに乗れ、それでも誘わなければ口に指を突っ込んで車内で嘔吐して』
作戦は必ず複数で行われ、周囲には仲間が尾行している。璃々は泥酔したふりをしてタクシーに乗り込んだ。ところが彼女は駅近くで嘔吐したために、三浦は彼女を駅で降ろさないでを近くのホテルへ連れて行った。
ホテルで璃々は嘔吐をしながらベッドに倒れ込むように眠り込んだ。
三浦は呆れ、仕事を済ませながら、隣のベッドでうとうととしていた。
そのうち、璃々は夜中に目を覚まし迷惑をかけたことを謝罪しながら三浦を男をベッドに誘った。酒の入った頭でこの誘惑を拒むのは、難しかった。
璃々は早朝、ホテルを出て美樹に連絡を入れた。
とりあえず枕をともにすることまではできたが、アシスタントとして採用されるかどうかは分からない。
数日後、三浦に電話をかけたが繋がらない。メールも返ってこなかった。
璃々は、約束を反故にされたと確信し、美樹に告げた。
「失敗よ。やり逃げされた」
「待って」
美樹はそう言って、プランナーに連絡を取った。
「計画を変更する。警察に行って、強姦されたことにする」
すぐにプランBが送られてきた。
話に矛盾が出ないよう、内容を頭に入れ、録音機は必ず持参するよう指示があった。
璃々がすぐに出頭しなかったのは話に矛盾が出ないようストーリーの突合せを行っていたからだ。
璃々は一度帰宅し、ストーリーを何度も反芻した。
1週間後、警察に出頭した。
出頭後に再び三浦から連絡があった。どうやら約束を守ろうとしていたらしい。璃々は驚いた。今後考えられる訴訟の嵐を考えると、もう少し待てばよかった。あきらめるのが早すぎた。しかし警察へ出頭してしまったのでもはや引き返せなかった。
性被害は大きな社会問題となっており、不同意性交等罪が強化されていた。警察は極めて慎重に事情聴取を行い、女性捜査官が担当についた。三浦は即刻逮捕された。
しかし、璃々も最初から訴える予定ではなかったため、璃証拠の確保が甘かった。
三浦は、自ら進んで警察のポリグラフ検査を受けた。反応は出なかった。日本の警察のポリグラフは、質問表と組み合わせることで九割以上の精度を持ち、警察などの適切な環境下で行われた結果は、裁判でも証拠となり得る。三浦は、結果の写しを取得し、他で訴訟でも使用することを条件に検査を受けていた。警察は証拠を欲しており、その条件を受け入れた。念のため弁護士にも立ち会わせていた。
レッドバレットの影響下にあるメディアは事件を歪曲し、ネット上では賛否が割れたが、刑事事件として起訴されることはなかった。
民事訴訟も起こされたが、証拠がなく、ポリグラフ結果が決め手となり、三浦は刑事で不起訴となった。璃々側は支援団体を巻き込んで検察審査会を開かせたが、それも不起訴相当。支援団体は彼女を信じてさらに民事訴訟を起こしたところ、裁判官は同情と世論を気にして筋の通らぬ判決を出した。
組織は璃々を日本から遠ざけ、証拠が残らないようマンションからも退去させた。ほとぼりが冷めるまで、彼女は海外へ出されることになった。




